(53)時の糸

 

 

 

チャンミンは薬局に飛び込んだ。

 

(何をもっていってあげたらいいかな)

 

腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。

 

(これじゃあ、ユノを子供扱いしてるみたいだ!

のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。

ユノが欲しがるものってなんだろ?)

 

ユノの持ち物や話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。

 

(青りんご味の歯磨き粉?

...へぇ、面白そうだな)

 

「あっ!」

 

チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。

 

「ああ!

すみません!」

 

チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「え、ええ」

 

その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。

 

あまりにまじまじと彼が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。

 

「すみません。

......えっと...何か?」

 

肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。

 

「覚えていませんか?」

 

女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。

 

「ああ!

あの時の」

 

数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。

 

「あの時は、助かりました」

 

チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。

 

「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」

 

女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。

 

(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)

 

再び居心地が悪くなったチャンミン。

 

(世間話とか雑談とか...苦手なんだよ)

 

「職場が近くなんです。

ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」

 

話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。

 

「あの!」

 

「はい?」

 

不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。

 

(僕は早くユノのところに行きたいんだ)

 

「あなたのお名前は?」

 

「?」

 

(名前?)

 

「変なことを聞いてごめんなさい。

びっくりしますよね」

 

(びっくりするに決まってるだろ。

急に名前を聞かれるなんて)

 

チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。

 

チャンミンには親しい者(現在はユノ)と、それ以外の者しかいない。

 

それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。

 

女性の顔は真っ赤になっている。

 

「本当にごめんなさい。

忘れてください」

 

頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。

 

(勿体ぶるつもりはない。

名前くらい、どうってことないし)

 

「チャンミンです。

僕の名前は、チャンミンです」

 

チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、彼を見つめる目がますます見開いた。

 

何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。

 

(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)

 

チャンミンは、女性の返事を待った。

 

「ごめんなさい!

私はKと申します。

この薬局の上に住んでいます。

ここは2階から上がマンションになっているんです」

 

「はあ、そうですか...」

 

(Kとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)

 

Kは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。

 

「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」

 

「はあ」

 

(意味が分からない。

素直に従っておけば、角が立たないだろう)

 

Kにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。

 

「あの!」

 

また呼び止められて、今度は不機嫌さを隠さずふり返った。

 

(今度は何だよ?)

 

「何か?」

 

「チャンミンさんは、もしかして...。

XX高校の卒業生ですか?」

 

「XX高校...?」

 

チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、

 

(いけない!)

 

眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。

 

「いいえ、違います」

 

固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。

 

そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。

 

 

 

 

(「違います」と、とっさに答えたけれど、正確に言うと、『覚えていない』んだ。

 

高校?

 

僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、

あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。

 

思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって...立っているのか座っているのかも分からなくなって...眩暈がする)

 

 

チャンミンは立ち止まった

 

 

(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。

 

頭が痛いのもそのせいだ。

 

過去のことを思い出せない。

 

高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。

 

もしかしたら、思い出せないのではなく、少しずつ忘れていっているのかもしれない。

 

僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)

 

 

チャンミンは白い息を吐くと、ユノの住むマンションを見上げた。

 

 

(つづく)

 

(52)時の糸

 

 

滅多に湯船に湯を張ることなどないユノだったが、今夜はそうも言っていられなかった。

 

身体の芯まで冷え切って、ぞくぞくとした震えでガチガチと歯が鳴る。

 

ユノは顎まで浸かって全身を温めた。

 

「いたたた」

 

張りつめた肩と肩甲骨に、蛇口から出しっぱなしにした熱いお湯をうたせ湯にして、その気持ちよさにユノは唸る。

 

次いで、こわばった足首からふくらはぎまでを撫でさすった。

 

そこだけ赤くなった皮膚はつるりとしている。

 

(自由に歩けるし、走ることもできる。

周囲も全然気づかないし、俺自身も違和感がない。

でも、冷えるのはいかんなぁ。

20年かぁ...再建手術を受けてもいいんだけどなぁ)

 

脱衣所に置いたものに視線を送る。

 

ユノは縁に後頭部をもたせかけ、白い湯気に煙る天井を見上げてひとりごちた。

 

「はっくしょん!」

 

(熱があるかもしれん...そうなっても仕方ないよなぁ...)

 

熱いお湯の中にいるのに、ぞくぞく震えが止まらない。

 

(チャンミンは大丈夫かなぁ...)

 

湯船から立ち上がると、バスタオルを身体に巻き付け、片足けんけんの要領で寝室に向かった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

相乗りしたタクシーがユノのマンション前に停まった。

 

「ひとりで大丈夫?

部屋の前まで送るよ」

 

とユノと一緒にタクシーを降りたが、

 

「大丈夫だから。

あんたこそ、早く家に帰りな」

 

と、ユノに無理やりタクシーに戻されてしまった。

 

火傷がしそうに熱いシャワーを浴びて十分温まった僕は、分厚いスウェットの上下を着た。

 

濡れた洋服は乾燥機の中で回っている。

 

ベッドのヘッドレストにもたれかかり、毛布にくるまった。

 

熱いお茶とブランデーを交互に口に運びながら、今日一日のことをふり返る。

 

ユノに断られても、彼の部屋まで見送った方がよかったのかもしれない。

 

しまった!

 

何か温まるものを買って、ユノに渡せばよかった。

 

10日程前から、僕は就寝前にその日1日、自分が言ったこと、やったことをひとつひとつ確認するのが日課になっていた。

 

何か間違ったことを口にしていなかったか。

 

僕はどんな行動をとったか。

 

相手はどう反応したか、そしてどんなことを僕に言ったか。

 

それに対して、僕はどう思ったか、どう感じたか。

 

僕の頭を占めるのは、ユノのことばかりだ。

 

ユノは僕のことを、どんな奴だと思っているんだろう?

 

僕はタブレットを膝に置き、しばらくスクロールをした後、目的のものを見つけてタップした。

 

ディスプレイの中で、二人の男女が笑ったり、泣いたり、身を寄せ合ったりしている。

 

女性役が何かを喋って、男性役がそれに答えて。

 

女性役が目を伏せて、首を振っている。

 

男性役が彼女の頭を引き寄せて、囁いた。

 

『好きだよ』と囁いた。

 

 

「すきだ...。

 

すき...?

 

すき...」

 

 

僕は何度も、この言葉を唇にのせてつぶやいた。

 

タブレットを膝から下ろして、僕は顔を覆った。

 

「すき」

 

手の平に、「すき」と紡ぐ僕の唇が触れる。

 

 

ユノは僕のことを、どう思ってる?

 

僕はユノのことばかり考えている。

 

ディスプレイから放たれる光が瞬いて、僕の顔をパカパカと照らす。

 

僕はユノのことを、どう思ってる?

 

じっとしていられなくて、勢いよく毛布を跳ねのけてベッドを出た。

 

運転終了を知らせる乾燥機のアラーム音が聞こえた。

 

ユノは...震えていた。

 

真っ青な顔をして、震えていた。

 

僕が熱を出して震えていた時、ユノは僕のことをうんと心配してくれた。

 

マフラーを僕の首に巻いてくれた。

 

温かかった...。

 

僕はスウェットを脱いで、クローゼットから黒いニットと黒いパンツをとって身につけた。

 

あちこち毛先がはねているけれど、別にいいや。

 

コートを羽織って靴を履いた。

 

僕はユノのことをどう思ってる?

 

ユノを部屋まで送らず帰ってきてしまった。

 

ユノが僕に「早く帰れ」と言ったから。

 

でも本当は、僕はどうしたかった?

 

僕は...僕は、もっとユノの側にいたかった

 

ユノが風邪をひいたりしたら、いけない。

 

ユノのことが心配だった。

 

 

僕はユノのことを、どう思っている?

 

 

僕はユノのことが、好きだ。

 

 

(つづく)

 

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(51)時の糸

 

 

ドアの向こうにまっすぐ伸びる廊下も、ドアの隙間から漏れ出た大量の水で水浸しだった。

 

二人は無言だった。

 

へとへとに疲れ切っていた。

 

とにかく、寒かった。

 

地上に伸びる梯子をのぼる時になって、チャンミンはユノの手を握ったままだったことに気付いたのだった。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

とんでもない災難だったけど、チャンミンったら、騎士道精神を発揮しちゃって。

 

ときめいちゃったじゃないの。

 

まさしく吊り橋効果じゃないの。

 

いや、違うな。

 

俺は今回のことがなくても、既にチャンミンのことが気になっていた。

 

はっきりと認めよう。

 

「恋」だと勘違いしてしまう以前に、チャンミンのことが好きだ。

 

それじゃあ、チャンミンの方はどうなの?

 

先週、チャンミンにキスをされたときに、伝わった彼の想い。

 

自惚れじゃなくチャンミンも俺のことを、好きなんだと思う。

 

チャンミンの心は、足跡のない雪原のようなもの。

 

チャンミンが抱いているだろう心は、嘘いつわりのない真っ直ぐなものだ。

 

そして、チャンミンが恋愛感情を抱くのは、初めてであることを俺は知っている。

 

その感情をうまく処理できずに、混乱しているかもしれない。

 

面白がってからかうのはNGだと、心得よう。

 

でもなぁ、いちいち赤くなって可愛いんだよなぁ、意地悪したくなるんだよなぁ。

 

ちょっと待ってよ。

 

1 ...4...7...10日くらいしか経ってないじゃないか!

 

チャンミンの出方を待つか。

 

いつもの俺のように、当たって砕けろ精神を発揮してしまおうか?

 

驚かせて拒否られたら、今後の任務遂行が面倒なことになる。

 

弱ったなぁ。

 

感情が芽吹いたチャンミンが今後、どうなっていくかも未知だ。

 

本来彼が持つ、キャラクターってどんなだろう。

 

興味があった。

 

 

 

 

ハシゴを登り切った俺たちは、照れくさくて手を繋げずにいた。

 

俺はハウスの脇に脱ぎ捨てたコートを羽織った。

 

バッグの中でタブレットの通知ランプが赤く点滅していた。

 

発信者を確認すると...。

 

(...カイ君?)

 

(飲みに行こうっていう誘いだったのかな?

ごめんな、今夜は無理だわ)

 

かじかむ指でメッセージを打って、送信した。

 

「ユノ!

早く帰ろう!」

 

いつのまに管理棟前まで行っていたチャンミンが、手招きしながら大声で俺を呼んでいる。

 

「今行く!」

 

答えて俺は、チャンミンの元へと走り出したのだった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

彼は高いところが苦手なことを知った。

 

震えたり、おびえたり、僕をからかったり、いろんな表情を見せるユノ。

 

1年も近くにいながら、彼のことを見ようともしなかった。

 

「知りたい」「近づきたい」「話をしたい」

 

...それから「触れたい」という感情に、僕は支配されている。

 

濡れた服越しの、ユノの体温や感触を思い出した。

 

あ...!

 

僕の“生理現象”を、ユノに知られてしまった。

 

恥ずかし過ぎる。

 

でも、ユノがジョークにしてくれて助かった。

 

だって気づかないふりをされていたら、ますます恥ずかしい。

 

そういえばさっき、僕はユノに何を伝えようとしていたのだろう?

 

「カイ君と仲がいいの?」と聞きたかったのか?

 

違う。

 

そうか!

 

僕が今抱えているユノへの想いと同じものを、ユノにもあることを望んでいるんだ。

 

カイ君と会話を交わして欲しくないんだ。

 

ユノとくっついていたいんだ。

 

ユノは僕のことをどう思っているの?

 

ユノも僕と同じように思っている?

 

 

(つづく)

 

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(65)時の糸

 

 

ドームの中央に築かれた落ち葉の山から、白い煙がドームの天井にむかって立ち昇っている。

 

「ホントに燃やしてるんだ!

すごい!」

 

数十人の人々が、火の回りを囲んで立ったり、座ったり、食べたり飲んだりして、談笑している。

 

照明を落としたドーム内で、焚火のオレンジ色の灯りが揺れている。

 

この世はコンクリートと合成樹脂で覆われ、緑にも土に触れられず、すべてが人工的で整然としている。

 

生の野菜といったら、カットされ真空パックされたものくらいで、収穫されたての丸ごと野菜の実物に触れる機会もない。

 

くすぶる落ち葉の中には、アルミホイルに包んだ野菜が埋められている。

 

植栽担当のチャンミンたちが丹精込めて育てた野菜だ。

 

落ち葉の焚火の隣には、Tが半日かけて熾した炭が真っ赤になっている。

 

「お!

いたいた」

 

ユノは輪になった参加者たちの一番後ろで、焼きトウモロコシを齧るチャンミンを見つけた。

 

何事もなく呑気そうな様子に安堵したユノは、「チャンミン!」と呼んだ。

 

地面に直接腰を下ろしたチャンミンは、食事する手を止めてユノたちを見る。

 

「このでかい男は同僚のチャンミン。

で、こちらは俺の友達、S」

 

「どうも」

 

立ち上がったチャンミンはお尻についた土を払うと、Sに頭を下げた。

 

「こんばんは。

ユノがお世話になっています」

 

チャンミンの顔は既に見知っていたが、Sは初対面のように振舞った。

 

「え...っと...」

 

チャンミンは友人を紹介された際、自己紹介の後の会話が思いつかない。

 

食べかけのトウモロコシのやり場に困って、ユノをちらちら見て彼からのフォローを求める。

 

ユノは大丈夫だ、の意味をこめて大きく頷いて見せると、ぐるりと会場を見渡した。

 

「お!

酒が足らんみたいだな。

追加せんとな」

 

「じゃあ、僕が...」

 

「俺が行くから、あんたはここで腹いっぱい食べてなさい。

じゃあな、チャンミン」

 

そう言い終えると、先ほどから脇をつつくSを連れて回廊に向けて歩いて行ってしまった。

 

(なんだよ...)

 

沢山の人に囲まれて、居心地の悪い思いをしていたチャンミンだった。

 

このイベントに呼べる友人もいなかった。

 

(そうなんだ。

僕には友達が、いない。

他人に全く興味のなかった僕だったから、それは仕方がない。

大勢の中で一人でいるのは平気なのに、ユノが側にいないのは寂しい)

 

隣にユノが座ってくれるものと期待していただけに、がっかりしたチャンミンは再び地面に腰を下ろした。

 

 

「チャンミンって子...あんな顔してたっけ?」

 

ユノとSは回廊のベンチに腰掛けて、賑わう落ち葉焚きパーティを眺める。

 

Sの夫Uは、数人の参加者に囲まれ会話を楽しんでいるようだ。

 

大人しそうに見えて、実際は社交的な性格だという。

 

「むすーっとしてたのが嘘みたい。

ユノが惚れても仕方がないわねぇ。

ユノを頼る顔しちゃって」

 

「そうだね」

 

辺りは暗く、焚火が作る炎とテーブルに置かれたランタンの灯りだけでは、参加者たちは黒いシルエットにしか見えない。

 

(これまで視界にすら入っていなかった周囲の人間に、意識が向きだした頃だ。

いろんなことが不安に感じ出しただろうな。

ずぶ濡れの子犬みたいな目をしちゃって、さ。

あとで、近くに行ってあげよう)

 

「ゆっくりしていってよ」

 

ユノはSの肩を叩くと、配達されたアルコール類を受け取りに裏口へ向かった。

 

 

「よっこらしょ」

 

カートに乗せようとしていたコンテナがふっと軽くなり、顔を上げるとカイがいた。

 

「ありがと」

 

カイは「どういたしまして」とにっこりと笑った。

 

カートを押すカイの口元に、農作業用のゴム引きのエプロンを付けたままのユノを見て微笑を浮かべた。

 

「完全防備ですね」

 

「あ!

外すの忘れてた」

 

「ユノさんは誰を招待しましたか?

...彼女さん、とか?」

 

「えっ!」

 

ユノはカイの言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「まっさか!

友達とその旦那さんだよ」

 

「ふうん...」

 

ユノの反応に、カイは疑わしそうな目線を送る。

 

(危ない、危ない。

彼氏なんかいないって、言いそうになった。

「ホントはいるけど、相手はチャンミンです」、なんて暴露したら「いつの間に?」って質問攻めにあって、今はちょっと面倒だ)

 

「カイ君は誰を呼んだの?」

 

「姉です。

遅れてくるって言ってたから...もう少ししたら来ると思いますが...」

 

「へぇ、見てみたい!」

 

「紹介しますね」

 

 

(つづく)

 

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(50)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

僕はうとうとしていた。

 

冷え切った身体で、興奮から覚めて、疲れていて、眠気に襲われてしまった。

 

「...ミン」

 

僕を呼ぶ声。

 

白くまぶしすぎて、場所はわからない。

 

僕は腕をまくっていた。

 

まくるたびに、袖が落ちてくるから、何度もまくり上げていた。

 

手首からひじに、冷たいものがつたってくる。

 

「...ミン」

 

すーっと顔が近づいてきた。

 

汗ばんだ額に、髪のひと筋がはりついていた。

 

伏せていて顔は見えない。

 

間近につむじが見えた。

 

僕は、水気たっぷりの熟れた果物を手にしていた。

 

手のひらから、たらたらと果汁が滴り落ちていた。

 

近づいてきたその人は、

 

僕の腕を、ぺろりと舐めた。

 

滴る果汁を、ぺろりと舐めた。

 

 


 

 

「ハックション!」

 

ユノのくしゃみの音で、チャンミンは飛び起きた。

 

「!」

 

身体をビクッとさせたチャンミン。

 

「あんた...まさか、寝てたんじゃないだろうね?」

 

「......」

 

チャンミンは、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。

 

(夢...か)

 

「しっかりしろよ。

俺の背中の熱を、あんたに分けてあげるから」

 

「う、うん」

 

(あの人は、誰だ?)

 

舐められた感触が、生々しく覚えている。

 

腕を確認して見たかったが、ユノが手首をがっちり押さえ込んでいて、腕を引き抜くわけにはいかない。

 

チャンミンはギュッと目をつむって、映像の断片だけでもと、手繰り寄せようとした。

 

(果物を食べていた。

2日前にみた夢の中で、隣を歩いていた人。

果汁で濡れた僕の腕を、舐めた人)

 

チャンミンは確信していた。

 

(2つの夢に登場した人、顔は分からないけれど、同じ人物だ。

共通した雰囲気を持っていた。

でも、知らない人

誰だよ。

舐めるって...どういうことだよ。

不快だ)

 

じくじくと、こめかみがうずいてきた。

 

頭痛の予感がしたチャンミンは、すぐさま思考をストップさせる。

 

黙り込んだチャンミンを心配したユノは、肘でつつく。

 

「チャンミン、寝るなよ。

冬山で遭難した時は、眠ったらそのまま死んでしまうらしいぞ」

 

「ここは冬山じゃないよ」

 

「何が悲しくて、職場で遭難しなくちゃいけないんだ」

 

「まったくだ」

 

大の大人が高いところによじ登って、はた目から見ると滑稽な眺めだ。

 

「チャンミン、大丈夫か?」

 

「大丈夫って?」

 

「コントロールできない、とか言ってただろ?」

 

「ああ!

そのことか」

 

カイと一緒にいたユノを見て沸き上がった、腹立ちと不安感をどう処理すれば分からなかったこと。

 

苛立ちで渦巻くチャンミンの内心をよそに、いつもと変わらないユノの様子が、それに拍車をかけたこと。

 

「お兄さんに話してみな」

 

でも、災難に巻き込まれてしまい、ユノと密着して体温を分け合っているうち、そんな苛立ちの嵐は過ぎ去ってしまったこと。

 

「あのさ...」

 

チャンミンは、口を開きかけた。

 

「うんうん」

 

「...ううん、何でもない」

 

(僕は、今、何を言おうとしていたんだ?

ユノに伝えようとしたことは、何だったんだ?)

 

「大丈夫だよ」

 

「言いかけて止めるなんて、余計に気になるじゃないか!」

 

「いや、ホントに大丈夫なんだって」

 

「それなら、いいんだけどさ。

チャンミンも大人しくなってよかったな」

 

「大人しく?」

 

首をかしげるチャンミンと、こみ上げる笑いに肩を震わすユノ。

 

「おい!」

 

チャンミンは「大人しく」の意味が分かると、顔を真っ赤にさせる。

 

「今度こそ、突き落とすよ?」

 

チャンミンは、ユノのブーツを軽く蹴った。

 

「こらっ!

水が浅いところに落ちたら、床に直撃じゃないか!

...あ!

ほら!」

 

ユノに指摘されて、チャンミンは斜め下の出入り口ドアの辺りを見下ろした。

 

「やっと出られるよ」

 

タンクから見下ろす水面が、ぐっと遠くなっていた。

 

入口のステップ面があと少しで露わになりそうだった。

 

「やった!」

 

リストバンドの時刻を確認すると、21:00。

 

滝行から3時間。

 

「うわっ、もうこんな時間か!」

 

「降りよう」

 

「助かったぁ」

 

チャンミンはタンクから飛び降ると、ユノに向かって両腕を伸ばした。

 

「おいで」

 

(ヒロインが、恋人の胸に飛び込む...まんまなんですけど...。

俺はヒロインじゃなくて、ヒーローなんですけど)

 

ロマンティックなイメージがユノに浮かんだが、

 

「無理!」

 

恐怖のあまり、お尻がタンクにくっついてしまったかのようだ。

 

「大丈夫だから」

 

チャンミンは差し伸ばした手で「おいで」のジェスチャーをする。

 

「あんたに俺の命を預けるよ」

 

「大げさだなぁ」

 

チャンミンは身をのりだしたユノの脇の下に手を差し込むと、ガチガチに身体を硬直させたユノを、すとんと床に下ろした。

 

ユノの脚が再び、水に浸かる。

 

水の深さは30センチの高さまで下がり、2段あるステップの上段が露わになっていた。

 

「あ、ありがと」

 

「どういたしまして。

ユノったら姫になってたね」

 

「あのなー。

毎度のことだが、その一言が余分なんだよ!」

 

チャンミンの背中を叩く。

 

「ははっ。

元気になったみたいだね」

 

鉄製の重いドアを引くと、あっさり開いた。

 

「やった!」

 

2人は目を輝かせて顔を見合わせた。

 

(つづく)

 

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