(37)チャンミンせんせ!

 

 

教習車は校門を抜け、学校建屋へのスロープを上り、乗降場所に停車した。

 

ユノの運転は丁寧で、シートベルトが胸に食い込んでしまうような、荒っぽいブレーキ操作はもうしない。

 

「ふうぅぅ...」

 

大きく深呼吸をすると、緊張で強張っていた全身から力が抜けた。

 

1時間、ハンドルをきつく握りっぱなしの手は汗でぬるぬるし、なかなか緊張からほどけてくれない。

 

「...せんせ...どうすか?

“見極め”に進めそうすか?」

 

ハンドルを握ったままのユノは、そろりと助手席のチャンミンの顔色を窺った。

 

(俺は次の卒検を受検したいんだ!

これ以上、補習を受けたくないのだ!

せんせと早く恋を始めたいのだ!)

 

今日はチャンミンによる最後の教習だった。

 

これまで何百人と教え子たちを卒業させてきたチャンミン。

 

教習指導員人生の中で最も教えがいがあり、指導に熱が入った(...恋もしちゃった)教え子が、いよいよ巣立つとき。

 

(ようやくここまで到達できた。

あ~、よかった。

でも、とても寂しい。

寂しくて泣きそうだ)

 

チャンミンは達成感と寂寥感が半々という、複雑な心境だった。

 

ふと、ユノへ少し意地悪をしてみたくなり、顎をつまんで「う~ん」と唸ってみせた。

 

「えっ!?

駄目っすか!?

どこが、どこが悪かったっす!?」

 

今日の教習で“見極め”に進めるとばかり思っていたユノだった。

 

ユノの頭の中にカレンダーが現れた。

 

(補習となると今週はバイトが詰まっているから、来週しか受けられない。

来週中に“見極め”に進めたとしても、卒検は再来週になってしまう...!

不合格だったりして、その後の補習が1時限じゃ足りなければ、卒検はもっと後ろにずれこんでしまう!

せんせと始める恋愛が延期になってしまう!)

 

(※ユノの中では、チャンミンと交際することは既定事項となっていた。

まるちゃんとの会話のおかげで、愚かな自分があぶり出され、意識と感情の再確認をしたところ、『せんせがすげぇ大好き』の結論にたどり着いた。

チャンミンの発言を、以前は誤った基準...男が好きな貴方を好きだと告白している俺は男なんだから、OKしてくれるでしょ?精神...で捉えていたのが嘘のよう。

今では、チャンミンに向ける恋心は雲一つない快晴の空のよう。

ポジティブの塊となったユノは、チャンミンからよい返事をもらえるハズだと思っていた。

「OKして当然」と、「OKがもらえるハズだ」とは、意味合いが大きく違う)

 

深刻な表情で空を睨み、考え込み始めたユノに、チャンミンは慌てた。

 

「いいえ、とても素晴らしかったです!」

 

チャンミンのジョークが、早急な卒業を目指すユノにはハード過ぎたのだ。

 

「ユノさんの運転が上手くなって、僕は嬉しいです。

でも、これが最後だと思うと...こんなことを担当が言うべきではありませんが...寂しくなってしまって...」

 

チャンミンは首筋を真っ赤にさせて、ユノから目を反らしてそう言った。

 

「チャンミンせんせ...」

 

ユノの手がそろりと、チャンミンの膝の上の手に伸びた。

 

(ダメダメ!

教習車内でルールを破らせて、せんせを困らせたら駄目だ!)

 

と、心にセーブをかけつつも、その手を真っ直ぐ引っ込めるのもつまらない。

 

いたずら心がむくむく湧いてきたユノは、人差し指でチャンミンの手の甲をひと突きしてみた。

 

「ひゃん!」

 

チャンミンの小さく悲鳴をあげてのリアクションに、ユノの方が驚きの声をあげてしまったのだ。

 

「せんせ~、ビックリし過ぎ」

 

「そりゃ驚くでしょう」

 

チャンミンは手の甲をさすっている。

 

手の甲をひと突きされただけなのに、溜めに溜まった静電気が、一点にびりっと刺さったかのように、いつまでもジンジンした。

 

(僕はユノを意識している。

僕の身体は敏感になっている。

ほんのちょびっと触られただけなのに。

クラッチタイミング練習の頃が信じられない。

今やったら、反応してしまいそうだ!)

 

「すみません、悪ふざけしちゃいました」

 

「“見極め”でも卒検でも、落ち着いて運転すれば大丈夫です。

最初とは比べ物にならない程、上達しました」

 

チャンミンから「触らないで!」と叱られなかったことに、ユノの調子は狂う。

 

「せんせのおかげです...くっ...。

俺、こんなに運転が下手だったなんて、知らなかったっす。

せんせにはすげぇ、迷惑かけて...全然、うまくならないしさ。

何度もせんせの寿命を縮めたし...一度はひき殺しそうになったしさ。

せんせはちょいちょい毒のあること言うしさ。

中途半端な慰め言葉を言わないのが高ポイントだしさ。

ビシっとしてるのに、たまに後ろの髪の毛はねてたりさ。

靴下やネクタイがやたら可愛いしさ。

ペンをくるくるしてて、俺の急ブレーキでマットに落としちゃって、せんせはすげぇ焦って探すんだけど見つからなくて、俺の急発進でダッシュボードにおでこをぶつけたり...」

 

ユノは涙をこらえて羅列していった。

 

(他にもいっぱいありますよ。

恥ずかしくて言えないけど。

せんせったら、すげぇ綺麗な顔をしてるんだ。

何度も見惚れた。

照れたり、困ったり、ムッとしたり...いろんな表情が見たかった)

 

「よく覚えてますね」

 

チャンミンは、ユノが挙げていく出来事に腹をたてることなく、くすくす笑っていた。

 

「当たり前っすよ。

せんせとの教習は全~部、いい思い出です。

思い出をつくるために、免許取りにきたんじゃないんですけどね」

 

ユノは言おうか言うまいか迷ったが、チャンミンとの最後の教習だからと、思い切って口にすることにした。

 

「俺、せんせに会いたくて、この学校に入学したんですからね」

 

「知ってます」

 

チャンミンは、照れて顔を赤くさせることなく、さらりと事実を述べた。

 

(う~ん。

判断に迷う反応だ。

...そっか。

ここは教習車の中で、今は教習中。

せんせと俺は、先生と生徒。

プライベートじゃない。

危なかった、つい落ち込んでしまうところだった)

 

「ですよね?

ははっ」

 

車庫前には、教習を終えて戻ってきた教習車が並び始めている。

 

指導員からアドバイスを受け、次の予約を取り終えた教習生から降車していっている。

 

チャイムが鳴った。

 

「ユノさん」

「?」

 

ユノは、差し出されたチャンミンの手に一瞬、まごついてしまった。

 

「握手です。

握手しましょう」

 

「は、はい...」

 

ユノはおずおずと、遠慮がちにチャンミンの手を握った。

 

「今までお疲れ様です。

ユノさんなら大丈夫。

僕は遠くから応援しています」

 

チャンミンの細く長い指と、薄い甲に、ユノはキュンとした。

 

(せんせの手...可愛い!)

 

ぽぉっと夢心地になったユノは、チャンミンに急かされるまで、運転席に居座っていた。

 

 

3日後。

 

「チャンミン君」

 

事務所で採点中だったチャンミンは、先輩指導員に手招きされた。

 

(ユノのことだ)

 

チャンミンは、彼にユノの“見極め”をお願いしていたのだ。

 

「は、はい」

 

結果が悪かったのだろうと、沈みかけた気分で席を立った。

 

「どうでしたか、彼は?」

 

“見極め”は、つい前の時限で行われ、学校かバイトの予定があったのか、ユノは帰宅してしまって不在だった。

 

「ユノ君だけど...」

 

「駄目でしたか。

彼は緊張しぃな子なので」

 

クラッチの踏み方がうまくいかず、緊張度が高まるあまり泣いてしまった事があった。

 

「いや、駄目じゃないよ。

バッチリだったんだ」

 

「そうなんですか!?」

 

「よくあそこまで仕上げたね。

途中で放り出さずに、辛抱強く指導した結果だね」

 

「いえ...彼の努力の結果です。

途中でヤル気を失って、退校してしまう教習生が多いのに、彼は補習を受けてくれましたから」

 

チャンミンは、そう言って謙遜した。

 

ユノは早く卒業をしたい、チャンミンからいい返事を貰いたい一心だった。

(ヤル気スイッチが入り、運転テクニックに関する潜在能力が卒業間近になってやっと、顔を出したのかもしれない)

 

チャンミンはユノのヤル気スイッチが入ったきっかけが、自分であることをちゃんと認識していた。

 

あらためてユノの素直さに感心し、適当なことは口にしてはいけないと、気を引き締めた。

 

(ユノが真正面からぶつかってくるのなら、僕もそれ相応のリアクションを示さないと)

 

 

(つづく)

 

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(36)チャンミンせんせ!

 

 

後日、ユノはまるちゃんから“こってり”と絞られた。

 

「アホか!」「アホって何がだよ!?」

 

まるちゃんの大声にユノは両耳を押さえた。

 

「今すぐその考えをあらためろ!」

 

 

まるちゃんにど叱られるまでの経緯はこうだ。

 

チャンミンの部屋に招かれた翌々日、ユノは学校帰りにまるちゃんの部屋に寄った。

 

まるちゃんはお譲りするグッズの梱包中だった。

 

(「お譲り」とは、ブラインド商品で推し以外のものやダブってしまったものを、同様の目的を持ったファンとの間で、推しグッズを交換し合うことを言う。

 

まるちゃんはコミュ障であるため、自分から話しかけないし、誰からも話しかけて欲しくない。

 

イケメンを隠すために、瓶底眼鏡をはめ、留年ギリギリの必要最低限の講義を受けた後は、逃げるように帰宅している。

 

まるちゃんはノンケで、ゲームの世界では百戦錬磨のプレイボーイなので、ユノの恋路のよきアドバイザーを務められる。

 

非常に興味深い男だがこのストーリーの主役はユノであるため、人物描写はこの程度にしておく)

 

『先生に恋をしている生徒とは俺のことです』と白状しようと心に決めたユノはこうして、まるちゃんの部屋にやってきたのだ。

 

数週間にわたり、『友人から恋の相談を受けている俺』を装い続けたが、いい加減面倒になったのだ。

 

現状報告も兼ねて、ぼろが出る前にカミングアウトしてしまおうと(既にぼろは出ていたが、ユノは気づいていない)

 

「そんなことだろうと思ったよ」と、まるちゃんはふふんと笑った。

 

「えっ!?

バレてた?」

 

「バレてたさ、思いっきし。

バレてないフリの大変だったことよ」

 

ユノはまるちゃんにはとうの昔に見破られていた事実に、「マヂかよ...」と万年コタツの天板に突っ伏した。

 

(俺ってカッコ悪い...ああ、穴があったら入りたい。

だがしかし、穴に入るわけにはいかない。

俺には相談したいことがある)

 

と、ユノはいきなり本題に入ることにした。

 

「俺...せんせに告白しちまった」

 

「...は?」

 

封筒のあて名書きをしていたまるちゃんのペンが止まった。

 

「告白したって、前も言ってなかったっけ?」

 

ユノは以前、連絡先を教えて欲しいとチャンミンにお願いしたことを、『告白したこと』としてまるちゃんに話していたのだ。

 

ユノにとって連絡先を尋ねることは告白と同レベルに勇気が必要なため、敢えて大袈裟に伝えたのだった。

 

「あの時は告白とまではいかなくて...。

でも、今回のやつは正真正銘の告白だ」

 

「ふ~ん。

『正真正銘』...ね。

ふ~ん。

そん時の台詞を教えろよ」

 

「ズバリ聞いちゃうんだ?」

 

「人の惚気話をわざわざ聞いてやるんだ。

有難く思え」

 

(どうせユノのことだ。

『自分の告白内容はマズくなかったか?』

『告白した相手の反応を予想して欲しい』

『俺のことをどう思っているのだろう?』

...こんなところを教えて欲しいのだろうな)

 

ユノがここを訪ねてきた理由など、まるちゃんじゃなくてもお見通しだ。

 

「しょうがね~な、教えてやるよ」

 

ユノは一昨日の夜、どのような言葉を使ってチャンミンへ想いを伝えたのかを、可能な限り正確に説明をした。

 

「『好きだ』って告白した」

 

「ほぉ~。

シンプルだからこそ、相手の心に刺さる愛の言葉」

 

まるちゃんは冷凍庫から氷を出すと、グラスの縁いっぱいに氷を入れ、濃い目に淹れた紅茶を注いだ。

 

「レモン?

牛乳?」

 

「牛乳とガムシロップ」

 

「ガムシロップはない。

砂糖で我慢しろ」

 

まるちゃんはグラスと砂糖、スプーンを手渡すと、自身はレモンティーを持ってコタツに戻ってきた。

 

「『好きです』の後は?」

 

「『いいでしょう、付き合いましょう』とまでの言葉はもらえなかったけど...そこまで要求するには急過ぎるだろ?

だから、『俺と付き合えるかどうか、まずは検討して欲しい』みたいなことを言ったんだ。

...せんせの返事を聞く限り、OKだと思うんだ」

 

「その根拠は?」

 

「『まずは卒業しましょう。すべてはその後の話です』って言ってくれた。

卒業したら、付き合えるって意味だろ?」

 

「どうかなぁ。

俺が先生だったら、ばっさり断ったりしてさ、卒検を控えてる生徒をどん底に突き落としたくない。

希望を持たせられるよう、前向きな返事を匂わせておいて、卒業後に『やっぱり、ごめん』って断るなぁ...」

 

「え゛...」

 

スプーンをくるくる回していたユノの手が止まった。

 

「これは、あくまでも俺の場合の話だし、お前の『せんせ』がどうなのかは分からねぇ。

俺が『それはOKサインに決まってる、よかったよかった』って、お前を有頂天にさせてしまった時、実は駄目だったらどうする?

お前のショックを軽くしてあげたいから、最悪の可能性を示してあげただけ。

俺の親切心だよ」

 

「いやいや。

あの感じだと、高確率でOKだって。

せんせが即答できなかったのは、遠慮があるのだと思う。

ほら...分かるだろ?」

 

「分かるって...『男』ってとこか?」

 

「ああ。

せんせにも伝えたんだ。

せんせが男が好きな人で助かった、って。

そのおかげで、俺は好きの気持ちをだだ洩れに出来たって。

ゲイってだけで、オープンにできなかったところがあると思うんだ。

でも俺は、せんせがゲイだからってそんなの全然気にしないし...気にしないでいられる奴の存在ってレアだと思う。

俺は幸いにも男だ。

男から告白されて、せんせは悪い気はしなかったと思うんだ」

 

ユノが話し終えるやいなや、まるちゃんは両拳を天板に振り落とし、

 

「アホか!」

 

と恫喝した。

 

「アホって何がだよ!?」

 

「お前、先生にそんなこと言っていないよな?」

 

「言ってない言ってない。

ちらっとそういうことを、俺が思ったってだけの話...。

似たようなことを言っちゃったかもしれないけど、ほとんどは俺が思ったこと。

...ったくこぼれちゃったじゃん」

 

ユノは台ふきんを取ってくると、紅茶で濡れた天板を拭いた。

 

「その考え方をあらためろ。

じゃなきゃ、幸いにも付き合えるようになっても、うまくいきっこない。

すぐにフラれるぞ」

 

「...どういう意味だ?」

 

まるちゃんが何に腹をたてているのか、ユノは理解できずにいたため、「フラれる」の言葉は聞き捨てならなかった。

 

「まるちゃんに何が分かるんだよ」

 

「『男が好きな貴方を、男の俺が好きだと告白しているのだから、OKして当然』

そういう考え方がダメなんだよ。

ノンケの学生が『俺は男なのに、どうして付き合ってくれないんですか?』って、ゲイの先生を責めるんだ。

先生は傷つくねぇ。

上から目線だし、先生にすげぇ失礼だぞ?

先生をなんだと思ってるんだ?」

 

「......」

 

まるちゃんの指摘の何割かは図星で、ユノは黙り込んでしまった。

 

「そこまでは...思ってない」と、ぼそりと言い訳するのがやっとだった。

 

「先生をどう思ってるんだ?」

 

「...素敵な人だよ。

あんな人、他にはいない」

 

まるちゃんは乗り出していた上半身を戻すと「だろうね」と、声のトーンを落として言った。

 

「正直言うと、俺には男を好きになる心理は全く理解できねぇ。

ユノの言う通り、お前の恋愛はレアケースだよ」

 

「そのレアケースが俺の身に起こるなんてさ。

せんせを初めて見た時、『男同士なのに恋ができるんだ』ってびっくりしたんだ。

気持ち悪い、っていう意味じゃないぞ。

俺も男でよかった、って思ったんだ。

せんせをひとめ見て、俺が女だったら相手にされなかっただろうって、すぐに分かったんだ。

男にフラれて泣いてるせんせを見て、俺にもチャンスがあるって嬉しかったんだ」

 

「ほらな。

ユノだって、男なら誰でもいいわけじゃないんだろ?

先生オンリーだろ?」

 

「うん」

 

「例えば、俺相手ならどう?」

 

まるちゃんの問いに、ユノは身をぶるぶる震わせた。

 

「おえぇぇぇ!

ぜってー、無理!」

 

「ふん、俺だって『おえぇぇぇぇ』だ」

 

まるちゃんは嘔吐のモノマネを止めると、「それと一緒だ」と言った。

 

『男だから』好きなんじゃない、『先生だから』好きなんだよ。

だろ?」

 

「うん...」

 

「好きな人を傷つけたくないだろ?

考え方を振り返ってみな」

 

例えば、ゲイとは男と見れば見境なしに好きになる、と思いがちなのも。

 

レンタルショップで、一緒にいたまるちゃんを「恋人だと勘違いされたら困る」と、とっさに思ってしまったのも。

 

チャンミンとの距離がぐんと近づき、交際できる可能性が高まった今、浮かれていた自分。

 

(ああ、俺って馬鹿で無神経だ。

せんせのことを知らず知らずのうちに、傷つけてたかもしれない)

 

ユノは深く深く、地底深く反省した。

 

 

(つづく)

 

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(35)チャンミンせんせ!

 

 

「はい...考えてみます」

 

『せんせと恋愛がしたい』

 

ユノの言葉を受けて、「はい」と即答できなかったチャンミンだった。

 

この場にKがいたら、「せっかくのチャンスを、なに引き延ばしているんだ?お前は小難しく考えすぎなんだよ」と呆れられそうだった。

 

「あ~あ、よかった」

 

前のめりに座っていたユノは、チャンミンの回答を受け、安心感のあまりどっと尻もちをついた。

 

ユノにとって、今のチャンミンの答えだけで十分だったのだ。

 

「待たないで下さい...なんて言われたらどうしよう、って怖かった」

 

弓型に目を細めた屈託ない微笑みに、「ああ、若いっていいな」とチャンミンは思った。

 

(僕だったら、こんな中途半端な答えじゃ満足しなかっただろう。

でも...僕の中でもうしばらく、覚悟できるまでの時間が欲しい)

 

若くて綺麗な男の子が、三十路のくたびれたサラリーマンを好きだと言っている。

 

「いいのかな」と、チャンミンの中で罪悪感が芽生えた。

 

「せんせ。

俺、頑張って合格しますよ。

教習はあと...3時間でしたっけ?」

 

「あと2時間です。

次の教習で問題がなければ“見極め”に進めますよ。

“見極め”に合格したら、いよいよ卒検です」

 

「あと2時間ですか...寂しいなぁ。

あ!

誤解しないでください。

俺はマジで運転が下手なんです」

 

チャンミンの教習を永遠に受けていたくて、わざと習得スピードを遅らせていたのではないと、念を押した。

 

事実、ユノは下手くそに見せられるほどの運転テクニックを持ち合わせていない。

 

「上手になりたくないなぁと、思ったことはありますけどね。

ずっと思ってましたけどね」

 

「こら!」

「あは」

 

前向きな返事がもらえたことで、ユノはニコニコご機嫌だ。

 

「そうだ、サンドイッチもあるんすよ」と、買い物袋に手を伸ばした。

 

「ん?」

 

買い物袋から顔を出していたものは、長時間の立ち読みのお詫びのつもりで購入した雑誌と書籍だった。

 

(ああ、そういえば。

適当に買ったやつだった)

 

チャンミンが約束の時間に現れないことから不安になり、店を出る際に目についたものを...夏ファッションもチェックしたかったし、エロい気持ちも解消したいし...じっくりと選びもせずに手に取ったものだった。

 

チャンミンは今こそ、気になっていたことを尋ねるグッドタイミングだと思った。

 

「あの~、ユノさん」

 

チャンミンは胸の位置で小さく挙手をした。

 

「はい、せんせ。

何すか?」

 

「ごめん。

見るつもりはなかったんだけど、見えてしまったんだ」

 

「何をっすか?」

 

「これを見て、僕はどう解釈したらいいのか」

 

「解釈...?」

 

チャンミンは例の雑誌を、すっとユノに差し出した。

 

(NO〜〜〜〜!?)

 

ここで初めてユノは、自分がチョイスした雑誌が特定ジャンルのものだと認識したのだった。

 

男性のための男性だらけの成人雑誌だ。

 

「え...っとえっと、俺っ、そういうつもりじゃなくって!

信じてください!

せんせを意識して、買ったんじゃないっす!

勉強しなくっちゃとか、興味があったとか...そんなんじゃありません!

表紙をちゃんと見なかったんで、ホント、知らなかったんです」

 

しどもどろに言い訳するユノは真っ赤だ。

 

「その言葉、信じてもよろしいのですか?」

 

「嘘ついてませんよ!」

 

チャンミンは肩の力を抜くと、クスクス笑った。

 

「こういうのを買うことは悪いことじゃありませんよ。

内容は凄いですけどね。

ユノさんがこれを買ったことに驚いただけです。

僕は買いませんけどね」

 

「それなら、よかった。

軽蔑されるかと思いました」

 

「『軽蔑する』...。

ユノさんはまず、そういう考えを捨てて欲しい...これが僕の願いです」

 

「...せんせ。

そうですね、軽蔑されるようなことじゃないんすね。

せんせ、この雑誌、欲しいですか?

あげますよ」

 

「い、要りませんよ!」

 

「それならば、俺は詳しくならないといけないんで、これで勉強します」

 

「どうして?

勉強する必要なんて...」

 

「必要ですよ。

だって、せんせといずれ...むふっ」

 

「まだ付き合うとは返事していないでしょう?」

 

「まあ...そうですけど」

 

「学校を卒業すること!

ユノさんが今、一生懸命にならなければならないことです!

すべてはその後の話です!」

 

「わかってますって。

希望の光が見えてきました。

見ててくださいよ、せんせ」

 

 

「俺、帰ります」

 

ユノの言葉に、チャンミンは猛烈な寂しさに襲われた。

 

「泊まっていきますか?」と誘ってしまいそうだった。

 

ユノは靴を履き、部屋を出る前に「おやすみなさい」と言った。

 

「下まで送ります」

 

「子供じゃないんだから、ここで大丈夫です」

 

「いいえ」

 

チャンミンはサンダルをつっかけた。

 

「コンビニにも行きたいですし」

 

ユノと離れがたいチャンミンが、思いついた言い訳だった。

 

それから、ユノに伝えたいことがひとつあったのだ。

 

「わあ、もう少しだけせんせと一緒に居られますね。

 

せんせ、ちゃんと財布を持ちましたか?」

 

「あっ!!」

 

「もぉ、せんせったら」

 

 

チャンミンと自転車をひいたユノは、ずっと前方の煌々と明るいコンビニエンスストアに向けて歩いていた。

 

早朝に近いといってもいい時刻で、いかに自分たちは時間を忘れて語り合っていたかを知る。

 

この夜は...特にユノが、心の内を吐き出したときだった。

 

一方、チャンミンの心の内は、ユノには伝えていない秘めたる思いが存在していた。

 

好きとか好きじゃないとか、そういう話ではなく、ノンケに恋をしたときに必ず心に巣食う恐怖について。

 

「せんせ」

 

「はい、ユノさん」

 

「俺が卒業したら、俺のバイト先に、メシ食いに来て下さい。

ファミレスですけどね。

...と言っても、俺は厨房なんで顔は出せませんが...」

 

ユノは立ち止まった。

 

「それなら、おススメのお店があります。

ユノさんはお酒、好きですか?」

 

「あ~~。

酒は...まあまあかな。

沢山は無理ですが、少しだけなら飲めます(嘘だけど。めっちゃ弱いけど)」

 

「そうですか。

僕もほどほど嗜む程度なので(嘘だけど。めっちゃ強いけど)

食事がてら、いかがですか?

とても美味しいし、若いユノさんがお腹いっぱい食べられます」

 

チャンミンはKと行きつけの居酒屋を思い浮かべながら、ユノを誘った。

 

「じゃあ、そこへ連れていって下さい。

俺、一発で合格してみますよ」

 

ユノはガッツポーズをしてみせた。

 

2人は再び歩き出した。

 

店まであと数メートルといった時、チャンミンは話し出した。

 

「そのことなんですが...。

担当指導員なのに、申し訳ないのですが...」

 

「?」

 

「ユノさんの卒業検定の日ですが...僕は不在なのです」

 

「嘘っ!?

どうして!?

休みの日なんすか?」

 

ショッキングな内容に、ユノは大声を出していた。

 

合格が分かった暁には、チャンミンに抱きつくプランがあったのだ。

 

(ずっと面倒を見てきた可愛い我が子が巣立とうとするその時に、肝心の親が見守っていなくてどうする?)

 

「違います。

どうしても外せないことがあるのです。

これは元々、決まっていたことですので、すっぽかすことはできません」

 

「......」

 

「ユノさんの卒業検定が、見込みより後ろにずれこんでしまったことで、予定が重なってしまったのです」

 

チャンミンは、しょんぼりと肩を落としたユノを浮上させようと、事情を説明した。

 

「すみません...下手くそで」

 

「いいえ、そんなことありませんよ。

途中どうなるかと思いましたが、いよいよ卒業までこぎつけることが出来たのは、ユノさんの努力です。

ユノさんを見て、僕も頑張らないといけないな、とヤル気が出ましたよ」

 

「せんせは十分、頑張っていますよ」

 

2人はコンビニエンスストア前まで到着していた。

 

店前にはトラックが停車しており、ドライバーが店内へ商品を搬入していた。

 

「僕もね、ユノさんと同じように試験を受けるのです」

 

「試験?

先生なのに試験を受けないといけないんすか?」

 

「そうです。

教習指導員は、年に最低1度は試験や講習を受けています。

資格を取るためだったり、持っている資格の更新だったりして。

日々勉強、日々努力です。

僕にはまだまだ、持っていない資格が沢山あります。

救急救命教習も資格がないと教えられないのですよ。

ご存知なかったでしょう?」

 

「へえぇぇ。

自動車学校の先生って奥が深いっすね」

 

ユノは素直に驚き、尊敬の眼差しをチャンミンに注いだ。

 

「地味に見える職業ですけどね」

 

チャンミンは少し前まで、仕事へのやりがいを見失い、Kに急かされないと実地試験練習も怠っていた。

 

「せんせが受ける試験は何すか?」

 

「大型自動車教習指導員免許試験です」

 

「凄いすね」

 

「...僕は昨年、この試験に落ちました」

 

「...そうなんすか」

 

「年に1度しかないので、今年がダメなら来年です」

 

と、チャンミンは言ったが、学校側が与えてくれるチャンスは3回までだ。

 

職場に居づらくなることを想像すると、できれば、今回の試験で合格したかった。

 

「せんせがいなくて心細いけど、俺なら大丈夫...だと思います。

俺もせんせも共に頑張りましょう!

ほらせんせ、握手握手」

 

チャンミンは差し出されたユノの手を握った。

 

自分よりも大きく分厚いユノの手に、チャンミンの鼓動が早くなった。

 

 

(つづく)

 

 

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(34)チャンミンせんせ!

 

 

チャンミンからの「どう思いましたか?」の質問に、ユノは何て答えたらよいか、フル回転で考えた。

 

(いよいよ来たぞ...)

 

ユノは緊張した。

 

(これはまるちゃんに相談すべき案件だ。

だが、今ここにまるちゃんはいない。

俺の判断で、俺自身の言葉で伝えないといけない。

取り繕ったりしない、正直な気持ちを!)

 

ユノは言い訳や説明を並べる前に、あの夜、チャンミンを見て真っ先に何を思ったかを言葉にした。

 

「どうって...。

せんせが可哀想だなぁ、って思いました。

彼氏が浮気してて、逆ギレした挙句の『別れよう』

ひどい話だと思いました」

 

「ずいぶんはっきり、会話を聞いていたんですね?」

 

「あんなデカい声で口論してたら、聞くつもりはなくても耳に入っちゃいますよ」

 

実際は、会話の内容を聞き取れる場所まで近づいたことは、黙っておいた。

 

「それから?」

 

チャンミンがどんな感情でいるのかを読み取りたくても、その顔は無表情で、この類の話題がいかにデリケートなものなのかと、ユノはますます緊張した。

 

「『これがゲイカップルか!?』と、驚きました。

俺の身近にはいなかったもので。

...ゲイじゃなくても、男同士で付き合うことはあるみたいですけど...」

 

『ゲイ』のワードに、チャンミンの片方の眉毛がぴくり、と持ち上がった。

 

「それから?」

 

「それから...せんせは男の人と付き合う人なんだなぁ、って思いました」

 

チャンミンは、今までのユノの説明...事実を述べただけで核心に触れていない...だけでは満足できなかった。

 

『ユノは一体、どう思ったのか』についてこだわっていた。

「ユノさんは僕らを、変わり者を見る目で見たのではないですか?

...男同士で気持ち悪い、って?」

 

ユノの気持ちに応えるために、必ず確認したかった点だ。

 

(友達以上の関係に進みたくても、いつもここでストップしてしまうんだ)

 

「それは無いです!

無いない!

全く無し!」

 

ユノは首も手も振ってのオーバーアクションで否定した。

 

「僕が傷つくと思って、気を遣わなくていいですよ」

 

チャンミンは真っ直ぐ、睨みつける勢いでユノを見つめた。

 

「俺はホントのことを言ってます。

さっきも言いましたけど、凄い泣いているせんせを、俺は放っておけなかった。

放っておけなかったのは...せんせのことが気になってしまって...。

せんせは涙でぐちゃぐちゃで」

 

当時のことを思い出し、ユノはこみ上げてきた涙をこぶしで拭った。

 

「『俺なら慰めてやれる』って、とっさに思ったんです。

初対面の男相手に、そう思ったんす。

あんなクソ野郎...あ、すんません...なんかより、『俺なら優しくしてあげるのに』って。

本気で思ったんです」

 

「ユノ...さん」

 

ユノはお茶をひと口飲み込むと、ひと呼吸ついた。

 

「ふう...」

 

チャンミンもユノに倣って、お茶を飲んだ。

 

「男同士が恋愛してるところを初めて見ました。

俺の目の前で泣いていた人...せんせのことです...を見て、男同士でもノーマルな恋愛と変わらないんだな、って思いました。

激しい感情のぶつかり合い、って言うですか?

不謹慎ですけど、俺、感動しちゃって」

 

「珍しいものを見学できたから?」

 

チャンミンは卑屈になってしまう自分を抑えられなかった。

 

チャンミンの固い声に、ユノの表情が引き締まった。

 

チャンミンのリアクションを半分面白がっていたところや、片想いに浮ついていた自分の軽々しさを反省した。

 

「好きなんだからいいじゃん」と、気持ちをオープンにしてきたが、それを素直に受け入れ難いチャンミンの背景に考えが至っていなかったのだ。

 

(せんせの不安を解消してあげることを言ってあげないと!

俺なら大丈夫、だって)

 

「見学だなんて...違いますよ。

なぜ感動したかと言うと...うーん。

『男相手でも、恋愛ができるんだ!』

『俺はこの人と...目の前でフラれて泣いている人と恋愛できるんだ!』

...この発見に感動したんす」

 

「ユノさんが言っている意味が理解できないのですが?」

 

「この心情を説明するのは難しいんすよね~。

雷に打たれたかのようでした。

う~ん...。

それじゃあ、どれだけ感動したかについて説明します。

せんせとは自動車学校では初対面じゃありませんでした」

 

「そうですよね、僕のことを前から知っていた。

僕には男の恋人がいた。

僕は男が好きな男だ...と」

 

「そういうことになります」

 

数週間にわたって、その事実を知らぬ存ぜぬを貫いてきたユノに感心した。

 

「知らなかったのは僕だけですか?」

 

(ああ...恥ずかしい!)

 

「そういうことになりますね。

だって、最初に教えていたら、俺のことをストーカー野郎だって、身構えると思ったんです」

 

「...まあ...そうかもしれませんね」

 

「卒業するまで我慢してたんですが...。

今、告白します!」

 

ユノの表情がよりキリっと引き締まった。

 

「いつ見ても綺麗な顔だ」と、チャンミンは見惚れた。

 

そしてチャンミンは、ユノが何を言おうとしているのか予想できていた。

 

「俺の気持ちなんて、とっくの前に気付いているでしょう?」

 

「...なんとなく」

 

とぼけることもできたが、チャンミンは認めた。

 

「俺は、せんせと恋愛がしたくて今の学校に入校したんす」

 

「え...」

 

ユノはチャンミンが教習指導員であることを知った経緯を説明した。

 

「すべてが偶然なんですよ。

レンタルショップでひとめ惚れして、住んでいるとこを知りました。

自動車学校で先生をしているって知って、そこに入校しました。

そして極めつけは、担当の先生がせんせだったんす。

今じゃ、家にあげて貰って...もう...俺、幸せです」

 

ユノの『ひとめ惚れ』の言葉に、チャンミンの胸の奥がじんと痺れた。

 

想いを伝えようと必死なユノは、今の言葉が告白になっていたことに気付いていない。

 

「俺は男です。

俺がせんせに好意駄々洩れ出来てたのは、せんせの恋愛対象が男だと知った上のことです。

あ、俺は女の子が好きなタイプです。

ノンケです」

 

「知ってます」

 

「せんせが男と恋愛出来る人でよかった、とマジで思いました。

これで分かってくれましたか?

あの夜、『男と恋愛ができるんだ!』って俺が感動した意味です。

もし、せんせがノンケだったら、男の教習生に追いかけ回されたら、キモイでしょう?」

 

「ノンケだったことはないから、キモイ気持ちは分かりませんけどね」

 

ここでようやく、チャンミンは笑顔を見せた。

 

「俺は成人してるし、生徒と付き合ったって何の問題もないと思いますけどね。

あー、はいはい。

職場で禁止されてるって言いたいんでしょ?

でも、告白するのは自由ですよね?

俺の独り言だと思って聞いてください」

 

「ユノさんの独り言なら、さっきから聞いていますよ」

 

「いっぱい話しましたからね。

先生と生徒の関係じゃなければ、せんせは俺と恋愛できます。

せんせが俺のことをどう思っているかについては、脇に置いておいての話ですが。

俺はもうすぐ卒業します。

卒業するんすよ!?

どうですか?」

 

「彼女がいるでしょう?」

 

「彼女?

彼女なんていませんよ」

 

「ほら、いつも一緒にいる子は?」

 

「あ~、あの子はただの友だちです。

ん?

へぇ...俺のこと、ちゃんと見てたんですね~」

 

「ユノさん!!」

 

「俺...せんせに振り向いてもらえるように、頑張ったんですから。

馬鹿みたいでしょ?

バレバレでしたよね?」

 

「...そう、ですね。

あははは」

 

チャンミンの中で不安のいくつかが解消され、緊張がほぐれた今、笑う余裕ができた。

 

ユノに全部知られていたことに腹立たしさを覚えないでもないが、なぜだか「よかった」と安心する自分がいた。

 

「せんせ」

 

ユノはつられて笑うことなく、きりりと真剣な表情のままだった。

 

「はい?」

 

「そろそろ、俺を見て下さいよ」

 

「......」

 

ユノにとってこれは一か八かの、チャンミンの気持ちに発破をかける台詞だった。

 

「せんせは俺のこと嫌いですか?」

 

「まさか!

嫌いだなんてっ、全然!」

 

「なら、よかった...。

可愛い生徒ですか?」

 

「ま、まあ...そうです...ね」

 

「好きですか?」と尋ねるのはまだまだ早いと判断していた。

 

「せんせは男が好きな男で、俺は男です」

 

「その通りです」

 

「チャンミンせんせが好きです。

俺はせんせと恋愛がしたい」

 

「......」

 

「俺が卒業してからでいいんで、真剣に考えてみてください」

 

 

(つづく)

 

 

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(34)チャンミンせんせとイチゴ飴

 

ユノは落ち込んでいた。

 

目はらんらんと冴えわたり、チャンミンに心配をかけまいと眠ったふりをしていた。

 

セミダブルサイズとはいえ、寄り添わないとベッドから手足がはみ出てしまう。

 

ユノはリビング側を、チャンミンは壁側を向いて、互いに背中合わせに横たわっていた。

 

はた目には倦怠期中のカップルに見えるが、丸めた背中同士がくっついている点がそうではないことを物語っている。

 

互いに想い合っているのに、交際期間が浅いせいで、心と身体両方の本音を見せられるだけの親密さに到達していない...2人の場合はそれに加えて、想いが深過ぎるあまり、考え過ぎてしまう点がぎこちなさを生んでいた。

 

コトを果たせなかった2人は、

「仮眠でも...とる?

それとも、モーニングに出かける?」

 

「そうっすね...ちょっとだけ横になろっかな」

 

と、明るく振る舞い、太陽が昇りかけた時刻にも関わらず就寝のベッドにつくことにしたのだった。

 

遮光カーテンの隙間から漏れる光の筋は、くっきりとまぶしい。

 

2人がひとつのベッドで眠るのは初めてではない(『チャンミンせんせ!』より)

 

しかしユノにとって、今日の添い寝はあの夜のものとは大違いだった。

 

(せんせと付き合える夢が叶ったというのに、今はドキドキするどころか、居たたまれない。

1人になりたい...!)

 

ユノはそっとベッドを抜け出した。

 

後ろを振り返ってみると、チャンミンの背は規則正しく上下している。

 

(せんせ、寝てる...。

よかった...せんせはそれほど気にしてないのかも)

 

ここで気になるのは、チャンミンも眠れずにいたかどうか?

 

当然チャンミンは眠ってなどいない。

 

ユノ以上に目が冴えており、ぐっすり眠りこんでいる演技もかなりのものだった。

 

相手の性別を問わず初めての性交渉では、滞りなくフィニッシュを迎えられないことは多々あるものだ。

 

ユノは童貞ではない。

 

(でも、男とヤッたことはない)

 

おおらかそうに見えて実は、ユノはチャンミンより繊細な男だった。

 

チャンミンは恐怖していた。

 

男と身体の関係を持つことに、ユノが拒否感を抱いたのではないだろうか、と恐怖していた。

 

ユノがベッドを抜け出したことで、ふっと背中が寒くなった。

 

こちらを振り返って様子をうかがっていることに気づいていたが、頑なに眠ったふりをしていた。

 

 

ユノはベランダに出ると、手すりにもたれ白みかけた空を見上げた。

 

ちゅんちゅんと、スズメの鳴き声がする。

 

(せんせを傷つけちゃったかもしれない。

怖気ついたんだとせんせに思われていたらどうしよう!)

 

ユノは両手の平をじっと見つめた。

 

この手が先程まで、女性のものとは全く違う弾力をもった肉体を抱いていた。

 

(...俺は怖気ついたのか。

でも、確かに勃った)

 

と、言い聞かせてみても、途中で萎えてしまった事実は男としての自信を失わせてしまうものだ。

 

(せんせを抱くのが無理だから、萎えたんじゃない。

...これは緊張だ。

緊張のせいだ)

 

眼下の通りを、時折車が通りすぎた。

 

通勤時間にはまだ早く、主に配達中と思われる商用バンやトラックだった。

 

(正直に言うと、何か“悪いこと”をしているかのような気分にもなった。

...せんせを神聖化してるせいなのかなぁ)

 

室内へと戻ろうと、踵を返したユノの足が柔らかいものを踏んだ。

 

「ん?」

 

それはタオルにくるまれた何かだった。

 

手すりの下に何か落ちていることに、今さら気づいた。

 

(なんだろ?)

 

ユノはタオルから顔をのぞかせている、ピンク色の半透明のもの...数珠つなぎなったイチゴのような玩具...に興味をそそられ、手に取ってみた。

 

(これって...)

 

それは以前ユノが目にしたことがある...チャンミンの“アレ”だった。

 

つい1時間ほど前、チャンミンがユノに見られまいと焦った挙句、ベランダへ放り投げたそのものだった。

 

(なぜベランダにこれがあるのだろう?

...まさか!)

 

ユノの脳裏に、外気にさらされるこのベランダで、下半身を慰める恋人の姿が思い浮かんだ。

 

通りを挟んだ向こうには、このマンションより高層のマンションやテナントビルがある。

 

南向きのチャンミンの部屋はとても日当たりがいい。

 

几帳面で清潔好きなチャンミンが、“これ”の乾燥・殺菌の為に日光浴をさせていたのだとも考えられる。

 

「ふっ...」

 

ユノは小さく吹き出した。

 

(せんせはやっぱり、せんせだなぁ。

可愛い人だ)

 

くすくす笑い出した。

 

 

ベッドを出て行ったユノは、まだ戻ってこない。

 

寝たふりも辛くなってきて、チャンミンは起きだすことにした。

 

(ユノは...?)

 

リビングは無人で、サッシ窓は開いていた。

 

「窓を開けっぱなしにしていたっけ?」と、窓際に近づいた時、ベランダに居るユノに気づいた。

 

ユノはチャンミンが貸したスウェットの上下を身に付けていた。

 

チャンミンの存在に気づいていないようだった。

 

(笑顔だ、笑顔!

普通に振舞おう)

 

チャンミンは張り付いた笑顔になりそうな頬をほぐした。

 

「ユノさ...」

 

ユノの名を呼ぼうと、開きかけた口が止まった。

 

ユノが今、手にしている物の正体に気づいたのだ。

 

(あれは...!)

 

背筋がすっと凍り付き、直後全身が熱くなった。

 

何と言い訳をしようと、寝不足気味の脳を働かせようとしたとき、チャンミンは目にしてしまったのだ。

 

ユノの口角が持ち上がっていた。

 

(笑ってる...!)

 

チャンミンの熱くなった身体が、一気に冷え込んだ。

 

(...厭らしい僕に呆れているんだ!)

 

チャンミンは裸足のままベランダに出た。

 

 

「ユノさん!」

 

ユノが振り返った先に、すごい形相でこちらに向かってくるチャンミンがいた。

 

「...せんせ?」

 

チャンミンはユノの手からソレをもぎ取った。

 

「勝手に触らないでください!」

 

「すんません...これ、落ちてたんで」

 

「僕を軽蔑してもらっても構いません」

 

「え?」

 

チャンミンは、ユノの微笑みの理由を誤解していた。

 

「軽蔑したでしょう?

笑っていたでしょう?」

 

ユノは思いもよらぬ言葉を聞かされ、口をポカンと開けた。

 

軽蔑とは、ユノがチャンミンに対して決して抱くことはない感情だ。

 

「笑ってませんって!

あれはただ...」

 

「ゲイである僕を...セックスがしたいばっかりの男だと思っているんでしょう?」

 

「は?」

 

ユノを睨みつけるチャンミンの眼は、泣きだしそうに潤んでいた。

 

「さっきのこともそうです。

ユノさんにはまだまだ、早すぎたんです。

それなのに、僕は無理やり...!」

 

「違いますよ」

 

何が何だか理解できないといった風のユノの表情を、すっとぼけているだけだとチャンミンはとらえていた。

 

チャンミンはユノから顔を背け、唇をかみしめた。

 

「今までもそうです。

あっちこっちにあるバイブやビーズに、ドン引きしたでしょう?」

 

「そりゃあ最初は、びっくりしましたけど...」

 

「ほらね。

普通だったらドン引きして、嫌になるしょうよ?」

 

「いえいえいえいえ。

全然」

 

ユノは激しく手と頭を振って否定したが、チャンミンの目にはやはり、わざとらしいものに映った。

 

「ユノさんとヤリたいばっかりの男だと思ったでしょう?」

 

チャンミンはタオルにくるんだ“それ”を、もう片方の手の平にぽんぽんと打ち付けながら言った。

 

「僕のことを軽蔑したでしょう?

下半身だけの男だって?」

 

「してないっす!」

 

「男と付き合うとは、こういうことなんです。

女の子と付き合うよりずっと、性にはどん欲です。

いつまでも、プラトニックな関係じゃあ物足りないのです」

 

「俺だってそうっすよ。

せんせとヤりたいっすよ」

 

「どうだか...ねぇ」

 

チャンミンは目を細め、嘆息した。

 

ユノを責めたくないのに、責めたい気持ちがむくむくと湧いてくる。

 

温厚なチャンミンの顔が、どんどん悪い顔になってゆく。

 

「僕とのセックスが気持ち悪くなったのでしょう?」

 

「なんでそうなるんすか!?

せんせ、急にどうしちゃったんすか?

俺がそんなこと思うわけないじゃないすか!?」

 

「僕とのこと...無理しないでください」

 

チャンミンはユノに背を向けて言った。

 

「頭に血が昇っているみたいです。

...頭を冷やします」

 

「えっ?」

 

チャンミンの背中ははっきりと拒絶を現しており、「今日のデートは?」と尋ねる隙をユノに与えてくれなかった。

 

ユノは過去に、別れを告げる恋人に泣いてすがっていたチャンミンを目撃しており、チャンミンとは感情的な男であることを知っていたつもりだった。

 

ところが突然の展開に動揺してしまったせいで、チャンミンの飛躍した考えについてゆけなかった。

 

(俺...せんせに何か失礼なことしたっけ?

アレを拾ったからいけなかったのか?)

 

(つづく)

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