【47】NO?

 

~キスの意味~

 

~ユン~

 

 

サイドテーブルに置いた携帯電話が通知ランプを点滅させていた。

 

ブラインドの隙間から、夜明け前の白んだ光がぼうっと差し込んでいる。

 

いつもだったら無視するところだが、眠気が一向にやってこない今夜に限っては、携帯電話に手を伸ばした。

 

時刻は4時。

 

作品制作を始めるには早いが、寝付けそうにないから起きてしまうことにした。

 

俺の隣で寝息をたてている女を起こさないようにベッドを抜け出し、携帯電話の通知内容を確認する。

 

民からメールが届いていた。

 

義姉の出産に伴う手伝いがあるから仕事を休ませてほしい、という内容だった。

 

「残念」

 

昨夜、民を食事に誘い、帰りの車中で唇を奪ってしまった。

 

カチカチに緊張した民の幼さっぽさには、今思い出しても笑みがこぼれる。

 

成熟しきっていない華奢な男の身体をワンピースで包んで、ユニセックスな妖しい雰囲気にやられてしまった。

 

からかう気持ちで民に口づけた時、触れた唇からびりっとした刺激が走った。

 

次のミューズは、この子だ。

 

すぐにでも、民をモデルにした作品作りに取り掛かりたかったから非常に残念だ。

 

ベッドに残した、横顔を長い髪で隠した女を振り返った。

 

彼女もいいモデルだった。

 

顔のパーツが正しい形で正しい場所に配置された彼女は、典型的な『美人』だ。

 

作品の人体部分の無名性を保つことに成功し、周囲を彩る草花を主役に表現することができた。

 

どんなポーズをとらせても安定感のある顔かたちのため、お手本のような人体像に仕上った。

 

その反動でか、危うさを漂わせた民に目がいった。

 

次の作品は人体部分を主役にしたい。

 

男と女の間をさまよう揺らぎのようなものを、写し取ることができたら最高だ。

 

「身も心も」の言葉通り、相手の全てを手中におさめていく過程と並行して、作品も完成に向かっていくのだ。

 

俺に観も心も奪われ突き放され、涙をたたえた透明な瞳を早く目にしたい。

 

久方ぶりに、闘志のようなものがみなぎってきた。

 

面白くなりそうだ。

 

シャワーを浴びて寝室に戻ってみると、女は未だ眠っていた。

 

民とのキスで欲に火がついた俺は、深夜過ぎにも関わらず彼女を呼び出した。

 

この女は、俺が欲しい時に呼び出せば、いつでも尻尾を振って駆けつけ、激しく抱かれる。

 

俺は遊び人じゃない。

 

恋人に対しては細やかな気配りを欠かさないし、彼らが欲しがる言葉もふんだんに与えてやる。

 

いい顔をしていてもらわないと困るからだ。

 

俺が恋人に求めるものはただ一つ。

 

作品制作にインスピレーションを与えてくれるか否かだ。

 

熱っぽい目で見つめられながら、俺は作品を作り上げる。

 

俺にとことんのめり込ませた挙句、彼らから引き出せるものが枯れたら、残念ながら終わりの時だ。

 

切れ味よいナイフのようにスパッと切り捨てる時もあれば、彼らに期待を持たせたまま時間をかけて引きちぎる時もある。

 

民という次のモデルを見つけてしまった俺は、目の前の女と終わりにしなければならない。

 

その予感を察したのか、俺に刻印を残すかのように激しく吸い付きやがって。

 

子供っぽい行為に走る彼女が不憫になった。

 

恐らく民は、見つけてしまっただろう。

 

一瞬の間に見せたショックを受けた表情に俺はほくそ笑んだんだ。

 

酷い話だが、泣きわめいてすがりつく姿からインスピレーションを得る時もあった。

 

ひと悶着ありそうな予感がしたが、それもいいスパイスになりそうだ。

 

さて、あとで民に電話をしてやろう。

 

男にしてはやや高い、弾んだ声で電話に出るだろう。

 

君が俺に夢中になっていることなんて、お見通しなんだよ。

 

 


 

 

~民~

 

 

産科待合室のベンチの間で行ったり来たりしていたお兄ちゃんは、私を一目見て絶句した。

 

「民...!」

 

自分の髪が真っ白だってことを忘れていた。

 

甥三人はベンチで眠っている。

 

「予定より早いね」

 

「そうなんだって。

予定通りにはいかないものだな」

 

困った顔をしていながらも、嬉しそうだ。

 

「仕事は大丈夫なのか?」

 

お義姉さんが入院している間、家のことを任されているのだ。

 

「大丈夫。

理解ある上司なの。

そんなことより、お兄ちゃんこそ、立ち会うんでしょ?

いかなくていいの?」

 

「俺にうろちょろされると気に障るらしい」

 

「駄目だよ、行ってあげなくっちゃ。

僕ちゃんたちは私が連れて帰るから」

 

「助かる。

登園グッズは玄関にあるからさ」

 

「お兄ちゃん...すごいねぇ...4人だよ?」

 

「ホントだよ。

3つ子も予定外だが、4人目も予定外だ。

稼がなくちゃなぁ...」

 

お兄ちゃんは、両腕を上げて大きく背伸びをすると立ち上がって自販機で買ったコーヒーを私に手渡してくれる。

 

柔道部員だったお兄ちゃんは私の肩までの背で、がっちりとした肩と太い首をしている。

 

「こっちでの生活は、どうだ?」

 

「ぼちぼち」

 

私とお兄ちゃんは血の繋がりはない。

 

私のお父さんと、お兄ちゃんのお母さんとが再婚した結果、私たちは兄妹になった。

 

「俺んとこに呼べなくて悪かったな。

チャンミンに可愛がってもらってるか?」

 

チャンミンさんの名前が出て、私はドキリとした。

 

「うん」

 

「腹いっぱい食べさせてもらってるか?」

 

「うん」

 

「あいつは優しい奴だからなぁ」

 

そうなの。

 

チャンミンさんは、優しいの。

 

「ねえ、お兄ちゃん。

チャンミンさんって、大学生の時どんな人だったの?」

 

こっちへ来ることになるまで、チャンミンさんについては「私と非常に似ている」ことくらいしか聞いていなかった。

 

「モテてたな」

 

「やっぱり?」

 

「女子たちにキャーキャー言われてたけど、根が照れ屋な奴だから、居心地悪そうだったなぁ」

 

「へぇ...。

彼女は?」

 

さり気なさを装って質問した。

 

「いっぱいいた?」って。

 

「モテてたわりに、彼女はそう何人もいなかったなぁ。

俺が知っている限りでは...1、2...3人...くらいか?

彼女一筋なんだって。

今の彼女が4人目になるかな、多分。

二股かけてなければ、の話だが」

 

「ふ、二股!?」

 

「冗談だよ。

あいつはそういう奴じゃない」

 

よかったー。

 

心の中で、深い安堵のため息をついた。

 

「チャンミンと一緒に住んでる彼女はどんな子だ?

チャンミンとお前を間違えなかったか?

びっくりするほど一緒だからなぁ」

 

「初日に間違えられた、かも」

 

私のことをチャンミンさんだと間違えて、リアさんに耳を舐められた。

 

「だろう?

兄貴がもう一人増えたみたいでよかったじゃないか?

双子の兄貴だ。

チャンミンにお前を見てもらってるから、俺は安心だよ」

 

お兄ちゃんの言う通り、チャンミンさんのことをもう一人のお兄ちゃんみたいだって思っていたけれど。

 

リアさんといちゃいちゃしているのを見てモヤモヤした感情は、愛情を横取りされてヤキモチを妬いた妹みたいなものだろうって。

 

今の私は、それとは少し違ってきたのだ。

 

 

(つづく)

 

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【46】NO?

 

 

~キスの意味~

 

~ユン~

 

 

サイドテーブルに置いた携帯電話が通知ランプを点滅させていた。

 

ブラインドの隙間から、夜明け前の白んだ光がぼうっと差し込んでいる。

 

いつもだったら無視するところだが、眠気が一向にやってこない今夜に限っては、携帯電話に手を伸ばした。

 

時刻は4時。

 

作品制作を始めるには早いが、寝付けそうにないから起きてしまうことにした。

 

俺の隣で寝息をたてている女を起こさないようにベッドを抜け出し、携帯電話の通知内容を確認する。

 

民からメールが届いていた。

 

義姉の出産に伴う手伝いがあるから仕事を休ませてほしい、という内容だった。

 

「残念」

 

昨夜、民を食事に誘い、帰りの車中で唇を奪ってしまった。

 

カチカチに緊張した民の幼さっぽさには、今思い出しても笑みがこぼれる。

 

成熟しきっていない華奢な男の身体をワンピースで包んで、ユニセックスな妖しい雰囲気にやられてしまった。

 

からかう気持ちで民に口づけた時、触れた唇からびりっとした刺激が走った。

 

次のミューズは、この子だ。

 

すぐにでも、民をモデルにした作品作りに取り掛かりたかったから非常に残念だ。

 

ベッドに残した、横顔を長い髪で隠した女を振り返った。

 

彼女もいいモデルだった。

 

顔のパーツが正しい形で正しい場所に配置された彼女は、典型的な『美人』だ。

 

作品の人体部分の無名性を保つことに成功し、周囲を彩る草花を主役に表現することができた。

 

どんなポーズをとらせても安定感のある顔かたちのため、お手本のような人体像に仕上った。

 

その反動でか、危うさを漂わせた民に目がいった。

 

次の作品は人体部分を主役にしたい。

 

男と女の間をさまよう揺らぎのようなものを、写し取ることができたら最高だ。

 

「身も心も」の言葉通り、相手の全てを手中におさめていく過程と並行して、作品も完成に向かっていくのだ。

 

俺に観も心も奪われ突き放され、涙をたたえた透明な瞳を早く目にしたい。

 

久方ぶりに、闘志のようなものがみなぎってきた。

 

面白くなりそうだ。

 

シャワーを浴びて寝室に戻ってみると、女は未だ眠っていた。

 

民とのキスで欲に火がついた俺は、深夜過ぎにも関わらず彼女を呼び出した。

 

この女は、俺が欲しい時に呼び出せば、いつでも尻尾を振って駆けつけ、激しく抱かれる。

 

俺は遊び人じゃない。

 

恋人に対しては細やかな気配りを欠かさないし、彼らが欲しがる言葉もふんだんに与えてやる。

 

いい顔をしていてもらわないと困るからだ。

 

俺が恋人に求めるものはただ一つ。

 

作品制作にインスピレーションを与えてくれるか否かだ。

 

熱っぽい目で見つめられながら、俺は作品を作り上げる。

 

俺にとことんのめり込ませた挙句、彼らから引き出せるものが枯れたら、残念ながら終わりの時だ。

 

切れ味よいナイフのようにスパッと切り捨てる時もあれば、彼らに期待を持たせたまま時間をかけて引きちぎる時もある。

 

民という次のモデルを見つけてしまった俺は、目の前の女と終わりにしなければならない。

 

その予感を察したのか、俺に刻印を残すかのように激しく吸い付きやがって。

 

子供っぽい行為に走る彼女が不憫になった。

 

恐らく民は、見つけてしまっただろう。

 

一瞬の間に見せたショックを受けた表情に俺はほくそ笑んだんだ。

 

酷い話だが、泣きわめいてすがりつく姿からインスピレーションを得る時もあった。

 

ひと悶着ありそうな予感がしたが、それもいいスパイスになりそうだ。

 

さて、あとで民に電話をしてやろう。

 

男にしてはやや高い、弾んだ声で電話に出るだろう。

 

君が俺に夢中になっていることなんて、お見通しなんだよ。

 

 

 


 

 

~民~

 

産科待合室のベンチの間で行ったり来たりしていたお兄ちゃんは、私を一目見て絶句した。

 

「民...!」

 

自分の髪が真っ白だってことを忘れていた。

 

甥三人はベンチで眠っている。

 

「予定より早いね」

 

「そうなんだって。

予定通りにはいかないものだな」

 

困った顔をしていながらも、嬉しそうだ。

 

「仕事は大丈夫なのか?」

 

お義姉さんが入院している間、家のことを任されているのだ。

 

「大丈夫。

理解ある上司なの。

そんなことより、お兄ちゃんこそ、立ち会うんでしょ?

いかなくていいの?」

 

「俺にうろちょろされると気に障るらしい」

 

「駄目だよ、行ってあげなくっちゃ。

僕ちゃんたちは私が連れて帰るから」

 

「助かる。

登園グッズは玄関にあるからさ」

 

「お兄ちゃん...すごいねぇ...4人だよ?」

 

「ホントだよ。

3つ子も予定外だが、4人目も予定外だ。

稼がなくちゃなぁ...」

 

お兄ちゃんは、両腕を上げて大きく背伸びをすると立ち上がって自販機で買ったコーヒーを私に手渡してくれる。

 

柔道部員だったお兄ちゃんは私の肩までの背で、がっちりとした肩と太い首をしている。

 

「こっちでの生活は、どうだ?」

 

「ぼちぼち」

 

私とお兄ちゃんは血の繋がりはない。

 

私のお父さんと、お兄ちゃんのお母さんとが再婚した結果、私たちは兄妹になった。

 

「俺んとこに呼べなくて悪かったな。

チャンミンに可愛がってもらってるか?」

 

チャンミンさんの名前が出て、私はドキリとした。

 

「うん」

 

「腹いっぱい食べさせてもらってるか?」

 

「うん」

 

「あいつは優しい奴だからなぁ」

 

そうなの。

 

チャンミンさんは、優しいの。

 

「ねえ、お兄ちゃん。

チャンミンさんって、大学生の時どんな人だったの?」

 

こっちへ来ることになるまで、チャンミンさんについては「私と非常に似ている」ことくらいしか聞いていなかった。

 

「モテてたな」

 

「やっぱり?」

 

「女子たちにキャーキャー言われてたけど、根が照れ屋な奴だから、居心地悪そうだったなぁ」

 

「へぇ...。

彼女は?」

 

さり気なさを装って質問した。

 

「いっぱいいた?」って。

 

「モテてたわりに、彼女はそう何人もいなかったなぁ。

俺が知っている限りでは...1、2...3人...くらいか?

彼女一筋なんだって。

今の彼女が4人目になるかな、多分。

二股かけてなければ、の話だが」

 

「ふ、二股!?」

 

「冗談だよ。

あいつはそういう奴じゃない」

 

よかったー。

 

心の中で、深い安堵のため息をついた。

 

「チャンミンと一緒に住んでる彼女はどんな子だ?

チャンミンとお前を間違えなかったか?

びっくりするほど一緒だからなぁ」

 

「初日に間違えられた、かも」

 

私のことをチャンミンさんだと間違えて、リアさんに耳を舐められた。

 

「だろう?

兄貴がもう一人増えたみたいでよかったじゃないか?

双子の兄貴だ。

チャンミンにお前を見てもらってるから、俺は安心だよ」

 

お兄ちゃんの言う通り、チャンミンさんのことをもう一人のお兄ちゃんみたいだって思っていたけれど。

 

リアさんといちゃいちゃしているのを見てモヤモヤした感情は、愛情を横取りされてヤキモチを妬いた妹みたいなものだろうって。

 

今の私は、それとは少し違ってきたのだ。

 

 

(つづく)

 

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【45】NO?

 

 

~タクシー~

 

~チャンミン~

 

僕に突然手を握られて、民ちゃんは一瞬ビクッとしたけど、手を引っ込めるでもなくそのままでいてくれる。

 

民ちゃんの細い指が、僕の手の甲をさわさわとくすぐっている。

 

ぞわっとした心地よい痺れが、手から背筋へと走り、僕の下半身に火が灯る気配を感じて、焦る。

 

民ちゃんはそんなつもりはないだろうけど、手の甲への愛撫だけで感じるなんて。

 

「私のファーストキスは...」

 

「うんうん?」

 

「まだ...です」

 

「ええっ!?」

 

「嘘です」

 

「なあんだ」

 

セーラー服を着た民ちゃんが、学生服の男子とキスするイメージが浮かんだ。

 

男子の方はつま先立ちなんだ。

 

ファーストキスか...30過ぎた僕にとって遠くて、懐かしい過去だ。

 

そんなことよりも、ひっかかっていることがある。

 

今夜のデートの相手が『例の彼』じゃなく、職場の上司だと知って心底ほっとしたが。

 

「上司って...スケベ親父じゃないだろうな?」

 

「まっさか!

親父って年じゃありません」

 

「いくつ位?」

 

「40歳です」

 

「独身?」

 

「独身...と聞いてます」

 

心配になってきた。

 

民ちゃんがワンピースを着なくちゃいけないようなところ...値段のはるレストランか?...に連れて行くなんて、下心ありまくりじゃないか。

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫ですよ。

そんな人じゃありません」

 

民ちゃんはきっぱりと言い切った。

 

「チャンミンさん」

 

「ん?」

 

「男の人は...例えばですよ?

付き合っている彼女がいたとして。

もしくは好きな人がいたとして。

それでも、他の人とキスってできるものなんですか?」

 

バルコニーで僕が答えられなかった質問を、民ちゃんは再び投げかけてきた。

 

待てよ...。

 

民ちゃんに心を奪われているのに、リアと深いキスをすることができた。

 

だから、民ちゃんの質問に対する答えは「イエス」だ。

 

そう答えていいのだろうか?

 

リアともつれ合ってところを民ちゃんに目撃された時を、早戻ししてみる。

 

民ちゃんが帰宅した時は...僕とリアは...キスはしていなかった。

 

ということは、「リアと別れたがっていた僕が、リアとキスできるのはなぜだ?」と問いただしてるわけじゃなさそうだ。

 

民ちゃんは、どうしてこんな質問をするのだろう。

 

分かりやすい子だから、民ちゃんの中で何かがあったに違いない。

 

「どうしてそんなこと聞くの?」

 

すると、民ちゃんが泣き出しそうな、切なさそうな、僕が初めて見る表情を見せた。

 

僕の喉がごくりと鳴った。

 

「私にキス...できますか」

 

「!」

 

「チャンミンさんだったら、私にキスできますか?」

 

民ちゃん発言に僕はフリーズした。

 

僕の周囲から音が消えた。

 

「民ちゃん...急に、どうした?」

 

「どうもこうもしてません!」

 

民ちゃんが、消え入るような小声で言った。

 

チャンミンさんは、私が相手でも、キスできますか?」

 

 


 

 

~タクシー・ドライバー~

 

 

深夜2時30分。

 

呼び出されたマンションの前で乗り込んだのは、若い男二人。

 

似ているから、双子か?

 

片方の頭は、雪みたいに真っ白だ。

 

行き先が片道1時間弱はあるところで、距離が稼げて「今夜はついている」と気持ちが上向いた。

 

ちらちらとバックミラー越しに後ろの様子を窺った。

 

俳優みたいにきれいな二人だったから、ついつい見てしまう。

 

ぼそぼそと会話を交わしている。

 

信号待ち時、さりげなく後ろを振り返ったら、手を繋いでいて「おっ!」と驚いた。

 

やれやれだ。

 

世の中、いろんな人がいるもんだ。

 

「!!」

 

頭の白い方の顔が、黒い方の頭で隠れた。

 

キスしてるじゃあないか。

 

バックミラーから視線を前方に戻したら、赤信号に気付いて慌ててブレーキを踏んだ。

 

ぐっと前のめりになり、シートベルトが肩に食い込んだ。

 

危ない危ない。

 

「お客さん、すんません」

 

後ろの2人に謝りながら、振り返った。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

民ちゃん発言、「キスできますか?」に僕はフリーズしてしまった。

 

僕の中では、民ちゃんの質問に「できる」と即答していた。

 

民ちゃんが知りたいのは「好きな人がいながら、他の人とキスができるのか?」だ。

 

この質問の答えは「YES」でもあり「NO」だ。

 

リアとのことを棚に上げられるのは、いくつかの恋愛模様を経験した結果、すれてしまった大人の僕だからだ。

 

でも、民ちゃんはそうじゃない。

 

民ちゃんが欲しい答えは、「NO」なのだろう。

 

民ちゃんは青い。

 

民ちゃんの理想は、「好きな人とだけしかキスしない人」だ、きっと。

 

「民ちゃんとキスしたいのか?」

 

この質問の答えは「YES」だ。

 

でも、民ちゃんは僕の気持ちを知らない。

 

どうすればいい?

 

こんなことをわずか5秒の間に考えていた。

 

走行する車がまばらの深夜過ぎの道路。

 

規則的に並ぶ街灯が、規則的なリズムで民ちゃんの真剣な表情を照らしていく。

 

じぃっと僕を見つめている。

 

民ちゃん、何があったの?

 

どうして僕にそんなことを尋ねるの?

 

切なそうな目が色っぽく僕の目に映っているよ。

 

そんな目で見られたら、『お兄ちゃんのお友達』でいられなくなるよ?

 

言われなければ男の子と間違われてしまう凛々しい顔。

 

唇の形が、僕とおんなじだ。

 

僕と瓜二つの顔。

 

その顔に、僕の顔を近づける。

 

止められない。

 

目の前の民ちゃんが、鏡に映る自分に見えて、まるで鏡とキスをしようとしているみたいに錯覚した。

 

暗い車内で、民ちゃんの顔のディテールが曖昧になっていたから、余計にそう見えた。

 

民ちゃんと繋いだ片手はそのままに、もう片方の手を民ちゃんの頬に添えた。

 

彼女の頬がぶるっと震えたのを手の平で感じたら、目の前の鏡板は消滅してしまった。

 

僕と同じ顔をしているけど、君は僕じゃない。

 

君は女の子で、世間ずれした僕は君とは似ても似つかない。

 

斜めに傾けた顔を、15㎝の距離でぴたりと止めた。

 

民ちゃんは繋いだ手の力を抜いて、身動ぎせず呼吸も止めているようだ。

 

僕は民ちゃんとキスがしたい。

 

これが僕の答えだ。

 

 

(つづく)

 

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【44】NO?

 

 

~タクシー~

 

~民~

 

チャンミンさんの意図がわからなくて、繋がれた手とチャンミンさんの横顔を交互に見た。

 

「民ちゃん」

 

「はい...」

 

「ここでの生活は慣れた?」

 

「は、はい。

未だに反対方向の電車に乗っちゃうこともありますけど...なんとかやってます」

 

「そっか...。

仕事は楽しい?」

 

「楽しいと感じられるまでには至ってません。

おっちょこちょいですし、要領が悪くて...でも、上司の方が寛大な方なんです。

本当にありがたいことです」

 

チャンミンさんは私の手を握ったままだ。

 

手と手を合わせて、手のサイズを比べた日のことを思い出す。

 

顔も背格好も同じな私たちだけれど、チャンミンさんの方が一回り大きな手をしていて嬉しかった。

 

チャンミンさんの手に包まれた指を動かして、チャンミンさんの手の甲や指の節の骨を、指先でなぞる。

 

チャンミンさんは何も言わない。

 

「上司の人はいい人なんだ?」

 

「はい。

今夜は夕ご飯を御馳走してくれたんですよ...。

あっ!!」

 

しまった!!

 

「えっ!

そうだったの?」

 

繋いだ手に力がこもり、チャンミンさんが私を覗き込む。

 

「えーっと...その...歓迎会みたいなものです...」

 

職場は私とユンさんの2人だけですけどね、と心の中で補足した。

 

「だから、ワンピースを着て行ったんだ?」

 

「そうです。

似合いもしないのに、着て行っちゃったんです...。

気合を入れ過ぎました」

 

両耳が熱い。

 

手の平も汗でびしょびしょだろうから、恥ずかしくて繋いだ手を引っ込めようとしたけれど、チャンミンさんは離してくれない。

 

「似合ってたよ、すごく」

 

「ホントですか!」

 

嬉しくてぱっと顔を上げたけど、ワンピース姿を見られた時の状況を思い出してしまった。

 

チャンミンさんはリアさんと、アレをしようとしていた(アレの後かな?前かな?最中かな?)

 

「...あの状況で、よく見えましたね」

 

ぼそっと言った私の声が、嫌味に満ちていてイヤになる。

 

「ちゃんと見えてたよ...あんな状況だったけれど...。

ねえ、民ちゃん...」

 

チャンミンさんの声のトーンが低くなった。

 

「ひとつだけ言い訳させてくれないかな?」

 

そうなの。

 

チャンミンさんの言い訳が聞きたかったの。

 

チャンミンさんは、私に対して悪いことなんか全然していないのに、恋人と抱き合うのは当然のことなのに、このことについて言い訳して欲しかったの。

 

新たに誕生した妹に、お兄ちゃんが横取りされたみたいな気持ちなのかな。

 

私って、なんて子供っぽいのだろう。

 

「僕はこの6か月...7か月はいってるかな、リアとアレはしていないよ」

 

「へ?」

 

「僕とリアがまるでアレしてる風に見えたかもしれないけれど、違うんだ。

どうしてあんな風だったのかは...いろいろあってね。

信じられないと思うけど、とりあえず...『違う』ってことを言いたかったんだ」

 

「......」

 

信じるか信じないかは脇に置いておくとして、チャンミンさんの弁解がきけて私が嬉しかった。

 

リアさんといちゃいちゃしてて悪かったな、って私に対して思って欲しかった。

 

なんでだろうね。

 

「そうですか...分かりました」

 

嬉しいくせに、ちょっと不貞腐れた言い方をしてしまう。

 

「...さっきの話の続きだけど。

ほら、バルコニーで」

 

「?」

 

「ファーストキスの話。

民ちゃんの言いかけてただろ、途中まで?」

 

「ああ!

そのことですか」

 

あの時は、「ファーストキスは3時間前ですー」って言うつもりだった。

 

チャンミンさんがリアさんといちゃいちゃしていたのを見て、腹立たしかった私は、対抗したくて惚気てやろうって思っていた。

 

でも。

 

チャンミンさんと手を繋いでいる今は、そんなこと言ったらいけないって気持ちになった。

 

チャンミンさんと手を繋ぎながら、他の人のこと...ユンさんのことを想っていたらいけないって。

 

なんでだろうね。

 

でも...男の人は、それができるのかな。

 

恋人がいるのに、誰か他の人と手を繋いだり、ぎゅっとしたり、キスしたりできるのかな。

 

そんなことをできっこない私は、お子様なのかな。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕の手指の神経を研ぎ澄まして、民ちゃんの薄い手の感触を味わった。

 

民ちゃんと手を繋ぐのは、これで3度目。

 

1度目は、ビアガーデンに行った時のことだ。

 

2度目は、ラブホテルに連れて行かれた時。

 

これらの時と今では、民ちゃんへ抱く感情が大きく異なっている。

 

つい3時間前にリアの背を抱いていた手で、民ちゃんの手を握っている。

 

もちろん罪悪感はある。

 

だけど、「恋人がいるから」「好きな人がいるから」といった常駐している抑制が、ある時湧き上がった欲求によって外れることがある。

 

例えば今のように。

 

僕の隣でぶつぶつ言いながら携帯電話を操作していた民ちゃんの横顔に見惚れた。

 

肩を抱き寄せたり、キスしたりは出来ない。

 

だから代わりに、民ちゃんの白くてほっそりとした手をとった。

 

それは衝動的に近くて、先ほどまでリアを抱こうとしていた手であることなんか、すっかり忘れていた。

 

それはそれ、これはこれ。

 

こういった割り切り方ができるようになったのは、いくつかの恋愛を経験してきた大人だからなのだろうか。

 

恐らく、民ちゃんには理解できない部分だと思う。

 

それにしても、リアの要求をのんで、リアと別れるためにコトを成そうとしたことは、許されるものじゃない。

 

民ちゃんにかくかくしかじか全部説明して、分かってもらおうなんて馬鹿げたことはしない。

 

話してどうなる?

 

僕の恥をさらすだけだし、何よりもリアの名誉を傷つけてしまうことは、いくら別れた相手だとしても、絶対に許されることじゃない。

 

民ちゃんがどう思っているか分からないけれど、僕は少しだけでもいいから民ちゃんに触れたくて仕方がなかったんだ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【43】NO?

 

~やきもち~

 

~チャンミン~

 

 

リビングの窓を開けてバルコニーに出た。

 

昼間の熱気を冷ましてくれた雨が止み、湿度に満ちているけど涼しい夜気に包まれた。

 

足が濡れるのも構わず裸足でぺたぺた歩いて、手すりに両腕を乗せる。

 

「?」

 

人の気配がする方を見ると、手すりにもたれてブツブツ何かをつぶやいている民ちゃんが居た。

 

6畳間のドアをノックする勇気がなかっただけに、バルコニーでの遭遇は嬉しかった。

 

僕とそっくりのシルエットだけれども、僕よりも線が細い。

 

暗闇に、民ちゃんの白い髪が浮かび上がっている。

 

裸足で足音がしなかったせいもあって、民ちゃんは僕の存在に全然気づいていないようだ。

 

ぶつぶつ言っていたかと思うと、おでこをごんごんと手すりに打ち付け始めた。

 

民ちゃんったら、何してるんだよ。

 

民ちゃんの頭に触れた。

 

形のよい後頭部とやわらかい髪を手の平で感じた。

 

突然の僕の登場に民ちゃんはビクリと驚いた後、僕の手を払いのけた。

 

そして、ぷいと顔を背けてしまった。

 

僕を拒絶する民ちゃんは、初めてだった。

 

「怒ってる?」

 

民ちゃんがなぜ怒っているのか見当がつかない。

 

「目に毒ですから、そういうことは寝室でやってください」とか、「心配して損しました」とか、か?

 

「怒ってませんよ」

 

民ちゃんがぶすっとした顔をしているのは、暗くたって想像がつく。

 

膨れている理由がヤキモチだったらいいなぁ、って小さく期待した。

 

「チャンミンさん」

 

「ん?」

 

リアと抱き合っていたことを咎められるのかと身構えて、何て答えようか頭をフル回転させた。

 

「男の人って、好きじゃない人ともキスってできるんですか?」

 

「えっ!?」

 

リアとキスをしているところを目撃されたのだと、ヒヤッとした。

 

「どうしてそんな質問をするの?」

 

動揺を悟られないよう、聞き返す。

 

「できる」と答えたら、僕という男は誰とでも気軽にするタイプだと誤解される。

 

「できない」と答えたら、リアとしていたキスは「ホンモノ」だと誤解される。

 

だから、民ちゃんの質問に答えられない。

 

「うーん...男の人の意見が聞きたかっただけです」

 

そよ風が民ちゃんの前髪をかすかに揺らした。

 

「チャンミンさんのファーストキスって、いつでしたか?」

 

僕は目をつむって過去の記憶をたどる。

 

「高校生...頃かな?

民ちゃんは?」

 

「えー、聞きますかー?」

 

両頬に手を当てた民ちゃんが、くねくねし出した。

 

「うふふふ、あのですね...」

 

民ちゃんの言葉の続きが、携帯電話の着信音に遮られた。

 

ハーフパンツのポケットを探ったが、僕の携帯電話はリビングにあるんだった。

 

民ちゃんの方もお尻の辺りを探っている。

 

タイツみたいにぴたっとしたレギンスパンツにポケットなんてないはず...と思っていたら、背中から携帯電話を取り出して「もしもし」と応答している。

 

どうやらレギンスパンツのウエストゴムに携帯電話を挟んでいたみたいだ。

 

民ちゃんらしくてクスッとしていたら、

 

「えええっー!!」

 

民ちゃんの大声と、その後のやり取りが緊迫していて、民ちゃんの通話が終わるのをじりじりと待った。

 

「私は今から、出かけないといけません!!」

 

民ちゃんはそう宣言すると、大慌てで6畳間へ走っていく。

 

「民ちゃん!」

 

僕も民ちゃんを追いかける。

 

「!!!」

 

余程慌てているのか、民ちゃんは僕に構わずテキパキと着替え出した。

 

回れ右すればいいのに、僕はついつい観察してしまう。

 

「どうしたの?

ご家族に何かあった、とか?」

 

「そんなところです」

 

Tシャツとデニムパンツ姿になった民ちゃんは、リュックサックを背負った。

 

「もうすぐ産まれそうなんですって。

お兄ちゃんのお嫁さんです」

 

「え!」

 

「お義姉さんが入院中は、私が留守番を仰せつかってるんです。

ちっちゃい子が3人いるから、お兄ちゃんだけじゃ心配です。

今から病院に行ってきます」

 

「民ちゃん!

病院までどうやって行くの?」

 

時刻は午前2時だ。

 

「タクシーです」

 

こんな時、車を持っていたら民ちゃんを送ってあげられるのに。

 

「しばらく朝ご飯を用意してあげられませんが、ちゃんとご飯を食べてからお仕事に行ってくださいね」

 

「じゃ」っと勇ましく片手を挙げた民ちゃんは、出かけようとした。

 

「待った!」

 

僕は民ちゃんの手首をつかんだ。

 

「僕も行く。

一緒に行くから」

 

「えー。

チャンミンさんが来ても、何の役にもたちませんよ。

病院でウロウロされても、迷惑ですよ?」

 

「違うって、民ちゃんを送っていくの。

一人で行かせたら心配だから」

 

「私は子供じゃありませんよ?」

 

「行く!

僕は行くと決めたから!

着がえるから3分待って!」

 

 


 

 

~民~

 

 

病院までのタクシーの中、猛烈な睡魔に襲われた私はうとうとしかけていた。

 

ジェットコースターみたいに感情が急上昇と急降下を繰り返して、ヘトヘトだった。

 

これから数日間は、お兄ちゃんちの家事手伝いで大わらわになって、思い煩う暇もないだろうから助かった。

 

隣のチャンミンさんは、タクシーに乗り込んでからずっと無言で、反対側のサイドウィンドウの外を見ている。

 

深夜過ぎに一人で行かせるのは心配だから送っていくって、私を子供扱いするチャンミンさん。

 

タクシーを使うから、外を歩くこともないのに。

 

でも、ちゃんと私のことを思ってくれてることが分かって、私は嬉しかった。

 

お兄ちゃんみたいに頼れる人。

 

自分自身の後ろ姿は、肉眼では見ることができないものだ。

 

チャンミンさんの短く刈り込んだ襟足とか、にょきっと突き出た耳とかを、へぇ、後ろ姿はこんな感じなんだ...って観察できる。

 

私とチャンミンさんが瓜二つなおかげで、できることだね。

 

ユンさんとのキスが遠い出来事になってきた。

 

それくらい、チャンミンさんとリアさんのことが衝撃だった。

 

バルコニーでのこと。

 

チャンミンさんに質問したのに、私の欲しい回答は得られなかったし、チャンミンさんの言い訳も聞けなかった。

 

病院まではあと30分以上はかかるから、時間は十分。

 

チャンミンさんに、もう一回質問してみよう。

 

「あ...!

忘れるところだった...」

 

ユンさんに連絡を入れなくては。

 

義姉の出産の件で数日間お休みをもらうことは、面接の時に伝えてあったから、許可はもらえれるはずだ。

 

時刻はもうすぐ午前3時で、ユンさんは寝ている時間だろうからメールを送ることにした。

 

『夜遅いですので、メールにて失礼します...』とメールを打った。

 

ユンさんが恋人の背中を抱いて眠っている光景が、ぼわーんと頭に浮かんだのを首を振って消去した。

 

長文にならないように簡潔に文章を考え考え、送信ボタンを押した私はふうっと息を吐いてシートに深くもたれた。

 

「民ちゃん?」

 

窓の景色を眺めていたチャンミンさんが、いつの間にか私の様子を窺っていた。

 

「上司に連絡をしました。

数日はお仕事を休まなければならないので...」

 

「そっか...」

 

「ふう」って深く息を吐いたチャンミンさんの胸が、大きく上下した。

 

視線を落とすと、チャンミンさんは落ち着きなく膝をとんとんと指で叩いている。

 

何かイライラすることでもあるのかな...って思っていたら、

 

「ひ!」

 

リュックサックを抱えていた私の手に、チャンミンさんの手が重なった。

 

ビクッと跳ねると、チャンミンさんの手に力がこもった。

 

隣のチャンミンさんは、じっと視線を前に向けたままだ。

 

「え...っと?」

 

チャンミンさんの手の中でもぞもぞと指を動かしていたら、私の指の間にチャンミンさんのが滑り込んできて、ぎゅっと握りしめられた。

 

こ...これは...『恋人繋ぎ』ではないですか!?

 

ぐんと体温が上がって、脇の下や手の平にどっと汗がにじみ出たのが分かる。

 

 

(つづく)

 

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