(5)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

 

チャンミンにアクセサリーを買ってあげた。

 

ロイヤルブルーに染めたスエード製で、柔らかく肌当たりのいいチョーカーだ。

 

言い方を変えれば、『首輪』に他ならない。

 

でも、俺にはチャンミンを縛りつけるつもりは全くない。

 

首の傷跡を隠せるもの、となると、やはりこれしか思いつかなかったのだ。

 

「青い首輪がいいです。

宝石が埋め込まれていたら、素敵でしょうね」

 

なんてことを、うっとりした表情で言っていた。

 

バックルはプラチナ製で、紐を繋ぐためのDカンは無し、ダイヤモンドを埋め込んだ三日月形のチャームが付いている。

 

「チャンミン、こっちにおいで」

 

リビングの隅で腕立て伏せをしていたチャンミンに声をかけた。

 

(筋力をつけたいのだそう)

 

信頼する飼い主に名前を呼ばれた犬のように、まっしぐらに駆け寄ってくる。

 

届いたばかりの小包をチャンミンの前で開封し、幾重もの薄紙に包まれたチョーカーを取り出した。

 

「...なんですか、これ?」

 

「チャンミンへのプレゼントだ」

 

「僕に?」

 

チャンミンの首に、それを装着してやった。

 

「もう少し緩めようか?

きつくない?」

 

チャンミンの長い首が引き立ち、よく似合っていた。

 

「首輪に見えるけど、そうじゃないからな。

これはね、『チョーカー』と言ってアクセサリーのひとつだ」

 

チャンミンを誤解させたらいけない。

 

「チョーカー...ですか」

 

チャンミンは指先で首に巻かれたものの肌ざわりを確かめ、喉仏の下で揺れるチャームに触れた。

 

「鏡を見てきてもいいですか?」

 

「どうぞ」

 

洗面所に走っていき、直後「おー!」と歓喜の声が。

 

「お兄さん!」

 

走って戻って来たチャンミンは、体当たりするみたいに俺の首にかじりついた。

 

「僕の話を覚えてくださったんですね。

素敵です。

とっても素敵です!」

 

俺の左右の頬にキスの嵐を降らす。

 

「気に入ってもらえたようで、嬉しいよ」

 

「嬉しいです。

僕は貰ってばかりです」

 

チャンミンの丸い眼はすでに、涙で潤んでいた。

 

つくづくチャンミンは優しい目をしていると思う。

 

「チャームがないシンプルな黒もあるよ。

TPOに合わせて使い分けるといい」

 

「ティーピーオー?」とチャンミンの問う表情に、その言葉の意味を教えてあげた。

 

「これは?」と、チャンミンはチャームを指で揺らした。

 

「ダイヤモンド。

宝石が付いているのがいい、って言ってただろう」

 

「あれは、絶対に叶いっこないことを言っただけです。

ホントに宝石がついた首輪...じゃなくて、チョーカーを貰えるなんて...」

 

「何かあったとき、それを売るんだ。

生活の心配はしなくて済むからな」

 

「『何かあったとき』って、何が起こるんですか!」

 

チャンミンの怒った目をみるのは初めてだった。

 

「誰だって先のことは分からないんだ。

 

事故に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない」

 

「お兄さんが事故に遭うなんて、僕は嫌です!」

 

「家族はいるのか?

俺以外に頼れる者はいるのか?」

 

いないだろうと分かっていての、敢えての質問だった。

 

俺の問いにチャンミンは視線を伏せると...ぶるぶると首を横に振った。

 

「万が一のことを考えて準備はしておかないと。

...それだけの意味だ。

いつかチャンミンを置いて、どこかに行ってしまうかもしれないから、チョーカーを贈ったんじゃない。

それに...。

俺はチャンミンを追いだすことは絶対にしない。

チャンミンがここを出たいと思うようなるまで、ここに居ていいんだ」

 

「お兄さんの馬鹿!

ここを出たいなんて...僕が思うわけないでしょう?

僕はずーっと、ずーっと、お兄さんちにいます!」

 

眉と口角が下がり、顎をしわくちゃにさせたかと思ったら、うわーんと泣き出してしまったチャンミン。

 

「ごめん」

 

チャンミンの手を引き、俺の膝の上にまたがらせた。

 

そして、おいおい泣き続けるチャンミンの背を擦った。

 

泣き止むまで背中を擦り、俺のシャツが涙で濡れるに任せた。

 

小さな子供のように泣きじゃくるチャンミン。

 

大きな子供。

 

もし自分に子供がいたら、こんな感じなんだろうか。

 

ちらっと頭に浮かんだこの考えを、即打ち消した。

 

子供だなんて、とんでもない。

 

密着したチャンミンの骨ばった身体、擦る手の平に感じる背骨のデコボコ、細い腰。

 

薄手のTシャツを上に着ただけで、下は小さな下着1枚。

 

チノパンの太ももに当たる柔らかな膨らみを意識すると、なんだかたまらない気持ちになった。

 

チャンミンを店から連れ出した夜以来、努めて彼に手を出さないよう自制してきた。

 

チャンミンに魅力がないわけじゃない。

 

手を出したらいけない気がしたのだ。

 

チャンミンとヤルために、俺は彼を買い取ったわけじゃないのだ。

 

この意志表明を貫くため、俺にお礼をしたいからと身体を摺り寄せてくるチャンミンを遠ざけていた。

 

チャンミンとは、守らなければならない存在、世話をしてやらなければならない存在で、決して性的な感情を持って触れてはいけないのだ、と。

 

それも時間の問題だな、と思った。

 

なぜなら俺は、この男に惹かれている。

 

惹かれたからこそ、自由にしてやりたいと思った。

 

のびのびと自由に過ごすチャンミンの姿を、そばで見守りたい。

 

店を後にした時、俺を追いかけてきたチャンミン。

 

心が震えた。

 

もしかしたら、心の奥底ではこんな展開を期待していたのかもしれない。

 

彼の衣食住を整えてやり、感謝され悦に入るために、そばに置いているわけじゃないのだ。

 

無知で無邪気で、悲しい過去を持つチャンミンの背中を、切ない思いで見守るだけじゃ足りない。

 

彼の身も心も慈しみ愛したい。

 

 

 

 

「言い方が悪かったね。

俺んちに居てもいい、なんて言い方がいけないんだな。

俺んちに居て欲しい。

チャンミンに来てもらって、俺はとても楽しいよ。

俺からのお願いだ」

 

「...っう、うっ...うっ、うっ」

 

「チャンミン。

おれんちに居てくれる?」

 

そうなんだ。

 

チャンミンが我が家に来てから、日々が充実してきた。

 

ひとつ屋根の下、誰かの気配を感じながらの暮らし。

 

家族以外の誰かと暮らすのは初めてだった。

 

厳密に言うと初めてではなかった。

 

俺を買った主との生活を「誰かと暮らす」に含めなかったのは、主従関係によるものだから。

 

「嬉しいです...。

お兄さんのそばにずーっといます」

 

俺は袖口でチャンミンの涙をぬぐってやった。

 

俺の肩にもたせかけられたチャンミンの頭を、よしよしと撫ぜ続けた。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

お兄さんに首輪をもらった。

 

これはあくまでもアクセサリーで、お兄さんは『首輪』のつもりで贈ったんじゃないことは、ちゃんと分かってる。

 

首輪の痕を隠すためのアクセサリー。

 

でも、僕にとってこれは素敵な首輪だ。

 

お兄さんと繋がれた気持ちが強くなり、とても嬉しかった。

 

明日、散歩に連れていってくれるんだって。

 

世界中の人たちに、見せびらかしてやろう。

 

僕はお兄さんのもの。

 

お兄さんは僕だけのもの。

 

 

 

 

僕の首は汚くて、鏡を見る度「どうにかならないかなぁ」と思っていたところだ。

 

お兄さんの洗面所には、綺麗な色をした液体が入った瓶やいい匂いがするクリームがいっぱい並んでいる。

 

こっそり蓋を開けて匂いを嗅いでみたり、手や腕に塗ってみたりする。

 

早く消えてほしくて、茶色い痕にクリームを塗ってみたりもした。

 

水色の液体は、塗る度すーすーするのが気持ちよくて遊んでいたら、お兄さんはぷっと吹き出していた。

 

「これはマウスウォッシュだよ」って。

 

「そうじゃないかなぁ、って...分かってましたよ」

 

客と始める前とやり終わった後に、こういうもので口を洗っていた。

 

お店で使っていたものはピンク色だったし、薬臭かった。

 

お兄さんは僕を抱いてくれない。

 

僕にお礼をさせてくれない。

 

僕の我慢も限界だった。

 

お兄さんの両頬を挟んで、お兄さんの唇に力いっぱい僕の唇を押しつけた。

 

すぐに引き離されるかなぁと思った、いつも通りなら。

 

でも、この時はちょっと違った。

 

お兄さんの唇の力がゆるんだんだ。

 

やった...!

 

開いた隙間から、僕は舌をいれた。

 

舌の裏をペロンと舐められた時、僕の膝の力が一瞬抜けた。

 

すかさず、お兄さんの腕で腰を支えられた。

 

どうしよう...すごく気持ちがいい。

 

僕らの周りはミントのいい香りが漂っている。

 

鏡に背を向けていたから、僕らのキスシーンを見られなかったのが残念だった。

 

お兄さんともっともっといっぱいキスがしたい。

 

 

(つづく)

 

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(4)あなたのものになりたい

 

 

チャンミンの喉には、茶色い色素沈着の輪が出来ている。

 

長年固く太い首輪を巻かれ、力づくに引っ張られてきた名残...何て言い方はぬるいな...傷跡なのだ。

 

見慣れてはきたが、ルーフバルコニーの屋外の光の下では、なまっちろい肌にその痕はあまりにも目立った。

 

チャンミンはかつて『犬』だった。

 

大抵の者は目を反らし、そこから暴力の匂いを感じとるだろう。

 

痛々しいからといって、痕を隠せるアクセサリーとなると、首輪しか思いつかないのだ。

 

タートルネックのトップスを着たりスカーフを巻く手もあるにはある。

 

洋服に関しては相変わらずだ。

 

下着を1枚身につけただけでウロウロするチャンミン。

 

「客が来たとき驚いてしまう。

せめてTシャツだけでもいいから、着なさい」

 

ぷぅと膨れるチャンミン。

 

口を尖せるなんて、大人の男がするには幼稚な表情だ。

 

「大人の男になりたいんだろう?

裸でいるなんて、ホンモノの犬みたいだぞ?」

 

言葉の選択を誤ったかな、とヒヤリとしたが、チャンミンは気にした風はない。

 

「それは困ります。

ホントは嫌ですけど、お兄さんのために着ます」

 

貸したTシャツに袖を通し、クローゼットの扉に取り付けた鏡に、自身の姿を写している。

 

「それに、はやく大人の男になりたいですから」

 

振り向いた笑顔が無垢過ぎて、俺はやっぱり胸が締め付けられそうになるのだった。

 

チャンミンには皮肉や嫌味は通じない。

 

言葉の意味そのままを受け入れ、「なるほどそうですね」と頷いたり、しょんぼりしたりする。

 

褒めれば、小躍りして喜びを発散させる。

 

チャンミンは素直だ。

 

怖いくらいに素直だ。

 

こんなんでよく、無数の客を相手にする職を続けてこられたな、と俺は感心するのだ。

 

何色にも染まっていないのは、芯のしっかりとした心を持っているのだろう。

 

だからこそ。

 

チャンミンに外の世界を見せてやりたい。

 

いつ『犬』になったのかによるが、チャンミンは社会生活を送った経験はないのでは、と思っている。

 

チャンミンの言葉遣いや見るもの触れるものに、いちいち目を輝かせるところから分かるのだ。

 

そうなんじゃないかと。

 

ここに来てからのチャンミンの教材は、TV番組だ。

 

おやつで出したドーナツを齧ることを忘れて、ぽかんと口を開けて見入っている。

 

その時のチャンミンの顔は百面相だ。

 

難しい言葉を耳にすると、「お兄さん、『僭越ながら』とはどういう意味ですか?」「『オンデマンド』とは?」などと質問してくる。

 

一度覚えた言葉は、早速使ってみたりして、俺を微笑ませるのだ。

 

その姿を、リビングを通りかかった際や、ほっとひといきお茶の時間などに、飽きもせず眺めるのだ。

 

そして、やはり切なくなるのだ。

 

チャンミンは一体いつから、社会から隔離された生活をしていたのだろう。

 

興味があった。

 

少しずつ聞き出して、チャンミンのことを知っていこうと心に決めた。

 

 

 

 

俺たちは日向ぼっこをしていた。

 

バルコニーには樹木を植えた大きな鉢植えが並べられている。

 

オリーブやユーカリ、ジューンベリーやビワなど果実のなる樹木、葉の形を楽しむだけの難しい名前のものも。

 

ハーブだけを植え付けたコンテナもある。

 

赤や黄色、ピンク色など、色鮮やかな花が咲く植物は好みじゃなかった。

 

グリーンとホワイトに統一された、俺の小さなオアシス。

 

手入れは専門業者に依頼していたところ、「僕の仕事にします」とチャンミンがそれを買って出た。

 

チャンミンはラベンダーの葉先に触れ、手の平に移った芳香をくんくんと嗅いでいる。

 

「いい匂いがしますねぇ」

 

次はリンゴの木の根元にびっしりと茂ったタイムに同様なことをしている。

 

「この木は、実がなりますか?」

 

「ならないよ」と答えると、「えー」と心底残念そうに両眉を下げる。

 

「リンゴは1本だけじゃ実がならないんだ。

2本以上植えないと」

 

「そうなんですか...。

お兄さんは物識りですねぇ」

 

チャンミンは水やりをしていた。

 

植物が水を吸い込むしゅわしゅわとした音。

 

濡れた草木は瑞々しく、濃い緑になっている。

 

コンクリートの床に落ちる影は濃い。

 

俺は寝椅子に横になって、イヤホンで音楽を聴きながら雑誌をめくっていた。

 

たまに顔を上げて、チャンミンの姿を目で追った。

 

オーバーサイズのTシャツから伸びる細くて長い素足。

 

足元は裸足だ。

 

アクリル製の柵の向こうは、空はぱきっと青く、高層ビル群の薄青から薄灰色のグラデーション。

 

ひときわ高層の鏡面仕上げのビルは、眺める角度を変える度、ギラっと鋭い光で俺の目を射る。

 

くねくねと複雑に重なった高架道路。

 

オフィス街を抜けた先、低層のビルが建ち並ぶエリアの裏道に、チャンミンが暮らしていた店がある。

 

健全な精神の持ち主なら、通り抜けるのを躊躇してしまう雑多で怪しい空気に満ちた路地にある。

 

「わぁっ!」

 

ふざけたチャンミンが、シャワーヘッドを俺の方に向けたのだ。

 

霧状のシャワーが俺の全身を濡らす。

 

チャンミンはアハハハと笑っている。

 

大きな口だ。

 

 

 

 

ひとり留守番をさせるのが心配で、外出を控えていた俺だった。

 

自宅にいながら何でも手に入るし、仕事もできる。

 

とはいえ、同居生活も2週間を超えると、思いきり身体を動かしたくなる。

 

ルームランナーで10㎞走ってみたが、どうもすっきりしない。

 

今日はあいにくの雨降りだ。

 

次に晴れた日に、チャンミンを連れて散歩でもしようと思った。

 

スタンドで飲み物とサンドイッチを買って、公園の芝生に腰を下ろして食べよう。

 

喜んでくれたらいいな、と思った。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

お兄さんに借りたTシャツは、当たり前だけどお兄さんの匂いがする。

 

僕は匂いに敏感だ。

 

薄いピンクの壁に囲まれた部屋の中にいると、遠くの景色を眺めることはない。

 

音に関しても、意味の分からない音楽が常に流されている。

 

唯一、バリエーションが豊かなのは匂い。

 

客ごとに匂いが違う。

 

お兄さんのあそこを頬張った時のことを思い出した。

 

とてもえっちな匂いがした。

 

お兄さんは相変わらず僕を抱いてくれない。

 

お兄さんとひとつ同じベッドで眠っているのに、僕に手を出さない。

 

ハグをしたり、唇が触れるだけのキスはしたりしているけど、それだけ。

 

じれったくて、胸がモヤモヤする。

 

沢山の客たちから浴びるようにされてきて、ハグとかキスが当たり前だった僕。

 

前のショユーシャの人は、僕にハグやキスや、もっといろいろなことをしたくて買い取ったのに。

 

そういうことに僕は慣れっこだったし、そのために買われたんだから、一生懸命に応えてあげたのに。

 

お兄さんは、僕とハグやキスをするために買ったんじゃないのかな。

 

そのことが寂しかった。

 

だって僕は、お兄さん専用の『犬』なんだから。

 

 

 

 

お兄さんの家は広くて、暑くも寒くもなく、ルーフバルコニーから見下ろす景色が素晴らしい。

 

王様の気分になれる。

 

お兄さんにお礼がしたくて、植物の世話を僕に任せて欲しいと頼んだんだ。

 

見るからに柔らかそうな芽吹いたばかりの葉っぱを、指先でちょんちょんとくすぐる。

 

お兄さんは「それは雑草だよ」と言って笑っていた。

 

しゃがんだ僕は、花壇の縁に両肘をついて、鼻を近づけて深呼吸する。

 

水っぽく青い匂い、バークチップの辛い匂い、先ほど撒いたばかりの水が乾いていくコンクリートの香ばしい匂い。

 

太陽は背中を温めて、どうやってここまでたどり着いたんだろう、ミツバチがぶぶぶと羽音をたてて飛んでいる。

 

ミントとカモミールの花の間を行ったり来たりしている。

 

秘密の花園。

 

ルーフバルコニーを僕はそう呼ぶことにした。

 

 

 

 

昨日から僕は、お兄さんに取り寄せてもらったカタログを見ている。

 

「欲しいものがあったら注文していいからな」って。

 

僕の様子を窺いにリビングに寄ったお兄さんは、僕の肩ごしにカタログを覗き込んだ。

 

「リンゴの木が欲しいです。

それから...これも」

 

「...ズッキーニだぞ、それは?」

 

ズッキーニが分からなくて首を傾げていると、「野菜の名前。オーブンで焼いて食べると美味しいんだ」と教えてくれた。

 

「気になるものは、ページの隅を折っておいて。

まとめて注文するよ」

 

「はい」

 

シアワセ過ぎて、胸がウズウズする。

 

お兄さんはとても優しい。

 

でも、切れ長のまぶたの下の瞳は真っ暗で、じぃっと見つめていると僕まで悲しくなる。

 

お兄さんは寂しいのかな、と思った。

 

ソファに腰掛けたお兄さんのひざに、向かい合わせにまたがった。

 

「チャンミンっ...」

 

お兄さんの頬にそっと手を添えて、顔を斜めに傾けて唇を押し当てた。

 

お兄さんを困らせてしまうから、押し当てるだけまでで我慢した。

 

ホントはもっともっと、べろべろしたキスがしたい。

 

今日のキスは、僕の背中を撫ぜながらだったから、一歩前進だ。

 

お兄さん、安心していいよ。

 

追い出されるまでは、僕がそばにいるから。

 

 

(つづく)

 

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(3)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

 

偽善の慈善を施した風に見えただろう。

 

気まぐれの行為が、誰かひとりの人生を大きく変えてしまう。

 

変えてしまえる力を自分は持っているのだと、優越感に浸りたいつもりもない。

 

誰かを救った自分はそう捨てたものじゃない、と自己肯定感を持ちたかったわけでもない。

 

気付いたらそうしていた。

 

彼を連れて帰っていた。

 

だから、深く分析するつもりは全くないのだ。

 

 

 

 

チャンミンを連れて帰って10日ばかり経った。

 

通勤の必要のない俺は大抵自宅にいるから、24時間チャンミンとひとつ屋根の下で過ごすことになる。

 

不思議なことに、チャンミンの存在は気に障らない。

 

空気のようにここに馴染んでいた。

 

俺の邪魔をしないよう、息をひそめて過ごしている風でもない。

 

彼なりに寛いでいるようだ。

 

1時間前はTVを食い入るように観ていたのが、トイレに立った時リビングを覗いてみると、ソファに横になって眠っていた。

 

「風邪ひくぞ」

 

裸の肩にブランケットをかけてやる。

(未だに洋服を着ることを嫌っているのだ)

 

チャンミンのために、リビングの設定温度を上げていたため、暑がりの俺の額に汗がにじむ。

 

ソファに腰掛けて、チャンミンの頭を膝に乗せた。

 

そして、ふわふわと柔らかな髪を梳いてやる。

 

「う、う...ん」

 

膝の上で寝返りをうったチャンミンは、俺の腹に腕を巻きつけた。

 

むにゃむにゃしながら、「ゆの...」なんて寝言を言われたりなんかしたら...。

 

ずっと手元に置きたくなってしまうじゃないか。

ひと休憩つこうと、リビングでコーヒーを飲んでいた。

 

チャンミンはコーヒーを一口すすった途端、「うへぇ」と吐き出してしまったから、牛乳をたっぷり加えたものを飲んでいる。

 

「僕もコーヒーに慣れますからね。

コーヒーですか...大人っぽいです」

 

うっとりとそう言って、カップの中身を一気に飲み干してしまった。

 

「喉が渇いているのなら、遠慮せず冷蔵庫の中のものを自由に飲んだり、食べたりしていいんだぞ?」

 

「...悪いです」

 

遠慮するチャンミンに、ウォーターサーバーの使い方を教えてやった。

 

「ここはお前の家でもあるんだぞ」

 

と、チャンミンの鼻をつん、とつついて言った。

 

「僕んち。

お兄さんの家は、僕んち!」

 

ダンスでも始めんばかりに、くるりとターンをした。

 

そして俺の首にかじりついた。

 

といった具合に、チャンミンは感情表現が激しい。

 

子供っぽいはしゃぎ方を見せるチャンミンだが、根は大人しい奴のようだ。

 

ルーフバルコニーで日向ぼっこをしたり、ぼーっと眼下の景色を眺めていたり。

 

寝椅子に膝を抱えて座るチャンミン。

 

長い脚を邪魔くさそうに折りたたんで、足の指の爪を切っているチャンミン。

 

丸まった背中の、背骨の浮き出具合に、俺は安堵する。

 

うちに来ていくらかは肉付きがよくなったからだ。

 

最初のうちは、出された食事を残してばかりだった。

 

「食欲がないのか?」と訊いたら、チャンミンは激しく首を横に振った。

 

「食べたいです」

 

「じゃあ、食べればいい」

 

「太ってしまいます」

 

「太るも何も...痩せすぎだよ」

 

チャンミンの全身を眺め回して、そう言ってやった。

 

「...でも

痩せていた方が、売れるんです」

 

「...」

 

チャンミンの言う通り、少年性を求める客は多い。

 

多くの『犬』たちは、筋肉の薄い華奢な体型を維持することに苦慮する。

 

俺も経験があるから、よく分かる。

 

チャンミンの場合、長身だから特に苦労しただろう。

 

店から連れて帰る日、俺の家までの道のりをわずか1キロでギブアップするほどの、体力のなさ。

 

「それに、できるだけお腹は空っぽでいないと...。

つまり...」

 

チャンミンはウケ専だろうから、いつでも客を受け入れられるために食事も排泄もコントロールしていたのだろう。

 

「そうか...そうだよな。

でもな...」

 

チャンミンの頭をごしごしと撫ぜてやる。

 

「お前はもう、『売り物』じゃないんだ」

 

「...でも。

僕はお兄さんに買われたんだし...お兄さんにいつ抱かれてもいいように用意していないといけないし...」

 

「そういう思考はそろそろ、止めようか?」

 

何度言っても、チャンミンの頭から「俺に買われた」という意識が抜けてくれない。

 

「お前は単なる一人の男だ。

犬でも商品でもない」

 

苛立ったりせず、俺は根気よく言い聞かせてやらないといけない。

 

もちろん、言葉だけじゃ足りないから、チャンミンへの接し方を通して、彼に分からせてやらないといけないのだ。

 

 

 

 

「ゆっくり食え。

ここは俺しかいないんだ」

 

中央の皿から手づかみでハムを取るチャンミンの手を、押さえようとした。

 

「ごめんなさい!」

 

手首をつかむ瞬間、チャンミンは両手で頭をかばい首をすくめてしまった。

 

殴られる、と思ったらしい。

 

それは条件反射だった。

 

「俺は叩いたりしない」

 

切なさに俺は一息つき、チャンミンの頭を撫ぜ、うなじを揉んでやった。

 

「俺はチャンミンを絶対に殴らない」

 

すくめていた頭を起こし、そぅっと上目遣いで「ホントに?」と俺を見る。

 

「ああ。

だから安心をし。

お前のメシもとって食わない。

ゆっくり、よく噛んで食え」

 

顎まで垂れたソースを、ナプキンで拭ってやった。

 

ガツガツと貪り食う、の言葉そのままな食事の仕方だった。

 

箸の持ち方もめちゃくちゃで、ボロボロと炒めた飯をテーブルにこぼしてばかりいる。

 

当然胸元を汚すから、首にタオルを巻いてやった。

 

くちゃくちゃと音をたてて咀嚼し、皿に残ったソースをずるずるすすり、スープ皿もぺろぺろと舐めている。

 

「美味しいです、美味しい」

 

美味そうに食べてくれるのは嬉しいが、いくらなんでもこの食べ方...まるで飢えた犬のような...はひどすぎる。

 

「噛む時は口を閉じろ」

 

「こうですか?」

 

リスのように両頬をいっぱいにしたチャンミンに、「一口が多すぎるよ」と注意した。

 

「お兄さんとのご飯は、窮屈です」

 

ソースがついた指を1本1本しゃぶる姿に、俺は眉間にしわを作ってみせる。

 

目線で紙ナプキンを指すと、チャンミンは慌ててそれで指を拭った。

 

「慣れろ。

外食する時、困るのはチャンミンだ。

スマートにフォークとナイフを扱え、とまでは言わないから」

 

「...外でご飯、ですか...?」

 

チャンミンは俯いてしまい、手の中で紙ナプキンをもてあそんでいた。

 

「外は嫌か?

別に無理に連れて行ったりしないよ。

俺は料理が出来ないから、デリバリーでいろいろ取ろうか?

口うるさく言って、ごめんな」

 

「嫌じゃないです...嬉しいです」

 

嬉しいの言葉のわりに、その声は消え入りそうだ。

 

「お兄さん、恥ずかしいですよ?

僕みたいな馬鹿を連れて行ったら、お兄さんは恥ずかしいですよ?」

 

「俺は恥ずかしくないさ。

チャンミンはチャンミンのしたいように振舞って欲しい、と思ってる。

でもな、俺が言っているのは、恥ずかしい思いをするのはチャンミンの方だ、ってこと」

 

「どうして僕が恥ずかしく思うんです?」

 

「大人の男になりたいんだろう?

犬から卒業したいんだろ?

大人の男っぽいことをしないと」

 

ここまで話してやると、

 

「オトナノオトコ...ふふふ」

 

チャンミンはようやく笑顔になって、放り出していたフォークを手にした。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕のお気に入りの場所はルーフバルコニーで、そこからは世界を見下ろせる。

 

お兄さんの仕事部屋と繋がっているから、たまにいたずら心を起こして仕事中のお兄さんに窓の外から手を振る。

 

お兄さんは眼鏡をかけていて(すごくカッコいい)、パソコンに向かって難しい顔をしている。

 

でも、僕に気付くと、目尻を下げて笑いかけてくれる。

 

お兄さんはいつも家にいるから、きっとあのパソコンを通して土地をコロガシテいるのかもしれない(土地をコロガシて大儲けしていた客がいたんだ)

 

使い過ぎて年中熱をもっていたアソコも、うずくことはなくなった。

 

お兄さんは僕を抱いてくれない。

 

僕はお兄さんにお礼をしたいのに、あの夜以来、お兄さんは僕を抱いてくれない。

 

嫌われたのかなぁ、と心配になる。

 

心配になって、お兄さんの首にしがみついて唇を寄せてみる。

 

そうするとお兄さんは、ちょっと驚いた風に目を見開いて、しつこく唇を寄せる僕をじぃっと見る。

 

こうなれば根くらべだ。

 

「仕方ないな」って風にお兄さんはふっと息を吐いて、僕の頬を両手で包んでくれる。

 

そして、重ね合わすだけの優しいキスを返してくれて、僕はほんの少し安心した。

 

 

 

(つづく)

 

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(2)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

 

俺はあるひとりの男を「商品」として買った。

 

ふと立ち寄ったペットショップ、たまたま目が合ってしまったショーケースの子犬を衝動的に買ってしまった...みたいなノリで。

 

...そんなんじゃない。

 

「『おうちに連れて帰って』ってこの子が目で訴えてたから買っちゃった」なんて台詞を耳にしたことがある。

 

...そんなんじゃない。

 

確かに彼は、俺の気を惹こうと、客を小馬鹿にしたジェスチャーをしてみせた(中指を立てるなんて、やることが大胆だ)

 

「僕を連れて帰ってくださいよ」と甘えた声ですり寄ってきたけれど、おそらくどの客にも同様のことをしてきたのだろう。

 

この店の『商品』である身分から脱出したくてたまらないのは、彼以外の他の『商品』たちも同じに決まっている。

 

彼の言葉は真剣味が欠けていると感じた。

 

「どうせ無理だろう」と、最初から諦めていたであろう証拠に、彼の眼は感情のこもらないしんと醒めたものだったのだ。

 

 

 

 

唇が重なるだけのライトなキスを交わした。

 

唇が離れた時、まつ毛が触れそうな距離でしばし目が合った。

 

彼の...チャンミンの肩を押して、より深いキスへと進もうとする彼を遠ざけた。

 

チャンミンは「どうして?」と、疑問符だらけの表情をしていたから、俺は彼の後頭部を撫ぜてやった。

 

洗いっぱなしの髪がふわふわしていて、まるで本当の犬を撫ぜてやっているような錯覚を起こす。

 

「俺はもう、客じゃないんだ。

お前も、『犬』じゃない。

だから、こういうことはしなくていいんだよ」

 

膝の上からチャンミンを下ろした。

 

ゆるく勃ちあがったチャンミンのものから、俺はすいと目を反らして気付かないフリをした。

 

俺の方も同様で、この手のプロであるチャンミンならきっと、気付いていたと思う。

 

チャンミンはすねた風に口を尖らせ、不服そうに俺の足元にぺたりと座った。

 

自分が一糸まとわぬ姿でいることに、何の抵抗もないらしい。

 

子供っぽい甘ったれた表情や仕草は、客を喜ばせるために身につけたものなのか否か、出会って半日も経たない俺には判断がつかない。

 

「お兄さんはどうやって、買い主んちを出たのですか?」

 

唐突にチャンミンは俺に尋ねた。

 

「その人はね、所有することに疲れてしまったんだよ。

その人は、俺という『身体』を買った。

でもそのうち、俺という『存在』が重荷になったんだろうな...。

それで、俺を所有することを放棄したんだ」

 

「難しいことを言うんですねぇ。

お兄さんは理屈っぽい人なんですねぇ。

僕の馬鹿な頭じゃ、よく分かんないです」

 

「ショユー、ショユー、ホーキ、ホーキ」と、チャンミンはブツブツとつぶやいている。

 

彼は馬鹿なんかじゃない。

 

馬鹿なフリをしているわけでもない。

 

馬鹿だと信じているだけだ。

 

「もしお兄さんが、野生動物の赤ちゃんを拾った時」

 

「俺が?」

 

「はい。

お兄さんが哺乳瓶でミルクをあげて育てるんです。

そして、大きくなったからってその子を山に放すんです。

...その動物は困りませんか?」

 

「困るだろうね」

 

「お兄さんも困ったんじゃないですか?

犬じゃなくなった時のことです。

『自由に生きなさい』って放り出されても、身体を売るしか能のない僕は、この先どうしたらいいんだろうと、途方にくれます」

 

チャンミンの話の中で、主語が俺から自分にと変わっていた。

 

「僕は馬鹿だから、会社勤めはできません。

丈夫なあそこだけが取り柄なんです、はははっ」

 

さりげなさを装って、俺の気持ちを確かめようとする。

 

こういう賢さがチャンミンにはあった。

 

「無一文で、着の身着のまま放り出すなんてしないよ。

自分のエゴを満たすために、救った挙句にそれじゃあ無責任だ。

余計に残酷だね。

衣食住が保証された『商品』でいる方が、余程マシだよなぁ」

 

「お兄さんは、どうしたんです?

...野良に戻ってから?

住むところもなくなっちゃったんでしょう?」

 

この質問も、チャンミン自身のことを尋ねたものだ。

 

「そのつもりで、資金は残しておいたぞ?

現金の持ち合わせはなかったから、腕時計を置いていったんだけど...。

あれなら1年は遊んで暮らせるはず...」

 

初耳なのか、チャンミンはきょとんとしている。

 

「クソじじいが!」と、吐き捨ててしまった。

 

あの店主は自分の懐に入れてしまったってことか。

 

突然の乱暴な言葉に、チャンミンは驚いていた。

 

「ごめん、びっくりさせてしまった」

 

チャンミンが何に不安がっているのか、手に取るように分かる。

 

だから口にしていた。

 

自然にするっと。

 

「...俺んちに好きなだけいていいよ」

 

みるみるうちに、チャンミンの眼がキラキラと輝いてきた。

 

「やった!」

 

ぴょんぴょんとその場を跳ねて喜んでいる。

 

「やったやった!」

 

チャンミンが『仕事』で見せるのは、男を誘う小悪魔の顔。

 

小悪魔の仮面を脱いだチャンミンは、子供の精神のまま身体だけ大きくなったかのようだ。

 

ホンモノの素の行動だとしたら...切なくなる。

 

俺のような殺伐とした人間であっても、守ってあげたい、可愛がってあげたい、と思ってしまうのだ。

 

「僕を好きなようにしていいですよ?」

 

俺の手がチャンミンの尻に誘導された。

 

「僕があげられるのは、これだけなんです」

 

「チャンミン...」

 

チャンミンのその手首をつかんで遠ざけた。

 

「こういうことは止めにしよう」

 

「もっと乱暴してもいいんですよぉ?

僕は頑丈に出来ていますから、はははっ」

 

チャンミンは自身の肢体が商品に値することは知っているが、それ以外にあるはずの才能には気づいていないようだ。

 

「自分の身体は大事にしよう。

なあんて、一度は客としてチャンミンの身体を買った俺が言うのも変な話だけどな。

無造作に尻を差し出すんじゃない。

ほら!」

 

俺は立ち上がり、チャンミンの裸の尻を軽く叩いた。

 

「いい加減、服を着ろ。

風邪をひくぞ」

 

「えー」と不服そうに尖らせたチャンミンの唇をつまんでやった。

 

「服が邪魔ならせめて下着だけは付けろ。

目のやり場に困るんだ」

 

「ふふふ。

お兄さんったら、さっきから僕のおちんちんばっかり見てるんだもの。

ドキドキしました」

 

「こら!」

 

チャンミンの言う通り、ついつい視線がそこに行ってしまっていた。

 

それはいやらしい気持ちによるものじゃない。

 

なぜなら、チャンミンには首から下の体毛が一切なかった。

 

客たちが愛でやすいよう、同時に衛生面も考慮して、全身を処理したのだろう。

 

...なんだかなぁ...。

 

拾ってきたのは初心な捨て犬じゃないのだ。

 

見てくれに騙されたらいけない。

 

子供臭い話し言葉な彼だけど、あっちの世界では曲がりなりにもプロだったわけで...。

 

注意深く接していないと、ある時噛みつかれる羽目になりそうだ。

 

だから俺は、チャンミンは馬鹿ではない、と思ったのだ。

 

「お兄さんは優しいんですもん...」

 

「優しい?

俺がか?」

 

言われ慣れていない言葉に、照れくさかった俺は眉を持ち上げてみせた。

 

「はい。

お兄さんのエッチ...優しかったです」

 

お祈りをするかのように手を組んで、チャンミンはうっとりとした眼を、斜め上に向けている。

 

「物足りなかったいう意味?」

 

「そんなんじゃないです!

慣れていないんです。

優しくされたら...僕、どうしたらいいか分からなくなります。

お兄さんナシじゃ生きられなくなっちゃいます」

 

両眉を下げて泣き出しそうに口元を歪めている。

 

俺を真っ直ぐに射る眼差し。

 

『お兄さんちに連れて行ってくださいよ』

 

そう言って俺にしなだれかかった、あの時の醒めたものじゃなかった。

 

今の言葉はチャンミンの本心、だと思った。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕に背中を向けて横になったお兄さん。

 

僕はそんなお兄さんの背中を抱きしめた。

 

「...チャンミン...暑いから、離れて寝ろ」

 

お兄さんのくぐもった声。

 

お兄さんのベッドはふかふかで、温かい。

 

お兄さんちは大きくて、他にも部屋はいくつもあったけど、僕はお兄さんのベッドで一緒に眠るのを選んだ。

 

お兄さんは渋い顔をしてたけど。

 

だって、嬉しくて仕方がなかったから。

 

お兄さんちに居てもいいんだって。

 

嬉しい。

 

夢が叶った。

 

僕は幸せ者だ。

 

それから...。

 

「...ユノ」

 

お兄さんの名前は、『ユノ』って言うんだって。

 

さっき教えてもらった。

 

でも、僕は『お兄さん』って呼び続けるだろうなぁ。

 

ユノ、って呼ぶのは、なんだか恥ずかしいから。

 

「ユノ...」

 

つぶやいてみたら、お兄さんはうーんと唸って布団の中にもぐり込んでしまった。

 

ふふふ、可愛い。

 

 

(つづく)

 

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(1)あなたのものになりたい

 

 

長くほっそりとした首をひきたてる、ハイネックの洋服がよく似合った。

 

彼は長らく、首に枷をした生活を送っていたせいで、茶色く色素沈着した痕がぐるりとできていた。

 

それは、固い牛革製の太い首輪だったから。

 

可哀想に、と憐れみの気持ちが湧かない俺は、冷たい人間なんだろうな。

 

自ら望んで飛び込んだ『商品』としての身分だとしたら、同情できないのは当然のこと。

 

やむにやまれぬ事情で、意に沿わない身分に堕ちてしまった結果だとしても、やっぱり俺は同情しない。

 

なぜなら、彼と同じ過去を持つ俺だったから。

 

もう何年も前の話だ。

 

男の肢体を売り物にする店で、俺自身が『商品』となって陳列されていた過去がある。

 

枷から解放された今、彼は「首がすうすうして落ち着かない」と始終こぼしていた。

 

「じゃあ、新しい首輪を買ってやろうか?」

 

冗談のつもりでそう言ったら、彼はしばし考えた末、

 

「それもいいかもしれませんね。

次はシープスキンの柔らかいものにしてください。

色は青がいいです。

宝石が埋め込まれていたら...素敵でしょうね」

 

なんて真顔で答えて、うっとりとした表情を見せる。

 

こういう時に初めて、彼に憐れみの情を抱いてしまうのだ。

 

「馬鹿言うんじゃないよ。

首輪なんて...するもんじゃないよ」

 

俺にも、首輪をされリードに繋がれて犬のように引っ張り回されていた時があったのだ。

 

俺は自身の首をさすりながら、鏡の前で一回転して、新しい洋服をまとった全身を映す彼の後ろ姿を眺めていた。

 

俺の暮らしに、可愛いワンコが加わった。

 

子犬みたいな愛くるしい目をした、成人男性。

 

彼を買ったのは、俺だ。

 

連れて帰るつもりなんて...なかったのに...。

 

今こうして彼は、俺のそばにいる。

 

 

 

 

「お兄さんはお金持ちなんですね」

 

彼は俺の家に通されるなり、調度品のひとつひとつに感嘆の声をあげながら、ひと部屋ひと部屋丁寧に見て回った。

 

「こんなゴージャスな生活を送れるなんて...どうやったらできるのですか?」

 

いきさつを説明し出したら、当時のことを思い出して辛くなる...なんて、繊細な精神の持ち主なんかじゃない。

 

説明が面倒だった俺は、「仕事を頑張った成果だよ」とだけ答えておいた。

 

彼はより詳しい説明が語られるのを待っていたようだった。

 

目の前のこの男は、微に入り細に入り質問攻めにしそうな人物だ。

 

好奇心旺盛な、いたずら盛りの子犬みたいな眼をしている。

 

彼の上目遣いに負けて、「いろいろとね」と付け加えたが、「で?」とさらなる言葉を待っている様子。

 

「おいおい話してやるよ。

風呂に入りたいだろう?」

 

ことの後、彼はシャワーを浴びる間もなかったはずだ。

 

俺が店を立ち去ってすぐに、俺を追いかけてきたんだから。

 

俺もあの店出身だ。

 

店主は当時の者と変わっていたし、改築したらしく内装も設備も新しくなっていた。

 

ただ、ガラス張りの陳列棚はいけない。

 

ペットショップそのものじゃないか。

 

そんな場所で俺は、1晩レンタルしたい気に入りを探したのだ。

 

レンタルする客の気分を味わいたかったんだろうな。

 

店一番の商品とはどれほどのものなのか、といった興味本位だ。

 

目の前に商品があり、それを買う客がいる。

 

俺はそれをしたまでのこと。

 

俺の自尊心を損なわせ、嫌悪していたはずの場所に、なぜ舞い戻るような真似をしたのか。

 

さあ...分からない。

 

 


 

 

「僕を連れて帰って下さいよ?」

 

お兄さんの腕にしがみついて頼んだ。

 

「それは出来ない」と断られるかと覚悟してたから、お兄さんは「ついて来い」といった風に顎をしゃくったから、僕の中で喜びが弾けた。

 

お兄さんは歩くのが早くて、体力が不足している僕はついていくのがやっとだった。

 

僕はずっと、狭いところに閉じ込められていたからね。

 

しょうがないな、って僕の腰を抱いてくれて、僕のスピードに合わせて歩いてくれた。

 

お兄さんの身長は僕と同じくらい、なよなよっとした僕とは大違いだ。

 

お兄さんの身体はうんと鍛えられているはず。

 

お兄さんに抱かれておきながら、「はず」と言ったのは、お兄さんは服を着たままだったから。

 

でも、お兄さんの下で揺れていた時、しがみついたお兄さんの腰の引き締まった感じから、きっと逞しい身体をしているんじゃないかな、と予想している。

 

きびきびとした足運び。

 

まっすぐな背筋。

 

お兄さんは歩くのが好きなんだって。

 

特に、夜の街をぶらぶらとあてもなく、散歩をするのが好きなんだって。

 

靴擦れしてしまった僕を心配して、お兄さんはタクシーを呼んでくれた。

 

隣に座るお兄さんの横顔を、そうっと横目で見た。

 

お兄さんはとっても綺麗な顔をしている。

 

男の人相手に、綺麗だって思うなんて変だろうけど、ほんとーに綺麗なんだ。

 

僕はこれまで、沢山の男の人を見てきた。

 

醜い人もハンサムな人も、変態なのもまともなのも、若かったり年寄だったり...。

 

お兄さんに買い取ってもらえて、僕はラッキーだ。

 

ほんとーに、よかった。

 

そろそろっと片手を滑らせて、お兄さんの手を握った。

 

びっくりしたお兄さんがこちらを見ているのは分かっていたけど、僕は知らんぷりしていた。

 

僕の手が、お兄さんの大きな手で包まれた。

 

温かくて力強くて、僕の胸がぎゅうっとなった。

 

ちょっとだけ涙が出たけど、恥ずかしかったから顔を背けて、窓の外を見入っているふりをしていた。

 

僕を買ってくれたお兄さんのために、何でもしてあげようと思った。

 

 

 

 

お兄さんちのお風呂は広くて清潔で、たっぷりとお湯が出るし、バスタオルも分厚くふかふかで...素敵だ。

 

ぬるぬるしていたお尻をきれいにした。

 

いい匂いのするシャンプーが嬉しくて、髪を2度も洗った。

 

僕のために、Tシャツとスウェットパンツを用意してくれた(これはお兄さんのものだよね)

 

下着なんてパッケージに入ったままの新品だった。

 

浴室を出た僕は、お兄さんがいるリビングへ走った。

 

「おに...」

 

声をかけるのがためらわれたのは、お兄さんが怖い目をしていたからだ。

 

ソファの肘掛けに頬杖をしたお兄さんは、斜め上の空を睨んでいた。

 

僕はその場に立ち尽くして、お兄さんの様子を見守った。

 

「ああ、ごめんごめん」

 

僕の存在に気付いたお兄さんは、無表情を崩して微笑を浮かべてくれた。

 

無知な僕からは、気のきいた言葉が出てこない。

 

だから、お兄さんの足元にひざまずいて、お兄さんの太ももを抱きしめた。

 

それから、お兄さんのズボンのファスナーに手を伸ばした。

 

「よせっ」

 

僕の手は、お兄さんの手で振り払われた。

 

ショックを受けた僕の表情に、お兄さんは「悪かった」と言って、僕の頬を撫ぜた。

 

優しい指。

 

お兄さんにセレクトされた時、僕の首輪に触れたお兄さんの指に、僕は鳥肌がたったんだ。

 

お兄さんを慰める方法が、あれしか思いつかなかったのだ。

 

僕はお兄さんの太ももに頬ずりをした。

 

「僕をお試ししてみて...どうでした?」

 

どんな言葉を発していいのか分からなくて、代わりに尋ねてみた。

 

「...よかったよ」

 

お兄さんは僕の頭を撫ぜてくれる。

 

「今から...抱いてくれますか?」

 

撫ぜる手が、ぴたりと止まった。

 

「俺はもう、客じゃないんだ。

そんなことしなくていいんだよ?」

 

「そういうわけにはいきません」

 

僕は服を脱ぎ、お兄さんの太ももの上に跨った。

 

裸で過ごすのが当たり前だったから、洋服を着ているのは居心地が悪かったんだ。

 

口づける間際に、お兄さんの指に阻まれた。

 

「その前に...」

 

僕を見上げるお兄さんの眼が、黒々としていて陰気だった。

 

お店では気づかなかった。

 

「お前の名前を尋ねていなかった」

 

「...マックスです」

 

「それは店での呼び名だろう?

俺が尋ねているのは、本名だ」

 

名前なんてあってないような世界にいたから、お兄さんの質問に答えるのに時間がかかってしまった。

 

客にとって、僕の名前なんてどうでもよくて、興味があるのは僕の身体なんだから。

 

えーっと、僕の本当の名前って、何だったっけ?

 

「...チャ...チャンミン」

 

久方ぶりの発音で、自分の名前なのにそうじゃないみたい。

 

「へぇ。

いい名前だね」

 

お兄さんに褒められて得意になった僕は、お兄さんの唇を食んで、甘噛みした。

 

お兄さんも僕と同じ、『犬』出身だ、と言っていた。

 

辛かっただろうな...。

 

僕の場合は、現状を深く追求しないように心に蓋をしていたから。

 

お兄さんが僕にお金を払ったのは、決して同情からじゃない。

 

そんなことくらい、分かってる。

 

 

(つづく)

 

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