(6)麗しの下宿人

 

~僕が9歳のとき~

 

3月の卒業シーズン。

 

2人の下宿人が大学卒業のため、ここを引き払っていった。

 

その数日後、入れ替わりで新しい下宿人がやってくることになっている。

 

僕は母と一緒に、空き室になったばかりのその部屋の掃除をしていた。

 

部屋なら他にいくらでもあったが、この角部屋は一番日当たりがよく、他の部屋より2畳ほど広い。

 

三角巾で髪をまとめた母は、押し入れの戸を開け放ち、固く絞った雑巾で中段棚と床を拭いていた。

 

空き部屋が出る度、掃除をする母を手伝っていたから、指示がなくてもすべきことは分かっていた。

 

「チャンミン、届かないところは無理しないでね。

落ちちゃうからね」

 

「大丈夫だよ」

 

窓の外には欄干があるから、落下の危険は少ない。

 

(ユノがよく腰掛けて漫画本を読んでいるところ。体育座りをした僕ならば、すっぽりとおさまるミニサイズベランダ、といったところ)

 

窓ふき担当の僕は窓枠にまたがり、濡らした新聞紙を丸めたものでガラスを磨いたのち、タオルで乾拭きした。

 

この部屋の住人はヘビースモーカーだったらしく、タオルがヤニで茶色く汚れた。

 

「次はどんな人?」

 

新しい下宿人について、母に訊ねた。

 

変な人だったら嫌だなぁと思ったからだ。

 

下手くそなギターをかき鳴らす人、トイレの使い方が汚い人、女の人をしょっちゅう連れ込んで喧嘩が絶えない人、爬虫類を飼っていた人、借金取りが怒鳴り込んできた人...僕が知っているだけでも、これだけのバリエーションの人々が暮らしてきた。

 

母は白い割烹着姿で、僕も母手製のチェック柄のエプロンをしていた。

 

「今年も大学生よ。

好青年といった感じ」

 

「コーセイネンって?」

 

「爽やかで明るい...友達にしたくなるような人っていう意味」

 

「へぇ...」

 

正直、下宿人と僕との接点はほとんどないと言っていい。

 

僕みたいな子供に話しかけてくる人も滅多におらず、「ここんちの子か。お手伝いをよくする子だな」程度の認識だと思う。

 

「変な人だと嫌だなぁ」と思ったのは、掃除担当の僕の仕事を増やされたり...いや、僕よりも母に迷惑をかけるような行いの人だと、困るのだ。

(「愛想のないガキだな」とも思っていそうだ)

 

困り者の代表格は、家賃の滞納だ。

 

こんなオンボロアパートを選択せざるを得ない人々は、大抵は金銭的な問題を抱えている。

 

毎月末、母は電卓を叩いてはため息をついている。

 

何カ月経っても銀行に振り込まれない家賃、督促に出向いてものらりくらり、時によっては逆ギレ...追い出そうにも、女性による最後通牒は凄みが足りない。

 

こういう時に、男の人が...父なり兄なり...が居てくれるといいのだけど...。

 

強面だった祖父は脳梗塞を患い、痴呆も加わって、我が家に戻ってくることはもう無いだろう。

 

新しい下宿人は『好青年』というから、どうか母の第一印象通りの人物であって欲しい!

 

「新しい人は何時に来るの?」

 

「3時くらいですって。

ご実家からここまで5,6時間はかかるそうよ」

 

「へぇ、遠くに住んでいるんだね」

 

通りの角に桜の木を植えた家があり、春になると薄桃色の花びらがここまで飛んでくる。

 

ざ~っと春風が吹いた。

 

開けた窓から舞い込んだ数枚が、日焼けした畳の上にひらりと落ちた。

 

僕は窓から身を乗り出し、桜の木が植わっている方角を見た。

 

「荷物は?」

 

「家財道具が前もって送られてくるでもなし、車に積んでくるのかしらねぇ」

 

母は汚れた雑巾を茶色く濁ったバケツに入れると、「よいしょ」っと立ち上がった。

 

20歳で僕を産んだ母はまだ若いのに、仕事のし過ぎで腰を痛めている。

 

「掃除はこれくらいでよいでしょう。

窓は開けっぱなしでいいわ。

私たちはお昼にしましょうか?」

 

「うん」

 

「久しぶりに出前をとる?」

 

「いいの?」

 

「チャンミンがお手伝いしてくれたご褒美よ」

 

僕は「やった~」と飛び跳ね、母の手からバケツを奪った。

 

9歳になる頃には、突然の発熱で母に心配をかけることもほとんど無くなっていて、丈夫な身体になれたことが嬉しかったのだ。

 

「どんな人か楽しみだね」

 

こんなことを言っているけれど、人見知りの激しい僕は、物陰からこっそりと覗うんだろうなぁ。

 

12歳になった今も昔も、僕はすかした態度の可愛くない子供ではあるが、当下宿屋の住人となると、興味を覚えずにはいられない。

(案外、可愛らしい性格なのでは...?)

 

「そうね。

最後の下宿人になるかもしれないわね」

 

母は寂しそうにそう言った。

 

母はこの先の言葉を続けなかったが、「古くて時代遅れのここを好んで住む人なんて、この先現れるのかしら」と思っていただろうな。

 

「じゃあさ。

新しい人にずーっと住んでもらえば?

好青年なんでしょ?

学校を卒業しても、仕事をするようになってもずーっと、ここに住んでもらうの。

そうすれば、ずーっと家賃をもらえるよ」

 

なんと子供らしい、単純な思いつきだろうか。

 

 

新しい下宿人は手荷物ひとつでやってきた。

 

2時半頃から、僕は2階の空き部屋から通りの角を見張っていた。

 

タクシーでやってくるかと思ったら、彼は徒歩でやってきた。

 

すらっとした、若い男の人が桜の木の陰から姿を現わすなり、僕はひょいっと窓の下にしゃがみ込んだ。

 

そろそろ到達した頃かな、と見計らった僕は頭を乗り出し、空き部屋から真下を見下ろした。

 

門扉と玄関までの間に、2メートルばかりの角道があり、その半分は玄関のひさしに隠れて見えない。

 

(あ~あ)

 

ワンテンポ遅れたようで、彼の姿をキャッチするタイミングを逃してしまった。

 

それならば...と、僕は部屋を出て階段を途中まで下りた。

 

そして玄関が見えるか見えないかの所で腰を下ろした。

(僕からの視界ではそうかもしれないが、玄関にいる者からは、僕の膝から下までが丸見えになってしまっているとは、子供の頭では気づけていない)

 

「ごめんください」

「いらっしゃい」

 

母は奥から顔を出すと、いそいそと新しい下宿人を出迎えた。

 

声がワンオクターブ高いのは、イケメンで好青年だからか。

 

(よく見えないな)

 

今の位置だと、彼の腰から下しか見えない。

 

僕は1段、また1段と下りてゆき、ようやく彼の顔を拝めることができた。

 

(へぇ...)

 

僕は素早く観察した。

 

黒いキャップをかぶり、薄手のジャンパーとパーカー、淡色のデニムパンツと軽装で、肩に荷物で膨らんだショルダーバッグをかけている。

 

「息子さんですか?」

 

(僕のことだ!)

 

慌てた僕は、後ろ向きに階段を上ろうとしたけれど、靴下のせいで滑り落ちそうになった。

 

「危ない!」

 

母よりも、好青年の方が1歩早かった。

 

たったの2歩だけで僕のところまで駆けあがると、僕をキャッチした。

 

僕の間近に彼の顔があり、真正面から目が合った。

 

(へぇ...)

 

ヒヤリとしたばかりなのに、まじまじと彼の顔を観察する余裕はあったらしい。

 

(イケメンだぁ...)

 

ボキャブラリーが少なくて、うまく言い表すことが出来ないけれど、とにかくイケメンだった。

 

顔が整っているのは、窓から彼の姿を眺めていた時、遠目からでも分かった。

 

印象的だったのは、アジア人なのに眼の色が真の意味で、真っ黒だったことだ。

 

とっさに、吸血鬼みたいって思ってしまった(もちろん、吸血鬼なんて見たことはない)

 

瞳の奥に動物的なものを秘めている、っていうのかな?

 

だから、瞬間移動みたいに僕の目の前まで移動できたのかな、って。

 

「どこか、ぶつけたりしていないか?」

 

1段分だけ、お尻を打ち付けてしまっただけで済んだ。

 

(そのお尻はジンジンした)

 

「...うん」

 

僕は頷いた。

 

「もう...チャンミンったら、おっちょこちょいなんだから...」

 

「すみません...靴のままでした」

 

彼は僕を階段下に下ろすと、そこから一足で玄関のたたきに戻った。

 

「いえいえ、構わないんですよ」と母は恐縮がり、「うちの子の命の恩人です」とまで言っていた。

 

僕はささっと、母の後ろに隠れた。

 

「人見知りさんかな?」

 

彼は微笑んだ。

 

「そうなの。

でもね。

あなたがいらっしゃるのを楽しみに待っていたのよ」

 

(お母さん!)

 

僕は母のエプロンを引っ張り、余計なことを言った彼女にぷりぷりしていると...。

 

「彼はチャンミン君、って言うのですか?」と、彼から促され、母は自己紹介がまだだったことに気づいたようだ。

 

「この子は...息子のチャンミンです。

9歳ですが、ここの仕事をよく手伝ってくれます。

私は仕事で不在の時が多いので、行き届かないところが多いかと思います。

何かありましたら、遠慮なく言ってくださいね」

 

「父親は?」と不躾な質問を、彼は自己紹介の場でする真似はしなかった。

 

「よろしくね、チャンミン君」

 

彼は僕の身長に合わせて身をかがめて、挨拶をした。

 

「僕は『ユノ』といいます」

 

僕はさらに、母の真後ろまで隠れた。

 

(ふ~ん。

ユノって言うんだ)

 

僕はひょっこり目元だけ出して、ほんの1センチだけ会釈のつもりで、頷いてみせた。

 

「部屋まで案内しますね」

 

母は上階へと先だって行ったため、僕の全身がユノから丸見えになってしまった。

 

身をすくめていると、ユノはふっと笑い、僕の頭をくしゃっと撫ぜた。

 

そして、母を追って階段を上っていった。

 

当然僕も、ユノを追っていった。

 

 

(つづく)

 

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(5)麗しの下宿人

 

 

たまたま、僕の帰宅が早かったせいで、ユノにとって見せたくない光景を目撃してしまった。

 

あれは事故だ。

 

下宿屋を出て時間を潰してから下宿屋に戻る間、ユノと顔を合わせた時、どんな態度でいようかとずっと考えていた。

 

僕さえ知らんぷりしていればいいことだ。

 

窓から顔を出して、僕に声をかけてきた様子からすると、僕に目撃されたことを気付いていないように見えた。

 

でも、僕に見られてしまったことに気づいているけれど、気付いていないふりをしているのでは?と。

 

僕が台所で遅い昼食を食べていると、戸口の方で気配がした。

 

(ユノだ...)

 

ショックから立ち直れていない僕は、その気配を無視するためにテレビを付けた。

 

(僕は何も見ていないし知らない。

だから機嫌悪くなんかしていない。

僕はテレビを見ているから、ユノがそこに居るなんて気付いていないんだ)

 

僕はことさらシャカシャカと音を立てて、冷や汁ご飯をかきこんだ。

 

テレビ画面には、緊迫した表情の男女が映っている(殺人事件もののドラマ)

 

下駄箱から見知らぬスニーカーが消えていたから、僕が街をほっつき歩いている間に帰ったのだろう。

 

僕に見られてしまった事を知って焦ったユノは、無理やりあの男を追い出したんだ...そうに違いない。

 

ダイニングテーブルに『おじいちゃんのところに行ってきます』と、母からのメモがあった。

 

(あれ?

今日は水曜日のはず...)

 

壁に吊るしたカレンダーを見ると、明日の日付に丸を付けている。

 

やっぱり母さんは、明日の家庭訪問のことを忘れていたらしい。

 

母には週に1度、祖父が入所している老人ホームへ顔を出すルーティンがあって、それが木曜日なのだ。

 

母に似て、僕もおっちょこちょいなところが沢山ある(母の場合は、毎日が忙しすぎるせいもあるけれど)

 

そんな僕を、ユノは腹を抱えて馬鹿笑いしたり、苦笑して頭をくしゃっと撫ぜてくれたり、呆れ顔で微笑んだり...いろんな笑顔を見せてくれるんだ。

 

僕の心はユノでいっぱいになってしまい、せっかく胸の中でおさまりかけた意地悪な気持ちに火がついた。

 

僕だけの友だちだって、独り占めしていたつもりでいたのに、知らない男の人に盗られてしまう。

 

この時かな...ユノへの独占欲を強く意識したのは。

 

僕は自分で思う以上に、ユノにべったりだったわけだ。

 

ユノの背中が汗で光っていた。

 

男の人の膝にユノの手が添えられていた。

 

その手は僕の頭を撫ぜる手だったのに...!

 

あの時は、嗅覚も聴覚も麻痺していて上滑っていた感覚の記憶が戻ってきた。

 

部屋に充満した空気。

 

甘い匂い。

 

熟れた果物の匂い...南国フルーツのような重ったるい独特な匂い。

 

何の匂いかな?

 

下になった男の人は、変な声を出していた。

 

(嫌だ!)

 

僕はこぶしをテーブルに叩きつけていた。

 

茶碗とグラスは無事で、箸だけが床に転げ落ちた。

 

冷めて皮にしわがよったトウモロコシに手を伸ばし、テーブルに片頬をくっつけたとても行儀の悪い姿勢で、むしゃむしゃとそれを食べた。

 

今も戸口にたたずんでいるはずのユノの気配に、僕の背中は全神経を研ぎ澄ましていた。

 

僕は待っていた。

 

「チャミ?」

 

僕の心の涙が引っ込んだ。

 

「あ~、よかった」と思った。

 

ユノに見捨てられたかのような、凍り付きかけた心がおかげですぐに溶けた。

 

「チャミ」って名前を呼んでもらっただけなのにね、おかしいね。

 

僕はわざと返事をしなかった。

 

ユノをこらしめてやりたかったんだ。

 

「チャミ?

そこにいるんだろ?」

 

「なあに、ユノちゃん?」

 

僕はつい今しがた、呼びかけが聞えた風に、「何か用?」と答えていた。

 

ずっと知らんぷりしていたら、ユノが部屋に戻ってしまう。

 

「えーっと...これからコンビニに行くけど、何か欲しいモノ、あるか?」

 

僕のご機嫌取りかな?

 

「う~ん、今ご飯食べたばっかだから、何もいらない」

 

僕はテーブルについたまま、かったるそうに返事をした。

 

「そっか...分かった」

 

立ち去るユノに、僕は慌てて席を立った。

 

「待って!

行く!

やっぱ行くよ!」

 

僕はユノを追いかけ、そこで待っていた彼と衝突してしまった。

 

ユノはとても背が高い。

 

僕の頭はちょうど、ユノの心臓のあたりだ。

 

「今日のチャミはご機嫌斜めなのかな?」

 

ユノは僕の頭を撫ぜてくれた。

 

「そうだよ、そのとおりだよ」と心の中で思った。

 

 

僕は「あの光景」を見ていない前提でいるのに、子供の拙く浅い思考では、つじつまを合わせ続けるのは難しいだろう。

 

...いや、僕は深く考え過ぎているだけかもしれない。

 

子供が見せる、理由のない気難しさだと思われて済んでしまうかもしれない。

 

なぜなら、衝撃の目撃事件以降、僕らの関係に変わりはなかった。

 

次の日もその次の日も、ユノはこれまで通り僕を部屋に招き入れ、僕は彼の部屋で宿題をし、おやつを食べた。

 

例の“お友達”は、あの日以降ユノのもとを訪れないから、きっと僕の存在を意識している。

 

 

僕の身体にじわりじわりと異変が起こりつつあった。

 

僕が精通を経験し、その後も夢精で下着を汚すことが頻繁になってきた。

 

さらに、身体のだるさも度を増してきているような気がした。

 

何度熱をはかっても36℃台で、熱はない。

 

それでも何とかしたくて救急箱から風邪薬を失敬したこともあった。

 

母には言えない。

 

これは風邪なんかじゃない。

 

僕が覚えていないだけで、寝ている間の僕はエッチな夢を見ているんだ。

 

クラスの女の子を見ても何とも思わないのに、意識の深いところ...つまり、本能でエッチな目で見ているってことだ。

 

彼女たちの視界には、僕のことなんて全く入っていないのに、僕の方からは彼女たちを盗み見していることになる。

 

いずれ、僕のことを気持ち悪いとか陰口を言うようになるんだ、どうせ。

 

僕は頭を抱えてしまった。

 

僕をもっと混乱させたのは、エッチの夢なんて見た覚えがないことだ。

 

僕の意志を無視して、僕の身体は大人の男の人になろうとしている。

 

微熱っぽいのもだるさも、それが原因なのかな。

 

僕は母の留守中、こっそり彼女の部屋に入り押し入れを開けた。

 

救急箱はそこにある。

 

風邪薬の箱の中身が減っていることに、母が気付くかもしれない。

 

ユノに相談した方がいいかなぁ、と思いかけていた。

 

 

翌日の家庭訪問についてだけど、いつものごとくと言った感じ。

 

僕は2階に避難していた。

 

あいにくユノは留守だったため、隣の空き部屋から窓の外を見張っていた。

 

門扉のきしむ音に見下ろすと、担任の教師(男だ)の禿げ頭。

 

「ボロイ家だなぁ」と思っているのだろう。

 

担任教師が仰ぎ見しそうだったから、僕は慌てて頭を引っ込めた。

 

教師が母に何を言いつけてるかなんて、盗み聞きする必要はなかった。

 

異口同音だ。

 

『チャンミン君はもっと自分を出した方がいいでしょう。

クラスで孤立しています。

私どもも何とかしたいのですが...。

むやみに教師が彼らの中に入っていくことが、かえって悪い結果に繋がることも多々あります。

ですので、お母さんの方で、それとなく...』

 

僕は彼が帰ったのを見計らって、階下へ下りていった。

 

「...お母さん」

 

台所から、居間にいた母に声をかけた。

 

居間のテーブルの上に、水滴を浮かべた麦茶のグラスが手つかずで残されていた。

 

「ああ、チャンミン。

ちょっと早いけど、夕飯にする?」

 

母は「よいしょ」っと立ち上がり、担任が残したお茶をシンクにぶっかける勢いで捨てた。

 

いつも通りの母だった。

 

担任と何を話していたのか、そこで忠告されたアレコレを僕に問いただしたり、ああしなさいこうしなさいとか、一切口にしなかった。

 

わざわざ言わなくても、お互い承知しているし、その内容はとてもくだらなさすぎて、口にする必要もない。

 

「あ...」

 

玄関の戸が開け閉めする音が聞こえるなり、僕の腰は椅子から浮いた。

 

「ユノちゃんだ...」

 

階段を踏みしめる音に、僕は席を立った。

 

「ユノちゃんとこにタオル、届けにいってくるね」

(我が下宿屋には、バスタオルやシーツなどの洗濯サービスがある)

 

「頼みわね」

 

僕がユノに懐いていること、ユノが僕を可愛がってくれることを、母は微笑ましく思ってくれているのは、確かだ。

 

でも、本音はこうだろう。

 

『もっと年の近いお友達ができるといいのだけど』

 

「ユノさんの邪魔をしたら駄目よ」

 

「うん」

 

母の声を背中に、タオルとシーツを入れたカゴを抱えた僕は、ユノの背中を追っていった。

 

 

(つづく)

 

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(4)麗しの下宿人

 

 

家庭訪問があるからと、正午前には下校時間となった。

 

帽子を無くしてしまったせいで、頭のてっぺんは太陽にあぶられ、さらに空腹状態でもあったから、この帰路は小さな身体にはヘヴィだった。

 

家に到着した時、ユノの部屋の窓にはカーテンが閉まっていた。

 

「珍しい、学校にでも行っているのかな」と思って靴箱を見ると、ユノの靴はちゃんとあった。

 

もう一足、見慣れない靴...大きなスニーカーがあった。

 

(珍しい...お客さんかな)

 

蒸れた靴下を脱いで裸足になると、ぺたぺた歩く板床がひんやりと気持ちよかった。

 

「ただいま」

 

母は台所でトウモロコシを茹でていた。

 

「あら、チャンミン!?

学校は?」

 

「今日は昼で帰りなんだ。

家庭訪問だよ。

お母さん、忘れてたでしょ?」

 

「そうだったわね。

うちはいつだった?」

 

「明日だよ」

 

僕は冷蔵庫から冷たい麦茶をグラスに注いで、一気飲みをした。

 

「ねえ、ユノちゃんとこに誰か来てるの?

靴があった」

 

「お友達らしいわね。

同じ大学の子なんじゃないかしら」

 

「ふうん。

...トウモロコシ、どうしたの?

こんなにいっぱい」

 

茹でトウモロコシは鮮やかな黄色で、はち切れそうな粒がむっちりと詰まっている。

 

甘い香りと共に、もくもくと白い湯気が上げていた。

 

がぶりと噛みつきたい衝動に襲われるほど、美味しそうなトウモロコシだった。

 

「職場で貰ったのよ。

親戚が農家さんなんだって。

沢山あるからユノさんのとこに持っていって。

お友達も一緒にどうぞ、って言ってね」

 

僕は母からトウモロコシを盛ったざるを手渡された。

 

「うん」

 

「お友達が来ているのだから、邪魔したら駄目よ」

 

「はあ~い」

 

ユノと一緒に食べたかったなぁと思ったけれど、彼の友だちがいるのなら仕方がない。

 

きしむ階段を2階へと上がり、ユノの部屋の前で立ち止まった

 

いつもなら形ばかりのノックをして、ユノの返事を待たずにドアを開ける。

 

ユノは部屋に鍵をかけない。

 

でも、今日は知らない誰かがいると知っているから、とても緊張した。

 

僕は強度の人見知りなのだ。

 

ドアをちょっとだけ開けて、目が合ったら「どうも」って頭だけ下げて、一階に戻ればいい。

 

うちの下宿屋のドアは引き戸だ。

 

「お母さんがトウモロコシをどうぞって」と、言いながら戸に手をかけた。

 

20センチほど戸が開いた時、僕は一時停止してしまった。

 

僕は木戸に手をかけた状態で、室内で繰り広げられている光景が何なのか、12歳の少年には理解できなかった。

 

カーテンを閉めた薄暗い部屋だ。

 

こんなに暑いのに窓も閉め切ってあるようで、むっとした熱気が充満しているようだった。

 

「......」

 

床に延べた布団の上に肌色がもつれからみ合っていた。

 

二人いた。

 

上になった方が腰を動かしていて、下になった方の両脚が腰に巻きついていた。

 

ユノがどっちなのか、目をこらさないと分からない。

 

僕は頭がまっ白で、目に映る情報が頭に入ってこない。

 

息を止めていたせいで、頭が酸欠状態だったから?

 

生まれて初めて目にしたセックスシーンだったから?

 

異性同士のセックスも知らない、男同士のそれなんてもっと知らない。

 

こくり...と喉が鳴り、鼓動が早くなる。

 

僕は見てはいけないものを見てしまった。

 

今すぐここを立ち去るべきだ。

 

頭では分かっていたけれど、身体がうまく動かない。

 

木戸はあと1センチのところでつっかえて閉まらず、音をたてるわけにはいかないから 時間がかかった。

 

開けたドアはそのままに、そっと部屋の前から踵を返し、階段を駆け下りて台所まで戻った。

 

「ノックしたのに気づいてくれなかった」と、トウモロコシを持ち帰ってしまった嘘の言い訳をした。

 

「それなら部屋の前に置いておけばいいでしょう?

洗濯物もあるから、ついでに持っていくわ」

 

と、母は僕からトウモロコシのざるを取り上げた。

 

母に目撃させたらもっと都合が悪い。

 

「僕が持っていくよ。

お母さんは忙しいんだから」

 

僕は母からざるを奪い返すと、2階へ駆けあがり、敢えてどかどか足音を立てて廊下を歩いた。

 

「ユノー!

差し入れだよ。

ここに置いておくね!」

と、大きな声で言った。

 

そして、ドアの前にとうもろこしのざるを置くと、さっと身をひいた。

 

その動きはまるで、身代金の入ったバッグを置いていくみたいだった。

 

ユノは未だ忙しいようで、返答はなかった。

 

僕に見せられない姿なんだ。

 

友だちを見せたくないとか...?

 

胸の辺りが焼け付くように痛い。

 

裏切られたような、置いてけぼりにされたような、悲しい感情でいっぱいだった。

 

優しくて面白いお兄さん以外の顔を持っているユノに、ショックを受けていた。

 

 

僕が目撃してしまったもの...あれがいわゆるセックスというものだと知ったは、もう少し後だった。

 

あの時は、ただただショックだった。

 

真っ先に「取っ組み合いの喧嘩をしているのでは?」と思い、その後に、喧嘩にしてはなんだか変だと気付いた。

 

僕の頭の中では2つの疑問だけがぐるぐる回っていた。

 

「なぜ裸なんだろう?」

 

「2人は何をしているのだろう?」

 

僕は階段を駆け下り、外へ飛び出した。

 

胸がズクンズクンした。

 

こぶしを握るかのように、心臓がぎゅっと収縮しているのがよく分かるくらいだ。

 

きしむ音に構わず、門扉を乱暴に開けた。

 

ユノが気付いてくれるといい、と思った。

 

僕は、ユノの部屋を見上げた。

 

カーテンは未だ閉まったままだった。

 

飛び出してみたものの行くあてもなく、僕は行きつけのスーパーマーケットまで行き、もっと遠くまで行くべきだと思って、美術館の前まで行った。

 

母に怒られるだろうけど、もっと寄り道をするべきだと、公園のブランコに揺られ、水を飲んでから下宿屋に戻った。

 

昼食を食べていなかったから、空腹で倒れそうだった。

 

ユノの部屋を見上げた。

 

カーテンは未だ閉まったままだった。

 

今度も乱暴気味に門扉を開けた。

 

ユノの部屋を見上げると、カーテンの合わせが揺れていた。

 

すると、ユノがそこから顔を出した。

 

「お!

おかえり」

 

玄関前の僕を見下ろし、いつものように手を振った。

 

今日はじめて、僕を見るかのようだった。

 

僕は力なく手を振り返した。

 

ユノはハーフパンツを穿いていて、上半身は裸だった。

 

前髪は濡れている。

 

いつもだったら、暑さに堪えてTシャツを脱いでしまったのだと思っただろう。

 

でも、今日の裸は意味が違う、と思った。

 

「お母さんにトウモロコシのお礼を言ってくれないか?」

 

ユノはトウモロコシを齧っていた。

 

僕は愛想悪く頷いただけで、家の中に入っていった。

 

とぼけているのだろうか?

 

そのトウモロコシを部屋の前に置いたのは、誰だと思っているのだろう?

 

部屋の前にトウモロコシが置かれてたら、おかしなことをしていたことがバレたのでは?と思わなかったのだろうか。

 

部屋の中で何をしていようと自由だけど、『アレ』については秘密の匂いがぷんぷんしていた。

 

僕に知られたことに気づいているのだろうか?

 

 

(つづく)

 

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(3)麗しの下宿人

 

 

僕は、世の12歳男子の平均値よりも、小柄で痩せていた。

 

小学3、4年生頃に間違われることはしょっちゅうで、全然嬉しくなかったけれど、訂正してまわることはしなかった。

 

ムキになる姿をからかわれたり、突っかかって小突かれたりして嫌な思いをするくらいなら、黙っていれば済むことだ。

 

「ねぇ、ユノちゃん。

僕はどうして小さいのだろう。

ユノちゃんみたいに大きくなれるのかな?」

 

僕もユノの真似をして板壁にもたれて座り、彼は漫画本を、僕は世界の童話を膝にのっけての読書の時間だった。

 

いつもの僕らのいつもの午後4時。

 

7月上旬にもなると、窓を開けていても部屋の中は暑い。

 

ユノの部屋は幸いにも南向きで、西日に悩まされることはなかったが、やっぱり暑い。

 

隙間だらけのこの建物は、夏は暑く冬は寒い。

 

雨風しのげればいいと覚悟がある者しか住めない我が下宿屋...ユノは根性と体力のある男なのだ。

 

そして、ユノは身体も大きくて、僕が知っている大人たちの中でも群を抜いて背が高かった。

 

「僕もユノちゃんみたいになれるかな?」

 

するとユノは間髪入れず、「なれるさ」と言った。

 

「チャミの父ちゃんも背が高かったんだろ?」

 

「うん」

 

僕の父親はとても背が高かったそうだ...話によると。

 

「メシを腹いっぱい食って、よく寝ていればデカくなるさ」

 

「なら、いいけどね...」

 

「なるさ」

 

ユノは言いきると、漫画本へと視線を戻してしまった。

 

 

小学校に上がるまで、僕の身体はとてもとても丈夫とはいえず、しょっちゅう体調を崩していたそうだ。

 

母の話によると、保育園から何度も呼び出され、ぐったりとした僕を抱えてかかりつけの医院に駆け込んだ。

 

入院にいたるほどの高熱が出たこともあったとか...僕は全然、覚えていないけれど。

 

小学校中学年になる頃には、嘘みたいに丈夫になり、風邪もひきにくくなった。

 

ちょうど、ユノが我が下宿屋にやって来た頃だ。

 

ユノが僕の弱気を強くしてくれたのでは?と、根拠のない思い込みをしている。

 

いずれにせよ、母には苦労をかけた。

 

自分のことは自分で、手伝えることは率先して手伝って、母を助けてやりたいと思っている。

 

 

そのひとつが、下宿屋の細かい仕事を僕が担うことだ。

 

風呂掃除中の僕は、ブラシを持ったまま、身体の変化について考えにふけっていた。

 

当時と比較すると、ずっと丈夫になったことは喜ばしいことだ。

 

けれども...平均的男子より小さな身体の僕に、平均的男子よりも早く精通がおとずれるとは。

 

ユノが言っていた『ソージュク』という言葉。

 

あの後、辞書で調べてみた。

 

『肉体や精神の発育が普通より早いこと』

 

大人の身体に近づくとは...大人の男に近づくとは...嬉しいものなんだろうか。

 

実はあの日以来、僕の身体にわずかなりとも変化が起こった。

 

微熱があるような身体の重だるさが気になって、母の目を盗んで(病院に連れていかれる)体温計ではかってみると、36.5℃。

 

熱はない。

 

(おかしいなぁ。

なんだろう)

 

母を心配させてしまうから、黙っていることにした。

 

「...あ」

 

裏口の戸がガラガラ開く音がした。

 

母が仕事先から帰って来たのだ。

 

(急がなくっちゃ)

 

僕は風呂掃除の続きに戻った。

 

水に溶いた洗剤でゴシゴシ、タイルの目地に沿って十字にこすった。

 

換気のため開けていた曇りガラスの窓をしめ、湯船の栓を閉めた。

 

最後に蛇口を磨きあげて、終了だ。

 

掃除の手順は母に、そのコツはユノに習った。

 

小学3年生の頃だったと思う。

 

大の男が2人同時に使用できるほどの風呂場は、9歳の僕の目には広大で途方にくれていた。

 

「おっ。

チャミはお手伝い中か」

 

洗濯機を使うため、自室から脱衣所へ下りてきたユノが、僕に声をかけてきた。

 

「手伝いじゃない。

これは『仕事』だよ」

 

わが家の事情を分かりかけていた頃で、僕も下宿屋業の戦力のひとつになるんだと、意気揚々鼻息荒かった。

 

手にしたブラシは小さな手には大きかった。

 

ユノは、無駄に泡ばかりたてる段取りの悪い僕をみかねて、ズボンの裾をたくし上げて洗い場へやってきた。

 

「ほそっこい腕だなぁ。

ちゃんとメシ食ってるのか?」

 

「食べてるもん」

 

ユノは「ブラシ、貸してみろ」と、手をひらひらさせた。

 

「斜めに擦るんじゃなくて...縦たて、横よこ...。

こうだ」

 

僕は、ユノの腕...筋と血管が浮いた太くてかたそうな腕...素早く力強く動く腕から目が離せなかった。

 

それは、「大人の男の人ってかっこいいなぁ」という尊敬の目だ。

 

今でも1週間に1度はユノのことを、「かっこいいなぁ」と思っている。

 

そう思っていても、褒めるよりもからかう時の方が多いんだよね。

 

 

「チャミ~!」

 

僕と母が夕飯の支度をしていると、階段の方から僕を呼ぶユノの声がした。

 

共用階段横に木戸があり、賃貸エリアと管理人(僕ら一家)エリアとを分けている。

 

夏の間、風通しをよくするため、その戸は常時開け放たれ、暖簾をかけただけになっている。

 

けれども、ユノはこちらへは1歩も足を踏み入れたことはない。

 

以前、「入ってこればいいのに」と、言ったことがある。

 

そうしたら、

 

「俺は下宿させてもらっている身だ。

オーナーの家に、ズカズカ入り込めない。

これはケジメだよ」と、答えたから、

 

僕は、

「じゃあ僕は?

僕はオーナーなのに、下宿人の部屋に遊びにいってるんだよ?

それってOKなの?」と、質問した。

 

するとユノは、ああ言えばこう言う年ごろの僕を一発で納得させられる言葉を思いついたらしい。

 

「チャミは俺の友だちだからOKなんだよ。

友だちんちに遊びに行ったりするだろう?

それと一緒」

と、僕の頭をガシガシ撫でた。

 

僕はぱあ~っと、天にも昇る思いだった。

 

うんと年上の憧れの人から、「友達」認定されたのだ。

 

「チャミは?」

 

「ユノちゃんは僕の友だちだよ」

 

ユノは僕に友だちがいないことを知っている。

 

だからといって、「僕の友だちになってあげよう」...そんな同情から口にした言葉じゃない。

 

「俺とチャミは友達だけど、チャミんちにはお母さんがいる。

チャミのお母さんは、俺にとってオーナーだから、気軽にチャミんちに入るわけにはいけないんだ。

分かった?」

 

「分かった」

 

僕は子供過ぎるし、対等な話し相手にはなれない。

 

けれども、僕らは対等の関係だ...と、僕が思いたいのかな?

 

 

ユノに呼ばれた僕は、「いい?」と問う目で母を見た。

 

母は「仕方がないわね」と渋々...ではなく、困った顔を作ってみせた。

 

息子に兄のような存在が出来たことを、喜んでいるからだ。

 

(僕はといえば、ユノのことを兄というよりも、年上の友だちのつもりでいるのだけどね)

 

「今、行くよ~!」

 

僕は大声で返事をし、バスタオルと着替えを抱えてユノを追いかけた。

 

いつからか、僕は下宿人の共用風呂を利用する習慣ができていた。

 

当初は、「ユノさんの迷惑になるから」と母に反対されたが、ユノが「俺一人であの風呂は広すぎですよ」と説得してくれたおかげだ。

 

脱衣所に行くと、ユノは一足先に服を脱いでいた。

 

僕も負けじと、服を蹴散らすように脱いだ。

 

「チャミ、修行だ!」

 

ユノのかけ声に、僕は両耳を塞いで目をぎゅっとつむった。

 

直後、僕の頭上から、ユノが洗面器いっぱいに汲んだお湯が降り注いだ。

 

ユノに遅れて僕も湯船に飛び込んだ。

 

僕らは向かい合わせになって、湯船のあっちとこっちにもたれて沈んでいる。

 

くすんだ水色のタイルに、ステンレス製の湯船、浴室内は湯気で真っ白だ。

 

ユノは湯船の湯をすくって顔を濡らし、その手で前髪を梳いた。

 

前髪を上げて額を出した顔も、キリッとしていてカッコいい。

 

「ふう~。

暑い季節でも、風呂に浸かるのっていいもんだな」

 

「うん」

 

「風呂上がりに、ジュースを買いにいくか?」

 

「いいの?」

 

「お母さんには内緒な?」

 

「うん」

 

母は、ユノがあれこれろおごってくれることを申し訳なく思っているのだ。

 

「夕飯の後でいい?」

 

「いいよ」

 

「ユノちゃんは、今夜も夕ご飯は外で食べるの?」

 

「ああ」

 

週に3日、ユノは夜になると出かけてゆく。

 

「何をしに行くの?」と訊ねたら、ユノは「バイト」と答えた。

 

何のバイトなんだろう?

 

その時は深く追求しなかった。

 

 

12歳の子供の目でみるユノの身体は、単なる大人の男の人の身体に過ぎなかった。

 

ここで気付くのだ。

 

僕が知っている大人の男の人の身体とは、ユノが基準なのだ。

 

初めて目にしたのもユノが初めてだったし、手で触れたのもユノが初めてだった。

 

今の僕だったら、逞しく美しいユノの身体を目にしたら、とてもとても平静を保てない。

 

抱きつくなんて表現はやさし過ぎる。

 

文字通りむしゃぶりつくだろう。

 

 

(つづく)

 

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(2)麗しの下宿人

 

 

12歳の初夏、僕は精通を経験した。

 

早朝、不快感で目覚めた。

 

身動きすると下半身に冷たいものが肌にはりつき、下着に触れてみると濡れていた。

 

学校の授業で習っていたから、「ああ、これがそうなのか」と。

 

大人に近づいた嬉しさよりも、真っ先に僕を悩ませたのは「汚した下着をどうしようか?」だった。

 

母に知られたくなかった。

 

トイレと洗面所は母の寝室の真隣にあった。

 

築50年を超える我が家の板床は忍び足でもきしみ、彼女を起こさないよう寝室の前を横切るのは骨が折れた。

 

外は白々と明るくなり始めたばかり。

 

北向きの洗面所は、小さな窓から差し込む白い朝日で、ぼうっと薄明るくなっていた。

 

洗面所のヒマワリ柄のビニール床に、僕の生っ白い足の甲。

 

そのコントラストが、妙に生なましく感じた。

 

僕はパジャマのズボンごと下着を脱いだ。

 

汚れたそれを洗おうと、蛇口をひねりかけてその手を止めた。

 

陶器製のシンクを叩く水の音で、母が目を覚ますかもしれないと思ったのだ。

 

洗っているものが何なのかを知られたくない!

 

今となれば、下着を汚してしまいパニックになっていた自分を可愛らしいと思える。

 

が、女子に目もくれなかった初心な12歳男子にとって、自分の意志を無視したこの生理現象は恐怖だった。

 

実際は見た覚えのないのに、性的な夢を見たのではと、母には思われたくなかった。

 

僕は汚れた下着をパジャマの下に隠し、階段を挟んで反対側...下宿人の居住エリア...へと移動した。

 

下宿人用の風呂場で下着を洗おうと思ったのだ。

 

ユノは、まだ寝ているだろう時間だ。

 

蛇口の水の下で汚れを流した後、備え付けのボディソープを塗りつけた。

 

ステンレス製のシンクを叩きつける水音が、意外に大きくてヒヤヒヤした。

 

「何してるんだ?」

 

「!!」

 

背後からの声に、心臓が止まるかと思った。

 

犯罪の実行中を目撃されたかのような気分だった。

 

首がもげるんじゃないかと思う程、勢いよく振り向いたら、ユノが立っていた。

 

「...ユノ...ちゃん?」

 

なぜだか涙がにじんできて、それは説明のできない涙で、でもユノなら分かってくれそうで、この涙のおかげでホッとしていた。

 

「チャミ...」

 

ユノは僕が何にパニクっているのか、すぐに理解したようだった。

 

ユノは靴下を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げると、風呂場の洗い場へ入っていった。

 

そこでしゃがみ込みと、「俺に貸してみ」手をひらひらさせた。

 

「......」

 

羞恥心いっぱいの僕は、下着を浸した洗面器をユノの方へと滑らした。

 

「ぬるま湯の方がよく落ちる。

ボディソープじゃ駄目だ。

そこの洗濯機のとこから洗剤を持ってきて」

 

 

「うん」

 

洗面所に住人共用の洗濯機が設置してある。

 

15年ものの二層式洗濯機だ。

(脱水中はガタガタとうるさく、僕の部屋まで聞こえてくる)

 

僕はユノの指示に従い、手際よく洗い物をする彼の手元を見ていた。

 

「慣れてるね」

 

「しょっちゅう洗ってたから」

 

「へぇ...そうなんだぁ。

子供の頃?」

 

「たまにね。

汚さないでいるのも難しいものなんだ」

 

僕がこれまで知らないでいただけで、世の大人の男たちは、家族の目を盗んで精液で汚れた衣類を洗っているものなんだ。

 

ユノがどういう状況を指して言っていたのか、僕には知識がなかったから、素直に「へぇ」と驚いていた。

 

「チャミって今、いくつ?

小5だよな?」

 

「6年生だよ。

12歳」

 

僕はむくれて答えた。

 

「ってことは、俺んときより2歳早いな。

早熟だな」

 

「ソージュクって?」

 

「辞書で調べとけ。

俺は14歳ん時」

 

「どうした?」

 

「そのまま洗濯機に入れたんだ。

家族に見つかってさ、『手洗いしてから洗濯機に入れなさい』って怒られた」

 

「恥ずかしくなかったの?」

 

「寝てるうちに出ちゃうのは11歳ん時だったけど...9歳ん頃からいじってたから、珍しくもなかった」

 

僕はワンテンポ遅れて『いじる』の意味が分かった。

 

そういえば、同級生たちがそんなような話をしては、ゲラゲラ下品に笑っていたっけ、と。

 

彼らを遠目で見ていて、ああはなりたくないなぁ、と思っていた。

 

「チャミはいじったりしてないのか?」

 

「...う~ん...そういうことは未だ...」

 

ユノはもじもじする僕の背中をどん、と叩いた。

 

「俺が教えてやるよ...なんて言えないけど、相談にはのるよ」

 

「え...それって相談するものなの?」と訝し気な僕に、ユノは大笑いした。

 

その笑い声は、がらんとした風呂場でよく響いた。

 

「パンツは俺ん部屋で干しな」

 

「うん」

 

洗面器に溜めた水でよく濯ぎ、雑巾絞りの要領で水気をしぼった。

 

「貸してみ、もっと固く絞らないと」と、僕から下着を取り上げ、ぎゅっぎゅっと絞り直した。

 

ユノの大きな手の中で、僕の下着はころんと小さくなった。

 

「尻丸出しじゃん。

風邪ひくぞ」

 

「あ...ホントだ」

 

ぐちょぐちょに濡れたものを身に付けたくなくて洗面所で脱ぎ、その格好のままここまで走ってきたのだった。

 

「新しいパンツ、持ってくるの忘れた...」

 

「ズボンは直に穿くしかないなぁ」

 

「ズボンも、あっちに脱ぎっぱなし...」

 

下着ごと脱いだパジャマのパンツは洗面所にある。

 

「ちんちんぶらぶらのままじゃ、お母さんに見られた時困るよな。

おし、Tシャツ貸してやるから待ってろ」

 

ユノは階段を駆け上がり、部屋からTシャツを持って戻ってくると、僕にそれを着せてくれた。

 

ユノはとても背が高いため、彼のTシャツを僕が着るとワンピースのようになった。

 

僕をパニックに陥れていた下着の件が解決し、余裕を取り戻した時、ユノの恰好に目がいった。

 

「...あれ?

ユノちゃん、これからどっか行くの?」

 

下宿屋にいる時のユノは、Tシャツにハーフパンツとか、膝の抜けたスウェットパンツとか...身体の線を拾わないだらっとした恰好をしている。

 

その朝のユノは、同じTシャツ姿でも襟首は伸びていないし、細身のズボンを穿いていたから、これから出かけるのかなぁ、と思ったのだ。

 

それから、香水をつけているみたいだ。

 

ユノが身体を動かすと、いつもはしない香りがふわっと僕の鼻をくすぐった。

 

「あ~、それは」

 

ユノは一瞬の間をおいてから、「そう、これから出かけんの」と答えた。

 

「今日の授業は早いんだね」

 

「そうなんだよねぇ」

 

ユノの言うことをそのまま信じた僕だけど、帰宅したばかりだった場合もあるわけだ。

 

 

このことを、2度目に下着を汚してしまった朝に知ったのだ。

 

手洗いした下着をユノの部屋で乾かしてもらおうと、彼のドアをノックしたけれど応答はなかった。

 

ぐっすり眠り込んでいるのなら、無理やり起こすのも悪いなと思い、部屋の前から立ち去った。

 

濡れた下着をどこで乾かそうか頭を巡らしながら階段を下りきった時、玄関の戸がからりと開いた。

 

「ユノちゃん?」

 

戸を開けたのはユノで、階段下で立ち尽くす僕にギョッとしたようだった。

 

「早起きだなぁ」

 

僕が手にしているモノに目をやり、僕の早起きに合点がいったようだった。

 

恥ずかしくてそれを背中に隠し、恥ずかしさを誤魔化そうと、ユノの早朝の帰宅を問いただしてみた。

 

「どこかに行ってたの?」

 

「まあね」

 

僕は早朝に帰宅するような用事を思いつけず、「へぇ」と答えただけで、洗濯後の下着の干し場問題に意識を戻した。

 

「オッケ。

貸して」

 

と、ユノは僕のパンツを受け取ると、お手玉みたいにポンポンやりながら2階の部屋へと上がっていってしまった。

 

朝起きて夕方に帰ってきて、夜眠る...僕が知っている生活パターンとはこれしかなく、夜に出掛けて朝帰ってくる生活パターンもあることを知ったのが、この頃だったと思う。

 

つまり、昼間のユノは大学に行っている日もあるが、大抵は下宿でゴロゴロしていて、夜になるとどこかへ出かけているらしいと。

 

じゃあこの前のユノは、帰宅したばかりだったのに、僕が見送ったりするから、出掛けざるをえなかったわけだ。

 

その辺を散歩するなりして時間をつぶしてから、戻ってきたんだろうと思うけど。

 

ユノって何をしている人なんだろう。

 

子供の目に映るユノは、謎多き、心惹かれてしまう大人の男だった。

 

 

(つづく)

 

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