【52】NO?

 

 

~チャンミン~

 

「...民ちゃん」

 

僕はつとめて不機嫌さを込めた声音で言った。

 

「簡単だったでしょ?」

 

民ちゃんは能天気な声だ。

 

「簡単じゃなかったんだよ?」

 

「お洋服着るだけなのに?」

 

そのお洋服のデザインが大問題だったんだよ。

 

どこがどう大問題だったかを説明しようとしたけど、止めておこう。

 

民ちゃんのことだ。

 

面白がって、分かってるくせにしつこく問いただすに決まっている。

 

「......」

 

「チャンミンさん...もしかして、怒ってます?」

 

「......」

 

「ごめんなさい...」

 

しょんぼりした民ちゃんに、これ以上怒ったふりは出来なくなった。

 

「もう怒ってないよ」

 

「よかったですー」

 

僕は民ちゃんと電話越しに会話をしていた。

 

帰宅しても、当然のことながら民ちゃんは不在だ。

 

リアも留守にしていた。

 

夜の仕事にでかけたのだと思うと、罪悪感に襲われる。

 

料理をするのも面倒だったので、チェーン店で夕飯を済ませた。

 

TVをつけようという気もおきないし、独りぽつんとソファに座ってビールをちびちびと飲んでいた。

 

夜遅いのは分かっていたが、民ちゃんに電話をかけることにしたのだ。

 

携帯電話を持つ手が汗ばんでいて、好きな子に電話をかけようとする高校生のような自分に突っ込みを入れる。

 

なに緊張してるんだ?

 

「わぁ、チャンミンさん!

おばんでがす」

 

女の人にしては低めの民ちゃんの声がワントーン高くて、僕は初めて彼女と会った日の夜のことを思い出した。

 

弾んだ高いトーンで兄Tと電話するの聞いていた僕は、民ちゃんとこんな会話を交わしたいと望んだんだった。

 

あの時、あまりにも瓜二つな民ちゃんを観察する目で見ていたけど、同時に彼女から目が離せずにいた。

 

民ちゃんが女であることに、切なくやるせない思いを抱えたんだった。

 

だから、今の「わぁ、チャンミンさん」の声にじわっと感激していた。

 

 

 

 

「次の土日はお休みですか?」

 

「え?」

 

話題を変えたらしい民ちゃんの突然の質問に、きょとんとする。

 

「休みだよ。

どこか行きたいところあるの?」

 

「お部屋探しに付き合ってくれませんか?」

 

「もちろん」

 

仕事が決まった民ちゃんの次なるミッションは引っ越しで、兄であるTからも部屋探しに協力するよう依頼されてもいた。

 

1か月の約束もいつの間にか、半分を切っていた。

 

「この前のお休みの時、一人で不動産屋さんに行ったんです。

全部で6つのお部屋を見てきました。

どれにすればいいのか、迷ってしまいました。

お部屋選びの基準が分からないんですよねぇ」

 

「民ちゃんが重視したいポイントは何なの?」

 

「うーん...。

安いところ、かな?

住めればどこでもいいです」

 

やっぱり。

 

「僕が一緒に探してあげるから。

一人で決めちゃだめだよ」

 

「ありがとうございます」

 

民ちゃんは、きっと鼻にしわをよせた笑顔をしているんだろうな。

 

僕自身も部屋探しをしなくては。

 

「引っ越しが済んだら、私のお部屋に遊びに来てくださいね」

 

「え...?」

 

「御馳走作って待ってますからね」

 

民ちゃん、気安く男を家に誘ったら駄目だよ。

 

「気が早いなぁ」

 

ふふふ、と民ちゃんは笑った。

 

民ちゃんとの通話を終えて、自分は彼女がいなくてひどく寂しがっていると実感した。

 

広いこの部屋がもっと広く感じられる。

 

君の不在、僕は寂しい。

 

早く帰っておいで。

 

 

(つづく)

 

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【51】NO?

 

~君の不在、僕は寂しい~

~チャンミン~

 

 

民ちゃん...。

 

僕「しか」出来ないから、という言葉にのせられて頷いてしまったけれど、このお願いは無謀だって。

 

僕は民ちゃんのお願いを引き受けたことを後悔してきた。

 

コンテストモデルの衣裳合わせに、僕が代役で行ってこい、なんて...。

 

身長もサイズも、それから顔も同じだけど、女ものの洋服を着ることに抵抗があった。

 

民ちゃんは義姉さんの出産が1週間早まったため、今夜の衣裳合わせに行かれなくなった。

 

留守番と甥っ子3人の子守のため、民ちゃんはあの後兄T宅に帰っていった。

 

男子トイレで思わず民ちゃんを抱き寄せてしまった。

 

けれども、この予定をすっかり忘れていたことに気付いた民ちゃんの素っ頓狂な声に、僕の突然の行動に対する民ちゃんの反応を確かめる機会を失ってしまった。

 

「うーん...それはちょっと...」と渋る僕の肩を力いっぱい叩いて言った(民ちゃんは力持ちだから、痛かった)

 

「髪の毛を染めて、と言ってませんから。

細かいサイズ調整したいそうです。

チャンミンさんは私とサイズが同じだから、全然オッケーですから。

今夜は衣装を試着して、それでおしまいです。

ね、簡単でしょ?

...ということで、よろしくお願いいたします」

 

なんて深々と頭を下げてお願いされたら、頷くしかないだろう?

 

 

 

 

サロンに向かう道中、ふりふりのレースだらけのものだったらどうしよう...と不安でいっぱいだった。

 

さっさと終わらせよう。

 

僕は素早くTシャツとハーフパンツを脱いだ。

 

椅子の背に置かれた銀色のものを手にした僕は、さーっと青ざめた。

 

「マジか...」

 

民ちゃん...いくら似ている僕らでもこれは...無理だ。

 

手の平におさまるくらい小さなショートパンツ。

 

履けないことはないけど、ぴったぴたじゃないか!?

 

男の僕には、無理だ。

 

ふりふりレースの方が、100倍もマシだよ。

 

問題の物を手にしばらく考え込んでいると、

 

「民さーん、未だですかぁ?」

 

嫌な予感はしてたけど、民ちゃんは僕が代わりに来ることを、ここの人たちに言っていないらしいぞ。

 

民ちゃんの馬鹿馬鹿。

 

「上の服も合わせてください。

それから、ブラは付けないでくださいね。

そのスタッズは、全部私が付けたんですよ?」

 

カーテンの向こうから急かされた。

 

「は、はい!」

 

ええい!

 

どうにでもなれ!

 

僕はその、小さな布切れに足を通した。

 

 


 

 

Aはカーテンの向こうから現われた民(実はチャンミン)を一目見て、自分の仕事ぶりに満足した。

 

恥ずかしいのか、民(実はチャンミン)はタオルで前を隠している。

 

「いいですね!

ぴったりじゃないですか!

後ろも見せてください!」

 

太ももの付け根ぎりぎりに斜めにカットしたラインが、民(実はチャンミン)の小さなお尻を引きたてている。

 

(Kさんが狙った通りだ!

中性的で...すごくカッコいい!)

 

「民さん、大丈夫ですからタオルをどかして下さい」

 

民(実はチャンミン)はぶんぶんと首を左右に振っている。

 

「女同士なんですから!」

 

民(実はチャンミン)が目隠しに覆っていたタオルを、Aに強引にむしり取られてしまった。

 

(やめろーーーー!!)

 

(あれ...?

ブリーチしたはずの髪の毛が黒い。

あれ?)

 

Aの視線は、キャップをかぶったままの民(実はチャンミン)の頭、肩の辺りから腰、足先までゆっくりと移動した。

 

「!!!」

 

「民さん、ここで待っててください。

Kさーん!」

 

シャワーを浴びて戻ってきたKの方へAは走っていく。

 

「Kさん、大変です!!

民さんったら、髪を短く切っちゃってますし、髪も黒に戻しちゃってます!

どうしましょう!」

 

「ええっ!」

 

Kはカラーリング剤をかき混ぜる手を止めて、VIPルームの前で突っ立っている民(実はチャンミン)を確認する。

 

(民さん、何てことをしてくれたんだ!

今から間に合うかな...)

 

「それから...Kさん!

民さんって...女の子ですよね?」

 

「そうだよ。

何を今さら?」

 

「男の人ですよ」

 

「?」

 

「すね毛が生えてます。

前はつるつるでした。

剃った毛って、あんなに早く生えるものでしょうか?

それから...あんなにガタイがよかったですかね?

民さんって、もっと華奢な人だったはず...ですよね?」

 

「?」

 

Kは民(実はチャンミン)の方を見やる。

 

「!!!」

 

民(実はチャンミン)の方へ向かいかけたKの手をひいて、Aは声をひそめて言った。

 

「正真正銘のメンズです!

だって...だって...」

 

Aのジェスチャーに、Kはつかつかと民(実はチャンミン)の方へ大股で近寄る。

 

Kはざっと民(実はチャンミン)の全身を観察したのち、にっこりと笑った。

 

「なーんだ。

民さんのお兄さんですか?」

 

細かい説明が面倒だったチャンミンは、「そんなところです」と軽く会釈をした。

 

そして、民が今夜来られなくなった事情を説明すると、

 

「ははは。

民さんは面白い人ですね。

ピンチヒッターにお兄さんを寄越すなんて。

あなたに来てもらって、実はとても助かってます。

スケジュールが押してて、今夜、試着してもらったのを見て足元をどうしようか決める予定だったんです」

 

Kはタオルをとって、チャンミンに手渡した。

 

物議を醸しだしている箇所がタオルで隠れて、チャンミンはホッとしたのであった。

 

「前は隠したままでいいので、靴をいくつか履いてみて下さいませんか?

足のサイズは?

...同じですか、助かります」

 

(恥ずかし過ぎる!

民ちゃんの馬鹿!)

 

 

(つづく)

 

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【50】NO?

 

~キスの意味~

 

 

「笑わないでくださいね」

 

もじもじする民のお願いが何なのか、チャンミンにはさっぱり分からない。

 

「チャンミンさんにしかお願いできないんです」

 

「遠慮なく言いなよ」

 

「トイレに...ついてきてください」

 

「へ?」

 

「いつも困ってるんです。

昼間だし、人もいっぱいいるし...。

ほら、私はこんな見た目ですから」

 

そこまで聞くと、チャンミンは民の言いたいことが理解できた。

 

「いいよ。

僕が見張っててあげるから」

 

「ありがとうございます」

 

チャンミンはずんずんと大股で先を歩く民の背中を追う。

 

(我慢してたんだ)

 

「身障者のところは故障中だったんです。

お兄ちゃんは戻ってこないし、違う階まで走ればいいんですけどね」

 

「中に誰もいないか、見てくるから」

 

「漏れそうですから、急いでください」

 

チャンミンは男子トイレを覗くと、廊下で待たせていた民に頷いてみせる。

 

「OK」

 

民は小走りで個室に駆け込み、鍵を下ろす。

 

チャンミンもついでだからと、用を足すことにした。

 

「チャンミンさん...」

 

「ん?」

 

「耳をすましたら駄目ですよ?」

 

「しないって」

 

「おっきい方じゃないですからね!

勘違いしないでくださいね!」

 

「しないって」

 

「おならが出ちゃったら聞いてないふりしてくださいよ」

 

「OK」

 

「チャンミンさん」

 

「ん?」

 

「これって痴漢行為ですよね。

女の私が男子トイレを使うことって。

でも、仕方がないんです。

女子トイレに入れないんです。

通報されちゃいます」

 

「仕方がないさ」

 

「ですよね」

 

「!!!」

 

他の利用者が入室してきたため、チャンミンは民のいる個室のドアを鋭くノックした。

 

「......」

 

「......」

 

「民ちゃん、大丈夫、出ておいで」

 

民は眉を下げ、ほとほと困ったといった表情でチャンミンを見た。

 

「自分が嫌になっちゃいます...」

 

「民ちゃん...」

 

「髪を伸ばせばいいんでしょうかねぇ」

 

民の視線が自分の後ろに注がれているのに気づいて、チャンミンは振り返った。

 

洗面台の上に取り付けられた鏡に2人が映っていた。

 

短い黒髪のスーツ姿と、脱色した髪のTシャツ姿の2人の青年が。

 

2人は同じ顔をして、互いの目と目が合っていた。

 

「......」

 

鏡の中の民の顔がゆがんできたのを見るや否や、チャンミンは思わず民の肩を抱きよせた。

 

その理由は、民を哀れに思ったからじゃない。

 

公衆の場で目にする民が綺麗で可愛らしいと、チャンミンはあらためて実感したからだった。

 

「チャンミン...さん?」

 

チャンミンの行動に驚いて、民はしばらく身じろぎもせずにいたのち、チャンミンの肩にあごを乗せた。

 

どぎまぎしていた民は、チャンミンの首筋に貼られた絆創膏に気付かない。

 

チャンミンの片手が民のウエストに回ったその時、

 

「おっ!」

「!!」

 

用を足しに来た中年男性の声に、2人は弾かれるように身体を離した。

 

その男性は踵を返して行ってしまう。

 

「......」

 

(男子トイレで、男同士が抱き合っていたら驚くよな、そりゃ。

民ちゃんは男じゃないけどさ)

 

「はあ...」

 

チャンミンはシンクの縁に両手を突くと項垂れて、ため息をついた。

 

「あああーーー!!!」

「!!!!」

 

(ミミミミミミミンちゃん!!

いきなりの大声、驚くから!)

 

「チャンミンさん!!!」

 

民はチャンミンの両肩をがしっとつかむと、前後に振った。

 

「何!?

どうした、民ちゃん!?」

 

「忘れてました!

うっかり八兵衛です!」

 

「うっかり八兵衛って...何?

知らないよ、なんとか八兵衛なんて...」

 

「チャンミンさんにお願いがあります!」

 

「今度は何?」

 

「チャンミンさんだからこそ、できるお願いです!」

 

「僕?」

 

「そうです!

チャンミンさん『しか』できません!」

 

「よく分かんないけど...。

どうすればいいの?」

 

 

(渋々っぽく言ってるけど、そうじゃないんだ。

僕は君のお願いなら何でもきくよ。

だって、僕は君に夢中なんだから)

 

 


 

 

最後のお客を見送った後、他スタッフと共にAは店内の清掃にとりかかった。

 

Aはこのサロンにアシスタントとして勤めだして2年目。

 

目標はもちろん、少しでも早くスタイリストになること。

 

当サロンで1,2を争う人気スタイリストであるKは憧れの存在だった。

 

そんなKとコンビを組んでカットコンテストに挑戦するのは、今回で3度目だ。

 

イメージそのまま表現するために、カラーリング、スタイリング、衣裳をどうすればいいのか?を目を輝かせて語るKと共に、「作品」として作り上げていくのは心躍る。

 

コンテスト出場を嫌うスタッフも多い中、Kは積極的に挑戦していた。

 

サロンワークでは実現できないカットやカラーを思いのままに発揮できるコンテストの魅力にKはとりつかれていた。

 

コンテストが近づき、衣裳作りとウィッグを使ったカラーリングテスト、自分の顔を使ってのメイクの研究にと、Kと共に自宅に帰れない日が続いていた。

 

大手コスメブランドが主催の今回の大会は、優勝すれば世界大会への出場権を得られる。

 

出場条件が「スタイリスト5年目まで」の若いスタイリストを対象としているため、Kにとって今回の出場がラストチャンスだった。

 

衣装作りも佳境を迎えていて、モデルの民に当初着せる予定だったスカートを、ショートパンツに変更することになった。

 

身体のラインがでる スポーツレギンスを足の付け根ギリギリまでカットし、シルバー色のスプレーで色付けした。

 

今夜はモデルの民に試着してもらい、3日後の大会までに微調整を行わなければならない。

 

スケジュール的にギリギリだった。

 

2日帰宅していなかったKは、シャワーを浴びに近所の自宅まで帰宅している。

 

照明が落とされた店内では、もう1組の出場チームがモデルの髪のブリーチの真っ最中だ。

 

民を初めて見て、Aは感動した。

 

こんなに綺麗な人がいるなんて、と。

 

コンテストに男性モデルを使うのは珍しかったため、民と顔合わせの時、思わずKに問うような表情を向けた。

 

男性だと思い込んでいたから、Kに女性だと教えられて2度驚いた。

 

(来た!)

 

エントランスのドアから、背が高い民が会釈をしながら現れた。

 

「民さーん、お待ちしていました!」

 

キャップを後ろ前にかぶった小さな顔や、彫刻のように整った造作、長い手足が、素晴らしい作品に仕上がる予感がAの心は満ちる。

 

(本人は自分がどれだけキレイなのか、全然気付いていないんだもの...)

 

今夜の民は、Tシャツにダークグレーのハーフパンツ姿といったラフ過ぎる恰好だった。

 

「ほぼ完成したので、試着してください!」

 

Aは民の手をひいて、奥のカーテンに仕切られたVIPルームへ案内する。

 

「そこにおいてある銀色のがそうです。

改造するのに苦労しました。

ストレッチがきいてるから、ミシンかけが難しかったです。

着替え終わったら、出てきてくださいね」

 

そう言ってAはカーテンを閉めた。

 

 

(つづく)

 

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【49】NO?

 

~キスの意味~

 

~チャンミン~

 

 

僕のバッグの中で民ちゃんの携帯電話が何度も鳴って、その度代わりに出ようか迷ってしまう。

 

マナーモードに切り替えたいが、暗証番号が分からない。

 

「誕生日とかかな?」と試しに入力しかけて、「民ちゃんの誕生日っていつなんだろう?」と、指が止まった。

 

民ちゃんのことをあまり知らないことに気付いた。

 

僕といる時はおちゃらけている民ちゃんだけど、自分自身のことを率先して話す子じゃない。

 

「チャンミンさんはどうでした?」と質問されれば僕は何でも答えてあげたし、「民ちゃんはどう?」と僕の方から質問すれば、大抵のことは教えてくれた。

 

「そうですねぇ...、私の場合はですねぇ」って、丸い目で宙を見上げてしばし考える仕草を思い出すと、ふっと僕の口元は緩んでしまう。

 

誕生日はいつか教えてもらおう。

 

民ちゃんに誕生日プレゼントを買ってあげたい。

 

わくわくしてきたけど、僕と民ちゃんの関係について考えが及ぶと、気持ちが萎む。

 

友人でも恋人でもないのに、プレゼントを贈るのはやり過ぎだよな。

 

それならば、はっきりさせた方がいいのだろうか?

 

タクシーの中でのキスで、僕の気持ちが民ちゃんにバレているといいんだけど。

 

駄目だ。

 

民ちゃんは、気付いていない。

 

観察眼は鋭そうなのに、色恋ごとには鈍感そうな民ちゃんに、僕のことを察して欲しいと望むのは無理がある。

 

ひとつ屋根の下で暮らせる日々も、残り少ない。

 

間もなく民ちゃんは、僕のところを出て行ってしまうし、僕の方も引っ越し先を真剣に探さなければならない。

 

一緒に暮らしている間は、僕の想いは胸にしまっておいた方がいい。

 

僕からの告白なんて民ちゃんは予想だにしないだろうし、民ちゃんの答えが「NO」だったら気まずくなる。

 

待てよ...。

 

民ちゃんは、「勘違いしてしまいますよ?」と言っていた。

 

そうだよ民ちゃん、是非とも勘違いして欲しい。

 

ワンピースを着た理由が職場の歓迎会ならば、『例の彼』と未だどうこうなっていないはずだ。

 

今なら、僕が割り込んできても間に合うよね?

 

やれやれ、どうやら僕は相当、民ちゃんに参っている。

 

バッグの中から雄鶏の鳴き声がした。

 

「!!!」

 

リアルな『コケコッコー!』だ。

 

電車内で一斉に浴びせられる冷たい視線に、僕は赤面しながらバッグに手を突っ込んで、音源をストップさせる。

 

民ちゃんは、発信者によって異なる着信音を設定しているのだ。

 

知っている範囲では、民ちゃんの兄Tが『ツィゴイネルワイゼン』で、実家が『車のクラクション』、郷里の友人が『観衆の笑い声』...僕の場合は(気になって、さっき鳴らしてみた)と言えば。

 

民ちゃんの独特のセンスを考慮すれば、僕からの着信は「犬の鳴き声」もしくは「お寺の鐘の音」かな、って。

 

ところが、僕に設定されていたのは、『せせらぎの音』だったんだ。

 

こんな控えめな音じゃ聞こえないだろう?と、民ちゃんに突っ込みをいれたくなった。

 

でも。

 

なぜだか、嬉しかった。

 

そっか...僕は、さらさら流れる心癒されるせせらぎの音か...って。

 

『コケコッコー!』が鳴るのはこれで3回目だ。

 

発信者は『Y』と表示されていて、民ちゃんの『例の彼』かもしれないと思うと、心がヒヤッとした。

 

降りるべき駅名のアナウンスに、扉が開くや否や僕はホームへ降り立った。

 

僕は今から民ちゃんに携帯電話を届けに行く。

 

病院にいるといいのだけれど。

 

 


 

 

~チャンミンと民~

 

 

受付カウンターで産科の場所を教えられ、廊下を曲がった突き当りに、チャンミンは真っ先に民の白い頭を見つけた。

 

(いた!)

 

長い脚を組んでベンチに腰掛けた民は、両腕を組んで俯いてうたた寝をしているようだ。

 

寝不足の民を気遣ったチャンミンは、声はかけずに民の隣に腰掛けた。

 

(疲れているんだな)

 

口を軽く開け、すーすーと寝息をたてる民を見るチャンミンの眼差しは優しかった。

 

(よかった...キスマークは付いていない)

 

前へ折曲がった民の白いうなじが真横にあって、チャンミンはどうしてもタクシーの出来事を思い出してしまう。

 

(僕の肩を貸してあげたいけど...、ここは病院だ)

 

がくんと民の頭が大きく前へ揺れて、その弾みで民は目覚めた。

 

「っと!」

 

きょろきょろと見回して、隣に座るチャンミンに気付いた民はビクッと身体を震わせた。

 

「びっくりしましたぁ!」

 

垂れてもいないよだれを拭う民の仕草が可笑しくて、くすくす笑ったチャンミンは民の頭に手をのばした。

 

「あ...」

 

首をすくめた民に驚いたチャンミンの手が、民の頭に触れる1歩手前で止まる。

 

「ごめん」と慌てて手を引っ込めたチャンミンに、民も「ごめんなさい」と謝る。

 

(違うんです!

嫌じゃないんです!

ただ...ただ...)

 

真っ赤な顔でコホンと咳ばらいをした民はつぶやく。

 

「恥ずかしい...です」

 

(民ちゃんに照れられたら、僕の方も恥ずかしいよ)

 

チャンミンも戻した手を口元に当てて、コホンと咳ばらいをした。

 

(急にどうしちゃったんだろう。

チャンミンさんに接近されると、緊張する...!

妙に意識してしまって...)

 

(やっぱり昨夜のことが、嫌だったんだろうか?

僕から離れて座りなおすなんて...嫌われた...かな)

 

「えっと...お義姉さんは?」

 

「そうなんです!」

 

パチンと手を叩いた民は立ち上がり、弾ける笑顔でチャンミンを見た。

 

「産まれたんですよぉ!」

「ホントに!?」

 

チャンミンも立ち上がって、民の両手をとった。

 

「そうなんですよぉ!」

 

「どっち?」

「男の子でーす」

「4人目も!?」

「そうなんです!」

 

「お義姉さんは?」

「元気もりもりです」

 

「ちっちゃい子たちは?」

「お祖母ちゃんがお迎えにいってます」

 

「Tは?」

「お義姉さんとこです」

 

「!!」

「!!」

 

我に返った二人は、繋いだ手を同時に離す。

 

「はははは...私たち、なんだか変ですね」

 

チャンミンも照れ隠しに、痒くもないうなじをぼりぼりとかいた。

 

指先に絆創膏が触れて、ぎくりとその手が止まる。

 

(これだけは民ちゃんに見つかるわけにはいかない!)

 

「民ちゃん、落としていっただろ?

携帯電話」

 

「おー!

そうでした!

どこにありましたか?」

 

「タクシーの中だよ」

 

「タクシー...ですか...」

 

「...」

「...」

 

(タクシーで、私とチャンミンさんは...)

 

チャンミンは、黙りこくってしまった民の様子に不安になる。

 

(やっぱり、タクシーでのことが嫌だったんだな)

 

「民ちゃん...あのさ、電話!

電話があったみたいだよ」

 

「やっぱり!」

 

民は受け取った携帯電話をあたふたと操作する。

 

(ユンさんからだ...3回も...。

無責任な奴だと思っただろうな。

あれから坊やたちのお世話や、産まれたと呼び出されてバタバタしていたから、すっかり忘れていた。

社会人失格だ)

 

「民ちゃん、連絡しておいでよ」

 

民の表情が曇っているのを見て、チャンミンは民に声をかける。

 

「そうします」

 

その場を離れかけた民はすぐに引き返してきた。

 

「チャンミンさん...」

 

民は俯き加減で、チャンミンのシャツをつんつんと引っ張った。

 

「ん?」

 

「お願いがあります」

 

「どうした?」

 

 

(つづく)

 

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【48】NO?

 

~キスの意味~

 

~民~

 

タクシーの中でのことを思い出していた。

 

「私とキスできますか?」とチャンミンさんに質問した。

 

ユンさんは「出来る人」なんだろうな。

 

それができちゃうユンさんが大人っぽくて、悪い男の人みたいで、カッコいいなぁなんて矛盾した思いも抱えている。

 

でも、チャンミンさんには「恋人や好きな人がいながら、他の人とキスなんて出来ないよ」と言ってもらいたかった。

 

勝手でしょう?

 

私からキスをおねだりされたと捉えたチャンミンさん。

 

チャンミンさんの顔が近づいてきて、「くる!」ってすぐに分かった。

 

キスする場所がホテルでの時と同じように、口じゃなくて首だった。

 

今夜のキスは、あの日のもののパワーアップ版だった。

 

私の思考はストップしてしまって、私の全神経は耳の下に集中していた。

 

チャンミンさんの体温が伝わってきて、唇の濡れた感触にぞくぞくっとした。

 

ちょっとだけ、変な声が出てしまった。

 

この感覚って、もしかして...「感じる」ってやつですか?

 

チャンミンさんったら、舐めるんだもの。

 

汗をかいてたから、しょっぱかったかなぁ。

 

お風呂に入ったばかりだから、臭くはなかったはず。

 

あー、どうしよう。

 

今思い出しても、ドキドキする。

 

でも。

 

私の反応を楽しんでたら嫌だな、って思った。

 

だから、唇へのキスは「駄目です」って拒んだ。

 

だって、チャンミンさんの真意が分からない。

 

男の人に相手にされない私を憐れんで、「代わりに僕がキスしてやろうか」みたいなノリなんじゃないかって、卑屈になった。

 

「駄目」って断っておきながら、本当は嬉しかった。

 

余程なことがないとキスなんて出来ないでしょう?

 

私を味わうようなキスで...うん、素敵だった。

 

私は『女』になってた。

 

そういうわけで、チャンミンさんのことをお兄ちゃんみたい、と慕うだけではいられなくなってきたのだ。

 

チャンミンさんは私のことを、どんな風に見ているのか知りたくなった。

 

「そろそろ、嫁さんの様子を見に行ってくるよ。

ガキどもを頼んだぞ」

 

お兄ちゃんはカップの中のコーヒーを飲み干すと、私の肩を叩いた。

 

「うん。

任せておいて」

 

お兄ちゃんの背中を見送った私は、靴を脱いでベンチに長々と横になった。

 

私は背が高いから、足首から先が飛び出している。

 

「はぁ...」

 

ユンさんに続きチャンミンさんと...今夜の私はキスめいている。

 

人生初だ。

 

チャンミンさんにメールを送ろうと、ポケットの中を探った。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕は大胆なことをしてしまった。

 

民ちゃんの首にキスをしてしまった。

 

唇にするやつよりも、うんと大胆でいやらしいキスだ。

 

民ちゃんの匂いや皮膚の感触、伝わる体温や震えに、僕は猛烈に「感じて」しまった。

 

民ちゃんがあんなに可愛らしい声を漏らすとは。

 

あそこがタクシーの中じゃなかったら、本気で押し倒してたかもしれない。

 

異性に対して魅力に感じるところとは、性格や交わす会話の内容も大事だが、見た目や触り心地も重要だと思う。

 

女性らしい部分...丸みやくびれ、柔らかさなどに。

 

ところが、民ちゃんにはそれがない。

 

目の高さが僕と同じで、ぺたんこのお胸に小さなお尻、骨ばった手足。

 

そして何より、男の顔。

 

それなのに、民ちゃんから女の色気を感じるんだ。

 

さっきから手の中でもて遊んでいたものに、視線を落とす。

 

黒い携帯電話。

 

マンションに到着し、降りようとしたタクシーのシートに、緑色に点滅する光を見つけた。

 

民ちゃんがメールを送信し終えた時、僕は彼女の手を握ったり、キスをしたりしたから、驚いた末ぽろりと落としてしまったのだろう。

 

仕事帰りに届けてやろう。

 

困っているだろうから。

 

「チャンミン先輩!」

 

後輩Sに肩を叩かれ、飛び上がった。

 

「いでっ!!」

 

弾みでデスク天板の裏にしたたか打ち付けた膝をさすった。

 

プリント用紙を抱えたSが呆れた顔で僕を見下ろしていた。

 

「先輩...。

いい年して『それ』はないっすよ」

 

「へ?」

 

「もしか気付いてないんすか?

これから会議があるんすよ。

『それ』はまずいですって!」

 

「なんだよ!

はっきり言えよ」

 

Sは顔をしかめて、囁いた。

 

「...キスマーク」

 

「!!!」

 

僕はトイレまで駆けて、鏡に映る自分に仰天した。

 

耳の後ろ。

 

昨夜のシャワーはぼーっとした頭で浴び、目覚ましで浴びた今朝のシャワーも、ぼーっとしていて気付かなかった。

 

リアだ。

 

キッチンの床でもつれあっていた時、そういえば強く首筋を吸われた。

 

民ちゃんに気付かれたか...?

 

大丈夫。

 

バルコニーもタクシーの中も、暗がりだった。

 

多分、見られていない。

 

「あ!」

 

自分の方こそ、民ちゃんに付けてやしないだろうな?

 

目をつむってあの時のことを思い出す。

 

強くは吸ってはいないはず。

 

終業時間が待ち遠しかったが「よし」と声に出し、気持ちを切り替えてSの元へ戻った。

 

「せんぱーい、絆創膏もらってきました!」

 

 


 

 

~民~

 

 

(きっとタクシーの中だ)

 

ポケットの中にもリュックサックの中にも携帯電話が見当たらない。

 

チャンミンにメールを送りたかったし、ユンにも電話をかけたかった。

 

待合室の角に公衆電話はあるが、電話番号を覚えていない。

 

「うーん...」

 

眠っていた甥の一人が、むくっと起き上がって、焦点の合わない視線をさまよわせている。

 

「起っきした?

民ちゃんだよ」

 

民はしゃがんでその子を抱き上げる。

 

続いて、2人目3人目と目を覚まし、民は気持ちを引き締めた。

 

(この子たちをお家に連れて帰らなくっちゃ)

 

民はリュックサックを胸側に背負うと、1人目をおんぶし、2人目3人目と手を繋いだ。

 

「お家に帰ろーね」

 

 

(つづく)

 

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