(30)No? -第2章-

~チャンミン~

 

来年度のカタログのテーマが決定したところだった。

今年度はユンの彫刻作品が全6号、表紙とグラビアを飾るが、大幅な予算オーバーが不評で、コストダウンが求められていた。

結果、王道で無難なフラワーアレンジメントで進めることとなった。

各号1人、計6名のフラワーアーティストを選定する必要があり、僕らカタログ部総出で目星をつけたアーティストに打診をかけてゆくのが、当面のスケジュールだ。

 

「チャンミン」

 

会議室を出た時、主任(僕の1年先輩にあたる)に呼び止められた。

この主任は三度の飯より噂話が好物な、要注意人物なのだ(主任まで昇進できたのは、社内のあらゆる噂を聞きつけ、うまく立ち回った結果によるものだろう)

社内恋愛をしていた頃、僕とカノジョの仲を社内に広げ、仕事をやりにくくさせ、そんな環境に疲れた彼女は社外の別の男に心変わりしてしまった...そんな過去があった。

 

「何か?」

 

内容の見当がつかず警戒する僕に、主任はニタニタ笑いながら、自販機コーナーへと僕を誘った。

 

「お前は仕事の関係者につくづく弱いんだなぁ。

ちょい前のモデルさんとはまだ続いてるのか?」

「?」

 

前年度版は、僕は主任とペアを組んで動くことが多かったから、当然僕とリアが交際を始めた件を知っている。

そして、広報担当として社内に噂を広めてくれたのだ。

 

「今度は芸術家か...それも...はあぁ...これは参ったなぁ。

見られたのは俺で助かったな」

「?」

 

芸術家か...ユンを指しているのは分かったけれど...「見られた」ってどういう意味だ?

「チャンミンがまさかなぁ...驚いたよ。

黙っといてやるから、気にするな」

 

主任は僕の肩をポンポン叩くと、この場を去っていった。

しばらく僕の頭にクエスチョンマークが飛び交っていたが、「そういうことか!」

 

民ちゃんだ。

 

主任は街中かどこかで、ユンと民ちゃんが揃っているところを目撃したのだろう。

事情を知らないから、見間違えても仕方がない。

明日には課内のメンバーの、僕を見る目の質が変わっているだろうな(後輩Sは目を輝かせて『先輩!詳しい話を聞かせて下さい』と飲みに誘いそうだ)

否定して回るのも面倒だし、「またか」と課員たちも話半分にきいてくれるだろうし。

 

「さて、と」

僕は伸びをし、自販機コーナーの窓の外を眺めた。

雲一つない冬の快晴、気持ちのよい日だ。

ユンとの打ち合わせは午後からで、その際に民ちゃんとの約束を果たすつもりでいた。

午前中のうちに、細々とした書類仕事を済ませよう。

 

エレベータを待っていると、ポケットの中の携帯電話がメールの着信を知らせた。

「民ちゃんかな?」と、ディスプレイを確認してみると...。

 

「...ん?」

 

今頃になって、僕は気づいた。

身体が熱くなったのが分かった。

主任が目撃するには、民ちゃんとユンが一緒に街中のどこかにいないといけない。

あの二人はアトリエを出て、外を出歩いていたということだ!

 

何のために!?

 

(昼食を外でとっただけだ、それだけのことだ)

 

エレベータを降りた僕は、イライラ気分を意識して一掃し、携帯電話を耳に当てた。

僕個人の携帯電話に、直接連絡があるのは特に珍しいことじゃない。

(営業部員ではない僕に携帯電話は支給されていないし、外出していることが多い僕を捕まえるには、オフィスの電話ではなく携帯電話を鳴らした方が確実に連絡がとれる)

 

そうなのだけど、相手がライターのエムさんの場合は、少しばかり警戒してしまうのだ。

明日のユンとの打ち合わせに同行したいそうだ。

 

「いいですよ」

 

断る理由がなくて、待ち合わせの時間を決めて電話を切った。

一度はっきりと交際を断った過去はあるけれど、エムさんの未だ僕へ向けられる好意には気づいていた。

来年度の誌面でも、エムさんに依頼することが決まっているから、さらに1年は関係が続くことになる。

好意を寄せられて悪い気がしなかったのは以前までの僕。

僕のカノジョはガラスのハートの持ち主なんだ。

(つい一昨日の夜、実感した)

 

民ちゃんとユンが主任に目撃されたように、いつどこで、僕とエムさんが一緒にいるところを、民ちゃんに目撃されるかしれない。

誤解して悲しませるような真似はしたくないんだ。

 

「...しまった」

 

明日は、ユンに民ちゃんとのことで釘を刺すつもりでいた日じゃないか。

 

(つづく)

 

(29)NO? -第2章-

~ユン~

 

眠る女のうなじから腕を引き抜いた。

彼女は美しいが個性に欠けるが、それでもこの1年、モデルとして使い続けてきたわけは、彼女の身体に夢中になっていただけのこと。

ひとりの女、もしくは男を側に置き過ぎた結果、リアという名の(二流どこのモデル)この女は俺に執着し出した。

気持がなくなったから別れようと宣言したのは数カ月ほど前だったか。

作品へと昇華できるだけの魅力を引き出し終え、飽きがきていた頃だった。

別れを決定づけたのが、民というひとりの青年の登場だった。

 

ひと目見て、モデルにしたいと思った。

中性的な見た目にまず惹かれ、俺の誘いにのって、俺を追って田舎を出てきた行動力と純朴さに驚かされた。

ひととおり恋愛の真似事をしながら、ひととおりのポーズをつけさせ、ひととおりの作品が仕上がったところで手放す...いつものプランが、民には通用しない。

通用するか確かめる以前に、恋愛の真似事の入り口にも立てずにいる。

動揺させる言葉をいくつか吐き、キスをひとつふたつくれてやっただけで、中断している。

 

民の魅力のひとつが、無防備さだ。

見た目からして危なっかしい。

男なのか女なのか分からない。

本人もどちらなのか決めかねているのでは?

 

俺に任せてくれるなら、どちらなのかを決める手助けをしよう。

騙されやすいとも違う、無知とも違う...より深く民と付き合えば、無防備だと感じてしまう他の理由が見つかるのではと期待している。

 

突然の俺の告白に、リアは真っ青になった。

いかにも勝ち気そうな彼女は、おそらくフラれた経験はほとんどないのではないか。

俺を引き止めるための嘘に決まっているが、俺の子を妊娠した、と詰め寄ってきさえした。

さらには、住まいを引き払い、俺の部屋に転がり込んできた。

追い出しもせず住まわせている俺とは、なんと情が深く優しいのだ...とは、感心できないのが俺という男。

俺の部屋に好きなだけ住んでいればいい。

ただし、俺は新しい恋人をお構いなく連れ込み、家じゅう場所も時も問わず抱き合うだろう。

その光景に耐えられるのなら、好きなだけ住んでいればいい。

 

と、嘆息していたところ、面白いことが起きかけているのに気づいた。

新しいモデルがどんな容姿を持った者なのか、リアは興味津々だったはずだ。

嫉妬心をむき出しにしたリアが、制作中のアトリエに乱入されたら困るからと、アトリエには絶対に顔を出さないよう約束させていた。

一緒に暮らしていながらつれない俺の言動に焦燥と不安をつのらせてきたリア。

新しいモデルに心変わりしてしまったのでは?どんな人物か?

とうとう好奇心と嫉妬心に負けてしまったようだ。

そして、アトリエへ上がってきた民に気づいた時のリアの表情ときたら。

目下のターゲットである民と、過去の女リアが知り合いだったらしい。

民についても、この場でリアが居合わせたことに非常に驚いたようだった。

共通点がなさそうな二人が、どこでどう知り合ったのか興味はあったが、それよりももっと強い動機で心躍る自分に気づいた。

 

二人が知り合い関係であるからこそ、これから面白くなる。

例えば、リアの目の前で民の腰を抱いた時、リアの反応。

彼女の性格なら、俺じゃなく民に詰め寄るだろう。

 

それから、民の反応。

男慣れしていないウブさと、恋人がいるのに俺に触れられて感じてしまう自分...恋人への罪悪感に苦しむ姿。

 

もっと面白くさせる要素が、チャンミン青年だ。

民とは双子以上に酷似した見た目なのに、赤の他人同士だという。

民にちょっかいを出す俺を睨む目に、過保護な兄貴以上の敵意がこもっていた。

確か、仕事が見つかるまで一時的に彼の部屋に暮らしていたと言っていたような...。

 

民の恋人は...チャンミン君だ。

面と向かって尋ねてはいないが、この二人は極めて分かりやすい。

今週末、民とチャンミン君が、ポーズをとりに俺のアトリエにやって来る。

リアには、「新しい作品制作に集中したい。絶対にアトリエには来ないように」と念を押しておけば、抑えられない好奇心でアトリエを覗きにくることは確実だ。

 

瓜二つの青年が二人。

二人とも美しい顔をしている。

 

リアという女は自身の容姿に自信を持っている。

自分と釣り合うだけの容姿の持ち主だけが、自分の隣に立つ資格があると考えそうな女だ。

そんな彼女は、見た目が優れているチャンミン君に興味を持つかもしれない。

もしこうだったら面白いのに、と思う展開がある。

チャンミン君とリアが知り合いだったら...まさかね。

俺が興味を持っているのは、民だけだ。

チャンミン君とリアには、右往左往してもらうことにするよ。

 

(つづく)

 

(28)NO?-第2章-

次の言葉を探しているのか、口に出すのを迷っているのか、民の口は何かを言いかけて開いたままだ。

視線はチャンミンを通りこしたところにある。

チャンミンは「...似てるよなぁ...唇の形がおんなじだ」と民の口元に注目していた。

 

「...チャンミンさん」

 

民は視線をチャンミンに戻すと、コホンと咳ばらいをひとつした。

「チャンミンさんは分かりやすくて正直な人です」

 

チャンミンはここで、振り返ってみるのだ。

民の言う通り、彼女を前にしていると、チャンミンは素直でいられるのだった。

 

「...民ちゃん?」

 

(民ちゃんのことだから、面白い例え話や僕をからかう言葉が飛び出してくると予想していたけど...どうやら真面目な話なようだ)

 

「褒めてくれる時は本心で言って下さっていますよね?」

「もちろん!」

断言するチャンミンに、「よかったです」と民はにっこり笑った。

 

「チャンミンさんは私よりうんと大人です。

正直に伝えても大丈夫な時は正直でいてくれます。

変なことは変だって、はっきり教えてくれるでしょう?

さらに言えば、私を気遣って本当のことを伝えるのを遠慮するとか、出来る人だと思います。

正直の使い分けができる人です」

 

チャンミンはピンときた。

昨日の自分の発言に、民がひどく気にかけていることを。

「昨日、チャンミンさんは言いましたよね?

正直でいることは必ずしも誠実ではない、という意味のことを」

 

(...やっぱり)

 

民にユンのことが好きだったと打ち明けられ、チャンミンは嫉妬のあまり大人げないほど苛立ちを見せた。

そして、「打ち明けられる者の気持ちを考えろ」と民を責めたのだ。

「あれは...僕が言い過ぎただけだから」

 

民は、内緒にしているのが辛くなったからと言って、チャンミンに...それも大好きな彼氏に正直に打ち明けてしまった自分を反省していた。

 

(“私たちふたりは、ユンさんのモデルを揃って務めるようになりました。

チャンミンさんとは何でもないフリを続けるのも不自然だし、私はお芝居が苦手です。

代わりにチャンミンさんの口から、私たちの関係を知らせて下さいませんか?”

...とかなんとか、言えばよかったんだ)

 

「私、『彼女』らしいことが出来ません...どんな風に振舞えばいいのか分からないんです。

チャンミンさんのおうちに住んでいた時みたいなノリに、なってしまって...」

 

チャンミンはふっと息を吐くと、民の頭に手をのせた。

 

「昨夜はごめん。

僕に気を遣ったりしないで、思ったことは何でも話していいんだからな?」

 

(そう言ってくれるけど、ユンさんのキスとかリアさんのこととかは絶対に内緒だ!)

 

(民ちゃんが気にしぃだとは知らなかった。

大胆で神経が太い(ちょっとだけ無神経)子だと思っていた。

案外、繊細なんだな(民ちゃん、ごめん)

 

民ちゃんに吐き捨てた言葉は、そっくり自分に言いたい。

彼女への発言は気を付けないと。

彼女相手なら何を言ってもいい、と甘えていたのは僕の方だったかもしれないな)

 

 

見た目は悪いけれど、味付けは完璧なスクランブルエッグを食べ終えると、チャンミンは立ち上がった。

 

「じゃあ、帰るね」

いよいよ呑気にしていられない時間になったのだ。

「はい。

いってらっしゃいです」

チャンミンは靴を履き終えると、玄関先まで見送りに立った民と向かい合った。

 

「......」

「......」

(こ、これは...!)

 

この後の展開を読んだ民はカチコチに硬直してしまい、そんな彼女の様子にチャンミンの瞳が熱っぽく光る。

チャンミンは民の後ろ髪に指をもぐりこませた。

チャンミンの顔が傾いだのを認めると、民はぎゅっと両目を閉じる。

身長180㎝超えの民だから、チャンミンは身をかがめる必要はない。

ないけれど、民のうなじと腰を引き寄せて、キスのリードをとっているのはチャンミンの方だった。

今のキスは、これまでよりもわずかに、民の唇に押し付ける圧が強かった。

 

「...っ...」

 

民の唇が緩んだ隙をつき、チャンミンは舌先を彼女の中へと忍び込ませた。

そして、民の舌をくすぐって拒否されないのを確かめたのち、より深く口づけた。

 

「!!!」

 

(こ、こ、こ、こ、これは...ディープキスってやつですか!?)

 

民にはチャンミンの背に腕を回す余裕はない。

指はかぎ型に曲げられて、宙で一時停止している。

閉じていた眼はまん丸に見開かれてしまっている。

引っ込んだままの民の舌をかき出そうと、彼女の口内を探りかけた。

 

(キャーーーー!)

 

「...まだ、早いよな」と思い直して、民の舌をくすぐるだけで我慢したのだった。

 

 

「チャンミンさん!」

 

呼び止められ、歩き出した足を止めて振り返った。

キスの余韻で民の顔は湯気が出そうに真っ赤なままだ。

 

「ユンさんのこと...お願いします!」

「うん。明後日...じゃなくて明日、打ち合わせで会うんだ。

その時に絶対に」

「よかった...」

 

民はサンダルをつっかけて廊下へと出てくると、チャンミンの方へと近づいた。

そして、チャンミンの耳たぶをぐいっと引っ張った。

 

「いでっ!」

「...チャンミンさん」

耳元で囁かれ、チャンミンの首筋に鳥肌がたつ。

「ご希望の紐パン、穿きますからね」

「!!」

「楽しみにしていてください。

1週間後ですよ~!

今日も一日、お互い頑張りましょう~!」

 

(民ちゃんったら...はあぁ...。

雰囲気次第にしようと言ったばかりなのに...。

『恋人ごっこ』をした時、僕がでっちあげた話の影響をもろに受けたままだ。

...僕は全然、構わないけれど)

 

階段を駆け下りたチャンミンは、「こんな感じ...くすぐったいな。朝帰りか...」とにやけ顔で、民のアパートを見上げたのだった。

 

(民ちゃんのことだ、前もってアレを用意してきてたりして...あり得ない話じゃないな。

いや...ああいうものは男の僕が準備すべきだ)

 

クスクス笑っていると、通りすがりのOL風がチャンミンを気味悪がって、反対側の歩道へと移ってしまった。

 

(...民ちゃん...初めてなんだよなぁ...)

 

家を出るべき時間まで20分ほどしかないこと気づき、チャンミンはアパートまでの数百メートルをダッシュした。

 

 

気持ちを確かめ合い、沢山キスをしてひとつの布団で眠り(何もなかったが)、これで二人の小さな衝突は無事解決した。

けれども、小さな問題点がそれなりに残っている。

第3者から見ればささいな事柄でも、初々しい二人にとって関係性を揺るがす事件になってしまう時期でもあった。

 

(つづく)

 

(27)NO? -第2章-

チャンミンは黒髪ロングの男を追っていた。

場所は魚市場で、コンクリート床は水浸しだった。

黒髪の男を捕まえたいのに、もう少しのタイミングでチャンミンは巨大なネズミ捕り餅に捕まってしまうのだ。

魚市場は全長どれだけあるのやら、走っても走っても端までたどり着けない。

気づけば並走している者がいて、その人物がライターのエムだった。

黒髪の男はいつの間にかいなくなっており、それでもチャンミンは走り続けていた。

マグロの競り会場にベッドが置かれており、その上に自分が眠っていた。

チャンミンはここで迷う...自分の名前チャンミンと呼んだらいいのか、それとももっと別な名前か。

ところが、その名前が出てこない。

分かっているのに、喉の奥で詰まっていて出てこない。

苦しい...と喉をかきむしったところ、チャンミンは溺れかけていた。

何かが足首を捕らえていた。

その人物がリアだったことに、チャンミンは「なるほど」と納得していて...。

夢と言うのは辻褄が合わない不可解なシーンの連続だ。

 

 

(い、息が...できない!)

息苦しさにチャンミンは目を覚ました。

手を振って、呼吸を妨げていたものを払いのけようとした。

パチン、と当たった感触から、それが人の手だと分かった。

 

「!!」

「おはようございます」

 

チャンミンの真上から彼を見下ろすのは...この頭の形、両耳がぴょんと飛び出たシルエットは...民だった。

蛍光灯の灯りは、民の頭で遮られている。

 

「...おはよ」

 

チャンミンを起こすため、民は彼の鼻と口を塞いでいたのだった。

 

「起きましょう」

 

昨夜は民の部屋にお泊りしたチャンミン。

出社の用意をするには一度、家に帰らないといけない。

呑気に寝ていられないのだ。

 

(ここは...?)

 

飛び起きたチャンミンは室内を見回した。

腕と胸元をさすってみたり、布団をめくって中をのぞいてみたりした。

 

「ご安心ください。

昨夜のチャンミンさんはパンツを脱いでいません」

「パンツ!?」

民の台詞の意味を、チャンミンの寝起きの頭では即座に理解できなかった。

「ここはチャンミンさんのお家じゃないですよ。

私の家です」

「あ...!」

 

昨夜の一連の出来事を思い出した途端、恥ずかしさが襲ってくる。

 

「おはよ...」

布団から出られずにいるチャンミンに、民は訳知り顔で「ふふん」と鼻で笑った。

 

「男の人は大変ですね。

今朝に始まった話じゃないでしょう?

チャンミンさんちにお世話になった2日目に、見せてくれたでしょう?」

「...見せてないし」

 

チャンミンは立てた片膝に額をつけて、深いため息をついた。

あけすけに指摘する時もあれば、言葉をどもらせ真っ赤に頬を染める時もあったりして、そのボーダーがどこなのか、チャンミンには分からないのだった。

 

冬の夜明けは遅い。

カーテンの向こうはまだ暗く、窓ガラスが白く結露していた。

少なくとも30分以上前には起床していた証拠に、室内はストーブで十分暖かかった。

美味しそうな匂いが、ローテーブルの上から漂ってくる。

 

「朝ご飯を作りましたので、食べてください。

下手くそで申し訳ありません。

どうやら私は、料理の才能がからっきしのようです」

オムレツの形に整えられたスクランブルエッグに、懐かしさを覚えたチャンミンだった。

 

(民ちゃんが寝入ってしまってから3時間も経っていない。

僕の為に早起きしたんだ)

 

民に弱いチャンミンだ、彼女の健気さに感動がこみあげてくる。

チャンミンがようやく布団から出られる状態になった頃、

「インスタントコーヒーですけど...」と、民は申し訳なさそうに湯気のたつマグカップをチャンミンに手渡した。

 

「謝らないで。

インスタントコーヒー、僕は好きだよ」

「チャンミンさんは優しいですね」

「そ、そうかな?」

「はい。

チャンミンさんは正直者です」

「正直?」

チャンミンは口に運びかけたフォークを止め、「どこが正直者なんだろう?」と考えを巡らした。

 

「チャンミンさんは喜怒哀楽が分かりやすいです。

あわてんぼうでヤキモチ妬きですよね?

怒りっぽいし...」

「う~ん...そう...だね」

 

民の指摘通り、彼女を前にしたチャンミンは子供っぽくなってしまうのだ。

 

「はい。

正直であることは...」

 

と言いかけたまま、民の視線はチャンミンの向こうに行ってしまっている。

(何を言い出すんだろう?)

 

チャンミンは民の言葉をワクワクと待った。

 

(つづく)

 

(26)NO? -第2章-

 

「......」

 

「何もしない」の言葉に、民はじろりとチャンミンを睨みつけていた。

 

「...民ちゃん?」

 

どうやら睨みつけられてるらしい、そのワケがチャンミンには分からない。

チャンミンは簀巻きになった民の上に、のしかかったままだった。

 

「しないんですか...」

「へ?」

「しないんですか!?」

「ええっ!?

もしかして、残念だった、とか?」

素っ頓狂な声を出すチャンミンに、民の眉間のシワが深くなった。

「...う...」

 

(複雑な乙女心を理解してくださいよ。

何もないのはつまらないし、何かあっても困ってしまうんですよ!)

 

「もぉ!

ここから出してくださいよ!

重い、重いです!」

 

膝下をジタバタさせる民に、「ごめんごめん」とチャンミンはのしかかっていた身を起こした。

チャンミンは照れ隠しで、乱暴気味に民入りの布団を床に転がした。

簀巻きから自由になった民は、チャンミンの首にかじりついた。

 

「チャンミンさ~ん」

思いがけない民に、チャンミンは抱きとめるのがやっとだった。

 

「民ちゃん?」

「甘えてみました」

 

後ろに倒れ込んだチャンミンの上に、民がのしかかる恰好になっていた。

民はチャンミンの胸に頬をくっつけ、彼の鼓動を聞きとっていた。

 

(チャンミンさんの心臓の音...早い。

緊張してるんだ...私もドッキドキです)

 

暗闇で確かめてみることは出来なかったが、チャンミンも民も茹でダコのようだった。

何かあっても困るし、何もないのも困る...二人に共通した気持ちだった。

ふざけてみてはくっ付いてみたりして、照れまくっている二人は甘い雰囲気になるのが怖かった。

 

(チャ、チャンミンさんとこんなハグ...初めてかも。

コートを着てたから分からなかったけど...やだ...どうしよう)

 

思い切って抱きついてみたものの、今さらながら下敷きにした胸板の固さに気づいた民だった。

 

(きゃー!

チャンミンさん...男らしいです)

 

「落ち着け~」と民は目をつむり、チャンミンにバレないよう荒ぶる呼吸を整えた。

 

(男の人にくっつくの...生まれて初めて...。

あ。

...でもないか)

 

民はユンの前でポーズを取った、これまでのことを思い出した。

身体の傾きやひねり、腕の曲げ具合など、口頭での指示だけではまごつくことが多かった。

そのため、ユンは民の腰や肩に手を添えたり、ポーズによっては後ろから抱きかかえるように接触することもあったりして...。

民はハッとした。

 

(あれは駄目だ!)

 

今こうして、人生初の彼氏と密着したことで、いかにユン...職場の上司の過剰なスキンシップに疑問を持つようになった。

 

(でも...。

『やめてください』と言っても、ユンさんには意味がわからないかもしれない。

ヌードのモデルさんばっかり見てる人だから、きっと下心なんてないんだろうなぁ。

毅然とした態度をとったところで、『なんて自意識過剰で被害者意識強い奴なんだ』って思われそう!

ああ、どうしよう...リアさんのことも思い出してしまった。

せっかくチャンミンさんとくっ付いているのに、ユンさんとか、リアさんとか...考えるのは止めにしよう)

 

民の後頭部から背中へと、チャンミンの片手が往復する。

そのスローテンポな動きと、触れるか触れないかの優しいタッチに、身体の力が抜ける。

 

(チャンミンさんの胸...暖かくて気持ちがいいなぁ)

 

一方チャンミンはというと、大好きな人とぴったり密着していて、反応せずにはいられない。

チャンミンの胸に民の頭があり、彼の件の箇所は彼女の胸の下にある。

 

(よりによって民ちゃんの胸がちょうど...。

胸が大きいとか小さいとか関係ないんだ)

 

ところが、興奮の徴をチャンミンは、民にバレてしまっても構わない、と思っていた。

 

(民ちゃんのことだから、反応しなければしないで、『どうせ私なんて...』と気にするだろう。

どんな言葉で僕をからかうのだろうなぁ。

『チャンミンさん、当たってます。

暴れん棒が当たってます。

”坊”じゃないですよ、”棒”の方ですからね。

よかった、私の身体でもその気にさせられるんですね』とか、言うんだろうなぁ)

 

うす暗闇では、聴覚と触覚、そして嗅覚が研ぎ澄まされる。

衣擦れの音、呼吸音、火照った皮膚...互いの香り。

指先に触れた、微かな引っかかりは傷痕だ。

民を愛おしむ感情で、チャンミンの胸はいっぱいになった。

待てども、民のからかいの言葉は飛んでこない。

 

「このままじゃ風邪をひくから...。

...民ちゃん?」

 

チャンミンの胸の上で、民は眠りについていた。

もうしばらく健やかな寝息を聞いていたくて、チャンミンは身体を動かせずにいた。

 

(つづく)