(2)僕らが一緒にいる理由

 

今年は暖冬との予報は外れだ。

12月の中旬以降、早朝の気温計は氷点下を示していて、年が明けてからは下へ下へと毎朝新記録を打ち立てている(気温計は夫が中庭に面した縁側の軒下にぶら下げたもの)

寝起きの僕は、布団の足元から毛糸の靴下を探し出し、フリース素材のガウンを羽織り、「寒い寒い」と唱えながら寝室を出る。

わが家には断熱材など入っておらず、朝方などシンクの洗い桶の水が凍り付いているのだ(オリーブオイルなんて、寒さのせいで真っ白に凝固してしまってる)

真っ先に台所の灯油ストーブのスイッチを入れる。

給油ランプが点滅しているのに気づき、僕は舌打ちをした。

僕にばかり家のことを押し付けるなんて!

どうしてどうして、こういう細かな気配りができないのだろう?

ぷりぷりと腹をたてながら僕は、ヤカンとスープの鍋をガスにかけ、灯油タンクを持って中庭に下りる。

軒下に灯油ポリタンクを置いてあるからだ。

(3つのうち2つが空。9時を過ぎたら灯油店に配達の電話を入れること、とやることリストにメモした)

 

吐く息は真っ白で、冷え切って固くなったサンダルが足の甲に痛い。

夏の間水草を浮かべていた水鉢には、分厚い氷が張っている。

ポンプ内を勢いよく流れる灯油を無心に眺めながら、日常の積み重ねをすみずみまで味わい、共に生きる夫を愛し続け...そうありたいと願っているけれど...それって可能な話なのかな?

例えば灯油の補充をしていなかったように、小さな怒りが積もり積もって、ついには爆発し、離婚の危機に!?...なんてことになったりして。

 

「......」

 

でも、こういうことを思うことができるのも、今の僕が幸せボケをしていて、生活や仕事、両方において暇なんだからだと思う。

だから、夫の不審な外出という『謎を解く』という暇つぶしができたと捉えればいい。

夫へ不信感を抱かせることで、平和的な暮らしを当たり前のように享受する僕に喝をいれようとしているんだ。

まさか『あの』夫が僕を裏切るはずはない。

「俗にいう、サレ男?」

ぞくり、と心が冷えると同時にワクワク感も湧いてきた。

変なの。

 

 

灯油を入れ終えて、「よいこらしょ」っと立ち上がりついでに軒下を見上げた。

 

「マイナス7度...」

 

気温計をぶら下げるリボンは、人気洋菓子店のクッキー缶のラッピングで使われていたもの(夫の友人へ出産祝いを贈った際のお返しかなんかだったと思う。とても綺麗だったから捨てるのは勿体なかったのだ)

そのクッキー缶には、電池を収納している。

夫は僕の『そういうところ』に癒されると言ってくれるけれど、僕は所帯じみてしまった自分自身をカッコ悪いと思っている。

夫は、コーヒーの出がらしを消臭剤代わりに靴箱に入れる僕を見て、嫌にならないのだろうか。

 

 

『浮気』

 

生涯、縁のない言葉だと思っていた。

僕と夫の仲は、強固で不滅なものだと当たり前のように安心しきってきたけれど、それは思い込みに過ぎなかったのかもしれない。

友人関係だったのが、一気に距離を縮めた末、学生結婚した。

早すぎる結婚プラス、僕らは男同士だった為、どうしても周囲に理解されにくい。

それでも全然構わない、と開き直れるほど平気じゃなかった僕だった。

...いつの間にかすれ違いが生じており、気付いた時には2人は川の対岸同士に立っていて、広い川幅と流れの強さに阻まれて、対岸に渡るのは困難になってしまっている...時すでに遅し。

よくある話だ...と言っても、テレビや小説の世界で聞きかじった程度の知識に過ぎず、身近な人間関係で相談役をつとめたこともなく、リアルな『浮気』は想像するしかないのだ。

夫の浮気を疑った夫(僕は『妻』ではない。主夫と言った方が正確かな)がすることと言えば、『尾行』ではないだろうか?

 

 

「しまった!」

 

夕飯の食卓で、夫は不意に大きな声を出した。

 

「どうしたの?」

「忘れ物だ。

大事な書類を会社に置きっぱなしだったみたいなんだ」

「そんなの...週明けでいいじゃない」

 

僕は卵丼のお代わり(餡を注ぎ足しご飯も足しで、永遠に食べ終わらない)を頬張った。

 

「そういうわけにはいかないんだ。

忙しくってさ、週末中に片付けておきたいんだ」

「へぇぇ...。

せっかくの休みなのに...。

今って繁忙期だっけ?」

 

僕の問いを受け、夫は「えーっと」という繋ぎ言葉を発した。

 

「トラブルがあってね。

書類仕事が沢山あるんだ」

「ふぅ~ん...」

 

(なるほどね...)

忙しいなんて嘘なんだって、すぐに分かった。

(嘘が下手くそな夫ならば浮気なんて無理だろう、と甘くみていた)

僕は疑心でいっぱいな気持ちを気取られないよう、僕は「大変だねぇ」と言った。

 

「それにしては、今日も残業しないで真っ直ぐ帰ってきたじゃない?」

「それは...」

 

言葉に詰まってしまった夫に、僕はきょとんとした視線を送った。

今夜の夫はいつもより早めに外出をしたいようだ。

 

「やっぱ、チャンミンと一緒に夕飯食べたいじゃん?」

「嬉しいコトを言ってくれるねぇ」

 

僕は夫の罪悪感をかきたてようと...『何の疑いも持たず、夫の言葉に素直に喜ぶ夫』みたいな感じに...彼の背後からハグをした。

浮気相手との逢瀬だなんて、早合点だって分かってる。

夫は丼の中身をよく噛みもせずかき込むと、空になった米粒ひとつない丼をシンクまで運んだ。

 

「会社の鍵は開いてるの?」

「今週は俺が当番だから、鍵はバッチリ持ってる」

 

夫はコートを羽織った。

 

「今夜は特に気温が低い。

風邪をひかないよう、温かい恰好をしていって」

「わかった」

 

僕は、ボタンを締める間もなく外出しようとする夫を引き留めた。

 

「僕のマフラーを貸してあげる。

ユノのものよりあったかいし、大きいから」

 

紺色ベースのチェック柄のマフラーを、夫の首に巻き付けた。

 

「あ...ありがとう」

 

普段より3割増しに優しい僕に、夫は戸惑っている風に見えた。

配偶者の私物と香りをまとわせて、浮気相手に会いにいかせる僕...策士で意地悪だ。

 

(つづく)

 

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(1)僕らが一緒にいる理由

 

結婚生活も10年以上経過。

アラサー。

友人がそれほど多くない僕でも、結婚祝いや出産祝い、新築祝いなどご祝儀を包む機会が重なるようになった。

その度、複雑な思いを抱えながら、ピンと張ったお札を封筒に入れている。

 

 

昨年、夫が転職したのを機に、現在住んでいる築50年平屋建てに引っ越してきた

小さな中庭がついていて、いつの代からあったのか定かではない洗濯物干し台が残されていた。

さびついたそれが気になって、夫と一緒にペンキ塗りをしたのを契機に、家づくりにハマってしまった。

少しずつ手をいれてゆこう。

だって、僕らはこれまでもこれからも2人一緒なのだ。

淡々とした日々の連続の中で、共通の関心事のひとつやふたつ無いとなぜか不安と不満を生み出すのだ。

絆を確かなものにするために、例えば共に育ててゆくものがあるといい。

そして、互いに感謝が出来なくなった時など、関係性にピリッと刺激を与えてくれるような出来事があるといい。

それが何なのかは人それぞれで、いいコトも悪いコトもある。

僕らの場合は...何だったと思う?

過去に、僕らは夫夫の危機を経験した。

 

 

なんとなく様子がおかしい。

うっすらとした疑念が湧いたのは12月に入った頃だったか。

夫が何かと用事を思いついては、夕飯後にふらりと出掛けるようになった。

僕にひとこと声をかける時もあれば、僕の入浴中に家を空けている時もあった。

疑心暗鬼にかられると、神経が研ぎ澄まされ、わずかな差異に気付くようになる。

全てが怪しく思えてしまうため、全くの気のせいであっても、「疑わしい言動」になってしまうのだ。

何が「疑わしい言動」を産んでいるのか?

...僕は夫の浮気を疑っている。

ほぼ毎日コソコソと出掛けてゆくのだ。

30分から1時間で帰宅する日もあれば、就寝時間ぎりぎりになる日もあった。

喫茶店で仕事をしていたとか、銭湯に行って来たとか、スロットをやってみたとか、バッティングセンターとか、よくもこんなに沢山思いつくなと感心するほど、様々な言い訳をしてくる。

最初の頃は問いただしていたけれど、その都度言い訳する夫を見たくなくて、数回目には訊ねるのを放棄した。

「おかえり~。

外は寒かったでしょ?

あったかいもの飲んだら?」

なんて、気に留めていないフリをしていた。

僕が訊ねてこない事が居心地悪かったのだろう、夫自らぺらぺらと「外出の理由」を述べるのだ。

...大袈裟になっているのは分かってる。

でも、その「理由」のどれもが僕を納得させるものになっていない。

つまり、夫は嘘をついている。

例え、「理由」を補完する小道具を持参していたとしていても、疑いの念は晴れないのだ。

 

 

冬はイベントの多い月だ。

不穏な空気を漂わせたまま過ごすのは嫌だ。

(不穏な空気を感じ取っているのは僕だけで、夫の方はそのつもりはないと思うけれども)

早く白黒はっきりさせたいと思った。

僕の職業は小説家で、20歳の頃からコツコツと書き始めていたけれど、鳴かず飛ばずだった。

ところが長年の願いが叶い、ようやく書籍化された頃だった。

(アンソロジーものだったけれど)

まとまった原稿料が入金されたので、最高のプレゼントを夫に贈りたかったのだ。

名目は何でもよかった。

例えば、『いつもお疲れ様プレゼント』でもいい。

『僕と一緒にいてくれてありがとうプレゼント』でもいい。

こそこそと外出する夫に浮気の匂いを嗅いでいた僕は、夫に腹をたてるよりも、贈り物を使って彼を繋ぎとめようとしたかったのかもしれない。

昼間ずっと家に籠り、狭い人間関係の中で暮らしている男に魅力を感じなくなったのでは?

だから、僕が今すべきことは、夫が浮気をしているのかどうか確かめること。

もし、浮気をしていたと分かった時、僕はどうなってしまうのかについては、その時になってみないと分からない。

会っているところに乱入して、夫や浮気相手を攻めまくるのか、大泣きするのか...どうなってしまうのか、分からない。

確かなのは...別れられないだろうな。

夫のことだから罪悪感を感じて、「別れよう」と言い出すかもしれないけれど、僕は断固として受け入れないつもりだ。

「浮気」を疑っていながら、夫のことだから「浮気はしていないだろう」という妙な自信があったりもする。

だって、言い訳が下手過ぎるんだもの。

夫には「浮気」以外の理由があって、こそこそ外出をしている可能性がある。

そう思っている証拠に、夫へ素敵な贈り物をしたい気持ちが存在している。

ホント、僕の気持ちは複雑だ。

 

(つづく)

 

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【後編】7月8日のプロポーズ

 

<16年前の7月6日>

 

夕飯は、ユノが茹でた素麺と僕が下ごしらえしておいた豚しゃぶサラダ。

ベランダに出て夜空を見上げてみたが、一面雲に覆われていて星は見えなかった。

土曜ロードショーをTVで流しながら、織姫と彦星について調べたネタや今日のイベント中に遭遇した面白エピソードを披露し合う。

 

「スーパーボールをおまけしまくってたけど、怒られなかった?」

 

ユノ

「怒られたよ~」

 

ベッドに入る時まで、短冊に書いたお願いごとについて、何も触れられないままだった。

ユノからのリアクションをひそかに期待していたので、拍子抜けしてしまった。

ユノが書いたお願いごとを見せろ、とは言わないけれど、僕が書いたお願いごとを見て、何か言って欲しいなぁ、って思ったりして。

僕らは1枚のタオルケットをお腹にかけ、シングルベッドにぎゅうぎゅうになって寝ている。

2人分の体温で寝苦しくなり、エアコンの設定温度をうんと下げた。

大きなベッドが欲しいなぁ。

ユノに背を向けて寝ていたら、後ろから抱きしめられた。

寝返りをうったついでに、僕を抱き枕にしたのだ。

暑いし重いから、僕に体重を預けるユノを押しのけようとした。

 

ユノ

「...嬉しかった」

 

眠っていると思ったユノは、実は目を覚ましていたのだ。

 

「...何を?」

 

ユノ

「俺のやつは恥ずかしくて、見せられなかったんだ。

だから、隠すみたいなことしちゃってゴメン」

 

「そんなこと...別に気にしていないよ。

願い事は個人的なものだから、内緒にするものじゃないかな」

 

ユノ

「...チャンミンの短冊を見て、嬉しかった」

 

「『一生』ってとこが嬉しかった?」

 

ユノ

「そこもだし、俺の健康を祈ってくれたし。

自分のことよりも俺のことを優先してくれたところに、感動した。

チャンミンは人間ができてるね~」

 

「本心を書いただけ。

ユノが健康でいてくれたら、イコール僕も健康になるから、結局は僕の為なんだよ。

短冊には物質的な物...お金が欲しいとか、車が欲しいとかを要求したらいけないんだって。

要求じゃなくて、祈り。

そうだ...祈りだね、祈り。

七夕飾りなんて小学校以来だったから新鮮だった」

 

ユノ

「チャンミンの願い事を見たら、ますます俺のものを見せられなくなった。

変なこと書いちゃったから」

 

「変なこと?

え~、なんだろ」

 

ユノ

「見てもいいよ。

もし見つけられたらの話だけど」

 

「閉店したら、竹を片付けてしまうんだってよ。

飾りも短冊もひとつひとつ外すんだ。

その時に、ユノのを探そうっと」

 

ユノ

「どうか見つかりませんように!」

 

「ホントにそう思ってる?」

 

ユノ

「見つけて欲しい...かも」

 

「じゃあ、必死になって探すよ」

 


 

<16年前の7月7日>

 

ポツポツと小雨が降っている。

ユノとシフトが同じ日、一緒に出勤する。

ユノが着ているのは、僕が洗濯をしたTシャツだ。

まるで同棲しているみたいだ。

 

 

昨日よりもイベント会場は大盛況。

僕は願いがしたためられた短冊を手に、脚立を登ったり下りたりをし続けた。

見上げた枝のあの辺りに、ユノの短冊が揺れているはずだ。

 

 

お昼休憩は午後2時過ぎにずれこんでしまい、空腹を通り越して、食欲がなくなっていた。

サンドイッチと野菜ジュースだけの食事を済ませ、テーブルにつっぷして、仮眠をとった。

慣れない接客業と寝不足で、クタクタでフラフラだった。

寝不足なのはユノのせい。

今はお互い学生で、時間の融通がつくから予定を合わせやすく、どちらかの部屋を行ったり来たりできる。

1分1秒がもったいなくて、味わいつくそうとしてしまう。

不安なのかな?

楽しいけれど、片時も彼のことを視界の隅に収めていないといけない気がして、常にON状態だ。

ユノの気配がするものを片付けたり整える作業が大好きだから、同棲って憧れるなぁ。

気が早いかなぁ。

社員食堂に低い音量で、インストゥルメンタル音楽が流されている。

聞き覚えがあるメロディに、CCの曲だと遅れて気付いた。

 

 

21時閉店。

待ちに待った片付け作業。

点呼と担当の割り振りがあった後、それぞれが持ち場に散った。

鈴なりの短冊で装飾された竹を床に横たえ、せっせとそれらを外していくのだ。

その中からユノの短冊を見つけ出そう、色は赤と黄色だ。

土台ごと前方に倒していく際、脚立にのって竹の頂を最初に受け止めるのが僕の役目。

背が高いからという理由で選ばれた。

幹に縛り付けたロープを綱引きして、竹が一気に倒れないように支えるスタッフが2人。

(彼らが頑張ってくれないと、僕は竹の下敷きになってしまう)

縁日コーナーのスタッフたちも、向こうの作業が終わり次第、こちらと合流する手はずになっていた。

声をかけながら慎重に、ゆっくりと竹はこちら側に傾斜をつけてくる。

 

ここでハプニングが起きた。

竹を支えていたスタッフたちが、ロープの手を離してしまったのだ。

七夕飾りと短冊をたわわに実らせた竹が想像以上に重く、ロープ係が2人程度じゃ力が足りなかった。

「危ない!」「わあ!!」と、周囲から叫び声が上がった。

竹の頂が僕の顔面に直撃するまでの一瞬間が、ゴムのように引き延ばされた。

スローモーションだ。

短冊の1枚1枚が鮮明で、文字の1つ1つまで読み取れるほどだった。

直後から5分間、僕の記憶は飛んでしまった。

 

 

後になってきいたところによると、脚立ごとひっくり返った僕は、山積みにされたトイレットペーパーコーナーに背中から突っ込んだらしい。

そのおかげで、固い床に後頭部を強打せずに済んだ。

竹の下から引きずり出され、ぺちぺち頬を叩かれて、飛んでいた意識が戻ってきた。

 

「チャンミン!」

 

僕を覗き込むユノの顔がすぐそこにあったせいで、自分がどこにいるのかすぐには分からなかった。

えーっと、僕は何をしていたんだっけ?

すぐ後に、ここはバイト先で七夕の片付け中だったことを思い出した。

ユノの首にかじりつきそうだったから危なかった。

(縁日コーナーの片付けが終了し、七夕飾りの助っ人に向かっていた時に、竹に呑み込まれようとする僕を目撃したんだとか)

 

ユノの両膝を枕にした僕を、心配顔のスタッフたちが取り囲んでいた。

 

ユノ

「ここがどこか分かるか?」

 

「店」

 

ユノ

「お前の名前は?」

 

「...チャンミン」

 

ユノ

「俺のことは分かるか?」

 

「...ユノ」

 

ユノ

「指は何本ある?」

 

「3本」

 

ユノ

「......」

 

「嘘。

10本」

 

ユノ

「頭を打ってないか?」

 

「痛くない」

 

身を起こそうとしたら、「起きたら駄目だ!」と怒られた。

この場で僕のことを心配し介抱する権利を持っているのは、副店長でもフロアリーダーでもなく俺だけだ、と言わんばかりだった。

 

 

「大丈夫ですから」を連呼しても、万が一のことがあるからと、帰宅を許してもらえなかった。

僕はフロアリーダーの車に乗せられ、夜間救急にかかることになってしまった。

もちろんユノも一緒だ。

 


 

<16年前の7月8日>

 

病院内は薄暗く、避難口誘導灯がとても明るく感じられる。

すぐ傍にフロアリーダーが居たせいで、僕らは手を繋げずにいた。

一通りの検査を終え、現状問題無しと診断が出た頃には、日付が変わっていた。

フロアリーダーにアパートまで送ってもらい、僕らは彼の車が走り去るのを見送った。

やっと2人きりになれた。

 

ユノ

「何事もなくてよかったな」

 

「お恥ずかしい限りで」

 

昼間のうちに雨が止んでいたようで、道路が乾きかけていた。

空まではすっきり、とまではいかず、雲と雲の隙間から星が少し見える程度だった。

満点の星空や天の川が見られなくて、残念がる気持ちはちょっとだけだ。

子供の頃、7月7日とはとても神聖な日で、夜空に織姫と彦星を探していたのに。

バイト先の七夕イベントがなければ、七夕飾り係にならなければ、「お願いごとって何かな?」と考えもしなかっただろう。

大人になってピュアじゃなくなった僕は、七夕のお願いごとにかこつけたところがあったかな。

でも...1枚の短冊にしたためる行為を通して、僕と大切な人の幸福を祈る...素敵だよね。

 

 

午前3時。

いつものように、一緒にシャワーを浴びた。

打ち身はないか、ユノは僕の身体をすみずみまで見るんだから。

おふざけが過ぎて、僕の大事なものを裏返して見るんだから。

 

「だから怪我はないんだって!

あとはひとりで平気だから!」

 

ユノを風呂場から追い出した。

風呂上がりに洗濯の下準備をした(僕にはこういう細かいところがある)

洗濯機からいったん、汚れ物を出して、丸まったままのTシャツを直したり、ズボンのポケットをあらためる。

ポケットに何か入れたまま洗濯機をまわした結果、泣きたくないからだ。

僕のズボンポケットの中から、油性ペンのキャップ、客から引き取った書き損じの短冊が出てきた。

ユノの横ポケットからスーパーボール、後ろポケットからはガムの包紙などが出てきた。

 

 

ユノ

「チャンミン」

扇風機で髪を乾かしがてら涼んでいると、あらたまった風に声をかけられた。

 

ユノ

「短冊に書いた願い事についてだけど...?」

 

「ずっこけちゃって...ユノのを回収できなかったよ。

すごい残念」

「うん。

だから今、教えてあげる」

 

濡れ髪のユノは僕の隣にあぐらをかいた。

全くもって、いい男だ。

 

「ホントに?

でも、恥ずかしいんでしょ?」

 

ユノ

「恥ずかしいけどさ。

チャンミンは伝えてくれたんだ。

俺ばっかり黙っていたらだめだな、って思った」

 

「へぇ...聞かせて」

 

僕もあぐらをかいて、ユノの方へ身体を回転させた。

ユノはオホンと、咳ばらいをした。

 

ユノ

「俺が書いたのは...」

 

言いかけて、ユノは黙り込んでしまった。

 

ユノ

「......」

 

脱水中の洗濯機の音が、脱衣所から響いてくる。

突然、弾かれたようにユノが立ちあがった。

 

ユノ

「ヤバっ!」

 

ユノの長い脚なら、大股で数歩。

 

ユノ

「ヤバっ、ヤバい!」

 

「えっ!?

どうしたの?」

 

僕も脱衣所までユノを追った。

 

ユノ

「開かない!

ロックがかかってる!」

 

脱水中でゴトゴト震える洗濯機のボタンを連打している。

僕はユノの後ろから手を伸ばし、電源ボタンを押した。

洗濯槽が停止するなり、ユノは蓋を開け、大きな塊になった洗濯物を引っ張り出した。

ユノが慌てている理由が分かった。

 

「ねーねー、ユノ」

 

複雑に絡まりあった衣類を解きほぐそうとしているユノの背中を、つんつんつついた。

 

「どうしたの?」

 

ユノ

「ポケットに入れてた物があって...」

 

「嘘!?

ヤバいじゃん!

何を入れたままだったの?」

 

ユノ

「濡れたらヤバイやつ」

 

「ペンとか?」

 

ユノ

「違う。

紙もの」

 

「...もしかして...これのこと?」

 

とぼけていられなくて、僕はハーフパンツのポケットから取り出したモノを、ユノの目の前に差し出した。

洗濯機を回す前、ユノのズボンのポケットから見つけた物だった。

「探してるモノって、これでしょ?」

 

ユノの目がみるみる、大きくまん丸になった。

 

ユノ

「おいっ!」

 

ユノは素早く、僕の手からそれを取り上げた。

 

「ごめん...見つけちゃった」

 

ユノ

「......」

 

「洗濯しようと思って。

ポケットに何か入っていたらいけないって、その時に見つけちゃった」

 

ユノは僕の顔を正視できないらしく、紅くなった顔を横に背けている。

 

ユノ

「...笑わないの?」

 

「笑えないよ」

 

ユノ

「まだ学生なんだぞ。

それに、チャンミンとそれっぽい関係になって、それほど経っていないのにさ」

 

「年齢とか時間は関係ないよ」

 

ユノ

「気が早いだろ?

笑ってもいいんだぞ?

でも、すぐに叶えられることじゃなくて、それをもっとグレードアップさせたお願いごとにしようと思ったんだ」

 

「お願いごとと言うより、宣言だね」

 

ユノ

「『何々しますように』と書くよりも、『何々します』と言い切った方がいいって、言ったじゃん」

 

「うん。

言ってたね」

 

ユノは僕から取り上げたモノ...赤色の短冊の皺を伸ばした。

 

「よく見つけたね」

 

この短冊は、脚立にてっぺんまで登り、長身のユノが背伸びをしないと届かない所に吊り下げられていたはず。

ユノはいつ、これを見つけたのだろう。

笹の撤去作業の時点では、ユノは縁日コーナーにいた。

笹を倒す途中、僕が騒ぎを起こしてしまい、その後ユノは僕に付きっきりだった。

 

ユノ

「チャンミンが握っていたんだんだよ」

 

「嘘!?」

 

ユノ

「嘘じゃないよ。

脚立から落ちた時、チャンミンが握りしめていたんだよ。

えっ!?

もしかして覚えてない?」

 

「うん...。

いつだろ」

 

僕だってユノの短冊を手にする機会はなかった...。

...なかったっけ?

あった!

 

「あの時だ!」

 

大量に短冊をぶら下げた笹が、僕の顔面を直撃する瞬間だ。

ぐんぐん迫ってくる色の洪水。

その中からたった1枚、「これだ」と直感した。

ユノの短冊はあれだ。

見つけた。

それだけが発光していたのか、スポットライトを浴びていたのか。

 

『チャンミンと結婚する』

 

僕は無意識に、本能的にそれをつかみ取っていた。

嘘みたいだけど、ホントウの話だ。

そして、握りしめていたその短冊を、僕を介抱したユノが回収したのだそうだ。

ユノ

「馬鹿みたいだろ?」

僕はぶんぶん、首を振った。

ユノは、大きな手で大切そうに、その小さな紙きれを何度も撫ぜていた。

 

ユノ

「俺って、何書いてんだろうね。

ぶっ飛んでるだろ?

馬鹿だよなぁ」

 

「馬鹿みたいに愛されて...すごい嬉しい」

 

ユノ

「願い事を突き詰めていったら、『結婚』しかないよな、と思ったんだ。

それにしても、七夕の願い事でプロポーズってさあ」

 

「僕の願い事も、突き詰めるとそこに行き着くよね」

 

ユノ

「俺と同じ気持ち?」

 

「一緒だよ」

 

ユノはぐずぐず言い出した僕の頭を、ぐしゃぐしゃと撫ぜた。

 

 

その後、時を待たずに、僕らは願い事を現実のものとした。

 

 

ユノが書いたもう1枚の短冊は、

『チャンミンが120歳まで健康に生きますように』だってさ。

 

(おしまい)

【中編】7月8日のプロポーズ

 

<16年前の7月6日>

 

曇り。

予報によると、今日は1日曇り。

午後から出勤なので、太陽が照り付ける中を歩かずに済んでよかったと思う。

早番のユノは先に家を出て行った。

 

 

僕はユノを見送った後、洗濯と夕飯の下ごしらえをする。

ユノのTシャツと下着を、僕のものと一緒に洗う。

僕の部屋にユノの私物が1つ、また1つと増えてゆく。

部屋に点在する、歯ブラシや剃刀、髭剃りフォーム、靴下、ゲーム機や文庫本

まるでマーキングしていっているみたいだ。

全然嫌な気はせず、むしろ嬉しい。

こういう感覚は、特に女性が感じるものなのだろうか。

僕は、半径5メートル以内の中にあるモノを目にしたり触れたり、小さな空間の中で行う事だったり、そういった細々とした事柄にじんと幸せを感じるタイプかもしれない。

反対に男とは、視界に入る日常的なものはあって当然で、そんな程度では幸せセンサーは動かない。

成功や獲得などの大きな事柄が起きないと、「生きててよかった」と感じないのでは?と、ユノと居るうちに思うようになった。

他の男たちは何を考えているか分からない。

ユノが幸せ気分になるのはどういう時なのか、訊いてみないと分からない。

小さな頃から『女っぽい』といじめられてきたから、僕は女っぽい男なんだとずーっと思って生きてきた。

男性アイドルに本気で恋をしたり、ユノの下着を干しているだけで幸せ気分になってしまうのだ。

洗濯機のブザーの音で、「女っぽいとは?」「男らしいとは?」を問う考え事が中断した。

(曇り空じゃ1日じゃ乾かないだろうけど、汚れたシーツも洗ったのだ)

別にいいや。

僕は好きな人の身の回りのことをお世話する事が好きな男なんだ...と結論が出た。

 

 

食事やベッドを共にするのは、大抵のカップルがしていると思う。

僕が思うに、2人の汚れものを一緒に洗濯することって、生っぽい親密さを感じる。

どちらかの部屋に入り浸り、私物が増えてゆくからわざわざ帰宅しなくても困らなくなり、気付けば同棲していた。

僕とユノもそうなりそうな予感がしたりして。

薄曇りの空の下、物干し竿にぶら下がる洗濯ものを眺めながら、短冊に書くお願いごとの文面を考えていた。

 

 

勤務30分前に到着できるよう家を出た。

ショッピングセンターの駐車場は8割方埋まっている感じだ。

週末に行事が重なったことで、普段よりお客は多そうだ。

正面入り口からお客として店に入り、縁日コーナーを覗いてみる。

大きなビニールプールにカラフルなスーパーボールが大量に浮いていて、ポイを握りしめた子供たちはひとつでも多くすくおうと、真剣だ。

そこは親子連れの客たちでとても賑やかで、そんな人混みの中からすぐにユノを発見できた。

(ユノが発光しているのか、スポットライトを浴びているのか、僕の目はおかしくなっているようだ)

ひとつもすくえずにいた子供にも、ユノは気前よくサービスしてあげていた。

悔しくて泣いている子には、さらにもう1個おまけをあげていた。

(後で、上司に叱られなければいいけれど)

これって、惚れ直してしまう典型的なシーンなんじゃないかな。

ユノは僕に気づいて片手をあげ、僕も手を小さく振ってこたえた。

働くユノを見てみたくて、ちょっと早めに出勤したのだ。

 

 

ユノは次から次へとやってくる子供たちの対応に追われていて、その合間にちらちらと僕に笑顔を見せてくれる。

満足した僕は一旦外へ出たのち、裏の従業員入口から建物内に入店した。

 

 

「わあ」と思わず声が漏れた。

どこから調達してきたのか、巨大な笹がディスプレイされていて、既に色とりどりの短冊がぶら下がっている。

圧巻だ。

お願いごとを書くテーブルはほぼ埋まっていて、担当のスタッフたちは大忙しのようだった。

今日明日と、ここにいずっぱりになる。

昇りエレベーターの陰になって見えないところに、ユノがいる縁日コーナーがある。

 

 

次々と客たちの相手をし、その度同じ説明を繰り返し、その短冊の赤や黄色、青色がちらちらと残像となって、頭がくらくらしてきた。

夕方を過ぎると客足がひき、ようやく、ひと息つけるようになった。

喋りっぱなしでカラカラになった喉を、差し入れのお茶で潤し、短冊に書く文面を考えていた。

ぼーっとしていたので、目の前にユノが立っていることに気づけずにいた。

頭をこつんとやられて、もの思いから引き戻された。

「俺にも1枚頂戴」

ユノは制服を脱ぎ、私服に着替えていたから、仕事上がりなのだろう。

「うん。

どうぞどうぞ、いっぱい書いて。

短冊って何枚でも書いていいんだって」

「やった!

1枚のつもりでいたからさ。

じゃあ、2枚頂戴」

と、ユノは赤と黄色の短冊を選んだ。

「僕、調べたんだけど、お願いごとは、『何々しますように』じゃなくて、『何々します』と言い切った方がいいんだってさ」

「あっち行って書くよ。

チャンミンに見られたら恥ずかしいから」

と、ひらひら手を振られてしまった。

恥ずかしいこと?

僕が絡んでいることかな、なんて自惚れてしまったりして...。

ユノはテーブルの端っこの席に座り、油性ペンでコリコリ書いている。

大きな背中を丸めて、可愛いなぁと思ったりして。

ユノの中では、お願いごとは既に決まっていたらしく、あっという間に2枚分書き上げた。

僕に見られないよう、短冊を背中に隠している。

「書いたやつを笹に吊り下げるのって僕がやるんだよ」

日勤のスタッフたちは帰ってしまい、このコーナーは僕を含めて2人になっていた。

しかも、そのひとりは休憩に行ってしまっている。

「じゃあ、俺が吊り下げる」

「駄目だって!

今のユノはお客さんになんだよ」

僕の制止はお構いなしに、ユノは脚立のてっぺんまで登り、余程僕に見られたくないのか、背伸びまでしている。

途中、ぐらりとバランスを崩したユノに、僕は大慌てで脚立に飛びつき、彼が降りてくるまで押さえていた。

僕はユノが吊り下げた辺りを、目に焼き付けた。

明日の閉店後、笹を片付ける時に探そうと思ったのだ。

何百枚もある中から見つけられる可能性は低いけれど、気になって仕方がないのだ。

「チャンミンも書いたら?」

「今?

僕、仕事中なんだけど?」

閉店後に書くつもりだったし、ユノの目の前で書くのは恥ずかしい。

ユノは周囲を見回し、

「空いてるし、誰も見ていないよ。

書いちゃえ!」

と急かされた。

僕は真ん中の席につき、赤と黄色の短冊を2枚とった。

そして、ユノの目の前で、堂々とお願いごと書き始めた。

なぜだか、急に気が変わった。

ユノはびっくりしただろうな。

僕らはお互い好き合っていることを知っているし、付き合っているつもりでいるのに、『好きだから付き合おうか?』と告白したことがないのに。

いい加減、告白すればいいのに。

(でも、それでいいのだ。

僕らは、態度と文字で『好き』を伝えることが得意。

16年間、このスタンスで一緒に暮らしてきた)

『死ぬまで、ユノの隣にいられますように』

『ユノがずっと健康でいられますように』

書き終えた短冊を、目線の高さに吊るした。

僕を見守っていたユノの方をふり返ると、色白の彼の頬がピンク色になっていた。

僕の顔をまともに見られずにいるユノに、僕は内心でニヤニヤしていた。

「さ、先に帰ってる。

素麺を茹でておくよ」

ユノはどもり気味に言うと、七夕コーナーから走り去っていってしまった。

今夜もユノは僕の部屋に泊まる。

ユノには合鍵を渡してあるから、大丈夫。

 

(つづく)

 

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