(62)ぴっかぴか

 

~ユノ~

 

「チャンミン!?」

「ユノ!?」

 

俺とチャンミンは顔を見合わせ、互いを指さした。

直ぐには誰か分からなかったが、目を真ん丸にしぽかんと口を開けた顔はまさしくチャンミンのもの。

俺たちは「なんでここに?」「それは俺の台詞だ」と口だけをパクパクさせた。

男は浅い笑みを浮かべただけで、何も言わない。

 

(くっそ~、こいつの仕業だな。

俺たちを鉢合わせようと思ったわけか)

 

事態を呑み込んだ俺は「ちょっと失礼」と、男にひとこと断った。

 

「こっちに来い」とチャンミンの二の腕をつかみ、レジカウンター脇まで引っ張っていった。

 

(こういうパターン、以前にもあった。

チャンミンの職場で再会した時のことだ)

 

「どうしてあいつと一緒にいるんだよ?」

「それは俺の台詞だよ」

「それは僕の台詞!

あいつと何してるの?」

「チャンミンこそ何してるんだよ」

 

険しい表情でコソコソ身振りだけは大きく、顔付き合わせている俺たちを、店員さんが遠巻きに見ている。

俺はチャンミンから一歩身を引き、彼の全身を眺めた。

 

「チャンミン...一瞬誰か分からなかったよ」

 

「どう、似合う?」

 

チャンミンのヘアスタイルが変わっていた。

髪色は黒に、襟足の髪は生え際ぎりぎりまで切られているため、長い首がより目立った。

 

「髪が傷みまくってたから。

僕のは人工的なものだからさ。

ユノが羨ましい」

と言いながら、チャンミンは前髪を人差し指にくるくる巻き付けた。

 

「気分一新、リフレッシュさ」

 

「いいんじゃね?

長いのもいいけど、短いのも似合ってる。

黒も似合ってる」

 

「ホントに?

よかった~」

 

前髪がつくっていた影が無くなったことで水商売風なイメージが薄まり、チャンミンの今の職業に相応しい見た目となった。

しかし、“そういう目”で見れば、“そういう男たち”に誘われそうな妖しい雰囲気は抜け切れていない。

つまり、ヘアスタイルとファッションを変えようと、男を引き寄せてしまうチャンミンの美しさは変わっていない、ってことだ。

 

「あいつに言ってやりたいことがあって、呼び出したんだ。

チャンミンの電話に出ちゃったって言っただろ?

あん時に、決着をつけようぜ、って。

それが『今』なわけ」

 

会計の客の邪魔にならないよう、俺たちは一旦店の外に出た。

 

「チャンミンがここに来た理由は何?」

 

「あいつに電話をしたんだ。

もう連絡してくるな、って。

そしたら、最後に会いたいっていうからさ」

 

「モヤモヤするくらいなら直接会ってしまえ、ってやつ?

ガツン、と言ってやろうと思ったんだ。

チャンミンに構うなって」

 

チャンミンは「まあ...」と口を覆った。

 

感激しているらしく、細められたまぶたはニコニコご機嫌そうだった。

 

「場所と時間は?」

 

「あいつが指定してきたんだ。

何としても会いたかったから、従ったまでさ。

チャンミンは?」

 

「できるだけ早く決着を付けたかったから、今日にしてもらった。

具体的な場所と時間はあいつが決めた」

 

「ってことは、チャンミンと約束した後に、俺と約束したってわけか。

俺たちを鉢合わせにしたかっただろうな」

 

「何のために?」

 

「単に面白がりたいだけじゃねぇの?」

 

状況把握が済んだ俺たちは、男が待つ席へと戻った。

 

 

男は操作していたスマートフォンから顔を上げ、「打ち合わせは終わったかい?」と笑った。

そして、並んで席に着いた俺たちを交互に見比べながら、「ビジュがいいね」と、ニタニタいやらしい。

 

「だろ?」

 

肯定した俺の脚を、チャンミンが蹴った。

 

「君たちは私になんの用があるのですか?

ユノさんもチャンミンも、私に関わりたくないから近づくな、と仰りたいのでしょう?」

 

隣のチャンミンは頷いた。

 

「あいにくですが...」

 

男は種明かしをするかのように、両手の平を見せた。

 

「私は何もしていません。

チャンミンに電話をかけただけです」

 

「何の理由で?」

 

チャンミンの初体験の話や突然のチャンミンの登場に心かき乱され、そっちのけになっていた重要な質問を今になって投げかけた。

きっと無害な言い訳...例えば、「食事に誘いたくて」だとか、「昔のことを謝りたくて」だとか...をつくんだろうと予想していた。

 

「分かっているくせに。

もちろん、チャンミンと久しぶりにセックスをしたかったからですよ」

 

「このやろっ!」

 

一気に沸点まで達した俺は、男の胸倉をつかもうとテーブル越しに身を乗り出した。

その時、グラスが再び倒れ、こぼれた水がざ~っと男の方へと流れていった。

 

「あ...」

 

男のズボンのシミは、さらに大きくなってしまった。

俺は手近のおてふきを投げてやったが、チャンミンは一切手を貸すつもりはないようだ。

男は店員からお手拭きを受け取ったが、グラスの交換は断っていた。

チャンミンは「そんなことだろうと思ったよ」と言った。

 

「!」

 

男の下心に嫌悪感を見せなかったチャンミンに、俺は驚いた。

「ひどい、不潔!」とか言って、グラスの水をぱしゃっとぶっかけるのかと思っていた。

 

「あんたは前と変わっていないんだね」

 

チャンミンは大きくため息をつき、ほとほとあきれ果てたといった風に首を振った。

 

「奥さんは元気?」

 

「え゛」

 

男の頬はひくついた。

チャンミンの耳元に顔を寄せ、「マジか!?」と問うと、彼は「最悪なことに、そうだったんだよねぇ」と苦笑した。

この男が既婚者だったことに頭にきたが、それ以上にチャンミンのしんと醒めた態度の方が感動が大きかった。

ふにゃふにゃ甘ったれていて、ちゃらちゃらしていたチャンミンが見せるシリアスな表情...悪くないねぇ。

 

「それから...。

これを返そうと思ったんだ」

 

そう言いながら、チャンミンはポケットに伸ばしかけたのだが、俺はその手を素早く押さえた。

 

「何だよ?」

「ストップ、だ」

 

俺はチャンミンの手を握ると、彼を立ち上がらせた。

 

「いいから、こっちに来い」

「何だよ?」

 

男をそのまま席に残し、チャンミンをレジカウンター脇まで引っ張っていった。

 

「僕はあいつにこれを突き返してやりたいんだ」

 

キラキラ煌めくアクセサリー。

チャンミンは俺の鼻先に、例のブツを突き出した。

 

「ずっと大事にしちゃってさ、馬鹿みたいでしょ?

もう持っていたくないから、あいつに返すんだ」

 

既にピアスは売り払ってしまった後だと、男にホラを吹いたばかりだった。

 

「返す必要ない」

 

言い切る俺に、チャンミンは口を尖らせた(この表情はいつものチャンミンだ)

 

「え~!?

やだよ、もう持っていたくないんだけど?

捨てるの?」

 

「売る」

 

「嘘っ!?」

 

俺の回答にチャンミンは素っ頓狂な声を上げた。

慌ててチャンミンの口を押さえたが、近くの客たちの注目をやや浴びてしまった。

 

「売っちゃうの!?」

 

「うん。

こいつはチャンミンの物だ」

 

「うっわ~、ドライだね」

 

「返してしまったら、あいつが得するだけ。

楽しいことに使おう。

慰謝料代わりだよ」

「それいい考えだね」

 

俺たちはすっかり前日の喧嘩を忘れていた。

衝立の端から男が待つ席をうかがった。

見れば見るほど、普通の男だった。

 

「なんかさぁ。

面倒くさくなってきたよな」

 

「うん...確かに」

 

「なあ、チャンミン。

あんな奴にかかずりあってるのって、勿体なくない?

せっかくここで会ったんだから、どっかに遊びにいこうよ?」

 

「放っておくの?」

 

「どうせあいつは、あと1時間は席を立てないさ。

股間があれじゃあ、ねぇ」

 

チャンミンはぷぷっと吹き出した。

 

「あれで2度目なんだ。

1度目はわざと。

2度目もわざと。

ホントは金玉握りつぶしてやりたかったんだけどさぁ」

 

「暴力はだめだよ」

 

「マジで握りつぶすわけないじゃん。

ぎゅって握ってやるだけ。

不能にしてやろうと思って。

だってさ、こいつのチンコがチャンミンの...」

 

「やめて〜」

 

チャンミンは俺に飛びつき、口を塞いだ。

 

「言わないで~!」

 

「ははは。

ジョークだよ。

んなことするわけないじゃん」

 

「まるでお漏らししてるみたいだね」

 

「ああ。

可愛い仕返しだと思わないか?」

 

俺たちは男を置いて店を出た。

 

(つづく)

 

最終話パスワード:真ん中誕生日

 

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(61)ぴっかぴか

 

~ユノ~

 

男は自身が優勢だと見込んだのか、脚を組み姿勢を崩した。

 

俺も負けじと椅子にふんぞり返ってもよかったが、今は姿勢を崩さないことにした。

 

「大人の対応、大人の対応」と自分を言い聞かせる。

 

「何が問題ですか?

私とチャンミンは、随分前に切れています」

 

男はピースサインをした指で、チョキンと糸を切るジェスチャーをした。

 

「別れてから以降、何年も会っていません。

この街は狭い。

『会うな』と禁じられたとしても、偶然顔を合わせてしまうことは避けられないでしょう?」

 

男の話は至極もっともで、男とチャンミンがばったり店で鉢合わせたのもその通りで、それを疑った俺にチャンミンが腹を立ててもおかしくない。

 

だが、俺が追求したいのはそこではないのだ。

 

「私が未だにチャンミンに執着しているとでも?

別れを告げたのは“私”です。

未練があるわけないでしょう?

どちらかというと、私が追いかけられていた側です。

ユノさんはひどい誤解をされている」

 

「......」

 

男はカップを取ると、コーヒーをひと口すすった。

 

節の目立たない、丸みを帯びた指をしていた。

 

胸がチリチリ焼ける。

 

「この指でチャンミンを...」と巡らせかけた想像をストップさせた。

 

「......」

 

男に言われっぱなしだったが、そろそろ言うべきことは言う頃にきていると判断した。

 

俺はオレンジジュースをひと息に飲み干し、咳ばらいをして息を整えた。

 

「あんたさぁ」

 

俺も背もたれに深くもたれかかり、脚を組んだ。

 

この時、テーブルに膝を打ち付けてしまったが、『いてっ』と声を上げるのではなく舌打ちをした。

 

「俺、脚が長いので」

 

そう言って、ズキズキ痛む膝小僧をさすりそうになるのをグッと堪えた。

 

「そうやってチャンミンのことをどうってことない風にいってるけどさぁ。

あんたの方こそ、惜しくなったんじゃねぇの?

久しぶりに会って、チャンミンがあまりにいい男だと再認識したんじゃないの?」

 

「ユノさんはなぜ、そう思われるのですか?」

 

余裕を崩さない男にムカムカする。

 

「だってさ~。

普通、元カレの今カレ...つまり俺からの呼び出しに応えるかなあ?

面倒くさいことになるって分かってるでしょ?

チャンミンがどうでもいい奴になっていたら、わざわざ時間を割かないでしょ?」

 

「......」

 

「それにさ、チャンミンのことをどうでもよくなっていたら、3回も電話をかけて寄こさないでしょ?

何か用事があったわけ?」

 

「ずいぶん過保護なんだね?」

 

「ああ、過保護さ。

過保護で束縛屋だよ」

 

言い切る俺に男はくくっと吹き出すと、「ユノさんはこれから苦労するだろうね」と言った。

 

「私と別れた後のチャンミンがどれほど荒れていたのか、人づてに聞くしかありませんでした」

 

(はあ...)

 

タクシードライバーといいこの男といい、チャンミンに関して似たようなことを言う。

 

それはおおむね事実なんだろう。

 

結局は、未練があるばっかりにチャンミンを貶めることで気を晴らしているだけだ。

 

でも、チャンミンは悪くないと擁護はできない。

 

下手な別れ方をしたチャンミンにも責任はある。

「チャンミンは若かったし、私が初めての男だった」

 

「え゛...!?」

 

(こ、こいつがチャンミンのお尻バージンを奪ったやつなのか!)

 

驚きで俺は身を乗り出した。

 

その時、俺の肘がグラスに当たってしまった。

 

「あ゛」

 

グラスいっぱいに入っていた氷水が、ざ~っと向かいの男の膝に流れ落ちた。

 

男は逃れようと腰をずらしたが、俺がこぼしてしまった水の大半が男の太ももで受け止められた。

 

「悪い」

 

こういうハプニングが起きた時、同席者はおてふきやペーパータオルを手渡したり、お店の人におしぼりの追加を頼んだりするのが普通なんだろうけど、俺は違った。

 

俺は席を立つと、ずぶ濡れになってしまった男のズボンを自らお手拭きで拭いてやた。

 

「いや...いいです...ユノさん。

構いませんから...大丈夫ですから」

 

「そういうわけにはいかないですって」

 

俺は男の制止を構わず、おしぼりで濡れた個所をごしごしとこすったり、とんとん叩いた。

 

「シミになってしまいますよ」

 

俺の手を退けようとする男の手を、振り払った。

 

こんな奴相手に甲斐甲斐しくする必要はないから、これは90%嫌がらせの行為だ。

 

「やめてください!」

 

男の大きな声に、俺たちは店内の客たちの注目を浴びてしまった。

 

「大丈夫ですから!」

 

「...でも、今のまんまじゃお漏らししたみたいに見えますよ?

ヤバくないですか?」

 

「...時間が経てば乾くでしょう」

 

男のグレー色のズボンに、太ももから股間にかけて黒いシミが広がっていた。

 

男は「大丈夫です、このままで構いません」と手を振り、俺に席に戻るよう促した。

 

俺はオレンジジュースを、男は新しく運ばれてきた水を飲んだ。

 

「...話に戻りましょうか?」

 

「えっと...どこまで話しましたっけ?」

 

「チャンミンの初体験があんただった、って話」

 

「そうでしたね。

チャンミンは私とのセックスに夢中になってしまったようです。

身も心も私に捧げていました。

転勤先まで追いかけてきました。

重荷になってきました」

 

(くっそぉ~)

 

俺は奥歯を噛んでやり過ごした。

 

「チャンミン

別れが受け入れ難かったのでしょう。

一晩中、玄関の前に居座っていましたよ」

 

マウントをとろうと、別れた男の恥部をさらす行為のカッコ悪いことといったら。

 

「ふ~ん、そうですか」

 

この男、最後まで大人な態度を貫くかと思いきや、本音がチラチラと見せ始めた。

 

さっきの判断通り、大した男ではない、とみた。

 

この男がチャンミンの『初めての男』...人生においての重要パーソン。

 

チャンミンはこの男に真剣に恋をしフラれ、恋をすることがトラウマになり、「もう誰にも恋をしない!と心に決めた。

 

チャンミンの恋愛傾向を形作ったのがこの男だ。

 

そんな奴が俺と付き合ってくれたことに、俺は誇りを持っていい。

 

「ところで、ユノさん。

チャンミンは今も、私からの贈り物を大事にしているようですか?」

 

「何がです?」

 

男は耳たぶに触れて、「ダイヤモンドがはめ込まれた丸い形の...」

 

(やっぱり...)

 

俺と知り合った日、チャンミンの耳を飾っていたアレはこの男から贈られたものだったようだ。

 

「ああ...あれですか。

チャンミンの奴、質にいれちゃったんですよ」

 

「え゛...?」

 

今度は男が驚く番だった。

 

「買い取りに出しちゃったんですよ。

俺は駄目だって止めたんですけどね」

 

「......」

 

「いいモノだったんで、いい値段で売れました。

で、焼肉食って、温泉行って、まだまだ使いきれなくて困ってるところなんすよ。

残念でした!」

 

(チャンミンだったら、あっかんべぇをしていただろう)

 

男は「...そう...ですか」とつぶやき、がくっと肩を落とした。

 

忘れられなくて大事に保管している、もしくは常に装着しているのとでも予想していたのだろう。

 

この男に、俺と会う前まで身に着けていたことを教えてやるわけにはならぬ。

 

「私もチャンミンに尽くしたところはあった。

私なりに無理をして手に入れたものでした。

贈った時のチャンミンの喜ぶ顔は未だに忘れられませんね」

と、男は遠い目をする。

 

(今度は思い出に浸りかけたのか?)

 

それにしても、この男は暇なのか?

 

元カレの今カレとの対談に、最後まで付き合うつもりなのか。

 

俺の質問にぺらぺらと気安く答え、放っておいたらHの内容まで教えてくれそうだ。

 

「こいつ、ズボンが乾くまで店を出られないんだよなぁ」と思いかけたとき。

 

「ユノ!!」

 

背後から降ってきた声に振り向き、俺は絶句した。

 

「チャンミン!?」

 

男の薄い唇に「にたり」と笑みが浮かんだことに、俺たちは気づいていなかった。

 

(つづく)

 

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(60)ぴっかぴか

 

~チャンミン~

 

僕は立ち上がり、とぼとぼと歩いていた。

 

目尻に溜まった涙を拭った。

 

ユノんちで過ごしたのは2時間ほど。

 

表通りは自動車や店舗の灯りで明るく、週末前日でもあっていい具合に酔っ払ったグループが店先に滞留している。

 

いつもなら酒場に向かい、しこたま飲んでぱぁ~っと発散するのだけれど、この一件については酒で誤魔化したら駄目なような気がする。

 

不思議なことに、ユノとはもう、これっきりだとは思えなかった。

 

言い争いをしたからと言って、「はい、お終い」とは全然思わなかった。

 

(これが喧嘩かぁ)

 

かつての僕は、縋りついてくる男に「うっとおしい」と冷たく言い放ち、2度と振り返らなかった。

 

一方が怒り嘆いているだけでもう一方の僕は冷静そのものだから、喧嘩にすらなっていなかった。

 

激高した奴に頬を張られることもあったけれど、彼らの眼には「やっちまった...」と、暴力を振るってしまったことへの咎めの色がある。

 

僕はそんな彼らに蔑みの視線をくれてやる。

 

何が何でも、立場的に僕が上だった。

 

今夜、僕は恋人と喧嘩をした。

 

ユノから酷いことを沢山言われたのに、全部ぶちまけてくれたことが嬉しかった。

 

「もっと叱って!」と思ってしまうあたり、僕にはMっ気があるよね。

 

僕の歩幅は徐々に広くなっていった。

 

この辺りがユノの家とユノと出逢った店との中間地点にあたり、彼はその店から泥酔した僕を背負って来たのだ。

 

ユノと出逢った頃よりも、日暮れ時間が早くなっていた。

 

「あっちぃ」

 

早歩きしたことで身体が温まり、顎先から滴ってきた汗をTシャツの襟元で拭いた。

 

ユノんちのシャンプーで洗った髪はパサついているし、長めの後ろ髪が汗でうなじに張り付いていて気持ちが悪い。

 

目元にかかる前髪もうっとおしい。

 

(もうやだ。

リフレッシュしたい)

 

乱暴に髪をかき上げた。

 

「......」

 

僕は雑居ビルとビルとの隙間に引っ込むと、手にしていたスマートフォンに表示された番号をしばし睨みつけた。

 

「......」

 

(黙って立ち去るだけじゃ、あいつには伝わっていなかったんだ。

 

ビシッとはっきり言ってやるしかない。

 

『2度と連絡してくるな、ば~かば~か』って)

 

僕は発信ボタンを押した。

 


 

~ユノ~

 

「あんたがチャンミンの“元カレ”さんですか?」

 

目の前の男は、灰色のスーツ姿の中年男だった。

 

別れるなり記憶が薄れてしまうような、ぱっとしない見た目の男だった。

 

“あの”チャンミンの相手としては不釣り合いなほど、普通の男だった。

(身体の関係“だけ”を求めていたって言ってたから、見た目は関係ないのか...)

 

夕刻後の店内は、仕事帰りの客たちでほどほどに混雑していた。

 

俺たちはグラスビールとオレンジジュース(俺)を前に対面して席についていた。

 

「『元カレ』?

そんな大層なものじゃないですよ。

ははは」

と、男は困り顔で手を振った。

 

「チャンミンと付き合っていたのは、確かですよね?」

 

「まあ...そうですね。

あれが付き合っていたというならば」

 

どう受け取るか、聞き手にゆだねる含みのある言い方に、俺はムカッとした。

 

「昔の話です」

 

男はコーヒーをひと口飲むと、音をたてずにカップをソーサーに戻した。

 

俺は男の唇や指の動きを目で追った。

 

「エロい」と思った。

 

男の仕草や言葉遣い、醸し出す雰囲気からエロスの匂いを嗅ぎ取っていた。

 

(例えば風俗店のオーナー兼店長兼マネージャーのような雰囲気。

行ったことも会ったこともないのに、イメージだけで決めつける俺の偏見といったら)

 

平凡で無害そうな奴に限って、エロ方面が凄いという聞いたことがある。

(それって何情報?覚えていない)

 

いずれにせよ、チャンミンの何番目かの元カレであることは確実だ。

 

 

チャンミンのスマートフォンを鳴らしたのはこの男なのだ。

 

ついつい電話に出てしまった俺は、とっさに対面する約束を取り付けた。

 

その後、チャンミンと喧嘩をしてしまい、スマホを覗き見たことをバラしてしまい、怒った彼は俺んちを飛び出してしまった。

(そして、翌日の今日になっても連絡ひとつよこさない)

 

この男と会っていることは、チャンミンには内緒だ。

 

恨みを買うような別れ方を繰り返してきたということは、きれいに別れてこなかったということだ。

 

チャンミンを全く疑っていなかったと言い切れないが、昨日の俺はやり過ぎた。

 

嫉妬心に駆り立てられ、酷いことを言ってしまった。

 

嫉妬心!

 

過去は過去、過去があったからこそ今の彼がある...そんな台詞は綺麗ごと。

 

チャンミンの過去は大いに気になる。

 

『運命の相手』を連呼しておきながら、オトコ関係が派手だった奴だと知っておきながら、俺はやっぱり平気じゃなかったのだ。

 

嫉妬心でメソメソしない代わりに、チャンミンが過去の男たちに因縁をつけられるようなことがある度に、俺が1個1個潰していこうと決意したのだ。

 

束縛強めの重い男。

 

カッコ悪いこと甚だしいが、これが俺という男。

 

恋愛の仕方にカッコいいも悪いもないのだ。

 

 

「あなたがチャンミンの『今カレ』と伺いました。

チャンミンから私に話があるのなら分かりますが、ユノさんの方から私に言いたいことがあるようですね

チャンミンに近づくな、とでも仰りたいのですか?」

 

「ああ、その通り」と答えた俺に、男はくすりと笑みを漏らした。

 

「ユノさんは何か勘違いをされている。

“私の方から”チャンミンに会ったのではありません。

偶然、会ったのです」

 

疑わし気な俺の表情を見てとった男は、続けて言った。

 

「私は遠方にいたのですが、最近こちらに戻ってきましてね。

当時行きつけだった店が未だあって驚きました。

久しぶりに顔を出してみたら、偶然チャンミンに会いました。

ユノさんはまさか、“チャンミンの方から”私にコンタクトを取ったのでは、と疑ってはいないでしょうね?」

 

(うっ...)

 

図星だったが、俺は平静さを崩さないことに努めた。

 

「チャンミンが会いに行ったかどうかは、俺は問題にしていません」

 

本音は言葉と裏腹だったが、この男に悟られるわけにはいかぬ、と気持ちを引き締めた。

 

(つづく)

 

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(59)ぴっかぴか

 

~ユノ~

 

チャンミンとにらみ合いの最中、事を収めようか必死で頭を振り絞っていた。

 

浮気を疑うようなセリフを言ったそばから、後悔してしまった。

 

チャンミンが気にしていることを、ピンポイントで狙い打ちしたといっても過言ではない。

 

チャンミンの怪我を目にした俺は、胸に仕舞っていたモヤつきを爆発させてしまった。

 

「僕は誰にも殴られていないし、昔の男となんて会っていない!」

 

童顔と可愛らしい丸い目のおかげで、チャンミンの睨み目には凄みがイマイチ足りない。

 

「どうだか。
その怪我がいい証拠じゃないか。
一体何人いるやら。
この街はどこもかしこも地雷だらけじゃん」

 

「万が一にも昔の男と会ったとしてもさ、どうして浮気と結びつくんだよ?」

 

「そりゃあ、『久しぶり』ってなって、身体だけの浮気ならいいだろ、ってなったりさ。
あり得るだろ?」

 

俺の口は自動的にぺらぺら動く。

 

思考の飛躍が凄まじい。

 

「ユノ!
酷い!」

 

「どうせ俺は童貞だったさ。
悪かったな。
俺だけじゃ足りなくなってきたんだろ?」

 

もっと怒らせると分かっているのに、次々湧き上がる言葉は止められず、話はどんどん反れていった。

 

「酷いな!
僕はそんなことこれっぽっちも思っていない。
だって...だって、僕はユノの『大事なもの』を貰ったんだ。
適当に付き合ってるわけない」

 

あまりにも頭にきていたせいで、たった今チャンミンが放った言葉を聞き流してしまった。

「ユノだってさ...」

 

チャンミンは顎をつんと持ち上げ、小憎らしいせせら笑いを見せた。

 

「『運命の相手』って言ってたの、嘘なんだ?
信じられないんだ?
へえぇぇ...そんな程度だったんだ」

 

気持ちを疑われて、ますます頭に血がのぼった。

 

「どうせさ、ユノの自己満で僕と付き合ってたんでしょ?
運命運命ってさ。
男と付き合ってる俺って、偉いってさ。
浸っていたんでしょ?」

 

俺は両脇に垂らしたこぶしに、より力を込めた。

 

「ホントの恋を知らない軟派な男を、本気の愛で改心させてやろう、ってことでしょ?」

 

「...ひっでえこと言ってくれるんだな?」

 

「それともさ、僕の身体に溺れてしまって、Hさえできればいいんだろ?
結局は昔の男たちみたいになっちゃうんでしょ?」

 

「本気で言ってるのか...?」

 

「だって、そうなんでしょ?」

 

「『本気で言ってるのか?』と、訊ねているんだよ、俺は?」

 

「だって...ユノがひどいことを言うから」

 

「俺を責めるのは結構だが、あんたこそ俺に説明しなきゃならんことがあるんだが?」

 

俺の押し殺した声に、チャンミンはぎくり、と一瞬ひるんだように見えた。

 

(仕方がない)

 

自分の品性を貶めることだが、切り札を使うことにした。

 

「××って誰のこと?」

 

「...っ!」

 

「××って誰?」

 

「......」

 

チャンミンの頬がぶるっと震えた。

 

(大当たり)

 

「××って昔の男だろ?」

 

「......」

 

俺の視線から逃れたチャンミンの横顔が、「その通りです」と認めたようなものだった。

 

「なんで知ってるんだよ?」

 

「××さんから電話があったみたいだぞ?」

 

「僕のスマホを盗み見したんだな?
最低!」

 

「盗み見じゃない!
”見えて”しまっただけだ!」

 

「嘘つき!」

 

嘘じゃない。

 

靴を脱ぐのももどかしく、玄関で抱き合ってしまった俺たちは、荷物も服もその場に脱ぎ捨てた。

 

ぶちまけられたチャンミンの私物をバッグに戻す際、彼のスマホが震えていた。

 

この時チャンミンは入浴中だった為、無視しようと思ったが、ディスプレイに映し出された男の名前に、腹の底がずんと重くなった。

 

初めて見る名前だったが、『チャンミンの元カレ』だとすぐに察した。

 

関係を持った男との個人情報の交換は好まないという、チャンミンの話を信じるか否か。

 

別れた後も電話帳に残しておくとは考えにくい。

 

「恋を知らないんだろう」とからかったら、「知っている!」とムキになっていたことから判断すると、ひとつやふたつまともな恋愛を経験しているとみた。

 

未だに番号を消せずにいるということは、引きずっている恋愛だといえるのでは?

 

悪いと分かっていたが、俺は通話ボタンを押してしまったのだ。

 

「俺があんたのスマホを見たかどうかが問題じゃない。
昔の男から電話がかかってきていることが問題なんだよ」

 

「昔の男とは限らないじゃないか!」

 

「本当にそうだと、言い切れるか?」

 

「......」

 

言い返してこないことに、俺の気分はずぶずぶと沈んでいった。

 

「俺はな、真剣に付き合ってきたんだ。どうせ俺は重たい男だ。
あんたは重い男が嫌いだったよな?
あんたはノンケで童貞だった俺が物珍しくて、手を出してみただけなんだろ?
やっぱ、気軽な付き合いがよくなってきたんだろ?」

 

「違う!」

 

思ってもみないこと、少しだけ頭をよぎったことも全部ごたまぜにして、不満と不信の種を意図的に誇張させて、チャンミンを傷つけてゆく。

 

 


 

~チャンミン~

 

「ユノの馬鹿!」

 

ユノのアパートを飛び出してきた。

 

どうせユノは追いかけてこないだろうからと、すぐに走るスピードを落とした。

 

センスを疑うユノのTシャツを着てきたままだった。

 

身動ぎするごとに、ユノの香りが漂うTシャツだ。

 

当分ユノとは顔を合わせたくないから、洗って宅配便で送り返せばいいや。

 

(僕の馬鹿!)

 

先日の夜、例の男とバッティングしてしまったのは事故みたいなものだったから、「昔の男に会ってただろう?」の問いに、「会っていない」と答えてしまった。

 

でも、厳密に考えると、『会っていない』の答えは正確じゃなかった。

 

その夜のことを言おうか言わまいか逡巡した一瞬間の表情を、ユノは目ざとくキャッチしてしまった。

 

今回は僕が悪い。

 

自分を知ってほしいなぁ、なんて安易で狡い気持ちから、スマートフォンにロックをかけるのをやめていた。

 

どうぞ見てください、と言わんばかりに、スマートフォンをユノの目が届くところに置きっぱなしにすることが多かった。

 

ユノ自ら、僕のことを知りたい一心で探って欲しいなぁ、って。

 

ユノのキャラ的に、他人様のスマートフォンを盗み見するような人物ではないと知っていながら、だ。

 

ところがとうとう、疑心暗鬼の塊となったユノは禁忌を犯してしまった。

 

...今の言い方には悪意があった。

 

(ごめん、ユノ
そうじゃなかったよね)

 

僕のバッグから転がり出たスマートフォンを拾ってあげた時、たまたま目にしてしまっただけだ。

 

バッグからスマートフォンを取り出し、着信履歴を確かめてみた。

 

あいつとばったり出くわした夜以降、あいつから2、3度着信があり、そのいずれも無視していた。

 

男が変わるたびに番号まで変えていられなかったし、僕の人生において意味ある存在だと長年思い込んでいたせいで、削除できずにいた。

 

ユノと恋愛をするようになって、あの男のアドレスが保存されていることをすっかり忘れていたのだ。

 

「ん?」

 

通話時間が3分とある。

 

(がーん)

 

僕はその場に、頭を抱えてしゃがみこんだ。

 

「電話をかけてきたのは昔の男だ」と自信満々に指摘していたわけが、ようやく分かった。

 

「同僚や上司からの着信ではない」とユノの勘が働いた。

 

その着信を見過ごすどころか、よりによって、例の男...僕のお尻バージンを奪った男からの電話に出てしまったのだ。

 

きっとあの男は、ユノを煽るようなことを言ったのだろう。

 

「ああ...最悪だ」

 

僕は今日、ユノに伝えるつもりだった。

 

僕の初恋はユノだって。

 

僕はユノが好きだって。

 

思い返せば、はっきりと「好き」と伝えたことがなかったから。

 

引き返そうと思って数歩歩いたところで、足を止めた。

 

(今は会いたくない)

 

ユノの暴言は、ぐさぐさと僕のハートに突き刺さっていた。

 

僕のだらしなかった過去が全部悪い。

 

初めて手放したくないと願った恋なのに。

 

(つづく)

 

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(58)ぴっかぴか

 

~ユノ~

 

仕事を終え裏口を出ると、フェンスにもたれ立つチャンミンがそこにいた。最寄り駅で集合するようにしていたが、俺をからかう目的でアポなしでやってくる日もある。

(例えば、俺の終業間際にやってきては、店頭と厨房の境の窓越しに手を振ってきたり、商品補充中の俺の背後にいつのまにか立っていたり)

 

職場の者たちは、まさかチャンミンこそ俺の恋人だとは想像できないだろうから、仲の良い友人同士に見ているだろうと思う。

 

当初、守衛さんたちは、明らかにここの従業員ではない者が裏口脇にいることを不審がっていただろう。

 

後になって俺の連れだと知り、チャンミンが玄人的に綺麗過ぎるせいで声をかけづらかったと打ち明けてくれた。

 

身体のラインをひろわないラフな装いでも、スタイルの良さを隠しきれていないチャンミンは、今日もいい男っぷりを発揮してくれていた。

 

「待たせたな」

 

「お疲れ」

 

チャンミンはもたれていたフェンスから身体を起こし、「ごめん、ここまで来ちゃった」と照れくさそうに笑った。

 

俺たちは肩を並べて歩き出した。

 

「どうした?」

 

この日のチャンミンは浮かない表情をしていた。

 

「様子が変だぞ?」

 

「いや...別に」

 

ピン、ときた。

 

きっと、昔の男のひとりとトラブったのだ。

 

手ひどい別れ方をしたせいで、チャンミンは数多の男たちから恨みを買っている。

 

男関係がだらしなかった男であることは織り込み済みで付き合っているのだから、俺はそこの部分を責めにくい立場にある。

 

その代わり、チャンミンの恋人として出来る限りのフォローはしてやりたいと考えている。

 

そんなチャンミンが心配で、「俺のアパートで一緒に暮らさないか?」と提案したことがあったけれど、彼は首を縦に振ってくれない。

 

チャンミンの恋愛ポリシーは、『相手の生活圏に深く立ち入らないようにする』だ。

 

確かに、俺の部屋にはチャンミンの私物は一切ない。

 

俺のものを借りたり、俺んちの洗濯機に放り込んでいくが、次に会う日に回収していってしまう。

 

こういう奴なんだと分かってはいても、やっぱり寂しい。

 

昔の男たちがどんななヤツだったのか、チャンミンが彼らとどう接してきたのかは想像するしかない。

 

俺はそんなんじゃないのになぁ。

 

チャンミンは俺の『運命の男』なのになぁ。

 

いい加減、気を許して欲しいと思う。

 

俺の背中にしなだれかかり、「ユノとのH、大好き」なんて甘えている時、特にそう思う。

 

「夕飯はどうする?

買って帰るか?」

 

晩夏の夕暮れは、オレンジ色の空気とツツクボウシの鳴き声に包まれている。

 

サラリーマンたちのシャツの背中は、1日分の汗を沁み込んでシワが寄り、薄着の女性たちも湿気と汗のせいでか浮き毛が出ている。

 

今日が金曜日だということもあるのか、表情に開放感が垣間見られる。

 

「ゆの」

 

つんつん、とTシャツの裾を引っ張られた。

 

「ん?」

 

「ご飯はいいから...ユノんちに行きたい。

早く」

 

チャンミンの眼が熱く潤っている。

 

今すぐヤリたい、の合図だ。

 

「うちに何にもないぞ?」

 

「後にすればいい」

 

チャンミンの性欲は底なしで、俺は一晩で1滴残らず搾り取られる。

 

性欲が強いというより、快楽に弱いのだと思う。

 

猫の目をして俺を誘っていたのが、後半の頃にはクタクタに身をゆだね、もっともっと尻を摺り寄せてくるのだ。

 

他の男たちにも、同様な姿を晒していたのかと思うと正直...とても嫌な気持ちになる。

 

嫉妬を丸出しにしたら、チャンミンは嫌がるだろうから、俺はぐっと堪えているのだけど。

 


 

~チャンミン~

 

玄関のドアが閉まるなり、ユノのジッパーを下ろし、隙間から引っ張り出したものを根元までくわえ込んだ。

 

「おい!」

 

ちゅっぱちゅっぱと音を立てて吸い上げていると、あっという間に僕の口の中がいっぱいになる。

 

僕の頭をつっぱねていた手の力が次第に抜けてゆく。

 

僕はサンダルとボトムスを乱暴に脱ぎ捨て、肩にかけていたバッグはたたきに落とすがままにした。

 

バッグの中身がその場に散らばった。

 

背後に押し倒されて、ユノの腰に両脚を巻きつけた。

 

玄関先の廊下で、下を出しただけで、上は着たままで、獣のように交わった。

 

多分緊張と不安を打ち消したくて、1発抜いておこうとしたのだと思う。

 

緊張の源は、ユノに話しておきたいことがあったからだ。

 

エアコンのスイッチを入れる前だったから、果てた時には2人とも全身汗だくだった。

 

汗が目に沁みて痛い。

 

「風呂に入ろう」

 

床で伸びていた僕に、ユノは手を差し伸ばした。

 

「う...うん」

 

ユノは力なく持ち上げた僕の手をつかむと、ぐいっと片腕で僕を引っ張り起こした。

 

「先に入りな。

着替えを用意しておくよ」

 

「ありがと」

 

ユノの精力は僕の1.5倍強いと思う。

 

 

「お先」

 

用意されていた下着とTシャツを身につけ、濡れた頭を拭きふき室内へ戻ると、エアコンの風量MAXで涼しく快適になっていた。

(本日のTシャツは『万里の長城』とプリントされている)

 

冷たい飲み物の用意もあった。

 

ユノもラフで涼しい恰好に着替えを済ませていた。

 

玄関先に脱ぎ散らかしていた洋服は洗濯機へ、たたきに散らばった物はバッグの中に戻されてベッド脇に置いてあった。

 

「入ってくる。

腹減っただろ?

適当なものデリバリで頼んでて」

 

ユノは浴室へと、僕の脇をすい、っと通り過ぎた。

 

あれ?

 

不機嫌そうだな、と思った。

 

なんでだろう?

 

理由が分からなかった。

 

 

デリバリされたものをつまみながら、映画を1本観た。

 

さっきのユノの態度は僕の気のせいだったようだ。

 

僕はベッドにもたれたユノに後ろから抱きかかえられ、たまにキスをしたり、ビールを飲んだりしていた。

 

「おい。

血が出てる」

 

「え?」

 

ユノに指摘されたところを見ると、Tシャツの肩辺りに血液の染みがちょっぴり付いていた。

 

Tシャツの袖を肩までまくりあげたそこに、傷が点々と数個あった。

 

「ホントだ」

 

「痣もあるじゃん」

 

二の腕をひっくり返すと、直径3センチくらいの青緑の痣があった。

 

「ホントだ」

 

「どうしたんだ?」

 

さっきは洋服を着たままだったから、ユノは気づかずにいたのだろう。

 

僕だって、シャワーのお湯が沁みた時に「そういえば...」と思い出したくらいなのだ。

 

「あ~、これね。

噛まれたんだ」

 

「噛まれた?」

 

介護士は生傷が絶えない職業ともいえる。

 

僕の背後から正面へと移動したユノの顔がマジなものに変わっていた。

 

「そうだよ。

お風呂に入れる時に暴れる人がいるんだ。

引っ掻かれたり、つねられたり...すごいんだ」

 

「それになんだよ、この痣は。

誰にやられたんだよ!?」

 

「誰って、ホームのおじいさんだよ。

つねられたんだ。

乱暴な人なんだ」

 

「嘘つけ!」

 

ユノの白い顔が怒りで紅潮していた。

 

僕が過去の男の誰かに乱暴されたのでは?と、誤解をしているようだ。

 

でも、僕の話は事実だ。

 

「さっきも言ったじゃん。

つねられたんだ!

ねえ、絆創膏ある?」

 

「...男か?」

 

「は?」

 

「男にやられたのか?」

 

「どうしてそうなっちゃうの?

僕の仕事は生傷が絶えないんだよ!」

 

「あんたならあり得る話だろう?

いつまでたっても、元カレ前カレの縁が切れていないじゃないのか?」

 

「切れてるよ!」

 

「どうだか。

前みたいにばったり会ったりして、因縁付けられたんじゃないのか?

殴られたんだろ?」

 

「殴られてない!

会ってない!

僕を信じていないのか?

僕をどれだけ軟派な男だと思ってるんだ?」

 

「...あんたの別れ方が悪いんだよ。

さんざん捨ててきたんだろ?」

 

「...っ!」

 

「どうせ俺のことも、いつか『捨てる』くせに!」

 

「どうしてそうなっちゃうんだよ?」

 

ユノの中で、常々抱えてきた不安が爆発したのだろう。

 

僕は立ち上がった。

 

続けて立ち上がったユノと対面し、僕らは睨み合った。

 

(つづく)

 

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