(後編)おかえりパンケーキ★

 

休日の夕方、僕は友人夫婦を家に招いた。

 

「好きなものをいくつでも選んでよ」

 

「本当にいいのか?」

 

「いいんだ。

必要とする人にあげたいんだ」

クローゼットの扉を開けると、彼らが自由に選べるよう、リビングに引っ込む。

彼らの希望に満ちた会話を聞いていられなくて、僕はTVを付けた。

サイドテーブルに置いた携帯電話を手に取り、ロックを外すためPINコードを入力した。

その4桁の数字だけで、胸が切なくなった。

リビングを占拠するソファに寝転がった。

背が高い僕が思いきり足を伸ばしても、まだ余裕がある大きなソファ。

足先の数十センチの隙間を見て、胸が詰まった。

隣室に顔を出して、楽し気に会話を交わす彼らに声をかける。

「コーヒーを淹れようか?」

「ありがとう、でもこの後行くところがあるんだ」

コーヒーをすすめておきながら、早く一人になりたかったから、断られてホッとしていた。

彼らのために僕は、マンションに横付けした車まで荷物を運んでやった。

そして、車の色を見て、胸が締め付けられそうになった。

(暗証番号は、彼女の誕生日。

「チャンミンの身長に合わせないとね」と一緒に選んだソファ。

彼女が独身時代、乗っていた車の色がワイン・レッドだった)

全てが、彼女とリンクしてしまって、泣けてくる。

玄関、廊下、リビング、洗面所と次々と電気を付けて歩く。

家じゅうを明るくするために。

「チャンミン!

省エネ、省エネ!

使っていない部屋の灯りは消すこと!」

(彼女がここにいたら、小言を言っただろうな、絶対)

薄暗いのは怖い。

寂しい気持ちが増してくるから。

僕は、ダイニングテーブルに置きっぱなしのPCの電源を入れた。

辛くなると分かっているのに、見ずにはいられない。

フォルダを開くと、大量の写真が画面いっぱい埋め尽くす。

撮影日の古いもの順に、並び替えてみた。

数年分若い僕と彼女との写真。

一緒にいられるだけで幸せで、笑顔で、片時も離れたくなくて。

(あの頃に戻りたいかって?

答えは「NO」だ)

左手をかざし、薬指にはめた指輪にじーっと視線を注ぐ。

(あの頃より、今の方が幸せだ。

「今」、はちょっと正確じゃないな。

5日前、

ほんの5日前までの方が、ずっと幸せだった)

フォルダを閉じて、テキストソフトを立ち上げた。

しばし目をつむって考えを巡らした後、僕はキーボードをパタパタと打ち始めた。

寂しいです。

僕独りは辛すぎます。


パンケーキ・ミックスをボウルに入れた。

彼女はいつでも目分量だった。

「細かい男は嫌われるよ」

きっちりと計量カップではかる僕に呆れていた。

卵も牛乳も、その時々で量が違ってた。

「こういうものわね、美味しい物しか入っていないんだから、不味くなりようがないのよ」って。

卵を割り入れ、冷たい牛乳を加え、泡だて器でゆっくりと混ぜ合わせる。

「洗い物が減るんだから、この方が合理的」って、彼女はお玉でぐるぐる混ぜてた。

大雑把にも関わらず、彼女が焼き上げたパンケーキは、それはそれは美味しいんだ。

中はふっくらと、表面はちょうどよい焦げ加減で。

僕が焼くと、こう上手くは焼けない。

生焼けだったり、焦がしてしまったり。

ホットプレートに並ぶ水玉から、目を離さない。

僕は、無心でパンケーキを焼き続けた。

焼きあがったパンケーキを、1枚ずつ積み上げていく。

どれくらい積み上げられるか、途中から面白くなってきた。

ボウルが空になったので、追加で生地を作る。

コンビニまで走って、足りない卵と牛乳を買ってきた。

業務用サイズのパンケーキ・ミックスを全部使ってしまった。

 

彼女と一緒なら、もっと面白かった

濃く淹れたコーヒーと一緒に、パンケーキを食べた。

その夜は、バターをたっぷり塗って食べた。

口の中もお腹も幸福で満たされたのに、僕の心は隙間風だらけだ。

寂しいよ。

独りで食べても、むなしいよ。

 

 


帰宅した僕は、玄関、廊下、洗面所、キッチンと順番に点ける。

ダイニングテーブルには、パンケーキが積み上げられたお皿がある。

電気ポットでお湯を沸かして、紅茶を淹れた。

出張土産に彼女にあげた紅茶だ。

トースターで軽くあぶった2枚に、メープルシロップをかけて食べた。

鼻の奥がツンとして涙が出そうだったけど、それをこらえて、ゆっくりとパンケーキを食べた。

食後はパソコンに向かった。

それから、寝相の悪い彼女のために選んだキングサイズのベッドで、一人で眠った。

次の日は、丁寧に入れた緑茶と一緒に食べた。

 その次の日は、いちごジャムをのせて食べた。

その次の次の日は、冷たい牛乳と一緒に食べた。

彼女はいない。

パンケーキはなかなか減らない。

使い終わった皿を洗いながら、僕はとうとう泣いてしまった。

会いたい。

彼女に会いたい。

 

彼女のことが大切だったから、できる限り彼女に寄り添えるよう、心をくだいてきた。

でも、彼女はここにないものを求め続けていた。

そんな暮らしがむなしくなって、もう沢山だ、って本心を彼女にぶちまけてしまった。

絶対に口にしたらいけない言葉を。

絶対に彼女が傷つくとわかって、敢えて口にしたらところもあったのかもしれない。

彼女を沢山傷つけてしまった直後、

僕は彼女を失ってしまった。

二度と取り戻せない。

後悔しても、もう遅い。

彼女はもう、戻ってこない。

 彼女とはもう、夢の世界でしか会えないのかなあ。

もしそうなら、僕はずっと眠ったままで構わない。

彼女との思い出が、だんだん遠くなっていくのが怖い...。


背後に気配を感じた。

「こらっ!」

「いでっ!」

 急に頭をはたかれて、心臓が止まるほど驚いた。

「勝手に私を死人にするんじゃない!」

 「サトコさん...」

振り返ると、サトコさんがいた。

「おかえり!」

僕はサトコさんに飛びついた。

「チャンミン、ただいま」

僕に抱きしめられながらも、サトコさんの目は、じーっとパソコン画面の文章に注がれている。

 気づいた僕は、パソコンに飛びついた。

 「どれどれ...

『彼女はもう、戻ってこない』

『彼女とは夢の世界でしか会えないのかなあ』

...ふむふむ。

『 僕は眠ったままで構わない』

​『彼女』って私のことでしょ?」

「わー、読むなー!」

 パソコンを頭の上に持ち上げた。

 「チャンミン、小説書いてるんだ?」

「違うよ!

日記だってば!」

こっぱずかしい文章を読まれて、火が出るほど頬が熱くなった。

 汗も噴き出してきた。

 僕は、サトコさんが不在だった10日間の暮らしを、パソコンに書き記していたのだ。

最初は、日記調だったのが、思いが深くなり過ぎて、筆が滑りすぎて、『妻を亡くして嘆き悲しむ夫』、にまで話が膨らんでしまった。

寂しくてたまらない気持ちを吐露したものが、相当にロマンティックになり過ぎてしまった。

誰かに見せるなんてとんでもない。

 書いた当人さえも、こんな恥ずかしいもの、読み返せない。

 

 「チャンミンは、私がいなくてそんなに寂しかったんだ」

 「そうですよ...悪いか?」

「プリントアウトして、私に頂戴」

「へ?」

「製本して、本棚に飾っておくから」

 「嫌です」

「チャンミンと喧嘩したとき、朗読してあげるから」

 「もっと嫌です」

 「ケチ」

僕も負けていられない。

「サトコさん、一度ここに寄ったでしょ?」

「来てないよ」

サトコさんが僕から目をそらした。

 サトコさんは嘘が下手だ。

 「来てるでしょ?」

 「来てない」

「立派にバレてるから」

 「バレてる?」

「3枚減ってた」

「何が?」

 「パンケーキが減ってた」

「......」

 「サトコさん、パンケーキが好きでしょう?」

「......」

「パンケーキのいい匂いに誘われて、サトコさんが帰ってくるんじゃないかなぁって」

 「枚数をいちいち数えてたの?

 チャンミン、細かい男は嫌われるよ」

「パンケーキ食べる?」

「夕飯に、パンケーキ?

ご飯とふりかけだけの、質素なメニューを欲してるのに」

  「冷凍庫がパンケーキで、いっぱいなんだ」

「外食続きで太っちゃったのよ」

「ホントだ」

「なんですって!?」

「嘘です。

太ってないです。

アイスをのせる?

ホイップクリームもあるよ」

サトコさんは、疑わしそうに僕を睨んでいたけど、ふんと鼻をならしてダイニングチェアにすとんと腰を下ろした。

 「私を太らせる気?」

「アハハハ。

抱き心地がよくなります」

「真に受けるわよ、その言葉。

両方のっけてね」

 

 「了解!」

 

 

(後編につづく)

 

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(3)水彩の月★

 

 

 

「食事に...行きませんか?」

 

おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、

 

「はい」

 

と私は返事をした。

 

「よかったです」

 

彼は、心からホッとした表情をした。

 

彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。

 

「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」

 

照れて目元をほころばせた。

 

「ここなら、メニューが豊富ですし」

 

メニュー表を私の前に広げる。

 

「好きなものを選んでください」

 

食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。

 

店員を呼んだ彼は、私がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。

 

次々とテーブルに料理が届く。

 

私は、おそるおそるだし巻き卵に箸を伸ばした。

 

出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。

 

「あ...」

 

じわっと広がる命の味。

 

ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。

 

私の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。

 

かさかさになった私の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。

 

気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。

 

「貴女は、美味しそうに食べるんですね」

 

「え?」

 

「見ていて気持ちがいいです」

 

あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った私はおしぼりで目を拭う。

 

「美味しいですか?」

 

「ええ、とっても」

 

彼は、それはそれは優しい笑顔を見せた。

 

目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。

 

「よかったです。

このお店の料理は、全部美味しいんですよ」

 

財布を取り出す私を制して、彼は会計を済ませ、私たちは店を出た。

 

夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が私たちを包む。

 

「駅まで一緒に行きましょうか」

 

隣を歩く彼の精悍な横顔を見上げた。

 

私の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。

 

とくんと心臓がはねた。

 

「あの...あの!

今夜はありがとうございました」

 

頭を下げる私の肩の上に、彼の手がぽんとのった。

 

「お礼を言うのは僕の方です。

誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでしたから」

 

細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 

ごく最近に、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?

 

彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。

 

なんとなく、そんな感じがした。

 

 

 


 

 

突如、眠りの一日が訪れた。

 

眠くて眠くて仕方なかった。

 

1年半分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。

 

夢も見ず、“泥のように”の言葉通り、こんこんと眠った。

 

そよぐ風で目覚めた。

 

チャンミンは裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。

 

鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。

 

ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。

 

「よく眠ってましたね。

マイさんが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」

 

ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。

 

そうだった。

 

チャンミンには部屋の鍵を渡してあったんだった。

 

「マイさん、進歩していますよ。

上手くなりましたね」

 

床に直接座ったチャンミンは、私のスケッチブックを膝に広げていた。

 

「恥ずかしいから!」

 

手を伸ばすと、チャンミンはスケッチブックを高く掲げてしまう。

 

「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」

 

「え?」

 

スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。

 

「あの...もっと上手くなってから...」

 

「冗談ですよ」

 

チャンミンはスケッチブックを私に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと私を見上げた。

 

「頬がふっくらしてきましたね。

よかったです」

 

優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。

 

チャンミンに気付かれただろうか。

 

チャンミンは鋭い。

 

あどけない眼差しにさらされて、私の心は怯えていた。

 

「安心しました」

 

寂しそうな笑顔だった。

 

懐かしい笑顔だった。

 

 

 


 

「今日は、遠回りしていきましょうか」

 

チャンミンと手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。

 

日が暮れて、完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。

 

夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。

 

砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。

 

この公園は、私とチャンミンのお気に入りの場所だった。

 

池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。

 

無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買って。

 

いっぺんに投げ込んだ私と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやったチャンミン。

 

「食いしん坊なあの太った鯉は、マイさんですね」とチャンミンが言って、

 

私は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかった。

 

そんな思い出のある公園だった。

 

 

「マイさん」

 

ずっと無言だったチャンミンが、口を開いた。

 

チャンミンが何を言おうとしているのか分かった。

 

「好きな人が、いますね」

 

自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。

 

「僕は気付いていましたよ」

 

私たちは立ち止まった。

 

柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。

 

「...ごめんなさい」

 

そう言うのがやっとだった。

 

チャンミンと繋いだ手が、汗ばんでいる。

 

「謝らないでください」

 

チャンミンは手を離すと、私の両肩に手を置いて、私を覗き込んだ。

 

チャンミンの顔も、闇夜に包まれてしまって、表情はうかがえなかった。

 

「ごめんなさい!」

 

涙が出そうなのをこらえる。

 

泣いたらいけない、涙はずるいから。

 

「マイさん...」

 

「ごめんなさい。

いつかは言わなくちゃいけないと思っていたの」

 

「マイさん」

 

「ごめんなさい。

チャンミンはずっと、私のそばにいてくれて...」

 

駄目だ。

 

涙を止められない。

 

「チャンミンは、

いっぱい...いっぱい...

私を支えてくれたのに...」

 

涙が次々とこぼれて、鼻水も出てきて、しゃくりあげてうまくしゃべれない。

 

「ずっと...ずっと...

 

チャンミンだけを、

チャンミンだけを、

好きでいたかったのに...。

 

本当に...ごめんなさい!」

 

「マイさん、謝らないで!」

 

チャンミンは大きな声を出すと、腕を伸ばして私を引き寄せた。

 

「違うんです。

悪いのは、僕の方なんです」

 

チャンミンは私の首筋に頬を埋めると、吐き出すように言った。

 

「僕がマイさんを引き留めていたんです」

 

 

 

 

 

 

 

あの日。

 

あの冬の日。

 

冷たいみぞれ雪が降る夜。

 

こんな天気に、こんな時間に、カラスみたいな恰好の女を、公園で降ろしたタクシーの運転手さんはどう思っただろう。

 

池には薄氷が張っていた。

 

黒いコートも黒い靴も脱いだ。

 

氷のように冷たい鉄柵をつかんで、上半身を乗り出した。

 

身体を痛めつけてやる、凍り付かせてやる。

 

空からぼたぼたと落ちる氷水が、黒いスーツをどんどん濡らしていった。

 

チャンミンのいない人生なんて、想像がつかなかった。

 

自分の人生プランに、こんなイベントが起こるはずがなかった。

 

断じて受け入れたくない!

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン!

 

 

どうして私を置いていってしまったの?

 

続きを楽しみにしていたドラマも、まだ途中だよ。

 

誕生日プレゼントは、もう用意してあるんだよ。

 

一緒に暮らそうって、言ってたじゃない。

 

どうして冷たくなってしまったの?

 

そんな怖い顔していないで、笑ってよ。

 

目を開けて「じろじろ見ないでください」って笑ってよ。

 

チャンミンのいない人生なんて、あり得ない。

 

 

チャンミンの元に行きたい。

 

 

ストッキングの足を柵にかけた時、

 

ぐいと腕を引っ張られた。

 

 

「何をやっているんですか!」

 

 

チャンミンが現れた。

 

 

チャンミンだ!

 

 

引き寄せられたチャンミンの胸が、頼もしくて温かくて。

 

「マイさんは、僕がいないと駄目ですね」

 

私が大好きだったダッフルコートを着ていた。

 

「おうちへ帰りましょう」

 

チャンミンは広い背中を見せて、私の前でしゃがんだ。

 

私がチャンミンの首に腕をまわして、体重を預けると、チャンミンは私をおぶって軽々と立ち上がった。

 

首筋に鼻をくっつけて、チャンミンの匂いを吸い込んだ。

 

よかった、温かい。

 

よかった、チャンミン生きていた。

 

よかった、チャンミンが戻ってきた。

 

 

もしくは、

 

私は、あの世に行けたのかな。

 

あの世のチャミンに会えたのかな。

 

あの世で、チャンミンにおぶわれているのかな。

 

どちらなのか分からなかった。

 

どちらでも嬉しかった。

 

幸せだった。

 

けれども、心の底では分かっていた。

 

どちらもあり得ないのだと。

 

これは夢なのだ。

 

チャンミンを恋焦がれる狂った精神が、チャンミンの亡霊を見せているのだと。

 

ところが、夢じゃなかった。

 

びっくりした。

 

最後に別れたあの図書館前に、チャンミンは待っていた。

 

行けば必ず、チャンミンは待っていた。

 

そして、手を繋いでおうちに帰るの。

 

お~て~て~繋いで~、野道をゆ~け~ば~♪

 

チャンミンと思い出話をたくさんして、チャンミンの腕の中で眠りにつく。

 

 

私の初めては、全部チャンミンと経験した。

 

二人で、数えきれないほどの初めてを味わって、一緒に笑って、泣いた。

 

思い出話ばかりしていたら、過去の世界にとどまり続けるばかりで、先に進めないって?

 

 

ううん。

 

そんなこと、なかった。

 

思い出話をすることで、昇華された。

 

チャンミンとの思い出を、少しずつ過去のことにしていけたの。

 

 

夢じゃなく、確かにチャンミンは存在した。

 

冷え切って固くなってしまった手じゃなかった。

 

温かな手で私に触れていた。

 

私の心が、しゃんとするまでチャンミンは、私と手を繋いでいてくれたの。

 

 

 


 

 

マイさんを一人にできなくて、僕はいつまでもマイさんのそばに居続けました。

 

どんどん痩せていくから心配で。

 

僕のせいで、マイさんをこんな風に苦しめてしまって。

 

打ちのめされたマイさんが元気になるまでは、見守ろうって決めたんです。

 

そのうち、欲がでてきたんです。

 

僕は、ずっとずっと、マイさんの側にいたくなったんです。

 

離れがたかったのは、僕の方なんですよ。

 

でも、僕の役目は終わったようですね。

 

 


 

 

「マイさんは、素敵な人です」

 

チャンミンは、私を抱きしめて、私の頭を撫でながら言った。

 

「だから、マイさんが好きになる人も、素敵な人です。

 

彼は...

悔しいですけど、

 

僕よりずっといい男です」

 

顔を上げようとする私を押さえるように、チャンミンの腕に力がこもった。

 

「彼なら大丈夫です。

 

彼なら安心して、マイさんを任せられます」

 

チャンミンの大きくついた一呼吸に合わせて、彼の胸も上下に動いた。

 

 

 


 

チャンミン。

 

手を繋いでいてくれてありがとう。

 

私が前に進めるようになるまで、側にいてくれてありがとう。

 

みぞれ雪の夜、私を助けてくれてありがとう。

 

生きる道を、私に残してくれてありがとう。

 

 


 

 

「マイさん」

 

私を抱きしめる腕をゆるめると、チャンミンは私の顔の高さに腰をかがめた。

 

「はい」

 

「僕の最期のお願いをきいてくれませんか?」

 

こくこくと頷いた。

 

「キスしてもいいですか?」

 

私は、大きく頷いた。

 

そっと唇が触れるだけの優しいキス。

 

少しだけ口を開けたら、チャンミンの温かい舌が私の舌にちょんと触れた。

 

私の涙と、チャンミンの涙が混じってしょっぱい味がした。

 

 

「このキスが、僕の生きる糧になります...って、生きるって言い方も変ですけどね」

 

ふふふっとチャンミンが笑った。

 

 

 


 

 

マイさん。

 

 

大好きでした。

 

 

僕は貴女のことは忘れません。

 

 

でも、マイさんは僕のことを忘れてくださいね。

 

 

僕の手じゃなく、彼の手を繋いでください。

 

 

全部忘れられたら、やっぱり寂しいので、1年に1度は僕のことを思い出して下さいね。

 

 

 

(おしまい)

 

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