(52)TIME

 

 

「ハックション!」

 

シヅクのくしゃみの音で、チャンミンは飛び起きた。

 

「!」

 

身体をビクッとさせたチャンミン。

 

「あんた...まさか、寝てたんじゃないだろうね?」

 

「......」

 

チャンミンは、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。

 

(夢...か)

 

「しっかりしてよ。

私の背中の熱を、あんたに分けてあげるから」

 

「う、うん」

 

(あの人は、誰だ?)

 

舐められた感触が、生々しく覚えている。

 

腕を確認して見たかったが、シズクが手首をがっちり押さえ込んでいて、腕を引き抜くわけにはいかない。

 

チャンミンはギュッと目をつむって、映像の断片だけでもと、手繰り寄せようとした。

 

(果物を食べていた。

2日前にみた夢の中で、隣を歩いていた人。

果汁で濡れた僕の腕を、舐めた人)

 

チャンミンは確信していた。

 

(2つの夢に登場した人、顔は分からないけれど、同じ人物だ。

共通した雰囲気を持っていた。

でも、知らない人

誰だよ。

舐めるって...どういうことだよ。

不快だ)

 

じくじくと、こめかみがうずいてきた。

 

頭痛の予感がしたチャンミンは、すぐさま思考をストップさせる。

 

黙り込んだチャンミンを心配したシズクは、肘でつつく。

 

「チャンミン、寝るなよ。

冬山で遭難した時は、眠ったらそのまま死んでしまうらしいぞ」

 

「ここは冬山じゃないよ」

 

「何が悲しくて、職場で遭難しなくちゃいけないんだ」

 

「まったくだ」

 

大の大人が高いところによじ登って、はた目から見ると滑稽な眺めだ。

 

「チャンミン、大丈夫か?」

 

「大丈夫って?」

 

「コントロールできない、とか言ってたでしょ?」

 

「ああ!そのことか」

 

カイと一緒にいたシヅクを見て沸き上がった、腹立ちと不安感をどう処理すれば分からなかったこと。

 

苛立ちで渦巻くチャンミンの内心をよそに、いつもと変わらないシヅクの様子が、それに拍車をかけたこと。

 

「お姉さんに話してみな」

 

でも、災難に巻き込まれてしまい、シヅクと密着して体温を分け合っているうち、そんな苛立ちの嵐は過ぎ去ってしまったこと。

 

「あのさ...」

 

チャンミンは、口を開きかけた。

 

「うんうん」

 

「...ううん、何でもない」

 

(僕は、今、何を言おうとしていたんだ?

シヅクに伝えようとしたことは、何だったんだ?)

 

「大丈夫だよ」

 

「言いかけて止めるんなんて、

余計に気になるじゃないか!」

 

「いや、ホントに大丈夫なんだって」

 

「それなら、いいんだけどさ。

チャンミンも大人しくなってよかったね」

 

「大人しく?」

 

首をかしげるチャンミンと、こみ上げる笑いに肩を震わすシヅク。

 

「ああ!」

 

チャンミンは、「大人しく」の意味が分かると、顔を真っ赤にさせる。

 

「今度こそ、突き落とすよ?」

 

チャンミンは、シヅクのブーツを軽く蹴った。

 

「こらっ!

水が浅いところに落ちたら、床に直撃じゃないか!」

 

「ほら!」

 

シヅクに指摘されて、チャンミンは斜め下の出入り口ドアの辺りを見下ろした。

 

「やっと出られるよ」

 

タンクから見下ろす水面が、ぐっと遠くなっていた。

 

入口のステップ面があと少しで露わになりそうだった。

 

「やった!」

 

リストバンドの時刻を確認すると、21:00。

 

滝行から3時間。

 

「うわっ、もうこんな時間か!」

 

「降りよう」

 

「助かったぁ」

 

チャンミンはタンクから飛び降ると、シヅクに向かって両腕を伸ばした。。

 

「おいで」

 

(ヒロインが、恋人の胸に飛び込む...まんまなんですけど...)

 

ロマンティックなイメージがシヅクに浮かんだが、

 

「無理!」

 

恐怖のあまり、お尻がタンクにくっついてしまったかのようだ。

 

「大丈夫だから」

 

チャンミンは、手の平で「おいで」のジェスチャーをする。

 

「あんたに、私の命を預けるよ」

 

「大げさだなぁ」

 

チャンミンは、身をのりだしたシヅクの脇の下に手を差し込むと、ガチガチに身体を硬直させたシヅクを、すとんと床に下ろした。

 

シヅクの脚が再び、水に浸かる。

 

水の深さは30センチの高さまで下がり、2段あるステップの上段が露わになっていた。

 

「あ、ありがと」

 

「どういたしまして。

腕が折れるかと思ったけど...」

 

「あのなー。

毎度のことだが、その一言が余分なんだよ!」

 

チャンミンの背中を叩く。

 

「ははっ。

元気になったみたいだね」

 

鉄製の重いドアを引くと、あっさり開いた。

 

「やった!」

 

2人は目を輝かせて顔を見合わせた。

 

 


 

ドアの向こうにまっすぐ伸びる廊下も、ドアの隙間から漏れ出た大量の水で、水浸しだった。

 

二人は無言だった。

 

へとへとに疲れ切っていた。

 

とにかく、寒かった。

 

地上に伸びる梯子をのぼる時になって、チャンミンはシヅクの手を握ったままだったことに気付いたのだった。

 

 


 

 

とんでもない災難だったけど、

 

チャンミンったら、騎士道精神を発揮しちゃって。

 

ときめいちゃったじゃないの。

 

まさしく吊り橋効果じゃないの。

 

いや、違うな。

 

私は今回のことがなくても、既にチャンミンのことが気になっていた。

 

はっきりと認めよう。

 

「恋」だと勘違いしてしまう以前に、チャンミンのことが好きだ。

 

それじゃあ、チャンミンの方はどうなの?

 

先週、チャンミンにキスをされたときに、伝わった彼の想い。

 

自惚れじゃなくチャンミンも私のことを、好きなんだと思う。

 

チャンミンの心は、足跡のない雪原のようなもの。

 

彼が抱いているだろう心は、嘘いつわりのない真っ直ぐなものだ。

 

そして、チャンミンが恋愛感情を抱くのは、初めてであることを私は知っている。

 

その感情をうまく処理できずに、混乱しているかもしれない。

 

面白がってからかうのはNGだと、心得よう。

 

でもなぁ、いちいち赤くなって可愛いんだよなぁ、意地悪したくなるんだよなぁ。

 

ちょっと待ってよ。

 

1 ...4...7...10日くらいしか経ってないじゃない!

 

チャンミンの出方を待つか、

 

いつもの私のように、当たって砕けろ精神を発揮してしまおうか?

 

驚かせて拒否られたら、今後の任務遂行が面倒なことになる。

 

弱ったなぁ。

 

感情が芽吹いたチャンミンが今後、どうなっていくかも未知だ。

 

本来彼が持つ、キャラクターってどんなだろう。

 

興味があった。

 

 


 

ハシゴを登り切った二人は、照れくさくて手を繋げずにいた。

 

シヅクはハウスの脇に脱ぎ捨てたコートを羽織った。

 

バッグの中で、タブレットの通知ランプが赤く点滅していた。

 

(...カイ君?)

 

発信者を確認したシヅク。

 

(飲みに行こうっていう誘いだったのかな?

ごめんな、今夜は無理だわ)

 

かじかむ指でメッセージを打って、送信した。

 

「シヅク!

早く帰ろう!」

 

いつのまに管理棟前まで行っていたチャンミンが、手招きしながら大声でシヅクを呼んでいる。

 

「今行く!」

 

答えてシヅクは、チャンミンの元へと走り出したのだった。

 

 

 


 

 

彼女は高いところが苦手なことを知った。

 

震えたり、おびえたり、僕をからかったり、いろんな表情を見せるシヅク。

 

1年も近くにいながら、彼女のことを見ようともしなかった。

 

「知りたい」「近づきたい」「話をしたい」...それから「触れたい」という感情に、僕は支配されている。

 

濡れた服越しの、シヅクの体温や感触を思い出した。

 

あ...!

 

僕の“生理現象”を、シヅクに知られてしまった。

 

恥ずかし過ぎる。

 

でも、シヅクがジョークにしてくれて助かった。

 

だって気づかないふりをされていたら、ますます恥ずかしい。

 

そういえば、

さっき、シヅクに何を伝えようとしていたのだろう?

 

カイ君と仲がいいの?と聞きたかったのか?

 

違う。

 

そうか!

 

僕が今抱えているシヅクへの想いと同じものを、シヅクにもあることを望んでいるんだ。

 

カイ君と会話を交わして欲しくないんだ。

 

シヅクとくっついていたいんだ。

シヅクは僕のことをどう思っているの?

 

シヅクも僕と同じように思っている?

 

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(51)TIME

 

 

「狭い。

チャンミン、もうちょっと奥に詰められないわけ?」

「これが限界だよ」

「シヅクのお尻が大きいんだって」

「おい!」

シヅクは肘でチャンミンの腹をつく。

「座るとシヅクと僕って、同じくらいだね」

「おい!」

シヅクはもっと強く肘で突いた。

「うっ」

「あんた、失礼なことをちょいちょい挟んでくるよね」

「からかう気持ちで言ったんじゃないよ」

「だからこそタチが悪いんだよ!」

「ごめん」

体温を奪っていくだけの水から上がったおかげで、ずいぶんマシにはなったが、濡れた衣服と気温の低さのせいで、身体が凍えそうなのは変わらない。

シヅクはつとめて天井に視線を向けていた。

(下を向いたらいかん!)

シヅクにしてみれば、数十メートル上の断崖にいる気分だった。

タンクの縁をつかむ手は、力を込めすぎて真っ白になっている。。

チャンミン相手に文句を垂れて、恐怖心を紛らわせようとしていた。

「チャンミン!

あんたの腕が命綱なんだからな!

絶対に離すなよ!」

「しつこいなぁ」

換気口からいきおいよく噴出していた水も、ちょろちょろと壁を伝うまで減ってきた。

水面には排水口に向かって大きな渦巻きが出来ている。

水かさも、わずかずつ下がってきているようだ。

シヅクには、自分の腰を挟んでいるチャンミンの大腿や、背中に密着した身体も、意識する余裕がゼロだった。

(寒いし、高いし、サイアクだ!

早く、こんな状況から逃げ出したい!

チャンミンの馬鹿野郎!)

・・・

(まずい...)

チャンミンは、自分の両足が挟んでいるものを意識しだした。

途端に、胸の鼓動が早くなる。

喉がごくりと鳴ってしまう。

(まずい...

この状況はあまりにも...

まずい!)

デニムの厚い生地を通して、シヅクの身体の熱が伝わってくるだけじゃない。

(自分が抱えている、この柔らかい「もの」!

これが、大問題なんだ!

何か違うことを考えるんだ!

えーっと、よし!

明日の段取りを考えよう!

報告をして、屋上に上がって被害調査と原因追及、恐らくバルブの故障だろうから、工事が必要になる、修理・交換となれば当分雨水に頼れないだろうから、潅水が不足して...。

ダメだ!

明日の心配より、今の心配だろ!

ドア下まで水がひいたら、僕がまず先に降りて、それからシヅクを下ろして、ここの後片付けは明日考えよう、課長に連絡を入れて...その前に、僕らはびしょ濡れだから、家まで歩くのは無理があるな...寒いよな、コートを羽織ればなんとかなるか...、ドームを出て、家に帰って...シヅクはどうする?家まで送っていった方がいいよな...シヅクの家ってどこだろう?...シヅクは一人暮らしだろうか?送っていったら建物の前で別れるのか?部屋の前まで送っていった方がいいのか?で、「お疲れ様」って言って別れて...、その前に「お風呂でちゃんと温まりなよ、って言ってあげよう...家に帰ったら「大丈夫?」って電話をかけて...明日の朝は、体調は大丈夫か電話をかけて...。

ダメだ!

シヅクのことを考えてたらダメだろう!)

「どうしたチャンミン?」

チャンミンの固く握ったこぶしに気づいたシヅクが、振り返る。

「べ、別に」

「まだ水はひかないのかなぁ」

「あと1時間かそこらだと思うよ」

「そんなにかかるのぉ?

私の身体がもたない、寒い、怖い!」

「駄々をこねるなよ。

あともう少しだから」

 

シヅクは、深呼吸をし、ぎゅっと目をつむる。

(楽しいことを考えていよう。

ここから出られたら、何を食べようっかなぁ。

熱々のラーメンがいいなぁ。

いやいや、その前に風呂に入りたい。

お湯に身体を沈めたら...いいねぇ...。

明日の仕事は休んでやる!

一日、家でゴロゴロしてやる!

......ん?

......んん!?)

 

シズクの思考が止まる。

 

「......」

 

(これは...

...これは...

これは...

間違いない!

どうしよう...気付いてしまった!

黙っているべきか。

気付かないふりをしたら、かえって恥ずかしいよなぁ...)

 

「...チャンミン」

「ん?」

「私がこれから言うこと...気にし過ぎるなよ」

「どうした?」

(言い方に気を付けないと、チャンミンのことだ、しつこく悩むに違いない)

「私は気にしてないからな!」

「?」

(しまった!

 全然気づいていなかったか!

そっとしておこう)

「何でもない」

「え?」

「私の気のせいだった」

「言いかけて止めるなんて、気になるじゃないか」

「でもなぁ...」

(弱ったなぁ。

言いだしにくくなった)

「いつもシヅクはズケズケ言うくせに」

「ええっと」

「早く言えって」

「言っちゃうよ、いいか?」

「いいよ」

「あたってる」

「あたってる?」

「そう」

「何が?」

「だからさ、あんたの」

「......」

「あたってる」

「わっ!」

シヅクが何を指摘しているのかを、理解したチャンミン。

パッとシズクに回していた腕を離し、後ろに飛びのこうとしたが、それが難しい時と場合だった。

「こらっ!」

すぐさまシズクの手が、チャンミンの手首をとらえて、強引にウエストに回される。

「落ちるとこだったじゃないか!

あれほど突き落とすなって、言ってたのに!」

「ゴメン」

「なあ、チャンミン」

「なんだよ......」

「シヅクさんは、非常に嬉しいぞ」

「?」

「あんたがれっきとした男だってことが分かって」

「......」

腕を抜こうとするチャンミンの手を、シズクは押さえ込む。

「だーかーらー!

手を離すなったら!

恥ずかしがるのは後にしろ!」

「後にしろって言われても...」

「生理現象なんだから、気にするな」

(生理現象だから、余計に恥ずかしいんだって)

「はあ」

チャンミンはがくりと首を落とす。

シヅクから離れるわけにもいかず、自分の意志でどうにでもできない。

(辛い...。

恥ずかしいなんてレベルじゃないよ。

シヅクの顔を見られない)

「シヅク...僕は下にいるよ」

腰を上げようとするチャンミンの膝を、シヅクは強く押えた。

「だから、気にするなって」

「くっついていたら、おとなしくなってくれない」

「今さら何照れてるんだよ!

あんたのは、とっくの前に見せてもらったこと、忘れたのか?」

「だから、あの時の話はするなって!」

「あはははは」

(からかうと面白い奴だなぁ)

ひとしきり笑ったおかげか、シヅクの中から高所の恐怖心が薄らいでいた。

「シヅク!

お願いだから動かないでくれる?」

「刺激しちゃうから?」

「本当に突き落とすよ」

「わかった、大人しくしているよ」

お尻がしびれてきたシヅクは、もぞもぞと動かす。

「シヅク!

動くなったら!」

「チャンミンが暴れん坊すぎるんだって」

「暴れん坊って...シズク...もう」

(ごめん、チャンミン。

あんたをからかうのは、本当に楽しいよ)


僕はうとうとしていた。

冷え切った身体で、興奮から覚めて、疲れていて、眠気に襲われてしまった。

「...ミン」

僕を呼ぶ声。

白くまぶしすぎて、場所はわからない。

僕は腕をまくっていた。

まくるたびに、袖が落ちてくるから、何度もまくり上げていた。

手首からひじに、冷たいものがつたってくる。

「...ミン」

すーっと顔が近づいてきた。

汗ばんだ額に、髪のひと筋がはりついていた。

伏せていて顔は見えない。

間近につむじが見えた。

僕は、水気たっぷりの熟れた果物を手にしていた。

手のひらから、たらたらと果汁が滴り落ちていた。

近づいてきたその人は、

僕の腕を、ぺろりと舐めた。

滴る果汁を、ぺろりと舐めた。

 

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(50)TIME

 

リビングの壁の一面だけマスタードイエローに塗り、アンティークの重厚な木製家具。

 

そこかしこにカラフルでエキゾチックな装飾品。

カイは衣服だけでなく、インテリア方面でも独特のセンスの持ち主だった。

家じゅうあちこちに散らばる物たちを目にするたび、ため息をついた。

バランスと配色を計算した上でディスプレイした雑貨の合間に、美顔ローラーだとか手袋だとか、チョコレートの箱だとかが放り出されている。

「出来たよー」

ドアをノックして声をかけると、カイはエプロンを外した。

「お待たせ、今夜は何かなぁ?」

ぶかぶかのスウェットの上下を着たユーキが、カウンターテーブルについた。

荷物から着替えを見つけ出せなかったユーキに、自分のスウェットを貸してやったのだ。

カイは、よく冷やしたワインを、それぞれのグラスに注いでやる。

「ドレッシングをそんなにかけたらさ、意味なくない?」

「他に食べないから、許容範囲」

「あっそ」

ボウルいっぱいのサラダと格闘するユーキに、カイは呆れた視線を送る。

ユーキは年の離れた姉だ。

年齢の話題を出すと、鉄拳が飛んでくるので口をつぐんでいる。

スウェットの袖から出る手首も、片膝を立てているせいで露わになったふくらはぎも、ほっそりとしている。

色素が薄そうな髪の色、切れ長の大きな目を縁どる羽のようなまつ毛、長身。

 

カイとユーキはよく似ている。

カイと違って、ユーキの肌がほんのり日焼けしているのは、長年南方で暮らしていたせいだ。

 

ユーキは美容に関することなら 貪欲な興味を示し 積極的な情報収集の末、その技を身につけようと世界中を飛び回った。

その知識豊富さとテクニックを活かして、エステティシャンになり、これからサロンで働くことになっている。

 

カイが小学生の時には、ユーキはすでに成人して家を出ていた。

得体のしれないマッサージオイルや、何かを練りこんである不気味な石鹸を送りつけてくるので、家族全員で閉口していた。

恵まれた容姿を活かして、臨時収入目当てにモデルもやっていたらしい。

それもファッションモデルではなく、画家や彫刻家のモデルだと聞いたとき、カイは姉らしいと思った。

男運もなく、毎回ロクでもない男にひっかかっては泣いていたっけ。

数年前も大失恋したとかで、大荒れのユーキの面倒をみるため、両親に代わって現地まで出向いたこともあった。

10代にしてカイは、どんな言葉をかけてどう扱えば、女心をくすぐらせるのかを、会得していた、必然的に。

どんな心境の変化で、カイの住む街へ引っ越してきたのかは、彼女に尋ねたことはない。

(失恋でもして、新しい環境に身を置きたくなったのだろう)

カイは自分用の白身魚のソテーに、ナイフを入れる。

皮目をカリカリに焼いた香ばしさに、「我ながら美味い」と舌鼓をうつ。

「失恋」のワードから、カイはある出来事を思い出していた。

 


半年前の終業後のことだ。

忘れ物をとりに職場に戻った時、保管室から声がする。

開いたままのドアからのぞくと、シヅクさんがデスクに顔を伏せて大泣きしていた。

「うえーん、えーん」なんて、漫画の世界みたいな泣き方と音量だった。

こんなに派手な泣き方をする人は初めて見た。

(凄いや...)

感心しながらも、僕の中にいたずら心がむくむくと湧いてきた。

そーっと足を忍ばせて、シヅクさんの背後に立って、両肩を叩いた。

「わっ!!」

「うわっ!」

とびあがるほど驚くって言葉そのもの。

「びびびびっくりしたぁ」

シヅクさんの涙は止まっていた。

「一緒に飲みに行きませんか?」

シヅクさんはしばらくぽかんとしていたけど、真っ赤な目のままにっこり笑った。

「お、おぅ!

行こ行こ!」

ずんずん歩く彼女の後を追いながら、僕も笑顔だった。

シヅクさんが泣いていた理由は、簡単に察せられた。

とうとうタキさんにフラれたんだ。

シヅクさんは分かりやすい。

さっきまで泣いていたのに、面白い人だ。

「私は酒が強いよ~。

果たしてカイ君はついてこられるかな?」

「え~、僕はワインだったらボトル半分が限界です」

「よっわいなぁ。

まーいいや、私が代わりに飲んでやる。

カイ君はジュースでも飲んでなさい」

 

その夜、酒が強いと豪語してたくせに、ベロベロに酔っぱらったシヅクさんを抱えて帰る羽目になった。

シヅクさんとのおしゃべりは楽しかったから、介抱も苦じゃなかった。

 シヅクさんの失恋を利用する形になっちゃって、申し訳なかったけど。

「カイ君、ちょっといいかな?」

翌日、シヅクさんに声をかけられた。

「どうしたんですか?

二日酔いしてないんですね。

ほんとにお酒が強いんですね」

「ハートが弱ってたせいだ、あれは、うん。

あれだけの量で酔っぱらうなんて、面目が立たないよ」

そこで、シヅクさんは言葉を切った。

「あのさ。

カイ君、

ありがとな」

シヅクさんの言葉が嬉しかった。

「また、飲みに行きましょうよ。

次は、僕の話を聞いてくださいよ」

「あはは、そうするね。

しっかし、カイ君。

あんた、モテるでしょ?」

「どうかなぁ」

「とぼけるなとぼけるな」

と、以上がシヅクさんとの距離がぐんと近づいた出来事だ。

シヅクさんは、1年くらい前にどこかの施設からここに出向してきた。

 

タキさんと組んで、資料保管やデータ管理を行う部署に配属された。

作業着に着替えてドームへ出て、僕を手伝ってくれることもある。

髪が短いから、グレーのつなぎと長靴姿だと、まるで少年みたいだ。

この職場では、僕は一番年少だったこともあって、周囲に頼りやすい立場だ。

面倒見のいいシヅクさんに、いかにも年下面して絡んだりして。

人それぞれキャラクターの役割があるから、「新人君」のふるまいは、職場の空気を和ませるんじゃないかと、僕は考えている。

僕はとりたて、年上好きじゃない。

でも、シヅクさんは面白いひとだなぁ、って、興味を持っていた。

方言交じりの男っぽい話ことばや、スカート姿を一度も見たことはないけれど、シヅクさんの内面はうんと女性らしいと思う。

 

タキさんにフラれたシヅクさんは、仕事ぶりはいつも通りで、タキさんとのコミュニケーションもうまくやっているみたいだ。

そんな姿も、いいなぁって思った。

他のスタッフたちにはバレないよう、さりげなくシヅクさんを見ている。

ぐいぐいとアピールしたら、きっとシヅクさんは困ってしまうだろうから。

そういえば、チャンミンさんも同時期にここに入職してきた。

ぼーっとしていて無表情な人で、他のスタッフたちと交わることもなく、いつも独りでいた。

そんなチャンミンさんの態度に構わず、僕は話しかけてるんだけどね。

無口なチャンミンさんだけど、尋ねたことには答えてくれるし、勉強家で賢い人だと思う。

最近のチャンミンさんは、いつもと違う感じになってきた。

言葉数が多くなってきたし、笑顔を見せるようになった。

ぼんやりしているのは変わらないけど、以前は無心のぼんやりだったのが、最近のぼんやりは、明らかに考え事をしているみたいだ。

今日のチャンミンさんの目付きで、僕は気づいてしまった。

僕とシヅクさんが油を売ってたところに出くわした時の、チャンミンさんときたら。

これまでチャンミンさんには、職場で特に親しい人はいなかったはず。

だから、腹をたてる対象もいなかったはず。

それなのに、シヅクさんに苛立った態度を見せたり、無視したりして。

チャンミンさんの僕を見る目には、怒りがこもってた。

チャンミンさんに何か失礼なことしちゃったかな、ってふり返ってみたけど何もない。

先週、「恋わずらいですか?」ときいた時の、チャンミンさんの表情と、今日のエピソードをリンクさせてみて、僕は結論を出しましたよ。

チャンミンさんったら、分かりやすいです。

もしかして、僕が原因?

チャンミンさん、シヅクさんのことが好きですね。

 

 


 

料理をする間外していたリストバンドを、エプロンのポケットから出した。

 

(シヅクさんに電話をしてみよう)

時刻はまだ21時。

夕飯も済んだ頃で、寝るには未だ早い、大丈夫だ。

ナンバーは登録してある。

発信音を5回聞いたところで、呼び出しを終了させた。

これ以上は、しつこい。

サラダを食べ終わった姉ちゃんは、ソファに寝そべってタブレットを見ていた。

ソファの側にも、箱が詰まれている。

「姉ちゃん、週末手伝ってやるからさ、共用スペースのものは一掃しちゃってよ」

「わかったわよ」

 

散らかったものは全部、姉ちゃんの部屋に押し込んでしまおう。

結局、姉ちゃんの世話をすることになるんだよね、僕は。

 

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(49)TIME

 

 

~チャンミン~

 

 

シヅクは抵抗もせず、おとなしく僕の腕の中におさまっていた。

僕は、小刻みにふるえるシヅクの背中をさすった。

憎まれ口を叩く、いつも元気なシヅクの声が今では弱弱しくて、僕の胸は痛くなる。

(ごめん、シヅク。

僕がぼんやりしていたばっかりに…)

気温も低く、お互いずぶ濡れで、さすったくらいじゃ彼女を十分に温めてあげられないけど。

今はこうしてあげるのが精いっぱいだ。

僕のせいでシヅクをこんな目に遭わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

さっきまで興奮状態で寒さどころじゃなかった僕も、Tシャツ1枚で足元から這い上がる寒気で震えていた。

シヅクのニット越しに、シヅクの体温がじわじわと、凍り付きそう僕の身体にじわじわと伝わってくる。

くっついているとあったかいな。

僕のあごの下にシヅクの濡れた髪があって、視線を落とすと彼女の鳥肌の立った細い首。

知らず知らずのうちに、シヅクを観察してしまう。

シヅクの耳たぶには、ピアスの穴。

先週、僕の家にシヅクを招いた時、珍しくピアスをしていたっけ。

そのピアスが、マフラーにひっかかってしまって、不器用なシヅクを見かねて僕が代わりに取ってあげようとして、それから...。

それから...?

瞬間、首と頬が熱くなってきた。

シヅクにキスしたこと思い出してしまった。

「私らはいい年した大人なわけ!いちいち謝るな」って怒ってたよな。

キスひとつで、しつこく思い出してみては赤面している僕は、シヅクの言う通り「お子様」なんだろうな。

水中に浸かった太ももから足先までは、じんじんと痛いほどなのに、胸や腕はこのように暖かくて。

そういえば、シヅクを抱きしめるのはこれが初めてだ。

換気ダクト口から放水していた水の勢いが、若干弱まってきたようだ。

シヅクは身体の前で固く交差していた手をほどいた。

(お!)

シヅクのほどいた手が、そのまま僕の背中にまわされる。

そして、シヅクの温かい息が僕の胸の一か所を温めた。

僕の背中に回されたシヅクの手を意識した。

(なんだか感動する)

僕を子供扱いばかりしているシヅクが僕を頼っている。

ちょっと嬉しかったりして。

どうか僕の体温が、シヅクのかじかんだ手の平を温めますように。

シヅクに対して腹を立てていた気持ちは、どこかへ行ってしまっていた。

あの時、シヅクはカイ君の隣を歩いていたけど、今はこうして僕の腕の中にいる。

「少しはマシになった?」

「うん」

シヅクは僕の胸に、頬をぴったりとくっつけたまま頷いた。

「落ちてくる水も落ち着いてきたみたいだよ」

「うん」

「水が引かないとドアを開けられないからさ。

シヅク、ちょっとだけ頑張ってくれるかな?」

「動かすんだろ?」

「少しは身体は動く?」

「うーん、5分位なら」

「ぷっ、5分って...根拠は?」

「あのな、下半身の感覚がないわけ。

キンキンに凍り付いてるわけ」

「そうだよね、ごめん」

僕の腕の中で、シヅクは僕を見上げる。

「あらら、チャンミン君、顔が赤いよ」

いつもは目を細めてニヤニヤ顔で僕をからかうシヅクなのに、今のシヅクはかすかにほほ笑んだだけ。

「そうかな?」

寒さで震えているシヅクが可愛らしい。

新鮮な思いでシヅクを見下ろしていると、

「すごいね、こんな時にTシャツ1枚でさ。

やっぱ鍛えてると、熱量が違うのかな」

「寒いに決まってるだろ!」

まだ少し勢いが足りないけれど、いつものシヅクに戻っている。

もうしばらくの間、こうしていたかったのに。

少しだけ残念。

我ながら大胆な行動をしてしまったことに考えが及んだら、カッと首が熱くなってきた。

「意味わかんないこと言ってないで。

ほら、手伝って!」

僕は腕を開いて、シヅクの肩を押し出した。

「ちぇっ」

シヅクは口をゆがめて、渋々といった風に発電機の脇に立つ。

僕もシヅクの向かい側に立って、フレームを握る。

相当重い。

持ち上げるのは無理だけど、引きずれば何とかなりそうだ。

氷のように冷えた鉄に、シヅクからもらった体温が吸い取られるようだ。

「チャンミン」

「ん?」

「ありがとな」

「何が?」

「あのなぁ、チャンミン。

毎度のことだが、いちいちすっとぼけるのはおやめ」

あきれた表情のシヅクの顔が赤くなっていた。

「シヅクも顔が赤くなってるよ」

シヅクも照れていることがわかって、僕はなぜか嬉しかった。

「チャンミンのくせに生意気だぞ」

「ははっ」


 

「僕が引っ張るから、シヅクは押すんだ」

「オッケー」

2人とも太ももまで水に浸かった上での力作業。

「いくよ」

「くーっ!」

一息つく。

「もうちょっと」

「おーもーいー!」

力が入りにくくて手こずったが、掛け声に合わせて力をこめているうち、数センチずつギシギシきしみながら移動させることができた。

「抜けてる!」

50センチほど移動させた時、シヅクが目を輝かせて僕を見た。

発電機があった場所に向かって、水が流れ込んでいくのが分かった。

吸い込まれていく水が、水面に水流の渦を作っている。

「やった!」

僕とシヅクはお互い手を握って上下に振る。

「助かったぁ!」

突然、シヅクがへなへなと水中に沈みかける。

「わぁ!シヅク!」

僕は慌ててシヅクの手を引っ張り上げた。

安堵のあまり腰が抜けたみたいだ。

僕は身をかがめて、シヅクの腰に腕をまわし、自分の肩の上に担ぎ上げた。

「おい、私は荷物じゃないんだぞ」

文句を言うシヅク。

(強がっていたんだな。

ホントは怖くてたまらなかったんだな)

「水の中から出よう。

ドアが開くまで、しばらくかかる。

僕も寒い」

僕も限界だった。

入口ドアのステップよりも高い場所はないかと、周囲を見回す。

「あそこまで移動しようか」

室内に並ぶタンクのうち、1つだけ背丈が低いタンクがある。

低いとはいえ2メートルはある。

 

「ほらシヅク、端を持って」

「よいしょっと」

シヅクをタンクの上に載せてから、僕もよじ登る。

タンクはつるつる滑るのと、足がかりがないから懸垂の要領で身体を持ち上げる。

「鍛えた筋力が活かされたね」

「よいしょっ」

タンクは、高さ2メートル、直径1メートルの円筒形のもの。

幸いタンクの背面は、壁に接している。

「狭いから、気を付けて」

僕はシヅクを突き落とさないよう、用心しながらタンクの上に両脚をおさめた。

「高いなぁ。

怖いなぁ。

私は高いところが苦手なんだよ」

シヅクは、下を見ないよう顔をそむけて目をつむっている。

「下は水だから、

万が一落ちても大丈夫だよ」

「ばっかもん!

そういう問題じゃないんだよ」

「落ちないよう気を付けなくちゃ」

「ほこりだらけだし」

シヅクが真っ黒になった手を僕に見せる。

たっぷりとほこりが堆積していたから、僕らの濡れた洋服は容赦なく汚れてしまう。

「狭いな」

タンク上部は面積1メートル、天井まで1.5メートル。

シヅクは中腰、僕は膝立ちでバランスが悪い。

落ちないように互いに二の腕をつかんでいる格好だ。

「この姿勢はキツいぞ」

「シヅクはここにいなよ。

僕は下にいるから」

「馬鹿野郎!

あんたが凍死するぞ」

「どうしよっか...」

「よし!

チャンミン、あんたは壁際に行って」

シヅクと場所を入れ替える。

「オッケー...いてっ!」

ふいに上げた頭を、コンクリートの天井にぶつけてしまった。

「ううぅぅ」

「大丈夫か?」

頭頂部を抱えていると、シヅクはぶつけた箇所を撫でまわし、触った手のひらに目を凝らした。

「安心しろ、チャンミン。

血は出ていない。

のっぽな自分を忘れるじゃないぞ」

そろそろと、シヅクと場所を入れ替える。

「あんたがまず座るんだ」

そろそろと腰を下ろした。

「もうちょっと脚を広げな」

「よっこらしょ」

広げた僕の太ももの間に、シヅクが腰を下ろした。

(近い近い近い!)

僕は手のやり場に困って、迷った挙句タンクの淵をつかんだ。

「チャンミン、私を突き落とすなよ」

「当たり前だろ」

シヅクの片手が伸びて、僕の手首をつかむとぐいっと彼女のウエストに巻きつかせた。

「!」

「つかんでて。

手を離すなよ。

私はとにかく、高いところが苦手なんよ」

「う、うん」

シヅクのウエストで組んだ僕の手の平が、汗ばんできた。

 

ぽたぽたと未だ天井からしたたり落ちる水音が、コンクリート造りの部屋に反響する。

しばらくの間、僕らは無言だった。

 

「...チャンミン」

「ん?」

 

「照れるな照れるな」

「なっ...!」

シヅクにバレていた。

僕の両足の間の柔らかいシヅクの身体とか、​

僕の手の下のシヅクのウエストのくびれとか、

目前に伸びるシヅクのうなじとか、

意識し出すと、僕の心拍数は上がっていく。

すっかり寒さを忘れてしまった。

僕は相当、困惑していた。

僕には刺激が強すぎた。

 

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(48)TIME

 

 チャンミンは幾ページ分かスクロールした後、目当てのページを見つけた。

 

「ほら、これだよ」

 

チャンミンの長い指が指し示したのは、管理棟の平面図だった。

「それが、何?」

「昼間、タキさんから水圧が弱いって言われたんだ。

僕は、てっきり上水のことだと思い込んでた。

でもさ、ドームで散水で使っている水は、上水だけじゃない」

「わかった!雨水を溜めているやつ!」

「そう、雨水タンク!

管理棟の屋上に並んでいるやつ。

雨水タンクのパイプは、管理棟の壁面を沿って地下のポンプ室に引き込まれている」

チャンミンは、画面を管理棟からポンプ室が位置するドーム端まで、画面を移動させた。

冷水のせいで、指先は真っ赤になっている。

「そのパイプは…なるほど!

換気ダクトの上を通っていて…。

調節バルブかパイプが破損してたりしたら…」

「タイムタイム!」

シヅクはチャンミンの腕を引っ張る。

「のん気に原因究明なんか、あとにしよう。

あんたの話は、あったかいところで聞くからさ。

早く帰ろう、チャンミン!」

チャンミンは、真っ白な顔をして震えるシズクにやっと気づいた。

「ごめん」

シズクとチャンミンは、ざぶざぶと水をかき分け、入口ドアまでのステップを上がる。

ステップも水中に沈んでいる。

「あれ?」

ドアのレバーを手前に引こうとした。

「ドアが開かない」

シヅクは片足をドアにかけて、力いっぱい引っ張ろうとしたがびくともしない。

「水圧だ」

「どうすんだよ!

私らここから出られないのか?

​おぼれ死ぬのか、凍死するのか?」

シズクの脳裏には、チャンミンと死体となって水中を漂う光景が浮かぶ。

「助けを呼ぼう!」

シヅクはリストバンドを操作しかけるが、

「繋がんないじゃん!」

「ここは圏外なんだよ」

「おい!どうすんだよ!」

相変わらず滝のように放水し続ける、換気ダクト口をチャンミンは見やる。

「おい、あんたは頭がいいだろ?

計算してみな。

タンクの水が全部、この部屋に流れこんで来たら、私の身長を超えるか?」

「うーん」

「こらこら、考え込むな、不安になるだろう!」

水を吸った洋服は、水の重みでずっしりしている。

「密閉された場所じゃないから安心して」

「なんて災難なんだよ。

凍え死ぬなんて、絶対に嫌だからな!」

「ごめん」

じっとしていると凍り付きそうになるため、シヅクは水中で足踏みしていた。

「チャンミン!

排水ポンプみたいなのは、この部屋にはないのか?」

「あるよ。

使い物にならないのがね」

「なんで使えないの?」

「ホースがない」

「はぁ?」

「ホースがあったとしても、水を捨てる...」

 

チャンミンは、肩を揺らして大股で壁際まで行った。

「僕は大馬鹿だ!」

足先で、壁沿いの床を探り出した。

「どうした?」

「僕は大馬鹿だ!

とっくの前に気付いてていいはずだったのに!」

「ここから出る方法があるのか?」

「どこかに排水口があるはずなんだ」

チャンミンは、水に浸る前のポンプ室の様子を思い出そうとする。

​「地下室っていうのは、ちゃんと排水ができるようにできているはずなんだ」

水漏れ箇所を探そうと、ひざまずいた時の床はどうだったっけ?

「シヅク!

床と壁の境あたりに排水口があるかもしれないから、冷たくて悪いんだけど、探してくれる?」

「お、おう!」

二人は、あごまで水に浸かりながら、壁に沿って床を手探りしていった。

この間も、換気ダクトからは滝のように水が降り注いでいる。

「ない!」

シヅクはかじかんで真っ赤になった手に、ふうふう息を吹きかけた。

体の芯まで冷えて、ぞくぞくと震えがのぼってくる。

はぁはぁと吐くチャンミンの息も白い。

「あ、あるとしたら、こ、ここか?」

シヅクは、あごをしゃくって鉄の塊を指す。

震えのせいで、言葉がうまく出てこない。

「発電機だ」

「......」

三辺が各1メートル程の旧式タイプの発電機を、チャンミンはじっくり眺める。

​その7割方は水中に没している。

「停電したときの非常用だろうね」

チャンミンは、発電機のフレームを持って揺すってみるがびくともしない。

(排水口があるのに、役目を果たしていないってことは、これが塞いでるに違いない。

どうしてもっと早く気付かなかったんだろう)

発電機は、壁にぴったりと付けて置かれている。

「僕らでなんとか動かすしかないね。

シヅク、そっち持って」

「......」

「シヅク?」

 

唇まで真っ白にしたシヅクが、両腕で抱きしめてガタガタと震えていた。

 

「チャ...ミ...ン」

「シヅク!」

チャンミンは、水をかきわけシヅクの側に駆け寄る。

「さ...さ...む...い」

歯の根が合わないシヅク。

チャンミンは逡巡する間もなく、腕を伸ばした。

「シヅク、こっちにおいで」

 

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