【62】NO?

 

 

~民~

 

 

チャンミンさんの白いワイシャツ姿が見えなくなるまで、私は見送った。

 

雑踏の中を見回したがユンさんの姿はなく、寂しい気持ちになる。

 

チャンミンさんに無理やり引っ張り去られたとはいえ、会話の途中で姿を消すだなんて失礼だった。

 

ユンさんの側にいるとドキドキ胸が高まり、チャンミンさんの側にいると逆に安らかな気持ちになるから、私の心は大忙しだ。

 

ユンさんとチャンミンさんか...。

 

同時期に素敵な男性が身近にいるなんて経験は初めてのこと。

 

駄目だ...頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 

片手にぶら下げていたサンダルを履こうと身をかがめた時、KさんとAちゃんが駆け寄ってきた。

 

「民さん!

結果発表ですよ!

ああっ!?

セットが崩れてしまってる!」

 

コームで前髪を梳かすKさんと、汗でよれたファンデーションを塗りなおすAちゃんに囲まれる。

 

忘れそうになっていたけれど、カットコンテストの真っ最中なのだ。

 

自分に課せられたお役目は最後まで果たさないと、と気持ちを切り替えようと、大きく深呼吸をした。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

民ちゃんが帰って来る。

 

胸の底からきゅうっと嬉しさが湧いてきた。

 

僕は相当、民ちゃんに参っているみたいだ。

 

ステージの上の民ちゃんを見て僕は確信したんだ。

 

民ちゃんが遠くへ行ってしまわないように、彼女の手を握っていようって。

 

民ちゃんはふわふわと危なっかしいから。

 

心配事が増えた。

 

よりによってユンのアシスタントをしているなんて。

 

ユン相手だと、民ちゃんの男の子のような見た目が守ってくれない。

 

男の僕の腕をいやらしく撫ぜまわしたくらいだ。

 

「君は、男と女が同居しているたぐいまれな魅力を持っている。君の腕を触らしてくれ」とか、うまいこと言われていなければいいんだが...。

 

「先輩。

右折するのは、ここでしたっけ?」

 

「もう一本先だよ」

 

運転を後輩Sに任せて、僕は助手席で物思いにふけっていた。

 

兄と妹みたいなくつろいだ雰囲気も悪くない。

 

でも、僕は民ちゃんのことを「女」だと意識している。

 

けれども、民ちゃんには好きな人「X氏」がいる。

 

X氏を追いかけてきたくらいだから、好き度はかなりのものだと思う。

 

そのX氏に対抗することになるわけか...。

 

いいなと思った相手には、既に想いを寄せている人がいた。

 

これまでの僕だったら、縁がなかったと引き下がっていた。

 

見込みがあるのかないのか不明な状況で、自分の存在をアピールするなんて無駄な努力だと思っていた。

 

なんとしてでも振り向いてもらえるよう必死になれる相手なんていなかった...。

 

いたじゃないか、リアが!

 

臆病者で確信がもてない相手に告白が出来なかった僕が、唯一なりふり構わず追いかけた女性がリアだったじゃないか。

 

あの頃の自分はおかしかった。

 

理想の女性像そのものだったから。

 

リアの内面を知る以前に、僕の好みに見事に合致していた顔とスタイルに引き寄せられた。

 

打ち合わせテーブルで資料に落とした視線を上げた時、リアの熱い眼差しが僕のものと絡まった。

 

「誘っている」と察知した僕の身体はかあっと熱くなって、その夜のうちにリアの携帯電話を鳴らしていた。

 

あの時の意気込みで民ちゃんにぶつかっていけばいいじゃないか。

 

民ちゃんは鈍感そうだから、控えめなアピールじゃ気付いてもらえない。

 

そんなことは分かっている。

 

民ちゃん相手だと、慎重になってしまうんだ。

 

なぜなら、民ちゃんの目に映る僕は「頼れるお兄ちゃん」なんだろうから。

 

そのイメージをいきなりぶち壊すのは、民ちゃんにとって刺激が強すぎる。

 

それに。

 

民ちゃんはその場の雰囲気だとか、勢いに弱い質だと思う。

 

ぐいぐい迫れば、その勢いにのせられて「YES」と答えそうな子だ。

 

僕に握られるままだった民ちゃんの手。

 

手を握ったり、抱きしめたり、キスをしたり...おいおい!

 

とっくに手を出してるじゃないか、僕ときたら。

 

とっさの行動だったからたちが悪い。

 

ただのスケベ親父じゃないか。

 

驚く民ちゃんには、慌てて「冗談だよ」って誤魔化して、その場を取り繕うことができたからよかったものの。

 

よく考える隙を与えずにぐいぐい迫って、雰囲気にのせられた民ちゃんを頷かせても、ちっとも嬉しくない。

 

大きく深呼吸をした。

 

僕の言動ひとつで、民ちゃんがどう反応するのかをひとつひとつじっくりと見たい。

 

瞳の揺らめき、ひそめた眉、赤らむ両耳、引き結ばれた唇が微かに開く時。

 

ひとつひとつ確かめながら、民ちゃんの心の中へじわじわと侵入してゆきたい。

 

民ちゃんが僕の気持ちに気付くよう、好意を小出ししながら距離を縮めよう。

 

下心ありそうなユンに、想われ人X氏。

 

これからの僕は忙しくなりそうだ。

 

X氏については本人を未だ目にしたことはないから、今のところ嫉妬心はそれほどない。

 

前途多難だと気が遠くなる理由は、民ちゃんが「片想い」中だということ。

 

なぜなら、恋に夢中になっている時は、自分に好意を寄せてくれる人がいたとしても、全然気づけないものだ。

 

だって、僕自身がそうだったんだ。

 

僕がリアを振り向かせようと躍起になっていた時、外注業者のある女性から好意を寄せられていた。

 

リアと交際できるようになった後、飲みの席でそう打ち明けられて初めて知った。

 

なんとなくは気付いていたけれど、それどころじゃなかった僕は、食事の誘いを無下に断っていたし、打ち合わせが終われば雑談もせずにそそくさと席を立っていた。

 

礼儀正しくありつつも、冷たい行動をとっていた。

 

その女性の気持ちやさりげないアピールなど、見て見ぬふりをしていた。

 

それくらい、外野の異性が目に入らない。

 

民ちゃんの今の状況も、当時の僕のようだと思う。

 

もっとも、民ちゃんの場合は見て見ぬふりどころか、全く気付いていない可能性が高い。

 

参ったなぁ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【61】NO?

 

 

~チャンミン~

 

 

さっきロビーで目撃してしまった民ちゃんの緩んだ顔から推測するに、民ちゃんはユンのことを信頼しているようだった。

 

民ちゃんが楽しく仕事をしているのを、僕の邪推から「辞めろ」なんて言えない。

 

でも、忠告だけはしておいた方がよい。

 

幸い僕はカタログの仕事でこれから1年間はユンと関われる。

 

見張っていよう。

 

民ちゃんの腕をつかむ直前、僕が視線の端で捉えていたユンの目つき。

 

民ちゃんのことを、いやらしい目で見ていた。

 

僕は男だから、よく分かる。

 

そのことに民ちゃんは、全然気づいていないんだから、全く。

 

僕はやれやれと小さく首を振り、そして話題を変えようと膝を叩いて民ちゃんを見る。

 

「そうだ!

週末は部屋探しに行こう、な?」

 

「はい」

 

リアのことは脇に置いておいて、あの部屋を出る準備を進めよう。

 

「帰っておいで」と言ったけれど、あの部屋はもうよそよそしい空気をはらんでいる。

 

民ちゃんが留守の間、ひしひしと感じた。

 

あれ以来、日付が変わる前に帰宅するようになったリアと同じ空間にいて、息がつまった。

 

ポケットの中の携帯電話がけたたましい音を立てた。

 

『先輩!

どこにいるんすか!?』

 

腕時計を確認すると、約束した時間が過ぎていた。

 

「悪い!

10分もしたら行けるから」

 

「ごめんなさい!

引き留めてしまいました」

 

結果発表が行われる旨のアナウンスも流れた。

 

「私も行かなくちゃ、です」

 

「立てる?」

 

「はい」

 

立ち上がった民ちゃんのお尻についつい目がいってしまう。

 

今度は、バスタオルから丸見えだった民ちゃんの生尻を思い出してしまった。

 

スケベ親父なのは自分の方じゃないか。

 

靴擦れが傷むのか民ちゃんはサンダルを脱いで裸足になっていた。

 

民ちゃんの背に手を添えて喧噪の中に降り立った。

 

「いい結果だといいね」

 

「結果なんてもう、どうでもいいです...なんて言ったらKさんに怒られますね。

ここまで勝ち残ってきたこと自体が、凄いことなんですから。

このステージに立てたことだけでも誇らしい...なんて野心がなさ過ぎですね...」

 

裸足で立つ民ちゃんの、黒いペディキュアがいつもの民ちゃんだった。

 

非現実的な装いと濃いメイクをした民ちゃんも、確かに心痺れる。

 

でも僕は、スッピンの(民ちゃんは化粧をしないんだ)民ちゃんが気に入っているんだ。

 

うっかり間違った方へ行ってしまわないよう、身近で見守ってあげたいんだ。

 

だから、急に大人の女性のように変身してしまわれると、僕は困る。

 

「じゃあ、またね」

 

僕は民ちゃんに手を振る。

 

「あの!」

 

民ちゃんに呼び止められて僕は振り向く。

 

両手をギュッと胸の辺りで握って、内股気味で立つ民ちゃん。

 

アンドロイドな装いに、幼さの残る頬を緩め、大きな丸い目で僕を真っ直ぐに見つめていた。

 

「今日はありがとうございました。

チャンミンさんに見てもらいたかったんです。

だから...とっても嬉しかった...です」

 

じわっと涙が浮かんできそうなのを、ぐっと堪えた。

 

「どういたしまして」

 

民ちゃんの視線を感じながら、僕はエントランスを抜けた。

 

涼しい館内から1歩足を踏み出すと一気に熱気に包みこまれ、僕は現実に戻る。

 

後輩Sが窓から手を振っている。

 

仕事をサボってしまった。

 

真面目な僕にはあり得ない行動だった。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【60】NO?

 

~僕の心配事~

 

~民~

 

 

チャンミンさんは香水をつけない人だ。

 

チャンミンさんの汗の匂いがふわっと香ってきた。

 

チャンミンさんは気にしているけれど、私にとってほっとする香りだ。

 

(おじさんみたいな匂いがするって、からかってしまうけれど)

 

「ご迷惑じゃありません?」

 

「リアさんが...」と言いそうになるのを飲み込んだ。

 

「迷惑なものか。

今日は僕も早く帰るから...そうだ!

どこか飲みに行く?」

 

「うーん...。

おうちでのんびりしたいです」

 

チャンミンさんのおうちでデリバリーしたピザを食べながら、ごろごろのんびりしたかった。

 

「この階なら空いてると思う。

僕が見張っていてあげるから、トイレに行った方がいいよ」

 

チャンミンさんは立ち上がると、私の方へ手を差し出した。

 

チャンミンさんの手を握って、腰を上げかけた途端。

 

「あれ...あれれ...?」

 

「民ちゃん!」

 

膝ががくがくして力が入らず、立ち上がれない。

 

「腰が抜けたみたい、です」

 

苦笑いをした私はチャンミンさんを見上げた。

 

心配そうな、困ったような、優しい顔。

 

今頃になって、ピリピリに張り詰めた緊張が解けたのはきっと、差し出されたチャンミンさんの手がとても頼もしくて、安らかな気持ちになったからだ。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

床にへたりこんでしまった民ちゃん。

 

「あれ?

あれれ?

おかしいですね」

 

眉を下げて、困った顔で僕を見上げていた。

 

緊張が解けたんだろう。

 

笑ったり照れたりしていたけれど、実は全身コチコチに気を張っていたんだろう。

 

そんな民ちゃんが可愛らしくて、今すぐ彼女をかき抱きたい気持ちが押し寄せた。

 

だけど公衆の面前で、いきなり抱き寄せられたら民ちゃんを驚かせてしまう、と理性が働いた。

 

足元に目をやると、かかとに血がにじんでいて、僕に無理やり引っ張ってこられてさぞかし痛かっただろうに。

 

民ちゃんの身体にぴったりくっ付くくらい近くに、僕は再び腰を下ろした。

 

僕の薄いワイシャツ越しに、民ちゃんの体温が伝わってくる。

 

「もうちょっと休んでいようか?」

 

「その方がいいみたいですね、へへっ」

 

民ちゃんの小さな膝が小刻みに震えていた。

 

その膝をさすってあげたくなったけど、こぶしを握ってその気を抑えた。

 

ユンの前から民ちゃんをさらうように引っ張り連れてきた行為が、大人げないと今さらながら恥ずかしくなってきた。

 

ユンに弱みを握られてしまったかもしれない。

 

一体何事かと目を丸くしながらも、面白そうに傍観する余裕の表情だったからだ。

 

民ちゃんを見る。

 

真っ白なまつ毛が妖精のようだった。

 

上半身はコルセットだけだ(一度試着したけれど、僕の身体だとファスナーが閉まらなかった。民ちゃんの方が華奢なのだ)

 

細い首やむき出しの肩に散らした細かいラメが、チカチカと光っている。

 

全面スタッズのコルセットに隠された胸元に視線を落とす。

 

以前目撃してしまった民ちゃんのお胸の映像が、僕の頭にぼわーんと浮かんでしまう。

 

膨らみのない(民ちゃん、ごめん)白い肌と綺麗なピンク色の2つの突起...。

 

「ユンさんはびっくりしたでしょうね」

 

「え?」

 

僕は慌てて視線をずらした。

 

危ない危ない、反応してしまうところだった。

 

「私とチャンミンさんがそっくりで...」

 

僕らは顔を見合わせた。

 

「あああーーーー!!」

「あーーー!」

 

僕らは互いを指さす。

 

「お兄さんはいる?って聞かれて...そういうことでしたかぁ!」

 

僕の方も「弟はいるのか?」と尋ねられた時のことを思い出した。

 

ユンは民ちゃんのことを念頭に置いて、そう僕に尋ねたに決まっている。

 

ユンは民ちゃんのことを、男だと思っているのだろうか?

 

それとも、女だと思っているのだろうか?

 

「妹ならいます」と答えたから、ユンは混乱しただろう。

 

取り乱した僕を見て、「過保護な兄」だと思ったに違いない。

 

ちょっと待てよ...。

 

ユンの僕に注ぐ熱い視線を思い起こす。

 

ユンはきっと、両方いける口だ。

 

男みたいなのに実は女の子だなんて、ユンが喜びそうなケースじゃないか。

 

民ちゃんが危ない、と思った。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【59】NO?

 

 

~民~

 

 

仕事の合間をみて、ここまで来てくれたんだ。

 

素直に嬉しかった。

 

嬉しかったけど、私の手首を痛いくらいにつかんで引っ張って行くチャンミンさんの行動にはクエスチョンマークでいっぱいだった。

 

チャンミンさんが怒っている。

 

「チャンミンさん!

痛いです!

ストップ!

ストップです!」

 

ロビーを抜けてスタンド席の階まで上がったところで、チャンミンさんは歩を止めた。

 

2階ロビーは人気がなく、がらんと静かだった。

 

「チャンミンさんったら、どうしちゃったんですか?」

 

私は赤く指の跡がついた手首をさする。

 

チャンミンさんは私に背を向けたまま「ごめん」とつぶやいた。

 

白いワイシャツを着たチャンミンさんの背中が怒っていて、「怒らせるようなことを何かしたっけ?」と考えを巡らしてはたと気付く。

 

「どうして僕に黙っていたの?」

 

振り向いたチャンミンさんの顔が怖かった。

 

「それは...」

 

言えるわけない。

 

ユンさんに会いたくて、ユンさんの元で働きたくて都会まで出て来た、だなんて。

 

浅はかな奴だって、チャンミンさんに軽蔑されそうで。

 

私を疑わしそうな眼で見ていた。

 

「求人が出ていたんです。

私は何も資格を持っていないし、出来ることも限られているし...雑用なら出来ると思って...」

 

嘘をついてしまった。

 

「ホントにそれだけ?

ユン、じゃなくて...ユンさんに声をかけられたとか、そういうんじゃないよね?」

 

「違います」

 

また嘘をついてしまった。

 

どこまで本気だったのかは分からないけれど、「俺の元で働かないか?」と誘われたのは事実だ。

 

私はその誘いを鵜呑みにした。

 

チャンミンさんは私の次の言葉を待っている。

 

「面接の時、ユンさんは信用できて、いい人そうでしたし...。

お義姉さんのことや、コンテストのことも配慮してくださって...。

失敗することもありますけど、ユンさんは根気よく教えて下さって...」

 

言い訳めいていて、まるで悪いことをしていたみたいな心境だった。

 

大きく息を吐くとチャンミンさんは、

 

「アシスタントって...そういうことだったんだ...」

 

「はい...」

 

「民ちゃんはそれでいいわけ?

雑用係でいいわけ?」

 

チャンミンさんの言葉に悲しくなってきた。

 

チャンミンさんは何に怒っているんだろう。

 

勤め先を詳しく教えていなかったことに?

 

勤め先の社長がユンさんだということに?

 

それとも、雑用係で満足している私を?

 

「私はコンビニとか、電化製品店とか、スーパーとか、居酒屋とか...店員さんしかしたことがないんです。

次は違う仕事を経験してみたかったんです。

お客さんがきたらコーヒーをお出ししたり、電話に出たり、コピーをとったり...。

そういう仕事をやってみたかったんです。

...雑用係は駄目ですか?」

 

この言葉は本当だ。

 

鼻の奥がつんと痛くなってきた。

 

つくづく人に誇れる特技がなくて、これだと打ち込める何かもない自分が情けなかった。

 

私のどこを見込まれたのかは、皆目わからない。

 

「君に来て欲しい」とユンさんから誘われて、私は心底嬉しかったのだ。

 

チャンスをくれたユンさんに感謝の気持ちでいっぱいだったのだ。

 

「民ちゃん...」

 

こぼれ落ちそうな涙を、チャンミンさんの親指でぬぐわれた。

 

「雑用係が悪いって言っているんじゃないんだよ。

何も知らされていなくて...びっくりしたんだ」

 

「内緒にしてるつもりはなかったんです。

チャンミンさんがまさかユンさんと知り合いだったなんて、知らなくて...。

ユンさんのところで働くのはそんなにいけないことですか?」

 

「いけなくはないけど...」

 

ユンさんとは仕事上の付き合いだと言っていたけど、何かトラブルでもあったのだろうか?

 

私とユンさんが立ち話をしていた時、急に現れたチャンミンさんは険しい表情をしていた。

 

それに「ユンさん」の名前を聞くと、チャンミンさんは苦々しい顔をしているから。

 

だから、仕事内容にモデルになってポーズをとることが含まれているなんて、チャンミンさんには言えない。

 

チャンミンさんに対して嘘をついている自分が嫌だった。

 

「泣かないで。

メイクが落ちるよ」

 

「はい」

 

「僕の知り合いのところに勤めていると知って、びっくりしただけだ。

もう怒ってないよ」

 

「よかった、です」

 

「座ろうか?」

 

チャンミンさんに腕を引かれて、2人で階段に腰掛けた。

 

「ねぇ」

 

チャンミンさんの声音が優しくなった。

 

「民ちゃん...とても綺麗だったよ」

 

「ホントですか?」

 

「ああ。

鳥肌がたった」

 

チャンミンさんはそう言って腕をさすって見せた。

 

「ランウェイを歩くことになるなんて...ひょこひょこしててカッコ悪かったでしょう?」

 

「全然。

姿勢もよいし、堂々としていて...いつもの民ちゃんだった」

 

「嬉しい、です」

 

チャンミンさんに褒められて、体温が1℃上がったみたいに身体が熱くなった。

 

きっと私の耳は真っ赤になっている。

 

「お仕事中なんでしょ?

こんなところにいて、大丈夫ですか?」

 

「昼休み中だから、大丈夫。

どうしてもひと目見たかったんだ」

 

チャンミンさんのうっとりと細めた目元が優しくて、私の胸は温かいもので満たされる。

 

窓から降り注ぐ日光に照らされたチャンミンさんの顔が、彫刻像みたいに整っていて見惚れてしまった。

 

見慣れてるはずのワイシャツ姿も、カッコいいと思った。

 

「民ちゃんはいつ帰って来るの?」

 

「明日には帰って来られます」

 

「今日じゃ駄目なの?」

 

「へ?」

 

「今夜、帰っておいで」

 

「でも...荷物はお兄ちゃんのところに置いたままだし...」

 

「明日取りに戻ればいいよ。

民ちゃんならパンツ1枚あれば大丈夫でしょ?」

 

「ひどいですー」

 

「ははは!

今日は何時に終わるの?」

 

「え...っと、大会は15時には終わります。

その後、サロンに戻って髪を染め直してもらいます。

そうだ!

ねえ、チャンミンさん。

何色がいいと思います?」

 

チャンミンさんは顎に手を添えてうーんと唸りながら、私の顔と髪を交互に見る。

 

「明るい茶色か、赤っぽい色、かな?

そっちの方が民ちゃんに似合ってると思う。

今みたいに青いのもいいけれど...近寄りがたいというか、顔色が悪くみえるというか」

 

「赤みがかかった色の方が似合うって、Kさんも言ってました、そういえば」

 

何もかもが嬉しくてくすぐったい。

 

「今夜、帰っておいで」

 

念を押すようにチャンミンさんが私を覗き込んだ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]

【58】NO?

 

 

~チャンミン~

 

 

民ちゃんの出番が終わった後も、僕はしばらく惚けた状態で席にとどまっていた。

 

気付くとショーイングは終了して、席を立つ者たちが僕の前後を通り過ぎていた。

 

腕時計を確認すると、Sが迎えに来てくれる時間まであと30分ほどあった。

 

民ちゃんに会いたくて携帯電話を取り出しかけたが、ポケットに戻した。

 

喉の渇きを覚えてロビーに出ると、人混みでごったがえしていてベンチは満席だった。

 

非現実的な恰好の者がちらほら見えるから、出場した選手やモデルたちもロビーで結果発表を待っているみたいだ。

 

この中に民ちゃんがいるかもしれない。

 

自販機で買った飲み物を飲みながら、人並みの中から民ちゃんの姿を探した。

 

ふと、民ちゃんと初めて会った日のことを思い出した。

 

あの日は駅の改札口で、今みたいにきょろきょろと民ちゃんを探しながら待っていたんだった。

 

当時と今とでは、抱えている心境が全く違う。

 

「いないか...」

 

諦めた僕は、飲み終えた缶をロビー端のゴミ箱へ捨てようとした。

 

あれは...?

 

柱の陰から見えたのは、上背のあるがっちりとした肢体に長髪の男。

 

淡いトーンでまとめたスマートな装いが周囲から浮いている。

 

「ユン...?」

 

どうしてここに?

 

会いたくない人物を見かけて別のゴミ箱を探そうと踵を返そうとした瞬間、ユンの背に隠れていた人物がちらりと見えて僕は立ち止まった。

 

「民ちゃん...?」

 

小さな頭、白い顔、黒髪に青いライン、シルバーの衣裳、まっすぐな脚、そしてあの笑顔。

 

僕の口の中が一瞬にしてからからになった。

 

「あの」ユンと「あの」民ちゃんが対面していることだけでもあり得ないのに、加えて二人の間に流れる親しそうな空気に僕の体温がすっと下がった。

 

ユンのことだから、綺麗な子を見かけてナンパのように声をかけているのでは、と思ったが、民ちゃんのふにゃふにゃになった表情が初対面同士のものには全然見えなかったからだ。

 

なぜ?

 

知り合いか?

 

ユンと民ちゃんとの接点が、これまでどこかであったのか?

 

下がった体温が急上昇して、かっかと熱くなった。

 

僕はつかつかと二人の元に接近する。

 

見逃せなかった。

 

 

 

 

民ちゃんの顔が、メイクの上からでも分かるくらい赤くなっていたのが気に入らなかった。

 

僕はユンの前に回り込み、民ちゃんの二の腕をつかんだ。

 

「民ちゃん!」

 

急に腕をつかまれて「わっ!」と驚いた後、僕だと分かった民ちゃんの顔がぱあっと輝いた。

 

「わぁ!

チャンミンさん!」

 

僕の登場を嬉しがる民ちゃんの様子に、今の僕は喜ぶ余裕がない。

 

会話の途中に乱入する真似は非常識だったかもしれないが、止められなかったんだ。

 

「チャンミンさん、来てくださったんですね!

あれ?

お仕事は?」

 

目を丸くしつつも、呑気そうな民ちゃんに腹がたった。

 

「どうも」

 

僕はユンに形ばかりの会釈をした。

 

「どうも」

 

ユンの方も、意味ありげに笑って会釈をした。

 

「あ...れ?

お知り合いだったんですか?」

 

民ちゃんが僕に尋ねるのではなく、ユンの方を見たのが気に入らなかった。

 

不当に扱われていると感じた。

 

「仕事上で付き合いがあるんだ。

チャンミンさん?」

 

「はぁ」

 

僕は苦々し気に頷く。

 

「あらら、そうだったんですか...。

世間は狭いですねぇ」

 

僕とユンを頷きながら交互に見る民ちゃん。

 

今さらながら、間近で見る民ちゃんが綺麗で、僕の知っている民ちゃんじゃなくて、苛立ちと寂しさが入り混じった気持ちで胸が苦しい。

 

「で?」

 

ユンの方へ視線を向けた後、問うように民ちゃんを見た。

 

自分でも驚くほど、鋭く固い口調だったと思う。

 

「おー!

そうでした」

 

民ちゃんは胸の辺りでパチンと手を叩いて、信じられないことを言った。

 

「ユンさんは、私がお勤めしている会社の社長さんなんです」

 

「え...?」

 

僕の思考が凍り付いてしまった。

 

ユンの会社に勤めているって!?

 

民ちゃんが言ってた「アシスタントの仕事」って、このことか!?

 

ユンが話していた「新しいアシスタントが『使える子』」とは、民ちゃんのことだったのか!?

 

ちょっと待ってくれよ!?

 

「チャンミン...さん?」

 

僕が黙りこくってしまったから、不安そうな民ちゃんが僕のシャツの端をひっぱっている。

 

「おやおや」と余裕の表情のユンに構わず、民ちゃんを睨みつけた。

 

僕は民ちゃんの手首をつかんだ。

 

「民ちゃん、行こう!」

 

「えっ?

えっ?」

 

訳がわからず目を白黒させる民ちゃんを無視して、跡がつくくらいぎゅっと手首を握った。

 

「行きたいんだろう?

僕が見張っててあげるから」

 

「行くって?」

 

僕は民ちゃんの耳元で「トイレ!」と囁いた。

 

「えっと...別に今はそれほど...」

 

「僕がいるうちに、行こう!」

 

「え...でも...」

 

民ちゃんがちらちらとユンをうかがっているのに苛立った。

 

「民ちゃん!!」

 

「う、うん...」

 

「ごゆっくり」

 

口の端をゆがめて笑うユンの、美しく精悍な顔が気に入らなかった。

 

僕はユンに会釈をすると、民ちゃんを引きずるようにずんずんと引っ張って行った。

 

全てが気に入らなくて、苛立って、民ちゃんのお尻を叩いて説教したくて...。

 

とにかく、ユンの近くから民ちゃんを引き離したかった。

 

後で振り返ると、つくづく子供じみた恥ずかしい行為だったけれど、その時の僕はパニック状態だったんだ。

 

民ちゃんがユンの側で働いているなんて...聞いてないよ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]