【短編】恋人のTシャツ★

 

身体を丸めて眠るあなたを起こさないよう、

マットレスを揺らさないよう、

そっとベッドから降りた。

 

すやすやと眠るあなたが、あまりにも美しかったから、

つるんとしたおでこに軽く唇を押し当てた。

 

昨夜、僕らが脱ぎ捨てていった衣服を、順番に拾い上げていく。

 

胸に沁みる甘い余韻。

 

ちょっとしたイタズラを思いついた僕。

 

きっと驚くだろうな。

 

そして、ちょっとだけ怒るだろうな。

 

でも、あなたのことだから、最後には笑顔になってくれるはず。

 


 

目覚めたら隣には彼はいなくて、

半身を起こしてぼんやりした頭で昨夜のことを思い出す。

 

長期出張から戻ったばかりのチャンミンに、性急に求められるまま身を預けた。

 

私たちが抱き合うのは1か月ぶりだったから、それはもう...。

 

重だるい身体も、甘い余韻だ。

 

コーヒーのいい香りが漂ってくる。

 

床に散らばっているはずの下着を探したけれど、見当たらない。

 

困ったな。

 

「起きた?」

 

チャンミンが寝室に私を呼びに来た。

 

「朝ごはんが出来たよ。

キッチンまでおいで」

 

慌てて私は布団にもぐりこみ、顔だけ出した。

 

抱き合う時は、いくらだって裸の姿をさらけ出せるのに、一夜明けて、昼間の光の下では恥ずかしい。

 

「私の服は?

とってくれる?」

 

とお願いしたら、チャンミンったら。

 

「それがないんです」

 

って、眉を下げて困った顔で言うんだ。

 

「ない?」

 

意味が分からなくて、首をかしげていたら、

 

「全部、洗っちゃったんです。

僕のものも、あなたのものも」

 

ふふふ、っとチャンミンは笑う。

 

「え!?」

 

「僕のTシャツを貸してあげますよ。

さあ、早く起きた起きた。

お腹が空いたね。

ご飯にしましょう」

 

手渡されたTシャツに袖を通すと、チャンミンの匂いに包まれて、甘やかな気持ちになる。

 

 


 

 

「素敵な眺めですねぇ。

僕が貸した服を着た恋人って、色っぽいものですねぇ」

 

「恥ずかし過ぎる!」

 

チャンミンが引いてくれた椅子に、Tシャツの裾をぎゅっと引っ張りながらそろそろと腰かけた。

 

「はい、コーヒー」

 

「ありがとう」

 

チャンミンが淹れてくれたコーヒーは、熱くて濃くて、美味しくて。

 

青いニットを着たチャンミンの背中を見つめる。

 

私のために、美味しいものを作ってくれるチャンミンの背中。

 

こういった、日常のちょっとした景色の1カットを、

チャンミンと過ごすひとときを、大切にしたいと思った。

 

 


 

 

「乾燥機が壊れちゃったんですよね。

乾くまでに...半日はかかるでしょうね」

 

と言ったら、

 

「帰れないじゃないか!」

 

って当然ながら、あなたは怒った。

 

「困りましたね。

どこにもでかけられませんね」

 

そう言ったら、あなたは僕の作戦に気付いて、

 

「仕方がないなぁ」

 

って苦笑した。

 

僕は、あなたのちょっと困った顔が大好きなんだ。

 

ブラインドを閉きった窓ガラスの向こうは、初夏の景色。

 

今日も暑くなりそうだけど、

 

エアコンの効いた快適な部屋で、

 

僕らは一日二人きり。

 

さあ、何をして過ごしましょうか?

 

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(前編)おかえりパンケーキ★

 

サトコさんは僕の奥さんだ。

10日前、僕らは喧嘩をして、その結果サトコさんが家を飛び出してしまった。

サトコさんのことだから、マンション前の植え込みの陰にしゃがんで、追いかける僕を待っていたかもしれない。

僕は相当腹を立てていたから、サトコさんを追わなかった。

それがいけなかった。

10日間のあいだ、どこで寝泊まりしてたのやら。

「奥さんが出勤していないのですが...?」なんていう連絡はなかったから、仕事には行っていたようだ。

「ビジネスホテル生活も、10日続くと辛いわ」

僕らはレンジで温めたパンケーキを前にしていた。

焼き立ての時と比べると、ちょっとしんなりしているけど、アイスとホイップクリームにまみれて、ひと口ひと口が至福の塊だ。

「家出してごめんね」

「僕も、キツイこと言って、ごめん」


喧嘩の詳細はこうだ。

 

友人夫婦に赤ちゃんができたと聞いて、お祝いの気持ちで赤ちゃんグッズをプレゼントしようと思った。

このことをサトコさんに伝えたら、拒絶された。

僕らのクローゼットには、赤ちゃんグッズが詰まっている。

赤ちゃん5人分。

これらは、永遠に誕生することのない、僕らの赤ちゃんのために買い揃え続けてきたものだ。

僕らには必要ないもの。

でも、手放しがたいもの。

とはいえ、永遠に溜め込みつづけるわけにはいかない。

少しずつ手放していかないといけない。

本当に必要としてくれる人の元へ、譲ってあげようよ。

サトコさんにその決心がつくまで、僕は待ち続けていた。

「少しくらい減ってもいいじゃないか。

 また買えばいいじゃないか!」

 って、酷い言葉を吐いてしまった。

 サトコさんは、とにかく赤ん坊を欲しがった。

 結婚2年目で、僕らには子供が出来ないことが判明した。

 サトコさんの頭の中は、赤ん坊のことでいっぱいだった。

その気持ちが強すぎて、定期的にサトコさんは“フェイク妊娠”する。

「赤ちゃんができたの」のサトコさんの一言で、ゲームは始まる。

僕もサトコさんに合わせて、彼女が“妊婦さん”であるかのように接する。

赤ちゃんの誕生を待ち望む夫婦の姿を、演じる。

そして、ある日突然、「赤ちゃん、駄目だったの」で幕を下ろす。

可笑しいだろ?

「サトコさんが妊娠したかも」ごっこも、5回を迎えると疲れてきた。

哀しくなってきた。

クローゼットの中には、回を重ねるごとに増殖するものたち。

夫の僕と、赤ちゃんと、どちらが大切なんだ?

いい加減、隣にいる僕と正面から向き合って欲しかった。

 「サトコさんには、僕が見えないのか!」って怒鳴った。

気持ちを切り替えて、僕と二人の人生を歩む覚悟を決めて欲しかった。

彼女の哀しみに寄り添ってきた僕だけど、とうとうやりきれない思いが爆発してしまった。

「いい加減にしろ!」って。

僕がいるだけじゃ、足りないのか?って。

彼女は心底驚いただろう。

結婚して初めて、僕の怒鳴る声を聞いたんだから。

真剣に怒る僕を初めて見たんだから。

帰宅してソファに置いたばかりのバッグをつかんで、脱いだばかりのジャケットを羽織ると、サトコさんは無言のまま家を出ていった。

あれから10日間、家に帰ってこなかった。

携帯電話がキッチンカウンターに置きっぱなしで、サトコさんに連絡しようにも出来なかった。


「また買えばいい」だなんて酷すぎた。

赤ちゃんを産めないサトコさんに言ったらいけない言葉だった。

それでも、いつまでもごまかしの日々は御免だった。

本音をぶつけたことを、僕は全然、後悔していない。

 

どこかで、伝えなくちゃいけない言葉だった。

 

伝え方が悪くて、サトコさんにショックを与えてしまったけど。

 

僕の正直な気持ちを隠すことなく伝えたかった。

僕はサトコさんのことが大事だから。

「ねぇ、チャンミン。

家出してる間にね、

ホテルのエレベーターの注意書きが、すごいシュールで面白かったの。

この可笑しさは、チャンミンじゃなきゃ理解できないくらいのシュールさだったの。

チャンミンと共有したかった。

 でね、写真を撮ってチャンミンに送ろうとしたんだけど、携帯を忘れていっちゃったから。

 それで、とりに家に寄ったんだけど、なくて...」

 「ごめん、僕が持ち歩いてた」

「そうだったんだ。

 でも、かえって良かったかも。

全く連絡がとれなかったおかげで、チャンミンのありがたさが、よ~く分かったの」

「ありがたみ?

どれだけ僕のことを愛してるか、じゃなくて?」

 「分かってるくせに」

「ははっ」

 「ちゃんと帰ってきたでしょ」

 「サトコさんが帰る場所は、僕の場所~♪」

 「チャンミン、歌うまいねー」

サトコさんは、パチパチと手を叩いた。

 僕は調子に乗って、言葉をメロディにのせた。

 

「サトコさん~♪

ひどいこと言って、ごめんね~♪

これからも~、サトコさんの~♪

 “赤ちゃんできちゃったごっこ”を~、やろうね~♪」

 「チャンミーン!」

 サトコさんが僕に抱きついてきた。

 「もうやらない」

 「そんなこと言わないで。

いくらでも付き合うよ~♪」

「ううん。

もうやらない。

あの日、チャンミンの本音が聞けてよかった。

チャンミンの言葉で、目が覚めた」

「サトコさん...」

 「自分の気持ちを押し付けてばかりだった。

悲劇のヒロインぶってた。

チャンミンの気持ちなんか、全然考えてなかった。

チャンミンはずっと隣にいてくれたのに」

「サトコさん...」

僕は、サトコさんの頭をよしよしとなでた。

「怒鳴ってゴメン」

「キツい言葉だったけれど、あれがチャンミンの本音でしょ?」

「うん」

「そういう正直なところに惚れました」

「やっぱり?」

「チャンミンが、私の会社まで迎えに来なくてよかったー。

『妻は来ていますか?』なーんて、電話がかかってきたらどうしよう、って。

気持ちの整理ができる前に、チャンミンに会いたくなかったから」

「恥をかかせるようなことはしないよ。

僕がサトコさんを追いかけなかったのは、僕にも気持ちを整理する時間が必要だったし、

もしサトコさんがいなくなったら、僕はどうなっちゃうんだろうって。

確認してみたかったんだ」

「で、どうだった?」

「わかってるくせに」

サトコさんの膝裏に腕を通して、お姫様だっこする。

「きゃー」

サトコさんはこうされることが、好きなんだ。

「帰ってくるのが1日遅かったら、危なかったですよ。

明日になったら、サトコさんの会社に迎えに行くつもりでしたから」

「それは困る!」

「でさ、

そのシュールな注意書きって何?

教えてよ!」

「なんて言いつつ、

寝室に向かってるのは、どういうわけ?」

 

 

(おしまい)

 

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【短編】僕は猫★

 

僕はアヤさんのことが大好きだ。

僕の頭や背中を撫でる手のひらも、腕に抱かれて柔らかなアヤさんの胸に顔をうずめることも大好きだ。

僕を呼ぶ優しい声音も、アヤさんの足首にまとわりつくことも、全部全部、大好きだ。

僕はアヤさんのベッドで目を覚まし、昼間はアヤさんの帰宅を待ち、夜は再び、アヤさんのベッドで眠る。

アヤさんのことが大好きだから、アヤさんの部屋を訪ねてくる男の人が大嫌いだ。

彼がやってきた時は、僕はケージに閉じ込められる。

どんなに鳴いても、アヤさんの部屋のドアは閉まったままなんだ。

頭にきたから、この前、僕を抱っこしようとした時、僕は彼の腕を思い切りひっかいてやった。

「こら!チャンミン駄目よ」

と、アヤさんに怒られたけどね。

いいんだ、僕のアヤさんをとっちゃう奴なんか大嫌いだ。

 

だけど、僕には心配ごとがある。

アヤさんの様子がおかしいんだ。

お酒をたくさん飲むようになったし、

スマホの画面を見つめては何度もため息をついたり、

僕へのご飯を忘れたり、

ベッドの中で、シクシクと泣いているんだ。

アヤさんのまぶたから、次々と流れ落ちる涙を、僕は舐めてあげた。

「チャンミン、ありがとう」と僕をなでながらも、アヤさんの涙は止まらない。

「彼がね、仕事が忙しいからって、当分会えないって」

アヤさんはすごく、悲しんでいる。

アヤさんを泣かせる奴は許さない。

でも、アヤさんの頬を舐めるのが、僕にできる唯一のこと。

アヤさんの腕に抱かれるばかりじゃなく、僕はアヤさんを胸に抱いて慰めてあげたい。

僕だったら、アヤさんに寂しい思いはさせない。

どうか神様、1日だけでもいいから、僕にアヤさんを守る力を下さい。

​最近、そう強く願っているんだ。


窓から注ぐ朝日の光で、部屋の中は真っ白にまぶしい。

僕は毎朝、アヤさんより早く起きるようにしている。

うっすらとまぶたを開けると、ウェーブがかったアヤさんの頭が見える。

あれ?と思った。

いつもなら目を覚ますと、最初に目に飛び込んでくるのは、アヤさんの胸元のはずなのに。

前脚を持ち上げてみたら、毛むくじゃらじゃない、すべすべの腕。

​顔を触ると、やっぱりすべすべ、髭もない。

がばりと飛び起きて、僕は身体のすみずみまで点検する。

洗面所まで走って行って(2足歩行ができる!)、鏡で顔を映してみた。

やった!

人間だ!

​願いが叶った!

あまりの嬉しさに小躍りしていると、「チャンミーン」と寝室から僕を呼ぶ声が。

​「アヤさん!」

アヤさんの元へ駆け戻ると、

「チャンミンったら、裸じゃないの、風邪ひくわよ」

と、アヤさんはクスクス笑った。


「今日は、何しよっか?」

アヤさんは、ニコニコと楽しそうに僕にたずねた。

僕は牛乳をひと口飲んでから、

「散歩して、買い物して、一緒にご飯を作りたい」

と答えた。

「いいわね!そんな普通な過ごし方って、今までしたことなかったから」

キラキラ光るアヤさんの目。

「今すぐ出かけましょう!」

僕が人間でいられるのは、たった1日だけ。

​1分でも無駄にできない。

「化粧なんかしなくても、アヤさんは綺麗なんだから!」

着替えに手間取るアヤさんを急かして、僕は、アヤさんの彼のものだという洋服を着て、外出までこぎつけた。

僕はずっとアヤさんと手をつないでいた。

アヤさんの手の小ささに、僕は愛おしい気持ちでいっぱいだった。

「アヤさんのことが、大好きです」

​「僕はアヤさんのことが、大切です」

​「アヤさんとこうして、一緒にいられて幸せです」

アヤさんが照れても、僕は構わず、何度も気持ちを伝えた。

愛情を言葉で伝えられるって、なんて幸せなことなんだろう。

アヤさんの隣を歩いて、スーパーで一緒に買い物をして、同じ部屋に帰って、1つのテーブルで食事をする。

​すべてが貴重で、今日だけの思い出だ。

アヤさんは、一日中、笑っていた。

アヤさんの笑顔がまぶしくて、僕は彼女をギュッと抱きしめてしまう。

​何度も何度もアヤさんを抱きしめた。

「僕はアヤさんの味方です、どんなときも」

「僕は何があっても、アヤさんを守るから」

アヤさんは、「チャンミンったら​」と照れてばかりだったけど、しまいには泣いてしまった。

​僕は「ごめんね」と謝って、アヤさんを抱く腕の力をさら強めた。

僕の腕の中にすっぽりとおさまってしまうアヤさんが愛おしい。

でも、

楽しい時間は、過ぎるのがあっという間だ。

僕は、アヤさんと交わした言葉のひとつひとつを、アヤさんと一緒に見た景色を、絶対に忘れないように、心に刻んだ。

明日からは、彼女と会話を交わすことは出来ない。

アヤさんを抱きしめてあげることもできない。

​ただの猫に戻って、彼女に可愛がってもらうだけの存在になってしまうから。

アヤさんとひとつベッドで横になった時も、僕は彼女の手を握っていた。

「私はどこにもいかないわよ」

アヤさんはくるりと寝返りをうって、僕の方を見た。

「ずっとチャンミンの側にいるから」

でもね、アヤさん、人間のチャンミンは今日でどこかへいってしまうんだよ。

アヤさんの潤んだ瞳を見つめているうち、僕の目から涙がこぼれ落ちた。

僕はこのまま、人間の男でいたいよ。

「やだ、泣いてるの?」

アヤさんは、親指でそっと僕の涙を拭いてくれる。

ますます切なくなってしまって、僕はアヤさんの胸にしがみついて、もっと泣いてしまった。

「おかしなチャンミン」

​アヤさんは僕の背中をとんとんと、なだめるように叩いてくれた。

​これじゃあ、いつもと同じじゃないか、アヤさんに抱かれるなんて!

僕は思いきって、アヤさんの小さな顔を両手で包んで、彼女の唇にやさしくキスをした。

「チャンミン、嬉しい」

アヤさんも、やさしく僕にキスをしてくれた。

僕の心は、幸福でいっぱいになった。

アヤさんをギュッと抱きしめた。

アヤさんも、僕の背中に手をまわして、僕を抱きしめてくれた。

​このまま夜が明けなければいいのに。

神様は、2つもお願いはきいてくれないだろうな。

​僕は猫。

アヤさんに飼われている、ちっぽけな猫。

人間の男になって、アヤさんと一緒に過ごせた今日一日のことを、僕は死ぬまで忘れないだろう。

 


今日もいい天気。

私の肩の重みは、彼の腕。

​横向きに、軽く口を開けて眠っている彼の、寝ぐせだらけの髪をなでる。

パチッと彼の目が開いた。

​「もっとなでて、気持ちいいから」

「いいわよ、いくらでも」

​彼は、猫みたいに私の胸に頬をすり寄せてきた。

「チャンミンみたい」

「僕も猫になりたい。ずっとアヤさんの側にいたい」

「本気?さあ、チャンミンを出してあげないと」

彼をベッドに残したまま、リビングに置かれたケージからチャンミンを出してやる。

​チャンミンを抱き上げ寝室に戻ると、彼は起き上がってTシャツの袖に腕を通しているところだった。

彼の腕に走る痛々しい傷。

「跡が残るかもしれないわね、ごめんなさい、うちのチャンミンが」

​「いいんだよ。彼が怒るのも当然だ。僕はいつも君を一人にしていたから」

彼は腰かけたベッドを叩いたので、その隣に私は座る。

「ねぇ、アヤさん」

彼は、チャンミンを抱いたままの私の肩に腕をまわした。

​「僕は昨夜、不思議な夢をみたんだ」

「どんな?」

「僕は...猫になっていた、君のチャンミンに。

毎晩、君がどんなに寂しい思いをしているかを思い知ったんだ。

​それから、君と過ごす時間がどれだけ大切なものかも」

「あなたが猫に?」

「チャンミンがアヤさんのことが好きでたまらないことも、よく分かったんだ」

「チャンミンは私にべったりだからね」

彼は微笑んだ。

​「...なんだか妙な気持ちになるよ。

君のチャンミンと、僕が同じ名前だなんて」

私は、チャンミンの肩に寄りかかった。

​「だって、あなたがプレゼントしてくれた猫だから。

あなたの名前を呼んでいたいの」

チャンミンはクスクス笑って、私の頭を引き寄せた。

​「ねえ、アヤさん」

チャンミンは私の顔を覗き込んだ。

「僕は忙しいから、なかなか君に会える時間がとれない。

でも、君と少しでも、一緒にいたい気持ちは強いんだ。

​だから、解決法を考えたんだ」

チャンミンは言葉を切ると、ふっと真面目な表情になる。

「僕と一緒に住みませんか?」

「えっ?」

「僕と住みましょう」

「チャン...ミン?」

「僕がどんなに忙しくても、帰るところはアヤさんの元です。

もちろん、アヤさんが忙しくても、帰るところは僕と一緒の場所です」

私の目にみるみる涙が膨れ上がるのが分かる。

チャンミンはぎゅうっと私の手を握った。

​フーフーいう猫のチャンミンの頭を、彼はなでた。

「実は、数軒ほど目星をつけてるんです」

ひっかこうとする猫のチャンミンのパンチを、避けながら彼は私の手を引いて立ち上がらせた。

「心配しないで、アヤさん。ペットが飼えるところをセレクトしてあります」

涙をこらえる私の頬を、チャンミンは両手で包んだ。

「早くでかけましょう、今すぐ!」

「えー、でも、メイクも洋服も未だ...」

「アヤさんは、化粧をしなくても、十分綺麗ですよ」

​チャンミンは、チュッと音をたてて、私にキスをした。

 

 

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【短編】Chocolate Night★

 

 

 

「シヅクは、チョコレートは好き?」

「はあ?」

マグカップから唇を離して、シヅクは信じられないといった表情になる。

「今、私はココアを飲んでんだよ?すっとぼけてんじゃないよ、チャンミン」

「いや...一応、確認しようとしただけ」

湯気立つマグカップの中身を、美味しそうに飲むシヅク。

その姿を優しいまなざしで、見つめるチャンミンであった。

 ・・・・・・

「何だよ、これ?」

「いいから、シヅクはこれを付けて」

二人がいるのは、チャンミンの部屋の玄関先。

シヅクはチャンミンに誘われて、彼の部屋を訪ねていた。

​「あんた...正気?」

シヅクは、チャンミンに手渡されたものを凝視した。

手の中のものは、黒いアイマスク。

「チャンミン...」

(チャンミンのやつ...目隠しプレイでもする気か⁉)

「早く付けてよ、シヅク!」

​(これから私は裸にされるんかな?

チャンミンの知られざる性癖を垣間見たような気がする...)

「あ!こら!強引だな!」

待ちきれないチャンミンは、シヅクの目をアイマスクで覆う。

(わかったよ、チャンミン、お手並み拝見だ)

チャンミンは、ぶつぶつ文句を言うシヅクの手を引いて、リビングへ連れて行く。

「椅子はここ、座ってシヅク」

シヅクは、チャンミンに肩を押されて椅子に座り、

彼が立ち働く物音や、テーブルの上でカチャカチャいう食器を音を、視界を遮られた状態で聞いていた。

​(チャンミンの奴...何か計画があるらしいな)

少しづつ、シヅクの心も期待感が満ちてきた。

「お待たせ、です」

するりとアイマスクを外され、まぶしさでまばたきを繰り返していたシヅクも、次第に目が慣れてきた。

​「わぁぁぁ!」

​テーブルはキャンドルの黄色い灯り、ワインレッドのテーブルクロスに、ダークブルーのナプキン。

​正面に置かれているのは、繊細なカットがきらめくガラスのお皿にのせられた、チョコレート・ムース・ケーキ。

​「チャンミン...これ、あんたが作ったの?」

「そうだよ。

ほら、今日は、バレンタインでしょう?」

「男のあんたが、ケーキ焼いてどうすんだよ、逆だぞ、普通?」

「恋人への贈り物なんだから、関係ないだろう?」

「確かにな...美味しそう!ほんと、あんたって器用だね」

「僕は、何でもできるようになる男だから」

​「ちょっとは謙遜しろよ、こら」

「このケーキには、シャンパンが合うから」

「お!奮発したねぇ」

​「どうぞ、召し上がれ」

​チリンとグラスを合わせ、シヅクはスプーンをとった。

ふわっと柔らかい生地に、濃厚なチョコレート、ブランデーの香り。

「うまいなー、いいよチャンミン、最高だ!」

シヅクのスプーンの手は止まらない。

​「うまい」を連呼しながら食べるシヅクを、チャンミンは頬杖をついてニコニコと眺めていた。

「チャンミンは?食べないの?」

「食べるよー、シヅクが食べ終わったら」

「ふうん」

​シヅクのケーキは、早くも半分。

チャンミンの表情が真顔になってきた。

「あ、シヅク?」

「うぐっ」

「わっ!」

のどを詰まらせて、シヅクは胸を叩いた。

「シヅク!もっとゆっくり!味わって!」

「わかったわかった」

「お願いですから、ゆっくり食べてよ」

シヅクは、チャンミンにグラスの水を手渡され、飲み干した。

「あんた、早く食べなよ。せっかくなんだから、一緒にさ?」

「う、うん」

「変な奴」

「どう?」

​「美味しいよ」

スプーンを手に取ったが、チャンミンはシヅクの様子を見つめるばかり。

「見られてると、食べにくいなぁ」

​「......」

チャンミンの顔が固い表情に変わってきた。

「シヅク...!」

「ごちそうさま」

シヅクのスプーンが、チリンとガラス皿に置かれた時、

​チャンミンの顔は、信じられないといった表情になっていた。

「シヅク...」

「チャンミン、美味しかったよ、ありがとな...?​」

「シヅク...」

シヅクが最後まで言う前に、チャンミンがシヅクに飛びついてきた。

「おいっ、チャン...」

(いきなり、押し倒すんか⁉)

チャンミンは、シヅクを抱きしめた。

「チャンミン...興奮すんな...!」

​「シヅク!」

​チャンミンはシヅクを抱いていた腕を伸ばして、シヅクの顔を覗き込んだ。

「なんだよ!びっくりするじゃんか!​」

「大変だ!シヅク!」

チャンミンはシヅクの肩を揺さぶった。

​「大変だ!」

「こらこら、チャンミン!」

「シヅク!病院へ行こう!」

​「はぁ?」

「病院へ行かないと!」

「なんでだよ!」

「早く!」

チャンミンは、てきぱきとコートを羽織り、バッグを取ると、椅子に座ったままのシヅクの手を引っ張った。

「ほら、立って!」

チャンミンは、ぽかんとするシヅクにもコートを羽織らせ、マフラーを巻いてやり、シヅクのバッグを抱えた。

「行きますよ!」

​チャンミンはひどく慌てて、玄関に向かいながら、

「シヅクったら、あなたって人は!」

「だから何だよ!」

​「全く、あなたって人は!」

半ば泣きそうな顔でチャンミンは振り向いた。

「シヅクは食いしん坊なんだよ!」

「そうだよ、悪いか?」

​「あれほどゆっくり食べて、って言ったじゃないか!」

「美味しかったから、ペロリと」

唇の端にチョコレートがついたままのシヅクを、じっと見ていたチャンミンの顔色がみるみる蒼くなってきた。

シヅクを玄関に置いたまま、チャンミンはリビングに戻った。

「おーい、チャンミンったら!」

​チャンミンはテーブルにつくと、やおら自分のケーキを食べ始めた。

(おいおいおいおい)

​チョコレートケーキが、チャンミンの大きな口にどんどんと消えていく。

(チャンミンこそ、病院へ行ったほうがいいんじゃないか?)

​「!」

残り半分、となったとき、チャンミンは突然、口を押えた。

「大丈夫⁉」

今度はシヅクが青くなって、チャンミンに駆け寄った。

​「チャンミン!毒か?毒が入ってたか?」

チャンミンはまだ、口を覆っている。

「......」

「まてまて、洗面器持ってくるから、我慢してろよ」

チャンミンは、口元から手を外すと、その手を握り締めた。

「シヅク!」

​呼び止められてシヅクは、チャンミンを振り向いた。

肩を震わせ、うつむいていたチャンミンは、きっと顔を上げた。

​「僕は、馬鹿だ」

「チャンミン?」

「僕は大馬鹿だ!」

チャンミンは立ち上がって、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。

​(チャンミンがおかしくなっちゃった!)

涙目になったチャンミンは、シヅクの手を握った。

「チャンミン?」

​シヅクは、自分の手指を広げた。

「?」

手のひらには、小さな指輪。

シヅクはそれをつまんで、目の上にかざした。

チョコレートにまみれていたが、チカリと小さな石が光る、華奢で繊細なアクセサリーだ。

「チャンミン...あんた...?」

「そうだよ!」

​ボサボサ頭になったチャンミンは、真っ赤な目をして叫んだ。

「ケーキを間違えた。

計画では、シヅクのケーキの中にあるはずだったんだ。

いつまでたっても、出てこないから、

シヅクは、バクバク食べてたから、

僕は、てっきり...

​シヅクがそれを飲み込んじゃったんかと思って...」

「チャンミン...」

「あなたはいつも、犬みたいに食べるから」

「おい!」

「丸呑みしたんだと思ったんだ。

でも、僕のケーキの中にあって...って、うわっ!」

シヅクはチャンミンに抱きついていた。

​「チャンミーン...可愛いやっちゃな!」

シヅクは、チャンミンの頭をくしゃくしゃにする。

​「あんた、私を驚かそうとしてたんやな?」

チャンミンの髪はシヅクによって、ますます乱された。

「シヅク!...僕は犬じゃない!」

シヅクは満面の笑顔だった。

​「あんた、私にプレゼントしようとしたんやな?」

「そ、そうだよ」

​「嬉しい!」

「つけてみせてよ、シヅク」

「すっとぼけたこと言ってるんじゃないよ、男のあんたがはめるんだよ!」

チャンミンはシヅクの手を取り、シヅクの右手薬指にそれをはめようとした。

「...あれ?」

​「シヅク...指太いんだね」

「チャンミン、あんた、天然か?本気か?」

「こんな時にふざけるわけないだろ!」

シヅクは、うろたえるチャンミンの頬をするりとなでた。

​「これはな、ピンキーリングなんだよ」

「ピンキー?」

「小指につける指輪のこと」

​「ええー!」

シヅクはチャンミンが握り締めるリングを取ると、自分の小指にはめた。

「ありがとうな、チャンミン」

​シヅクは、チャンミンの背中から腕をまわした。

​「ケーキも何もかも...最高のバレンタインだよ」

​シヅクの手に、チャンミンは自分の手を重ねた。

​「僕は、シヅクが大好きなんですよ」

 

 

 

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【短編】禁じられた遊び★

 

「赤ちゃんができたの」

「え...?」

シチューをすくったスプーンの手が止まった。

具だくさんのクリームシチューは、僕の大好物だ。

「...3か月だって」

「サトコさん...」

お腹をなでるサトコさんの手を凝視しながら、僕の頭はぐるぐる回っていた。

(さぁ、チャンミン!どんな反応が正解だ?)

(最初のひとことが肝心だ!)

僕はスプーンを放り出すと、サトコさんの側に駆け寄った。

「やった、やった!」

サトコさんの両手を握って上下に揺さぶり、彼女のお腹に耳を当てる。

 

「まだ早いわよ!」

「ぎゅるぎゅるいってる...」

「お腹の音だってば!」

パシッと頭を軽く叩かれて、僕はサトコさんを振り仰いだ。

 

小さな白い歯を見せて笑うサトコさんは、惚れ惚れするほど綺麗だ。

「あの音からすると...便秘ですね」

ふざけて言ったら、またパシッと叩かれた。

 

僕はサトコさんを胸に抱きよせて、「よかったね」と言って彼女の頭をなぜた。

 

サトコさんは、僕の奥さんだ。


翌日から、僕らの生活は一変した。

仕事の後、デパートに寄って思いつく限りのベビィ用品を購入する。

薬局にも寄って、お尻拭きやオムツを購入する。

気が早いかもしれないけど、僕の指が2本しか入らない位小さな靴も買った。

大きな袋を抱えて帰宅すると、サトコさんはゆったりとしたワンピースを着て、キッチンに立っていた。

「駄目だよ、サトコさん!」

​僕は慌ててサトコさんの手から、お玉を取り上げ、TV前のソファに座らせた。

​「僕がやるから!サトコさんは、TVでも見ていて!」

サトコさんが作りかけていたカレーを仕上げて、食卓に運んだ。

「わー!サトコさん、駄目だって!」

サトコさんの手から、ビールのグラスを取り上げる。

「チャンミン、うるさい」

​サトコさんはむくれて、黒豆茶を飲む。

​黒豆茶はノンカフェインだから、妊婦でも大丈夫なんだ。

​僕らの赤ちゃんは、絶対に可愛いに違いない。

 

サトコさんは美人だから、女の子だといいな。

けれども、

「チャンミンに似て欲しいから、男の子がいい」

 

と、サトコさんは言う。

「どうして?」

「私、かっこいい息子を持つお母さんになるのが夢なの」

「ふーん」

両手にクリームをすり込んだ僕は、サトコさんの足の裏をもむ。

あたりはクリームの甘いいい香りが漂っている。

ソファに横になって、僕の膝の上に足を預けたサトコさんは、気持ちよさそうだ。

「チャンミン」

「ん?」

「私、すっごくムカついてたのよ!」

「急になんだよ?」

「すっごく嫌だったんだから!」

「怒るのは、お腹の子に悪いよ」と言いかけたが、サトコさんの真剣な表情を見て口を閉じた。

「なんのことだよ?」

「よりによって!あの子を!」

「...ああ!」

サトコさんが「あの子」と言って、彼女が何を言いたいのか分かった。

 

「ごめん」

「ヤキモチなんて大人げないと思ってたから、今まで我慢してたんだから!」

「ごめん」

​「ぴしっと言わないチャンミンが悪い!」

サトコさんが投げたクッションが、僕の肩にあたって落ちた。

「チャンミン、自分の顔がどんなだか、もっと自覚してよ!」


「あの子」というのは、僕の勤務先の後輩にあたる女性のことで、配属直後から僕のことが気に入ったらしく、始終僕の後ろをくっついて回った。

「チャンミン先輩、教えてください」

「チャンミン先輩、PCがフリーズしちゃいました」

「チャンミン先輩、ランチに連れてってください」

「チャンミン先輩、LINE交換しましょうよ」

「チャンミン先輩、奥さんってどんな人ですか?」

鈍い僕でも、ストレート過ぎる彼女の言動にさすがに気づいた。

スキンシップが苦手な僕は、顔をしかめつつも、若くて可愛らしい女性に触れられるのは嫌な気はしなかったのも、事実だ。

「奥さんはいい女だよ、僕にはもったいないくらい」

そう答えると、彼女はつんとあごを上げた。

「奥さんって、年上なんですよね?」

「だから?」

「奥さんって、どんな手をつかって先輩をものにしたんですか?」

僕はさりげなく彼女の手を、僕の二の腕から外した。

誓って言う。

僕はサトコさんを愛している。

ただの一度も、浮気はしたことない。

若くて可愛い子がいれば、男だもの、じっと見てしまうこともある。

 

でもそれは、キレイな花だと、無意識に眺めてしまうのと同じ。

僕は、サトコさんと交わす知己に富んだ会話や、彼女のもつ雰囲気や、自分に厳しく僕には甘いところや...挙げだしたらキリがないからここでやめておくけど、

とにかく全部、サトコさんは僕の好みの女性だ。

だから僕は、サトコさんことを悪く言う人を嫌悪している。

 


 

飲み会の1次会で帰るつもりでいたのが、「あの子」は僕の袖をつかんで離さず、3次会が終了した頃には、とっくに終電の時間を過ぎていた。

(弱ったなぁ)

歩道の縁石に、顔を伏せて座り込む彼女を置いて帰るわけにもいかなかった。

(どうしたらいいもんか)

彼女の隣に腰かけ、頭を抱えていると、彼女がしがみついてきた。

「チャンミン先輩、ホテル、行きましょ?」

僕を見上げる彼女の目を見て、彼女はさほど酔ってはいないことが分かった。

「先輩も、若い子とした方が、いいでしょ?」

「え?」

​「年上の奥さんよりも、若い子との方がいいでしょ?」

僕の中で、プツリと何かが切れる音がした。

 


​寝室のドアを、音を立てないよう静かに閉めた。

僕が「あの子」を連れて帰宅したとき、サトコさんはベッドでぐーぐー寝ていた。

布団から足を出して、大の字になって眠るサトコさんを見ると、くすりとしてしまった。

僕の帰りが遅い日は、僕の帰りを待たずにさっさと10時には寝てしまう。

自分のペースを崩さないサトコさんが好ましい。

コンロにかかった鍋の中では、たっぷりと煮物料理が仕上がっている。

リビングに戻ると僕は深くため息をついた。

振りほどいても振りほどいても、僕の首に腕を絡ませてくる「あの子」に辟易としていた。

「ソファで悪いけど、ここで寝て」

意図的に僕の腕に、胸を押し付けてくる「あの子」のことが、うっとおしくて仕方がなかった。

タクシーに押し込んで送り出そうとしたら、彼女は頑として自宅の住所を教えてくれなかった。

​それで仕方なく僕もそのタクシーに乗り込んで、サトコさんと住むマンションの部屋へ連れてきたわけだ。

 

冷蔵庫から出した麦茶をコップに注いでいると、

「...チャンミン」

リビングの入口に、パジャマ姿のサトコさんがぬっと立っていた。

「サトコさん...」

ざっと僕らの様子を見まわして事情を察したらしく、押し入れから寝袋を取り出してきた。

キャーキャー言う「あの子」のジャケットを脱がし、寝袋に押し込むと、勢いよくジッパーを上げた。

脇に麦茶の2リットル・ペットボトルを、ドスンと置くと、寝室まで僕の背中をぐいぐい押していった。

 

「チャンミン、あの子は誰?」

「会社の人」

「あっそ」

サトコさんは、ふんと鼻を鳴らすと、着ていたパジャマを脱ぎだした。

「ちょっ、どうした!?」

下着だけになったサトコさんは、今度は僕の服を脱がし始めた。

「サトコさん!」

ベルトを外そうとするサトコさんの手首をつかんで制止しようとしたけど、つかんだ手首から伝わる力は強くて、僕はすぐにあきらめた。

​サトコさんは本気だ。

​本気になったサトコさんは止められない。

ギロっとにらんだサトコさんの目は、あまりに艶めかしくて、妖くて、美しくて。

僕はあっという間に、くらっときてしまった。

されるがまま僕は服を脱がされ、気づいたらベッドに仰向けになっていた。

「ちょっ、待って!」

寝室のドアが開いたままなのに気付いて、サトコさんの肩を叩いた。

「ドア!」

サトコさんは、ふんと鼻をならした。

「聞かせればいいのよ」

 


 

「喉が渇いた」

サトコさんの肩に毛布をかけてやる。

「持ってくるよ」

「私の旦那さんは、気が利くねぇ」

下着姿のままリビングまで出て、「あの子」のことを思い出した。

(そういえば!)

ソファの向こうを覗く。

寝袋は空だった。

あの日以来、「あの子」は用事があるとき以外は近寄らなくなった。

僕は胸をなでおろしたのだった。


 

今日、仕事から帰ってきたらサトコさんが、キッチンでビールを飲んでいた。

「駄目じゃないか!」

僕はサトコさんの手からグラスを取り上げようと彼女に飛びついた。

ところが、彼女は僕に取り上げられる前に、一気に中身を飲み干してしまった。

 

「サトコさ...」

サトコさんは、床にぺたりと腰をおろしてしまった。

「サトコさん...どうした?」

僕はしゃがんで、彼女の目線に合わせた。

 

「...の...」

「え?」

かすかにつぶやいた彼女の言葉が聞き取れなかった。

「もう一回言ってくれる?」

「...ダメだったの」

「え?」

「赤ちゃん、ダメだったの」

サトコさんは、じーっと前を見据えたまま、小さな声ではっきりと言った。

僕はサトコさんの頭をなぜる。

手のひらの下の、柔らかいサトコさんの髪が愛おしい。

僕はサトコさんの頭を、よしよしとなでるうち、僕も泣けてきた。

可哀そうなサトコさん。

 

あんなに楽しみにしていたのに。

僕らに子供がいたら、どんなに幸せだったろう。


僕らには赤ちゃんは出来ない。

結婚5年目。

子供のいない夫婦だ。

どんなに望んでも、僕らには赤ちゃんはできない。

サトコさんだけじゃなく、僕も一緒に検査してもらった結果だ。

僕らは、ときおり「サトコさんが妊娠」ごっこをする。

誰にも知られない、僕ら夫婦だけの遊びだ。

サトコさんが、「赤ちゃんができたかも」と言い出したら、ゲームはスタートだ。

おかしいと思われたっていい。

こうすることで、僕らは寂しさを紛らわせているんだ。

​クローゼットには、出番が訪れることのない赤ちゃん用品がうずたかく詰まっている。

僕らは、真正面から、真剣に、全力で「ごっこ遊び」に没頭する。

サトコさんが、身ごもっていると仮定して、僕はサトコさんをうんと甘やかす。

サトコさんの足の裏をもみながら、これが現実だったらどんなにいいかと、何度思っただろう。

一番つらいのはサトコさんだ。

僕は女のひとじゃないから、想像するしか出来ないけど、

愛する人(サトコさんは僕のことを、心底愛してくれてると確信している)の子供を産めない哀しみは、はかりしれないだろう。

だから僕は、サトコさんの気が済むまで、とことん付き合ってやるつもりなんだ。

サトコさんが、僕と二人だけの人生を送っていくことに、向き合えるようになるまで。

サトコさん、僕は「僕らの子供」がいなくても、あなたといられるだけで十分なんだよ。

いつか、僕らの「ごっこ遊び」が笑い話にできるといいね。

「チャンミン、なんであなただけが泣いてるのよ」

いつの間にか、僕はサトコさんの肩に顔を伏せて大泣きしていた。

そういうサトコさんの目も、真っ赤だった。

僕は目をごしごしこすると、床に座ったサトコさんを肩に担ぎあげた。

キャーキャー悲鳴をあげるサトコさん。

「サトコさん、太ったね」

「失礼ね!」

サトコさんは僕の背中を、バシバシ叩く。

僕らには子供はいないけれど、僕はサトコさんの夫でいられて幸せだ。

「今夜はゴムなしでやりましょう」

こう言って、サトコさんをベッドに誘うのが、このゲームの締めくくりのお約束だ。

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