(26)麗しの下宿人

 

「ひっ!」

 

いたずらが見つかった瞬間のように、僕の心臓はぎゅっと縮んだ。

 

眠っていたはずのユノの目がぱっちりと開いていた。

 

ユノの口元はにやついている。

 

「バレた!」と、とっさに思った。

 

「びっくりした?」

 

「び、びっくりした~。

おしっこちびっちゃうかと思ったよ」

 

と誤魔化すのがやっとで、どうやって言い繕ったらいいか考えを巡らす余裕などない。

 

僕の頭の中は真っ白だ。

 

「ははは」

 

ユノはむくり、と身体を起こした。

 

髪は盛大に跳ね散らかしている。

 

「ね、寝たふりしてたでしょ?」と、いつから目覚めていたのか確認してみた。

 

だって、ユノは何事もなかったかのようにケロッとしているのだもの。

 

僕をからかうことが大好きなユノのことだから、「俺にキスしただろ?何でなんで?」と、面白がってしつこく追求しそうだった。

 

もしバレていたとしても、ユノの態度から判断すると、僕のことを気持ち悪がってはいなさそうで安心した。

 

「寝たふりしてて、僕を驚かせようとしてたんでしょ?

意地悪だなぁ」

 

「ん~、今起きたとこ」

 

ユノはふわぁっと大きなあくびをし、目をこすった。

 

「ホントに~?」

 

「腹減ったなぁ、って。

いい匂いがしてきたから自然と目が覚めた。

そしたら、『あれ~、チャミがいる』って思って」

 

「ホントのホントに?」と、念押しで訊いてみた。

 

「ホントは起きてたんじゃないの?」

 

「嘘をつく理由がどこにあるんだよ?

チャミこそ、いつからここに居たんだ?」

 

「部屋に勝手に入ってきちゃってごめん。

朝ご飯を届けにきたんだ」

 

「わざわざ悪いね」

 

「それから...昨日のお礼も言いたかったし」

 

僕はじっくりとユノを観察していたことと、キスをしたことを省いてしどろもどろになって説明をした。

 

「礼なんていらないさ。

チャミの為ならいくらでも力になるよ」

 

ユノはキョロキョロ部屋を見回し始め、タオルケットをめくった下からTシャツを見つけ出すと、すぐに身につけた。

 

「どうだ?

気持ちは落ち着いたか?」

 

「うん」

 

昨晩、母に告白した結果、ものごとが一歩前進してよかったと思う。

 

でも、僕は夢物語を聞かされたような気分でいて、現実味が薄かった。

 

珍種の蝶々を目にしたのは、この世でたった2人だけだ。

 

新種の蝶々とは僕のことだ。

 

僕が『オメガ』だと認めているのはユノと母の2人だけだ。

 

僕がもっと大人だったら、おかしなことを言いだしたユノに「ふざけるな」と怒鳴りつけていると思う。

 

彼ら以外の者から、僕はオメガである』と言い渡されてはじめて、いよいよ実感するのかな。

 

 

朝の洗顔に向かうユノを追って、1階の洗面所まで下りていった。

 

「ユノちゃんが部屋に戻った後に、母さんと話をしたんだ。

母さんが『オメガ』になったのはいつだった?って」

 

僕はトイレのドアにもたれ、用をたすユノに話しかけた。

 

「ああ」

 

「そしたらね、ショチョウが来た時だったって。

ショチョウって何?」

 

水が流れる音と共に、トイレからユノが出てきた。

 

「ショチョウ...ああ、初潮ね。

学校で習わなかったのか?

始めて月経が来ることを言うんだ。

保健体育で、男と女の身体の違い、ってのを教えてくれたはずなんだけど?

初潮とは、女の人が大人の身体になりかける徴だよ」

 

「ああ...そういえば」

 

ユノはざぶざぶと洗顔し、僕が手渡したタオルで濡れた顔を拭いた。

 

「僕は男とも女ともつかない種類の人間なんでしょ?

それじゃあ、僕にも初潮がくるのかな?」

 

「どうかな...」

 

ユノは歯を磨く手を止めた。

 

「多分無いと思うけど...。

オメガの身体の仕組みには詳しくないんだ。

専門の人に教えてもらうといいよ」

 

ユノは口を濯ぎ、水で濡らした手で髪を整えた。

 

後頭部の髪がぺしゃんこになっているのを教えてあげたら、その毛束をガシガシと逆立てた。

 

(ユノならボサボサ頭でもカッコいいんだけどな)

 

次にユノは石鹸を泡立て始めた。

 

ひと晩のうちに生えた髭を剃るのだ。

 

ユノの朝の洗顔のルーティンはだいたい頭に入っている。

 

正面の鏡に映るユノと僕の身長差。

 

僕は小柄でユノはとても背が高いから、僕は常に見上げる格好になる。

 

鏡の横に『私物は部屋で管理してください』と貼り紙がしてある。

 

3人が同時に利用しても余裕ある洗面台は、ユノ専用になっているため、剃刀や歯ブラシ、マウスウォッシュなどの洗面用具が置きっぱなしになっている。

(デンタルフロスもあったりと、ユノはお口のエチケットにうるさい男なのだ。確かに真っ白な歯をしている)

 

この貼り紙は不要だよね、と今さら気付いて剥がした。

 

「母さんも『オメガ』だったなんて...びっくりした」

 

「俺もびっくりしたよ」

 

「なんか...ショック」

 

「ショックねぇ...そうだなぁ。

いろんな意味でショックだろうな」

 

「ユノちゃんは気づかなかったの?

母さんがオメガだってこと」

 

「ああ。

全く」

 

「どうして?

『オメガ』って臭うんでしょ?

母さんからはしなかったの?」

 

「しなかった」

 

「どうして?」

 

ユノは腕を組み「う~ん」と唸った後、「『オメガ』には香りが出る出ないの条件があるんだよ」と言った。

 

「男女は関係ないんだ」と、僕の質問を見越して付け加えた。

 

「薬を飲んでるから?」

 

「そのあたりの話はお母さんに訊いてみなよ。

人それぞれだと思うから、憶測で話せないなぁ。

俺がもっと詳しければ教えてあげられるんだけどね。

チャミは『オメガ』について沢山お勉強しないとな」

 

「勉強~?

嫌だなぁ」

 

「チャミの将来に関わることだから、頑張れ」

 

ユノは剃刀の泡を濯いた。

 

「分からない事だらけで不安いっぱいなチャミを見てると、俺も辛いよ」

 

「...母さん、苦労したのかなぁ」

 

ユノはしょんぼりする僕の両肩をつかみ、僕の目線に合わせてしゃがんだ。

 

「『オメガ』の人たちは、一般的な人たちと比べたら、気を付けないといけない事がいくつかあるんだ。

例えば薬を飲まないといけない、とかね。

持病がある人たちと比べたらいけないけれど、その人たちと同じ感覚だよ」

 

「今度病院に行ったとき、薬を貰えるんだね?」

 

「そうだよ」

 

洗面を終えたユノの目元は、ぼんやりとしていたものから、いつものキリっと魅力的なものに戻っていた。

 

「でね。

母さんに頼んだんだ。

病院に行くとき、ユノちゃんも一緒に付いてきてもらっていいか?って」

 

「いいよ。

早めに教えてくれたら、バイトを休みにするし」

 

「バイトを休んでいいの?

ユノちゃんたら、学校よりもバイトの方が大事なんだ」

 

「俺は学生、学問が大事に決まってるさ。

バイトは学費と生活費を稼ぐためやってんの。

テストの成績が良ければ、OKな授業が多いんだよ」

 

「いいなぁ...僕も大学生になりたい」

 

「ははは。

それならば、せいぜい勉強しなさい」

 

ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「でも、僕んちは貧乏だから、大学は無理だと思う」

 

そうぼやいたら、ユノは呆れた顔をした。

 

「子供のうちから諦めるなよ。

チャミなら大丈夫さ。

それに『オメガ』は...」

 

ユノはそう言いかけたけれど、そのまま口を閉じてしまった。

 

続きが気になってユノに催促したら、「チャミなら大丈夫、大丈夫だよ」と励ますように答えただけだった。

 

「今日どこかにでかけるのなら、首は隠してゆけよ?」

 

「分かってる。

臭う?」

 

ユノは僕のうなじに顔をよせ、手を扇いだ。

 

「だいぶ薄らいできた」

 

「よかった」

 

石鹸の香りと共にユノの顔が近づいて、ドキドキした。

 

 

(つづく)

 

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(25)麗しの下宿人

 

夏休み中の起床は遅くなりがちが、今朝の僕は違った。

 

寝付きはよかったけれど、早朝4時には目覚めてしまった僕は5時まで布団の中で粘った。

 

今朝は下着を濡らしておらず、ホッとした。

 

...でも、僕のおちんちんの具合がおかしい。

 

普段は柔らかく下に垂れているおちんちんが、固く大きくなっている。

 

毎朝、こうなのだ。

 

このまま身を起こすと、パジャマのズボンの前がおちんちんの形に張り出している。

 

この状態を母に見られたくなくて、布団から出られない朝もたまにある。

 

家の中は静まり返っているから、母は未だ眠っているようだった。

 

僕は布団から出ると母の部屋の前を通り、洗面所へと向かった。

 

着替えを終える頃には、僕のおちんちんはおさまっている。

 

 

就寝前に炊飯器にタイマーをかけておいた。

 

炊きたてのご飯をボウルによそい、大きなおにぎりにした。

 

我が下宿人の特権は朝食サービスだ。

 

玄関ホールの階段脇に、代理で受け取った荷物、朝食、洗濯済のタオルを置くための棚があり、ユノへの朝食もそこに置いておけば、お腹を空かせた彼がいずれ取りにくる。

 

昨夜のカミングアウトの件のためにユノはバイトを休みにしていたから、部屋にいるはずだ。

 

温かいうちに食べて欲しいし、『オメガ』の話もしたいし...それから、ユノの顔が見たかったし。

 

僕は朝食をユノの部屋まで届けることにした。

 

「ユノちゃん?」

 

木戸の外から声をかけたが返事がない。

 

開かないドアを前に一瞬、あの出来事が...肌色がもみあう光景が鮮明に頭に浮かんだ。

 

汗で光る裸のユノの背中。

 

ユノの腰に巻き付いた足。

 

玄関に大きな靴...男の足。

 

呻き声。

 

時間が経つにつれ僕の記憶は鮮明さを増していった。

 

ユノは腰が上下に振っていた。

 

二人は一体、何をしていたんだろう?

 

僕はぶんぶん頭を振り、変な気持ちにさせる記憶を追い払った。

 

建付けの悪い木戸はがたがたと音をたててスライドした。

 

「......」

 

ユノは眠っていた。

 

白いシーツはしわくちゃで、足で蹴飛ばされたタオルケットは壁際に追いやられ、よほど暑かったのか上半身は裸だった。

 

寝しなに読んだとみられる漫画本が枕元に伏せられていた。

 

「......」

 

僕はトレーを畳に置くとユノの枕元までにじり寄り、彼の寝顔を見下ろした。

 

伸びかけた髭が目立つのは、肌が白すぎるから。

 

伏せたまつ毛は髪色と同様に濃い黒色だった。

 

僕の視線は徐々に下へと移動してゆく。

 

呼吸に合わせて上下する胸は二つの山に盛り上がっている。

 

真っ平な下腹は、つん、と人差し指で触れたところ固く引き締まっている。

 

「!」

 

突然、ユノの腕が動いたものだから、僕は下腹に触れていた手を素早く引っ込め、息を殺して彼の行動を見守った。

 

「う...う...ん」

 

ユノはポリポリと胸の谷間を引っかくと、その手はそのままに眠りに戻ってしまった。

 

「ふぅ...」

 

安堵のため息をついた直後、ユノの手が胸の上からずり落ち、僕は再度飛び上がりそうになった。

 

ユノが目覚めないかどうかをしばらく待ったのち、僕は彼の観察に戻った。

 

ユノの裸なんてお風呂で見てきているから珍しくもなんともないけど、眠っていて無防備な姿をじっくり観察できるのは滅多にない。

 

僕の視線はユノの下腹から下へと移動していった。

 

(これは...!)

 

僕は思わず、自身の股間に手を当ててしまった。

 

夢精でパンツを汚してしまった朝のことを思い出した。

 

あの時は、汚れたパンツをユノが洗ってくれたけれど、毎朝おちんちんが固く大きくなってしまう件をユノには言えずにいる。

 

とても恥ずかしいことだという意識があるのだ。

 

これ以上ユノのおちんちんの辺りを見ていられなくなって、視線を彼の顔の方へと戻した。

 

むん、とユノの匂いが香った。

 

僕の顔はユノの顔に、吸い寄せられるように近づいていった。

 

男の人にしては赤みのさした、ふっくらとした下唇だった。

 

僕はユノの唇めがけて、顔を寄せていった。

 

1秒ほど迷った挙句、唇を落とした。

 

...これが僕にとってのファーストキス。

 

相手は大学生で しかも男の人...!

 

凄いよね。

 

多分、呼吸を止めていたのだと思う。

 

唇を離した僕は酸欠で、ユノに吐息がかからないよう身を引いて、音を殺して息を吸って吐いた。

 

目を覚ましていたらどうしようと、キスをしておきながら不安になってきた。

 

(ドキドキドキドキ)

 

だって言い訳の何ひとつ用意していない。

 

「チャミ~、俺にキスしただろ?

なんでだよ?」

なんて訊かれたら、僕は何て答えたらいいんだろう。

 

「気持ち悪い」って言われたらどうしよう!

 

僕もユノも男だ。

 

でも僕は子供だから、イタズラだと見逃してくれるはずだ。

 

ユノは憧れの兄に近い友人で、ボディーガードみたいな人で大好きな人。

 

大好きな人だからキスをしてみたくなった...こんな理由じゃ駄目かな?

 

この『好き』の種類は説明できないけれど、はっきりと言えるのはとても大事な人だということ。

 

僕はすーすーと寝息をたてるユノを、身を乗り出して観察した。

 

(よかった...眠ったままだ)

 

キスをしたいと思うなんて、ユノに対して悪いことをしてしまったといった罪悪感もあれば、大胆な自分に感心してしまう。

 

(僕ってば凄い!)

 

何かに突き動かされて、身体が自然と動いたんだ。

 

たしかに唇同士の感触や温かさを味わうどころじゃなかった。

 

しんと静まりかえった気持ちだった。

 

例えて言うならば、水面に波ひとつ、水紋ひとつたてないように落としたキスだった。

 

そこは森の奥深く、靄が晴れると姿を現す神秘の湖だ。

 

僕のファーストキスは、エロティックさとは無縁のものだと、胸を張って言える。

 

「う、うう...ん」

 

「!!」

 

ユノの呻き声と身動ぎに、僕の心臓は止まりそうになった。

 

「......」

 

むにゃむにゃと、美味しいものを食べているかのように口を動かしている。

 

(ぷっ。

子供みたい!)

 

いつまでも見ていたい気もするけれど、そろそろ下へ戻らないと。

 

出勤前の母と一緒に朝食を摂りがてら、診察の日の段取りを確認したかった。

 

朝食のトレーを、ユノの足が蹴飛ばさない場所までずらした。

 

そして立ち上がろうとした時、僕の手首は背後から引っ張られた。

 

「!!!」

 

振り向くと、僕の手首を捕らえているのはユノの手だった。

 

(つづく)

 

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(24)麗しの下宿人

 

母が『オメガ』だって?

 

あさっての方から飛んできたパンチをまともに食らったかのようで、母の言葉が思考回路に到達するまでに時間が必要だった。

 

隣のユノも僕と同様、言葉を失っている。

 

「......」

 

青天霹靂の爆弾発言...僕がとるべき正しい対応とは何だろう?

 

身を乗り出し「ええ~!」と驚きの声を出した方がよかったのかもしれないけど、衝撃が大き過ぎて、そのタイミングを失ってしまった。

 

僕は母の次の言葉を待っていた。

 

「......」

 

母は僕とユノを交互に見た後、もう一度僕の方を見て微かな笑みを漏らした。

 

このカミングアウトは母にとって辛いものなのだろう、その笑みがとても寂しそうに見えた。

 

僕が小さい頃、「父さんはどうして家を出て行ってしまったの?」と訊ねた時の、母の困った表情とそっくりだった。

 

沈黙は続く。

 

「......」

 

足の痺れに耐えかねて斜めに崩すと、内くるぶしに赤い点がぽつんとあった。

 

網戸の隙間から侵入した蚊に刺されたようだ。

 

ユノも何か言ってくれないかな、と救いを求めてそろりとユノの様子をうかがった。

 

上の空のユノの横顔は青ざめていて、熱帯夜によるものか、それとも冷や汗なのか額が汗で光っている。

 

「......」

 

ユノの反応を見る限り、母親がオメガ、息子もオメガ...とても良くない事なんだろうか。

 

にわかに僕の心臓は緊張の鼓動を打ち始めた。

 

大きな失敗に気付いた瞬間のように、かぁっと顔が火照り始めた。

 

怖い言葉は聞きたくないな。

 

「驚いた?」

 

母は沈黙を破った。

 

カクカクと頷く僕に、先ほどまでの悲し気な表情から一転、母はおどけた風に言った。

 

「驚いたでしょうね?」

 

(母は気持ちの切り替えがとても上手い人なのだ。

それくらいタフじゃなければ、問題児ばかり集まるこの下宿人を切り盛りできなかっただろう)

 

「う...ん」

 

やっとで発することができた僕の声は、聞き取れないほど小さかった。

 

「びっくりさせてごめんね」

 

「ううん」

 

母の表情が全然、深刻そうじゃないせいで、一瞬僕は『オメガ』の解釈を誤りそうになったくらいだ。

 

のちに、『オメガ』には人生を送る上で困難な事柄が連続するが、だからといって『オメガ』の人生を嘆いて欲しくないと願う母の優しさだと知った。

 

『オメガ』になってしまった息子の前で涙を流されたりしたら、不幸な身分に陥った自分を悲観してしまうだろう。

 

(...暑い。

僕んちは暑すぎる)

 

こめかみを伝ってきた汗を拭った。

 

せっかくお風呂に入ったのに、僕の全身は汗まみれだ。

 

ノースリーブの麻ワンピースを着た母は、長い髪を1つにまとめ、すっと伸びた長い首(僕によく似ている)には後れ毛1本落ちていなかった。

 

「母さんはうなじを隠さないんだな」と思った。

 

母はいつもきちんとしている。

 

クリーニング工場や多くの職を渡り歩いてきた結果、母の指先は赤らんでいて、節が太い働く手になってしまっている。

 

窓に吊るされた風鈴がかすかに鳴った。

 

微風がよどんでいた室内に、せめてもの涼気を運んでくれた。

 

「お母さんが『オメガ』だから僕も『オメガ』になったの?

 

『オメガ』は遺伝?」

 

「......と言われてるわね」

 

「ホントに?」と、僕はユノの腕を揺すった。

 

「ああ」と、ユノは頷いた。

 

「じゃあやっぱり、お母さんは僕が『オメガ』になることを知ってたんだ。

どうして、教えてくれなかったの?」

 

「チャンミンが『オメガ』になるとは、知らなかったわ」

 

僕の問いに母は否定した。

 

「知らなかった、という言い方は正しくない 正しく言うと、チャンミンが『オメガ』になるとは思わなかった。

 

「僕に黙っていたんだ!」

 

どん、と僕はテーブルにこぶしを打ち付けて母を睨みつけた。

 

冷静な2人にムカついてきたのだ。

 

ここでユノは口を開いた。

 

「『オメガ』はとても珍しい存在だって、話しただろ?

とてもとても珍しいんだ」

 

「そうなの。

私自身がレアケースなのよ。

だからといって、わざわざ教える必要はなかったの」

 

この場で知識がないのは僕だけか。

 

そもそも、公にされていない『オメガ』の存在意義など、12歳が知っていなくて当然。

 

この場で『オメガ』は常に危険と隣り合わせである理由を話したところで、性的に未熟な僕が理解するのは難しい。

 

混乱するだけだ。

 

「ユノさんはいつ、チャンミンが『オメガ』だと分かったのかしら?」

 

「ほんの数日前です」と、ユノは自身を親指で指した。

 

「そうですか...。

気付いてくださったのがユノさんでよかった」

 

「ありがとうございます。

判明が遅くなるといろいろと危険ですから。

出来るだけ早く、診てもらった方がいいです」

 

「そうね」

 

母は壁掛けのカレンダーを見た。

 

「...仕事は変わってもらいます」

 

仕事を休まないといけないほど重要事項なんだな、と暗い気持ちになった。

 

僕の存在をよそに、受診までのスケジュールをとんとん進めてゆく2人に、僕はついてゆけなかった。

 

 

その夜、布団に入った僕は、蛍光灯からぶら下がる紐を見上げていた。

 

『オメガ』であることは、あまり『よくない』ことらしいけれど、とても『珍しい存在』なんだって。

 

天然記念物的な?

 

『オメガ』って何だろう。

 

詳しいことを知りたいな。

 

好奇心が湧いてきたあたり、それほど絶望的になっていないらしい。

 

学校では沈んだ表情で無口、友人はいない。

 

実のところ、僕はポジティブな人間なんだ。

 

また、先の心配をできないあたりが子供らしいとも言える。

 

「あれ?」と疑問に思うことがあった。

 

(僕が『オメガ』だと見抜いたユノを、母は不思議に思わなかったのだろうか?)

 

ひとつのミッションは終えた安心感のおかげで、緊張の数日間の疲れがどっと出た。

 

(疑問はこれから順番に解いていこうっと)

 

タオルケットすら暑苦しくて、蹴飛ばした。

 

僕はいつの間にか眠りについていた。

 

 

(つづく)

 

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(23)麗しの下宿人

 

僕とユノ、母が居間のテーブルを挟んで座っている。

 

今夜は熱帯夜になりそうだった。

 

夕立ちが降りそうで降らなかった日特有の、ねっとりとした空気だ。

 

風の通り道を作る為、リビングと台所の窓を開け放っていた。

 

今朝、母には「相談したいことがあるんだけど?」と声をかけていた。

 

母もユノも揃って下宿屋に居られる日が、今日だった。

 

僕が図書館にあの男...オメガの匂いを嗅ぎつけられる特異な人間...と出くわした日の翌日になる。

 

母は、「いいわよ。夜でいいよね?」と軽く答えると、バタバタと職場に出掛けていった。

 

何事かと母を身構えさせたくなかったから、ユノが同席することは敢えて伝えなかった。

 

内容は十分過ぎるほど「何事」だったけれども、仕事中に余計な心配事を抱えて欲しくなかっただけだ。

 

夕食時の僕は饒舌で、スープの鉢を倒してしまったりと、そわそわ落ち着かず、いつも通りじゃなかった。

 

僕に伴われてユノが現れたことに、母は驚いていた。

 

「ユノさんも...?

あらたまってなぁに?」

と、軽口ぶった母の表情は、訝し気だった。

 

夕方からつけっぱなしだったTVを消したことで、居間はしんと静まり返り、夏虫の鳴き声が際立った。

 

「室内にいるのでは?」とドキッとするほどその鳴き声が間近から聞こえるのは、1メートル先に迫る隣家の茂みに潜んでいるせいだ。

 

僕はこぶしを正座した太ももに置き、母の目を見られずに俯いていた。

 

まるでガラス窓や壺なんかを割ってしまい、叱られる直前の子供のような光景だ。

 

どっきんどっきん、とても緊張していたけれど、言葉に詰まってしまった時の心配はする必要はなかった。

 

僕はユノの隣に座っているだけでいい。

 

出だしから専門病院での診察を勧めるところまで、ユノが担当してくれる。

 

「あらたまった形になってしまって申し訳ありません。

これからお話することは、僕が気付いたことです。

初めて知る事かもしれませんし、どこかで耳にしたことがあるかもしれない事です」

 

そう切り出したユノは、順を追って話し始めた。

 

 

得体のしれない存在にもかかわらず、僕は『オメガ』を信じていた。

 

僕のうなじから放たれる物質は、顔色の変化や首筋に浮いた青筋、多量な発汗など、明らかにユノの体調に影響を与えていた。

 

そして何より、ユノの言葉だったからだ。

 

ユノが『オメガ』と言ったのだから、『オメガ』なのだ。

 

僕はユノを尊敬している(僕は一人っ子なので、実の兄に対する感情は想像するしかないけれど)

 

母は終始ユノにへばりついている僕のことを、兄に慕う弟のように見ていると思う。

 

『オメガ』というワードを耳にした時、母はどんな反応を示すのだろう。

 

『オメガ』という言葉は、錯覚を超常現象に思い込んだ子供が使いそうな響きを持っている。

 

でも、ユノが同席していること自体が、これからする話が真面目なものである証拠。

 

昼間会った時、ユノは肌の露出の多い恰好をしていたのに、外出着とまではいかないけれど、洗濯したてのTシャツとスリムパンツを身に付けていた。

 

それに対し、僕は寝間着代わりの甚兵衛姿で、真剣な話をするには相応しくなくて、「しまったなぁ」と小さく反省していた。

 

『オメガ』の詳細を知らずにいたおかげで、僕の表情には悲壮感はない。

 

なんだかよく分からないけれど、男でも女でもない3つめの性になってしまい、特定の人を狂わす匂いを放つようになる。

 

(ところで、『性』ってなんだ?

子供が産める産めないの違いなのかな?)

 

 

「お母さんは『オメガ』について、ご存知ですか?」

 

「いいえ」と首を横に振るだろうと予想していた。

 

となると、ユノは僕にしたのと同じように、『オメガとは何なのか』ざっくりとしたものでもイチから説明しなくてはいけない。

 

僕は騙されやすい子供だったから、疑いなく信じたし受け入れた。

 

でも母は大人だから、簡単にはいかないだろうな、と思った。

 

母はハッとした表情を見せ、ユノの質問に即答しなかった。

 

「...知っています」

 

「嘘ー!」

 

母の答えに、僕は大きな声を出してしまった。

 

「お母さん、『オメガ』を知っているの!?」

 

僕はユノの肘をぎゅっと掴んだ。

 

隣のユノを見上げると、彼も驚きでぽかんとした横顔を見せていた。

 

「え、ええ。

知ってます」

 

「お母さんが『オメガ』の存在を知っているとは...驚きました」

 

「もしかして...」

 

母の表情は一転、とても困惑したものになった。

 

「うちの子が...チャンミンが、『オメガ』ってことありませんよね?」

 

「お母さん!?」

 

再び大きな声を出してしまった。

 

「......お母さん、なぜ?」

 

僕もユノも驚かされっぱなしだった。

 

母が『オメガ』の言葉を受けてすぐ、「息子が『オメガ』なのでは?」の結論に至ったことを不思議に思った。

 

「チャンミン...『オメガ』なんですか?」

 

「はい、そうだと思います」

 

テーブルに身を乗り出した格好のまま、母は静止してしまった。

 

「ああ、やっぱり」と思った。

 

『オメガ』とは良くないことなんだ、と。

 

母が『オメガ』の存在を知ったことよりもショックだった。

 

母の固い表情を見ていられなかった僕は、彼女の背後...壁に貼られた画用紙...小1の時母を描いた絵に...視線を向けていた。

 

「そうですか...」

 

母は乗り出した身を起こし、「そうですか...」と繰り返した。

 

ユノの心中にも、「なぜ?」が沢山渦巻いていたのだろう。

 

「あの...お母さんはなぜ、チャンミン君が『オメガ』なのでは?と思われたのですか?

僕は未だ、何も言っていないうちに...?」

 

「そうですよね。

そうお思いになるでしょうね」

 

母はここで言葉を切った。

 

母は青ざめていて、華奢な肩が震えていた。

 

僕の鼓動は早く、蒸し暑さのせいではない汗をかいていた。

 

足はじんじんと痺れていたけれど、張りつめた空気のせいで足を崩すことができない。

 

母の視線は僕らの真後ろのTVにあった。

 

TVボードに飾られた写真立て...入学式に撮影した母と僕の写真...を見ているのかもしれない。

 

何を言うか言わざるか迷いながら。

 

「なぜ私が『オメガ』を知っているかと言うと」

 

母は僕とユノを交互に見た。

 

先ほどとは打って変わって、母の眼には決意がこもっていた。

 

「私が『オメガ』だからです」

 

(つづく)


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(22)麗しの下宿人

 

ユノと話をしているうちに、気持ちが落ち着いてきた。

 

いつも思っているんだけど、ユノの声は僕の耳に心地よい。

 

今の僕の首筋は保冷剤で十分冷やされていて、ユノを苦しませることはない。

 

ユノ曰く、僕の匂いは特定の人を『エロい』気分にさせ、『エロい』気分になった彼らは僕に乱暴をしたくなるという。

 

でも、ユノは僕の匂いを嗅いでも平気だという。

 

「よかったぁ。

ユノはオメガの匂いが分かる人だけど、あいつみたいに怖い人にはならないんだね。

薬を飲めば匂いの心配なくなるし、これで僕らはいままで通りだね」

 

「そうだな」

 

ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「宿題は済んだのか?」

 

「うん。

読書感想文」

 

「読書感想文かぁ、懐かしいなぁ」

 

「面白かったよ。

ユノちゃんも読んでみる?」

 

「俺ってマンガしか読んでこなかったんだぞ?」

 

「ユノちゃんは頭いいんだから、大丈夫だって。

僕でさえ読めるんだから。

待ってて」

 

僕は玄関に置きっぱなしだったバッグを取って引き返すと、ペンケースと原稿用紙、ハードカバーの本を取り出した。

 

「...あ」

 

この時タオルの件を思い出したのだ。

 

(もしかして...)

 

淡い期待をもとにバッグをひっくり返したけれど、鉛筆キャップが1個、畳の上に転がり落ちただけだった。

 

「どうした?」

 

「ユノちゃん...。

図書館までタオルを巻いていったんだけど...どこかにやっちゃった!!」

 

「え」

 

ユノの動きが止まった。

 

「多分、落としたんだと思う。

だって、あの男の人が怖くって、びっくりしたから。

逃げなくちゃって。

多分、バッグに入れてたつもりなんだけど、そうじゃなかったみたい!」

 

「チャンミン?」

 

「待って。

待ってね、思い出すから。

どうだったっけな?

ちゃんとバッグに入れてた、入れたよ!

でも、無くなってるし!

...なんでだろう」

 

タオルを無くしたと聞いた時のユノの反応から、とても良くないことだと察したのだ。

 

僕のタオルは、汗もオメガ特有の匂いも吸い込んでいた。

 

オメガの匂いを嗅ぎつけられるあの男が、僕のタオルを拾っていたとしたらどうしよう!

 

あの男にタオルが拾われたとしても、僕は走り去っていてしまっているのだから、何が悪いのか僕には分からない。

 

でも、ユノの固い表情を見てしまうと、僕はやっぱり良くないことをしたのだ。

 

「宿題をやってた机のところにあるかもしれない!

そこで汗を拭いた気がする。

それで、机に置きっぱなしにしたのかも!」

 

席を離れる時忘れ物が無いかどうかしっかり確認をしたのだから、僕自身がそうではないことを覚えている。

 

「後で図書館まで取りに行こうよ!

ユノちゃんも一緒に来て。

誰かが拾ってくれてるかも!

だって、図書館に着いた時はちゃんとあったんだから!

タオルは図書館だよ!

きっとあるよ」

 

話すスピードもボリュームも増していく。

 

「暗くなった頃なら、あの男は帰っちゃってるよ。

僕が心配なら、ユノちゃんもついてきて、ね?」

 

「落ち着けチャンミン」

 

ユノに怒られるのが嫌で必死で弁明する僕に、ユノは「もういいから」と繰り返してくれた。

 

「タオルごとき...大したことないよ。

チャミはな~んにも悪くないよ」

 

「ホントに?」

 

「ああ」

 

ユノはやおら立ち上がり、軒下に干されていたタオルを僕に投げてよこした。

 

「涙を拭けよ」

 

目を細めたユノの笑顔には、労わりがこもった。

 

まぶたの裏が熱かった。

 

どうやら僕は泣きべそをかきかけていたようだ。

 

「ちゃんと洗濯してる?

タオル...ユノ臭い」

 

「うるせ~な。

男は臭いんだよ」

 

「ひゃははは」

 

僕は後ろに飛び退いて、タオルを取り返そうと伸びたユノの手から逃れた。

 

「くくくく...」

 

僕は緊張感や不安感を払拭するかのように、ひときしり笑いこけた。

 

「分かった」

 

場を切り替えるように、ユノは太ももを叩いて言った。

 

「夕飯の後、夕涼みがてら図書館に行こうか?」

 

「うん!」

 

「万が一に訊くけど。

まさか名前書いてたりしないよな?」

 

「...書いてるけど?」

 

僕は小学生だ。

 

持ち物に名前が書いてあるのが普通なのだ。

 

「駄目だった?」

 

「いや」

 

「名前が書いていないと、誰の物か分からなくなるでしょ?」

 

「そうだね。

落とし物をしても、名前が書いてあったおかげで手元に戻ってくるんだしな。

ふあぁぁ...眠い」

 

ユノは大口開けてあくびをすると、欄干に腰掛け窓の外へと視線を移した。

 

窓枠に頭をもたせかけているせいで、ユノの表情は分からない。

 

首が太く見えるのは、ユノの頭身が高いせいだ。

 

汗で濡れた後ろ髪がうなじに張り付いていた。

 

景色を眺めながらもの思いにふけったり、漫画本を読んだり...これがユノのいつもの光景だ。

 

同じユノでも、窓を境にして違う印象を受ける。

 

下宿屋の外から見上げると気楽な学生に、今のように部屋の中からは、どこか寂し気で秘密多き大人の男に見える。

 

「後でね」

 

僕はユノの背中に手を振り、敷居に引っかかる木戸に苦労したのち、部屋を出た。

夕飯の後、ユノと図書館へ出かけた。

 

午後7時になっても、外は明るかった。

 

受付にタオルが届けられている確率は半々だと予想していた。

 

僕の首筋に吹きかかった、あの男の熱い吐息に、執着を感じとっていた。

 

僕のタオルは今、男の手元にある...多分。

 

 

(やっぱり...)

 

「ごめんなさいね」と、受付のお姉さんは申し訳なさそうだった。

 

「館内を探してみましょうか?

私も一緒に行きます」

 

「それには及びません」

 

カウンターから出ようとするお姉さんを、ユノは押しとどめた。

 

「僕らだけで十分です。

お仕事の邪魔をするわけにはいきません」

 

「でも...」

 

ユノも僕と同じ予感がしていたのだろう。

 

無いと分かっているのに、お姉さんの手を煩わせてしまうわけにはいかない。

 

「心遣い、ありがとうございます。

2人で探せます。

大丈夫ですから」

 

美しいユノに微笑まれて、お姉さんはうっとりしていた。

 

 

1階から2階は空振りだった。

 

3階は受付カウンターも閲覧室も無人で、ガランとしていた。

 

「見てるだけで賢くなれそうだな」と、書架を見上げるユノに僕は打ち明けた。

 

「僕さ...オメガの本を探していたんだ。

 

難しい本がいっぱいあるここなら、あるんじゃないかなぁって」

 

ユノは立ち止まった。

 

「オメガの本ってあるの?」

 

「ない」

 

ユノは振り向いた。

 

「一冊も?」

 

「誰でも自由に読めるような所には無いと思う。

でも、受付で申請をすれば、奥から出してくれると思う」

 

「......」

 

「俺は反対しないよ。

でも俺は、専門家の口から直接説明を受けてからの方がいいと思う。

まっさらな状態で聞いた方がいいと思うからだ。

知りたくて仕方がないチャミの気持ちは分かる。

俺は専門家じゃないから、俺の口から説明できないのがもどかしい」

 

「...うん」

 

僕はしょんぼりしてしまった。

 

「あと2,3日の辛抱だ。

その間、チャミを危ない目に遭わせないよう張り付いているからな」

 

その後、階段からトイレまですみずみまで探してみたけれど、タオルは見つからなかった。

 

(つづく)

 

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