(21)NO?-第2章-

 

~チャンミン~

 

民ちゃんは僕の正面までにじりよると、正座をした。

 

「チャンミンさんへお願いがあるんです」

「いいよ。

僕にできることなら、何でも」

民ちゃんに弱い僕のことだ、大抵のことなら応えてあげられる自信がある。

民ちゃんの手が伸びてきて、僕の手と繋いだ。

 

「ユンさんに...して欲しいことがあって」

「ユンに?」

「はい。

ユンさんに、私とチャンミンさんはお付き合いしていることを伝えて欲しいのです。

チャンミンさんの口から」

 

なるほど...。

民ちゃんの気持ちは既に自身にないことを知っても知らなくても、ユンは意に留めないだろう。

僕の口から「民ちゃんの彼氏は僕、チャンミンだ」と宣言してやれば、ある程度の牽制にはなる。

なぜなら、僕は仕事の発注者の立場にあるからだ。

ユンにとって僕は得意先、非常識なことはしにくい。

「いいよ。

次に会った時、ユンに話しておくよ」

仕事の話の前後に出すには相応しくない話題だけど、構いはしない。

 

「民ちゃん...ホント、ごめん」

僕はあらためて民ちゃんに謝った。

 

最後まで話を聞いてみて、民ちゃんが「かつてユンが好きだった」とまず話し始めたわけがわかったのだ。

順を追って話そうとする民ちゃんを遮り、ヤキモチを妬いて彼女を傷つける言葉を吐いた。

民ちゃんよりも僕の方が余程、子供っぽい。

 

「はい、これで私の話はお終いです。

最後まで聞いてくださりありがとうございます」

ぺこり、と民ちゃんはお辞儀した。

 

「ねぇ。

敬語はいいよ」

 

僕らが初めて会った時の関係性だと、民ちゃんが敬語になるのは分かるけれど、今はそうじゃない。

民ちゃんが僕に気を遣って敬語のままでいるとしたら、悪いなぁと思ったのだ。

 

「カノジョが敬語なんてさ...変じゃないかな?」

「変...ですか?」

僕の言葉に民ちゃんは考え事をしているようだ、一時停止している。

「もっと気楽にさ」

と、民ちゃんは突然立ち上がった。

 

「?」

「なあ、チャンミン」

「へ?」

「お前に見せたいものがあるんだ」

「民...ちゃん?」

民ちゃんはぽかんとする僕を振り返った。

 

「なんだ、チャンミン?

蛇が蚊を飲み込んだみたいな顔をして?」

「...民ちゃん、言葉の使い方間違ってるよ」

「じゃなくて、棒を飲み込んだ顔をして?

うーん...違うなぁ。

そうそう!

ひょっとこみたいな顔をして」

「そりゃあ...びっくりするよ」

「ふん。

チャンミンに見てもらおうと思ってさ」

 

民ちゃんはクローゼットから、紙袋らしきものを取り出した。

そして、どかっと胡坐をかいて座った。

 

「お前が好きそうなものだ」

「あのね、民ちゃん。

何も男言葉にしなくてもいいんだよ?

僕が言ったのは、敬語は使わなくてもいいんだよ、っていう意味。

僕は構わないんだけど...民ちゃんが窮屈じゃないかなって?」

民ちゃんの男っぽい容姿と男言葉は、それほど不釣り合いでもない(絶対に彼女には言ってはいけないことだ)

 

「...窮屈じゃないですよ。

私にとってチャンミンさんとお話するのは、この言葉遣いしか考えられないのです」

「う~ん...そうだね」

「私が急に、『チャンミンってさ、...顔がエロいんだけど?』って言い出したら...落ち着かないでしょう?

『チャンミ~ン、勃ってるってば!』とか?」

「あのね、民ちゃん...。

どうして例文がそういう系なわけ?」

「あはははは」

 

大きな口で笑う様子に僕はホッとした。

交際わずか1週間で初めての喧嘩、仲直りは翌日に持ち越さずに済んだ。

リアと付き合っていた時は、気の強い彼女の機嫌を損ねないよう先回りに行動していた。

激しい言い争いに発展するのが嫌で、言い控える時も多かった。

険悪ムードになってしまうと、それを平常モードに戻すために相当な努力が必要だった。

ああ、ダメだ。

リアと民ちゃんを比べたらいけない。

 

「...チャンミンさん?」

 

思考から戻ってみると、民ちゃんに間近から覗き込まれていて、その近さにドキンとした。

室内は常夜灯を付けただけで、とても暗い。

だから余計に嗅覚と触感が敏感になる。

民ちゃんの首筋から漂う香りだとか、体温だとか...どうしても色っぽい方面に行ってしまいがちな僕だ。

 

「電気つけようか?

暗いよね」

腕を伸ばして天井灯のスイッチを入れた。

 

パカパカっと点滅の後、白々と室内は明るくなり、目に映るものが全て生っぽく感じられる。

パジャマ姿の僕のカノジョ、カノジョが寝ていた布団...。

 

「民ちゃん...これ?」

 

民ちゃんの膝に乗ったビビッドピンクの紙袋に、僕は問うような視線を送った。

最初はプレゼントなのかな、と思った。

ところが真剣な表情で、民ちゃんはこう言うんだ。

 

「相談ついでに、チャンミンさんに選んでもらいたいものがあるんです」

民ちゃんは紙袋から出したものを右と左、僕の前にぶら下げてみせた。

「紐とレース。

どちらがいいですか?」

「...民ちゃん」

 

目の前で揺れる小さな下着は、僕の男を刺激するには十分過ぎるほどだ。

それ以上に胸をドキドキさせたのは、僕に選んで欲しいと頼むカノジョの可愛らしさだ。

 

(つづく)

(20)NO?-第2章-

~チャンミン~

 

数時間遅れになってしまった民ちゃんへのフォロー。

僕に対する反応がスピーディな民ちゃんに反して、つくづく僕という男は、ワンテンポ反応が遅い。

...そうでもないか。

嫉妬心を露わにしてしまうのは、条件反射のように素早かった。

僕が来ていると知るや、民ちゃんは通話を切ってしまった。

 

(民ちゃんらしいな)

 

チャイムを1度だけ鳴らし、民ちゃんがドアを開けるのを待った。

しばし待った後、一向にドアが開かない。

「勝手に入っておいで」のつもりなのかな?

ノブを捻ると鍵は開いていて、僕はその隙間から顔を覗かせ「民ちゃん?」と声をかけた。

 

(...ん?)

 

室内は真っ暗だった。

「寝てしまったのか?」と思いかけて、僕はくすりとした。

 

(...なるほど)

 

僕を驚かせようと、部屋の引き戸の裏に隠れているんだと、民ちゃんのキャラクターから予想がついた。

逆に驚かせてやろうと、僕は音をたてないよう靴を脱いだ。

忍び足でキッチン(ひと口コンロと小さなシンク)を通り過ぎ、引き戸をそうっと開けた。

ビックリ仰天する民ちゃんを想像して、忍び笑いを堪えるのがやっとだった。

民ちゃんが隠れているとおぼしき辺りに向かって...。

 

「わっ!!」

(...あれ?)

 

僕の反撃に、あがるはずの悲鳴が聞こえない。

常夜灯が灯るだけの薄暗い部屋だ、引き戸の脇に目をこらしても民ちゃんがいなかった。

部屋の片端の布団が、やけにこんもりしているように見えた。

 

(あそこに息をひそめて隠れているんだな)

布団にもぐって隠れている民ちゃんを想像すると...ダメだ、可愛すぎる(さぞかし僕は緩んだ表情しているだろうな)

 

フローリングの床がぎし、ときしんだのにはドキっとしたけれど、そろそろと布団の場所に近づいた時...。

ぐにゃり、と柔らかいものを踏んだ。

 

「...ひっ!」

 

僕の足元に長々とした黒い塊。

それが民ちゃんだと一瞬間で頭では理解していた...いたのだけど...。

 

「うわあぁぁぁぁぁ!!」

 

僕はビックリ仰天、尻もちをついてしまった。

「はあはあはあ...」

 

床に片頬をつけ、うつ伏せになった民ちゃんはぴくり、ともしない。

(何か持病でもあるとか!?)

 

「...民ちゃん?」

 

肩をぐらぐら揺さぶっても、身動きしない。

 

(意識がない!

救急車か!)

民ちゃんの頬をぴたぴた叩いた時、

「ばあ...」

「ひぃっ...!」

 

悲鳴を飲み込んだ僕の首に、民ちゃんの腕が巻き付いた。

「チャンミンさんに会いたかったです...」

 

そう囁かれ、民ちゃんの熱い吐息が、外気で冷えた僕の耳たぶを温めた。

同時にぞくり、とした。

当然、僕の両手も民ちゃんの背中に回った。

民ちゃんは僕を驚かせようと、死んだふりをしていたらしい。

 

(全く、この子は...)

 

ぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。

横座りした民ちゃんは僕に引き寄せられて体勢が苦しそうだった。

民ちゃんの腰を引き寄せて、僕の膝に乗せた。

民ちゃんは僕と向かい合わせになって、あぐらをかいた僕の両腿にまたがっている恰好だ。

なかなか刺激的な体勢だなぁ、と思った。

 

「...ごめん。

僕が悪かった。

えーっと、あれは僕のヤキモチだ。

だから、ムキになってしまって...。

本当にごめん」

 

僕ははっきりと認めた。

民ちゃん相手なら、僕の格好悪い女々しい一面を見せても平気だと思った。

これまでも何度も格好悪いところを民ちゃんに見られている僕だ。

ここ最近は、民ちゃんが僕と瓜二つの顔をしている事実なんて、すっかり忘れている。

そうであってもやっぱり、僕らは双子以上に同じだと、心の奥深いところで認識している。

そのせいで、その他の女性と接する時とは全く違う感覚を抱いてしまうのも事実なのだ。

違う感覚とは...不思議に満ちていて、ほっとくつろげて、同士のようで、でも恋愛感情を沢山、とても沢山抱いている。

心を込めて謝れば必ず許してもらえる安心感もある...これは僕の希望かな?

 

「ごめんなさい。

変なコト話しちゃって。

...チャンミンさんの立場になって考えてみたんです。

凄く嫌だろうなぁって。

ごめんなさい」

「謝るのは僕の方だ。

あれは全部、僕が悪い。

ごめんな」

「ぐすん」

「ぐすん」なんて実際に発音してしまう子を、初めて見た。

僕は民ちゃんの背中を撫ぜた(ブラジャーを付けていないんだ、と気付いてしまったりして)

 

「まわりくどい話し方をしてしまって、ごめんなさい。

本題に入る前の説明が、長かったんです。

全部話す前に、チャンミンさん、怒っちゃうから...」

「そうだったね。

話を遮ってしまった僕が悪かった。

...ほんと、ごめん」

 

突然、どん、と胸を突かれた。

 

「!!」

僕は再び尻もちをついてしまった。

 

「私っ...嫌われたかと思ったんですよ?

たくさん泣いたんですよ?

チャンミンさんの...バカチン!」

 

ひっくり返った僕は、民ちゃんに引き起こされ、再び彼女の両腕が僕の首に回された。

民ちゃんのミルクみたいな甘い匂い。

密着した胸と腰も、民ちゃんの腕がからんだ首の後ろも肩も、彼女がのっかった太ももも...熱い。

 

マズい...。

 

僕のそこが反応しないようにしないと。

僕らは今、大事な話をしているというのに!

 

(つづく)

 

(19)NO?-第2章-

 

~民~

「嘘でしょ...?」

同棲していた彼女...リアさんがユンさんの家に居るなんて!

二人のやりとりから、単なる友人同士には見えなかった。

どこか色っぽい空気をはらんでいた。

リアさんはユンさんが好きなんだ。

リアさんの浮気相手とは、ユンさんなのかもしれない。

チャンミンさんには絶対に、言えない!

チャンミンさんはユンさんのアトリエを訪れる機会が多い。

どこかで鉢合わせしてしまう可能性もある!

それとなく耳に入れておいたほうがいいのかな。

...駄目だ、私は部外者だ。

チャンミンさんとリアさんのことも、リアさんとユンさんのことも。

今夜もチャンミンさんと会う約束になっている。

「え~っと」

頭の中を整理した。

1.チャンミンさんに打ち明けること...ユンさんに片想いしていたこと。

2.チャンミンさんに相談すること...ユンさんに片想いしていたことをユンさんは知っていて、今の私には『彼氏』がいるのに、ユンさんは意に介しておらず、そのことに困っていること。

3.1と2を話したうえで、チャンミンさんに『お願い』があること。

4.チャンミンさんに内緒にしておくこと「その1」...ユンさんとキスをしたこと。

5.チャンミンさんに内緒にしておくこと「その2」...リアさんがユンさんと付き合っていること。

(そっか!)

ユンさんの首筋のキスマークも、リアさんが付けたものだ!

ふらふらと駅までの道を歩いていた。

待ち合わせの時間には未だ早い。

ふと前方のお店が目にとまった。

ふらふらっと店内に吸い込まれた。

ショックのあまり、普段とらないような行動をとってしまった。

と、昼間のことを思い出し、次にもうひとつの懸案事項に移ることにした。

こぼれた涙が耳の中につたってしまうので、仰向けから横向きに寝返りをうった。

「はあ...。

...うっ...うっ...」

チャンミンさんのことを想い始めたら、ひきかけた涙がこみあげてきた。

人生初の彼氏ができたことで、ユンさんからの接触にどう対応したらいいのか分からず困惑していた。

よりによって、ユンさんと彼氏...チャンミンさんは仕事上で繋がりがあった。

加えてチャンミンさんは、ユンさんのことをよく思っていない。

さらに、ユンさんは私とチャンミンさんをモデルに作品を作りたいという。

その作品の出来は、チャンミンさんの仕事に影響することで...。

ユンさんは私とチャンミンさんが付き合っていることを知らないから、いつもみたいに私に触れてくるだろう。

チャンミンさんは意外とヤキモチ妬きみたいだから、彼とユンさんの関係がこじれてしまったらどうしよう!

だから、チャンミンさんに相談したかったのに...ユンさんの名前が出た途端、あんなに怒るなんて...。

「相談したかったのに...っく...」

布団から抜け出た私は、部屋の照明をつけた。

ビニール袋に氷を詰めたもので、腫れかけたまぶたを冷やした。

「はあ...」

チャンミンさんは私の無神経さに腹を立てた。

恋愛ごとに慣れていない私に呆れたんだ。

「これだからお子様は...やれやれ」ってな風に。

チャンミンさんの立場をわざわざ自分に置き換えてみなくても、彼を怒らせても当然のことを打ち明けてしまった。

ユンさんに片想いをしていたことは事実だ。

だからといって、チャンミンさんにわざわざ教えてあげる必要はなかったのだろう。

でも、片想いをしていたことを告白しないと、話の本題に入れなかったのだ。

(話はまだ途中だったのに...)

チャンミンさんのあの様子じゃ、もうこの話題はふることはできない。

そして、私は嫌われたままなんだ!

常夜灯だけを残して照明を消し、布団にもぐりこんだ。

真っ暗闇で寝るのは苦手な私は、常夜灯をつけたままで眠る。

(...ん?)

ローテーブルの下でチカチカと光るライトがある。

(このライトの色は...!)

腕いっぱい伸ばして携帯電話を取り、発信者を確認するとやっぱり!

敢えて電話に出ないことで「私はとても悲しかったんだよ!」をアピールすることもできた。

でも私はそんな駆け引きみたいなことは出来ない。

「チャンミンさん...?」

鼻をグズグズさせた自分の声が、男の人みたいだった。

「ここに!?」

チャンミンさんの言葉に、私ははじかれたように立ち上がり、カーテン代わりの布をめくって窓を開けた。

「あ...!」

アパート玄関の外灯が、こちらに手を振るチャンミンさんを照らしていた。

スウェットの上下にかちっとしたコートを合わせていて、ちぐはぐだった。

外灯の灯りがチャンミンさんの顔を黄色く浮かび上がらせ、はっきりとは判別できないけれど、多分、困り顔の笑顔をしている。

思い立って慌ててここに駆けつけた証拠を見つけて、胸がじんとした。

よかった...嫌われていなかった。

こみ上げる嬉しさと安堵感に、もっと涙が溢れてきて手を振り返せずにいた。

『そっちに行ってもいい?』

チャンミンさんは自身を指さし、次に私がいる2階を指さした。

私はこくこく何度も頷いた。

電話が繋がっているんだから、「どうぞ」って言えばよかったのにね。

アパート内へとチャンミンさんの姿が消えたのを見届けた私は、乱れた布団を2つ折りにし、髪を撫でつけた。

ドキドキした。

 

(つづく)

 

(18)NO?-第2章-

 

~ボタンの掛け違い~

 

~民~

 

「っう...うっ...うっ...」

 

チャンミンさんに嫌われてしまった!

 

熱い涙が次から次へと湧いてくる。

 

明日の私はまぶたが腫れた不細工な顔になっていそうだ。

 

そしてユンさんに、「彼氏と喧嘩?」ってからかわれるんだ。

 

「うっ...うっ...」

 

私も彼が好き、彼も私が好き...お付き合いするようになって...彼氏と彼女って、もっと楽しいものだと思ってた。

 

お付き合いする前の方が気楽でいられたのにな。

 

私みたいなオトコオンナを好きになってくれた人が現れたのに、私の口からはおかしな言葉ばかり出てくるみたい。

 

「ぐすん」

 

ティッシュペーパーをとって鼻をかんだ。

 

「ぐすん...」

 

私は頭まで布団にもぐりこんで、身体を丸めて目を閉じた。

 

 

布団に入って2時間も経つのに、眠気はおとずれてくれない。

 

悶々と考えに耽っているのだから、仕方がないか。

 

チャンミンさんとの衝突が私を寝かせてくれない理由のひとつで、同時進行で私を悩ます一件があった。

 

昼間目の当たりにした出来事だ。

 

この一件はチャンミンさんには内緒だ。

 

 

午後からの私は、謎解きのようなユンさんの言葉を、頭の中で反芻していた。

 

秘密と嘘。

 

真実と誠実。

 

言葉そのものの意味は分かってる。

 

これらを恋愛関係に当てはめた時、その意味とシーンごとの使い分けが私にはできない。

 

午後からの仕事ぶりはさんざんだった。

 

「あとは一人でやるから、民くんは下で事務しておいで」と、いつも温厚なユンさんには珍しい苛立った言い方だった。

 

「すみません」

 

「俺が変なことを言ったせいだね。

深い意味で言ったわけじゃないから、聞き流してくれていい」

 

ユンさんはそうフォローしてくれても、4つの言葉に思考が支配されたままだった。

 

 

PCのディスプレイを睨みつけていた。

 

事務仕事といっても大したことをしていない。

 

集中できなくて一息つこうと思い立ち、ミニキッチンに立って紅茶を淹れた。

 

(ユンさんにも持っていってあげよう)

 

トレーに乗せたカップを揺らさないよう、上階のアトリエへのらせん階段をのぼった。

 

「...来るなと言っただろ!」

 

ユンさんの怒鳴り声に、ビクンと私は踏み出した足を止めた。

 

「す、すみません...」

 

踵を返して階段を下りかけた時...。

 

「お前がいると気が散るんだ。

上で大人しくしていろ」

 

「!!!」

 

私に向けてじゃ...ないようだ、ユンさんは私を「お前」と呼んだことはない。

 

「でもっ...」

 

(誰か...いる?

...女の人?)

 

好奇心は抑えられず、私は7階のアトリエへと忍び足で階段を上った。

 

上へ行くにつれ嗚咽の声が大きくなってきた。

 

「...頼むから」

 

「さんざん抱いたから、もうあなたのモデルにはなれないんだわ!」

 

モデル...?

 

抱く...!?

 

ユンさんと口論しているのは、モデルさんのようだ。

 

アトリエの階にもエレベータは停まるから、事務所を通らずに来たのかな。

 

「ユンったら、構ってくれないんだもの。

私なんて...私なんて」

 

階段を登り切った時と、「死んだ方がいいんだわ!」と叫び声は同時だった。

 

(死ぬ!?)

 

ユンさんの正面に、女の人がうずくまっていた。

 

ウェーブがかった長い髪が、顔を半ば隠し、彼女は白い肩を震わせていた。

 

細いキャミソールの肩紐が二の腕までズレ落ち、下はレースの下着だけと、薄着だった。

 

綺麗な人だった。

 

ショッキングな場で、よくもこう細かいところまで瞬時に観察できたものだ。

 

だって、息が詰まってしまった私はしばらく硬直していて、彼女から目を反らせなかったからだ。

 

「!!!!!」

 

リリリリリリアさんっ!!!!!!

 

リアさんの視線が階段口にいる私で止まった。

 

大きな目が...ノーメイクなのに美しい...リアさんには西欧の血が混じっているんだった...大きく見開いて、私を凝視した。

 

リアさんの様子にユンさんも、後ろを振り向いた。

 

私は修羅場に居合わせる才能に長けているようだ。

 

真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、チャンミンさんだった。

 

(どうしよう!

チャンミンさん!

どうしましょう!)

 

ユンさんの険しかった表情が、ふっと緩んだ。

 

「民くん」

 

近づいてきたユンさんは私の肩を抱くと、階下へ戻るようと優しく背中を押した。

 

「悪かったね。

今日はもう帰りなさい」

 

「あのっ...」

 

「用事を思い出してね。

民くんに手伝ってもらうことはないから」

 

「は、はい...」

 

有無を言わさず、私は階下へと追い出されてしまった。

 

あの場に居たとしても、私は邪魔者なのだから当然のことだけど。

 

心臓がバクバクと音を立てている。

 

機械的に戸締りと身支度をした私は、ユンさんの事務所を出たのだった。

 

チャンミンさん!

 

どうしましょう!!

 

 

(つづく)

 

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(17)NO?-第2章-

 

~チャンミン~

 

モヤモヤと渦巻く不快感で眠れなかった。

 

理由はもちろん、自分がしでかしてしまった一件だ。

 

部屋に戻った僕は、飲みたくもないコーヒーを淹れ、飲みたくもないビールを開け、そわそわと落ち着かなかった。

 

荒れた感情を落ち着かせたかった。

 

...僕は最低だ。

 

好きで好きで好きでたまらない子と、念願叶って彼氏と彼女の関係になれた。

 

それなのに...。

 

布団に入り携帯電話のディスプレイをじっと睨みつけた。

 

民ちゃんからのメッセージはない。

 

僕こそ、例えば「さっきはごめん」の謝罪のメッセージひとつ送っていなかった。

 

泣いて帰っていった、民ちゃんを追いかけなかった。

 

もしかしたら民ちゃんは待っていたかもしれないのに。

 

今夜の民ちゃん発言が相当堪えていた僕は、彼女に意地悪をしたかったのだ...敢えて。

 

なんと言って、民ちゃんと仲直りしよう。

 

仲直りもなにも、僕が一方的に腹をたてていた喧嘩だ。

 

リアと交際していた1年間で、僕は仲直りの方法を忘れていた。

 

 

民ちゃんが田舎を出る決心をしたのは、ユンと出会い誘われたからだという。

 

おそらく仕事についても、最初からユンの元で働く約束になっていたに違いない。

 

とろけた表情で、でも寂しそうに「片思いです」と語っていた。

 

ぺちゃぱいなのを異常に気にしていて、胸が大きくなるサプリメントはないかと僕に尋ねた。

 

「裸になる予定でもあるの?」と冗談半分で質問したら、動揺していた。

 

昨日の昼間、ユンの事務所で「ヌード」の言葉にも、民ちゃんはえらく反応していた。

 

(ん...?

ヌード!?)

 

ガバリ、と跳ね起きた。

 

民ちゃんは過去の恋愛事情を、馬鹿正直に...彼氏には内緒ごとはいけないと...ぶちまけたわけじゃなかったとしたら...。

 

「相談したいことがある」と言っていた。

 

聞く耳も持たなかった僕はその言葉を一蹴し、会話を打ち切ってしまった。

 

「ユン」ワードに強烈な嫉妬心に襲われた僕は、執拗に民ちゃんを責めた。

 

民ちゃんに好きな人が過去にいようと、今の彼女の気持ちが僕だけに向いていてくれるのなら、それだけで素晴らしいことなのに。

 

それも、僕と瓜二つの子と、運命とも言える出逢いの人を得たにも関わらず。

 

民ちゃんの場合は、せいぜい「片想い」だ。

 

一方の僕はといえば、リアと交際していて同棲までしていた。

 

片想い程度で取り乱した僕は、民ちゃんを独占したい欲を膨らませていたのだ。

 

民ちゃんはこれまでにユンのモデルを務めていたらしい。

 

「そうか...!」

 

民ちゃんの相談事とは、「ヌードモデル」についてだったんだ!

 

「このまま続けてもいいですか?」と、僕に許可をもらおうとしたんだ。

 

ユンの元で働きつづけることなのか、彼氏がいながらヌードモデルを続けることなのか、その辺は民ちゃんに尋ねてみればいい。

 

呑気に寝ていられなかった。

 

「しつこいな」と吐き捨てた時の、民ちゃんの傷ついた表情と言ったら!

 

気遣いのできる男だと実は、自負していた。

 

ところが、自己中心的で平気で相手を傷つけることができる面を持っていた。

 

僕はコートを羽織り、外へと飛び出した。

 

既に時刻は深夜過ぎだったけど、構わなかった。

 

民ちゃんはすでに眠ってしまっているだろうけど、叩き起こそう。

 

ああ、やっぱり。

 

謝罪の言葉を伝えたくて、民ちゃんの眠りを邪魔しようとしている僕。

 

恋に盲目になった僕は、あきれるほどカッコ悪い男に成り下がってしまうのだ。

 

民ちゃんの隣にいるとリラックスしている証拠に、気取っていられない。

 

民ちゃんとはまだ体の関係はない。

 

ないけれども、心同士は一体に溶け合っていると信じているのは僕だけのようだ。

 

民ちゃんの方はそうでもなさそうなのが、寂しい。

 

どこか遠慮がちで、僕に隠し事をしている。

 

せっかく民ちゃんが、そのひとつを開示してくれたのに、僕の拒絶っぷりときたら...自分でも驚いている。

 

民ちゃんには偉そうなことを言っておいて、実のところ、彼女のことは何でも知りたい。

 

不都合なことは知りたくなくて。

 

自分の中に我儘な子供が存在することに、驚いた日だった。

 

 

深夜の住宅街は暗く静かで、僕の靴音とはあはあ言う呼吸音だけが耳に響く。

 

吐く息が白い。

 

羽織ったコートが暑い。

 

走れば10分足らずで到着する。

 

民ちゃんのアパートを見上げた。

 

さて、これからどうしようか。

 

チャイムを鳴らし、ドアを叩くわけにはいかない。

 

まずは電話だ!

 

「馬鹿か、自分は?」

 

踵を返し、僕のマンションまで全速力で戻った。

 

携帯電話をひっつかみ、民ちゃんの元へ引き返した。

 

「はあはあはあはあ」

 

両ひざに手をつき、かがんで息を整えた。

 

アパートの2階を...民ちゃんの部屋のある辺りを見上げた。

 

「あ...!」

 

窓から灯りが!

 

僕は門扉を開けた。

 

 

(つづく)

 

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