(7)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

目覚めると、寝室の中は薄暗かった。

病院で処方された薬をきちんと服用し、ぐっすりと眠ったから気分爽快だ。

 

抗生物質(これは風邪のため)と消炎鎮痛剤(これは頭痛のため)

 

それから頭痛予防薬(毎日服用)の3種類。

 

僕は弾みをつけて起き上がると、乱れた毛布はそのままに、ペタペタ裸足でベッドルームを出た。

リビングの照明は点けていなかったので、全面ガラス張りの窓から、外の景色がよく見えた。

 

僕の部屋は、18階。

 

僕は、ショーツだけ身に着けただけの格好で、窓の縁に腰掛けた。

規則正しく並ぶビル群の明かりと、眼下を走る車のライトが無数に光っている。

いつもこんな景色は目にしているのに、見ようとしていなかったに違いない。

夜景を見て、初めてきれいだと感じる自分に驚いた。

 

こんなにきれいな景色を目にしても、乏しい僕のボキャブラリーじゃ、「きれい」としか表現できない自分。

僕はこれまで、余程ぼんやりと生きてきたんだと思う。

熱のせいか分からないけど、フィルターがかかったような視界が晴れてきた。

 

​目にするものや聞こえるもの、匂いや感触に敏感になったみたいだ。

敏感に反応して、僕の感情が激しく動いているのが分かる。

何だかじっとしていられない、というか...。

発見したのは、僕にも「感情」とやらがあること。

僕の「感情」を呼び覚ましたきっかけは、きっとユノだ。

​​

淡々と無感情に生きてきた僕だった。

嬉しいも悲しいも何もなかった僕だけど、この感じは全然嫌じゃない。

この点が驚きだ。

 

急に可笑しくなって、くすくす笑ってしまった。

ひとり笑いなんて、気持ち悪いぞ。

完全に日が暮れて、部屋が真っ暗なのに気づいて、ようやくライトを点けた。

​窓ガラスに、ボサボサ頭の僕が映っている。

髪を乾かさずに眠ったせいだ。

僕の髪の毛は頑固だから、手ぐしでなでつけるだけじゃ大人しくなってくれない。

もう一回シャンプーをして、ドライヤーでセットしよう。

ちらっとユノ顔を思い浮かべたのは確か。

ぼさぼさ頭の僕なんか見せられないよ。

 

​きちんとした姿を見てもらいたい。

シャワールームに向かう動線上に、脱ぎ散らかした洋服や下着が、散らばっていることに気づいた。

僕は、1枚1枚拾い集めながら、

「はぁ、全く...」とつぶやいた。

僕はどうかしてる。

ありえない、こんな僕はありえない。

 

 

(つづく)

 

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(6)時の糸

 

 

ユノはチャンミンが体調不良で欠勤する旨を上司に報告すると、ドーム型植物園の片隅にあるベンチに腰かけた。

ここは広大なドームの端っこに位置し、生垣がいい目隠しになっている。

他のスタッフたちは滅多に訪れない。

一人で静かに作業したい時にぴったりの、ユノお気に入りの場所だ。

バッグから愛用のタブレットを取り出し、早速作業に取り掛かった。

毎日欠かさず提出しなければならない、報告書の作成だ。

書き出しの言葉に悩んで、腕組みをしていると、

 

​「ユノ!」

​​と、彼を呼ぶ声が。

生垣の陰からひょっこり顔を出したのは、同僚のMだ。

「あーここにいた、探してたんだよぉ」

ユノは入力中の画面をオフにし、ベンチから立ち上がった。

 

​「なに?」

「トラブル発生で~す」

「もしかして、また課長?」

ユノは、顔をしかめてみせる。

「そうなの。

ネットワークに繋がらないって。

画面もフリーズしちゃって、どうしようもないみたい」

「やれやれ...」

ユノはタブレットをバッグに入れ、先を行くMの後を追う。

Mは勤続5年でユノの先輩にあたるが、同い年ということもあって、気軽に会話できる仲だ。

小柄で胸が大きく、眼がくりっとした、「ザ・女子」な人物である。

 

ドームに繋がる建物に移動する。

 

ドームは広大でかなり歩くことになる。

「あとね。

もう一個トラブルがあってね」

​Mは首をふりふり、事務所につながるドアを開けた。

この施設そのものが旧式なので、自動ドアではない。

 

「え~、嫌な予感がするんだけど」

ドアを閉めて、事務所までの廊下を早歩きで進む。

 

「詰まっちゃったみたい、排水ポンプが。

​業者に連絡したんだけど、早くて明後日になるって。

​Tさんたちが今、応急処置で大わらわよ」

Tはユノの大先輩で、ユノと同じ管理部に所属する30代の男性だ。

「今日、チャンミンが休んでるでしょ?

彼って給水設備の担当じゃん」

​​

(チャンミン!)

『チャンミン』の名前がMの口からでて、ユノはドキッとした。

「あぁ!

そうだったね」

慌てて返事をするユノ。

​​

「あの子、いてもいなくても分かんないくらい存在感薄いのに、こういう時に限っていないんだから!

第3植栽地が水浸しなのよぉ!」

プリプリ怒るM。

「チャンミン...体調悪いみたいだよ」

​​

ユノは、昨夜から今朝までの出来事を思い出す。

「いつもの、頭痛?」とM。

「風邪みたい」

「ふぅん」

チャンミンは半年ほど前から、頭痛に悩まされていた。

 

他のスタッフたちから見ても明らかなくらい頭を抱えていたり、こめかみを押さえていたりと、随分辛そうだった。

ここ一ヶ月ほど前からは、仕事を早退することもたびたびだった。

「チャ、チャンミンは、明日には出勤してくると思うよ」

(彼の名前を口に出すだけで、ちょっとドキドキするんですけど)

「来てもらわないと困るわよ!」とM。

「課長ー!

ユノさんを連れてきましたー!」

課長に声をかけたMは、「じゃあ、よろしく」と、自分の仕事場へ戻っていった。

「すまんすまん。

​急に繋がらなくなってしまってね、画面も動かないんだ」

​頭をかきかき、申し訳なさそうな課長。

​​

「見せてください」

「おお、すまんすまん」と言って、課長は椅子をユノに譲る。

機械オンチで足手まといになりがちの課長だが、温厚でのんびりとした性質が憎めないキャラとしてスタッフたちから好かれている人物だ。

PC関係のトラブルがあると、課長はユノが呼ぶ。

 

ユノは一日の大半をデータベースPCの前で過ごしているため、PC関連に詳しいと思われているらしい。

 

​ユノはあっという間に不具合を直し、ありがたがる課長を後に残して、仕事場のひとつである保管室に入る。

Tはパイプの故障個所の確認と応急処置に行っているのだろう、不在だ。​

 

​被害がポンプ室にまで水が逆流することになったら大変だ。

(こんな時にチャンミンがいないなんて!)

ユノはロッカーから取り出した長靴を履き、上下繋がった作業着に着替えた。

​(報告書の続きは、終業後にやろう)

ユノはTを手伝いに部屋を飛び出していった。​

 

廊下を走りながらユノは思う。

(帰りにチャンミンの様子を見に行こう)

 

​ユノは、ぐったりと弱ったチャンミンの顔を思い浮かべていた。

 

 

(つづく)

 

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(5)時の糸

 

 

「チャンミン、頭を熱でやられたの?」

 

ユノは、どぎまぎする自分を悟られないよう、冗談めかして言う。

 

「ああー!」

 

両手を空に向かって伸ばした。

 

「俺は腹が減ったぞ!

あと2時間で仕事だぞ?

大丈夫かな、俺?」

 

と、お腹の辺りを手でぐるぐるなでた。

 

ユノは照れくさくて、チャンミンの方を見られない。

 

この間無言だったチャンミンも、ハッとしたように再び歩き出した。

 

「ごめん、僕のせいで...。

あの...空腹にさせてしまって...」

 

「謝るな~。

そういうつもりじゃないよ」

 

(謝りポイントがズレてるんだけど...。

可愛いなぁ)

 

ユノはチャンミンの正面に回り込んだ。

 

チャンミンは本当に申し訳なさそうに、眉をひそめている。

 

(可愛い顔しちゃって)

 

「そうだ!」と、ユノはパチンと手を叩いた。

 

「チャンミン!

中華まんをおごってくれ」

 

チャンミンは、通りの向こうのコンビニエンスストアを指さした。

 

ちょっと驚いた表情をした後、再び眉をひそめてチャンミンは小さな声で言う。

 

「ごめん、僕お金がなくて...」

 

「あー!

そうだったね、ごめんごめん。

うーん、じゃあ今度。

今度、ごちそうしてな?」

 

「うん」

 

ほっとしたようなチャンミンのほほ笑みに、ユノの胸がグッとつまる。

 

(なんか、感動するんですけど...)

 

 

 

 

二人は、チャンミンの住むマンションの前に立っていた。

 

「チャンミン、今日は仕事を休むんだよ?

職場には俺が説明しとくから」

 

チャンミン頷いた。

 

「ちゃんと薬を飲んで寝ているんだよ?」

 

「うん」

 

じゃあね、と立ち去ろうとした。

 

「ユノ!」

 

ユノは振り向いた。

 

「ありがとう」

 

チャンミンには、これだけ言うのがやっとだった。

 

「どういたしまして」

 

にっこりとユノは笑った。

 

その笑顔に、チャンミンは目が離せなかった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕は、感動していた。

職場に向かうユノの後姿が見えなくなるまで、僕はマンションの前に立ち尽くしていた。

彼が貸してくれたマフラーに、首をうずめる。

タクシーで香った、シトラスの香り。

マフラーからも、同じ香りがする。

いつまでそこに立っていたんだろう。

これから出かけようとする同じマンションの住民が、不審そうに僕を見ている。

​軽く頭を下げて、僕は早歩きで自室に向かった。

 

 

 

​いつもはそんなことしないのに、荷物を放り出して、ソファに身を投げる。

​「はぁ...」

目をつむって昨日の夕方から、ユノと別れたマンションの前までの出来事を、ひとつひとつ思い返してみた。

それから、今、僕の心の中に湧き上がっているものを味わう。

​僕は、感動していた。

そう、感動している。

ごろりと寝返りを打って、「はぁ」とため息。

しばらくじっとしていたけど、ソファから飛び起きる。

落ち着かなくて、僕はシャワーを浴びることにした。

いつもはそんなことしないのに、靴下、セーター、Tシャツ、パンツと床に脱ぎ散らかしていった。

​いつもと違う僕。

お湯の設定温度を火傷しそうなくらい上げて、蛇口をいっぱいにひねって、一気にお湯を浴びる。

勢いよく頭や肩に当たるお湯が気持ちいい。

体調不良でぼやけてた思考が、クリアになっていく。

熱いお湯のおかげで、頭痛もさらに治まってきたようだ。

僕の中で、ぐるぐる回っている「いろんなこと」が、整理されていく。

お湯を止めた後も、僕はシャワールームの中でたたずんでいた。

僕の体からぽたぽた滴り落ちる雫の音を聞いていた。

じっとしていられなくて、シャワールームを飛び出し、体を拭くのもそこそこに、ダイニング・チェアに腰かけた。

「はぁ...」

両ひじをひざに付き、両手で顔を覆う。

僕は滅多に笑わないし、無口だから、不愛想な奴だと周りから思われていると思うが、全くその通りだ。

体調が悪かったこともあったけど、昨夜の僕はユノに対して、不愛想過ぎたかもしれない。

あんなに親切にしてくれたユノに、「ありがとう」のひとことしか言えなかった。

次に会ったときに、ちゃんとお礼を言おう。

ちゃんと、言えるだろうか?

​こんな風に、自分の言動を振り返るのも初めてだ。

熱がきっかけで、性格が変わったのだろうか?

そんな馬鹿な。

うつろにぼんやりと暮らしてきた僕の視界に、ユノが現れた。

これまでも、ユノは僕の近くにいたんだけど、全然眼中になくて...。

​目をつむって、じっくり思い起こす。

僕の額に触れた、ユノの手の平の、さらりとした感触とひんやりとした体温。

僕の顔を覗き込んだ、切れ長のユノの目。

タクシーでユノの肩にもたれかかった時の、ユノの香り。

五感で、ユノの存在が、急に「生っぽく」、僕を刺激したんだ。

昨夜を境に、僕の視界が広がった。

 

​これまでモノクロだった僕の世界が、フルカラーになった。

停滞していた僕の思考や感情が、動き出したんだ。​

 

(つづく)

 

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(4)時の糸

 

<朝帰り>

 

~ユノ~

 

 

さっきまでは真っ赤な顔をして、眉根を寄せて死にそうな顔をしていたくせに、注射一本で快復しちゃって。

チャンミンは、待合室のベンチの間をジグザグに行ったり来たりしている。

髪の毛はボサボサで、シャツはしわくちゃ。

いつもは、ピシッと隙なくきちんとしている彼なのに。

もの思いにふけっているのかチャンミンは、戻ってきた俺に気づかない。

処方薬のプラスティックボトルの入った紙袋がカサカサ音を立てる。

弱ってるチャンミンが、されるがままのチャンミンを可愛らしいと思った。

普段は、無表情で何を考えているかわからない。

​職場が同じで部署は違うけど事務所は同じだから、毎日チャンミンとは顔を合わす。

彼の仕事ぶりは真面目で、手を抜かず黙々とこなす、といった感じだ。

俺とチャンミンは、ほぼ同時期に約1年前から公営の植物園に勤めている。

人類発展に伴い、繁茂する植物を封じ込めることが難しくなると、人類は都市とその周辺の木々や草花に至るまで、一掃してしまったのだ。

そのため、地面に雑草すら生えていない世の中になってしまった。

 

種の保存の理由から、代表的な植物を、調光と空調を管理したドーム型施設に一同に集め、栽培している。

チャンミンは標本樹の栽培、記録、種子の採取までを担当していて、俺は採取された種子の保管と、資料管理を行っている。

人見知りなチャンミンには、植物相手の仕事はぴったりだと思う。

休憩時間にスタッフたちと集まってお茶を飲んで、おしゃべりをしていても、彼はひとり離れたところにいたりする。

彼の性格を知っているから、スタッフの皆は敢えて声はかけずに、いい意味で放っておいている。

チャンミンは、人と目を合わせるのも苦手らしく、会話をしていても、話す相手の口元をみるのがやっとみたい。

業務連絡のやりとりで言葉は交わすが、それ以外だと、言葉数少なく、「あぁ」とか、「うん」とか、無言とか。

​​

でも、彼はただの人嫌いじゃないと、俺は思う。

こぶしを口元にあてて、微笑している時があるから。

休憩中の輪から離れたところにいても、たまには会話を聞いているみたいだ。

チャンミンはただ、積極的に人付き合いをしようとしないだけ。

根暗な奴だと嫌われそうだけど、そうはなっていないのは、チャンミンの端正な容姿のおかげかもしれない。

チャンミンは、俺より少しだけ年下で、体は大きいのにベビーフェイスなところが、ついついちょっかいを出したくなる。

仕事の合間、日光を透かして白く明るいドーム屋根を見上げるチャンミン。

考え事をしているの?

それとも、無心?

地味な作業着さえクールに着こなしてしまう、手足の長い彼の後姿を、何度も見かけたことがある。

さぁ、早くチャンミンのところへ戻らなくちゃ。​

 

 


 

 

白々と夜が明けようとしていた。

 

​まだ外は薄暗いけれど、空のすそはほのかに白い。

​ユノとチャンミンは、急患用出入口から外へ出ると、肩を並べて歩き出した。

きりっとした冷気が、まだ微熱のあるチャンミンの頬に気持ちよかった。

ユノはコートのポケットに両手を入れて歩きながら、隣のチャンミンに声をかけた。

「熱とだるさは、ただの風邪だってね」

​​

「うん」

チャンミンのあご先は「ゾクっとしたらいけないから」と再び巻かれたユノのマフラーに埋もれている。

「よかったね」

「うん」

「頭痛によく効く薬をもらえてよかったね」

「うん」​

さんざん検査を受けた結果、医師からの説明によると、あっさり異常なしとのことだった。

拍子抜けだったが、チャンミンのバッグの中には、3種類の錠剤が、プラスティックボトルの中で音を立てている。

昨夜の雨でまだ濡れているアスファルト。

シャッターの下ろされた店舗街。

 

煌々と明るいコンビニエンスストア。

まだ暗いオフィスビルのエントランスホール。

ユノが黙ってしまったので、チャンミンは右、左と交互に蹴りだす自分のスニーカーに視線を落とす。

隣には、ユノの頑丈そうな黒い靴。

細身の黒いパンツ。

(スタイルがいいんだな)

視界の左にちらちらする、鮮やかな赤。

赤いダッフルコートはユノによく似合っていた。

(彼は赤が似合う)

マフラーのないむき出しの首は寒々しくて、ほくろがある。

(髪の長さは僕と同じくらいだ)

短い髪から覗く冷気で赤くなった耳朶に、ピアスが2つ。

(ピアスしてるんだ...)

白い肌と濃い黒髪。

(色白なんだな...)

 

赤く色づいたぽってりとした下唇。

 

(柔らかそうだな...)

知らず知らず、チャンミンはユノをじっと観察していた。

(今まで、気づいていなかった。

 

隣を歩くこの人が。

 

どんな服を着ているのか?

 

どんなバッグを持っていて。

 

​どんなヘアスタイルをしていて。

 

どんな横顔をしているのかなんて...)

 

 

 

 

ひょいっと横を向いたユノと、バチっと目が合ってしまった。

 

あからさまにビクッとするチャンミンの様子に笑うユノ。

「何だ何だ~?

じろじろと。

​ユノさんがあまりにカッコよくて、見惚れちゃった?」

と、ユノは冗談めかしてこう言った。

 

​すると、ユノと視線を合わせたままチャンミンは答える。

「うん」

「は?」

片足を踏み出したままのポーズで、ユノは一時停止してしまった。

チャンミンも立ち止まる。

黒づくめのファッションに、ふわふわしたマフラーを巻いているチャンミン。

乱れた前髪のひと房が、片目にかかっている。

チャンミンの瞳はしんと澄んでいて、まっすぐユノに視点を結んでいる。

笑いもせず、かといって無表情でもないチャンミンの今の顔。

(かあぁぁぁぁ...!)

自分の顔にみるみる血が上って、耳まで赤くなっていくのがユノには分かった。

「?」

チャンミンは口をぽかんと開けて固まっているユノを、不思議そうに見つめる。

「顔が真っ赤だよ。

ユノも風邪?」

 


 

 

~ユノ~

 

 

びっくりしたよ。

普通っぽくさらりと言うんだもの。

おそらくあの時のチャンミンには、照れも恥ずかしさもなかったのだろう。

思ったままを素直に口に出しただけだからね。

でも、なんか...感動したかも。

他人に興味をもたなくて、感情がわかりにくいチャンミンが、あんなこと言うなんて、ね。

俺のこと見てた、なんて。

ドキッとしちゃったじゃん。

これっぽっちで動揺する俺は、お子様か?

 

 

(つづく)

 

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(3)時の糸

 

<午前5時の待合室>

 

 

身体が重く、多少は和らいだとはいえ頭痛はひどく、綿がつまったかのようにぼんやりする。

 

チャンミンに続いて乗り込んだユノは、チャンミンの頭をぐいっと自分の肩に乗せる。

 

「!」

 

「チャンミン、俺にもたれていいよ。

苦しいんだな?

可哀そうに」

 

しばし、身体を硬直させていたチャンミンだったがふぅっと、力を抜いて、ユノに身を預けた。

 

「......」

 

チャンミンのまぶたは半分閉じられて、まなざしはうつろだ。

 

「チャンミン、お前んちはどこ?」

 

「......」

 

ユノはチャンミンに尋ねるが、チャンミンは何も言わない。

 

「えっ!?

寝ちゃった?」

 

(よくある小説じゃあ、酔いつぶれた主人公がいて、それを主人公の片思いの人が、自分の部屋に連れていく。

で、翌朝、主人公は目覚めて、自分が居る場所に気づいてドキドキ。

っていうのがよくあるパターンだったっけ。

俺たちは単なる同僚同士で男同士。

そんなパターンにはなりようはない)

 

ユノはチャンミンの両こめかみに両手を添える。

 

チャンミンはユノの冷たい手が気持ちよくて、なすがままになっていた。

 

ユノの指先は、チャンミンのこめかみの下の血管が、ドクドクと脈打っているのを感じ取っていた。

 

ポーンと電子音がして、

『目的地を教えて下さい』

前座席の背もたれにあるモニターから、音声が流れる。

 

ユノは、ほんの少し逡巡したのち、

「M大学病院へ行ってください」

と、モニターに向かって指示をした。

 

ユノの声をチャンミンは、ユノの肩にもたれた状態で、聞いていた。

 

ユノの髪から、シトラスの香りがした。

 

 


~チャンミン~

​薄黄緑色の壁にかかったディスプレイをぼんやりと眺めながら、僕はベンチに腰かけていた。

風に吹かれて揺れる木々の葉陰からもれる日の光。

 

その光が反射して水面がきらきら光る風景を、ディスプレイは映している。

いまどき樹木や草花が茂る光景は、ほぼ目にすることは出来ない。

かつてそうだったかもしれない緑あふれる景色を、ディスプレイに映し出すことで、この場の陰鬱な空気を和らげようとしているのかもしれない。

どこもかしこも金属や樹脂やコンクリートに覆われていて、清潔に管理されている世の中だ。

唯一、仕事場では植物にたっぷりと触れ合える。

控えめに照明された無人の待合室のベンチに、僕は今座っている。

壁に設置されたデジタル時計は、時刻が5時なのを教えてくれる。

一体、僕はなぜここにいるんだろ?

僕は、一体、何してるんだろう?

昨日の夕方から今までの流れはおぼろげで、あれやこれやで病院のベンチにいることが信じられない気分だ。

ユノは会計だか、処方薬をとりに行っているのかで、ここにいない。

僕はユノを待っている。

なんとなく心細い心情になっている自分に気づく。

日頃、職場では僕にちょっかいを出してきたり、おしゃべりで声が大きいユノのことを、うるさく、うっとおしく感じることも多いのに。

僕は元来人見知りで、誰かと一緒に過ごすより、一人でいることの方を選択する人間だ。

いつごろか分からないけど、淡々と変化のない一日一日を繰り返すのが、僕の精神状態にはいいみたいだ。

感情が大きく起伏することもなければ、心の奥底から何かに対して喜んだり、悲しんだりすることもない。

 

変化は嫌いだ。

真正面から誰かと精神的に、物理的に接触することも避けてきた。

うーん。

変化を嫌って避けているのか、避けてるから変化がないのか...。

何で、こんなこと考えているんだ?

 

でも...、何だろう。

ちょっと前に、胸の奥がが小さくはねた覚えがある。

平坦だった僕の心にパルスが起きたみたいに。

独りベンチに残されて寂しい気持ち、ユノの顔を見てホッとしたい気持ち。

あぁ、もう...。

身体が弱っているせいかなぁ。

​いつだったけ?

タクシーに乗せられて病院に連れていかれて...。

思い出してみる。

ユノは、僕を無理やり病院に連れて行った。

僕が弱ってぐったりとしているのをいいことに、強引に車いすに乗せてしまった。

「大げさ過ぎるよ、ただの風邪なんだから」

と、抵抗してみたけど、

「だーめ!」

​と、ユノは聞く耳持たずで、てきぱきとどこかへ電話をかけ手続きを済ませて、ずんずんと僕の乗る車椅子を押していった。

​診察室で待っていたのは、40代くらいの男性医師だった。

 

青いプラスティックの手袋をはめた手で僕の頭をはさんで、僕の下まぶたを引っ張ったり、ペンライトで照らしたりした。

大の男が、大きく口を開けて喉の奥を見せたりする姿は、間抜けすぎた。

事が大げさになってきていることに、腹がたった。

僕を無理やり病院に連れてきたユノに腹がたった。

気分が悪かったせいもあって、僕はひどく機嫌が悪かった。

医師は看護師にいくつかの指示をすると、デスク上のコンピュータに入力を始めた。

​​

今度は、毛深いごつい腕をした看護師に車椅子を押されて、血液検査、頭部には電極も付けられたし、頭を固定されて大きな機器の中をくぐらされたりした。

検査室から検査室へのはしごには、自分のバッグの他に、僕のバッグとコートも持っての大荷物のユノが付き添ってくれた。

「...ちょっと大げさだよ。

風邪気味で、ここまで検査するかなぁ?」

僕はユノに不満をもらした。

先ほどの医師に打ってもらった注射のおかげで、重だるさも消え、ひどかった頭痛はほぼ消えた。

「ごめん。

高熱で、意識もうろうで、頭が割れそうに痛むみたいですって、大げさに伝えたからかなぁ?」

片目をつむって、両手を合わせてごめんのポーズのユノ。

「でも、本当にそうだったでしょ?」

膝を折って、車いすの僕の目線までしゃがんだユノは、

「よしよし、いい子だぞ、僕ちゃんは。

俺、すごく心配したんだぞ。

これで何ともなかったら安心するから。

もうちょっと我慢してな?」

と、僕の頭をなでた。

「子供扱いするなよ」と、ユノの手を払いのけた。

真正面からユノの黒曜石の瞳にのぞきこまれて、僕の息が止まった。​

​意外に長いまつ毛や、弓形の眉や、すっと刷毛で描いたかのような切れ長のまぶたなどに、僕の視線はロックされたんだった。

 

​そうだ、あの時か?

違う、もうちょっと前だった。

​僕はじっとしていられなくて、立ち上がって待合室に並ぶベンチの間を歩き回った。

事務所で、僕はソファに倒れ込んで・・・。

冷たくて気持ちよかった。

ユノのひんやりとした手。

僕の目を覗き込んだ、暗がりに光る瞳...。

「チャンミーン!お待たせ」

ユノが戻ってきた。​

 

 

(つづく)

 

 

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