(10)虹色★病棟

 

 

 

「ユノさんはその大事な人と居る時も、今みたいだったの?」

 

僕はユノのゴーグルとマスクを指さした。

 

人の洋服すら触れられないユノだ。

 

どうやってその大事な人とキスをしたり抱き合ったりしていたのか、疑問に思っていたのだ。

 

食堂の窓の桟にもたれてロータリーを見下ろしていた僕は、もたれることが出来ずに突っ立った背後のユノを振り返った。

 

今日は新入りは来ないようだ。

 

「俺は潔癖過ぎるところがある」

 

「潔癖中の潔癖の潔癖だよ」

 

ぷっと吹き出した僕を、ユノは睨みつけたのち、自嘲気に唇を斜めにした。

 

「その人となら平気だったんだ」

 

ユノの答えが意外で...いや、意外じゃなかった、そうだろうな、と。

 

「その人となら、マスクも手袋もいらない、消毒液で清めなくていい。

裸で抱き合えたよ」

 

「......」

 

「その人だけだよ」

 

僕はごくり、と唾を飲み込んで「そうなんだ...」とつぶやいた。

 

「じゃあ、その人は無菌でクリーンだと思えたから?」

 

「いいや、違う」

 

ユノはきっぱり否定した。

 

「その人は特別だったんだ。

俺がLOSTに逃げ込まざるを得なかったのは、その人が特別だったからだよ」

 

ユノは『特別』を繰り返した。

 

その人はよくて、僕は駄目なんだ。

 

僕は哀しくなった。

 

待って。

 

チャンミン、落ち着いて。

 

ユノとは出会ったばかりなんだよ。

 

素性の知らない、頭がおかしくなった男に、1日やそこらで気を許すわけないじゃないか。

 

でも...ユノと会話を交わし、共に日差しを浴び、ラムネを見て...僕に涙を見せて...。

 

ユノに近づけた気がしていたんだ。

 

落ち着いて、チャンミン。

 

たった1日で、心の防御が緩むはずないじゃないか!

 

ユノとの日々を重ねてゆけば、彼の大事だった人の記憶が遠のいていく。

 

その暁には、彼のテリトリーに入れてもらえるようになるかもしれないじゃないか。

 

ああ、やっぱり無理だ。

 

僕らは何かを育むために、LOSTに閉じ込められているんじゃないんだ。

 

ユノの言葉、『お前は面白い奴だ』に、僕は特別なんだと早合点して、鵜呑みにしていたんだ。

 

馬鹿な僕。

 

僕はユノの横顔ばかり見つめている。

 

落ち着いて、チャンミン。

 

心の小箱がガタガタと揺すっている。

 

僕は目をつむり、爆発しそうになるのを握ったこぶしに逃す。

 

大きく深呼吸を繰り返して、吐息と共に逃がした。

 

LOSTにいる理由と目的を、すっかり忘れてしまうところだった。

 

「...チャンミン。

大丈夫か?」

 

僕の異変に気付いたユノが、様子を窺っている。

 

「待ってて...すぐによくなるから」

 

手袋をはめたユノの手が、僕の肩を抱いてくれることはない。

 

哀しくなった。

 

 

 

 

翌日の午後。

 

僕は日課の昼寝をしていた。

 

さらさらと乾いたシーツに、寒くもない暑くもない丁度良い気温で、気持ちのよい昼寝をしていた。

 

窓からの風に頬を撫ぜられ、僕は目を覚ました。

 

窓の桟にひっかけた洗濯物が揺れるさまを、昼寝後のけだるさに浸った状態で見ることなく見上げていた。

 

「チャンミン!」

 

ドアをドンドン叩く音に、僕は飛び起きた。

 

「出て来い!」

 

ユノだ。

 

僕はため息をついて、大声で返事をした。

 

「今行くよ」

 

防御が厳しい男なのに、僕に対しては厚かましく強引なのだ。

 

「早くしろ!」

 

「急かさないでよ!」

 

下着1枚だけだった僕は、クローゼットの引き出しを開けた。

 

「ど、れ、に、し、よ、う、か、な」

 

虹色に並んだいろとりどりのパジャマを、順に指さしていった。

 

待てよ。

 

あのユノの様子じゃ、おやつを一緒に食べようとかトランプをしようといった平和なものじゃなさそうだ。

 

パジャマもワンピースも相応しくないと判断して、もうひとつの引き出しを開けた。

 

「まだか?」

 

「行く、今行くよ」

 

「部屋で待ってるぞ」

 

ベッドからずり落ちた毛布はそのままに、僕は部屋を出た。

 

「あ!」

 

廊下まで出て、部屋に引き返した。

 

マスクと手袋を装着するのを忘れていたのだ。

 

 

 

 

「お前はステーションからドライバーを借りて来い」

 

「え...?

ユノさん...何をする気?」

 

「模様替えだ」

 

文句も質問も一切受け付けないぞ、と言わんばかりにユノは宣言した。

 

ユノの部屋の前には、窓ガラスサイズのボール紙で包まれたものと、何本もの棒が結束バンドで留められて立てかけられていた。

 

模様替えの範疇を越えている!

 

「昨日注文したやつ?」

 

「ああ」

 

「何これ?

何の材料?」

 

「オリジナルは設計図を書かなきゃならんから、既製品の寄せ集めだ。

部屋に運べ」

 

「人使い荒いなぁ」

 

僕はブツブツ文句を言いながら、持ちかさばるそれらを室内に運び込んだ。

 

「中身を出してくれ」

 

「はいはい」

 

昨日までのしおらしかったユノはどこかへ行ってしまい、ジャイアンに戻ってしまっている。

 

パジャマにしなくて正解だった。

 

「お前...その方がいいぞ」

 

ユノは作業の手を止めて声をかけた。

 

「?」

 

「服」

 

「ああ、これね。

きっとユノは僕をこきつかうんじゃないかってね。

動きやすく汚れてもいい恰好にした」

 

僕は白Tシャツと黒パンツ姿だった。

 

ドライバーと共に借りてきたカッターナイフで梱包材に切れ込みを入れ、テープを剥がしていった。

 

この後、1時間ほどかけてユノの指示通りに動いた。

 

ドライバーひとつで組み立てられたものとは...。

 

ベッドの四方を取り囲んだ、透明アクリルの壁だった。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(9)虹色★病棟

 

 

「ここだよ」

 

ユノを案内した先は、温室だった。

 

生きた植物どころか鉢植えひとつない、空っぽの温室だ。

 

ここは何のために建てられたのか分からない、大き過ぎるガラスの箱となっている。

 

曇った温室のガラスを透かして日光が斜めに降り注ぎ、地面には黒い骨組みの影を作っていた。

 

日の光に温められた熱気と植物が発散するはずの蒸しっぽさはない。

 

ガラスが割れたところから涼しい風が吹き込んでいて、案外快適な場所なのだ。

 

スニーカーの下で、粉々になったガラスがじゃりじゃりと音を立てる。

 

ゴーグルとマスク姿に戻ったユノは、砂まみれのコンクリートの上を爪先立ちになっている。

 

ユノは割れたガラスに、「凶器が散らばってるじゃないか」と指摘した。

 

「温室に入る者はいないよ。

それに...ここにいる人のほとんどが自分の中に閉じこもっている。

温室なんて視界に入っていないと思うよ。

回復してきた人はここを出ることしか考えていないし」

 

「なるほどね」

 

温室の隅に錆びついたガーデンテーブルがあり、そこに鳥籠はあった。

 

アンティーク専門店にありそうなくすんだ真鍮製で、鳥籠というより、バードケージと呼んだ方がふさわしい重厚さだ。

 

鳥の羽とフン、雑穀の殻がテーブルの上に散っていて、ユノじゃなくても近づくのに躊躇してしまう。

 

ところが、ユノは顔を近づけて、中を覗き込んでいる。

 

へぇ...小鳥は平気なんだ。

 

「餌は?」

 

「実は僕があげてるのだ」

 

毎朝の散歩の際、僕は小鳥に餌を与え、飲み水を新鮮なものに交換し、フンで汚れたトレーを掃除している。

 

厨房から貰ってきた野菜くずを手づからついばませることもある。

 

当の飼い主が不在になった今、僕が世話係となっているのだ。

 

「なんて鳥?」

 

「それが分からないんだ」

 

不思議な小鳥なのだ。

 

嘴は半透明のピンク色で、その太い嘴に何度突かれただろう。

 

「何だろうなぁ。

初めて見るよ」

 

「でしょう?」

 

「名前は?」

 

「ラムネ」

 

「そのまんまだな...」

 

「ぴったりでしょ?

僕が名付け親なのだ」

 

お腹の羽毛は青みを帯びたすりガラスのような色で、か細い脚はグロテスクな鱗に覆われている。

 

 

 

 

「飼い主はいなくなったって言ってたよな。

彼はどうしたんだ?」

 

透明ゴーグルの下のユノの視線は、ラムネを食い入るように注がれている。

 

かさついた肌、黒眼はみずみずしく潤んでいる。

 

噂を信じたユノはきっと、飼い主は死んでしまったと考えているのだろう。

 

「ここを出て行ったんだよ」

 

「それってつまり...?」

 

「文字通り出て行ったんだ。

ユノが想像しているところじゃないよ。

彼は元気になって、ここにいる必要がなくなったんだ」

 

「小鳥を置いて?」

 

「連れ帰るのは難しかったんじゃないの?」

 

僕らは温室を出た。

 

なぜ連れ帰るのが難しかったのか、僕の判断で詳細をユノに教えることはできない。

 

僕でさえ1年前に知ったんだ、ユノが知るにはまだまだ早い。

 

「この温室...何のためにあるんだろうなぁ」

 

「さあ...。

憩いの場?」

 

コの字型の建物の先端を見上げているユノの首は、喉仏ばかり目立っていた。

 

僕はユノの二の腕を押した。

 

ユノの真っ白なスニーカーが、たばこの吸い殻を踏みつけそうだったんだ。

 

「!」

 

僕を睨みつけるのは当然のことで、条件反射のようなもの...でも...小さく傷ついた。

 

「悪かった」

 

ユノは僕が傷ついたって、気付いたんだろう。

 

「あとでガウンを洗濯すればいいよ」

 

「悪かった」

 

「いいって」

 

「なんで吸い殻が落ちてるんだよ?

禁止されてるんだろ?」

 

「内緒で持ち込んだんだろうね。

ジャケットの裏に縫い付けた秘密のポケットに仕込んだりしてさ」

 

似たようなことを僕もしていた。

 

「ボディチェックまではしないんだ。

ね、案外ここはゆるいんだ」

 

「なんだ...惜しいことをした」

 

ここに入所する際の約束事をきっちり守ったユノは、真面目なんだなぁと可笑しかった。

 

 

「人の心とは、不可思議過ぎてぞっとする。

一昨日の俺と昨日の俺は違う。

はあ...疲れるよな」

 

帰りのエレベータの中で、ユノは独り言のように口を開いた。

 

「そうだね」

 

僕は3年前と2年前、1年前と今の違いしか分からない。

 

日々の変化には気付けない僕と違って、ユノはナイーブなんだろう。

 

「後を追うつもりだった。

俺の一部を無くしたんだから」

 

「...分かるよ」

 

辛いだろう。

 

辛くて辛くて仕方ないだろうに、僕と居る時は平気そうで、事情を知らなければ大事な人を失ったばかりの人には見えない。

 

夜は寝付けず寝返りを何度も打ち、涙を流しているんだろうな。

 

目の下の隈や、赤く色づいた唇は皮がむけている。

 

「だからだよ。

人の気持ちとは不可思議だって言ったのは」

 

「どういう意味?」

 

規定時間より30分も早く戻った僕らは、食堂の窓辺に立った。

 

「失意でどん底にいるはずなのに、別の部分では違う感情があるんだ。

ラムネを綺麗だと思ったりさ。

まるで心が2つも3つも、別にあるみたいだ」

 

「ひとつしかなかったら、心が壊れてしまうんじゃないかな?

僕の場合は、そのうちのひとつは小箱に仕舞いこんで、それ以外のいろんなのは外で自由に遊ばせてる。

同時進行なんだ...うん、そうだって」

 

「なるほど...。

お前といて面白いと思うのも、それが理由なんだな」

 

「......」

 

僕への褒め言葉、第二弾だ。

 

ヤッホーと飛び上がりたかった。

 

ぴょんぴょん跳ねたら、スタッフたちに記録されてしまう。

 

ユノの台詞にどう返答したらよいのか...そして、凄く照れてしまって、代わりに質問で返した。

 

「そうだ!

行きのエレベータで何か言いかけてたでしょ?

何?」

 

ユノはしばし考え込んでいた末、「ああ」と思い出したようだ。

 

「さっきお前が俺に質問したことと同じ内容だよ。

お前も辛かったんだな?」

 

「まあね...。

また教えてあげるよ。

まずはユノの心が丈夫になってからね。

僕の話はそれからだ」

 

「分かった。

お前の話はおいおい聞いてやるよ」

 

完全防備になるとユノは、僕のことを『お前』と呼ぶ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(8)虹色★病棟

 

 

「...ユノは...誰をなくしたの?」

 

顔を覆って嗚咽を漏らすユノを抱きしめてあげたい。

 

3年前の僕を抱きしめてくれる人はいなかったから。

 

ぎりぎりまで迷って、僕は傾けた半身を起こした。

 

僕のパジャマはユノにとってばい菌だらけなのだ。

 

ユノの肩の震えが止まるまで、僕は辛抱強く待った。

 

ユノの白いうなじとぽつんとあるホクロ、パサついた黒髪を眺めていた。

 

「...結婚していたんだ」

 

やっとのことで聞き取れる、掠れた小さな小さな声だった。

 

「どれくらい?」

 

「3年だ」

 

「...そっか」

 

覆っていた両手を下ろし、浅く微笑んだユノは悲し気だった。

 

ちょっとだけ胸のつかえがとれたかのような、すっきりとしているようにも見えた。

 

太陽光の下で見るとよく分かる。

 

ユノがどれだけ消耗した顔をしているかを。

 

削げた頬や、荒れた肌、腫れぼったいまぶた、目の下はたるんで黒ずんでいた。

 

そうであっても、ユノは女性的で繊細な容貌の持ち主だった。

 

まだ1か月だと言っていた。

 

死にもの狂いでここを探し出し、除菌アイテムを携えてここに飛び込んできただけでも、ユノは賢明だ。

 

ユノは弱虫じゃない。

 

大事な人をなくして絶望し、それでも生き続けたいと望んだんだ。

 

今が一番辛い。

 

よくなったかと思えば、ぶり返す喪失感に相当長期間苦しむだろう。

 

単なる隣人に過ぎない僕だけど、穴ぼこだらけのユノを放っておけなかった。

 

ゴーグルとマスクを装着して、失意の底に落ちているくせに、堂々とした足取りで現れたユノにノックアウトされたんだ。

 

とんでもない奴が登場したぞ、って。

 

僕はカウンセラーでも何でもないけれど、寄り添うだけならできる。

 

「なくしたって...事故、だとか?」

 

踏み込み過ぎた質問だったかもしれない。

 

「中庭...じゃなくて、裏庭だな」

 

案の定、ユノは僕の質問に答えず、呆れたように周囲を見回した。

 

中庭、と聞いて拍子抜けしたのだろう。

 

中央に噴水があり(神話の女神が抱え持ったカメから水が)砂利敷きの小路、深緑色のベンチ、蔓を模したフェンスにつる薔薇が絡まり、素焼き鉢から青や黄色の花が咲きこぼれ、藤棚の下にはテーブルセット。

 

...こんな光景を想像していたのだろう。

 

ユノじゃなくて、この想像図は僕のだった。

 

3年前、自室でじっとしていられなかった僕は、中庭をぐるぐると動物園の動物みたいに歩き回っていたんだ。

 

障害物が少なくてかえっていい、と思っていた。

 

ホコリで曇ったガラスの温室と、小さな池があるきりで、花壇も噴水もなかった。

 

レンガとレンガの間から雑草が顔を出し、入居者の誰かが捨てた菓子パンの袋が落ちていた。

 

僕らが座っているベンチも飲料メーカー名がプリントされたもので、それも日光で色褪せていた。

 

貧弱な庭であっても、外の空気は気持ちがいい。

 

 

 

 

見上げるとすかっと青い空。

 

視線を落とすと、僕らが暮らす階の部屋の窓が並んでいる。

 

入居者の誰かが、中庭を見下ろしているかもしれないし、自室のベッドで身を丸めているかもしれない。

 

隣のユノも天を見上げ、顔全体に太陽光を浴びているのは、紫外線殺菌しているからなんだろう。

 

「俺って変人だろ?」

 

「さあ、どうだろ。

最初はびっくりした。

でもね、ここにいるとユノ程度は大したことないよ。

もっと変な人も多いし、僕だって似たようなものさ」

 

「チャンミンの変わっているところといえば...ワンピースと白しか食わんところ?」

 

「実はね、他にもあるのだ」

 

「へぇ。

例えば?」

 

「たまに大暴れする」

 

ユノは「暴れる?」と、眉を持ち上げた。

 

「文字通り暴れるんだ。

スタッフ3人がかりに押さえつけられるの」

 

僕は肩をすくめてみせた。

 

「そんな風に見えないけれど?」

 

「だからここにいるんじゃないか。

はあ...。

人の本性なんて、普段の姿からはうかがい知れないものなんだよねぇ。

やり場のない感情、自分じゃとても処理しきれない感情。

心の奥にね、小箱があるんだ。

何重にも鍵をかけているのが、ある時鍵をぶっ壊すんだ。

箱の中にトラを飼っているのかもしれないし、灰色のスライムを押し込んでいるのかもしれない。

僕はその小箱のお守りをしているんだよ」

 

「......」

 

ずばりストレートに話せばいいのに、『小箱』だなんて例えをしてしまったのには理由がある。

 

知り合って日の浅い人物に...それも、応急処置を施しただけのユノに、自身の心の内を赤裸々に語るのはまだまだヘヴィだと思ったからだ。

 

少しずつ教えてあげればいい...ただし、ユノが知りたければ、という条件付きだけどね。

 

僕はと言えば、ユノの過去が知りたい。

 

沈黙をやぶってユノはつぶやいた。

 

「小さい箱だからいけないんじゃないのか?」

 

「え?」

 

「小さいから溢れるんだろう?

その箱をでかくしてやればいいじゃないか」

 

「ユノにも小箱がある?」

 

「う~ん...。

俺の場合は、箱とはちょっと違うなぁ」

 

ユノの視線はコの字を塞ぐフェンスの向こうに注がれていた。

 

あ...。

 

僕の話はやっぱり踏み込み過ぎていたようだ。

 

ユノの目尻から透明な雫がふくらんで、頬を伝った。

 

僕は慌てて除菌ティッシュを引っ張り出して、顎につたったユノの涙を押さえた。

 

手袋をはめたままのユノの指が、僕の手の甲に触れた。

 

「ごめん...」

 

拒絶だと受け取って引っ込めようとした僕の手は、ユノの指に捕らえられたままだった。

 

「ユノ...」

 

「はあぁ...。

独りでいたらどうにかなっていた」

 

ユノは僕から除菌ティッシュを受け取り、目頭を拭いた。

 

「お前は不思議な奴だ。

ここに居るのが勿体ない奴だな」

 

これは褒め言葉だ、そう受け取った僕は「えへへ」と鼻の下をこすった。

 

「そうやって漫画みたいな仕草とかさ。

子供みたいだな」

 

「そう?」

 

ここに居ると僕はどんどん子供っぽくなっていくと、自覚はあった。

 

「ユノだって、子供にかえっちゃうかもよ?」

 

「それは困る」

 

「ここの名前、知ってるでしょ?」

 

「いや...それどころじゃなかったから」

 

「『LOST』だよ」

 

「LOST...。

...ここで何かを失うのか?」

 

ユノの眼がぐらりと揺らいだ。

 

恐怖と期待が入り混じっていた。

 

こんなに真っ黒な眼、初めて見た。

 

「つまらない大人のプライドを失うのかもしれないし、辛くて仕方がない感情を失うのかもしれない。

ピュアな子供に還っていくのかもしれない。

それとも途方に暮れている僕らの姿かもしれない」

 

「つまり、どう受け取るかは俺次第ってことか」

 

「大丈夫。

ここに居れば、確実に楽になれるよ」

 

「おし!」

 

ユノは膝を叩いて、立ち上がった。

 

いつの間にか太陽が建物の陰から顔を出し、日光がユノの輪郭を縁どっていた。

 

「例の小鳥を見せてくれ」

 

「うん!」

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(7)虹色★病棟

 

 

「ノートに名前を書くんだ」

 

カウンターに置いたノートに、僕は2人分の記名をすませた。

 

「2時間後には戻ってこないとダメなんだ」

 

ステーションの壁掛け時計で時刻を確認し、「出」の欄に記入する。

 

「2時間ずつ1日2回も出られるから、わりと自由でしょ?」

 

「時間、間違ってるぞ」

 

「いいのいいの。

少しでも長くお散歩したいでしょ?

30分遅く書いておくんだ。

スタッフはいちいちチェックしないからね。

ほら、エレベータが来たよ」

 

透明ゴーグルと黒マスク、薄手のガウンを羽織ったユノを手招きした。

 

ガウンの両ポケットに手を突っ込んだユノのために、エントランスドアを押さえていた。

 

とても頑丈なドアだ。

 

いつだったか、食堂の椅子でドアをぶち壊そうとした入所者がいて、ガラス製に見え、アクリル樹脂製のそれは、ヒビひとつかなかった。

 

夜20時に施錠され、翌朝4時45分に開錠されるまで、僕ら入所者はこの階に閉じ込められるのだ。

 

「敷地内なら自由なんだ?」

 

「うん。

一階には売店があるよ。

お菓子やアイスクリーム、文房具が買えるよ」

 

「なあ、チャンミン」

 

階数ランプを見上げていたユノが僕に声をかけた。

 

「何?

ねえ、ユノって背が高いね」

 

ユノの目の高さは僕と同じだ。

 

「あんたこそデカいな。

あのワンピースは特注なのか?」

 

ゴーグルのバンドのせいで、後頭部の髪がくしゃっとなっている。

 

手袋をはめているから大丈夫か、とバンドに挟まった髪を引っ張り出してあげた。

 

僕に触れられて、案の定ギョッとした風だったユノ。

 

ところが手を払いのけることなく、ふんと鼻を鳴らしたのち、操作プレートの観察に戻ってしまった。

 

内心、ホッとしていた。

 

「あれはねぇ...」

 

一瞬、言いよどんでしまった僕。

 

すぐに思い直した。

 

ユノに近づきたい僕だったから、惜しげなく過去を開示しようと思ったのだ。

 

「...あれはね、形見なんだ」

 

珍しいものでもあるかのように、階数ボタンを観察していたユノが振り向いた。

 

まるで自身のことを言い当てられたかのように、見開いたユノの眼はギラついていた。

 

「形見?」

 

「うん」

 

1階に到着したエレベータからユノを先に通し、僕も次いで下りた。

 

エレベータ降り口の真ん前が正面玄関で、昨日ロータリーで車を降りたユノはそこを通って、僕らの階にやってきたのだ。

 

この建物は中庭をコの字に囲んでいる。

 

コの字の突き当りまで進み、ガラスドアを開けると目的地だ。

 

「形見ってのは...母親とかの?」

 

「ハハハっ!

もしそうなら、ずいぶんデカい母親になるよね。

ううん、違う」

 

「じゃあ、誰の?

いや、答えなくていい。

不躾なことを尋ねてしまった。

すまない」

 

僕たちはベンチに座った。

 

(ユノは持参してきたレジャーシートを敷いた上に腰を下ろしている)

 

「ユノさん、謝らないで。

僕は話したいから話すんだ」

 

ユノは透明ゴーグルを外した。

 

「...ユノさん?」

 

驚く僕の前で、ユノは黒マスクも外した。

 

僕の表情に、「そんな驚いた顔をするなって」と、ユノは唇の端だけで笑った。

 

「そっか...」

 

不特定多数の者の呼気がこもり、不特定多数の者が触れた壁や調度に囲まれた、換気システムも旧式な建物の中は、ユノにしてみたら恐怖の空間なのだ。

 

確かにここは、室内よりは清潔かもしれない。

 

雨上がりの空気は清々しかった。

 

パジャマ姿の僕に対し、ユノは水色ストライプのシャツとホワイトデニム姿だった。

 

仰々しいコスチュームを取り除いたユノは、好感の持てる爽やかな青年だった。

 

黒々としたまつ毛が縁どる切れ長の目の印象が強いのは、静脈が透けてみえるくらい白い肌のせいだ。

 

誰もがユノの素顔を目にしたら、ハッと息を飲むだろう。

 

多くの者たちはユノの異常な出で立ちにばかり目がいってしまい、その下に白亜の美貌が隠されていることに気付かずにいたのに違いない。

 

「僕はワンピースを沢山持っている。

その全部が形見なんだ。

形見と言うように、その人はもういない」

 

ユノの履いたスニーカーは泥汚れひとつなく、赤茶のレンガに映えてパキッと白かった。

 

かかとを踏み潰した自分のスニーカーが恥ずかしくなって、ベンチの下に両足を隠した。

 

午前中の日差しはまだ、中庭まで差し込んでおらず、前日の雨でレンガ敷の地面は湿っている。

 

「それはいつの話?」

 

「えっと...3年前かな」

 

「じゃあ、チャンミンは3年前からここにいたの?」

 

「そうだよ」

 

「辛かったんだな」

 

ぶっきぼらぼうなユノの口から、いたわりのこもった温かい言葉が発せられたのが意外過ぎて、じんわり感激する間もなかった。

 

「うん...辛かったよ。

僕の場合は3年は経っているからね。

僕よりもユノさんの方が辛いんじゃない?

まだ日が浅いでしょう?」

 

ガウンのポケットから出した両手で、ユノは顔を覆った。

 

「ああ」

 

「いつ?」

 

「一か月前」

 

「直ぐにここを見つけてよかったね」

 

「ああ」

 

僕はカーディガンのポケットに入れていた、アルコールスプレーを手に擦りこんだ。

 

その手でユノの頭を撫ぜた。

 

真っ黒な髪から想像するよりも、柔らかい髪だった。

 

「申し込んで入所するまでの3日間は苦しかった。

瀬戸際だった。

4日かかっていたら...死んでいただろう」

 

素直にその言葉を口にしたユノは、僕のように屈折していない。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(6)虹色★病棟

 

 

その後の朝食も、もちろんユノと一緒。

 

僕という人間は元来、人付き合いは苦手な方だ。

 

でも、限定されたメンバーだけで閉鎖された空間に長くいると、ささいな変化にどん欲になる。

 

もっとも、僕のフィーリングに合う者が、入所者たちの中にいなかったからなんだけど。

 

ここはお友達を作るための空間じゃない。

 

皆それぞれ、自分自身のことで精一杯なのだ。

 

他の入所者たちと比較して、他人に興味を持つだけじゃなく、接近をはかれる余裕がある僕は、単に古株なだけ。

 

ここにやってきて何年?

 

3年だ。

 

日記をつけていなかったら、今日が何月何日なのかもわからなくなっていただろう。

(僕は5年日記をつけているのだ)

 

先輩が新入りのお世話係になる。

 

実際は誰からも依頼されていない、僕が好きでやっていること。

 

 

 

 

ここでの朝食メニューは極めて質素で、僕は気が楽だ。

 

心得えたスタッフの手により、耳を切り落とされた食パンと牛乳が僕のメニュー。

斜め前のテーブルで、ベタベタにジャムを付けている一人から目を反らした。

 

ユノは、といえば、マスクの隙間に差し込んだストローで、クリーム色の液体を飲んでいる。

 

「それが例のプロテイン?」

 

「ああ」

 

500ccサイズボトルの中身が、かなりのスピードで減っていく。

 

「何味?」

 

「バナナ味」

 

「ふうん。

バリエーションは他にもあるの?」

 

「ストロベリー味やココア味、マスカット味...それから、シトラス味に...青りんご味、これは人工的な味だから好きじゃない」

 

「気分で楽しめていいね」

 

「お前にはヨーグルト味のをやるから安心しろ」

 

「お気遣いありがとう」

 

なんてことのない言葉を交わしながら、僕は目の前のパンにとりかかっていた。

(切り落とし損ねた茶色い生地は、ちぎってトレーに落とす)

 

「ごちそうさま」と手を合わせた時、

 

「なあ」

 

僕の脇を突く何やら固いモノは、教師が使う指示棒だった。

 

やれやれ。

 

「痛いなぁ。

突くならもうちょっと、優しくしてよ?」

 

僕とユノとの間は椅子2つ分開いているのは分かるけどさ。

 

「すまない。

教えて欲しいことがあるんだ。

ここでは必要なものがあれば、取り寄せてもらえるんだよな?」

 

「うん。

火が出るもの、燃料、刃物以外のものなら。

お酒も駄目だよ。

カウンターにある用紙に記入してスタッフに渡しておけば、早くて明日には届くよ。

もちろん中身チェックはあるよ」

 

「そうだろうな」

 

僕がカウンターからとってきた注文用紙を、ユノは両端1mmを指先でつまみ持って、注意事項に目を通している。

 

椅子の背もたれに背中を預けることのできないユノは、ぴんと背筋を伸ばしてとても姿勢がいい。

 

「お前が代筆しろ」

 

「はいはい」

 

不特定多数が触れたペンに抵抗があるんだろう。

 

承知していた僕は、用紙と一緒に借りてきたペンでユノの言うとおりに記入していく。

 

「前にね...1年前だっけな。

入所者のひとりが小鳥を注文したんだ」

 

「...小鳥ってつまり、ピーピー鳴く羽根の生えた?」

 

「犬や猫とは違って籠の中で育てられるからね。

許可するか否か、会議が行われたんだよ」

 

「で?」

 

「許可されたよ。

でもね、飼い主自身がいなくなっちゃって...今は中庭で飼ってる」

 

悪い噂を既に聞いているからなんだろう、飼い主の行方について、ユノは何も尋ねなかった。

 

ユノが言うとおりに欄を埋めたのだけど、専門用語過ぎて何に使うものなのか、僕はさっぱり分からない。

(最新消毒液の名称なのかなぁ、と)

 

「ねえ。

今から散歩しに行こう。

小鳥を見せてあげるよ」

 

昨日までの雨が嘘のように、パキッとどこまでも青い空が食堂のはめころし窓の形に切り取られている。

 

暑くなる前の午前中に、緑したたる中庭を歩くのもいいかもなぁ、と思ったんだ。

 

「う~ん...」

 

腕を組んだユノの頭の中は、屋外に出た時のばい菌リスクでいっぱいだろう。

 

「紫外線で殺菌されるんじゃないかな?」

 

「......」

 

この沈黙は無下に断ったりしないよう、ばい菌対策法を考えているからだ、きっと。

 

「散歩の後にお風呂に入ればいいじゃない?」と助け船を出してやると、

 

「付き合ってやる。

着替えてくるから、部屋の前で待ってろ」

 

「はいはい」

 

僕に指を突きつけ「10分後に集合だ」、そう言って自室に戻ってしまった。

 

もちろん、二重に履いたスリッパは廊下に脱いで。

 

「あっ...!」

 

と、小さく悲鳴を上げてしまったのは、ひらりとひるがえしたユノのガウンの裾に気付いたからだ。

 

塗りたてのシトロングリーンのペンキが付いている。

 

もしかしたら、朝食前からそうだったかもしれない。

 

黙っていよう。

 

ペンキはばい菌じゃないし、恐怖に強張るユノの顔は見たくないからね(洗濯の時に気付くだろうけど)

 

後でドアノブに、『ペンキ塗りたて』の札をぶら下げておこうっと。

 

 

 

 

僕はクローゼットを開け、お散歩用に何を着ようか迷っていた。

 

ユノの朝食から連想されたバナナ色のワンピースを一旦は手に取った。

 

ウエストの後ろでリボンで結ぶデザインになっている。

 

 

 

そこでしばし迷う。

 

(このワンピースはデートの時に着たいからなぁ...)

 

「デート...か」

 

僕の脳裏に浮かんでいたひとつの光景。

 

昨日知り合ったばかりの人物...それも、ここに入所してきたばかりの...一般社会では生きづらさを感じていた者。

 

そこは海浜公園。

 

海風で僕のワンピースは裾をたなびかせ、ユノの前髪も斜めに乱れている。

 

僕とユノは手を繋いでいる。

 

まるで恋人同士みたいに。

 

このワンピースはその時の...海辺の散歩の時用にとっておこう。

 

あれ?

 

僕はユノの恋人になりたいのかな?

 

友だちになろうと握手したばかりなのに。

 

気の早い僕だ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]