(36)麗しの下宿人

 

「そうね。

『アルファ』は『オメガ』を襲う側になるわね」

 

「......」

 

僕みたいに妊娠する力が増す者たちを『オメガ』というのなら、ユノのような人たちにも正式な名称があるのでは?と気になっていたのだ。

 

「今までずっと、アルファのことを『特定の人』と言っていたけれど、それには理由があるの」

 

医師は僕の疑問に答えるように、説明し始めた。

 

「『アルファ』とは、滅多なことでは口にしてはいけない名称なの」

 

内緒よ、と言わんばかりに、医師は「しっ」と人差し指を唇にあてた。

 

「今までテレビや本で、『オメガ』や『アルファ』の言葉を聞いたり見たりしたことはある?」

 

「ううん」

 

『オメガ』を知りたくて、途中で邪魔が入ってしまったが、図書館まで専門書を探しに行ったくらいだ。

 

「知っている人は知っている。

皆が知っているわけではなくて、専門知識があったり、身近に『オメガ』や『アルファ』がいる人...特に家族がそうだった場合は、存在を知っている。

たいていは、隣人や同僚が『オメガ』や『アルファ』だと知らずに過ごす人がほとんどです」

 

「それくらい分からないものなんですね?」

 

気持ちが楽になった。

 

「皆が知らないでいる理由は分かるかな?

ここで言う『皆』とは、『ベータ』の人たちのことです」

 

「理由は...分からない」

 

僕の脳裏に、混雑した駅やホームセンターのイメージが浮かんだ。

 

(『ベータ』の人がいっぱい。

でも、あの中に『アルファ』や『ベータ』が紛れているかもしれないのか)

 

「『オメガ』とか『アルファ』とか、チャンミン君のような子供の世界では、耳にする機会のない言葉よね?」

 

僕は頷いた。

 

「チャンミン君の学校に、とても賢くて運動神経も優れた子っていないかしら?」

 

医師は本題に入る前に、僕にそう訊ねた。

 

頭がよくスポーツ万能のクラスメイトのひとりが思い浮かんだ。

 

彼こそが僕のことを「臭い」と馬鹿にし、クラスメイトを巻き込んで僕を孤立させた張本人だった。

 

さらに見た目も優れているためカリスマ性があり、クラスどころか学年内で最も目立つタイプだ。

 

...性格は最悪だけど。

 

僕は苦々しく「...います」と答えた。

 

「僕のことを臭い、と言いました」と付け加えた。

 

医師は腕を組み、しばらく思案していたけれど、

「フェロモンの香りに気付くなんて、『アルファ』になる可能性が高いわね。

十中八九、そうなるかもしれない」

 

「なるかも、ってことは、最初から『アルファ』じゃないってこと?」

 

「『アルファ』や『オメガ』は生まれ持った因子なので、突然変異じゃないのよね。

だから、チャンミン君もユノさんも、最初から『アルファ』や『オメガ』の遺伝子を持っていたってこと」

 

思わず隣に座る母を見てしまった。

 

母の横顔は「ごめんなさい」と謝っているかのようで、昼食のテーブルで嗚咽しかけた彼女の姿と重なった。

 

「本人はフェロモンを嗅ぎつけることができても、肉体的に反応はしていないと思います。

12歳じゃ早すぎる

でも、その子が『アルファ』に育つかどうかは分からない。

小学生のうちは能力は開花しないし、本人にも自覚がないの。

『アルファ』の目覚めは『オメガ』よりもずっと遅くて、平均14、15歳ころになると才覚を表わすといわれています。

学校側からそっと呼び出されて、本人と保護者にだけ伝えられる...」

 

「学校はどうやって、その子が『アルファ』だと分かるんですか?

テストで100点ばかりとるから?」

 

「それだけじゃ、ただの頭が良い子に過ぎない。

『アルファ』が特に優れているのは、外見や筋力だから。

知力については、得意不得意な分野がある点が、『ベータ』と変わらないと思う」

 

ユノはいつも、漫画本ばかり読んでいたり、僕の宿題が解けない時もあったけれど、大学の勉強は凄くできるのだろうな。

 

「五感やひらめきに優れていることもあって、成功者に『アルファ』が多いと言われている」

 

「凄い...」

 

ユノもいつか、スーツを着てネクタイを締め、大きな車に乗って...。

 

例えば、僕の父のように...。

 

「中学生になったとき、男女を問わず血液検査が行われます。

健康診断のついでに行われるので、本来の目的を疑う人はいません。

該当者には通知が、専門病院でさらに検査されます

『アルファ』候補の男子は精液を採取します」

 

僕の頬が熱くなった。

 

「......」

 

ユノも同じ経験をした、ということか。

 

「『アルファ』が『ベータ』や『オメガ』とは決定的に違うところがあります。

...この点が重要なところです」

 

「いよいよ本題だと、僕は唾を呑み込んだ。

 

「『アルファ』は妊娠させる能力がずば抜けています」

 

「...え...?」

 

『アルファ』も『オメガ』も、何かというと「妊娠」がキーとなっているようだ。

 

「相手が『ベータ』『オメガ』を問わず、コンドーム無しの性行為は妊娠させる率が高い。

『オメガ』が相手の場合、ほぼ100%の確率で妊娠させます」

 

力があるか無いか。

 

妊娠させる力の強さ、妊娠する

 

(まただ。

下宿屋の蒸し暑い部屋で、男と艶めかしく絡み合うユノ像を思い出してしまった。

また思い出してしまった。

もし、男が『オメガ』だったら、妊娠してしまうってことか...)

 

ユノが僕の耳に「言っとくけど、いっつもムラムラして暮らしているわけじゃねぇぞ」と囁いた。

 

「そうです。

『アルファ』が激しく反応してしまうのは、フェロモンを出している時の『オメガ』に対してですよ。

だから、いつ、どこで『オメガ』に出くわしてしまうのかを、恐れています」

 

医師はユノに続けて言った。

 

「じゃなきゃ、チャミが『オメガ』だって分かったら、そっこー下宿屋を出ていたよ」

 

「それは嫌だ」

 

「俺だって嫌さ。

フェロモンが出るのも一時的なものなんだ」

 

「そうなんですか!?」

 

確かに「匂いが薄らいできた」とユノは話していた。

 

「ええ。

フェロモンについては順を追って説明するわね」

 

「『アルファ』は『アルファ』で、自らの性衝動に振り回される生活を送らないといけないの。

『アルファ』は『オメガ』のフェロモンに誘われる。

成功している分、『オメガ』がらみの不祥事は命取りです」

 

「......」

 

「日々が自らの性衝動との戦いよ。

「『アルファ』は確かに優れた人たちだけど、それを幸せと思うかどうかは人それぞれ...」

 

医師はそう言って、ユノを見た。

 

気の毒そうに、申し訳なさそうな医師の眼差しに、ユノはわずかに肩をすくめてみせた。

 

(つづく)

 

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(35)麗しの下宿人

 

診察室に戻ってきた僕らに、医師と母は安堵の表情を見せた。

 

「どうしたの?」とも「何に驚いたの?」とも、何の質問も振ってこなかった。

 

医師も母も、僕が何に気付いたのか分かっていたのだ。

 

医師も母も、『オメガ』だと見抜いたのがユノである時点で、ユノ自身が『特定の人』であると分かったのだろう。

 

検査の前に、ユノだけが診察に呼ばれていたけれど、その時に医師から確認がとられていたのだろう。

 

『オメガ』のフェロモンの香りは、『特定の人』にしか嗅ぎ分けることができないからだ。

 

 

「そういうことです」と医師は言った。

 

「驚いたでしょう?

今日、順を追って話をしようと思っていたのよ」

 

『俺は敵じゃない。チャミの味方だ』と力強い言葉を貰ったばかりだったから、僕は抗議の声をあげなかった。

 

代わりに母を睨んだ。

 

「ごめんなさいね。

お母さんが教えるよりも、ユノさんから直接伝えてもらった方がいいと思ったの。

ユノさんなら大丈夫って、信じていたから。

チャンミンを可愛がってくれていたから」

 

「いえ、そんな...」

 

ユノは照れくさそうにうなじを掻いた。

 

「ユノさんはチャンミン君とひとつ屋根の下で暮らしているのよね?

お医者さんの立場から言わせてもらうと、チャンミン君の側にユノさんがいること自体、喜ばしいことじゃないの」

 

医師の言葉に僕は青ざめた。

 

「えっ。

じゃあ、ユノちゃんは僕んちを出なきゃいけないってこと?」

 

「本来はね」

 

「そんなぁ...」

 

「さっき見せた写真のカップルについての話が途中だったわね。

『オメガ』は『特定の人』たちから身を守る生活をしないといけない、とも話したわね?」

 

僕は無言で頷いた

 

(だから、ユノは僕にとって危険な存在ってことだ)

 

「この妊娠した『オメガ』の隣にいる彼だけど...」と、医師は長身の男性の方を指さした。

「彼は『特定の人』です」

 

「えっ!」

 

「彼は隣にいる『オメガ』の彼をとても大切に思っています。

危険な目に遭わないよう護っています。

『オメガ』を襲おうとする者たちを退けています。

彼にとって『オメガ』の彼は宝物なのです」

 

「...宝物」

 

斜め後ろに居たユノが椅子ごと僕の隣にくると、僕の手の甲に大きな手を覆いかぶせた。

 

「えっと...えっと?」

 

どぎまぎしながらユノを見上げると、彼は片目をつむってみせた。

 

「さっき言っただろ?

俺はチャミの味方だって」

 

ユノは握る手に力を込めた。

 

「言ってた」

 

「『オメガ』を見つける術に長けてる『特定の人』は、大抵が体格も体力も勝っているの」

 

医師の言う通り、ユノは長身で動きも俊敏だ。

 

例えば、階段から転落しかけた僕を助けてくれた日のこと。

 

僕を見据えた時なんて、眼力だけで圧倒的な力を見せつけた。

 

「『オメガ』の人生は面倒なことが多いけれど、強力な味方が側にいてくれたら、これほど心強いことはないわね。

 

『特定の人』は危険な存在だけれど、強力な味方にもなってくれる」

 

「ユノちゃんはホントは危険人物だけど、味方にすると強いってこと?」

 

「おい...危険人物って言い方...」

 

ユノは肘で僕を小突くと、「ったいよ、ユノちゃん!」と僕に小突かれ返された。

 

「チャンミン君はとてもラッキーな『オメガ』ね。

チャンミン君にとって、ユノさんが特別な人になってくれるといいわね」

 

医師はにっこり笑いながら、僕、母、ユノとを順番に見た。

 

ユノは『オメガ』を襲いたくなってしまう存在なのに、医師や母は全然、心配している気配がないことが嬉しかった。

 

「なってくれるかな?」僕はユノではなく医師に向かって訊ねたら、「一緒にいるうちに分かるわよ」と意味ありげな笑みを見せて彼女は答えた。

 

「よかった」

 

僕は胸を撫でおろした。

 

「ユノは僕の側に居てよい」と、専門家と保護者のお墨付きだ。

 

「ずっと『特定の人』だなんて曖昧な言い方をしていたわね。

彼らにも『オメガ』と同じように、専門的な名称があります」

 

重苦しかった気持ちが一転晴れたばかりなのに、このお医者さんは僕を驚かせることを口にするんだろうなぁと、憂鬱な気分に戻ってしまった。

 

今度は何を聞かされるんだろう?

 

鼓動が早くなった。

 

「その『特定の人』のことを、正式名称では『アルファ』といいます」

 

「アルファ...?」

 

初めてきく単語だった。

 

「この世には、チャンミン君のような『オメガ』とユノさんのような『アルファ』、それから普通の人たち『ベータ』の3つの属性に分けられるの」

 

「ベータ...」

 

ここで新しい言葉がもうひとつ登場した。

 

「世の中の98%以上の人たちが『ぺータ』です。

自分の属性が何なのか意識する必要なく、普通に生活ができる人たちです」

 

(『オメガ』が0.5%。

『ベータ』が98%。

とすると、『アルファ』が1.5%。

100人中1.5人以上が『アルファ』ということか)

と僕は計算してみた。

 

この病院内に、『アルファ』も『オメガ』も居てもおかしくない確率だ。

 

いずれにせよ、とても少ない。

 

「アルファ、ベータ、オメガ。

ギリシャ語です

アルファの意味は『1番目』

ベータは『2番目』」

 

「......」

 

新しい知識で、僕の頭はいよいよパンクしそうになった。

 

「そして、オメガの意味は『最後』」

 

「ええぇ...」

 

つまるところ、「弱い」という意味なのかと、悲しくなってきた。

 

「劣っている、という意味じゃないわよ?」

 

表情から僕の考えを読んだ医師は、即座に否定した。

 

「『オメガ』と呼んでいるのはすべて、『アルファ』を基準にした考えによるものなの。

要は力関係です」

 

男と女、3つ目に『オメガ』

 

『アルファ』と『ベータ』、3つ目に『オメガ』

 

性別や人種や国籍のほかにも、人間を区別する基準があることに僕は驚いた。

 

「文字の意味通り、『アルファ』は1番優れている属性です。

特に外見と腕力がね。

チャンミン君、カリスマ、という言葉は知ってる?」

 

「なんとなく」

 

「『アルファ』はカリスマ的存在」

 

ユノはハンサムだし、力も強い。

 

人混みの中で、1本の白百合のようにユノは光っていた。

 

大袈裟に言うとそれは、黄金色をしたギラギラと眩しい光というよりも、容易に話しかけられない空気をまとった...大袈裟に言うと、神々しい白い光といったところだろうか。

 

下宿屋の欄干に腰掛けている姿も、掃き溜めに鶴、あまりのミスマッチさに現実の光景じゃないみたい。

 

そんなユノに、気安く声をかけられる僕。

 

「アルファ』は『オメガ』の出すフェロモンに激しく反応します。

『ベータ』は反応しません。

『オメガ』の生活が大変な理由は、『アルファ』を恐れなければならないからなのよ」

 

僕が9歳の時からずっと僕を支えてくれたカッコいいお兄さんが、実は『オメガ』の敵。

 

和みかけていた診察室の空気が、再び重苦しいものへと変わった。

 

ユノの様子をうかがうと、奥歯を噛みしめているのかこめかみのあたりがぴくぴくと動いている。

 

「ユノは...『アルファ』」

 

「ああ、そうだ。

俺は『アルファ』だ」

 

重大な病気を告げるかのような、苦し気な低い声だった。

 

「この件について、先生は俺に確認しましたよね?

それと、先日お母さんからも手紙をもらいました」

 

母はうなずいた。

 

(あの時の手紙!)

 

「俺は今、ここで言わせてもらいます。

先生へはもう一度、はっきりと言わせてもらいます。

お母さんへは、あの手紙の返事をさせてもらいます」

 

僕から手を離し、居住まいを正したユノに倣って、医師と母も背筋を伸ばした。

 

ユノが何を言い出すのか想像がつかず、僕は彼の言葉を待つしかなかった。

 

「チャミは...チャンミン君はまだ子供です。

俺は何があっても、チャミを...チャンミン君を襲ったりはしません」

 

(襲う...?)

 

 

(つづく)

 

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(34)麗しの下宿人

 

ユノは『オメガ』を見つけられる鋭い嗅覚の持ち主。

 

普通の人たちが持ち得ない特殊な能力を持つ者たちは、『オメガ』を襲う危険な存在だという。

 

僕を『オメガ』だと見抜いたユノは、つまり彼らの一員ということか。

 

「ユノちゃんがそうなんでしょ?」

 

「『特定の人』ね...」

とユノは微笑を浮かべ、シャツをつかんだ僕の手を優しくはがした。

 

「そうだな。

チャミの言う通りだ。

俺は『特定の人』だ」

 

「...っ!」

 

ユノは僕の両肘をつかむと身をかがめ、僕の目線の高さを合わせた。

 

「俺は先生が言う通りの、『特定の人』だ」

 

「赤ちゃんを産むことができる」と教えられた時の次に驚いたことだった。

 

「隠してたの?」

 

「う~ん...そうだね」

 

「そんなぁ...」

 

「チャミが『オメガ』の正体を分かってから打ち明けようと思った。

怖がられてしまうからね」

 

眉尻を少し落としたユノの表情は、ちょっとだけバツが悪そうだったけれど、態度は落ち着いたものだった。

 

もともと隠し通すつもりはなかったのか、僕に責め立てられても平然としていた。

 

「『特定の人』...ね。

先生もうまい表現を使ってくれるよな」

 

「そんなぁ...」」

 

ユノはずっと僕の味方だったのに。

 

ユノの口から『オメガ』を脅かす存在がいると、聞かされていたから余計にショックだった。

 

ユノ自身がそうだったとは...!

 

「黙ってたの?」

 

「いや。

チャミに教えてやっても怖がらせてしまうだけだと思った。

伝えるタイミングをはかっていた

誰が『オメガ』なのかが分かる。

匂いで分かる」

 

ユノは鼻を突いた。

 

「だから、鼻が鋭い、って言ってたのか。

嘘はついていないね」

 

僕は反射的に首元のタオルをかき合わせた。

 

「安心しろ。

ほとんどの人間は『オメガ』を見破ることができない。

『特定の人』っていうのは、『オメガ』のフェロモンの匂いに敏感なだけだ。

その匂いさえなければ、誰が『オメガ』なのか分からない」

 

「......」

 

「『オメガ』になったばかりのチャミは、フェロモンを出しまくってた。

フェロモンをぷんぷんさせている時の『オメガ』は大抵、潤んだ眼をしている」

 

ユノの親指が僕の目尻にそっと触れた。

 

僕の頬がピクリと震えた。

 

「数日前のチャミの眼はうるうるだった。

例えていうと、風邪で熱がある時みたいな」

 

「そうだったんだ...知らなかった。

じゃあ、今も?」

 

「今はそうでもない。

後で習うと思うけど、フェロモンは四六時中出ているわけじゃないんだ。

年に何回か、っていうペースらしい。

薬を飲まないといけないって、前に言ってただろ?」

 

薬が必要だから病院に行かないといけないと、ユノは繰り返していた。

 

「それってフェロモンを抑えるための薬なんだ」

 

「そういうことかぁ」

 

「なあ、チャミ」

 

「?」

 

ユノは僕の両肩をつかむと、身をかがめて僕を覗き込んだ。

 

僕に大事な言葉を告げる時、ユノはいつもこうする。

 

互いの顔は吐息の温かさが伝わる距離にある。

 

「な、何?」

 

ドギマギするあまりどもってしまった。

 

「昼飯の時...。

奴らの目を見れば分かると言ったのは、俺と同類だからだ」

 

僕を覗き込むユノの眼に...漆黒の眼に見も心も捕らえられたかのように、身動きができない。

 

いつものユノと違った。

 

ユノの真っ黒な瞳が間近に迫ったことで、魅入られる、というか、圧倒される感覚に襲われたのだ。

 

(これって...)

 

初対面の日、吸血鬼のような眼だととっさに思ったものと同じだった。

 

強さを秘めた光。

 

(吸い込まれる...!)

 

「俺の眼を見て、怖いと思ったか?」

 

ハッと我に返った。

 

確かに恐怖を感じていたはずなのに、ユノの眼に魅入られてしまった僕はぷるぷると首を振っていた。

 

僕の意志なのか催眠術なのか、それとも両方なのか。

 

残念なことに、一切の曇りなく「ユノちゃんは全然怖くない」と言い切れなかったのだ。

 

あれは強者の眼。

 

僕は弱者だ。

 

僕は弱い...!

 

これは直感だ。

 

混乱した僕は、ユノの視線から逃れようとうつむいた。

 

先ほど聞いた医師の話と、ユノの眼光の合わせ技で、僕の本能に近いところがグラグラに揺らいでしまったのだ。

 

「う、ううん。

怖く、ない」

 

「嘘つけ。

怖かったくせに」

 

ユノは笑って僕の頭をくしゃっと撫ぜた。

 

「...えっと」

 

ユノに見破られていた。

 

言葉では嘘がつけても、目と表情から白旗をあげていたことを見抜かれてしまっていた。

 

「怖いっていうのとはちょっと違くて、金縛りに遭ったみたいな感じ。

どう頑張っても、ユノちゃんには負けるって感じ」

 

「ってことは、チャミはやっぱり『オメガ』なんだなぁ...。

チャミは『オメガ』...。

『オメガ』かぁ...『オメガ』なんだなぁ」

 

何度もつぶやくユノにうつむいていられなくなった僕は、彼をキッと睨みつけた。

 

「何度も言わないでよ。

そうだよ、僕は『オメガ』だよ。

僕を『オメガ』だって見つけたのはユノちゃんじゃん。

なりたくてなったんじゃないよ」

 

「そうだったな、ごめん」

でもな、チャミ。

『オメガ』が恐れるべき奴らの眼が、まさしくこれなんだ。

『オメガ』を前にした奴らは...俺も含めての話だけど...こういう感じの眼になってしまう」

 

「でも!

いつもはそんな風に怖くないじゃん」

 

「いっつもギラギラしてたらヤバイ奴じゃん。

フェロモン出してる『オメガ』に弱いだけさ。

それに自制してるからさ」

 

「ジセイ...」

 

「セーブしてるってこと」

 

「我慢しきれなくなったら、ユノちゃんは怖くなるの?

僕に暴力を振るう...とか?」

 

「それはない!」

 

実は「ユノが僕を妊娠させることがあるのだろうか?」と、ちらっと思ってしまっていた。

 

「俺はチャミに乱暴はしない。

絶対に。

チャミを守るよ」

 

「ユノちゃん、ずっと僕を助けてくれた。

ユノちゃんは優しい」

 

「いいか、チャミ?」

 

ちょっと強引気味に引き寄せられ、僕の頭はユノの胸に押し付けられた。

 

「!」

 

「俺は敵じゃない」

 

「これは、ハグだ」と認識して間もなく、ユノは僕を開放してしまった。

 

ユノの背中に回そうとしていた両手だけが、宙に残された。

 

「みんながみんな、『オメガ』の敵じゃない。

ちゃんと味方もいる。

その『オメガ』が危険な目に遭わないように、絶対に護ってくれる」

 

「ユノちゃんみたいに?」

 

「その通り!」

 

僕の中に、明るい道がぱぁ~っと開けるイメージが浮かんだ。

 

「とにかく俺はチャミの味方だ。

お前を護ってやるから安心しろ」

 

そう言ってほほ笑むと、ユノはドアの鍵をガチャンと外した。

 

「狭い部屋はやっぱ駄目だなぁ」

 

ユノはパンパン、と自身の両頬を叩いた。

 

「臭う?」

 

「ちょっとだけ」

 

「じゃあ、電車の中では我慢してたの?」

 

「あん時よりも今の方がちょっと...。

今のチャミは興奮しているだろ。

体温が上がるとどうしても香りが強くなってしまうんだ」

 

「...ごめん」

 

「謝るなって」

 

「僕を襲いたくなった?」

 

ユノは僕に背を向けたまま「全然」と答えた。

 

「戻るぞ。

先生たちが待ってる」

 

ユノに促されてトイレの個室を出た。

 

(つづく)

 

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(33)麗しの下宿人

 

「人が沢山集まる場所には、『オメガ』に気付く者のひとりやふたりいるさ。

同時に『オメガ』もいるかもしれない」

 

ユノは「そうですよね?」と同意を求めるように母を見ると、彼女も困った表情で頷いた。

 

「チャンミンがどう気を付ければいいかは、午後からのミーティングで先生が説明してくれるわよ」

 

「...分かった」

 

みんな普通の人に見えて、誰がそうなのか、僕には全然区別がつかない。

 

でもユノはそれを見分けることができるのだ。

 

カフェテリア内がざわざわと混雑してきた。

 

「ここを出ましょうか?」

 

僕らは席を立った。

 

ユノは右手に3人分のカレー皿を、左手にグラスの乗ったトレーを持つと、「先に出ていてください」と言った。

 

僕の視線は、カウンターに食器を返却するユノの背中に吸い寄せられていた。

 

駅でもそうだったように、遠巻きにユノを観察する者たちがあちらこちらにいた。

 

ユノはやっぱり目立っていた。

 

僕んちのオンボロ下宿屋にユノみたいな綺麗な人は似つかわしくないと思ったのは、これで何度目だろう。

 

ユノと二人きりになりたくて仕方がない。

 

家族である母が相手では、相談しにくいことが多い。

 

母自身が『オメガ』なのだから、僕の気持ちを分かってもらえやすいはずなのに、今の複雑な心境をぶつけることに抵抗があった。

 

女の人の『オメガ』と男の『オメガ』とでは、わけが違うからだ。

 

なんて恥ずかしい事実だろう、僕の身体はオトコオンナになってしまった。

 

おちんちんは付いたままで、お尻の中で赤ちゃんを育てることができるんだってさ。

 

女の人である母に相談しにくいに決まってる。

 

赤ちゃんを妊娠できるようになった「息子」に具体的なアドバイスができるだろうか?

 

母自身が『オメガ』であったとしても。

 

ところが不思議なことに、ユノが相手ならば全面的に頼れる、と思った。

 

僕の力になってくれるって、ユノが母の前で言ってくれたこともある。

 

...ギュッと抱きしめてくれるに違いない。

 

僕はもう、頭ポンポン程度じゃ満足できなくなっていた。

 

 

「チャンミン君に見せたいものがあるの」

 

全員が揃うなり、医師はキャビネットから1冊のファイルを取り出した。

 

そしてファイルのページを繰り、「この方たちを見て」とファイリングされた写真を指さした。

 

「私が担当している方です」

 

2人の男性が笑顔で写真におさまっている。

 

「大丈夫、写真を見せることは彼らの了承を得ています

『オメガ』になって妊娠能力を得ることにショックを受けてしまいます。

だから、少しでも前向きな気持ちでいられるように、という彼らの好意です」

 

体格差がある。

 

壁にかけられた絵画とソファのデザインから判断すると、写真が撮られた場所はここの待合室のようだった。

 

僕が絶句したのは、小柄な方の男性のお腹が大きく膨れていたことだ。

 

華奢な体型をしたその人は、とても綺麗な人だった。

 

だからと言って、女っぽいのとも違う。

 

中性的としか言いようのない外見と雰囲気を持ち合わせた男の人だった。

 

「この背の高い人が彼の夫です」と医師が指さした男性は、精悍な顔立ちとがっちりした体格の持ち主だった。

 

母は「優しそうな人ね」とつぶやいた。

 

「ええ。

とても大切に扱っているわ。

2人は『運命の出逢い』を果たしたのよ」

 

「男同士...」

 

僕はぽつりとつぶやいた。

 

この点が最大の驚きポイントだ。

 

男性『オメガ』が 妊娠させる相手がいるということ...つまり男。

 

「『オメガ』になると、男が好きになるんですか?」

 

医師の説明に合点がいった。

 

男であるユノにドキドキしてしまうのも、キスしたくなってしまったのも、全部『オメガ』になったせいなんだ。

 

身体が求めてしまった『オメガ』の本能みたいなものなんじゃないかな?

 

つまり、『オメガ』になると男の人が好きになってしまうんだ。

 

繁殖期の動物が番を求めてさまよい、異性を見つけるなり交尾に及ぶ。

 

そう思ってしまうと、ちょっとがっかりしてしまった。

 

そんな動物的な理由でユノに近づきたいわけじゃないのに。

 

(あ...!)

 

「交尾」の言葉に、あるシーンがパンっと頭に浮かんだ。

 

あの時のユノだ。

 

そういうことか、僕が目撃したアレ...ユノがあの男の人と裸になって絡み合っていた...は、交尾の真っ最中だったんだ。

 

男と男が濃密に抱き合う理由はつまり、交尾。

 

(...っ)

 

ユノの裸身を思い出していたら、僕のお尻の辺りがきゅん、とした。

 

(何これ?)

 

僕は医師の話を受けて、短絡的にこう結論付けてしまったけれど、間違っていないよね?

 

『オメガ』になると男が好きになる。

 

世の中には『オメガ』を嗅ぎつけることができる希少な人がいる。

 

ユノはつまり、その希少な人ということか。

 

「この人たち...幸せですか」

 

「ええ、もちろん。

これは去年の写真。

彼の出産には立ち合いました。

今は2人とも立派なお父さんたちです」

 

「お父さんとお父さん...。

お父さんが赤ちゃんを産む...」

 

僕は頭を抱えてしまった。

 

「この世には、男という性、女という性、『オメガ』という性があります。

『オメガ』は全人口の0.5%ほどしか存在しないの。

チャンミン君はとても貴重な存在なのよ。

そこに誇りをもっていい」

 

「全然嬉しくないです」

 

「次に『オメガ』の人が気を付けなければならない注意点を説明します。

女性男性に限らず『オメガ』は、特定の人たちを強く惹きつけるフェロモンを出しています。

フェロモンは知ってる?」

 

「は、はい」

 

医師の視線が、僕の背後に座るユノの方に向けられたように見えた。

 

僕のうなじから漂う香りこそがフェロモンだ。

 

それはユノが鼻を押さえ顔を背けなければならないほどの独特の香りをもち、これが外気に漏れ出さないようにと、首にタオルを巻いて外出している。

 

鼻が敏感な者に嗅ぎつけられないようにと、ユノから注意されたからだ。

 

「普通の人たちは、『オメガ』のフェロモンには全く反応しません。

特定の人たちは、全人口の数パーセントの割合で存在して、差に程度はあってもフェロモンに反応します」

 

医師の説明はユノが話した内容と同じだった。

 

「日常生活で出くわす確率は低いけれど、油断はできません」との忠告も、ユノが言った通りだった。

 

「その『特定の人』は『オメガ』にとって危険な存在です。

どうしてかというと、彼らは『オメガ』を妊娠させたくて仕方がないのです。

『オメガ』は妊娠出産に特化した存在で、彼らを誘うためにフェロモンを発散させます。

彼らはとても鼻がいい」

 

医師は自身の鼻をとんとん、と突いた。

 

「『オメガ』の人生が普通の人たちよりも苦労するワケは、その『特定の人』たちから身を守りながら暮らさないといけなくなる点です。

でもね、いいこともあります。

さっきの写真の2人だけど...」

 

(『特定の人』とは、鼻が『敏感』な人...!?

ということは...!)

 

背筋に怖気が走った。

 

話の途中なのにもかかわらず、僕は勢いよく立ち上がりユノの手を取った。

 

「チャミ?」

「チャンミン君!」

「チャンミン?」

 

僕はとにかく、ユノと2人きりになりたかった。

 

喜怒哀楽が激しく揺さぶられた時、その感情は自分の中だけにとどめておけない。

 

今の気持ちを誰かと共有したい、言葉として発音することで、感情と情報の整理をしたい。

 

ユノに確かめたいことがある。

 

僕の突然の行動に、医師と母はあっけにとられていたが、ユノは僕にされるがまま引っ張られていった。

 

待合室を出たところに多目的トイレが1つある。

 

僕はユノをそこへ連れ込み、鍵をかけた。

 

「ユノちゃんは僕のことが分かったんだよね?

それって、ユノちゃんが『特定の人』ってことだよね?」

 

ユノは自身のことを、他の人よりも鼻がいい程度だと話していた。

 

「ねぇ、そうなんでしょ?」

 

僕はユノの身体をグラグラと揺すった。

 

 

(つづく)

 

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(32)麗しの下宿人

 

 

「そういうわけで『オメガ』の男性は赤ちゃんを作ることができるのよ」

 

医師は重ねた丸印の中に、赤ちゃんのイラストを描いた。

 

「......」

「じゃ、じゃあ、『オメガ』の女の人はどうなんですか?」

 

僕は母を思い浮かべながら医師に訊ねた。

 

「妊娠できるようになるってことは、女の人になっちゃうことでしょ?」

「チャンミン君が言いたいことは、逆のことが『オメガ』の女性にも起きるのでは?ってことでしょう?」

「は、はい」

「女性オメガは男性化するのかな?」

 

医師の質問に、僕はちらりと隣の母を見た。

 

母は母だ、女の人だ。

 

どこをどう見たって女の人だ。

 

「違うと思う」

「女性の『オメガ』は、そうじゃない女性と比較して妊娠率が非常に高いのです。

双子や三つ子は当たり前。

生殖能力が異常に高くなる...これが一般の女性と大きく異なるところです。

それと比較すると、男性の『オメガ』は肉体的変化が大きいのよ」

子宮とおちんちん、両方を兼ね備えるのが男の『オメガ』

男でもあり女でもある性別。

「赤ちゃんを妊娠することができるという事実。

この事実がチャンミン君のこれからの暮らしすべてに関わってくるのよ」

「......」

「男性の『オメガ』は女性の『オメガ』よりも大変なの」

 

僕はぐったりと疲れていた。

 

ユノは席を立ち、背中を丸めてうな垂れた僕を覗き込んだ。

 

「チャミ、顔色が悪いぞ」

「先生。

この子を休ませてやってください。

あまり丈夫な子じゃないので」

 

母が医師に頼むと、「そうしましょうか」と医師は腕時計を確認しながら言った。

 

「びっくりする話をたくさん聞かされたり、初めての検査を受けたり、負担が大きかったものね」

 

と医師は労わる目で僕を見た。

 

 

昼食頃まで時間はあったが、僕ら3人は院内カフェテリアで昼食をとることにした。

 

病衣姿の患者や患者の家族らしき者たちが食事をとったり、紙カップを前に談笑していたりと、昼のピーク前にも関わらずテーブルのほとんどが埋まっていた。

 

エントランスホールと同様、大きな窓から陽光がたっぷり降り注ぎ、カフェテリア内は明るい。

 

僕らは3人揃ってカレーライスの食券を買い、テーブルについた。

 

ショッキングな話を聞かされたにも関わらず、案外僕の食欲は正常だったようだ。

 

母も気持ちを切り替えたらしく、「昔よりもずっと、美味しくなってる」と言って店内を見回した。

 

「昔は窓も小さくて狭かった」

 

僕には、ユノのおかげでわずかだけど『オメガ』の予備知識があった。

 

とは言え、あの事実は受け入れがたい内容だ。

 

「僕さ...赤ちゃんを産むことができるんだってさ」

 

実際に口に出してみると、ファンタジーな内容過ぎて他人事のように聞こえる。

 

「そうね...」

 

母はスプーンを皿に戻し、ちょっとだけ涙目で微笑んだ。

 

「びっくりだね、ははは」

 

僕は無意識に自分の下腹を撫ぜた。

 

「赤ちゃんを産める男がいるんだね。

あ...そっか!

僕はもう、『男』じゃないんだった!」

「......」

 

息子の自虐的な物言いに、母は何も答えられずにいた。

 

「ごめんなさい...チャンミン。

私のせいで...」

 

母はぐっと喉を鳴らすと、口を押えた。

 

母を泣かせるつもりはなかったのに、自身の苛立ちと絶望感を誰かにぶつけてたくて仕方がなかった。

 

「ごめんね、お母さん」

 

おろおろしている僕に、これまで黙ってカレーを食べていたユノが口を開いた。

 

「お母さんもチャンミン君も悪くないと思います。

『部外者がが何言ってんだ?』って感じですよね

そこんところは謝ります」

「そんな...謝らないでください」

「俺の故郷に『オメガ』が居たので、そこらへんの奴らよりはマシだと思います。

こんな俺でよければ力になりますよ」

「ユノさん...。

本当に申し訳ありません」と頭を下げた母に、

「謝らないでください」とユノは慌てて言った。

 

子供心ながらに、ユノに悪いなあと思った。

 

ユノに頼ることが出来て嬉しいんだけど、12歳にもなれば遠慮する気持ちを抱けるようになる。

 

下宿人が管理人の一家の心配をそこまでする義務も必要もない。

 

「これはチャンミン君の異変に気付いた者が負うべきことです。

俺だからこそ、気付けたのだと思いますから。

俺...鼻が鋭い方なんで」と、鼻先をとんとんと突いた。

 

会話を聞いていた僕、『オメガ』に気付ける人と気付けない人の違いについて気になった。

 

「この中にも『オメガ』っているのかな?」

「え?」

 

ユノは周囲を見渡したのち「...いないと思う」と言った後、「多分」と付け加えた。

 

「でも、この病院内ならばいる」

「えぇ!」

 

両手で自分を抱きしめ、身を縮こませた僕の反応にユノは笑った。

 

「この建物に何人の人間がいると思ってるんだ?

ひとりやふたりいるんじゃないかな?」

「『オメガ』を見つけ出すことができる『鋭い人』が誰なのか、ユノちゃんは分かる?」

「分かる」

と、ユノは即答した。

 

「彼らの目を見ればすぐに分かるんだ」

「チャミもいずれ、そういう奴らを見分けられるようになるよ」

 

そう言ってユノは、キリっとした目で僕を見据えた。

 

僕の耳には忠告しているように聞こえた。

 

(つづく)

 

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