【72】NO?

 

 

~チャンミン~

 

 

「...チャンミンっ」

 

リアの肩から手を放し、その場を去ろうとしたら、リアが背中にしがみついていた。

 

「...っ、放せ」

 

「いやっ。

行かないで」

 

「頼るのは、その男にするんだ。

僕は、関係ない」

 

こんな冷酷な台詞も、これまでの人生で口にしたことはなかった。

 

僕の胸で固く組んだリアの指を、1本1本ひきはがした。

 

「...もう君の顔は見たくない。

僕は出ていく。

出来るだけ早く」

 

スーツ姿から、いつものTシャツとデニムパンツ姿に着替える。

 

リアと同じ部屋にいることが、今は辛くて仕方がない。

 

玄関まで行きかけた時、民ちゃんを思い出した。

 

「あ...!」

 

そういえば、民ちゃんは帰宅していたんだった。

 

話を聞かれただろうか?

 

ヒヤリとした。

 

民ちゃんには何度も、失態を目撃されている。

 

いい加減僕のことが嫌になってしまったかもしれない。

 

誤解を解かないと。

 

挽回できるだろうか?

 

僕は大股で民ちゃんの部屋の前まで行き、ドアをノックした。

 

「民ちゃん?」

 

返事がない。

 

「民ちゃん?

...入るよ?」

 

ドアの向こうは真っ暗だった。

 

「民ちゃん?」

 

浴室を覗いてみたが民ちゃんはいなくて、再び部屋に戻った。

 

窓を開けてバルコニーを見渡したが、いなかった。

 

「...民ちゃん...」

 

僕の爪先が何かに当たった。

 

「あっ!」

 

蹴飛ばされたそれは、ごとりと倒れた。

 

ワインのボトル。

 

水玉模様の透明フィルムでラッピングされていた。

 

僕のため?

 

お酒が弱い民ちゃんだったから。

 

胸の奥で、温かいものがじんとする。

 

「民ちゃん...」

 

どこへ行った?

 

いつの間に、外出していったんだ。

 

あと1時間で日付が変わる。

 

携帯電話を素早く操作する。

 

「出ない...」

 

何してる?

 

何度かけても、民ちゃんと繋がらない。

 

飲み屋街をふらふらとうろついていて、「うちで働かないか?」って、悪い男に誘われてほいほい付いて行っていたらどうしよう。

 

飲めない酒を飲んで、ベロンベロンになっていたらどうしよう。

 

男っぽい見かけだから、そっち方面の人にナンパされていったらどうしよう。

 

だって、民ちゃんはとても綺麗な子だから。

 

探さないと。

 

ダイニングテーブルに顔を伏せたリアの後ろを、僕は無言で通り過ぎて玄関へ向かう。

 

民ちゃんのスニーカーが無くなっていた。

 

たたきには僕が貸した靴が、きちっと揃えられていた。

 

マンションを飛び出したのはいいが、どこへ向かえばいいのか分からない。

 

民ちゃんの行きそうなところは...どこだ?

 

民ちゃんの交友関係をおさらいする。

 

兄T、Kさん、それからユン...たった、これだけか。

 

もう一度、電話をかける。

 

駄目だった。

 

「あ...」

 

今さら思い立ったのが、『例の男』。

 

会いに行ったのか?

 

それは困る、と思った。

 

強い嫉妬心が、僕を襲う。

 

リアのことなんて、頭から吹っ飛んでしまっていた。

 

妊娠していたのが、民ちゃんだった方がうんとマシだった。

 

相手が誰であれ、民ちゃんだったら僕がいくらでも面倒をみたのに。

 

 

(つづく)

 

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【71】NO?

 

~胸が苦しい~

 

 

 

角を曲がって繁華街を突き進む。

 

動揺していた。

 

(どうして苦しいの?

何にショックを受けているの?)

 

じわっと浮かんだ涙を、握りしめたこぶしで拭った。

 

(チャンミンさんの嘘つき)

 

民の脇を通り過ぎる酔っ払いたちが皆、幸せそうに見えて民は羨ましかった。

 

誰かに慰めてもらいたかった。

 

ここでの民の知り合いといえば、美容師のKとA、そしてユンだけだった。

 

民はうつむき加減で、レンガ敷きの地面に視線を落としたまま早歩きでずんずんと進む。

 

すでに1時間以上、民は歩き続けている。

 

(こんなことになって、チャンミンさんの引っ越しはご破算だ。

私のお部屋に呼んで、ご飯をふるまったり、花火をしたりも出来ないんだ)

 

チャンミンが赤ちゃんを抱く図が、民の頭に浮かぶ。

 

(おめでたいことなのに、私は全然喜べない。

私ってば、チャンミンさんと何をしたかったんだろう?)

 

「あ...」

 

顔をあげて最初に目に飛び込んできた看板に、民はチャンミンの部屋を飛び出した本来の目的を思い出す。

 

(ホテルにお泊りするんだった!)

 

気分がよくてワインを買った奮発ついでに、初・ビジネスホテルお泊りを思い付いた民だった。

 

「うーん...」

 

腕を組んでエントランス脇の料金表を見、財布の中身を思い浮かべる。

 

(...電話?)

 

背中から感じるブーブーとかすかな振動。

 

民はリュックサックを下ろして外ポケットから携帯電話を取り出そうとした。

 

 

 

「ひぃっ!」

 

ものすごい力でリュックサックが引っ張られ、肩ひもを持っていた民が一気に引きずられる。

 

握りしめた手の先には、原動機付バイク。

 

2人乗りをした後ろの若い男が、民のリュックサックをつかんでいる。

 

(この状況って...まさしく!)

 

手を離した方がいいことは分かっている。

 

「やっ!」

 

辺りはうす暗く、通行人もいない。

 

パニック過ぎて悲鳴も上げられない。

 

民を振り切ろうと、2人組はバイクを反転させた。

 

勢いよく後ろから引っ張られて、民の手からリュックサックがもぎとらる。

 

「ひっ!」

 

斜めに傾いだ民の身体は、支えを失って後方へと落下していき、

 

ごつんと鈍い音。

 

一瞬で民の目の前が真っ暗になった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

「...とにかく、病院で診てもらおう」

 

僕はリアの両肩に手を置いて、彼女の顔を覗き込んだ。

 

リアはぱっちりと大きな目で、僕を睨みつけていた。

 

「...どうするつもり?」

 

「えっ...?」

 

リアは僕がどう責任をとるか?、を尋ねているんだ。

 

僕はリアと別れたくて仕方がなかった。

 

彼女に対する恋愛感情は、もうない。

 

ところが、リアは妊娠しているという。

 

リアとその子を養っていく責任が生じた。

 

別れられない。

 

民ちゃんとのこれからを夢見ていたのは、つかの間のことだったんだ。

 

 

 

 

待て。

 

落ち着け。

 

冷静になるんだ。

 

思い出せ。

 

酔った勢いでうんぬんと、「僕の子」かもしれない可能性有りだと、ヒヤリとしてしまったけど、酔って帰宅したことなんてなかったじゃないか。

 

身に覚えが、ない!

 

僕はリアから離れて、ダイニングの椅子に腰かけ、髪をかきむしった。

 

そんな僕の動きを、無言のリアの目が追っている。

 

...ということは、やっぱり...。

 

すっと体温が下がったのが、分かる。

 

「もう結果は出ているのよ」

 

そう言ってリアは、傍らに置いた小箱をちらりと見た。

 

「...違う」

 

僕はごくりと唾をのみ込んだ。

 

リアの目をまっすぐに射るように、僕は見つめる。

 

「相手は...誰だ?」

 

「っ!」

 

「いつからだ?」

 

これまで聞いたことがないくらい、自分の声が低くて、かすれていた。

 

リアはパッと僕から顔を背けてしまう。

 

「...なんとか言えったら!」

 

リアの肩を揺すった。

 

目の前の女性が、これまで以上に色褪せて見えた。

 

僕が一手に家事を引き受けリアの帰りを待っていた間、彼女は他の男と会っていた。

 

帰りが遅いのは夜の仕事のせいばかりじゃなかったんだ。

 

何日も帰宅しなかったのもきっと、その男と一緒にいたんだ。

 

ショックだった。

 

気づかないでいた自分が馬鹿みたいで、情けなかった。

 

リアへの愛情がなくなってしまったとはいえ、裏切られていた事実がぐさりと僕の胸に刺さる。

 

焼けつくように痛かった。

 

 

(つづく)

 

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【70】NO?

 

 

「ただいま、です」

 

声をかけながら、玄関から突き当りにあるリビングへ進むと、民は異様な雰囲気に気付いた。

 

帰宅した民に、そろって注目するチャンミンとリアの表情が固い。

 

ソファに横座りしたリアの正面に、チャンミンは立っている。

 

深刻な会話の途中だったようだ。

 

リビングの入り口に立ち尽くす民に、チャンミンはちらと見ただけですぐにリアの方を向いてしまった。

 

(バッド・タイミングのようですね...)

 

民がこの場を去るのを待っている二人の様子に、民は肩から下ろしかけたリュックサックを前に抱え、小走りでリビングを抜けた。

 

6畳間のドアを閉めた民は、畳んだ布団を抱きしめるように突っ伏した。

 

(喧嘩...ですか?

別れる別れないが、まだ解決していないのかな。

部外者の私が居たら、話がしづらいよね)

 

チャンミンとバラエティ番組を見ながらグラスを傾けるつもりだった、ワクワクとした気持ちも萎んでしまった。

 

(ここではやっぱり私は邪魔ものだ)

 

民のお腹が、ぐぅっと音をたてる。

 

「...お腹空いた...」

 

このまま寝てしまおうと布団を敷きかけたが、時刻はまだ20時。

 

(お風呂にも入りたいし...。

そうだ!)

 

民はむくっと顔を上げ、手繰り寄せたリュックサックから財布を出して、中身を確認する。

 

それから、貴重品入れにしていた靴箱の中から、通帳を取り出して残高も確認する。

 

「よし」と頷くと、下着とシャツを詰めたリュックサックを背負った。

 

「僕に責任があるのなら...。

頼むから何とか言ってくれよ!」

 

(!!!)

 

ドアを開けた途端、チャンミンの荒立てた声が耳に飛び込んできて、民の肩がびくっと震えた。

 

「チャンミンの言い方だと、まるで私が浮気してたみたいじゃないの?」

 

民は背中を丸め、足音をたてないよう、先ほどのように小走りでリビングを抜ける。

 

チャンミンもリアも、民に気付かない。

 

民は靴を履きかけたが、チャンミンに借りた靴だったことに気付いて、自身のスニーカーに履き替える。

 

「別れたくて仕方がないあなたには、とーっても困る話でしょうからね」

 

「困るとか、困らないとかの話じゃないよ。

僕たちはだいぶ前から...」

 

「だいぶ前から、って?

自分じゃないって、言いたいんでしょ?」

 

「......」

 

「そう言い切れる?」

 

「一人でなんとかする、だなんて...。

一人で産むつもりなのか?」

 

(え?)

 

靴ひもを結びかけた民の手が止まった。

 

(産む?)

 

「今の時点では、そうなのかは分からない。

病院で検査してもらわないと、はっきりしないんだし...」

 

「僕も一緒に行くよ。

明日は?

明日、一緒に行こう」

 

「一人で行けるわよ。

ふふっ。

チャンミンが一番気になるのは、自分の子かどうかでしょ?」

 

(自分の子!?)

 

指が震えて靴紐が結べない。

 

早くここから離れたくて焦った民は、無理やりスニーカーに足をねじこむと、かかとをつっかけたまま部屋を出る。

 

民は玄関ドアをそっと閉め、エレベーターに乗るのを止めて一気に階段を駆け下りた。

 

(産む?

病院?

子供!?)

 

民の足は行き先も決めないまま、繁華街へ向けて駆けていた。

 

(やだ...。

胸が苦しい...)

 

喉の奥が焼けそうに痛くなって、民は足をゆるめた。

 

(子供って...チャンミンさんと...リアさんの?)

 

玉のように浮かんだ汗を手の甲で拭う。

 

(リアさんがチャンミンさんと別れたがらなかったのは、お腹に赤ちゃんがいたからなんだ)

 

ずらりと歩道沿いに並ぶショーウィンドが、煌々と灯りを放っている。

 

秋物が並んでいるが、どれひとつとして民の視界に入っていなかった。

 

 

(つづく)

 

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【86】NO?

 

 

~チャンミン~

 

今日のユンは相変わらず、忌々しいほどスマートな装いだ。

 

「帰ろうか」

 

民ちゃんの手を引いて立ち上がらせる。

 

「でも...」

 

戸惑ったように、僕とユンの間を交互に見る民ちゃん。

 

「昨夜、民くんの『お兄さん』に連絡をもらいましてね。

こうして駆けつけたわけです」

 

「わざわざすみません」

 

僕は軽く会釈する。

 

「よろしければ、私の車で送りましょうか?」

 

「いいんですか?」

 

(民ちゃん!

嬉しそうな顔をするなって)

 

ぱっと顔を輝かせた民ちゃんの手首を、ぎゅっと握った。

 

「結構です。

タクシーを呼んでありますので(嘘だけど)」

 

「今日は予定もありませんし、私の方は構わないのですよ?」

 

ユンは民ちゃんの方をちらっと見ながら言った。

 

「お気遣いありがとうございます。

遠回りをさせてしまいますから、僕たちだけで大丈夫です」

 

「とにかく、民くんが平気そうで安心しました。

それじゃあ、来週。

仕事のことなら心配しなくていい。

しっかり休みなさい」

 

そう言い終えて民ちゃんの顎に触れるユンの手を、思い切りはたきたくなるのも抑える。

 

民ちゃんに触るなよ。

 

セクハラだろう?

 

上司にしては、距離が近すぎるだろう?

 

「そうだ!」

 

立ち去りかけたユンが、思い出したかのように立ち止まって、僕の方を振り向いた。

 

「最終号の作品ですが、先日説明していたイメージのものでいきたいと考えています」

 

「?」

 

「3本の腕のことです。

モデルが必要でしてね。

一度断られましたが、チャンミンさんにもモデルになっていただきたいのです」

 

ユンの言い方だと、他にもモデルがいるみたいだ。

 

あちこちでアンテナを張って、好みの子を探しているんだろう。

 

最初から全く気乗りがしない僕だったから、考えているふりをしていた。

 

ところが、「正式に、依頼します」とユンに頭を下げられるし、民ちゃんも「へぇ...」と目を輝かせて僕を見るしで、頷くしかなくなった。

 

「モデルと言っても、全部脱げとは言いませんから」

 

「えぇっ!」

 

民ちゃんがあげた声に驚いて、民ちゃんの方を窺うと両手で口を覆っている。

 

うっかり口を滑らしてしまった時の仕草だったから、「あれ?」と思った。

 

「ま、脱いでも構わないのでしたら、こちらとしては大歓迎です」

 

「そういうのはお断りします」

 

僕が引き受けたのは、アトリエに出入りする口実が増え、ユンをけん制できると考えたから。

 

ユンに関してはなぜか、なぜだか嫌な予感がしたんだ。

 

民ちゃんを見るユンの目がまるで、恐怖におびえる小鹿を前にしたオオカミのそれのようなんだ。

 

加えて、その小鹿が自らすすんで襲われることを望んでいるような...民ちゃんの表情からそんな願望を感じとったんだ。

 

民ちゃんを傷つけるような奴から守らないと、といつだか強く思ったこと。

 

今がその時なんだと、危なっかしい空気を察した。

 

 

身体がまだ辛いのか、帰りのタクシーの中で民ちゃんは終始無言だった。

 

僕に背を向けた姿勢で、ぼんやりと車窓からの景色を眺めていた。

 

気になってちらちらと様子を窺っていたが、10分もしないうちにまぶたを落としていた。

 

膝の上でくたりと置かれた彼女の手を、僕の膝に引き寄せてゆるく握った。

 

民ちゃんが今、着ているストライプ柄のシャツ。

 

照れくさくて「僕の服」と言って手渡したけど、実は民ちゃんのために内緒で購入していたものだった。

 

民ちゃんのことだから、合わせが女ものになっていることに気付いていないと思う。

 

余程深く眠っているのか、民ちゃんの手はぴくりとも動かない。

 

よかった。

 

民ちゃんが無事で、本当によかった。

 

 

帰宅後、「もう寝ます」と民ちゃんは6畳間に引っ込んでしまった。

 

手持ち無沙汰になった僕は、キッチンに立って夕飯の仕込みをすることにした。

 

民ちゃんがいなくなった夜、買い込んできたまま、ぞんざいに冷凍庫に放り込んだ肉を解凍し、野菜の皮をむき、刻んで、炒めて煮込んだ。

 

心が落ち着いていく。

 

リアの帰りを待ち続けた幾夜も、こうして手を動かすことで荒れそうな心を鎮めてきた。

 

鍋の中身をかきまわしながら、賃貸情報サイトを巡った(気になるものは問い合わせた)。

 

6畳間をそっと覗くと、白い布団の上から民ちゃんの髪がのぞいていて、熟睡している姿に頬がほころんだ。

 

よかった。

 

民ちゃんが僕の家にいる。

 

 

(つづく)

 

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【85】NO?

 

 

「大変だったね」

 

ユンはベッドに腰掛ける民の前でしゃがむと、見上げて優しい笑顔を見せた。

 

身支度をした民の姿に、

 

「あれ...?

退院?」

 

と尋ねた。

 

「はい。

頭を切った程度で済みました」

 

(やっぱりドキドキする。

私は、ユンさんのことが好きだったんだ...)

 

民の心を容易に揺さぶる人物が、予想もしていなかったタイミングで登場した。

 

自分の落ち度から病院へ担ぎ込まれてしまった自分が、恥ずかしくてたまらなかった。

 

「お兄さんから連絡をもらってね。

すぐにでも顔を見に行きたかったんだが...

夜遅くはご迷惑だろうから、今日になってしまって悪かったね」

 

「そんなこと...ないです。

間抜けですみません...」

 

ユンは首まで真っ赤にした民の頬を、指の背で撫ぜた。

 

身震いした民に、ユンは内心「ちょろいな」と思った。

 

 

(俺の言うこと成すこと全てに、敏感に反応する。

 

この子相手には、駆け引きなんて必要ない。

 

だから、この子を落とすことなんて簡単なことだ。

 

素肌にキモノだけを羽織って俺の前に出た民の、かき合わせた衿を握ったこぶしを目にした時、自分のことがまるで、震える小鹿を前にしたどう猛なオオカミのようだった。

 

一気に手折ってしまいたくなるが、一瞬ためらってしまうのは、本気を出したら、この子を滅茶苦茶に傷つけてしまうことが必至だからだ。

 

それは可哀想だと思うことが、今までの俺では考えられないこと。

 

泣かせるのではなく、楽しそうにしている表情を見たい。

 

嵐のように奪って、むさぼって、最後に泣き顔といった、お決まりの展開にはしたくない。

 

こんな心境は初めてだ)

 

 

ちらちらとユンの表情を窺う民に、いたわりの笑顔を見せながら、ユンはそのようなことを考えていた。

 

(ユンさんは...やっぱり素敵な人だ...)

 

ユンを見下ろす格好になって、民はさりげなくユンの髪の生え際や、広い肩幅や、仕立てのよいシャツ...。

 

(あれ...?)

 

ユンからいつもの香水の香りがしないことに気付いた。

 

(そっか...ここは病院だから...ユンさんはさすがだな)

 

「無断で休んですみませんでした。

明日には仕事できますから」

 

民の手を軽く叩いて、ユンは立ち上がった。

 

「謝らなくていい。

今週は休みなさい。

昨日は民くんが顔を出さなくて、心配だった」

 

(モデルを引き受けたことを今になって後悔して、辞めたくなったのではと予想していたんだけどな)

 

「すみません...」

 

「謝るな、と言っただろ?」

 

「はい、すみません...あ、また謝っちゃいました」

 

「君の『お兄さん』...チャンミンさんも随分心配していたよ」

 

「え!?」

 

「俺のところに電話があってね」

 

「そうでしたか...」

 

(チャンミンさんがお兄ちゃんだなんて、言った覚えはないんだけどな。

間違えてもおかしくはないんだけど...)

 

「これから、どうやって帰るの?」

 

「お迎えに来てもらっています」

 

「ご家族に?」

 

ユンに問われて一瞬、民は迷う。

 

「チャンミンさんが(家族じゃないんだけどな)...」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

会計窓口が混雑していたせいで時間がかかってしまい、民ちゃんの病室に早歩きで向かう。

 

カーテンの向こうから男の声がして、誰だろうと思った。

 

「民ちゃ...」

 

民ちゃんの隣にユンがいた。

 

一気に不愉快になったが、先日のように大人げない振る舞いは控えようと、ムッとした表情になりそうなのをグッと堪えた。

 

 

(つづく)

 

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