(55)TIME

 

チャンミンの顔は切なげに歪んでいた。

 

シヅクの上唇に触れる指は、優しい弾力で押し返されて、熱い吐息で湿り気を帯びてきた。

 

チャンミンの喉がごくりと鳴り、その指を引っ込めてこぶしを握る。

 

熱のせいで目の縁も赤く色づかせて、伏せたまつ毛が扇状に広がっている。

 

(シヅクの顔って...綺麗なんだな)

 

美醜に無頓着だったチャンミンは、シヅクの外貌が整っていることに初めて気づいた瞬間だった。

 

チャンミンはマットレスに片頬をつけて、シヅクの顔の向きに合わせた。

 

寝ぐせだらけのシヅクの髪を指ですいてやる。

 

数日前、シヅクに寝ぐせをからかわれたことを思い出した。

 

チャンミンの指は耳のラインにたどり、ピアスホールの空いた耳たぶを柔くつまんだ。

 

(柔らかい...)

 

 

数日前、ピアスを付けたシヅクの耳に触れたことを思い出していた。

 

手の甲で頬を撫ぜた。

 

 

(熱い...苦しそうだ)

 

シヅクの首筋まで滑らすと、手の甲にドクドクいう脈動が感じられた。

 

 

チャンミンの脈拍も早かった。

 

(シヅクに...キスしたい...)

 

 

下腹部を押えたチャンミンは身体を起こすと、眠るシヅクを見下ろしていた。

 

(濡らしたタオルで首を冷やしてやったら、少しは楽になるよな)

 

 

玄関に向かって左のドアが洗面所で、人感センサーで照明がついた。

 

棚にはバスタオルが2枚、タオルが数枚だけ。

 

洗濯洗剤のボトルが1本、持ち上げると軽い。

 

歯ブラシと残り少ない歯磨き粉。

 

チャンミンの口元が緩んだ。

 

(そんなことだろうと思ってたんだ)

 

買い物袋を置いたベッド脇にとって引き返し、目当ての物を持って戻ると、青りんご味の歯磨き粉、シトラスの香りの洗濯洗剤、マゼンタ色の歯ブラシを棚に置いた。

 

(シヅクの部屋にマーキングしているみたいだな。

何やってんだ、僕)

 

 

チャンミンはタオルを1枚取ると、洗面器を探す。

 

洗面所の隣は浴室で、「女性のバスルームを覗くのは、よくないだろうけど」と、チャンミンは中を覗き込んだ。

 

 

(あった!)

 

バスタブの縁に伏せられた洗面器を手に取ろうとした時、チャンミンの目に映ったものとは。

 

「ひっ...!」

 

 

勢いよく引っ込めた手がかすめて、洗面器がカラーンと音を立ててバスタブの中に転げ落ちた。

 

バスタブの水栓レバーの脇に、人の足が、くるぶしから下の部分があった。

 

チャンミンはたっぷり1分間、浴室に片足だけを踏み出した姿勢のまま、それを凝視していた。

 

 

唾を飲み込んで、もっと近くで見られるようにバスタブ脇にしゃがんだ。

 

 

(...義足、か。

よく出来ている)

 

 

皮膚に透けた血管や、肌の赤みのむら感や、薄ピンクの小さな爪。

 

両手でそっと持ち上げた。

 

軽くて小さな足。

 

肌に吸い付くような、柔らかさと弾力も感じられた。

 

(シヅクの...。

シヅクはいつも、編み上げブーツを履いているのも、これのせいだったのか。

事故か何かかな...?)

 

チャンミンは、宝物を扱うかのように、そっと元あった場所に戻した。

 

バスタブの中に転げ落ちた洗面器を拾い上げると、浴室のドアを閉めた。

 

 

(見てはいけないものを見てしまったのかな。

シヅクの「帰れ」に抵抗して居座ってる僕だけど、シヅクにとって本当に迷惑だったのかもしれない。

僕には人の言葉の真意がはかれない。

無神経なことを、いっぱい口にしていたんだろうな)

 

チャンミンはシヅクが臥せっているベッドを見つめながら、そう思った。

 

水を張った洗面器に残りの氷を全部あけたものを、ベッドサイドへ運んだ。

 

 

躊躇していたチャンミンの手が、掛布団に伸びる。

 

めくった布団の下から、シヅクのむき出しの脚があらわれた。

 

(シヅク、ごめん...。

僕は今、とても失礼なことをした)

 

膝の位置で丸まっていた毛布を引っ張って、シヅクの左足とくるぶしから先を失った右足をくるんでやった。

 

 

(あれ...おかしいな)

 

いつの間に浮かんだ涙を、チャンミンは袖で拭う。

 

熱にあえぐシヅクの姿と、シヅクが抱える秘密を目にして、チャンミンの胸が締め付けられるように痛んだのだった。

 

(これは...涙?

どうして僕は、泣いているんだ?)

 

拭った後から次々と溢れてくる涙の理由が、チャンミンには分からない。

 

頬をつたう涙はそのままに、チャンミンはベッド脇にひざまずく。

 

 

キンキンに冷えた水にタオルを浸して、ゆるく絞った。

 

両手で広げたタオルでシヅクのあごを包むと、シヅクからため息が漏れた。

 

「気持ちいい?」

 

 

うっすらと目を開けたシヅクの目が、真上から見下ろすチャンミンに驚き、大きく丸くなった。

 

「チャンミン...まだ帰ってなかったの?」

 

「帰って欲しかった?」

 

 

(チャンミンのバカ。

弱っている姿なんて見せたくなかったのに、

そんなに優しくしないでよ、慣れていなんだから)

 

 

シヅクが首を横に振ったのに満足したチャンミンは、濡れたタオルでシヅクの耳の下を冷やす。

 

 

「気持ちいい?」

 

「うん」

 

シヅクの手が、タオルに添えられたチャンミンに重ねられた。

 

「チャンミン...ありがとな」

 

「......」

 

 

(駄目だ...我慢できない)

 

 

「シヅク...あの...。

こんな時に、駄目だってことは分かってる。

シヅクの体調が優れないときに...こんなこと。

でも...」

 

 

「おい!

こっちは頭が朦朧としてるんだ。

言いたいことがあるなら、はっきり、端的に!」

 

 

チャンミンは深呼吸をする。

 

 

「...キス、してもいい?」

 

「!!」

 

(キ、キス!?)

 

「...しても、いい?」

 

(いちいち言葉にするな!)

 

チャンミンの切羽詰まった表情に、シヅクはうんうんと頷いた。

 

チャンミンは、気持ちを落ち着かせようと、ふぅっと息を吐き、斜めに傾けた頬をシヅクに寄せる。

 

(緊張する)

 

熱で潤んだシヅクの瞳が、かすかに揺れた。

 

額同士をくっつけると、互いの鼻先が触れた。

 

2人の額は、熱く火照っていた。

 

(ドキドキする!)

 

シヅクはぎゅっと目をつむった。

 

唇同士が触れるだけの、軽いキス。

 

次は、互いの唇の柔らかさを確かめるキス。

 

頬の傾きを変えて、唇の形をたどるキス。

 

恐る恐るだったチャンミンにも勢いがついてきた。

 

唇も顔も閉じ込めるかのように、シヅクの両頬を手で包み込んだ。

 

(チャンミンのキス...不器用だけど...いい感じ)

 

わずかに開けた唇の隙間を通して、二人の舌が触れ合った。

 

「!!」

 

とっさにチャンミンは舌をひっこめたが、シヅクの熱い手が、チャンミンのうなじにかかって、ぐいっと引き寄せられた。

 

「!!」

 

シヅクの熱い舌がそっと忍び込んできて、躊躇していたチャンミンもそっと伸ばす。

 

(柔らかい...そして、気持ちいい...)

 

いったん唇を離し、顔の傾きを逆にして口づける。

 

さっきより深く。

 

シヅクの舌がチャンミンのそれに絡んだとき、チャンミンは自身の中に火がついたのがはっきりと分かった。

 

チャンミンもシヅクに応えて、彼女の中に舌を忍ばせる。

 

知らず知らずのうちに、シヅクの頬を挟む手に力がこもった時、

 

 

(マズイ!

これ以上はマズイ!)

 

下半身の疼きに気付いたチャンミンは、内心焦りだした。

 

頬を包んだ手を、首に、胸にと滑らしていきたくなった。

 

(...するわけには、いかない...)

 

 

と、首に巻き付けられたシヅクの腕がゆるみ、同時に2人の唇が離れた。

 

 

「ふう...」

 

チャンミンは尻もちをつくように座り込んだ。

 

(ドキドキする。

この感覚は、一体なんなんだ!)

 

シヅクに負けないくらい、全身が熱かった。

 

胸に当てた手の平の下で、鼓動が早い。

 

 

 

「一緒に寝るか?」

 

シヅクはポンポンと、マットレスを叩いた。

 

 

「えっ!?」

 

 

思いがけず大きな声が出してしまったことにチャンミンは驚く。

 

「それとも、うちに帰って寝るのか?」

 

「いやっ、それは...(帰りたくない)」

 

 

「寝るだけだろうが。

まさか...チャンミン!

私をどうこうしようって、考えてたのか?」

 

 

(どうこうするつもりはなくても、抑えられるかどうか...自信がない)

 

 

「そばにいて、朝まで」

 

シヅクの言葉に一瞬固まったチャンミンだったが、逡巡なく「うん」と頷いた。

 

顔を赤くしたチャンミンは「失礼します」と言うと、そろそろとシヅクの隣に横たわった。

 

 

「!!」

 

(おいおいおいおい!

冗談で言ったのに、本気にしたのか!?)

 

 

ギョッとしたシヅクは、触れ合わんばかりに接近したチャンミンを横目で見る。

 

(忘れてた。

チャンミンには冗談が通じないんだった!)

 

 

「......」

「......」

 

 

(熱が出てしんどいどころじゃなくなった。

もっと熱が出そう!)

 

 

(シヅクのお世話をする僕が、シヅクのベッドに寝てどうするんだ!)

 

いろいろあった1日だった。

 

 

(病院へ行った。

 

シヅクとカイ君が一緒にいるところを見て、不快になった。

 

ポンプ室でシヅクと閉じ込められた。

 

震えるシヅクを抱きしめた。

 

家に帰って、自分の気持ちを振り返ってみた。

 

その時、自分の気持ちの答えが見つかった。

 

シヅクの顔が見たくなって、居ても立っても居られなくなってシヅクを訪ねた。

 

シヅクの足の秘密を知った。

 

初めて涙というものを流した。

 

それから...それから...)

 

 

「シヅク...」

 

「ううーん...?」

 

丸まったシヅクの背中に向けて、チャンミンは言葉を紡ぐ。

 

 

「僕がここに来たのは、シヅクに話があったからなんだ。

その話っていうのは...」

 

 

チャンミンは深呼吸して、続きの言葉を紡ぐ。

 

 

「伝えたいことがあって、ここに来たんだ。

 

あの...。

 

僕は...」

 

 

「......」

 

 

「僕はシヅクが好きです。

 

好き、です」

 

 

「......」

 

 

「シヅク?

 

 

聞こえた?

 

 

あのさ、

 

 

僕は、シヅクのことが、好きです」

 

 

 

[maxbutton id=”5″ ]

[maxbutton id=”1″ ]  [maxbutton id=”10″ ]

[maxbutton id=”2″ ]

(54)TIME

 

 

「寒い...寒い...」

 

シヅクは布団にくるまって震えていた。

 

(悪い予感的中。

真冬の滝行で、熱を出しても当然のこと、か)

 

何か温かいものを口にしたかったが、悪寒と高熱でキッチンに立つことさえしんどかった。

 

(喉が渇いた...しかし...冷蔵庫が...遠い。

 

私はこのまま死んじゃうのかな。

 

これだから独り身は辛い。

 

セツを呼び出そうかな...駄目か...チャンミンとのことをあれこれ質問攻めされるのは辛い)

 

 

うだる頭で悶々としていると、枕もとに外しておいたリストバンドが振動した。

 

気怠い手を伸ばしてスピーカーフォンに切り替えた。

 

 

「はいはい」

 

『シヅク?』

 

 

(この声は...チャンミン!?)

 

 

「はいはい。

どうした?

 

おりこうさんしてるか?

腹減ったのか?

ちゃんとご飯食べるんだよ。

 

あのな、私は死にそうだから、あんたの相手はしてあげられないの。

じゃあな」

 

 

シヅクは抑揚つけずに一気に話すと、通話を打ち切ろうとした。

 

 

『死にそうって、どういうことだよ!』

 

 

チャンミンの大声に驚いて、シヅクは枕に沈めていた頭を起こした。

 

 

「うーん...風邪ひいたっぽいんだ。

だからごめんな、もう寝かせて」

 

通話終了ボタンを押そうとしたら、

 

 

『部屋は何号室?』

 

 

「は?」

 

 

『部屋の番号を教えて』

 

 

(うるさいなぁ)

 

 

「なんで?」

 

 

『いいから、早く教えろ!』

 

 

チャンミンの剣幕に押されて、シヅクは部屋番号を伝える。

 

 

『今、シヅクのマンションの下にいるんだ。

エントランスのドアを開けて!』

 

 

(マンションの下に、チャンミンが来てる?)

 

 

「わ、わかった」

 

 

(家に帰ったんじゃないのかよ。

なんでチャンミンがここに来てるんだよ。

うー...キツイ...)

 

 

熱で朦朧としているシヅクは、これ以上の思考は断念した。

 

数分後ドアチャイムが鳴ったが、シヅクには玄関先まで立ち上がれない。

 

 

(ここまで来やがった。

今はチャンミンの相手をしてやれないんだよ。

無視していれば、そのうち帰るだろう...)

 

執拗なチャイム音に、シヅクは布団を頭までかぶった。

 

痺れをきらしたチャンミンから、電話がかかってきた。

 

 

『シヅク!

早くドアを開けろ!』

 

 

「るさいなぁ」

 

 

シヅクはリストバンドを操作して、玄関ドアを開錠させた。

 

 

「開けたから、勝手に入っておいで」

 

 

シヅクはそれだけ言うと、通話を切ってかたつむりのように身体を丸めた。

 

(具合が悪すぎて、面倒くさいチャンミンの相手なんかできないんだよ、今の私は。

それにしても寒い!)

 

 


 

 

ドア脇のランプが緑に変わったのを確認すると、急く気持ちを抑えながらチャンミンはシヅクの部屋に足を踏み入れた。

 

 

(女性の部屋を訪ねるのは、初めてだ。

シヅクの家も初めてだ。

緊張する)

 

 

「おじゃまします」

 

小声でつぶやくと、照明がしぼられた奥の部屋へ進む。

 

 

(意外だな)

 

 

シヅクの部屋は、がらんと何もなかった。

 

ごちゃごちゃと物にあふれて散らかった部屋を想像していたのが、予想が外れた

 

 

広いワンルームの一番端にベッドがあって、布団がこんもりと膨らんでいる。

 

チャンミンは買ってきたものをキッチンカウンターに置いて、ベッドまで近づいた。

 

ベッドの端に腰を下ろし、頭の先まで布団をかぶっているシヅクを見下ろす。

 

 

「シヅク?」

 

布団をそっとめくると、シヅクが真っ赤な顔をして臥せっていた。

 

 

「辛いのか?」

 

薄っすらとシヅクは目を開けた。

 

 

「寒い。

布団をかけて」

 

 

シヅクの額に手を当てると、案の定とても熱い。

 

 

「病院で診てもらおうか?」

 

「病院は、嫌い。

明日の朝まで様子をみる」

 

「僕の時は、無理やり連れて行ったじゃないか」

 

「あんたはあんた。

私は私」

 

「なんだよ、それ...。

担いででも、連れていくよ」

 

 

シヅクは、布団に隠れた右足首の状態を思い出して青ざめた。

 

外したままの足首から先は、洗面所に置いたままだ。

 

(チャンミンにバレないようにしなくては!)

 

 

シズクの両膝と肩の下に手を差し込まれた途端、「離せ!やめろ!」と大暴れする。

 

 

「シヅク!

大人しくしてったら」

 

「このまま寝かせてぇ」

 

 

(布団から出るわけにはいかないのだ)

 

 

抱き上げかけたシヅクのほかほかに熱い身体を、そっとベッドに戻す。

 

(シヅク...パジャマ)

 

 

薄いグレーのパジャマを着たシヅクは、髪を乾かさないまま寝たせいか、短い髪が盛大にはねている。

 

 

熱のせいで潤んだ瞳が不謹慎ながらも、色っぽいと感じたチャンミン。

 

(う...。

お腹の底がうずうずする...)

 

 

チャンミンは立ち上がると、頭をがしがしかきむしりながら、キッチンカウンターに置いた買い物袋の中を漁る。

 

 

そして、取り出した冷却シートを、シヅクの額に貼ってやった。

 

(うっ...)

 

第二ボタンまで開いた、シヅクのパジャマの胸元から目をそらす。

 

(目の毒だ。

ボタンを閉めないと...)

 

「...ったく」

 

チャンミンはシヅクの胸元に伸ばしかけた手を、瞬時に引っ込めた。

 

(いかにもシヅクらしいことを、しないで欲しい)

 

パジャマのボタンが1段ずつずらしてかけられていた。

 

(ボタンをかけ直してやるのは...僕には...できない)

 

 

「布団をかけろって、寒い!」

 

「ごめん!」

 

 

シヅクの後頭部に向かって、チャンミンは声をかける。

 

 

「どうして欲しい?」

 

「......」

 

「食べられるものはある?」

 

「......」

 

「プリンとゼリーと、どっちがいい?」

 

 

「チャンミン、帰れ」

 

 

シヅクは右足首の先が気になって仕方がない。

 

 

「嫌だ」

 

 

「チャンミンのくせに生意気だぞ」

 

 

「ははっ。

この前のお返しだから。

シヅクの要望にだいたい応えられるよう、いろいろ用意してきたんだ。

何でもあるよ。

で、何が欲しい?」

 

 

「ラーメン」

 

「ラーメンは...ない」

 

 

「冗談に決まっているだろ?

ラーメンなんか食べられるわけないだろうが」

 

 

「そうだ!

シヅク、熱を測ろう!

体温計も用意してあるんだ」

 

 

チャンミンはキッチンカウンターから、買い物袋ごと持ってベッドに戻ってきた。

 

「ほら、脇に挟んで」

 

「うーん...チャンミンがやって」

 

「え!?」

 

「チャンミンにできるわけないよね、貸して、自分でやる」

 

 

「薬にアレルギーはないよね?

熱覚ましの薬を飲もうか?」

 

ギュッと目をつむったシヅクは、こくんと頷いた。

 

「水がいるね」

 

キッチンカウンター下の扉をバタバタ開けて、ようやくグラスを探し出し、水道の水を汲んでシヅクの元へ戻る。

 

 

「はい、薬だよ。

身体をちょっとだけ起こせる?」

 

「...無理。

口移しで、飲ませて」

 

「えっ!?」

 

「冗談だよ」

 

 

(具合が悪いくせに!

そうそう氷枕!)

 

 

冷凍庫の中を見て「やっぱり」とつぶやくと、買ってきたばかりの氷をボウルに出す。

 

(シヅクの冷蔵庫の製氷皿は空っぽだろうと、予想した通りだった)

 

「頭を上げるよ」

 

シャラシャラと氷がぶつかる音をさせるゴム製の枕に、シヅクの頭を乗せる。

 

「このままじゃ冷たいよね。

タオルを巻こうか。

洗面所は...?」

 

 

「タオルはいらん」

 

 

チャンミンの手首をシヅクの熱い手がつかまえた。

 

(洗面所に行ってもらったら困るんだ)

 

 

「わかったよ。

体温計を渡して。

 

うーん、38.5℃か。

これは辛いね」

 

 

(チャンミンが、優しいよぉ、ぐすん)

 

チャンミンの声音が優しくて、看病する手がぎこちなくて、朦朧とした頭であっても泣きそうに感動していた。

 

 

チャンミンは床に腰を下ろすと、ベッドにもたれた。

 

「用があったら、僕を呼びなよ」

 

「私のことはいいから、早く帰れ」

 

「嫌だ」

 

「もう欲しいものはない。

来てくれて、ありがとうな。

寝れば治る。

バイバイ。

帰りな、チャンミン」

 

 

「僕はシヅクの看病をするって決めたんだ。

だから、帰らない」

 

「......」

 

 

横になったシズクから見えるのは、チャンミンの後頭部。

 

膝の上に置いたタブレットが放つ青白い光が、チャンミンの顔を照らしていた。

 

 

「チャンミン...一緒に寝るか?」

 

 

「え?」

 

 

振り向くと、熱のせいでうっとりとした表情のシヅクがこちらを見ていた。

 

 

「私と一緒に寝るか?

 

ここに」

 

 

「......」

 

 

「こら。

何を想像してた?

顔が赤いぞ、チャンミン」

 

「シヅクの方こそ、真っ赤っかだよ」

 

「熱があるんだから、当然だろうが」

 

そこまで言うと、シヅクは眠りについた。

 

 

ふうっとチャンミンはため息をついた。

 

 

ベッドにあごをのせると、目の高さにシヅクの寝顔があった。

 

 

眉間にしわを寄せて苦しそうで、シヅクの熱い息が感じられるほど、その距離は近かった。

 

 

チャンミンは、人差し指でシヅクの眉間のしわをのばした。

 

 

閉じたまぶたに、その指を移した。

 

 

指の下で、まぶたがふるふると震えている。

 

少しだけ上を向いた小さな鼻先まで指を滑らす。

 

 

苦しいのか軽く開いた上唇に、チャンミンの震える指先が触れた。

 

 

熱い息がかかる。

 

 

チャンミンの心臓は早鐘のように、速く強く打っていた。

 

[maxbutton id=”10″ ]   [maxbutton id=”5″ ]

[maxbutton id=”2″ ]

(53)TIME

 

 

滅多に湯船に湯を張ることなどないシヅクだったが、今夜はそうも言っていられない。

 

身体の芯まで冷え切って、ぞくぞくとした震えがガチガチと歯を鳴らす。

 

浴室は白い湯気でいっぱいで、熱いお湯を蛇口から細く出しっぱなしにして、顎まで浸かって全身を温めた。

 

「いたたた」

 

シヅクはこわばったふくらはぎを、両手でもみほぐした。

 

右脚の足首をつかむと、軽くひねった。

 

きつく締め付けていた箇所に、お湯が流れ込んでシヅクは深く息を吐いた。

 

両手の中のシリコン製のものを、じっと見つめる。

 

(冷えはやっぱりよくないな...ポンプ室では、冷たいどころか痛くて辛かった)

 

足先の血行がよくなるよう、両手でさすった。

 

シヅクは、湯船の淵に置いた「足」を見つめた。

 

(この義足はよく出来ている。

 

自由に歩けるし、走ることもできる。

 

周囲も全然気づかないし、私自身も違和感がない。

 

でも、冷えるのはいかんなぁ。

 

義足生活も20年かぁ...再建手術を受けてもいいんだけどなぁ)

 

シズクは縁に後頭部をもたせかけ、白い湯気に煙る天井を見上げてひとりごちた。

 

「はっくしょん!」

 

(熱があるかもしれん...そうなっても仕方ないよなぁ...)

 

熱いお湯の中にいるのに、ぞくぞく震えが止まらない。

 

(チャンミンは大丈夫かなぁ...)

 

湯船から立ち上がると、バスタオルを身体に巻き付け、片足けんけんの要領で寝室に向かった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

相乗りしたタクシーがシヅクのマンションに停まった。

 

 

「ひとりで大丈夫?

部屋の前まで送るよ」

 

とシヅクと一緒にタクシーを降りたが、

 

「大丈夫だから。

あんたこそ、早く家に帰りな」

 

と、シヅクに無理やりタクシーに戻されてしまった。

 

火傷がしそうに熱いシャワーを浴びて、十分温まった僕は、分厚いスウェットの上下を着た。

 

濡れた洋服は、洗濯後、乾燥機の中で回っている。

 

ベッドのヘッドレストにもたれかかり、毛布にくるまった。

 

熱いお茶と、ブランデーを交互に口に運びながら、今日一日のことをふり返る。

 

シヅクに断られても、彼女の部屋まで見送った方がよかったのかもしれない。

 

しまった!

 

何か温まるものを買って、シヅクに渡せばよかった。

 

10日程前から、僕は就寝前にその日1日、自分が言ったこと、やったことをひとつひとつ確認するのが日課になっていた。

 

何か間違ったことを口にしていなかったか。

 

自分はどんな行動をとったか。

 

相手は、どう反応したか、そしてどんなことを自分に言ったか。

 

それに対して、自分はどう思ったか、どう感じたか。

 

僕の頭を占めるのは、シヅクのことばかりだ。

 

シヅクは僕のことを、どんな奴だと思っているんだろう?

 

僕はタブレットを膝に置き、しばらくスクロールをした後、目的のものを見つけてタップした。

 

ディスプレイの中で、二人の男女が笑ったり、泣いたり、身を寄せ合ったりしている。

 

女性役が何かを喋って、男性役がそれに答えて。

 

女性役が目を伏せて、首を振っている。

 

男性役が彼女の頭を引き寄せて、囁いた。

 

『好きだよ』と囁いた。

 

 

「すきだ...。

 

すき...?

 

すき...」

 

僕は何度も、この言葉に唇にのせてつぶやいた。

 

タブレットを膝から下ろして、僕は顔を覆った。

 

「すき」

 

手の平に、「すき」と紡ぐ僕の唇が触れる。

 

シヅクは僕のことを、どう思ってる?

 

僕は、シヅクのことばかり考えている。

 

ディスプレイから放たれる光が瞬いて、シーツをパカパカと照らす。

 

僕はシヅクのことを、どう思ってる?

 

じっとしていられなくて、勢いよく毛布を跳ねのけてベッドを出た。

 

運転終了を知らせる乾燥機のアラーム音が聞こえた。

 

シヅクは...震えていた。

 

真っ青な顔をして、震えていた。

 

僕が熱を出して震えていた時、シヅクは僕のことをうんと心配してくれた。

 

マフラーを僕の首に巻いてくれた。

 

温かかった...。

 

僕はスウェットを脱いで、クローゼットから黒いニットと黒いパンツをとって身につけた。

 

鏡をちらっとみたら、あちこち毛先がはねているけれど、別にいいや。

 

コートを羽織って、靴を履いた。

 

 

僕は、シヅクのことをどう思ってる?

 

 

シヅクを部屋まで送らず帰ってきてしまった。

 

シヅクが僕に「早く帰れ」と言ったから。

 

でも本当は、

 

僕はどうしたかった?

 

僕は...僕は、もっとシヅクの側にいたかった

 

シヅクが風邪をひいたりしたら、いけない。

 

シヅクのことが心配だった。

 

 

 

僕はシヅクのことを、どう思っている?

 

 

 

 

 

僕は、シヅクのことが、好きだ。

 

 


 

 

チャンミンは薬局に飛び込んだ。

 

(何をもっていってあげたらいいかな)

 

腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。

 

(これじゃあ、シヅクを子供扱いしてるみたいだ!

 

のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。

 

シヅクが欲しがるものってなんだろ?)

 

シヅクの持ち物や、話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。

 

(青りんご味の歯磨き粉?

...へぇ、面白そうだな)

 

 

「あっ!」

 

チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。

 

「ああ!

すみません!」

 

チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「え、ええ」

 

その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。

 

あまりにまじまじと彼女が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。

 

「すみません。

......えっと...何か?」

 

肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。

 

「覚えていませんか?」

 

女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。

 

「ああ!

あの時の」

 

数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。

 

「あの時は、助かりました」

 

チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。

 

「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」

 

女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。

 

(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)

 

再び居心地悪くなったチャンミン。

 

(世間話とか、雑談とか...苦手なんだよ)

 

「職場が近くなんです。

ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」

 

話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。

 

「あの!」

 

「はい?」

 

不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。

 

(僕は早くシヅクのところに行きたいんだ)

 

「あなたのお名前は?」

 

「?」

 

(名前?)

 

 

「変なことを聞いてごめんなさい。

びっくりしますよね」

 

(びっくりするに決まってるだろ。

急に名前を聞かれるなんて)

 

チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。

 

チャンミンには、親しい者(現在はシヅク)とそれ以外の者しかいない。

 

それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。

 

女性の顔は真っ赤になっている。

 

「本当にごめんなさい。

忘れてください」

 

頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。

 

 

(勿体ぶるつもりこれっぽっちもない。

名前くらい、どうってことないし)

 

「チャンミンです。

僕の名前は、チャンミンです」

 

チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、チャンミンを見つめる目がますます見開いた。

 

何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。

 

(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)

 

チャンミンは、女性の返事を待った。

 

「ごめんなさい!

私は、キリと申します。

この薬局の上に住んでいます。

ここは2階から上がマンションになっているんです」

 

「はあ、そうですか...」

 

(キリとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)

 

キリは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。

 

「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」

 

「はあ」

 

(意味が分からない。

素直に従っておけば、角が立たないだろう)

 

キリにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。

 

「あの!」

 

また呼び止められて、チャンミンは今度は不機嫌さを隠さずふり返った。

 

(今度は何だよ?)

 

「何か?」

 

「チャンミンさんは、もしかして...

XX高校の卒業生ですか?」

 

「XX高校...?」

 

チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、

 

(いけない!)

 

眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。

 

「いいえ、違います」

 

固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。

 

そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。

 

 

 

(違います、ととっさに答えたけれど、

 

正確に言うと、

 

『覚えていない』んだ。

 

高校?

 

僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、

 

あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。

 

思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって、立っているのか座っているのかも分からなくなって、眩暈がする。

 

頭痛に悩まされているのも、僕の頭に、どこか異常があるせいなのかもしれない)

 

 

 

チャンミンは立ち止まった

 

 

 

(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。

 

頭が痛いのもそのせいだ。

 

過去のことを思い出せない。

 

高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。

 

もしかしたら、

 

思い出せないのではなく、

 

少しずつ、忘れていっているのかもしれない。

 

僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)

 

チャンミンは白い息を吐くと、シヅクの住むマンションを見上げた。

 

 

[maxbutton id=”5″ ]   [maxbutton id=”2″ ]

[maxbutton id=”16″ ]

(33)TIME

 

 

 

「シヅクは動かないで!手を離せ!」

「お、オーケー」

チャンミンの鋭い言葉に驚いたシヅクは、マフラーからこわごわ手を離した。

(チャンミンの奴、

もし不器用だったら、流血ものだ)

チャンミンは、シヅクの耳元に手を伸ばす。

チャンミンの大きな手が、やさしくシヅクの耳たぶに添えられる。

シヅクは、チャンミンに触れられて、ぞくりとする。

チャンミンは、シヅクが焦ったせいで、複雑に絡まった糸を、

ゆっくり、少しずつ解いていく。

シヅクの耳を傷つけないように、落ち着いて、丁寧に...。

「じっとしてて」

首元にかかるチャンミンの息と、自分の耳たぶに触れる彼の指の感触に、緊張するシヅク。

​(近い、近い!)

振り返れないから、チャンミンの顔は見えないけど、きっと真剣な表情をしているのだろう。

(めちゃくちゃ、ドキドキするんですけど!)

シヅクの全神経が、チャンミンがつまんでいる、自分の耳たぶに集中していた。

「動かないで、シヅク」

​(もう無理!耐え切れん!)

「だから、動くな!」

「...だって、くすぐったい」

「耳たぶがちぎれるよ」

​「無理だったらいいよ。

絡んだとこをハサミで切っちゃおうよ」

シヅクが耐え切れずに言った途端、ふっと耳元が解放された。

​「取れた!」

シヅクは、すくんで硬直していた身体の力をふっと解く。

「はぁぁぁ」

(暑い...汗かいた...)

シヅクは、ブラウスの襟元をつかんでパタパタとあおいだ。

(めちゃくちゃ、緊張した!)

「助かった...」

(これくらいでドギマギするなんて、思春期かよ!)

「ありがとね」

シヅクはマフラーをするりと外す。

(チャンミンといると、私までウブになってしまう)

シヅクは照れ隠しに、ゴホンと咳ばらいをする。

「チャ、チャンミン、器用だね」

​シヅクは、チャンミンを振り返った。

「ありがとう」と言いかけた。

...シヅクの言葉は、塞がれた。

斜めに傾けられた、チャンミンの頬。

間近に迫った、チャンミンの閉じたまぶた。​

 

 

(52)TIME

 

「シヅクが、好きです」

 

「......」

 

「シヅク?」

 

不安になったチャンミンは、シヅクの背中をつついた。

 

シヅクを覗き込まなくても分かった。

 

寝息。

 

「寝ちゃったのか?」

 

チャンミンは深いため息をつくと、再びこぼれ落ちた涙を手の甲で拭った。

 

「なんだよ...」

 

(初めてだったのに。

シヅクったら、寝てしまうなんて...。

僕の「好き」を聞いてもらえなかった)

 

目尻から次々とこぼれた涙がこめかみを通って、髪を濡らしていく。

 

(どうして涙が出るんだよ...!)

 

「恥ずかしい...」

 

 


 

 

~シヅク~

 

 

私の心臓は痛いくらいにドキドキしていた。

 

気まずくって寝たふりをしてしまった。

 

どうしよう!

 

チャンミンに応えてあげないといけないのに!

 

チャンミンの告白はびっくり仰天、予想外過ぎた。

 

チャンミンの好意は、さりげない言動から伝わっていたけれど、まさか実際に言葉にしてくるとは思いもしなかった。

 

「任務」のために、チャンミンのことを1年間モニタリングしていた。

 

チャンミンの「変化」を注意深く観察していた。

 

チャンミンが熱を出したあの日を境に、チャンミンに「変化」が訪れた。

 

無感動、無感情だったのが、みるみるうちに感情を取り戻していった。

 

実のある会話を交わせるようになってきた。

 

チャンミンの心は、足跡ひとつない朝の新雪。

 

固く閉じられていた扉が開いて、最初の足跡をつけたのは私だ。

 

チャンミンが私に向ける愛情は、「刷り込み」に近いものだったとしても、あんなに綺麗な男の子(男の子っていう年じゃないけどね)に、「好きだ」と言われちゃったりしたら、涙が出るほど嬉しい。

 

こういうことはよくある、と話はきいていた。

 

感情が花開いたその場に立ち会うことの多い『観察者』は、『被験者』たちの変化に感動する。

 

長期間、つかずはなれず側で見守り続けてきたからこそ、その感動が大きいのだ。

 

今の段階で私の口から真実を伝えることは、規則で禁止されている。

 

今すぐ教えてあげたいのに。

 

チャンミンの気持ちに応える前に、教えてあげたい。

 

私の正体を知らせてあげてから、チャンミンの気持ちに応えたい。

 

私もチャンミンのことが好きだよ、って。

 

私も好き、と伝えたら、チャンミンはどうするんだろう。

 

好きと気持ちを伝えたその先、どうしたらいいのか分からないだろうな。

 

キスのその先を、チャンミンは知らない。

 

「先のこと」なんていいじゃない。

 

今の気持ちに素直になればいいじゃない。

 

素直になれないのは、恐れていることがあるからだ。

 

それは、近い将来に真実を知らされたチャンミンが、拒絶の目で私を見るかもしれないこと、

 

そして、私のことを嫌いになるかもしれないこと、

 

でも、これらは全部私の悪い予感に過ぎないかもしれないじゃない。

 

真実を知った後の気持ちの変化については、チャンミン自身が持つ性格や思考に左右されるものだから。

 

過去のデータだと、拒絶される場合とより親密になる場合と半々らしい。

 

そんなことを、わずか30秒くらいの間に考えた。

 

全身がかっかと熱く、頭がボーっとしているけれど、フル回転で考えた。

 

チャンミンに拒絶されるのが怖いから、チャンミンの「好きだ」を無視する気なのか?

 

チャンミンのことが好きなんだろう?

 

拒絶されたらその時だ。

 

受け止めようではないか。

 

チャンミンのぎこちない思いやりの示し方や、ぶっきらぼうなところ、奥手そうで実は積極的なところ。

 

的外れなところも多いけれど、それは仕方がない。

 

彼なりに一生懸命考えて、よちよち歩きで成長しているんだ。

 

それに...。

 

「!」

 

ベッドサイドに置かれた洗面器を見て、ヒヤリとした。

 

「アレ」を見られちゃったな。

 

びっくりしただろうなぁ。

 

チャンミンのことだから、気付かないふりをしていそうだな...。

 

やだな。

 

涙が出てきた。

 

なんでだろ。

 

さらに30秒の間で、結論が出た。

 

シヅクさんは肚をくくったぞ。

 

チャンミンとのキスのその先を、2人で楽しもうじゃないの。

 

よし。

 

「シヅク...?

寝ちゃったのか?」

 

チャンミンが、私の背中を突いている。

 

ため息をついて「恥ずかしい」とつぶやいている。

 

私は勢いよく寝返りを打って、チャンミンと向き合った。

 

「チャンミン」

 

「ん?」

 

仰向けになったチャンミンが、横目で私を見た。

 

泣いてるのか?

 

薄暗い灯りの元、チャンミンの目が光っていた。

 

鼻をぐずぐず言わせていた。

 

どうしてチャンミンが泣いているんだよ...。

 

 


 

 

「泣くなチャンミン」

 

シヅクは指先でチャンミンの涙を拭った。

 

「シヅク...」

 

眉を下げたチャンミンの顔がくしゃくしゃにゆがんだ。

 

「僕は...」

 

あっという間に、シヅクはチャンミンの胸元に引き寄せられていた。

 

チャンミンは火の塊みたいに熱いシヅクを、力いっぱい抱きしめた。

 

(チャンミンにハグされるのは、これで...2度目か?

こらこら、冷静に何考えてるんだ、私?)

 

「聞こえてた?」

 

「うん」

 

「僕の言ったこと、聞こえてた?」

 

「聞いてたよ」

 

「シヅク、寝たふりしてただろ?」

 

(どきぃ)

 

「寝てたよ!

うとうとと。

クスリ飲んだし、熱あるし、ぼーんやりなわけ」

 

「で?」

 

「で、って?」

 

「僕は、シヅクのことが好きです」

 

チャンミンはシヅクを抱く腕に力をこめる。

 

(潔い男だなぁ。

こうもはっきり言われると、調子が狂う。

よし!

私も応えないと)

 

「私も...」

 

シヅクは熱めの湯船に浸かっているかのようだった。

 

38.5℃の体温と、緊張と照れで火照ったチャンミンに包まれて、のぼせそうだった。

 

「私も...好き」

 

チャンミンの腕が一瞬ピクリとしたが、無言のままだった。

 

「......」

 

「こらこら、黙るな」

 

(聞えなかったのか?)

 

「私も、チャンミンのことが好きだよ」

 

「......」

 

「おーい。

チャンミン?」

 

「......」

 

「おい!」

 

「......」

 

「好きだって、言ってんだよ!

聞こえただろ?」

 

チャンミンの胸が小刻みに揺れている。

 

「チャンミン?」

 

(まさか、面白がって笑っているのか?)

 

「おい!」

 

チャンミンを睨みつけようと、胸にくっつけていた顔を上げた。

 

「え!?」

 

チャンミンが嗚咽の声を漏らして、泣いていた。

 

「チャンミン...」

 

シヅクはチャンミンの背中を撫でてやる。

 

「泣くなよ」

 

「だって...」

 

チャンミンはシヅクを深く抱きしめ直して、シヅクの肩に目頭を押しつけた。

 

熱い涙が次から次へと溢れてきて、シヅクのパジャマを濡らしていく。

 

(チャンミン、泣き過ぎだよ)

 

「僕は...嬉しい」

 

「うん、そうだね」

 

「シヅク...好きです」

 

「うん、私も好きだよ」

 

「...嬉しい」

 

「私も、嬉しいよ」

 

(幸せな気持ちというのは、今の気持ちを言うんだろうな。

僕は、幸せだ。

シヅクが僕のことが好きなんだってさ。

幸せだ。

僕もシヅクのことが好きなんだ)

 

「好き」の応酬に疲れた2人。

 

顔を見合わせて苦笑し合う。

 

「チャンミン、鼻水垂れてるよ」

 

「え?

...ホントだ」

 

「しょうがないなぁ」

 

シヅクはパジャマの袖口で、チャンミンの目と鼻をごしごし拭ってやった。

 

 

「......」

「......」

 

自分たちが置かれた状況にはたと気付いた2人の間に、気まずい空気が流れた。

 

(僕はどうして、シヅクのベッドにいるんだ!?

看病するはずが、シヅクと一緒に寝ててどうするんだ!?)

 

(ちっとばかし、くっつき過ぎやしないか?)

 

「チャンミン...腕、離して。

トイレに行きたい」

 

口実を思いついたシヅクは、チャンミンの胸を叩いた。

 

「ごめん!」

 

チャンミンの腕から抜け出すと、シヅクは半身を起こした。

 

(いったん身体を離そう。

クールダウンが必要だ)

 

ぐらりと視界が回る。

 

「おっと!

ふらふらじゃないか!」

 

すかさずチャンミンがシヅクを支えた。

 

「うん...だいじょうぶ...」

 

シヅクの動きが止まった。

 

(足!)

 

床に下ろそうとした脚を素早く布団に隠した途端、

 

「わっ!」

 

チャンミンに抱き上げられて、ふわっとシヅクの視界が高くなった。

 

「こらっ!

チャンミン!」

 

チャンミンの歩みに合わせて揺れるシヅクの裸足に、チャンミンは目をそらさないし、何も言わない。

 

(見られたくないものが、丸見えだ)

 

いたたまれなくなったシヅクは、チャンミンの首にしがみついて顔を埋めた。

 

「......」

 

意外にがっしりとしたチャンミンの首に、無言で頬をくっつけていた。

 

(お姫様抱っこなんて...照れるんですけど)

 

チャンミンはシヅクをトイレの便座に下ろすと、「終わったら呼んでね」とドアを閉めた。

 

「ふう」

 

シヅクは白い天井を振り仰いだ。

 

(夢の中みたい。

吐きそうに具合が悪いのに、頭はふらふらなのに、

喜びがふつふつと湧き上がってくる。

嬉しいよぉ)

 

心の中で「きゃー」っと叫んで、シヅクは自分を抱きしめる。

 

(チャンミンが私のことを好きだって。

私も言っちゃった。

両想いだって。

青春ドラマみたい。

大事件だ大事件だ!!)

 

 

[maxbutton id=”5″ ]   [maxbutton id=”2″ ]

[maxbutton id=”16″ ]