(59)虹色★病棟

 

 

ユノはいつものベンチに腰掛けていた。

 

僕は中庭を見渡して、誰もいないことを確認した。

 

わくわくとはやる胸をおさえ、後ろから近づいて、ポン、と肩を叩くと、ユノは「わっ」と分かりやすく飛び上がった。

 

「びっくりした?」

 

「ふざけんなよ~」とユノは振り返り、弾ける笑顔でジョークのこぶしを振り上げた。

 

「チャ...っ」

 

僕の姿を認めたユノの目が、大きく見開かれた。

 

信じられないものを目にしてしまった...といった風に。

 

「お前っ...そのワンピース...」

 

ユノは立ち上がり、ベンチを回りこんで僕の正面に立った。

 

「...どうしてお前が着てるんだよ?」

 

僕の両肩をつかんで、前後に揺すったのだ。

 

「?」

 

何に驚いているのか、ユノの行動が理解できない。

 

「これ?

え?

どうしてって...ワンピースなんて、いつも着てるじゃん」

 

ワンピースなんて何度も着ているのに、今日に限ってどうして駄目なのか?

 

豹変してしまったユノを前にして、心の内はどんどん冷え込んでいった。

 

僕は大きな間違いを犯したらしい。

 

それが何なのか、分からない。

 

「......」

 

「変なの?

似合わないってこと?

言ってる意味が分かんないよ」

 

ユノは顔を両手で覆い、この場にしゃがみこんでしまった。

 

「...ユノ!?」

 

ポケットに突っ込んでいた手袋とゴーグルが地面に落ちた。

 

ガウンの裾が地面を擦っていることに、ユノは気づいていない。

 

「僕の方こそ『どうして?』と聞きたいよ」

 

色がダメなのかな、と思った。

 

ユノには赤以外にもNGの色があるのだろう、と。

 

「このワンピースが気に入らないのなら、着替えてくるよ」

 

きびすを返す僕の手首は、ユノの力強い手で捉えられた。

 

「...ユノ...?」

 

手首にくいこんだユノの指が痛い。

 

「チャンミンは3年前にLOSTに来たんだよな?」

 

「うん。

元婚約者にフラれたのが3年前だ」

 

「それ...チャンミンが着ているそれ...」

 

ユノの声は掠れていた。

 

「マジかよ...」

 

顔を覆っていた両手がするすると落とされ、ユノは涙目で僕を見上げた。

 

「チャンミンのそれ...そのワンピース。

俺...知ってる」

 

「え...?」

 

「後ろのリボンも、ブローチも...俺、知ってる」

 

「...どういう...こと?」

 

「これを『知っている』ことの、何が問題なの?

お店で見たってこと?

それとも、誰かが着ていたとか?」

 

「ああ」

 

ユノは立ち上がり、僕から顔を背けて言った。

 

「チャンミンがどうしてそれを持っているんだよ...?」

 

「ユノも知ってるでしょう?

僕が着ているワンピースは元婚約者の形見みたいなものだって。

過去を引きずっている意味じゃなくて、気に入っているから着ているんだ。

綺麗な色だし、まだ新しいし、LOSTでの最後のデートに...中庭だけど...着たかったから...」

 

「熊のブローチ...俺が贈ったものだ」

 

「...え...?」

 

ユノが言いたいことの意味が分かりかけてきた。

 

「俺の夫となった『彼』が着ていた」

 

「......」

 

僕から婚約者を奪ったのは、ユノだった。

 

僕の元を出て行った婚約者と、ユノが結婚した人物は同一だった。

 

 

「チャンミン。

ドアを開けろ!」

 

ユノは僕の部屋のドアを叩いている。

 

「うるさい!

あっち行け!」

 

僕はもぐり込んだ布団の中から叫んだ。

 

部屋のドアには鍵はないため、本人の同意なく部屋に入ることは容易なことだ。

 

「入るぞ」

 

強引に入室してきたユノに、枕を投げつけた。

 

「裏切者!

僕の恋人を奪ったのはユノだったんだね?

彼には付き合っている人がいると知ってたくせに...!

僕から...僕から...彼を盗ったんだ!」

 

「俺の話を聞いてくれ」

 

「うるさい!」

 

僕は叫び、布団にもぐり込んだけれど、ユノによって引きはがされてしまった。

 

「...っ...!」

 

僕の背中にユノがのしかかる。

 

「...っもい!

重い!」

 

僕は暴れた。

 

「俺の話を聞いて欲しい。

彼には恋人がいることを知っていたから、ほとんどの期間は俺の片想いだった。

出逢ってすぐの頃、婚約指輪を贈るタイミングについて彼から相談を受けていた」

 

ユノは背後から頬と頬を合わせ、僕の耳元で語り始めた。

 

耳を塞ごうにも、ユノにのしかかられて身動きがとれなかった。

 

「恋人同士になるまで、2年近くかかったよ。

俺とチャンミンと同時進行の期間も確かにあった。

彼は罪悪感に苦しんでいた」

 

「僕を騙していたな...!」

 

ユノは僕を騙してなどいないことくらい分かっている。

 

僕をLOST送りにしたのは、元婚約者の裏切りであり、僕を裏切らなければならない種を作ったのはユノだった。

 

「『彼』は婚約者...チャンミン...の元を離れるとき、俺の気配がするものは全部持ちだしたと言っていた。

ただ、ブローチを付けたワンピースだけは見つからなかったと言っていた。

クローゼットに吊るしていたはずなのに、と」

 

身に覚えがあった。

 

自慰行為で汚してしまったワンピースをクリーニングに預けていた。

 

「婚約者と別れると告げられた時...彼はそれを着ていた。

女ものの服を着て現れた、初めての日だった。

そして、婚約者と同棲していたマンションまで初めて送っていった日だった。

シルバー色の車は俺のものだ」

 

カラフルな食卓と共に記憶がよみがえり、僕の脳裏で瞬いた。

 

マンションの正面玄関にシルバー色のスポーツカーが横付けされた。

 

元婚約者は運転席の男とキスをしていた。

 

あの日僕はベランダから、風に揺れるバナナ色のワンピースを見下ろしていたのだ。

 

 

 

 

「チャンミン...すまない」

 

僕は頭を下げるユノから顔を背けた。

 

ショックだった。

 

ショックだったけれど...。

 

あれ...?

 

...果たして僕は怒っているのか?

 

ユノに裏切られたと思っているのか?

 

自分の心をスキャンした。

 

傷心から解放され、喪失感を克服できたと余裕ぶっていたのに、今この時、無くしてしなった恋への執着心と胸の痛みが再び蘇ってきた。

 

ところが、その苦痛をおさめる心の小箱は無くなってしまっている。

 

僕を裏切ったのは元婚約者であり、ユノではない。

 

 

(つづく)

 

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(57)虹色★病棟

 

 

ユノは枕元の僕に気づくと、包帯を巻かれた僕の手を触れるか触れないかのタッチで撫ぜた。

 

「痛むか?」

 

「平気」

 

分厚く巻かれた包帯のせいで仰々しいけれど、縫う必要のない切り傷だった。

 

消毒薬の匂いがほのかにする包帯は真っ白で、血液の付着したパジャマは只今、洗濯中だ。

 

「無様なところ見せてしまった」

 

ユノは語り始めた。

 

 

 

 

 

「俺は身なりも住まいもすげぇ汚い子供だった。

 

父親と2人で暮らしていたマンションの部屋は文字通りゴミ溜めで、足の踏み場もないほど散らかっていた。

 

これが普通だと思ってた。

 

父親は超仕事人間でほとんどマンションに帰ってこなかった。

 

高給取りのくせに、テレビの故障に何年も気付かないくらい、家族と衣食住に無頓着だった。

 

俺...なに食って生きてたんだろうな。

 

こうやって今生きてるってことは、インスタントなもので命を繋いでいたんだろうね。

 

当時も今も、食べているものは変わりがないってことさ。

 

俺の母親が早々と、父親から離れていっても仕方がない。

 

保育園も幼稚園も行ったことがなかった。

 

集団生活デビューが小学校で、入学式は欠席...父親は万年仕事だから。

 

これでスムーズに友人ができるはずもない。

 

社会性が著しく低く育ったせいで、比較しようにもよその家がどんなだかも知らなかった。

 

俺は綺麗にすることの知恵も甲斐性もない、小さな子供だった。

 

今思えば、学校に通っていたことが奇跡だよな。

 

以前話しただろ?

 

ひとりの女子が、俺の口に手を触れてしまった件のことを。

 

その手をすげぇ不潔がってて、俺はショックを受けたって話。

 

その時、『あ、俺って臭いんだ、汚いんだ』って初めて自覚した。

 

俺は正真正銘の薄汚い子供だったから、その子の反応は特別なものじゃないのに、いざ目の当たりにするとショックを受ける。

 

こんなささいなことが、最初の傷になる。

 

ガラス板に打たれた小さな楔。

 

薄汚い成りをしている自覚ができてからは、こそこそっと生きていた。

 

周囲の言葉や仕草に対して過敏になっていった。

 

どれだけ気を付けていても、『汚い』と眉をひそめられることはある。

 

誰だってあることだろうけど、幼い俺は『俺だけが汚い』と思い込んでしまったんだなぁ。

 

その度に、心に打たれた楔から放射線状にヒビが広がっていった」

 

 

「親が潔癖だったって言ってなかったけ?」

 

 

「それは父親の再婚相手で、俺の二番目の母さんになった人がそうだったんだ。

 

超が付く清潔好きな人だ。

 

汚と清がどういう縁でくっついたのかは謎だ。

 

汚い俺を見て二番目の母さんは、ゾッとしたのだろう。

 

俺を全身丸洗いする勢いで、ピカピカに洗浄した。

 

二番目の母さんに倣って、清潔にする作業手順を身に付けた。

 

これが当たり前の行為だと、俺は刷り込まれた。

 

俺は素直だったんだ。

 

床も壁も白、家具は全て洒落た白い家具まとめられていた。

 

父親の再婚で新しい弟もできた。

 

二番目の母親の連れ子だ。

 

母親によく似て、彼は超が付く清潔好きだった...清潔好きにならざるを得なかったんだろうね。

 

だから、彼女は肘や膝を垢で真っ黒にさせた継子が、息子に近づくことを好まなかった。

 

じわりじわりと俺は傷ついていった。

 

彼らは『清潔好き』であって、強迫観念からくる『潔癖症』とは違う...これが但し書きだ」

 

 

「......」

 

 

「極めつけは鼻血だ。

 

これが決定的だったな。

 

新しい弟に『臭い』と言われたんだ。

 

発言にムカついた俺は、彼に飛びかかった。

 

彼にしてみたら、汚い雑巾を投げつけられた思いだったんだろう。

 

俺は彼から渾身の蹴りを受け、勢いでコーヒーテーブルに顔を打ちつけた。

 

真っ白なラグだった。

 

俺の鼻血で赤く汚れていった。

 

 

俺を心配する前に、二番目の母親はラグの汚れに悲鳴をあげた。

 

その日、久しぶりに早く帰宅していた父親は、こう言った。

 

『汚いな。

今すぐ顔を洗ってこい』

 

ラグは捨てられた。

 

かつて学校の教室で打たれた楔から、数年かけて広がっていったヒビ。

 

ラグを真っ赤な血で汚した事件の一打で、俺のガラスは粉々に砕けた」

 

 

僕は反射的に部屋のドアを見た。

 

 

「ねぇ、ユノ。

僕の血を見て、『汚い』と思った?」

 

「いいや。

床にぽたぽた垂れるとこが怖かった。

根深いものだから、そうそう簡単には克服できないだろうね」

 

「そのままでいいよ。

赤いものは塗り替えればいいし、僕も怪我をしなければいい」

 

「チャンミンはやっぱり優しいね」

 

ユノは布団から手を伸ばすと、僕の頭を撫ぜた。

 

「迷惑かけついでに、チャンミンの助言が欲しいんだけど?

LOSTを出る前に解決したいことがある」

 

「いいよ」

 

 

ユノはベッドから出ると、クローゼットからスーツケースを引きずり出した。

 

留め具を外して蓋を開けると、バスタオルに包まれた段ボール箱が収まっていた。

 

「結婚指輪?」

 

「ああ」

 

ずっと以前に、ユノから一組の結婚指輪を見せてもらっていた。

 

段ボール箱を開けるとひと回り小さい段ボール箱があった。

 

「手元に置き続けるべきなのか、手放すべきなのか分からなくて...。

迷っているのではなくて、分からないんだ。

気持ちの答えは出ているんだけどさ、こういう実体のやり場が分からない。

で、チャンミンと一緒に考えようと思ったわけさ」

 

「おっけ」

 

段ボール箱を開けるとタオルにくるまれたポーチがあり、その中にお菓子の空き缶があった。

 

さらに空き缶を開けると、ビニール製のジッパー袋に入れられたガラス瓶があった。

 

その中に2つの指輪があるはず...だった。

 

ガラス瓶の中は空っぽだった。

 

 

「無くなってる...」

 

僕らの周りでは、魔法じみた非現実的なことが起きている。

 

婚約指輪が喉を滑り落ちる感触を、僕ははっきりと覚えていた。

 

ユノからの『チャンミンの中から指輪は消えた』の呪文に、飲み込んでしまった婚約指輪は姿を消した。

 

ユノ曰く、小箱の鍵とは婚約指輪と同意なんだそうだ。

 

「なるほどね」

 

ユノは小瓶を窓からの日差しにかざした。

 

壁にちらちらと、小瓶を通り抜けた光が揺れていた。

 

見事なまでに空っぽだった。

 

「指輪を手元に置き続けているのは、感情のやり場を保つためだと、と話したと思う。

でも...指輪という実体がなくても、今の俺の気持ちはしゃんとしている」

 

「もしかして...。

最初から指輪なんて無かったりして」

 

「そうかもね」

 

僕はユノの背中を抱きしめた。

 

 

(つづく)

 

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(56)虹色★病棟

 

 

僕はユノを説得にかかる。

 

「わざわざ逃げ出さなくても、チャンミンはもうすぐ退所じゃないか?」

 

『ここを脱出しよう』発言に、ユノは信じられない、といった表情だ。

 

「ユノを置いてゆきたくない。

外の世界に出られた僕は、ユノがいつ退所できるか表門の前で待ち続けるなんて嫌だよ。

いつになるか分かんないんだよ?」

 

「俺はもう回復したと思うんだけど?

だから、LOST側も遅かれ早かれ出してくれるんじゃないかな?」

 

「甘いなぁ。

半年も経たずに、大手を振るってここを出た入所者はいない。

脱出した人を除いて、ね」

 

「脱出した人がいるのか!?

ここを?」

 

僕は大きく頷いた。

 

「逃亡したってことか?」

 

「ここに入る時、契約書にサインしたはずだよ。

本人の要望では出ることはできません、って」

 

「そうだったっけ?

あの頃は頭がパーになってたから、覚えてないなぁ」

 

「許可されて退所していくか、ここから脱走するか、どちらしかないよ。

『ここから出して下さい』『はい、どうぞ』はないワケ」

 

ユノは腕を組み、「う~ん」と唸っていた。

 

「それならば、脱走するしかないな。

俺がチャンミンの後を追ってここを抜け出すから、待ってろ」

 

「無理無理。

ユノは新入りだからLOSTについてまだ詳しくないだろ?

僕が退所した後、1人で脱走作戦を実行させるには心もとないんだ」

 

首も手も大振りしてみせると、ユノはムッとしたようだった。

 

「俺ってそんなに頼りない?」

 

「先輩の話は聞くものだよ。

僕ら2人、協力し合えば絶対に、ここを出られるよ。

ここを出たら...」

 

「俺はさ、面倒な目に遭いたくないから渋っているんじゃないんだ。

もし脱走が失敗した時、チャンミンの退所日が延期になったりしてさ。

チャンミンに迷惑がかけることが嫌なんだよ」

 

「刑期をまっとうする前に脱獄。

とっつかまって、刑期が延びる...ぷぷっ。

僕らは監獄に入れられているんじゃないんだよ」

 

「ははは、そうだね。

ここはただ、『元』閉鎖病棟なだけ。

...わかった。

俺も覚悟がついた」

 

ユノの両腕に捕まって、唇も塞がれた。

 

「俺もチャンミンとここを出る」

 

「...よかった」

 

唇を重ね合わせたままで僕は下を脱ぎ、ユノは前だけを出した格好になった。

 

夕飯まであと30分で、ねっとりと愛し合うには時間が足りなかった。

 

四つん這いになった僕のそこに、ユノは舌を這わせた。

 

「やっ...そこは。

汚いよ」

 

「俺の口も汚いから...いーの」

 

と言って、指も加えて十分にほぐした後、尖らせた舌を緩んだそこに差し込んだり、吸ったりした。

 

がくりと膝が折れそうになる。

 

悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪えた。

 

入浴したのは午前中だったから、恥ずかしくて恥ずかしくて、僕は組んだ両腕の中に顔を伏せていた。

 

その後は...。

 

室内には肌を打ち合う音と、乱れた息づかい、リズムよくきしむベッド。

 

ドアを1枚隔てた外で、廊下にモップかけをするスタッフや、亡霊のように徘徊する入所者がいる。

 

僕らはとてもイケナくて、いいコトをした。

 

 

 

「体力をつけないと、いけないんじゃないか?

タンパク質が足りてないぞ?」

 

肉も緑黄色野菜も取り除いた僕の夕飯は、アイボリーホワイトだ。

 

メニューは塩コショウだけで炒めた具無しのパスタと、卵の白身と大根のサラダ。

 

ユノはと言えば、カップラーメンとパイナップルの缶詰だった。

 

 

 

 

偏食の僕らは似た者同士だった。

 

「栄養が足りないからもやしみたいなんだ」

 

ユノは教鞭棒で僕の二の腕を突いた。

 

「ユノこそ、レトルトものばっかり食べてるくせに、マッチョなんだもん。

ずるいよね」

 

「それはプロテインのおかげ。

俺はもやしなチャンミンの身体...好きだよ」

 

昼下がりのえっちを思い出して、ぼっと顔が熱くなった。

 

「ブラジャーとかフリフリのパンツとか、すげぇ似合うんだから。

「ここで際どい話しないでよ」

 

新たに今日加わった入所者の世話で、スタッフたちは皆出払っていたからいいものを。

 

「御馳走さま。

じゃんけんするよ」

 

僕らには配膳トレーの返却をじゃんけんで決めるという、子供っぽい習慣があった。

 

「チャンミンはじゃんけんが弱いなぁ。

あはははは」

 

3日連続で負け越している僕は、楽しそうなユノを睨みつけ、「早く食べて!」と急かした。

 

僕を困らせようと、ユノはパイナップルのシロップをスプーンにすくっては、ひとさじひとさじ舐めている。

 

脱出計画の打ち合わせをこれから始めようっていうのに、呑気なユノだ。

 

ムッとした僕は、ユノの手から缶詰をもぎ取った。

 

「...いたっ!」

 

ズキっと走った痛みに、缶詰から手を放してしまった。

 

派手な音を立てて転がった缶詰からは、シロップが飛び散った。

 

すかさず痛む箇所を確認すると、缶詰の縁で指を切っただけのようだ。

 

「大丈夫か!?」

 

僕の怪我の具合を確かめようと、慌てたユノは僕の手を引き寄せた。

 

「平気。

ちょっと切っただけだ」

 

深い切り傷のようで出血量が多く、僕は親指の付け根を握っていた。

 

傷口はそれほど痛まなかった。

 

「すまない。

俺が悪い」

 

ユノの顔色は真っ青になっていた。

 

「ううん。

僕が無理やりなことしたせいだ」

 

「ステーションで手当てをしてもらおう。

腕は胸より上に上げておいた方がいい」

 

「うん」

 

ユノは僕のパジャマの袖をまくしあげたり、近くの椅子に座らせたりと世話をしてくれる。

 

「足元に気を付けて。

汚れる。

ティッシュペーパーを貰ってきてくれるかな?」

 

手首をつたった血液がぽたり、ぽたりとリノリウムの灰色の床を汚していた。

 

「ああ」

 

僕の椅子の傍らに膝まづいていたユノは、ふらりと立ち上がった。

 

噴き出る血液と傷口を見ていると、気分が悪くなりそうなので、僕は天井を見上げていた。

 

「?」

 

ユノは僕に背を向けたまま、そこに佇んだままだった。

 

「...ユノ?」

 

ユノの様子がおかしくて、僕は彼のパジャマの裾を引っ張った。

 

そうしたら、ユノの身体はぐらりと後ろに傾いだ。

 

転倒したら危険だ!

 

「ユノ!?」

 

とっさにつかんだ裾を力いっぱい引き寄せて、僕の膝の上にユノを抱きとめることに成功した。

 

僕の肩に後頭部を預けたユノを見て、驚いた。

 

紙のように真っ白な顔色だった。

 

 

(つづく)

 

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(55)虹色★病棟

 

 

 

クローゼットの中身を整理していた。

 

丈順に並べていたワンピースを、虹色の順に吊るし直していた。

 

 

 

ノック音にドアを開けると、そこにユノが立っていた。

 

「今、時間いいか?」と僕の返事を待たずにズカズカと部屋に入ってきた。

(ユノは相変わらず強引な男だ)

 

ユノが僕の部屋の中まで入ってきたのは、初めてのことかもしれない。

 

用がある時は戸口で済ませていたし、ユノの部屋で時を過ごしていた。

 

なぜなら、僕の部屋の清潔度を信用していない以上に、ユノ自身が僕の部屋を汚してしまうことを恐れていたからだ。

 

「僕の部屋までわざわざ、何?

あらたまった話かな?」

 

「話し足りないことがいっぱいあってな...。

あと少ししかないし」

 

ユノはマスクを外した。

 

「そうだね」

 

僕はユノの隣に腰を下ろした。

 

ユノが座るのは携えてきたバスタオルを敷いた上で、この点は別段おかしいことでも、僕が傷つくことでもない。

 

僕らの身も心も結びついたからと言って、ばい菌への恐怖心がユノから消えたわけじゃないのだ。

 

あの最中は心身が燃えており、理性も症状の自覚も吹っ飛んでしまっているだろけど、素面の時はやはり、僕と触れ合うのに一瞬の躊躇があるようだ。

 

僕の部屋の中にユノが居ることが慣れない。

 

ユノの部屋でもいいのに敢えて僕の部屋をチョイスしたのには、僕と関わるようになったことで、1つ1つ克服してゆきたいリストが生まれたんだろうな。

 

そのひとつが、『他人の部屋で時を過ごす』なんだろうな。

 

「話だけかな...それとも、2度目のアレをしちゃうとか?」とえっちな僕は内心、むふむふしていた。

 

「LOSTに来てつくづく思ったことがある。

チャンミンと話していて、よ~く分かったことがある」

 

「何?

僕、何か変なこと言ってたっけ?」

 

「うん。

チャンミンの『小箱』の話がいい例だな。

思いや感情を、心の目で見える形にイメージすることの効果についてだ。

寂しい哀しい、苦しみから抜け出したい感情を、ただ「苦しい」の言葉で片付けるんじゃなくて、イメージ画に起こす作業は効果大だなぁ、と思ったんだ」

 

「イメージ...ですか」

 

「苦しさの大きさを箱のサイズに言い換えたり、持て余す苦しい気持ちを箱ん中に仕舞うイメージでやり過ごしたり...。

主観的なんだけど客観的...みたいな?

感情の変化も、箱が小さくなったとか、箱の中身が暴れたとかイメージすることで、チャンミンはこの3年間を耐えてきたんだろうな」

 

「あ...確かにそうだね」

 

そこにあるであろう心の小箱の存在を感じようと、胸に手を当てた。

 

しん、と静まり返っていた。

 

ユノは手袋を外した手で僕の指をとを絡めてきた。

 

「いいかチャンミン。

イメージって大事だよ。

チャンミンの小箱の鍵はずっと前、俺が飲み込んだよな?

あの時、俺たちは『鍵』というイメージを共有したよな?」

 

「うん」

 

「さて問題。

そのカギはどうなったと思う?」

 

そう尋ねたユノは上目遣いになって僕を覗き込んだ。

 

下まつ毛が1本1本数えられるほどの距離だ。

 

充血が消えた白目は澄んでいて、目の下の隈はより薄くなっていた。

 

「えーっと...ユノのお腹の中?」

 

「ぶー。

不正解」

 

ユノはなぞなぞに間違えた子を前にした、いたずらっ子の顔になっていた。

 

「え~、分かんない。

どこにあるの?」

 

「正解は...」

 

わざとらしく10秒間溜めるユノを、僕はジリジリしながら答えを待った。

 

「もうありません!」

 

「へ?」

 

意外な回答だった。

 

「ない?」

 

ユノのお腹の中で、消化液で溶けてゆく鍵がイメージとして浮かんでいた。

 

「消えちゃった。

無くなっちゃった」

 

「...?」

 

「鍵がなくても、チャンミンの小箱は問題無しだ。

だって...空っぽになったんだから。

箱の中身がないのなら、そもそも論、鍵なんて要らないだろ?

だからもう、恐れる必要はないさ。

チャンミンなら大丈夫だ。

退所できる、ってことはそういうことだろ?

彼のことは忘れられない...でも、新しく恋をした。

相手は俺なんだけどな。

いいか?

イメージが大事なんだ。

チャンミンから指輪を取り出してやろうと思ったけれど、それが無理だったのは、もう消えて無くなっていたからなんだ。

なあんて...どうかな、この考えは?」

 

「素敵だね」

 

「だろ?」

 

ユノの言う通りだろうな、きっと。

 

僕を置いて出て行った婚約者の顔も、心を襲った激痛も、喪失の鈍痛に長らく苦しんだ記憶も全部、この時の僕の頭から消えてしまっていた。

 

さらには、心の小箱の像も消えてしまっていた。

 

そうあって欲しい。

 

 

「チャンミンはここを出たら...どこへいくんだ?

お前んちはあっちだろ?」

 

ユノは荒野の彼方を指さした。

 

「LOSTに来る前はあっちに住んでた。

でも、これからはどこに住むのかは未定だよ」

 

実際は、住まいも職も既に決まっていた。

 

僕らの部屋は中庭に面している。

 

開け放つことのできないルーバー窓を叩き割れば出口のひとつになる。

 

ただ、地上まで下り立つまでの手段がないし、中庭と荒野を隔てるフェンスは鉄条網のネズミ返しが付いている。

 

シーツをつなぎ合わせたロープを下りる姿を思い浮かべてみたけど、現実的じゃない。

 

悪だくみをよそに、高く澄んだラムネの鳴き声は平和で、僕の部屋まで十分届く。

 

「ユノがいないのに...LOSTを出てからの暮らしを想像できないよ...」

 

「俺も。

チャンミンがいなくなってLOSTに残されて、俺はどうしたらいいんだろう。

辛いなぁ。

喪失感から抜け出すためにここに来たのに、この場所で新たな喪失体験を生んでどうすんだよ?って感じだな。

脱獄犯にでもなろうかと、本気で思うよ」

 

ユノの言葉に、僕は決心した。

 

出口のあてはついていないが、ユノの耳に悪事の計画を吹き込もうではないか。

 

「ユノ」

 

「どうした、顔が怖いぞ」

 

僕はユノの両手を握りしめた。

 

「ここを逃げよう」

 

「え?」

 

「僕とLOSTを逃げ出そう」

 

「...逃げる?」

 

「僕とユノ、2人でここから逃げよう」

 

 

(つづく)

 

 

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(54)虹色★病棟

 

 

僕がLOSTにいた3年間の間、入所者の何人かは退所日を待たずにここを去っていった。

 

正面玄関ではない所から出て行ったのだ。

 

イコール、どこかに出口があるはずだ。

 

すみずみまで目をこらしても、それらしい箇所は見つけることができずにいた。

 

「はぁ...困ったなぁ」

 

洗濯室のテーブルに突っ伏して、洗濯機の丸窓を眺めていた。

 

ユノのパジャマがざぶざぶと洗われている。

 

椅子に座ることのできないユノは腕を組み、僕と同様洗濯機を睨みつけている。

 

僕と気持ちが通じあい抱き合う仲となったとしても、ユノの潔癖症は治ったわけではない。

 

「ふぅ...」

 

洗濯室をあらためて見回してみる。

 

ドラム式洗濯機が5台、乾燥機が3台。

 

1台だけ僕が入所した時から壊れっぱなしの洗濯機がある。

 

「!」

 

『使用禁止』の紙を剥がし、開けた扉の奥をぞいてみたけれど、ドラム式洗濯機であることには変わりはない。

 

「う~ん...」

 

次は床を踏み鳴らしてみたけれど、リノリウムが浮いた場所やツギハギがあったり、不自然なところはない。

 

「チャンミン...何やってんだ?」

 

「探し物」

 

ステンレス製のシンクの下は、こぼれた洗剤粉とホコリ、古びたバケツがあるだけ。

 

もう一度、洗濯室を見回した。

 

個人の部屋にはないと思う。

 

その部屋にだけ隠し出口がある構造になっているなんて不平等だ。

 

食堂にはスタッフステーションがあるから人目に付きすぎる、次の候補は面談室。

 

部屋の隅で埃をかぶっている観葉植物の造花の鉢を持ち上げながら、「そうなんだよ、僕はユノと脱獄しようとしてるんだよなぁ」と心の中でつぶやいた。

 

 

「婚約してた奴とどうやって知り合ったんだ?」

 

ふいにユノから尋ねられた。

 

「今から7年前に出会って、5年前に同棲を始めた。

そして、3年前に出ていかれた」

 

「7年...長いんだな」

 

「うん。

高校が一緒だった」

 

このところ、僕らはフェンスを挟んで荒野の彼方を眺めることが多かった。

 

「趣味は多く活動的なのに、他人と無駄につるむことを嫌っていた。

根本的には人嫌いで、余程の人物じゃない限りは、決して心を許さない。

そのうちの1人に僕は選ばれたかと思うと、鼻高々だったよ」

 

「そうだな。

恋愛関係に発展するということは、選び選ばれた者同士だからだ。

チャンミンが言ってた、『許す許される関係』

...その通りだな、と思った」

 

ユノの両手はカーディガンのポケットに突っ込まれていた。

 

出口探しでワンピースを汚すのが嫌で、僕はトレーナーとデニムパンツ姿だった。

 

「この人が全てだと信じていた。

恐らく、一生を共にするだろうと信じていた。

こいつ以上の者はいないと絶望していたのに、人の心とは信用ならんものだな。

びっくりだよ」

 

「ぽっかりとあいた穴が大き過ぎたからなのか、次の出逢いが強烈過ぎたのか...。

どっちがそうさせたのかな?」

 

「どっちも両方じゃないかな。

でも、後者が正解だと思う。

チャンミンが運命の人だったとか?」

 

「ユノって...さりげなく、凄い告白をしてくれるよね?」

 

「...あ」

 

僕の指摘で初めて気づいたらしい、ユノの白い頬が赤く染まった

 

 

 

「ラムネのとこを綺麗にしようか?」

 

1週間にわたった晴れ続きで荒野はからからに乾いていた。

 

地面から舞い上がった砂埃のせいで、温室のガラスは曇っている。

 

「暑いな」

 

片手をかざしたひさしの下で、ユノはまぶしげに目を細めていた。

 

まつ毛の先が日光で透けて見えた。

 

そうなんだよね、ユノの最大の魅力はその瞳なんだ。

 

ゴーグルに隠されていて、その他大勢の人々は気づけずにいる。

 

瞳の表情を探ろうと奥を覗き込むと、漆黒なのにカラフルな光が時折瞬いている。

 

その光が何色なのかは、今の僕にはまだ分からないけれど、例えて言うとそんな感じだ。

 

ユノの隣にいれば、いくつものユノを知ることができるのでは?...そう思った。

 

ユノと結婚していた彼は、ユノの瞳の美しさに惹かれただろう。

 

ユノみたいな面倒くさく重い男を愛した人だ。

 

なかなかの人物だと思う。

 

...でも、その彼はユノと浮気をしていたことになる。

 

ユノと彼との交際は『褒められた関係』じゃない...以前、ユノが話していた通りだ。

 

「チャンミンを愛した彼は、さすがだな」

 

ふいにユノは口を開いた。

 

「?」

 

「チャンミンって凄い奴だ。

こんないい奴を見つけてさ、恋愛して。

彼もいい男なんだろうなぁ」

 

「いい男だったけど、僕を置いて駆け落ちしちゃったしさ」

 

「そうだったな」

 

僕らは顔を見合わせ微笑した。

 

「今頃、彼は何してるだろうなぁ。

どこに住んでいるだろう。

駆け落ちした奴と一緒にいてくれないと許せない。

僕をLOST行きにするくらい苦しめてさ。

幸せでいてくれないと困るんだよ」

 

「チャンミン、いい奴だな」

 

ユノは僕の頭をガシガシ撫ぜた。

 

「あの世でどんな暮らしをしているんだろう?」

 

「心穏やかに暮らしていたらいいね」

 

天国からユノを見守っていたらと想像すると、僕らの恋は見張られているような気持ちになる。

 

死別して半年も経たずに『新しい男』と関係を持ったユノ。

 

僕に罪悪感を感じさせないように、平気そうな風を装っているのだと思う。

 

「ラムネの籠を掃除しようか?」

 

ラムネの世話もあと10回もない。

 

 

(つづく)

 

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