(27)NO? -第2章-

チャンミンは黒髪ロングの男を追っていた。

場所は魚市場で、コンクリート床は水浸しだった。

黒髪の男を捕まえたいのに、もう少しのタイミングでチャンミンは巨大なネズミ捕り餅に捕まってしまうのだ。

魚市場は全長どれだけあるのやら、走っても走っても端までたどり着けない。

気づけば並走している者がいて、その人物がライターのエムだった。

黒髪の男はいつの間にかいなくなっており、それでもチャンミンは走り続けていた。

マグロの競り会場にベッドが置かれており、その上に自分が眠っていた。

チャンミンはここで迷う...自分の名前チャンミンと呼んだらいいのか、それとももっと別な名前か。

ところが、その名前が出てこない。

分かっているのに、喉の奥で詰まっていて出てこない。

苦しい...と喉をかきむしったところ、チャンミンは溺れかけていた。

何かが足首を捕らえていた。

その人物がリアだったことに、チャンミンは「なるほど」と納得していて...。

夢と言うのは辻褄が合わない不可解なシーンの連続だ。

 

 

(い、息が...できない!)

息苦しさにチャンミンは目を覚ました。

手を振って、呼吸を妨げていたものを払いのけようとした。

パチン、と当たった感触から、それが人の手だと分かった。

 

「!!」

「おはようございます」

 

チャンミンの真上から彼を見下ろすのは...この頭の形、両耳がぴょんと飛び出たシルエットは...民だった。

蛍光灯の灯りは、民の頭で遮られている。

 

「...おはよ」

 

チャンミンを起こすため、民は彼の鼻と口を塞いでいたのだった。

 

「起きましょう」

 

昨夜は民の部屋にお泊りしたチャンミン。

出社の用意をするには一度、家に帰らないといけない。

呑気に寝ていられないのだ。

 

(ここは...?)

 

飛び起きたチャンミンは室内を見回した。

腕と胸元をさすってみたり、布団をめくって中をのぞいてみたりした。

 

「ご安心ください。

昨夜のチャンミンさんはパンツを脱いでいません」

「パンツ!?」

民の台詞の意味を、チャンミンの寝起きの頭では即座に理解できなかった。

「ここはチャンミンさんのお家じゃないですよ。

私の家です」

「あ...!」

 

昨夜の一連の出来事を思い出した途端、恥ずかしさが襲ってくる。

 

「おはよ...」

布団から出られずにいるチャンミンに、民は訳知り顔で「ふふん」と鼻で笑った。

 

「男の人は大変ですね。

今朝に始まった話じゃないでしょう?

チャンミンさんちにお世話になった2日目に、見せてくれたでしょう?」

「...見せてないし」

 

チャンミンは立てた片膝に額をつけて、深いため息をついた。

あけすけに指摘する時もあれば、言葉をどもらせ真っ赤に頬を染める時もあったりして、そのボーダーがどこなのか、チャンミンには分からないのだった。

 

冬の夜明けは遅い。

カーテンの向こうはまだ暗く、窓ガラスが白く結露していた。

少なくとも30分以上前には起床していた証拠に、室内はストーブで十分暖かかった。

美味しそうな匂いが、ローテーブルの上から漂ってくる。

 

「朝ご飯を作りましたので、食べてください。

下手くそで申し訳ありません。

どうやら私は、料理の才能がからっきしのようです」

オムレツの形に整えられたスクランブルエッグに、懐かしさを覚えたチャンミンだった。

 

(民ちゃんが寝入ってしまってから3時間も経っていない。

僕の為に早起きしたんだ)

 

民に弱いチャンミンだ、彼女の健気さに感動がこみあげてくる。

チャンミンがようやく布団から出られる状態になった頃、

「インスタントコーヒーですけど...」と、民は申し訳なさそうに湯気のたつマグカップをチャンミンに手渡した。

 

「謝らないで。

インスタントコーヒー、僕は好きだよ」

「チャンミンさんは優しいですね」

「そ、そうかな?」

「はい。

チャンミンさんは正直者です」

「正直?」

チャンミンは口に運びかけたフォークを止め、「どこが正直者なんだろう?」と考えを巡らした。

 

「チャンミンさんは喜怒哀楽が分かりやすいです。

あわてんぼうでヤキモチ妬きですよね?

怒りっぽいし...」

「う~ん...そう...だね」

 

民の指摘通り、彼女を前にしたチャンミンは子供っぽくなってしまうのだ。

 

「はい。

正直であることは...」

 

と言いかけたまま、民の視線はチャンミンの向こうに行ってしまっている。

(何を言い出すんだろう?)

 

チャンミンは民の言葉をワクワクと待った。

 

(つづく)

 

(26)NO? -第2章-

 

「......」

 

「何もしない」の言葉に、民はじろりとチャンミンを睨みつけていた。

 

「...民ちゃん?」

 

どうやら睨みつけられてるらしい、そのワケがチャンミンには分からない。

チャンミンは簀巻きになった民の上に、のしかかったままだった。

 

「しないんですか...」

「へ?」

「しないんですか!?」

「ええっ!?

もしかして、残念だった、とか?」

素っ頓狂な声を出すチャンミンに、民の眉間のシワが深くなった。

「...う...」

 

(複雑な乙女心を理解してくださいよ。

何もないのはつまらないし、何かあっても困ってしまうんですよ!)

 

「もぉ!

ここから出してくださいよ!

重い、重いです!」

 

膝下をジタバタさせる民に、「ごめんごめん」とチャンミンはのしかかっていた身を起こした。

チャンミンは照れ隠しで、乱暴気味に民入りの布団を床に転がした。

簀巻きから自由になった民は、チャンミンの首にかじりついた。

 

「チャンミンさ~ん」

思いがけない民に、チャンミンは抱きとめるのがやっとだった。

 

「民ちゃん?」

「甘えてみました」

 

後ろに倒れ込んだチャンミンの上に、民がのしかかる恰好になっていた。

民はチャンミンの胸に頬をくっつけ、彼の鼓動を聞きとっていた。

 

(チャンミンさんの心臓の音...早い。

緊張してるんだ...私もドッキドキです)

 

暗闇で確かめてみることは出来なかったが、チャンミンも民も茹でダコのようだった。

何かあっても困るし、何もないのも困る...二人に共通した気持ちだった。

ふざけてみてはくっ付いてみたりして、照れまくっている二人は甘い雰囲気になるのが怖かった。

 

(チャ、チャンミンさんとこんなハグ...初めてかも。

コートを着てたから分からなかったけど...やだ...どうしよう)

 

思い切って抱きついてみたものの、今さらながら下敷きにした胸板の固さに気づいた民だった。

 

(きゃー!

チャンミンさん...男らしいです)

 

「落ち着け~」と民は目をつむり、チャンミンにバレないよう荒ぶる呼吸を整えた。

 

(男の人にくっつくの...生まれて初めて...。

あ。

...でもないか)

 

民はユンの前でポーズを取った、これまでのことを思い出した。

身体の傾きやひねり、腕の曲げ具合など、口頭での指示だけではまごつくことが多かった。

そのため、ユンは民の腰や肩に手を添えたり、ポーズによっては後ろから抱きかかえるように接触することもあったりして...。

民はハッとした。

 

(あれは駄目だ!)

 

今こうして、人生初の彼氏と密着したことで、いかにユン...職場の上司の過剰なスキンシップに疑問を持つようになった。

 

(でも...。

『やめてください』と言っても、ユンさんには意味がわからないかもしれない。

ヌードのモデルさんばっかり見てる人だから、きっと下心なんてないんだろうなぁ。

毅然とした態度をとったところで、『なんて自意識過剰で被害者意識強い奴なんだ』って思われそう!

ああ、どうしよう...リアさんのことも思い出してしまった。

せっかくチャンミンさんとくっ付いているのに、ユンさんとか、リアさんとか...考えるのは止めにしよう)

 

民の後頭部から背中へと、チャンミンの片手が往復する。

そのスローテンポな動きと、触れるか触れないかの優しいタッチに、身体の力が抜ける。

 

(チャンミンさんの胸...暖かくて気持ちがいいなぁ)

 

一方チャンミンはというと、大好きな人とぴったり密着していて、反応せずにはいられない。

チャンミンの胸に民の頭があり、彼の件の箇所は彼女の胸の下にある。

 

(よりによって民ちゃんの胸がちょうど...。

胸が大きいとか小さいとか関係ないんだ)

 

ところが、興奮の徴をチャンミンは、民にバレてしまっても構わない、と思っていた。

 

(民ちゃんのことだから、反応しなければしないで、『どうせ私なんて...』と気にするだろう。

どんな言葉で僕をからかうのだろうなぁ。

『チャンミンさん、当たってます。

暴れん棒が当たってます。

”坊”じゃないですよ、”棒”の方ですからね。

よかった、私の身体でもその気にさせられるんですね』とか、言うんだろうなぁ)

 

うす暗闇では、聴覚と触覚、そして嗅覚が研ぎ澄まされる。

衣擦れの音、呼吸音、火照った皮膚...互いの香り。

指先に触れた、微かな引っかかりは傷痕だ。

民を愛おしむ感情で、チャンミンの胸はいっぱいになった。

待てども、民のからかいの言葉は飛んでこない。

 

「このままじゃ風邪をひくから...。

...民ちゃん?」

 

チャンミンの胸の上で、民は眠りについていた。

もうしばらく健やかな寝息を聞いていたくて、チャンミンは身体を動かせずにいた。

 

(つづく)

(25)NO?-第2章-

 

 

かれこれ30分、二人はまんじりともせず天井を見上げていた。

ここに第3者の目があったら、掛布団からのぞく二人の顔は双子そのもので、事情を知らない者なら「成人してまでひとつの布団で眠るとは...仲の良い双子ですね」といった感想をもつだろう。

ところが彼らは血のつながりの一切ない赤の他人同士であり、付き合いたてほやほやの恋人同士でもあった。

彼らは揃って照れ屋ではあるが、いざ気持ちが高まると衝動的に本音を口走ってしまうことが多々ある。

(二人とも回りくどく、早とちりな面があり、一方慎重派であるため、気持ちが高まるまでに時間がかかりがちで焦れったい)

 

そのおかげもあってか、あれよあれよという間に恋愛関係までステップアップできたのである。

(こうして彼らがひとつの布団に寝ているのも、その好例のひとつになるだろう)

恋愛においては生まれたてのヒヨコのような民が緊張のあまり寝付けないのは理解できるが、30男のチャンミンまで異常に緊張状態に陥っていた。

民の緊張が伝染してしまったのか、それに恥ずかしさがプラスされ、とても寝付ける状況になかった。

二人は行儀よく、10㎝の間隔をもって二本の丸太ん棒になっていた。

彼らの心境を覗いてみよう。

 


 

~民~

 

し、心臓が口から飛び出そう。

 

だって、だって...私...生まれて初めて男の人と一緒に寝てます...!

世の中のカップルはどうしてるんだろう。

一緒の布団に入ったら、毎回『そういうこと』をするものなのかな。

困ったな、今夜の私は『そういう』つもりはないんだけどな。

「一緒に寝ましょう」と誘ったのは私だから、今さら『そういう』ことは『ナシ』でお願いしますなんて、都合がよすぎるかな。

 

チャンミンさん!

『する』のか『しない』のかはっきりしてくださいよ!

目を覚ましていることは分かっているんですよ!

 

...わかった!

エッチをしようか、今夜は見送ろうか迷っているんだ!

あの紐パンを穿いてきた方がいいのかなぁ...でも、ヤル気満々でおかしいよね。

 

...でも、私も気持ちの準備がまだです。

今夜は見送ってください。

 

「泊まっていってください」の言葉は、あのままバイバイするのが寂しかっただけですからね、「エッチしましょう」の意味じゃないですからね。

念を押しておいた方がいいかな...チャンミンさんは早とちりの名人だから。

 

「......」

 

ハグくらいしてくれたっていいのに...。

そっか!

私からボコボコにエロ親父扱いされるのが怖いんですね、分かってますよ。

でもね、何もないのもガッカリ...してしまうんですよね。

う~ん、私から近づいた方がいいのかなぁ。

「......」

暑い、身体が熱い...布団を跳ねのけたい。

 


 

~チャンミン~

 

狂ったようなこの鼓動の速さは一体どういったことだ?

今の僕はまるで思春期の男子中学生になっている。

民ちゃんは案外鋭いから、僕が緊張していることは大バレしてると思う。

さらに、察していても黙っていることができずにずばり指摘する子だ。

何度僕を慌てさせ、こっぱずかしい思いをさせてきたことか!

前回の恋までは、互いに無言の了解がなされていて、自然な流れでそっち方向へと持ち込んでゆけた。

彼女たちが漏らす「イヤっ」も、ムードを盛り上げる喘ぎのひとつだったりする。

ところが、隣にいる子は単なる女子じゃない。

民ちゃんの「イヤっ」は正真正銘の「嫌」だったりするから、気を遣わないといけない。

でもね民ちゃん、彼氏を布団の中へ招き入れるなんて...無防備過ぎるよ。

「襲ってもいい」って、大抵の男は勘違いするよ。

民ちゃんのことを分かりかけてきた僕だから、都合のよい勘違いはしないし、今夜は手を出したら駄目なんだ。

民ちゃんなりに理想の流れがあるだろうから...。

 

...などと、頭の中で自分に言い聞かせていた。

 

横目で民ちゃんを窺うと、薄暗い中で彼女の白い顔がぼうっと浮かび上がっていた。

身動ぎすると布団の中で温められた空気が動き、民ちゃんの香りが僕の鼻腔をくすぐる。

そのミルクのような甘い香りは、僕の頭の芯をしびれさせる。

暑い、布団の中が熱い...!

仰向け寝は辛い、寝返りをうちたい!

 


 

チャンミンは「うう...ん」と呻いて、ごろりと寝返りをうった。

寝言らしき「むにゃむにゃ」と漏らしたあたりが、下手過ぎる演技だった。

 

「!」

 

チャンミンに背中を向けられ、さらにシングルサイズの布団を持っていかれ、民はムッとした。

民は布団をつかむと、ごろんと大きく反対側へと寝返った。

 

「!」

 

自身の肩から布団が消え、チャンミンの身体にぶるっと寒気が走った。

振り向くと、掛布団に丸々とくるまった民の後ろ姿と、その端からは彼女の頭頂部の髪がふわふわと飛び出していた。

チャンミンの中にぞくぞくと、悪戯心が湧いてきた。

民の肩から布団を奪うと、えいっと反対側へと寝返った。

 

「!」

 

くの字に横たわった民だけが取り残され、冷え冷えとした空気に身震いした。

ムッとした民は布団を引っ掴むと、ごろんと一回転して簀巻きになった。

チャンミンは、負けじと簀巻きになった民を布団ごと抱きしめ、のしかかった。

 

「おも、重い!

チャンミンさん、重いです!」

 

ロール状になった布団で両手が塞がれているため、民は膝下をばたつかせた。

 

「民ちゃんが布団を独り占めしてるからだよ」

「ふん、だ。

私、知ってるんですからね」

「へえ、何を?」

「...蛇の生焼けですか?」

「えっ、蛇のなんだって?」

「蛇の生焼けです」

「...不正解」

「蛇の生煮え」

「微妙に違うよ」

「蛇の生贄」

「遠くなった」

「えーっと、蛇の半殺し」

「もうちょい!」

「蛇の佃煮」

「......」

「蛇の網焼き」

「民ちゃ~ん」

「あははは。

蛇の飼い殺し」

「正解は、蛇の生殺しでした」

「似たようなものです。

チャンミンさん、我慢してるんですね。

エッチしたくて仕方がないんでしょう?」

「...民ちゃん...」

 

中途半端に否定して、民から鋭いツッコミを受けるよりも、正直に答えた方がよいとチャンミンは判断した。

 

「...うん、そうかもね」

チャンミンの返答に、民の背中がビクリと震えた。

「そ、そそ、そう...そうです...か」

「大丈夫だよ、今夜はしない」

 

そう言ってチャンミンは民の頭を撫ぜた。

 

(つづく)

(24)NO?-第2章-

~チャンミン~

 

僕の脳みそはフル回転。

以下の通りだ。

 

 

アレを持ってきていない。

...それ以前に、調達していない。

 

(リア時代の時のものは、全部捨ててしまった。

引っ越し準備の時、民ちゃんに見つかってしまったんだよなぁ。

こっぱずかしい思い出だ)

 

彼女のことを思えば、『ナシ』で致すのはいかがなものか。

彼女は誘っているのだろうか。

それとも、いつもの冗談交じりのものだろうか。

困った。

こうやって迷っている時点で、したがっているじゃないか。

...民ちゃん、用意していないよね...まさか!

彼女のことだから、用意していそうだ。

尋ねてみようか。

 

 

「こんなこと訊くのは恥ずかしいんだけど...」

「さすがに今夜は無理です。

心の準備ができておりません」

「!」

 

民ちゃんは乗り出していた身体を引いた。

残念だったし、非常にほっとした。

 

「話題が『そっち方面』にばかりになってしまい申し訳ありません。

私の最大の心配ごとですので、頭の中はそれでいっぱいだったのです」

 

こういうところが民ちゃんらしいな、と思いつつ、男とは恋愛が全てになりにくいからか、ある程度の経験を積んだ年齢だからか、彼女ほどは重大事項にはなっていなかった。

だからと言って、適当にあしらうことはしたくない。

 

「そうそう!

もうひとつチャンミンさんに相談ごとがありました」

「どうぞ」

「...やっぱり、止めておきます」

「どうして?

遠慮しなくていいんだよ」

「彼氏だからと言って、全てを赤裸々に明かすのはどうかと思いました。

ですので、忘れてください」

「え~、気になるなぁ。

さっき言ったことは忘れていいんだよ?

なんでもかんでも話せばいいってものじゃない、って言ったけど、忘れて」

 

この言葉はいかにもキツかったと反省したのだ。

民ちゃんはONかOFFかの、極端な思考をしがちな子ではないかと、僕は判断していた。

状況を見てGOかSTOPを推し測るのが苦手な、不器用な子なんだろうなぁって。

だから、僕の言葉を受けて徹底的に口をつぐむんじゃないかなって。

 

「私の頭の中はアレでいっぱいなんです。

アレ関係の内容です。

...やっぱり今夜は止めておきます」

「ますます気になるなぁ」

「チャンミンさんの性欲に火をつけたくありません」

「そっか、分かったよ」

 

そう言いながら、民ちゃんがちらちら見ているものが気になっていた。

それはカラーボックスの上の置時計で、時刻は1時を過ぎていた。

僕はともかく、民ちゃんを寝不足にしてしまい、明日の仕事に支障が出てしまう。

立ち上がった際、自分がコートを羽織ったままだったことに気づいた。

 

「もうこんな時間だ。

遅くからごめんね。

帰るよ」

「ホントだ!」

 

今やっと、気づいた風を装った民ちゃんも立ち上がった。

乱れてもいない髪をなでつけ、ついてもいないパジャマのホコリを払っている。

(民ちゃんは僕以上に綺麗好きなようだ。室内は清潔に整えられている)

 

靴を履き終わった僕はドアを開け、玄関先に立つ民ちゃんと向き合った。

 

「......」

「......」

 

「ごめんなさい。

外は真っ暗だから気を付けて帰ってくださいね」

「僕は男だから平気だよ。

外は寒い。

見送りはいいからね」

「はい」

 

「......」

「......」

 

この沈黙は...何だろう。

民ちゃんは何か言いたがっているし、実は僕も。

 

「じゃあ、帰るね」

「はい」

「......」

「......」

 

「ユンのことは任せておいてね」

「はい」

 

「......」

「......」

 

共用階段へと進みかけたところ、僕は立ち止まった。

僕は振り向いた。

「ねぇ」

「あのっ」

僕らの呼びかけは同時だった。

 

「......」

「......」

 

一瞬間、僕らは顔を見合わせていた。

民ちゃんからの言葉を待つだなんて、奥手なことはしないよ。

 

「泊まっていってもいい?」

「泊まっていってください」

 

「......」

「......」

 

「!!」

「!!」

 

まるでアニメのように、民ちゃんの顔が赤くなっていった。

廊下に灯った頼りない照明の下でも、明らかだった。

僕は無言で玄関へと戻り、民ちゃんも無言で僕を迎え入れた。

コートを脱いでいると、民ちゃんは布団を敷いていた。

1LDKか2Kの部屋に引っ越して、民ちゃんと一緒に暮らしたら...なんて、妄想したっけな。

あれからどれくらいが経ったんだっけ?

一緒に暮らしていた時は、部屋が違った。

 

「狭いですがどうぞ」

 

僕の返事を待たずに、民ちゃんは布団にもぐりこんでしまう。

掛け布団から両目だけ出して、その目はきれいな半月型になっている。

涙袋もふっくらとしていて、掛け布団に隠されて見えないけれど、両ほほも高く持ち上がっているだろう。

笑った自分の顔ってどんなだっけ?

きっと僕も同じような表情になっているだろうな。

「電気を消してください」と頼まれた通りにした。

真っ暗になった途端、緊張度が増してきた。

 

(こ、この状況は相当...相当だぞ)

 

民ちゃんは端まで身体をずらすと掛け布団を持ち上げて、ぽんぽんと空いたスペースを叩いた。

なんだかよく分からないけれど、勢いでこんな展開になってしまいました。

三十路の男がここまで緊張するとは!

手の平にも脇の下にも汗をかいている。

別れがたくて、エロ心抜きでもう少しだけ一緒にいたいなぁと思った結果がこうだ。

明日が仕事じゃなければ、夜食を食べながら自然と思いついた自由で気楽な話題で会話を楽しみたかった。

スウェットの上下で駆けつけた僕は、そのまま就寝OK。

民ちゃんの隣に収まった時、猛烈に後悔した。

 

(ステップアップし過ぎだろう?

違う!

僕には『そういうつもり』はない。

今夜は一緒に『寝る』だけだ。

『寝る』とはSleepの意味だ!)

 

照れた僕らは揃って仰向けで、天井を見ていた。

 

 

今回の小さなすれ違い。

なるほど...恋人同士というのは、こういった小さなイベントを積み重ねていくごとに、繋がりを深めていくんだろうなぁ。

しみじみとそう思った。

どうしても、前の恋愛と比較してしまう癖になってしまうところはなんとかしないと。

民ちゃんに失礼だし、当然、リアに対しても同様だ。

前の恋愛と今の恋愛は全く別のもの。

 

「......」

 

ユンとの予定が入っているのは確か、明後日だ。

週末には、渋々受けたモデルとやらの依頼があり、それより先にユンに念を押すことができるから好都合だ。

...ところで、民ちゃんはどうしてユンの元から離れようとしないのだろう。

雇人と雇われ人の関係を超えるようなことが起き始めているのだから、辞める手もあるはずだ。

その辺りは、僕の念押し後のユンの変化次第だな、うん。

 

 

「ごくり...」

 

コチコチと目覚まし時計の音がやたら大きく聞こえる。

民ちゃんも眠りについた気配がしない。

ハグくらいした方がいいのかなぁ、と迷ってはいた。

民ちゃんの方からくっついてきてくれないなぁ、と期待もしていた。

民ちゃんに背を向ける格好で横向きになったら、彼女を傷つけるかなぁ。

かといって、民ちゃんと向かい合わせも...恥ずかしい。

仰向けでは寝付けない僕は、寝返りひとつに悩んでいた。

 

「はあ...」

 

思わずついたため息に、耳ざとい民ちゃん。

 

「なんですか、そのため息は」

「緊張してしまって...」

 

正直に認めた。

「ですよね。

私もドキドキです」

 

(つづく)

 

(23)NO?-第2章-

~民~

 

ユンさんのアトリエでショッキングな光景を目にした私。

ぼーっとした頭で駅まで向かう途中、目についたそこに吸い寄せられていった。

壁も天井も床も白、クラシカルな建具と什器で女子が好みそうな内装。

そこに並ぶのはパステルカラーの、ふわふわと可愛らしいものたちだ。

店内はとてもいい香りがする。

ランジェリーショップに足を踏み入れるのは初めてだった。

私には縁のない世界。

入店すると案の定、店員もお客さんも怪訝そうな目で私を見る。

彼女にプレゼントするランジェリーを買いに来た男子のつもりで、商品を見て回る。

この場に不釣り合いな自分にいたたまれなくなるはずが、平気だったのだ。

大胆になっていた。

ユンさんとリアさんの衝撃の大きさに、感覚が麻痺していたのだろう。

それに、特別な日のための下着を、近いうちに探しに行かなければ、と思っていた。

自分のサイズに合ったものがすんなりと見つかるはずはない、と分かっていたから余計に、下着探しは重々しいミッションだった。

 

(「レースか紐かどっちがいい?」だなんて口にするんじゃなかった。

だって、チャンミンさんを喜ばせてあげたかったんだもの。

普段のものじゃあまりにも色気がなさすぎるからなぁ。

チャンミンさん...楽しみにしているだろうなぁ)

 

大胆になった今こそ、ミッションをクリアできるグッドタイミングなのだ。

冷静に商品を1着1着見てゆく。

チャンミンさんのにやけたえっちな顔を思い浮かべる。

鏡の前でカナリア色のセットを、身体に当ててみる。

 

「なんか...イメージと違うなぁ」

 

クリーム色のレースが胸のふくらみに沿い、中央に可愛らしいリボンがあしらわれている。

厚めのパットが胸のボリュームアップを叶えてくれるのだとか。

チャンミンさんはリアさんという、スタイル抜群、細いのにおっぱいが大きい美人さんと付き合っていた。

みしっと胸がきしんだ。

チャンミンさんの前カノのことを想像したり、私とを比べたらいけない。

自信をなくすだけだから。

 

「可愛い...」

 

知らず知らずつぶやいていたようだ、近くにいた女性が「うわぁ...」と眉をひそめている。

咳払いしてみせると、彼女はバツが悪そうに別のコーナーへ移っていった。

(これでも私は女なんですよ)

ブラジャーはワイヤーが入っていると、ぺたんこ胸の自分にはかえって都合が悪い。

 

「はあ...」

 

私にぴったりなブラはない...チャンミンさんごめんなさい、Tシャツを着たままになりそうです。

元のラックにカナリア色を戻し、あきらめて店を出ようとした時、店内奥が目にとまった。

「?」

L字形をした店内の奥は一転、壁も床も黒一色だった。

黒色のインナーなら慣れている。

 

(見るだけなら...)

 

コンセプトも一転して、大人セクシー路線だった。

商品もダークカラーで統一されている。

機能性よりも、肌触りと見た目重視...見せるためのランジェリーだ。

布なんて少ししか使っていないのに、パンツ1枚がスニーカーと同じ値段だなんて。

スポーツタイプのものしか知らない私には、あり得ないお値段だった。

 

でも...特別な日に使うものなのだから、奮発しないと!

 

「試着してもいいですか?」の言葉は、とても言えそうにない。

店員のお姉さんはさすがプロで、ランジェリーを選びに来た青年にいぶかし気な視線は送らない。

にこにこと、ショーケース下のラックから何着も出しては広げて見せてくれるのだ。

チャンミンさんご所望の、紐タイプとレースタイプ...。

私は鏡の前で当ててみては、う~んと想像をめぐらした。

男顔に凹凸のない身体には似合わないことは百も承知な点は無視だ。

全てが初めて尽くしの、とても大事な時のために、私は恥じらいを捨てますよ。

 

(どうしよう...どちらも可愛い)

 

結局選べなかった私は、両方購入することにしたのだ。

紐とレース。

ブラジャーを購入するだけの予算はなかったけどね。

チャンミンさんはどちらを選ぶのかなぁ?

 


 

~チャンミン~

 

民ちゃんの右手には紐タイプ。

サテンリボンの端を引っ張れば、はらりとほどけてしまう。

左手にはレースタイプ。

大事な部分がレースの網地から、透けてしまっているデザインだ。

僕は民ちゃんが愛用している下着を知っているから、見事に真逆なこの2着に思考が追い付かない。

頬が緩まないよう、目をつむり、これらを身につけた民ちゃんを想像する。

どちらもつるりとしたレース素材で、黒、隠すべき面積が著しく小さい。

 

「......」

 

僕の選択を待つ民ちゃんは、じぃ~っと一切目を反らさない。

 

「で、どちらです?」

ずいっと顔をもっと近くに寄せてきた。

茶色がかった眼が澄んでいて綺麗だなと見惚れながら、「ひ...紐」と答えた。

 

「紐ですね、了解です。

あの...チャンミンさんは笑わないんですね?」

「どうして笑わなくちゃいけないの?」

「馬鹿みたいですよね。

私に似合うわけないのに...張り切っちゃって...恥ずかしいです」

「民ちゃん、何度も言うけどさ、僕は民ちゃんがいいんだ。

前も話しただろ?

胸のサイズがカノジョ選びの基準に入っていない」

「信じますよ、その言葉?」

「うん。

それからね、民ちゃんは1週間後にこだわっているみたいだけどさ。

何月何日の何時にやります、って決めちゃったら、ムードもくそもない。

僕も緊張してしまう。

こういうのはね、雰囲気と流れに任せるものなんだよ」

 

アレに持ち込むまでの心得を、カノジョに説明する必要があるなんて。

さすが民ちゃん、これまでのカノジョとはひと味もふた味も違う。

 

「あらら、そうなんですか?

病院で言っていたことを鵜呑みにしてました。

チャンミンさんの希望かな、って」

「あれは適当に言ってしまったことだよ。

だから、『いつ』にこだわるのはよそう」

「...ということは...『今夜』ってこともあり得るんですね?」

「そ、それは...」

 

何ごとにも極端で、くそ真面目な民ちゃんらしいけれど、今夜ってのはなぁ。

 

(つづく)