(1)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

こんな物語を聞いたことがある。

 

愛する者のために、人間の足を手に入れた人魚の話を。

 

それと引き換えに声を失ったという。

 

そんな魔法があればよかった。

 

あったらよかったのに。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

俺はチャンミンを風呂に入れていた。

 

チャンミンは、ぶくぶくの泡でいっぱいの湯船から、大きなヒレを出している。

 

俺は湯船の脇にスツールを置いて、本を読んでいた。

 

「何ていう本を読んでるの?」と尋ねられ、一言で説明できずに「ビジネス系の本」と答えておいた。

 

「ふ~ん」

 

さっきは、お湯が熱すぎたせいで、湯船から跳ね上がって俺の肩にしがみついた。

 

「僕を茹で人魚にする気?」と。

 

「ごめんごめん」

 

チャンミンはタイル張りの床にヒレを投げ出し、腕を組んでプンプンに怒っている。

 

「機嫌を直して」

 

俺はチャンミンを抱いて、水を足して適温になった湯船に下ろす。

 

「ふぅ...。

極楽です」

 

チャンミンは湯船の縁に頭をもたせかけ、まぶたを半分落としてうっとりとした表情だ。

 

そんなチャンミンを見て...俺はこれで何回目になるのか数えきれないほど...安堵するのだった。

 

ルーバー窓から斜めに差し込む、午前10時の陽の光。

 

真っ白な湯気の靄と淡く優しい日光で、バスルームは静寂の極楽だった。

 

チャンミンが尾びれを動かす度に、お湯がちゃぷちゃぷ音を立てる。

 

ページをめくる乾いた音。

 

湯船に目を向けると、チャンミンは眠っていた。

 

海から連れ帰ったのは俺だ。

 

少しでもチャンミンが不自由なく生きてゆけるよう、俺は出来る限りのことをした。

 

そうなのだ、「チャンミンが陸地で暮らしていけるように」なんて生ぬるいことは言えない。

 

俺がいなければ、チャンミンは生きてゆけないのだ。

 

俺の人生をチャンミンに捧げたと言っても過言ではない。

 

いつか「海に戻りたい」と言い出す日を恐れていたから。

 

正直に言う。

 

チャンミンを海に戻したい気持ちなど、さらさらないのだ。

 

思いきり泳ぎたいだろうに、哀しいことに、高い塀に囲まれたプールだけが、チャンミンの命を繋ぐ世界なのだ。

 

チャンミンにとって、俺のそばにいることだけが世界の全て。

 

チャンミンは俺だけの人魚だ。

 

瑠璃色のうろこと、日に透かすと虹色になる尾ひれをもっている。

 

美しい美しい人魚なのだ。

 

 

 

 

「今日は帰りが遅くなるよ」

 

外出の用意をしながら、プールサイドでひなたぼっこをしているチャンミンに声をかけた。

 

外気に身体をさらす時間を少しでも増やそうと、特訓しているのだ。

 

「ひとりぼっちですか...」

 

ぷぅとふくれっ面をするチャンミンを、抱きしめた。

 

「食事はキッチンに用意してあるよ。

先に食べてていいからな」

 

「あの『椅子』を使うんですね。

仕方がないですねぇ」

 

チャンミンの為に、車いすを特注したのだ。

 

長い尾びれがおさまるように座面の面積を広く、座り心地が良いようクッションの材質にもこだわった。

 

車輪も大きく、ひと漕ぎで何メートルも前に進むことができる。

 

これのおかげで、チャンミンは家の中を自由に移動できるようになった。

 

エレベーターを使えば、地下のプールへも移動できる。

 

とは言え、長時間は無理だ。

 

「何かあったら電話をして」

 

すぐに手にすることができるよう、プールサイドに携帯電話を置いた。

 

これまでも、長時間家を空けることのないようにしていたが、今日だけは外せない用事があったのだ。

 

「電話があった時は、すっ飛んで帰ってくるから」

 

「ちえっちえっ!」

 

舌打ちするチャンミンに唇を覆いかぶせる。

 

「いつでもチャンミンのことを考えているからな」

 

少しだけ機嫌を直したチャンミンの額にもキスをして、手を握ってぶんぶんと上下に振った。

 

「じゃあな」

 

チャンミンはあやふやな笑顔を見せて、手を振った。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

僕の全てはユノ。

 

ユノの全部が大好き。

 

ユノの側にいることが大好き。

 

僕のために何でもしてくれた。

 

ユノの眼差しから、僕への愛がほとばしる。

 

僕を海から遠ざけ、高い塀に囲まれたプールに閉じ込められている。

 

そんなことないんだ。

 

高い塀は、ユノ以外の人間の目から僕を隠すため。

 

週に一度は海に連れて行ってくれたし、この前は水槽付きの車に乗って、ピクニックに連れて行ってくれた。

 

水の匂いがするのは、近くに大きな川が流れているからだ。

 

この川は大海へと繋がっている。

 

僕は生まれて初めて草地に足をつけた。

 

足をつけて...僕に当てはまらない言葉だね...僕には足がない。

 

だって、僕は人魚。

 

哀しいけれど、これが現実だ。

 

ごろんと寝っ転がると、真っ青な空。

 

綿菓子のような空が透けて見える雲が、ゆっくりと流れている。

 

海の波間から頭を出して見上げる空と、どこか違う。

 

陸地の空はもっと、色が薄くて優しい色をしている。

 

塩気のある湿った匂いじゃなく、甘くて透明な香りがする。

 

ユノも僕の隣に同じように横たわった。

 

しばらく無言のまま、空を見上げていた。

 

柔らかな若草が僕のうろこをしっとりと湿らしてくれる。

 

この世界には薔薇色の雲があるという。

 

海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。

 

僕にとっての薔薇色は、ユノの唇だけだ。

 

傍らに咲いた花を摘み、ユノの耳を飾った。

 

ユノは僕の方を向いて、僕をとろとろに溶かしてくれる唇をほころばせた。

 

優しい笑顔。

 

完璧な横顔。

 

ユノは僕だけの人。

 

美しい美しい人間の男だ。

 

 

 

 

僕は昨夜のことを思い出して、にんまりしていた。

 

僕とユノは水の中で交わった。

 

ユノの足首をふざけてつかんで、プールの中に引きずり落した。

 

プールの底に沈んだユノを抱えて浮上し、彼に酸素を与える。

 

「俺を殺す気か!?」

 

ユノは怒鳴って、僕をぎりりと睨みつけた。

 

僕はユノの首にしがみつき、「ごめんね」といっぱい謝って、いっぱいキスをした。

 

仕方がないなぁと苦笑したユノは、何度目かのキスにキスで応えてくれる。

 

ユノの洋服を脱がす。

 

全裸になったユノの白い身体が、プール底に仕込まれたライトに照らされる。

 

水中に2人して沈む。

 

息を止めるユノ、口や鼻から泡が次々とこぼれる。

 

ユノの目には僕の姿はぼやけて映っているだろう。

 

僕の目には、ユノのまつ毛1本1本、小さな傷跡まで全部クリアに映っているというのに。

 

ユノの逞しい腕に腰を引き寄せられた。

 

僕はユノの頭の上まで持ち上げられ、胸先を舌で愛撫される。

 

舌で転がされ、きつく柔く吸われ、甘噛みされる。

 

僕のそこは熱く潤っている。

 

ユノを受け入れて、僕の腰がびくびくと震えた。

 

僕の尾びれが水面を叩き、水しぶきが上がる。

 

ゆさゆさと上下に揺さぶられて、不規則な間隔で水紋ができる。

 

快感でのけぞり、水中に沈んでしまった僕を引き上げようと、ユノの腕が伸ばされる。

 

僕は全然平気なのに、毎回ユノは大慌てするのだ。

 

交わる度に、僕らは涙を流す。

 

幸せと切なさの交じり合った涙を。

 

ユノも僕と一緒に、水の中で暮らせるようになればいいのに。

 

ユノの努力は認めるけれど...認めるけれどね。

 

僕ばっかりずるい。

 

僕ばっかり窮屈な思いをしている。

 

そんな僕の心の奥底に潜む醜い感情が、たまに水面から顔を出すのだ。

 

愛情の究極の徴が欲しかった。

 

 

(中編につづく)

 

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ねえ人魚、そばにいて

 

 

上の写真は、俺の恋人が撮ったものだ。

 

組んだ腕を枕に、デッキに寝っ転がっていたから、刻々と形を変える雲でも眺めているのかと思った。

 

全く、いつの間にシャッターを切ったのやら。

 

「そろそろ行ってくるね」

 

と俺に声をかけると、パシャーンと水しぶきを上げて飛び込んで、「おーい!」と波間から手を振った。

 

恋人はまさに水を得た魚のように、はしゃいでいる。

 

ボートに並走して泳いでいたかと思うと、潜水する。

 

心配になるほど潜水していたかと思うと、反対側にひょこっと顔を出す。

 

恋人が水中に姿を消すたび、俺の胸がギュッと苦しくなる。

 

このまま帰ってこないのかもしれない、って。

 

「おーい」と呼び声に、タラップをよじ登ろうとする恋人に手を貸す。

 

よかった、戻ってきた。

 

30分ほど泳ぎを楽しむと、デッキに上がって空を眺めたり、

 

俺とおしゃべりしたり、

 

お弁当を食べたり、

 

歌を歌ったり(俺よりずっと上手い)

 

「海に来るたび、俺は不安になる。

お前が海に帰ってしまうのではないかって」

 

不安な気持ちをこぼすと、恋人はハハッと笑って俺の口をふさぐんだ。

 

そのままいい雰囲気になって、デッキの上でいちゃいちゃしたり。

 

そして、「潤してくる」と言って、海に飛び込んだ。

 

「心配するなー!

ユノの側から離れないって決めてるんだから!」

 

デッキのヘリから波間を見下ろすと、らっこのようにぷかぷか水面に揺れている。

 

俺の愛しい人魚は、両手でハートのマークを作ってみせた。

 

俺たちのデートはこんな感じ。

 

月に一度は、恋人をボートに乗せて海遊びを楽しむ。

 

一緒に遊園地へ行くことも、ショッピングをすることも、登山もできない。

 

できないことがあまりに多すぎる。

 

だから、俺たちが一緒にできる事柄を、ひとつずつ増やしているところなんだ。

 

そこで恋人のために、自宅の庭にプールを作った。

 

すいすいと気持ちよさそうに泳ぐ恋人の側で、俺は読書をする。

 

プールに飛び込んで、恋人といちゃいちゃする。

 

(人魚とどうやって愛し合うのかについては、俺たちだけの内緒ごと。想像にお任せするよ)

 

夜はプールサイドに敷いたマットで俺は眠る。

 

俺が寝坊しそうな朝は、尾びれで水面を叩いた水しぶきを浴びせて起こしてくれた。

 

寝ている俺をマットごとプールに引きずりこむという、度が過ぎた悪戯をした朝があった。

 

溺れかけた俺は、当然ながらめちゃくちゃ腹を立て、寝室のベッドで3日間眠って、口もきかなかった。

 

4日目の早朝、プールの縁に腰掛けた恋人の、寂しそうな哀しそうな背中を見た時。

 

(この人を守れるのは、俺だけだったんだ)

 

裸足で庭へ下りると、恋人の濡れた背中を抱きしめた。

 

(この人には、俺しかいないんだった)

 

海からここまで連れてきたのは、俺の方だったのに。

 

いっぱい謝った。

 

俺の首からぶら下がる、瑠璃色の半透明の欠片は、愛しい人魚の美しい鱗の一片。

 

雨の日や寒い季節には、そばで眠れなくて困った。

 

そこで、地下に屋内プールを作った。

 

これで全天候OK。

 

お次は鮮魚を運搬するようなタンク付きトラックを購入しようかと、俺は真剣に悩んでいる。

 

そうすれば、もっと遠くへ出かけられるから。

 

人魚の恋人でいるのは、こんな具合に大変だけど、俺は彼のことを海底3000メートルより深く愛しているから、全然苦じゃない。

 

恋人がボートで撮ってくれたこの写真を、しばらく眺めていた。

 

視線を横にやると、俺の美しい人魚がプールサイドで昼寝をしている。

 

水から上がっていられる時間を伸ばすための、訓練なんだそうだ。

 

おっと、そろそろプールに入る時間だ。

 

起こしてあげないと。

 

この人はうっかり屋だから、放っておくと日干し人魚になりかねないからね。

 

ねえチャンミン、そばにいて。

 

俺はずっとお前を守るから。

 

 

 

(おしまい)

 

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(61)虹色★病棟

 

 

とろとろうたた寝しかけたところ、ベッドから跳ね起きた。

 

時間が勿体なかったからだ。

 

食堂の窓の前で佇むユノと合流した。

 

明日からという予報が外れ、既に雨が降り始めていた。

 

嵌め殺しの窓ガラスは白く曇っていて、くっつけた鼻先が水滴で濡れた。

気温が低いようだ。

 

真っ赤な夕日と雨の組み合わせが、嘘みたいな景色で、不気味だった。

 

ユノから「中庭に行こう」と誘われた。

 

「今から!?

雨だよ?」

 

「夕飯まで1時間ある。

確認したいことがあるんだ」

 

そういえば、出口についてあてがあるとユノは話していた。

 

あらかじめ、この目で確かめておきたかった。

 

ワンピースを着るのは止めた。

 

雨に濡らしたくないし、いわくつきのアイテムになってしまったし、Tシャツ、パンツ姿の方が似合うとユノは言ってくれていたし。

 

 

白茶けていた荒野は雨水を吸い込み、辺りは濡れた土の匂いに満ちていた。

 

雨は温室のガラスの屋根にさざ波を作り、流れ落ちるとざーざーと大きな音を立てて地面を叩いている。

 

降り始めから1時間も経たないのに、排水処理が不十分な中庭には、あちこちと大きな水たまりが出来ていた。

 

温室のレンガ敷の地面は水平ではなく、沈下したレンガの箇所が凹みの溝を作って、外から流れ込んだ雨水の小川となっていた。

 

その雨水はラムネの鳥籠を乗せたテーブルの下へと流れ込んでいた。

 

ガラス板を叩く雨音で、声をはらないと互いの声が聞こえない。

 

ユノが籠の中に指を差し入れると、ぴょんとラムネが飛び乗った。

 

ガラス張りのここは夕暮れ時の雨に閉じ込められ、ラムネのラムネ色の羽は青白く、内側から発光しているみたいに見えた。

 

 

 

「美味しいものがあげる」と、僕は朝食で出された白パンをちぎってやった。

 

柔らかなパン生地を食むくちばしは、すりガラスのように半透明の薄ピンク色だ。

 

「ユノ、何を考えているの?

わざわざここまで誘っておいて」

 

ユノは人差し指にラムネを止まらせたまま、温室の中をぐるりと一周した。

 

「出口のあてはここだ」

 

ユノは靴を踏みならした。

 

「ここ?」

 

僕はかがんで、レンガ敷の地面を踏み鳴らすユノの足元をのぞきこんだ。

 

「テーブルの下のところ...水が流れ込んでいるだろ。

不自然にそこだけ凹んでる」

 

「どうして分かったの?」

 

「多くの人の目に触れるところではないと思うんだ。

滅多に人が来なくて、注意を払う人も少ない所とはどこだろう?って。

LOST側が提供している脱出口だから、見つけるのが困難過ぎても困る。

実際に成功している者が何人もいる。

...そこのレンガ、外せる?」

 

手を汚したくないユノは、僕に命令する。

 

「ええ~~」

 

温室の壁と地面との境界にあたりにどうどうと水が流れ込み、レンガが沈みこんで小池になっていた。

 

「んんっ...何か道具がないと、難しそう」

 

レンガとレンガの隙間は狭く、指が入らなかった。

 

泥で汚れた手をお尻で拭く僕に、ユノは嫌そうな表情だ。

 

「あのさぁ、そんなんで、脱走劇を演じられるワケ?

絶対にドロドロになるよ。

ユノに出来るわけ?」

 

と脅したら、

 

「愛の為なら俺は何でもする」と、くさい台詞を吐くのだ。

 

「俺はチャンミンと一緒にいたいんだ。

お前が好きだ。

大好きなんだ」

 

言い切るユノに僕は感動のあまり、無言になる。

 

そろりとユノの胸にすり寄って、背中に腕をまわした。

 

「僕も...大好き」

 

「ふふふ、ありがと。

チャンミンもあてはついているんだろ?

あそこだろ?」

 

「多分...。

でもそうなると、あそこと温室のここと出口が2か所になっちゃんだよね。

変じゃないかな?」

 

「第一段階はLOSTの建物から出ること。

第二段階は、LOSTの敷地から出ること。

ひとつの出口が一本で繋がっていれば最高なんだけど、2段構えじゃないかと俺は予想している」

 

「明日、うまく開くか試してみようか?」

 

「ああ、予行演習しよう」

 

 

 

夕飯後、スタッフに話があると呼ばれた。

 

退所手続きの件かな?と思っていたところ、告げられたのは甚だ都合が悪い内容だった。

 

「ユノ、どうしよう...」

 

泣きべそ顔の僕に、「どうした?」と声をかけたユノはゴーグル、マスク、手袋、ガウン、と完全防備姿だった。

 

ユノは動揺する僕を自室に連れてゆき、並んでベッドに腰掛けた。

 

「何か言われたのか?」

 

「退所日が...」

 

「退所日!?

取り消されたのか?」

 

僕は首を振った。

 

「1日早まったんだ。

退所日が明日になった」

 

「...明日だって...!?」

 

脱出決行は退所日当日の午前3時を予定していた。

 

「ふむ...」

 

ユノはゴーグルを外すと、指にバンドを引っかけてくるくる回した。

 

ユノは僕の腕をひき、膝の上に僕を跨らせた。

 

「チャンミンの退所が中止になろうと延期になろうと、俺たちがここを出る計画は変わらない。

あんな真実を知ってしまって、チャンミンの中に躊躇する気持ちが出来たんじゃないのか?」

 

「そんなの...ない。

ないよ!」

 

さっきは反射的にユノを酷く責めてしまった。

 

でもあの反応は、衝撃の事実を知ってしまったときの...一般的だと言われている反応をなぞられたものだった。

 

僕の中で湧き上がった怒りのようなものは、ユノに対するものではなかった。

 

それは、僕とユノとの仲を邪魔するかもしれないあの事実に対してだった。

 

恐怖に近かった。

 

「ねえ、ユノ。

『彼』のことで...ユノには僕らのこれからを見失って欲しくないんだ」

 

「見失うものか。

立ち直るまでに3年かかったチャンミンに比べて、俺なんか1か月も経たないうちにお前に惹かれていた。

すごくないか?

すごいだろ?

チャンミンのことがどれだけ好きか...これで分かってくれないかなぁ?」

 

「うん、分かってる。

僕だって3年も引きずっていたのに、ユノと出逢った途端吹っ切れた。

すごいよね?」

 

ユノの両手は柔らかさを楽しむように、ふにふにと僕のお尻を揉んでいた。

 

吸い寄せられるように唇同士が重ね合い、柔らかく湿った舌の感触を楽しんだ。

 

「続きは外で」

 

「今夜決行だ。

ぶっつけ本番だけどな」

 

「何とかなるでしょう」

 

万が一スタッフと鉢合わせになった時の為に、パジャマ姿で脱走し、途中で着替えることにした。

(ユノは大荷物になりそうだ)

 

荷造りする僕の様子を眺めていたユノは、トレーナーを取り出そうとクローゼットを開けた僕を、鋭い口調で止めた。

 

「それは置いていけ!」

 

「え...?」

 

ユノは僕の指が触れたもの...ワンピースを鋭い眼光で睨みつけていた。

 

「それは置いていって欲しい。

ここを出たらいくらでも買ってやるから。

全部置いてゆけ」

 

「...ユノ」

 

「『彼』の形見なんて置いてゆけ!

 

俺たちのこれからを、『彼』に支配されたくない。

これ以上何も、失いたくないんだ」

 

僕は頷いて、クローゼットのドアを閉めた。

 

ユノの言葉が嬉しすぎて、すん、と鼻を鳴らしていると、「俺の為にありがとう」と彼は優しく微笑んだ。

 

 

(つづく)

 

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(60)虹色★病棟

 

 

「殴っていい」

 

ユノは僕の上から下りると、両手をだらりと落とし、頬をさしだすように顎をあげた。

 

「チャンミン...俺を責めていい。

まさかチャンミンだったとは...知らなかった...知らなかったとはいえ。

チャンミンの婚約者を、実は俺が奪っていた。

俺を許せなくて当然だ」

 

「......」

 

「今さら『彼』を非難することはできないから...。

彼はもう...」

 

「...あ...!」

 

数カ月前にこの世を去った...。

 

ボロボロになって入所してきたユノを思い出した。

 

...そういうことか。

 

『彼』...僕の元婚約者であり、かつユノの結婚相手...はもう、この世にはいないことを。

 

『彼』は婚約までした僕を苦しめ、結婚までしたユノを悲しませて去っていった。

「そもそも、恋人がいる男を好きになった俺が悪い。

まさか、その恋人ってのがチャンミンだったとは...。

許せなくて当然だ。

な、チャンミン?」

 

「...殴れるかよ」

 

僕はぷい、と顔を背けた。

 

窓の向こうは真っ赤な空で、明日は予報通り雨が降るだろう。

 

僕は伏せていた身体を起こし、座り直してユノと対面した。

 

「許せない気持ちは分かるけど、俺はこれ以上謝らないことにした」

 

「は?」

 

ユノの意外過ぎる発言に、僕は理解が追い付かなかった。

 

「今から俺は都合のよいことを言うぞ」

 

「?」

 

「今彼の前彼と俺の前彼が同一人物だった。

『彼』は俺たちの間を通り過ぎていったんだ。

たまたま俺たちは同じ男を好きになっただけだ。

彼が縁を作った...そう思えないか?」

 

苦し気に顔をゆがめたユノと目を合わせた。

 

その目は真っ赤だった。

 

「...確かにその通りだけど」

 

「この先ずっと、詫びをいれ続ける関係にはしたくないし、チャンミンも辛いだろう?」

 

「まあ...そうだけど。

でもそれってさ、とんでもないネタが上がったのに、僕らは変わらず一緒にいる前提の話でしょ?」

 

「チャンミンは、俺から離れたくなったのか?

愛していた前カレを奪ったのは今カレだって知って、嫌になったか?」

 

ユノは僕から目を離さない。

 

ベッドをきしませさらに僕に近づくと、手袋をはめていない指が僕の頬に触れた。

 

このように、ユノが素手で僕に触れてくれることが、もはや当たり前の関係に進展していた。

 

ユノは潔癖症。

 

彼の変化に、喜びのあまり打ち震えた時のことを思い出せ。

 

前カレ、元婚約者、同棲相手、出て行った恋人、結婚したカレ、亡くなった彼...。

 

ユノの指は震えてもおらず、興奮のあまり熱くなっていた僕の頬に、ほんのり冷たかった。

 

「嫌に...なっていないかも。

ビックリしただけ...なのかも」

 

「俺もビックリした。

世の中の狭さに、怖くなった。

まさかまさかのまさかだよ」

 

「そして、『彼』はもうこの世にはいない。

...ユノ。

彼と暮らしていた時、彼は幸せそうだった?」

 

「...え?」

 

「以前は、僕を捨てた罪で不幸になればいい、と思っていた。

僕の息の根を止めんばかりに苦しめた張本人だから。

でもさ。

彼ばかり責めていたけれど、僕にも絶対落ち度はあるんだ。

僕じゃ物足りなかったり、僕が嫌になったから去っていったんだ。

僕なんかよりユノがいいと思ったから去っていった」

 

まぶたの奥がぐっと熱くなり、ぷっくりと涙が膨らんだ。

 

僕が失ったのは、彼という肉体と婚約という約束、築いた思い出と、未来への期待...そして僕自身の自信だ。

 

「...チャンミン...馬鹿。

そんなんじゃねえよ」

 

目尻の窪みに蓄えきれなくなった涙が、すっと顎まで流れ落ちた。

 

「本音を聞きたくても、『彼』はもういない。

あーでもないこーでもないと答えを探って、『彼』を責めたり、自信を無くすことしかできない。

そんなの嫌だよ。

LOSTに入学し直さなきゃいけなくなる」

 

「......」

 

「でもね、『謝らない』ってユノの言葉を聞いて、違う思いが湧いてきたんだ。

ユノと居て...『彼』は幸せだっただろうなぁ、って思った」

 

「チャンミンは聖母様だな。

逆の立場だったら、チャンミンをボコボコにしていたかも」

 

「ええっ!?」

 

「冗談。

今の俺は、チャンミンが大事だから。

『彼』は...そうだなぁ...楽しそうだったよ。

チャンミンをほっぽりだしてきたんだから、負い目を抱き続けていただろうね。

俺もそうだ。

チャンミンから彼を引き離した張本人なんだから。

以前、『許されない関係』と言ったわけは、それなんだ」

 

さよならも言わずに去っていった行為が許せなかったけれど、さよならを告げにくい重さが、僕にあったのだろう。

 

「僕、自分の心を調べてみたんだ。

今の僕にはどす黒い喪失の小箱はもう存在しない。

だから、今の新発見には驚いたし腹が立ったけど、冷静になってみると、さほどのショックは受けていないみたいだ。

ユノばかり責めてしまってゴメン。

ユノにしてみても、結婚相手の前彼が僕だったなんて...ビックリ仰天だよね」

 

「ああ」

 

「過去は過大評価しがちと言うよね?

彼との過去を軽んじるつもりはないけれど、僕の中ではもう、彼は卒業したんだ。

ひとりの男をを2人の男が奪い合ってるって話、世の中にはよくある話じゃないか」

 

「う~ん、ありがちパターンだけど、俺たちはライバルが誰なのか認識していなかったからなぁ。

ん?

チャンミン、眠いのか?」

 

さっきからあくびが止まらない。

 

「とろとろの目をしているぞ。

疲れが出たんだな。

チャンミンは俺のために、話を聞いてくれたり、脳ミソ使って計画を立てたり、よく頑張ってる。

夕飯まで休んでいろ」

 

「でも...出口を探さなきゃ」

 

「明日明後日と2日あるんだ。

...それらしいところを見つけたかもしれないんだ」

 

「ホントに!?」

 

「明日、確認しに行こう。

ほら、寝ろ寝ろ」

 

ユノは僕の胸を押し無理やり寝かすと、毛布を肩にかけてくれた。

 

おでこにキス、というオマケもくれた。

 

部屋を出かけたユノが振り返った。

 

「俺たち一緒に、ここを出るんだよな?

ここにひとりで残されたくない」

 

「もちろん」

 

僕にとって、ユノの夫は顔無しの存在だった。

 

それは、ユノも同様だったろう。

 

ふわっとした存在だった僕らの『彼』が、質量を持つ亡霊となった。

 

僕らはきっとこの先、『彼』の亡霊に苦しみ続けると思う。

 

無いモノの存在感は、有るものよりも強烈だ。

 

でも...僕は思うのだ。

 

失った恋よりも、これからの恋の方が強烈だと証明したい。

 

いつか、ユノが言ったように、僕らの縁を結んでくれたと思えるようになれたらいいな、と思った。

 

 

 

(つづく)

 

 

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