【37】NO?

 

~君が遠い~

 

~チャンミン~

 

 

帰宅したら、洗面所で何やらしていた民ちゃんが慌てて6畳間に駆け込んでしまった。

 

パンツ姿の民ちゃんしか知らなかったから、ワンピース姿に驚いた。

 

あっという間だったけれど、黒地に白い小花柄のロング・ワンピースで、白い髪に青い髪飾りを付けていたところまで、しっかりと目に焼き付いている。

 

妖精みたいに綺麗だったんだ。

 

6畳間のドアをノックして、民ちゃんに声をかける。

 

「民ちゃん?」

 

「チャンミンさん、おかえりなさい、です」

 

ドアは閉じたままだ。

 

「民ちゃん...あの...ワンピースのことだけど...?」

 

「似合いませんよね。

恥ずかしいです。

ごめんなさい」

 

どうして謝るんだよ。

 

「似合っていたよ、すごく」

 

「......」

 

「民ちゃんの雰囲気に、合ってた」

 

「お世辞...じゃないですよね?」

 

疑り深い言い方が、いつもの民ちゃんらしくてほっとした。

 

「本心で言ってるよ。

似合ってた」

 

「可愛い」って言えばいいのに。

 

僕と民ちゃんは、ドア越しに会話していた。

 

「ありがとうございます。

試着をしていました」

 

「せっかくだから、出ておいで。

ちゃんと見せてよ」

 

「えー、笑わないで下さいよ?

チャンミンさんに笑われたら、私、落ち込んで立ち直れなくなりますから」

 

「笑うもんか。

出ておいで」

 

「チャンミン!」

 

寝室からむくんだ顔を出したリアが、僕を呼んだ。

 

「何?」

 

僕は気付かれないようため息をついた後、リアに応えて振り向いた。

 

 


 

 

 

オフィスを覗いたユンはワンピース姿の民を一目見て、思わずピュゥっと口笛を吹く。

 

(女の恰好で来たか...)

 

ユンに気付いて振り返った民はパッと顔を輝かせたが、自分を凝視するユンに気付いて赤くなった。

 

(ユンさん...固まっている...やっぱり変だったんだ!

着がえてこようかな)

 

「あのっ...ひらひらした格好をしてきてしまってすみません...」

 

ユンに見てもらいたくて、似合いもしないワンピースを着てきた自分を恥ずかしく思う。

 

俯いた民に、ユンはクスクス笑って民の肩を叩いた。

 

「スカートを履いているのは初めてだったからね。

へぇ...いいじゃないか」

 

今日のユンは、例のごとく白いシャツとベージュのチノパン姿で、黒髪は背中に垂らしていた。

 

ユンは顎を撫ぜながら民の周りを一周した。

 

(細い腰だな。

まさか、ワンピースで来るとは。

予想を裏切ってくれて、楽しい子だ)

 

(ユンさん、きっと呆れてる。

はしゃいでお洒落してきた私に呆れてる。

昨夜、チャンミンさんに見てもらえばよかった。

おかしくはないか、ジャッジしてもらえばよかった。

「見せて」と言っていたのに、勇気を出してドアを開けたらチャンミンさんはドアの向こうにいなかった。

リアさんのいる寝室へ行ってしまった)

 

ユンの逞しくしなやかな身体から、男性的な香水の香りが漂ってきたのを、民はすうっと吸い込んだ。

 

(いい香り...)

 

ユンが肩からこぼれ落ちた髪を背中にはらった隙に、隠れていた部分が露わになって、民は見つけてしまった。

 

耳の後ろの辺りに、赤い痕。

 

(あ...れ...?)

 

民の視線はそこに、くぎ付けになる。

 

(あれは...キスマーク!?)

 

知識としては知っていた。

 

(耳の後ろの方だから、気付いていないんだ...。

キスマーク...だよね)

 

すっと体温が下がったかのようだった。

 

(嘘...。

誰が付けたの...)

 

民の胸が焼かれるように痛む。

 

(どうしよう...私、平気でいられない。

ユンさんは、こんなに素敵な人だもの。

恋人がいて当然...。

ユンさんの首にキスした人がいる。

やだ...涙が出てきそう)

 

民は上を向いて涙がこぼれないように、まばたきした。

 

充血した目を気付かれないよう、さも痒いかのように目をこする。

 

「あのっ。

仕事の後、おうちへ帰る時間もありませんので...。

エプロンを持ってきたので、粘土仕事はできますから!」

 

「はははは。

汚したら大変だ。

今日は一日、オフィスで仕事をしてくれたらいいから」

 

「ありがとうございます」

 

ペコリと頭を下げて、民は小走りでオフィス奥のデスクへ向かう。

 

民がワンピースの裾を翻した際、民の細くて白いふくらはぎが覗いた。

 

 

 

 

「美味しかったです。

あんな御馳走は、生まれて初めてです」

 

ユンの高級外車の助手席におさまった民は、膝の上のバッグをギュッと握りしめた。

 

鮮やかな青いバッグは、都会に出てくるとき義母が買ってくれたものだった。

 

(お兄ちゃんはお義母さんに似たんだ。

大らかで豪快で、声が大きくて。

私を可愛がってくれて...本当にありがたいことだ)

 

夕方から降りだした雨で、サイドウィンドウを流れ過ぎる夜の街灯りが、水滴ににじんでいた。

 

酒に弱い民はたった1杯のワインでほろ酔い状態だった。

 

顔が熱い

 

車で来ていたユンはミネラルウォーターを飲んでいた。

 

「寒くない?」

 

窓の向こうを無言で眺める民に、ユンは声をかけた。

 

「寒くも暑くもないです」

 

「ちょうどよい、ってことだね」

 

ユンは小さく吹き出した。

 

「あ...そういうことに...なりますね」

 

対向車のヘッドライトが民の顔を照らして、ちろっと舌を出す民にユンはドキリとした。

 

(そんな可愛い表情を見せたらいけないよ。

どうにかしたくなるじゃないか)

 

ユンはレストランのキャンドルの灯りに照らされた民を思い出していた。

 

 

(つづく)

 

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【36】NO?

 

~僕の胸、君の胸~

 

~民~

 

 

翌朝、キッチンに立って卵料理を作り、テーブルに3人分のお皿を並べた。

 

チャンミンさんもリアさんも起きてこない。

 

コーヒーを淹れるのはチャンミンさんの役割だけど、寝室からはことりとも音がしないから、おっかなびっくり私が淹れることにした。

 

時計を見るともうすぐ7時で、チャンミンさんの出勤時間まであと30分しかない。

 

昨夜、リアさんの介抱をしたまま寝てしまったのかな。

 

もう起きないと、遅刻しちゃうよ。

 

寝室のドアをノックしようとしたけれど、2人のプライベートな空間を覗くのに気が引けて、携帯電話を鳴らすことにした。

 

3コール目でチャンミンさんは、「寝過ごすところだった、ありがとう」ってくぐもった声で、電話に出た。

 

盛大に髪がはねている自分が、洗面所の鏡に映った。

 

いつもだったら、チャンミンさんに「髪の毛、はねてるよ」って教えてもらうのに。

 

ブリーチしてパサついたせいで、いつも以上に髪の毛がくしゃくしゃだ。

 

鏡の中の自分をじーっと観察する。

 

プラチナ色の髪のせいか、心なしか顔色が悪いような気がする。

 

チークをさせばいいのだろうけど、自分に似合うメイクが分からない。

 

女装した男の人みたいな顔になる。

 

明日の夜は、ユンさんにご飯をごちそうしてもらうんだった。

 

どうしよう...。

 

1着だけあるワンピースを着ていこう。

 

超ロング丈だから骨っぽい脚は隠れるし、足元は黒革を編んだペタンコサンダルを合わせよう。

 

髪型もメイクは、今夜KさんとAちゃんに会った時に教えてもらおう。

 

今日はお休みだから、一人暮らしをする住まいを探しに行こう。

 

今週末にチャンミンさんに、不動産めぐりと下見に付き合ってもらおうと思ったけれど、頼ってばかりいられない。

 

チャンミンさんは、リアさんのことで大変だろうから。

 

洗面所を出たら、チャンミンさんが立ったままコーヒーを飲んでいて、用意した卵料理のお皿は空っぽだった。

 

「民ちゃん、おはよう」

 

目は半分しか開いていなくて、後頭部の髪がはねていて、髭が伸びている。

 

毎朝目にする姿なのに、なんだかチャンミンさんが遠く感じた。

 

いつもみたいに「泥棒さんみたいです」とか「勃ってますよ」って、からかえない。

 

席について、コーヒーをちびちびと飲みながら、自分の感情を整理することにした。

 

その1.

 

昨夜、リアさんを介抱するチャンミンさんを見て、この2人は恋人同士なんだ、って初めてリアルに実感した。

 

行為そのものを目にしたわけじゃないけれど、交際している男女の生々しさを目撃した、っていうのかな。

 

リアさんの扱いを慣れてる感じが、いろんなことを想像してしまって。

 

私とチャンミンさんは、ものすごく似ていて、他人以上に親近感を抱き合っていると思っている。

 

けれども、一緒に暮らしている恋人には、負ける。

 

その2.

 

その1にも通じること。

 

チャンミンさんとホテルに泊まった時、私に忠告の意味を込めて、チャンミンさんは私を押し倒すフリをした。

 

チャンミンさんに耳の下のあたりをキスされて、くすぐったいのとは違う、初めての感覚に驚いた。

 

ぞわぞわっとしたけれど、嫌な感じじゃないの。

 

「ってな風に襲われるから」ってチャンミンさんはすぐに身体を起こしてしまったけれど、私はもうちょっとキスしてて欲しいなぁ、って思ってしまった。

 

チャンミンさんは、リアさんにいつもこんな風にキスするのかな?って想像してしまった。

 

昨夜、チャンミンさんがリアさんの頭を撫ぜているのを見て、その1とその2の感情が湧いてきたの。

 

「リアさんは?」

 

「まだ寝ている。

今日の民ちゃんは?」

 

「お休みなんです」

 

「そっか...。

悪いんだけど、リアは寝かせておいてくれないか?」

 

「はい」

 

悪くなんか、全然ないのに。

 

ここは、リアさんとチャンミンさんのおうちであって、私は居候。

 

洗面所で「シャワーを浴びる時間はないな、仕方がない」とチャンミンさんはぼやいている。

 

髪の毛がはねていることに気付くといいんだけれど。

 

不思議なことに、今朝の私はチャンミンさんに近寄れなかった。

 

そして、チャンミンさんはリアさんと別れられないんじゃないかな、ってちらっと思った。

 

なんでだろうね。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

昨夜のリアには参った。

 

泣いたり、僕を罵ったり、叩いたり、そして泣いたり。

 

リアに酷い酔わせ方をさせたのは、僕が原因だ。

 

「私を捨てないで」

「別れたくない」

「チャンミンがいないと生きていけない」とまで言われた。

 

プライドの高いリアがそんな台詞を口にするなんてと、ショックを受けた僕の心は、正直少しだけぐらりと揺れた。

 

でも、心を鬼にして首を横に振り続けた。

 

リアの気持ちには添えないけれど、リアの頭を抱きしめてやることが、今の僕ができる精いっぱいだ。

 

以前の僕だったら、「別れたくない」と泣いてすがりつくリアの姿に、「愛されている」と勘違いをして、情にほだされて、別れを撤回していたと思う。

 

今の僕は違う。

 

リアのどこを好きになったんだろう、とじっくりと思い起こしてみた。

 

美しい顔とスタイルに惚れた。

 

何としてでも自分のモノにしたくて、追いかけた。

 

憧れに近い恋だった。

 

現実の生活を共にしてみたら、美しい蝶が舞うのを眺めているだけにはいかなくなる。

 

世話も必要だし、羽を休める休眠所を整えてやらなければならない。

 

その蝶は、極めて気紛れなタイミングで僕を誘ったり、放置したり、野暮ったい僕を哂ったりした。

 

リアの隣を歩くには、それなりのレベルでいることが必要で、リアの指示通りに身なりを整えた。

 

そんな過去の遺産みたいなものを、僕は民ちゃんに貸し与えている。

 

田舎から出てきた飾りっ気のない民ちゃんを、僕の手で整えてやった。

 

民ちゃんは土台がいいから、シャツ1枚で一気に垢抜けてくれて、そんな彼女を前に僕は気分がよかった。

 

僕が民ちゃんにしている行為は、リアが僕に教育していたことと同類じゃないか、と気付いた。

 

いや、違う。

 

民ちゃんは、そのままで十分なんだ。

 

僕はただ、民ちゃんのことを放っとけないんだ。

 

民ちゃんのありとあらゆる表情を見てみたいから、あれこれ理由をつけて彼女と関わろうとしている。

 

僕の言うこと成すことに、素直に反応する。

 

素直過ぎて怖いくらいだ。

 

民ちゃんを綺麗に磨けば磨くほど、僕の心が満たされていくんだ。

 

民ちゃんが、それも瓜二つの姿で僕の前に現れたおかげで、僕自身との差異が顕わになった。

 

民ちゃんと比べると、僕の場合はこういう顔で、性質はこうで、物事にはこう反応する、といった具合に。

 

昨夜、「大事な人です」の言葉に、心が震えた。

 

嬉しかった。

 

「僕にとっても、民ちゃんは大事な人だよ」と言いたかった。

 

でも、民ちゃんには片想いをしている『彼』がいて、彼女の恋がうまくいかなければいい、と本気で望んでしまった。

 

言葉と裏腹な心を抱えていて、「大事だよ」なんて言えないよ。

 

今朝のよそよそしい民ちゃんの態度が気になっていた。

 

 

(つづく)

 

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【35】NO?

 

~君の胸、僕の胸~

 

〜チャンミン〜

 

 

「......」

 

「その『彼』って、どんな人なの?」

 

ソファの座面に伏せて顔を隠した民ちゃんの傍らに僕は膝をつき、彼女を覗き込む。

 

「早くないか?」

 

「そんなんじゃないです!」

 

「民ちゃんの『彼』は、どんな人?」

 

「...いい人ですよ。

...それと、お付き合いしてません。

片想いです」

 

「そっか...」

 

民ちゃんが僕の部屋に暮らすようになって、まだ2週間かそこらだ。

 

夜は大抵、僕と一緒に過ごしているし、昼間は仕事のはずだ。

 

僕の知らない間に、隙間時間をぬって民ちゃんの恋は前進していたってわけか。

 

相談して欲しかったのに。

 

と言いつつも、応援できる心境じゃないんだけどね。

 

「ちゃんとした人か?

しつこくてゴメンな、気になっちゃって。

おかしな奴だったりしたら駄目だと思って、さ」

 

民ちゃんがむくりと顔を上げた。

 

きりりとした眉の下の、黒いまつ毛に縁どられた上瞼。

 

しっかりとした鼻筋と、高い額、薄い唇。

 

確かに僕の顔のパーツと瓜二つだ。

 

僕の目というフィルターを外したら、民ちゃんは僕そのものだ。

 

白い髪に白い肌。

 

瞳には涙を浮かべて、鼻先を赤くしている。

 

僕の目というフィルターを通した民ちゃんは、僕とは似ても似つかない。

 

民ちゃんが、僕からどんどん離れていく。

 

「実のお兄ちゃんのように、心配してくださるのは、ありがたいです」

 

鼻をすすった民ちゃんは立ち上がり、床に膝をついた僕は彼女を見上げる。

 

「でも、私はチャンミンさんの『妹』じゃありません」

 

「民ちゃん...」

 

「チャンミンさんは、私の...」

 

と、民ちゃんは言いかけると、そこで言葉を切った。

 

民ちゃんの次の言葉を、僕は固唾を飲んで待った。

 

「チャンミンさんは...」

 

僕の目をまっすぐに見ていた民ちゃんのピントがぼやけてきた。

 

民ちゃんにとって、僕の存在は?

 

「なんでしょうね。

不思議です。

一言で言い表せません」

 

民ちゃんは、ふっと肩の力を抜くと、首をかしげて困った表情を見せる。

 

ふふふと笑った民ちゃんが、突然後ろから僕の首にかじりついてきた。

 

「わっ!」

 

「大事な人ですよ、チャンミンさんは」

 

僕の耳元で、民ちゃんはそう言った。

 

むぎゅうっと僕の首に、筋肉の薄い細い腕を巻き付けて、「大事な人です」と繰り返した。

 

僕の心も、むぎゅうっと苦しくなった。

 

民ちゃんに気付かれないようにそっと、回された腕に唇をつけた。

 

「?」

 

民ちゃんは僕の首の後ろをくんくんと嗅ぎだした。

 

「チャンミンさん、おじさんの匂いがしますね」

 

「ええっ!?」

 

慌てて民ちゃんの腕を振りほどこうとしたけれど、彼女は力持ちだ。

 

「嘘です」

 

「こら!」

 

「男の人の匂いがしますー」

 

うなじに民ちゃんの唇がかすって、背筋にも腰にも甘くて心地よい痺れが走る。

 

「隠し事をしてるつもりはなかったんです。

 

90%の確率で、私の片想いで終わると予想しています。

 

『期待していいのかな』って思う時もありますよ。

 

でもそれは、大人の男の人が小娘を手の平で転がす...ような感じだから。

 

それを真に受けている私は、何ておバカさんなんだろうって」

 

僕の横顔に、民ちゃんの横顔がくっついている。

 

少しだけ首を傾けるだけで、民ちゃんの頬に唇が届くのに。

 

 

 

 

T。

 

お前の妹だから、うかつなことはできないと、初日の夜にそう思った。

 

その考えを撤回するよ。

 

「うまくいきっこない恋愛の話を、チャンミンさんにするのが恥ずかしかった。

チャンミンさんのことだから、いいアドバイスを下さると思います。

せっかくアドバイスを下さっても、私はどれ一つ実行できる自信がありません」

 

「うまくいかないかどうかなんて、わからないだろ?」

 

僕は首にまわされた民ちゃんの腕に指をかけた。

 

皮膚が薄くて、女の子の腕だと思った。

 

「私の好きな人は、どんな人かと言いますとね。

とにかくカッコいいんです。

頭がいい人です。

成功している人です。

...こんな単語の羅列の説明じゃわかりませんよね」

 

民ちゃんの体重が僕の背にのしかかる。

 

「その人の名前は、ユ...」

 

ガタガタっと玄関の方で音がした。

 

民ちゃんはハッとしたように、僕の首に巻き付けていた腕を離した。

 

リアが帰宅した。

 

 


 

 

「リア...」

 

「リアさん...」

 

泣き腫らした顔で髪は乱れ、加えてベロベロに酔っぱらっているようだった。

 

足元がおぼつかなく、身体が左右に揺れている。

 

力を抜いた民の腕から抜け出すと、チャンミンはリアの方へ近づいた。

 

「飲み過ぎじゃないのか?」

 

その場でへたり込みそうなリアの脇を支えた。

 

アルコールの匂いをぷんぷんとさせ、完ぺきに施してあったはずのメイクが、汗や皮脂で崩れ、汗ばんだ首筋におくれ毛がへばりついている。

 

酔いつぶれるまで飲んだらしいリアは、珍しい。

 

駆け寄った民は、リアが玄関に放り出したバッグを拾い、土足のまま上がってきたリアからサンダルを脱がせる。

 

剥がれかけのペディキュアに気付いて、「リアさん、荒れている...」と民は思った。

 

身体の力はとっくに抜けてへなへなしているリアに、チャンミンは「しょうがないなぁ」とつぶやいて、膝の裏に腕を差し込んで抱き上げる。

 

「放してっ!

チャンミンのバカ!

放っておいてよ!」

 

足をバタバタとさせて、チャンミンの頭やら肩を叩くリアに構わず、チャンミンはリアを寝室に運んだ。

 

(わぁ...お姫様抱っこだ...)

 

その後ろを、民はミネラルウォーターのペットボトルと、おしぼりを持ってついていく。

 

チャンミンはリアをベッドに横たえた。

 

「リア...こんなになるまで...。

気持ちは悪くないか?

とりあえず、水分を摂った方がいい」

 

チャンミンはリアの頭を起こすと、民から手渡されたペットボトルを開封して、リアの口元にあてた。

 

3分の1ほど飲んだ後、リアの肩が嗚咽に合わせて震えた。

 

「リア...」

 

リアの喉から、高い悲鳴のような呻きが漏れ、胸が大きく波打つ。

 

つむったまぶたの端から、涙が次々と流れ落ちる。

 

「リア...どうした?

何か嫌なことがあったのか...?

ああ...!」

 

(僕からの別れ話が、原因だろう。

リアは別れたくない、と言っていた。

それなのに、僕はリアに「もう好きじゃない」と、酷いことを言った)

 

「そうよ...。

チャンミンのせいよ」

 

「ごめん」

 

チャンミンは、リアの頬にはりついた長い髪を指でよけてやり、民から手渡されたおしぼりで、涙とメイクでどろどろになった顔を拭いてやった。

 

「チャンミンのせいよ...」

 

リアの腕が伸びて、チャンミンの頭を抱え込むように引き寄せた。

 

「リア...」

 

しばらく身を固くしていたチャンミンだったが、リアの肩に頭を預けてされるがままになった。

 

(リアさん...)

 

部外者だと察した民は、後ろに下がって二人を遠巻きに見ているしか出来ない。

 

リアの頭をぽんぽんと優しく叩くチャンミンの脇に、機転を働かせて浴室から持ってきた洗面器とタオルを置くと、民は寝室を出て行った。

 

(同棲までした二人なんだから、簡単に別れられないよね。

リアさんは、別れたくないんだ。

チャンミンさんは、どうするんだろう)

 

「リアとは一緒にいられない」と民の肩で泣いていたチャンミンを、民は思い出す。

 

(この場では、私ができることは何もない。

でも...)

 

リアの頭を撫ぜるチャンミンの手の映像が、民の頭にはっきりと記憶された。

 

チャンミンの手の部分だけクローズアップしたものが。

 

(チャンミンさんにとって、女の人の頭を撫ぜるのはどうってことないコトなのかな。

 

癖みたいなものなのかな。

 

チャンミンさんがリアさんを撫ぜるのは、謝罪の気持ちから?

 

「やっぱり好きだよ」の気持ちから?

 

私だけにしてくれてることだって、己惚れていた。

 

胸がちくちくする。

 

私はチャンミンさんにとって...何なんだろう?)

 

 

 

(つづく)

 

 

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【34】NO?

 

 

~僕の胸、君の胸~

 

~チャンミン~

 

 

「民ちゃん...?」

 

僕は今、民ちゃんに後ろから抱きつかれている。

 

民ちゃんの意図が分からない。

 

でも、ドキドキする。

 

30代のいい年した大人なのに、ドキドキした。

 

嬉しさが込みあげてくる。

 

民ちゃんの両手が、僕の両胸にぴたっと押し当てられている。

 

僕のドキドキがばれるんじゃないかな。

 

「...チャンミンさん」

 

民ちゃんが僕の耳元に唇を寄せて、ささやいた。

 

民ちゃんの吐息が耳にかかって、ゾクッとした。

 

僕と民ちゃんは身長がほぼ同じだから、彼女の顎が僕の肩にかかっている。

 

近い近い!

 

「何?」

 

「触らせてください」

 

「触る!?」

 

民ちゃんの手が、さわさわと僕の胸を撫でまわし始めた。

 

「民ちゃん!」

 

「辛抱してくださいよ」

 

「くすぐったいから!」

 

民ちゃんの手首をつかんだら、「放してください!」と怒られた。

 

仕方なくされるがままになっていた。

 

胸の筋肉に沿って指を滑らせたり、弾力を確かめるように揉んでみたりするから、くすぐったいったら。

 

民ちゃんに胸を触られているうちに...。

 

なんだか気持ちよくなってきた...かも、しれない...。

 

変な気持ちになってきた...かも、しれない...。

 

まずい...。

 

「はぅん!」

(※チャンミン)

 

民ちゃんの指先が乳首をかすった時、そんなつもりはなくても変な声が出てしまった。

 

ぴたっと民ちゃんの手が止まった。

 

「チャンミンさん、乳首が立ってますよ」

 

(ミミミミミミミンちゃん!

そういうことは口にしたらダメだって!)

 

「ひゃぅん!」

(※チャンミン2回目)

 

僕の2つのボタンをポチっと押した民ちゃんの指を、手ごと押さえつけた。

 

(ミミミミミミミンちゃん!

変な声が出ちゃったじゃないか!)

 

「チャンミンさん...」

 

民ちゃんがぼそっと言った。

 

「私より胸が大きいって、どういうことですか!?」

 

「へ?」

 

振り向いたら、民ちゃんが眉間にしわを寄せて、ぷぅっと頬を膨らませていた。

 

「ずるいです!」

 

「ずるいって?」

 

民ちゃんは両手で顔を覆ってしまった。

 

「ずるいです...うっうっ...」

 

「民ちゃん、泣かないで」

 

僕の胸の方が大きいと言って、怒って泣く理由が全然分からない。

 

「民ちゃん、どうしたの?」

 

僕は民ちゃんの頭を撫ぜてやるしかできない。

 

「チャンミンさんの会社はサプリを作っているんですよね」

 

「そうだよ。

気になるものがあるんだったら、社販してくるよ」

 

「あのですね、絶対に笑わないでくださいね」

 

民ちゃんのことだ、とんでもないものを欲しがるのでは...と愉快な気持ちで民ちゃんの言葉を待っていると。

 

「...が欲しいです」

 

「声が小さくて聞こえないよ」

 

「おっぱいです」

 

「へ?」

 

「チャンミンさんも知ってるでしょ?

私のおっぱいが小さいってこと」

 

「うーん............そんなこと...ないよ」

 

「目が嘘ついてます」

 

(ぎく)

 

「おっぱいが大きくなるサプリが欲しいです」

 

「おっぱい...?」

 

「そうです」

 

「民ちゃん、急にどうしたの?」

 

「どうもしません」

 

「サプリだけでそうそう簡単に、胸は大きくならないんだよ。

そのままでいいじゃないか?」

 

「よくないです!」

 

民ちゃんの胸のあたりについつい目をやってしまって、それに気づいた民ちゃんは隠すように腕を組んだ。

 

「チャンミンさんにひとつお尋ねしますよ」

 

「うん、どうぞ」

 

「もしも、ですよ。

もしも、チャンミンさんの彼女さんが...あっ!

リアさんのことは、脇に置いといてくださいね。

もしも、その人の胸が小さかったらどうします?」

 

そんなシチュエーションを想像してみてみる。

 

「どうもしないよ」

 

「ホントにホントですか?」

 

僕にずいっと顔を近づけて、民ちゃんは念をおす。

 

「ホントだって。

胸のサイズが、彼女選びの条件に入っていないもの」

 

「ホントですか?」

 

「うん。

付き合う子の胸が、たまたま大きければ、ラッキーって思うけれど...(しまった!)」

 

「ふ~ん...」

 

民ちゃんは疑わしそうに、細目で僕を見る。

 

先日、ちょっとしたハプニングで民ちゃんのお胸を、ちらっと、いや、ばっちりと拝見したことがあって、その映像をプレイバックしてみる。

 

民ちゃんのお胸は、『ほぼ、ない』に等しい(民ちゃん、ゴメン)。

 

民ちゃんがノーブラでいたのも納得の、『ぺたんこ』お胸だった。

 

中性的な身体付きで、それはそれで魅力的だと僕は思う。

 

現にそんなお胸であっても、僕は民ちゃんから色気を感じたんだけれど。

 

っていうことを、民ちゃんに説明しても、民ちゃんは納得しないだろうな。

 

「やだな、民ちゃん。

急にどうしたのさ、胸がどうのこうのって。

民ちゃんのすらっとしたスタイルを、羨ましがる女子も多いんじゃないかな?」

 

「女の子に羨ましがられても、全然嬉しくありません!」

 

まずい。

 

民ちゃんの表情が曇ってきた。

 

「パッドを入れるとかさ、補正下着ってあるじゃないか?

うちの通販でも取り扱っているよ...(しまった!)」

 

「下着で解決できれば、話は早いですよ」

 

ノーブラ民ちゃんが突然、胸のサイズを気にし出すなんて、何か大きな理由があるに違いない。

 

まさかだとは思うけど、鎌をかけてみることにした。

 

「裸になる予定でもあるのか?」

 

「あわわわ」

 

民ちゃんは両手で口を覆うと、僕に背を向けてしまった。

 

民ちゃんは分かりやすい。

 

白金の柔らかい髪からぴょんと飛び出た両耳が真っ赤だ。

 

僕の胸が、ひやりとした。

 

「例の『彼』と!?」

 

民ちゃんったら、いつの間に!

 

民ちゃんは嘘を付けないタイプだとみてるけど、肝心なことは口を開かない子のようだ。

 

上手に嘘を付いたり、はぐらかしたりするのが下手だから、最初から口にしない、ということか。

 

「違います!」

 

ソファに突っ伏して、僕から顔を隠している。

 

不快だった。

 

じわっと全身から汗がにじんで、胸中にモヤモヤが渦巻く。

 

動揺していた。

 

 

(つづく)

 

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【33】NO?

 

~君が危ない~

〜民とユン〜

 

 

「あさっての夜は、空いてる?」

 

定時になって、帰り支度をしていた民にユンは尋ねた。

 

「あさってですか?

はい、空いてます!」

 

「俺との約束を覚えている?

君に美味しいものを食べさせないと、って」

 

「はい!

覚えてます!」

 

リュックサックを背負った民は、姿勢を正して直立不動になる。

 

「デートの約束があったんじゃないの?」

 

「まっさか!」

 

ユンは、オフィスとアトリエを繋ぐ螺旋階段の柱にもたれて、慌てる民の様子をからかう目で見た。

 

「あれ?

ユンさん、粘土がついてますよ」

 

撮影を終えた後、ユンはアトリエで作品作りに没頭していた。

 

髪が汚れないよう、うなじの辺りで長いストレートヘアを結んでいるため、ユンの精悍な顔が眩しくて、民はユンを真っ直ぐ見られない。

 

「どこ?

ここ?」

 

頬や顎を撫でるユンに、民はくすりと笑って「ここです」とこめかみの辺りを指さした。

 

「どこ?」

 

「ここです」

 

場所が分からない風のユンを見かねて、民はユンのこめかみに付いた白い汚れを人差し指で拭った。

 

(きゃー、ユンさんに触ってる!)

 

「!」

 

民の手がユンの大きな手で包まれて、反射的に手を引っ込めようとした民の手を、さらに強く握りしめた。

 

「俺のモデルになってくれるね?」

 

「あの...でも...」

 

「なってくれるよね?」

 

民はユンの刃物のように鋭い目に射すくめられたようになって、こくりと頷いた。

 

「いい子だ」

 

「ひとつ気になることがあります」

 

「なんだい?」

 

「モデルって言うと...服を脱ぐんですか?」

 

「そうなるだろうね」

 

「えっ!」

 

握った民の手を離すと、ユンの指が民のシャツのボタンに触れた。

 

「全部脱がなくてもいい。

胸元だけだ。

だから、安心していいよ」

 

オフィスのドアを閉めた民は、心臓が早く打つ胸を押さえて、大きく息を吐いた。

 

(どーしよー!)

 

 


 

 

〜チャンミンと民〜

 

 

「ただいま、です」

 

チャンミンはダイニングテーブ上のノートPC画面から顔を上げ、民に「おかえり」と声をかけた。

 

民の髪が、さらに明るくプラチナ色になっていて、チャンミンはポカンとして民を視線で追ってしまう。

 

(民ちゃんが、民ちゃんじゃなくなってきた!)

 

「くたくたです」

 

民はソファにバタリと身を投げ出すように倒れこんだ。

 

「真っ白だね。

何か飲む?

先にお風呂に入る?」

 

ひと昔前の、帰宅した夫を出迎える妻みたいだな、と思いながらチャンミンは、よく冷やしたジャスミンティを注いだグラスを持って、ソファの下に座った。

 

「ありがとうございます」

 

身を起こした民は、チャンミンからグラスを受け取ると、あっという間に飲み干した。

 

「生き返る~」

 

(ユンさんの前では、恥ずかしくてがぶ飲みなんて出来ない)

 

「......」

 

空になったグラスをじっと眺めていた民だったが、今度はチャンミンをじろじろと見始めた。

 

部屋着のチャンミンは、半袖Tシャツ、ハーフパンツ姿だ。

 

「?」

 

「チャンミンさん。

立ってくれます?」

 

「どうしたの、民ちゃん?」

 

「お願いですから、立ってください。

スタンダップです!」

 

「わかった」

 

民の勢いに負けてチャンミンは立ち上がる。

 

(何をしたいのか、全然予想がつかないんだけどな)

 

民も立ち上がり、チャンミンの背後に立った。

 

「チャンミンさん...」

 

「!」

 

民の吐息がチャンミンの耳の後ろにかかり、チャンミンの全身に鳥肌がたつ。

 

民の両手がチャンミンの脇を通って前へ回された。

 

「!」

 

そして、チャンミンの胸の上で止まった。

 

チャンミンの背中に、民の身体がぴたりと密着している。

 

「ミミミミミミミンちゃん!」

 

チャンミンは後ろから民に抱きつかれた格好となったのだった。

 

 

(つづく)

 

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