(47)TIME

 

「シヅクこそ、こんなところまで何だよ!」

 

「何って、あんたと話がしたくて待ってたんだよ。

いつまでも来ないからさ、

倒れてんじゃないか心配になってさ」

「僕を病人扱いするのはやめて欲しい。

それにここは、関係者以外立ち入り禁止だよ」

チャンミンは、サブリと立ち上がるとTシャツの裾をしぼった。

(あらあら)

 

濡れたTシャツが、チャンミンの肢体に張り付いて 正しい場所にきれいについた筋肉ひとつひとつが、くっきりと浮かび上がっている。

シヅクは目の前のチャンミンから目が離せない。

「じろじろ見るなって」

チャンミンは、シヅクの視線に気づいて言う。

 

「チャンミン...あんた...

相変わらず、ええ身体してるなぁ」

「見るなって」

チャンミンの耳は真っ赤になる。

(いちいち照れるとは、可愛い奴だ)

「そんな恰好で寒くないわけ?」

「寒いに決まってるだろ」

「上着はどうしたの?」

「濡れたものを着たら、余計寒くなるからに決まってるだろ!」

チャンミンのもの言いに、シヅクはいい加減、腹が立ってきた。

「チャンミン、いい加減にしろ!

何怒ってるんだよ!」

「怒ってなんか...」

「イライラしてるのは確かだろ?」

「......」

シヅクに指摘されたチャンミンはハッとした後、険しかった表情を緩めた。

「どうした、チャンミン?」

「......」

「話きいてやるからさ、話してみな」

「......」

口をつぐんでしまったチャンミンの顔を、シズクは見上げた。

「な?」

チャンミンは、覗き込むシヅクと目を合わせられない。

(だから、それに弱いんだって)

シヅクの視線から逃れるように顔をそむけ、チャンミンは唇を噛む。

「分からないんだ」

チャンミンの低くて、囁くような声を シヅクは初めて聞いた。

「このあたりが...」

チャンミンは、胸元をこぶしで叩く。

「ムカムカするんだ」

「え?

気持ち悪いのか?」

シヅクはチャンミンの背中をさすった。

「違うって、比喩だよ比喩」

「なんだ、気持ちのことか」

「僕はちょっと、おかしいんだ。

無性にイライラ、ムカムカするんだ」

「チャンミン...」

もう一度胸をこぶしで叩くと、チャンミンはその手で目を覆ってしまう。

「ごめん、シヅク。

自分の気持ちをコントロールできない。

こんなことは今までなかったのに...」

チャンミンが手で遮ってしまったため、シヅクは彼の表情を窺えなくなってしまった。

あたりは相変わらず、サーサーと水が流れ落ちる音が響いている。

壁に取り付けられた蛍光灯だけが、この部屋の唯一の照明だった。

「ごめん...大人気なかった」

その灯りが、色濃い影のコントラストでチャンミンの秀でた額と鼻筋を描いている。

シヅクは、鳥肌のたったチャンミンの前腕をさすった。

(可哀そうにチャンミン、

突然の喜怒哀楽を受け止めきれないんだな)

「嫌なことでもあったのか?」

「嫌なこと?」

チャンミンの頭に、街中で目撃したシヅクとカイ君の姿が鮮やかに浮かんだ。

(あの時の...)

昼間、ベンチで一緒にいた二人の光景も思い出した。

(こんなこと、シヅクに恥ずかしくて言えるもんか!)

チャンミンは再び黙り込んでしまった。

「チャンミン...」

シヅクの身体も汗がひいて、冷えてきた。

シヅクは暑くてコートを脱ぎ捨ててきたことを、後悔していた。

冷たい水に浸かったひざ下がじんじんと痛む。

シヅクは視線を、俯くチャンミンから周囲の光景に移した。

(この状況は...あまりにもまずい)

「チャンミン!」

シヅクはチャンミンを小突いた。

「まずはここを出よう」」

「え?」

「水遊びするには、季節が悪い。

このままじゃ、二人とも凍死するぞ」

しっとりと濡れた長めの前髪の下、すがるような眼をしたチャンミンは、はっとする。

「あんたの話はあとで聞いてやるから」

シズクは、天井や壁、膝まで浸かった水を指さした。

「ここから出よう。

私たちには手に負えない」

シヅクがチャンミンの手を引いて、入口まで向かおうとした瞬間、

 

「うわぁ!」

「ひゃぁぁ!」

頭と肩を叩きつける衝撃が二人を襲った。

バスタブをひっくり返したかのような大量の水が、滝のように降り注いできた。

「!!!!」

​「!!!!」

ついで、目の前を黒い物体がかすめたかと思うと、二人の膝近くに水しぶきを上げて落下した。

「......」

「......」

あまりに突然のことで、シヅクとチャンミンは頭を抱えたまま、しばらく身じろぎできずにいた。

(おいおいおいおいおい)

そしてお互いの顔を無言のまま、見合わせる。

 

「なんなんだよ!」

シヅクも全身ずぶ濡れで、頭にはりついた髪からぼたぼたと水がしたたり落ちていた。

天井と壁との境近くの穴から、今もどうどうと水が放水されている。

 

これまでより、早いペースで水かさが増している。

「?」

チャンミンは水中を手探りすると、指先に堅いものに触れた。

引き上げるとそれは、換気口の鉄製カバーだ。

「どこから、こんな大量の水が湧いてくるんだよ!」

チャンミンは、濡れないよう給水ポンプの上に置いておいたタブレットを、操作し始めた。

「どうして早く気付かなかったんだろう」

 

「どうした?」

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(46)TIME

 

 

参ったな。

チャンミンは途方にくれていた。

足首まで水に浸かっていた。

サーサーいう音が、コンクリート作りの室内に反響している。

天井から水が落ちてきて、壁にも水が伝っている。

水位は徐々に上がってきており、スニーカーを履いたつま先が冷たさで凍えていた。

タブレット画面を幾ページもスクロールしてみたが、具体的な対処方法を見つけることができない。

(頼りにならないマニュアルだ)

昼間、タキに指摘されてドーム内を巡るパイプやバルブを1つ1つ確認してみたが、そのどれもが異常なしだった。

それならと、ポンプ室に向かったら、この有り様だった。

出勤した時点では、天井から水がしたたり落ちてもいなかったし、こんな風に床が水びたしにもなっていなかった。

チャンミンは、脚立に上って天井を走るパイプの1本1本を、タンクのバルブ1つ1つを丁寧に見たが、そのどれもが水源ではないことを確認できただけだった。

タンクの底に亀裂があるかもしれないと、床に這いつくばってもみた。

(そういえば、音がいつもよりうるさかったような気もする。

苛立ちの原因を追究するのに忙しかったから、気づかなかったのか?

給水パイプのどこかが詰まって、水を送り出す給水タンクに負荷がかかったせいだろうか?

それなら、もっと早い段階で分かるはずだし)

首をひねっているうちに、天井から滴る水がチャンミンの髪と肩を濡らしていく。

地下にあるポンプ室は、暖房機器もなく、普段からじめじめと冷気が満ちている場所だ。

足元は水に浸かり、雨のように降り注ぐ水でびしょ濡れで凍えそうだった。

チャンミンは、ポンプ室入口のコンクリート製の階段に腰かけた。

階段を2段登った上に、スチール製のドアがある。

(今夜はこのままにしておいて、あとは業者に任せようか)

水かさは、チャンミンのふくらはぎまで到達している。

部屋の片隅でほこりをかぶっていた排水ポンプ見つけて、一瞬、助かったと安堵したが、ポンプに取り付けるホースが見当たらなかった。

役立たずの排水ポンプを、苦々しい気持ちで睨みつける。

「はぁ」

チャンミンは、濡れた前髪をかき上げて、濡れて重くなったジャケットを脱いだ。

壁にかかった、気温計を見やる。

薄いTシャツ姿は摂氏7℃にはふさわしくないが、着ている方がかえって冷えてしまう

(このままじゃ、また風邪をひいてしまう)

「よいしょっと」

両ひざをてこに立ち上がろうとした時、

「!」

ガツンと後頭部を殴られたような衝撃が走る。

勢いで前のめりになったチャンミンは、冷たい水の中に四つん這いになってしまった。

不意打ちと痛みで両手で頭を抱えていると、背後から声がする。

「チャンミン!」

振り向くと、目を真ん丸にしたシズクがいた。

 

 


ドーム内を、チャンミンを探して駆けずり回っていたシヅクは、毎朝彼が点検のため降りるこのポンプ室のことを思い出したのだ。

案の定、地下へ続くハッチが開いていた。

(やっぱり!)

穿たれた暗くて深い穴を、シンプル極まりない梯子を1段1段下りていくのは、高所恐怖症のシヅクにとって、勇気のいる行為だった。

(ったく、こんな穴倉でチャンミンは何やってんだ?)

足が最後の1段から、地面に下り立つと、シヅクは緊張と恐怖でガチガチだった身体の力を抜くことができた。

「はぁ」

胸をなでおろす。

「チャンミーン!」

 

ポンプ室までの十数メートルの廊下は、無人だ。

(部屋ん中で、倒れてるんかな?)

四面がコンクリート製の廊下は、壁に設置された小さな電灯だけで薄暗い。

(なんの音だ?)

梯子を下りていく時も気付いていたが、サーサーと雨が本降りの時のような音がしている。

下へほど、その音は大きくなっていった。

「チャンミーン!」

チャンミンを呼ぶ声が、廊下に響く。

(不気味な場所だな)

ポンプ室のスチール製のドアは突き当りだ。

(叫んでも、中には聞こえんか)

錆と塗装のはげが目立つドアのレバーをつかんで、引っ張る。

(開かん!

鍵がかかってるのか!?)

焦ったシヅクは両手でレバーをつかんで、力いっぱい引っ張った。

(ドアを壊すものがいる!

クワか?

 

スコップか?

幸い、農道具はなんでも揃ってるから助かった!)

地上へ引き返そうとしたシヅクは、はたと気付いた。

(私は、おバカさんか)

レバーをつかんで押と、重いスチールドアは抵抗もなく開いた。

ほっとしたシヅクは、ドアをもっと開けようとする。

「ん?」

ガツンと鈍い音がして、何かにつかえてこれ以上開かない。

開いた隙間から中をのぞく。

「チャンミン!」

Tシャツ姿のチャンミンの背中が見える。

頭を抱えながら振り返って、シヅクの方を睨みつけていた。

「ごめんごめん!」

慌ててシヅクはチャンミンの元へ駆け寄るが、すぐに異変に気付いた。

「冷たっ!」

ステップから踏み出した足の冷たさに驚き、周囲を見回した。

(おいおいおいおいおい)

「なんだよ、これは!」

部屋中水浸しだった。

水が天井から落ち、壁を伝っている。

その中で、膝をついたチャンミンは腰まで水に浸かっている。

「なんで?」

「知るかよ!」

差し出したシヅクの手を、パチンと振り払ったチャンミンはゆらりと立ち上がった。

「ごめんな、痛かったよな?」

後頭部をさするチャンミンを見て、シヅクは謝る。

「まさか、あんたがいるとは思わなくてさ」

「......」

(まずいな、まだ怒ってる)

むっつりと背を向けたチャンミンの背中を見て、シヅクは不安な気持ちになる。

(喜怒哀楽の「怒」が前面に出ちゃってるなぁ。

なにか腹が立つきっかけがあったのかなぁ?

何だろ?)

一方チャンミンは、昼間シヅクに会ったら謝ろうとした気持ちを忘れてしまっていた。

シヅクの顔を見たら、苛立ちの気持ちが湧いてきてしまうのだった。

 

 

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(45)TIME

 

「ありがとう」

チャンミンは、持参してきた水筒から熱いコーヒーをカップに注いでタキに手渡す。

「用意がいいね」

「ここのコーヒーは、美味しくないので」

チャンミンは、先日シヅクが淹れたいたずらコーヒーのことを思い出していた。

「言えてるね」

電源を入れていない電子タバコを、片手でもてあそびながら、タキは笑った。

「始終止めろって言われてるんだけどね」

タキは、チャンミンの視線の先に気付いて言う。

「知ってるかい?」

「はい?」

「この建物は古いだろ?

元は何に使われていたか、知ってるかい?」

「いえ」

チャンミンは仕事を円滑に進めるためにする調べものへの努力は惜しまないが、仕事場の来歴については興味の対象外だった。

「スポーツ試合やイベントがこの場所で開かれていたんだよ。

それを見るために、何万人もの人がこの場所に集まったんだそうだ」

カイは目を細めて、美味しそうにタバコを吸っている。

「そうなんですか」

チャンミンには、ひとつの大空間にびっしりと人が集まっている様子を、想像できない。

「信じられないよな」

 

(100年前か...自分のことさえ曖昧なのに、100年なんて気が遠くなる)

チャンミンは冷めてしまったコーヒーを飲みながら、地面に投げ出したスニーカーのかかとで、砂利を転がしながら思う。

(僕には今しかない)

「体調はどう?」

「大丈夫です」

「大変だな」

「なんとかやってます」

(大人な人だ。

落ち着いている)

チャンミンは、隣に座るタキの精悍で冷静沈着な横顔を、気づかれないよううかがっていた。

(僕も、こんな大人な男になれるだろうか。

無関心ゆえの冷静さではなく、達観したうえでの悠然さでいたい)

「来週、イベントがあるのを聞いてるかい?」

「いえ」

「毎年ここで、ちょっとしたパーティをスタッフでするんだ」

「パーティ?」

「今年は2か月遅れで開催するから...去年のパーティの時は...君はまだいなかったね」

チャンミンは、この植物園に勤めるようになった1年前を思い返す。

(どういうきっかけで、ここで働くようになったんだっけ?

それまでは違うところにいたんだった。

どうしてここに就職することにしたんだっけ?)

案の定、視界が揺れ始めたため、チャンミンは思考をストップさせた。

「大丈夫かい?」

下を向いて深呼吸をするチャンミンの肩を、タキは叩いた。

「すみません」

「得がたい経験ができるよ」

「そうなんですか?」

「ははは。

ミーナとカイ君が中心となって準備してくれるよ」

タキは立ちあがり、ズボンをはたく。

「そろそろ休憩終わりだな。

そうだチャンミン、水の出が悪いそうだ」

「え?」

「スタンドの方。

あそこは高さがあるからな、水圧が弱いんだ」

「見てみます」

チャンミンも立ち上がり、バッグを背負うと管理棟へ向かって歩き出した。

 


 

「お疲れ~」

「お疲れ様」

終業後、シヅクはエントランスのドアの前に立っていた。

次々と退社するスタッフたちに挨拶しながら、彼女には待っている人がいた。

(あいつ遅いな。

いつもなら真っ先に帰るやつなのに)

18時00分。

(遅い)

 

管理棟内は静まりかえり、外は真っ暗だ。

暖房のきいてないホールは冷え冷えとしていて、吐く息は白い。

(寒い...)

顎までうずめたマフラーから漂う爽やかな香りから、チャンミンを感じる。

(今日のチャンミンは変だった

一昨日の夜の電話といい、今朝の仏頂面といいイラついている。

ランチの時も、廊下ですれ違った時も、無視しやがって!)

すれ違いになるのを恐れてエントランスで待っていたが、すっかり身体が冷え切ってしまった。

シヅクは暖房のきいた事務所で待つことにした。

「チャンミンよ、ちょっと失礼するよ」

チャンミンのロッカーの扉を開けてみると、彼のパックはある。

(帰ってない...どこにいるんだ、あいつ。

残業なんかする奴じゃないし...

熱を出したチャンミンは、ここに寝てたんだったな)

シヅクは10日前の夜を思い出しながら、事務所の隅に置かれたソファに横になった。

(お散歩でもしてるんかな。

昼間さんざん歩きまわってるのに、わざわざ散歩なんかしないか...。

...ん?)

​ひじ掛けにのせてぷらぷらと揺らしていたブーツの動きを止める。

(まさか!)

シヅクはがばっと飛び起きる。

(まさか...!

チャンミン...!)

チャンミンがハウスの中で、うつぶせで倒れている姿がシヅクの脳裏に浮かぶ。

(大変だ!)

シヅクは事務所を飛び出し、ドームに向かって廊下を駆ける。

「チャンミーン!」

(大変だ!)

「チャンミーン!」

彼の名前を大声で呼びながら、回廊を走る。

「チャンミーン!」

白目をむいて血を流すチャンミンを想像する。

(頼む!

 

チャンミン!

 

生きていてくれ!)

 

フィールドを突っ切りながら、ハウスを1棟1棟中をのぞいて確認していく。

「いないじゃんか!」

 

シヅクは、最後のハウスの扉を叩きつけるように閉める。

 

「チャンミーン!

かくれんぼしてんじゃねーぞ!」

(あいつの担当してるところは、他にどこだっけ?)

「暑い!」

シヅクの額からは汗が流れ、駆けまわったせいで着ているコートが暑い。

 

(思いつくところは......あそこだ!)

 

肩に食い込むほど重いバッグを放り出し、コートを脱ぎ捨てると、シヅクは再び走りだした。

「チャンミーン!」

(シヅクさんに心配かけさせやがって!)

 

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(44)TIME

 

ハッチの下から梯子を登って地上に出たチャンミンは、目の前にいる二人を見つけて、最初は目を丸くして驚いた表情をしていたが、

その二人がシヅクとカイだと認識すると、一気に仏頂面になる。

「チャ、チャンミン...そうか、点検か!」

 

地下にある給水関係の設備へのアクセスは、ハッチから梯子を下りるしかなく、ドームでの給水、排水設備管理を担当しているチャンミンは、毎朝ここを出入りしていた。

今日は通院のため遅刻してきたため、点検時間が昼近くになっていた。

「びっくりした」

チャンミンは胸をなでおろすシヅクを、睨みつけている。

 

「そうだよ、知ってるだろ?」

「チャンミンさん、おはようございます...って時間じゃないか」

チャンミンは、カイに挨拶されてちらりと見るだけで、挨拶には応えない。

(お!無視ですか、チャンミンさん)

今日のカイのファッションは、黒地に蛍光オレンジの転写プリントTシャツとグレーのパンツだ。

 

シヅクは相変わらずモノトーンでまとめているが、彼女のブーツから赤いソックスがのぞいている。

 

チャンミンは、無地の白Tシャツと、色あせたデニムパンツ、黒一色のスニーカーといった身なりが気になりだした。

 

(自分はなんて、かっこ悪いんだ)

 

シヅクとカイが一緒にいるところに居合わせた苛立ちと、野暮ったい恰好をした自分を恥かしく思った。

 

「シヅク!サボってないで仕事したら?」

 

それだけ言うと、チャンミンはすたすたとフィールドを突っ切っていった。

 

「なんだ、あいつ」

 

カイは、あっけにとられた風のシヅクと、遠ざかるチャンミンを交互に見る。

 

(なるほどね)

 

「チャンミンさんって、あんな人でしたっけ?」

 

可笑しそうに言う。

 

「チャンミンさん、最近おかしいんですよ」

 

「どんな風に?」

 

シヅクはバッグをかき回していた手を止めて、カイの方を振り向いた。

 

「ため息ついたり、僕にジュースおごってくれたり」

「そいつは珍しいね」

 

(周りも気付いてきたか...)

「イライラしてるチャンミンさん、初めて見たかも」

「そうかもね」

答えながら、シヅクは一昨日の夜の、チャンミンがかけてきた電話を思い出す。

 

(チャンミンのやつ、機嫌悪かったよな)

 

「カイ君、あげる」

 

「嬉しいっす」

 

シヅクからもらったミント・キャンディを、口に放り込んだカイは顔をくしゃくしゃにさせた。

 

「腹減った。

飴程度じゃ、腹はふくれんな」

 

カイはシヅクのバッグを見て、くすりと笑う。

「でかいバッグですね」

「そうなんだよー。

何から何までいっぱい詰まってるんだ」

 

よいしょっとシヅクは、バッグを肩にかける。

「シヅクさん、もうすぐ昼ごはんですよ」

「やったね」

 

カイはシヅクと並んで管理棟へ向かいながら思う。

 

(僕らを見た時の、ムッとした態度、

 

僕のことをまるで無視していた。

チャンミンさんの眼付、あの目の色...

先週、「恋わずらいっすか?」ときいた時の反応...

チャンミンさん、分かりやすい人ですね)

 

「カイ君さ、いやらしいこと考えてんのか?」

カイのニヤニヤ顔に気付いて、シヅクはふざける。

「そんなとこです」

 

「やれやれ、若者は盛(さか)ってるなぁ」

 

シヅクは思う。

 

(チャンミンのやつ、本性出してきたな。

 

混乱してるだろうなぁ。

 

感情を持て余してイライラしてるんだろうなぁ。

週末あたりから、えらい怒ってるみたいだし。

なんでだろ。

可哀そうに、フォローしてやらんとな)

 


 

チャンミンは、季節を夏冬反転させているハウスの中にいた。

泥に足をとられながら、水稲の長さを測りながら思う。

 

(僕の中にあるものは、「怒り」だ)

 

水稲はまだ背丈が低く、背の高い彼は深く腰をかがめないといけない。

 

(シヅクに怒りをぶつけてしまった)

だるくなった腰を叩く。

(大人げなかった)

リストバンドを見ると、既に昼休憩の時間になっていた。

 

(あとで謝ろう)

 

チャンミンはハウスを出ると、管理棟からバッグを取り、再びハウスまで戻る。

 

回廊のベンチで、ミーナと昼食をとっていたシヅクが、「おーい」と手を振っていたが、チャンミンは無視してしまった。

シヅクの隣がミーナだったことに、ほっとしているチャンミンだった。

いつものようにドームの壁にもたれて食事をとろうと、ハウスの裏にまわりこむ。

(誰かいる)

「やあ」

 

タキがバツが悪そうに口にくわえていたものを、振って見せた。

 

「どうも」

 

「ここで吸っていたことは内緒にしてくれよ」

 

チャンミンは、タキの手の中の電子タバコを認めると、うなずく。

 

どうやらタキは、全館禁煙のドーム内でこっそりとタバコを吸っていたらしい。

 

「一緒に昼めし、いいかな?

一人の方がいいなら、遠慮するけど?」

 

「構いません」

 

うなずいたチャンミンを確認すると、タキはチャンミンの隣にどっかと座ったのだった。

 

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(43)TIME

 

 

チャンミンは、始業から2時間遅れで出社した。

 

大学病院で、先日と同じ医師の診察を受け、薬を処方してもらったのだ。

渡された処方箋を見ると、薬の種類が変わっていた。

(まあ、いっか)

待ち時間や人ごみに疲れていたチャンミンは、薬のボトルを無造作にバッグに放り込み、職場へと急いだ。

 


 

スタッフたちは持ち場についており、事務所にいるのは課長だけだった。

「おはようございます」

ひとり早々と昼食をとっていた課長は、口の中の物を咀嚼しながら、

「やあ、チャンミン君...今朝は病院だったね」

「はい、ご迷惑をおかけしています」

「気にしなくていいんだよ、のんびりやればいい」

課長は、頭を下げるチャンミをまあまあと手で制し、

 

「ひどいのか?」

「はい?」

PCを立ち上げて、業務計画表を確認していたチャンミンは、手を止める。

「薬があるので」

「無理はしないように」

「はい」

・・・

 

(注目されるのは苦手だ)

給水ポンプ室のメーターパネルの数値を確認しながら、チャンミンは思う。

(自分の様子をうかがわれたり、心配されるのは、居心地が悪い)

周囲から気遣いの言葉をかけられる対象になっている自分を、かっこ悪かった。

(周りからどう見られてるなんて、気にもならなかったのに、

 

僕のことは、放っておいて欲しい)

診察では、頭痛の原因については「ストレスでしょう」とのことだ。

「予防薬は欠かさず飲んでください」

(ストレス、と言ったって、何のストレスだよ。

僕はこんなにマイペースに生きているのに)

モーターの低くうなる音が普段より大きく感じたが、数値は正常だ。

イラついたチャンミンは、メーターボックスの蓋を荒々しく閉める。

​コンクリートの階段を上がった先の、重いスチール製ドアを引き、ポンプ室を出ていった。

 


 

「シヅクさん」

ベンチにごろりと横になっていたシヅクは、跳ね起きた。

「カイ君か!びっくりした!」

生垣の陰からひょいと現れたカイは、起き上がったシヅクの隣に、どかりと座る。

カイは半袖Tシャツ姿で、腰に脱いだジャケットの腕を結んでいる。

ドーム屋根からやわらかに降り注ぐ12月の日光が、色素の薄いカイの髪色は金色に透かしている。

「こんなところでさぼってたんですね」

「そんなとこかな」

シヅクは、作成途中だったタブレットをスリープモードにして、バッグに押し込んだ。

今日は、ポカポカと天気が良く、ドームの中は上着が必要ないほど暖かい。

シヅクもジャケットを脱いで、枕代わりにしていた。

「いいところですね」

鉄製のガーデンテーブルとベンチが置かれたそこは、ぐるりと生垣で覆われている。

この場所はシヅクのお気に入りの場所だ。

「わざわざこんな端っこに誰もこないからね」

地面はコンクリート製で、排水、給水、電気系統の点検のため出入りできる鉄製のハッチが並んでいる。

「髪の毛、はねてますよ」

腕を伸ばしてカイは、シヅクのはねた髪を優しくなでつけた。

「あ、ありがと」

カイの流れるような動作は、シヅクはドキリとする間もないほど自然だ。

シヅクは、カイが触れたばかりの髪をなでつけながら、

「カイ君さ、モテるでしょ?」

「ハハハっ!シヅクさん、そればっかですね」

カイはぷっと吹き出した。

「手がかかる姉がいるからですかね」

「かまってちゃん、ってこと?」

「そうじゃなくて、おっちょこちょい度が異常なんです。

それの後始末をしているうちに、身についたというか...」

「ふうん」

シヅクもカイも、組んだ腕に頭をあずけてドームの天井を見上げた。

「シヅクさんは、付き合ってる人はいないんですか?」

「いたらいいなぁ、とは思うよ」

チャンミンの顔がちらりとシヅクの脳裏に浮かぶ。

​(チャンミンと、付き合うことはあり得るのだろうか?)

カイは、ちらりと隣のシヅクを盗み見る。

そばかすが目立つ化粧っけのない肌や、うっとりと空を見上げる横顔をきれいだと思った。

「シヅクさんは、ショートヘアが似合いますね」

「そう言ってくれると嬉しいわぁ」

「シヅクさんの雰囲気に合ってます」

「ありがと。

これな、自分で切ってんの」

「へぇ...ワイルドですね」

「美容院での会話が面倒なんだよな」

カイは横向きに座りなおす。

「あはは、シヅクさんってそんな感じ。

そうそう、

姉はサロンに勤めてるんですよ」

「お姉さん、美容師か何か?」

「いいえ、エステティシャンです。

サロンに併設してるエステサロンです。

もしシヅクさんが、プロに髪を切ってもらいたくなったら、チケットあげますから、いつでも言ってくださいね」

「ありがと」

シヅクも横向きに座りなおして、カイの方を向く。

「もっと、女らしくせんと、彼氏なんてできんのかな」

カイは口角を上げて笑う。

(笑うとますます、お人形さんみたいやな)

「シヅクさんはそのままでいいんです」

可憐で、同時に華やかな笑顔から目が離せないシヅク。

「カイ君がそう言ってくれると、お世辞でも嬉しいよ」

カイはシヅクと目を合わせたまま、小首をかしげてさらに笑顔を深める。

(はぁ、カイ君よ、その笑顔は反則だよ)

「僕も彼女が欲しいです」

軽くため息をついたカイは、肩をすくめる。

「はぁ?

何言っとんの!」

「女友達はいても、恋人はいないんですよ」

「贅沢な悩みやな!」

シヅクはカイの肩を突くと、ケラケラ笑った。

カイは思う。

(シヅクさん、今はまだ僕のことを眼中にない感じですね。

僕は年下過ぎますか?)

「いい天気やなぁ」

「そうですね、眠くなってきますね」

ガタガタと金属音がする。

足元に並んだハッチのひとつがキィと開き、頭がぬっと現れた。

「わっ!」

シヅクとカイは大声を出し、飛び上がる。

頭の持ち主は、チャンミンだった。

 

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