(5)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

玄関のドアをカリカリ引っかいたら、おしっこの合図だ。

 

私はドアを開けて、チャンミンを外へと出してやる。

 

温かい室内にひゅっと寒風が吹き込んだ。

 

外は闇に包まれているのに、ほの明るいのは、雪原がわずかな星の光を反射して発光しているからだ。

 

ドア脇に吊るした温度計は氷点下10度を示している。

 

ユノさんの大きな足跡は、夕方から降り出した雪で隠れてしまっていた。

 

小さな足跡を点々と付けながら、チャンミンはポーチの端っこまでよちよちと歩いていく。

 

目的地まで抱き上げていってあげたいのを、ぐっと堪える。

 

チャンミンの鼻息が白い。

 

ガス火にかけたフライパンの中身を気にしながら、チャンミンの用が済むのをじりじりと待つ。

 

薪火が温めた部屋が冷えていくのも構わず、私はドアを開けたままだ。

 

この子はトイレを覚えてから半日も経っていないのだ。

 

ポーチは小さなチャンミンにとって広大で未知なる地。

 

数センチの雪も、チャンミンにとっては脚の付け根まで達する深さなのだ。

 

階段から転げ落ちるかもしれないし、辺りをうろつく野犬に襲われるかもしれない。

 

そして何より、ママである私に捨てられたと絶望してしまうかもしれない。

 

お尻を落とした姿勢のバランスをとろうと、後ろ脚を踏ん張っている。

 

膀胱を空っぽにしたチャンミンは、雪に脚をとられながら私の方へ一目散に(本人はそのつもり)駆けてくる。

 

差し伸ばした私の両手の間が、チャンミンのゴール地点だ。

 

「いい子いい子」と頬ずりせずにはいられない。

 

バターが焦げる匂いに慌てた私は、チャンミンを抱き上げたまま台所へ走った。

 

今夜のメニューは、ユノさんが下処理を済ませておいた魚にパン粉をつけ、バターで焼いたものだ。

 

私の仕事は夕飯の用意で、ユノさんは今、入浴中だった。

 

身体に染みついたケモノの匂いを落としてから、食卓につくのがユノさんの日課なのだ。

 

仕事中のユノさんを、実は見たことがない。

 

沢山の動物と触れ合えていいなぁと、動物好きたちは憧れるだろう。

 

実際は、単なる動物好きだけじゃ務まらない、覚悟のいる仕事なんだろうと...ユノさんの仕事ぶりを見たことはなくても、そうじゃないかな、と思っている。

 

想像してみた。

 

早朝。

 

ユノさんは、野菜くずと乾草を積んだ荷車を押している。

 

屋外の運動場は、前夜からの雪が降り積もって足跡ひとつない。

 

アルパカたちは畜舎の中で餌の時間を待っている。

 

チャンミンはおくるみに包まれていたのだろうか。

 

いずれはアルパカたちの脚に、踏み潰されそうだったのではないだろうか。

 

ユノさんは鋭い目で動物たちに変化はないか見て回る。

 

白と茶色と黒と黄金色と灰色のまだら模様の、毛むくじゃらな塊を見つける。

 

ユノさんは驚いただろう。

 

ユノさんは腰にぶら下げた鍵束から、アルパカ部屋のものを見つけ出す。

 

カシャンと錠に鍵が回る音に次いで鉄製の扉がきしむ音が、コンクリート張りの建物内に響く。

 

駆け寄ったユノさんは、小さな毛皮の塊を両手で包み込む。

 

その不可思議な生き物...チャンミンは、ユノさんの大きな手の平におさまってしまうほど小さい。

 

ユノさんは目の高さまでチャンミンを持ち上げて、彼と目を合わせる。

 

チャンミンの大きな眼に、ユノさんの顔が映っている。

 

ユノさんはつなぎのボタンを外し、懐深くにチャンミンを隠す。

 

どんなに可愛くても、動物園の動物を勝手に持ち帰ることはできない。

 

休憩室か事務所で様子を見るしかない。

 

段ボール箱に敷いたタオルの上にチャンミンを下ろす。

 

この子は、誰の子だ?

 

知識豊かな飼育員たちにも、獣医たちも首をかしげていただろう。

 

これまで見たことのない、さまざまな動物の寄せ集めのような不格好な生き物。

 

どうやら赤ん坊のようだ。

 

どこからやってきたんだ?

 

多くの人間たちに至近距離から眺めまわされ、チャンミンは震えていただろう。

 

身体をいじくりまわされ、最も敏感な鼻に不用意に触れられ、チャンミンはパニックだったろう。

 

鼻先でひらひら揺れる無遠慮な指に、チャンミンは噛みついた。

 

唸り声は威嚇のものにしては迫力がない。

 

甘いミルクの香りからも顔を背けた。

 

そうであっても。

 

ユノさんに見つけてもらってよかった。

 

わが家に連れ帰ってもらえて、本当によかった。

 

 

食卓テーブルに並んだ温かい料理を、ユノさんと食べた。

 

人間の食べるものはごくたまにしかもらえないと知っているから、タミーはストーブの前から動かない。

 

窓ガラスは結露で白く曇っている。

 

サイズが合わなくなった私の古いスニーカーに、チャンミンは頭を突っ込んでいた。

 

「チャンミン、おっぱいの時間ですよ~」

 

夕飯前にストーブから下ろしてほどよい温度に冷ましたやぎ乳が、チャンミンの食事だ。

 

「チャンミン」に反応したのか、それとも「おっぱい」なのかは、チャンミンに聞いてみないと分からない。

 

チャンミンはスニーカーから頭を抜くやいなや、私を見上げる。

 

「待ってました!」と言わんばかりにまっしぐらに駆けてきて、私の足首に突進する。

 

気持ちは一直進でも、身体がついてこない。

 

脚はもつれ気味なのに、表情は真剣なのだ。

 

後ろ立ちして、私のズボンをカリカリと引っかく。

 

「すっかりママの顔だね」

 

ユノさんはまんべんなく火がまわるよう、火ばさみで薪をくべ直していた。

 

ストーブの前にしゃがみ込んだユノさんの背中はとても広い。

 

私はチャンミンの...一心に注射器をちゅうちゅう吸っている...小さな背中を撫ぜた。

 

 

(つづく)

 

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(4)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンにトイレを覚えさせるのは、早いうちに諦めた。

 

この子は私がちょっと目を離した隙に、おしっこをするのだ。

 

特にお気に入りなのがラグの上だった(タミーや私たちの足の匂いが染みついているせいなのかな)

 

ユノさんは雪が溶け始めた春先になると、薪割りに精を出す。

 

日当たりの良い軒下に、薪を山と積んで湿気を飛ばす。

 

秋口になるとその薪をポーチの床下に積み直す。

 

ストーブ脇の木箱いっぱいに薪を用意するのが、私の仕事だ。

 

氷点下の外気に身を丸め、ポーチから薪を一抱え取って引き返してくるわずか数分の間に、チャンミンはラグの上に水たまりを作っていた。

 

「もう!」

 

仏頂面な顔をしたって、赤ちゃんのチャンミンには通じない。

 

肌色の鼻をひくひくさせて、そう広くはないリビングの探検の真っ最中だった。

 

帰宅したユノさんに、「チャンミンったらトイレを覚えてくれないの!」と訴えた。

 

チャンミンのためにトイレは用意してあった。

 

タミーが子犬の時、寝床として使用していた藤籠に新聞紙とおがくずを敷いたものがそうだ。

 

市場で買ってきた魚の内臓を抜く作業をしていたユノさんは、手を止めた。

 

「それはミンミンがチャンミンを観察していないからだよ。

あの子をよ~く見てごらん」

 

チャンミンはごろりと横になったタミーのお腹に、鼻づらをこすりつけている。

 

雄のタミーにはあるはずのないおっぱいを探しているのだ。

 

温厚なタミーは、チャンミンにされるがままになっている。

 

太短い後ろ脚を踏ん張って、同じく太短い前脚でタミーのお腹をふにふにしていた。

 

「そっか!」

 

チャンミンの短い脚じゃあ、藤籠の縁を乗り越えられないのだ。

 

どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。

 

度重なる粗相の後始末にカリカリしていた私は、チャンミンを観察する目を失っていたのだ。

 

タミーがそわそわし出した。

 

ドアを開けてやると、タミーはポーチから前庭に降り立ち、後ろ足をあげた。

 

私はドアを開けて、タミーが用を済ませて戻ってくるのを待った。

 

「駄目だよ、チャンミン!」

 

小さなチャンミンが私の両足をすり抜けて行ったのだ。

 

ポーチには、雪原から吹き込んだ雪が数センチほど降り積もっていた。

 

「チャンミン!

寒いから!」

 

毎日のホットタオルと、ユノさんが職場から持ち帰った塗り薬で、チャンミンの皮膚炎はよくなっていった。

 

そうであっても、禿げたところに産毛が生え始めた程度。

 

チャンミンが凍えてしまう!

 

ドアの框に脚をひっかけてしまい、チャンミンはポーチの床にまともに頭から突っ込んでいた。

 

慌てた私は、チャンミンを抱き上げようとした。

 

「好きにさせておきなさい」

 

リビングのユノさんは私を止めた。

 

「でも...」

 

「いつまでも家の中に閉じ込めておくのは可哀想だよ」

 

ユノさんの大きな足跡をたどって、チャンミンはよたよたと歩いている。

 

文字通り、よたよたよちよちと。

 

ここに来てから、ミルクを沢山飲んだおかげで、チャンミンはひと回り大きくなった。

 

チャンミンは頭も大きいし、お尻も大きい。

 

極めてアンバランスな身体付きなのだ。

 

歩を進めるたびに、お尻を左右に揺すっている。

 

短い尻尾をぴんと伸ばしてバランスを取ってはいるけど、前脚を滑らせて再び頭を打ちつけた。

 

雪で覆われたポーチの板張りの床は凍り付いている。

 

私はヒヤヒヤしながら、チャンミンの後ろ姿を見守った。

 

そのうちに足元の不確かな地を歩くコツを覚えたらしい。

 

足取りがスムーズになってきた。

 

庭へと下りる階段の手前まで到達した時、私はチャンミンへ駆け寄ろうとした。

 

幼い動物は高低差が分からないのだ。

 

「チャンミンの好きなようにさせておきなさい」

 

再度、ユノさんは私を止めた。

 

チャンミンはふんふんと床の匂いを嗅ぎだした。

 

その場をぐるぐると廻り出した。

 

階段下のタミーの目が、見守るものになっている。

 

チャンミンは大きな腰をすっと、落とした。

 

「やった...!」

 

まだまだバランスのとれない足腰で、生後1か月の赤ちゃんだ。

 

片脚をあげるのはまだまだ早い。

 

くるりと向きを変えたチャンミンの、私を見上げた顔といったら!

 

「どう?」と自慢げに、大きな大きな目をキラキラさせていた。

 

私は駆け寄り、チャンミンを抱き上げた。

 

「偉いね~。

よくやったね~」

 

チャンミンの丸い頭を何度も撫ぜた。

 

大きな鼻は雪まみれになっていた。

 

「チャンミン、いい子だね~。

凄いね~」

 

白と黒と茶色のまだら模様の背中を撫ぜた。

 

この時こそ、ユノさんは私を止めなかった。

 

チャンミンは私の唇をぺろぺろ舐めた。

 

(つづく)

 

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(3)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

「ミンミン!」

 

「今、起きたところ!」

 

ユノさんは私のことを『ミンミン』と呼ぶ。

 

蝉の鳴き声みたいであまり好きじゃない。

 

山のふもとに建つこの家に、初めて訪れたのは夏の盛りの頃だった。

 

蝉の声が頭の中でじゃんじゃんと鳴り響き、耳鳴りを疑う程のやかましさだった。

 

初めて会ったこの夏の日を記念して、ユノさんはふざけ半分で私を「ミンミン」と呼び、いつしかその呼び名が定着したのだ。

 

返事をしないとユノさんは、「ミンミンミンミン」とずーっと呼び続けるから、私は一回で応答するようにしている。

 

私はチャンミンを抱いて、寝室を出た。

 

 

「チャンミンにミルクをあげよう」

 

早起きのユノさんは既につなぎ姿で、朝食も終えていた。

 

飼育員の出勤時間は早いのだ。

 

私の為にテーブルには、牛乳とパン、ゆで卵が用意されていた。

 

餌をねだるタミーがユノさんの足元で、伏せの姿勢をとっている。

 

ストーブの上にミルクパンがあるのを目にし、「チャンミンは牛乳を飲むの?」と尋ねた。

 

「牛乳はお腹を壊したんだ。

ヤギのミルクがチャンミンの胃袋に合うみたいだ。

園からヤギ乳をもらってきたよ...冷蔵庫に入れてある。

それをひと肌に温めてあげるといい」

 

「あ!」

 

お腹の辺りがジワリと温かくなり、抱いたチャンミンから身を離すと...やっぱり!

 

パジャマがぐっしょり濡れていた。

 

「チャンミンがお漏らしした!」

 

「ははは。

そういえば昨夜からおしっこをしていなかったからね」

 

「トイレはどうしよう?

トイレの場所を覚えるかなぁ?」

 

「チャンミンならすぐに覚えるだろうよ。

頭が大きいから賢いだろうね。

でも、この子は未だ赤ちゃんだから、当分は無理だろう」

 

「おしめをすればいいかな?」

 

「それじゃあ、お尻が蒸れてしまって可哀想だ。

ぐるぐる歩き回り始めて、床をくんくん嗅ぎ出したら、おしっこのサインだ。

腰を落としたらウンチのサインだ。

チャンミンの様子をよく見ていれば、分かるよ」

 

「犬みたいだね」

 

ユノさんは私とチャンミンの頭を撫ぜると、弁当の入ったバッグを肩にかけた。

 

学校に通えない私は一日、家にいるから、チャンミンのお世話はちゃんとみられるのだ。

 

「いってらっしゃい」

 

ユノさんはとても背が高く、私の頭は彼の胸のあたりにある。

 

ユノさんが乗った真っ赤なトラックが見えなくなるまで、私は見送った。

 

チャンミンと二人きりの一日が始まった。

(タミーもいるけれど、彼は放っておいても大丈夫なのだ)

 

 

さて、どうやってチャンミンにミルクをあげようか、と考え込んでいた。

 

お皿に入れたミルクを、舌で飲むにはまだまだ幼過ぎるようにみえる。

 

ユノさんがミルクの与え方を教えてくれなかったのは、敢えてのことだ。

 

私はチャンミンのママなのだ。

 

警戒心が強いと聞かされていたけれど、実際のチャンミンは怖いもの知らずのようだ。

 

床にねそべったタミーの匂いを嗅いでいる。

 

チャンミンの黄金色の尻尾は太く短く、毛先だけが白い。

 

緊張と好奇心で、ぴんと水平に伸ばしている。

 

「チャンミン、おいで」

 

名前を呼ぶとパッと振り向いたところをみると、ちゃんと自分の名前を認識しているようだ。

 

チャンミンは短い脚でよちよちと、両手を広げ待つ私の元へと向かってくる。

 

短い尻尾をぷりぷり振っている。

 

チャンミンの爪が木の床を、カチカチと鳴らしていた。

 

「お腹が空いたでしょう?」

 

私の腕の中におさまったチャンミンは、肥満したモルモットより大きく、成猫より小さい。

 

太い脚は大きくなる証拠だと、以前ユノさんが教えてくれた。

 

太ももの間にチャンミンを後ろ向きに抱きかかえ、ミルクパンに浸した指をチャンミンの鼻先に近づけた。

 

間髪入れずチャンミンは、私の人差し指を咥え、ちゅうちゅうと吸った。

 

その吸引力に、よほどお腹が空いていたんだね。

 

ミルクで濡れた指を、何度もチャンミンに吸わせた。

 

チャンミンの2本の短い前脚は、私の手首を抱えている。

 

チャンミンの上顎のくぼみに私の指はぴったりフィットしていた。

 

もっともっと欲しいと口をパクパクさせている。

 

こんなやり方じゃ、お腹いっぱいにミルクを与えられない。

 

チャンミンをいったん床に下ろし、台所の戸棚を漁った。

 

「確かこの辺に...あった!」

 

目当てのものは注射器だった。

 

赤ちゃん動物を一時的に預かった際、ユノさんが使っていたものだった。

 

ミルクパンのミルクを吸い上げ、チャンミンに咥えさせた。

 

チャンミンのペースに合わせて、慎重にピストンを押していく。

 

ちゅっちゅちゅっちゅと一心不乱にミルクを吸っている。

 

注射器のミルクはあっという間に空になった。

 

チャンミンは私の手首を小さな足でふにふにと揉んでいる。

 

母親のおっぱいだと思ってるんだね。

 

あらたにミルクで満たされた注射器を、口元に持っていく。

 

すかさずチャンミンは咥えた。

 

これを何度も繰り返した。

 

吸いながら、チャンミンの眼はまぶたで半分覆われていった。

 

まぶたが落ちた途端、ハッとして眼を開ける。

 

ミルクは飲みたいし眠いし、その狭間でチャンミンは戦っているようだった。

 

ミルクパンが空になる頃には、チャンミンは完全に眠ってしまった。

 

長い長いまつ毛が震えていた。

 

そうだよね、チャンミンは赤ちゃんだから。

 

お腹がいっぱいになったら眠くなるよね。

 

脱力した身体を私に預け、健やかに眠るチャンミンが可愛いと思った。

 

 

本棚から動物図鑑を抜き取った。

 

これはユノさんのもので、子供向けではない専門書に近いものだった。

 

チャンミンと似た特徴の動物を探して、何ページもめくってみてもどこにも見当たらなかった。

 

私の膝の上でお腹を見せて眠っているチャンミン。

 

ピンク色のお腹は産毛程度しか生えておらず、呼吸に合わせて上下している。

 

「あ...!」

 

どうして今まで確かめてみようと思わなかったのか。

 

お腹の下あたりのつつましやかな突起を確認し、チャンミンは雄だと知った。

 

 

(つづく)

 

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(2)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンを始めて見た者は、誰しも言葉を失うだろう。

 

あやふやな表情を浮かべるしかない。

 

ひと言で言い表せられない...不可思議な生き物だった。

 

 

窓ガラスに雪のつぶてがぱさぱさとぶつかる音、タミーのいびき、パチパチと木がはぜる音。

 

ユノさんはソファに横になって本を読んでいて、タミーはその足元でお腹を出して眠っている。

 

私とユノさんとは血のつながりはなく、遠い遠い親戚関係にあるだけ。

 

私の保護者となった経緯を話すと長くなってしまうが、一言で言ってしまうと私に両親がいないからだ。

 

それから、ある事件を引き起こしたせいもある。

 

保護者と呼んでいるけれど、ユノさんはまだ22歳なのだ。

 

実年齢よりも老成しているのは、10代にして家主となった責任感によるものだろう。

 

ユノさんの下で暮らすようになって、2年になろうとしていた。

 

テーブルにノートと教科書を広げ、私は単語の読み上げ練習をしていた。

 

「ユノさん...ここが分かんない」

 

声をかけるとユノさんは、背後から身をのりだして私が指さした単語を、素晴らしい発音で読み上げるのだ。

 

「もうそろそろ寝た方がいい」

 

「チャンミンは?」

 

「君がママなんだから、部屋に連れていきなさい」

 

そう言って、私のベッドの足元に急ごしらえの段ボール製寝床を作ってくれた。

 

その間、私はチャンミンを抱いていた。

 

私の腕はチャンミンの肋骨と背骨の凸凹を感じ取っていた。

 

力を込めたら、ポキンとへし折ってしまいそうな、小ぢんまりと細い骨だった。

 

毛布に鼻先を埋め、背中を丸めて眠るチャンミンを起こさないように、寝床に寝かせた。

 

朝までぐっすり眠りなさい。

 

沢山ミルクを飲んで大きくなりなさい。

 

ユノさんと私の家なら、安心して暮らせるからね。

 

 

カリカリいう音で朝方、目が覚めた。

 

太陽がほんのひとすじ顔を出した時刻で、室内は冷え込んでいる。

 

外はしんと静まりかえっており、吹雪はおさまったのだろう。

 

音の正体は、チャンミンがベッドをひっかいていたからだ。

 

後ろ立ちして背中を伸ばしても、小さなチャンミンの前脚はベッドの上まで届きっこない。

 

その上、チャンミンの四肢はダックスフントのように短いのだ。

 

「ごめんね、寒いんだね」

 

段ボールに古毛布を敷いただけの寝床じゃあ、寒さに震えても仕方がない。

 

そこまで気を配れなかった私は、チャンミンに謝るしかない。

 

チャンミンを抱き上げ、私の傍らに下ろした。

 

深刻な皮膚炎を起こしていたチャンミンの毛皮は、ところどころハゲになっていて、もっと寒かっただろうに。

 

よしよしと背中をこすってあげた。

 

私の体温で温もった布団をチャンミンの背にかけてやると、チャンミンの震えは次第にやんでいった。

 

私はチャンミンに顔を寄せて、じっくりと観察してみた。

 

チャンミンの特徴はまず、団扇のように大きな耳だ。

 

耳の先は尖っている(耳下の傷口は昨夜、ユノさんが軟膏を付けてくれた)

 

耳の裏っ側は黒い毛でおおわれている。

 

正面は真っ白な毛が周囲をぐるりと生えており、中はピンク色でつるつるしていた。

 

どんな音でも聞き漏らさないぞといった意志の感じられる、立派な耳だ。

 

豚とまでは言えないけれど、肌色の大きな鼻は濡れ濡れとしていて、始終ひくひくとうごめいている。

 

不格好なんだけど、どんな匂いも嗅ぎもらさないぞといった意志の感じられる、立派な鼻をしていた。

 

最も特徴的で、初めてチャンミンの全貌を目にした時、真っ先に吸い寄せられたのは眼だった。

 

不細工な顔の中で、チャンミンの眼ははっと息をのむほど美しかった。

 

大きな大きな眼だった。

 

あまりの大きさに、何かの拍子で目玉が落っこちるんじゃないかと、心配になるくらい大きな目をしていた。

 

密に生えた長いまつ毛に縁どられたまぶたに、目玉はおさまっていた。

 

さっきより顔を出した太陽と雪の反射で、窓の外は白くまぶしい。

 

窓から差し込んできた朝日の帯が、チャンミンの瞳を薄茶色に透かしていた。

 

チャンミンの瞳の瞳孔が、きゅっと小さくなる瞬間も見逃さなかった。

 

虹彩は緑がかった焦げ茶色だった。

 

目玉の表面は雫が滴りそうに潤っていて、ちゃんと私の顔が見えているのか疑わしいほどだった。

 

 

(つづく)

 

 

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(1)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンと出逢った時、私は12歳だった。

 

ある吹雪の夜、この家の家主であり私の保護者でもあるユノさんが連れ帰ってきたのだ。

 

ユノさんは動物園で飼育員をしていた。

 

仕事着である灰色のつなぎ姿は、いつもケモノ特有の匂いを漂わせていた。

 

ユノさんが動物を連れ帰ってくることは珍しいことではない。

 

母親から育児放棄されたワラビー、仲間外れにされたミーアキャット、喧嘩の末、羽を骨折したオオコウモリ...。

 

狂暴で懐かなくても、糞尿で匂っても、あくまでも動物園の檻の中へ戻せるまでの期間限定のことだったため、イベントのひとつとしてそのお世話を私は楽しんでいた。

 

餌やりや檻の清掃、大型動物の保定といった力仕事で、ユノさんの腕は太く逞しい。

 

そんなユノさんの腕の中に、バスタオルにくるまれた『それ』はいた。

 

ラグの上に寝そべって本を読んでいた私は飛び起きて、ユノさんの腕の中のものを覗き込んだ。

 

私の傍らで眠っていた雑種の老犬タミーも、のそりと起き出してユノさんの足元へ寄ってきた。

 

タミーは一日中眠っているのに、大好きなユノさんが帰宅するとパチッと目を開けて、長い尻尾をゆっさゆっさ振るのだ。

 

その夜は、よそのケモノの匂いがするものだから、尻尾の振りがいつもより早い。

 

バスタオルの隙間から肌色の鼻がのぞいていた。

 

指を近づけると、匂いを嗅ごうとひくひくと蠢いた。

 

「噛みつく?」

 

「噛みつくだろうね」

 

私は慌てて指を引っ込めた。

 

「まだ歯は生えていないから、噛まれても痛くないよ」

 

「赤ちゃんなの?」

 

「生後2週間だ。

毛布をもっておいで。

この子を下ろすから」

 

『それ』を見下ろすユノさんの目は優しい。

 

生命を持つものに注ぐユノさんの眼は、とても優しい。

 

私を見つめる目ももちろん、優しい。

 

「寒いのかな。

...それとも怖いのかな」

 

「両方だろうね」

 

ユノさんの腕の中で『それ』はぷるぷると震えていた。

 

「もっと薪をくべようか?」の声に、私はストーブに太い薪を詰め込んだ。

 

今回はどんな動物のお世話をするのか、私はわくわくしていた。

 

バスタオルがのけられた時、私は絶句した。

 

「今日から君がママだ」

 

言葉を発せずにいる私に、ユノさんは肩を叩いて繰り返した。

 

「この子のママは君だ」

 

「...自分が?」

 

「そうだ」

 

「...変なの。

ねぇ、ユノさん。

この子は何ていう動物なの?」

 

「それが分からないんだ」

 

ユノさんは困りきった顔をして肩をすくめた。

 

「動物園にいたんでしょ?

それなのに、分かんないの?」

 

「アルパカの檻にいたんだ、ある朝突然。

誰にも知られずに妊娠していて、ひっそりと産み落とされた子ってことはあり得ない。

アルパカは全頭雄だし、見ての通りこの子はアルパカじゃない」

 

「...そうだね」

 

「母親が分からないんじゃ、正しい檻に戻すこともできない。

飼育員部屋で世話をしていたんだが、警戒心が強くてね、満足にミルクも飲まない。

このままじゃ衰弱死してしまうから、連れ帰ったんだ」

 

遠巻きに見ていた私は近寄って、毛布の上でふるふる震える小さな生き物を近くから観察した。

 

タミーは興味津々で、『それ』の匂いをくんくん嗅いでいる。

 

タミーはよく出来た犬だから、吠えたり噛んだり絶対にしないのだ。

 

「飼育員のひとりが試しに、子ヤギを産んだばかりの母ヤギにあてがってみたんだ」

 

「どうだった?」

 

ユノさんは首を振り、『それ』の耳の下を指で指した。

 

血が滲んでおり、ヤギの親子に拒絶されたんだろうと、ユノさんの説明がなくても察せられた。

 

「何を食べるかも分からないの?」

 

「今はミルクだね。

大きくなったら何を食べるんだろうね」

 

「ユノさん、調べてくれないの?」

 

「ママになった君の仕事だよ。

この子は何が好きで、何が苦手なのか、注意深く観察して見つけるんだ」

 

「名前を決めないとね」

 

私は何てつけようかなぁと、視線を彷徨わせかけたとき、

 

「名前はもう決まってるんだ。

『あの子』や『それ』じゃ不便だったから、俺が付けた」

 

と、ユノさんは言った。

 

名付け親になりたかった私はがっかりした。

 

「この子は『チャンミン』だ」

 

「...チャンミン...」

 

「ああ。

いい名前だろう?」

 

ユノさんはニコニコとご機嫌で、ストーブの上でしゅんしゅん音を立てていたヤカンを下ろした。

 

「バケツを持っておいで。

それからタオルも」

 

私は雪が吹きすさぶポーチへバケツを取りに行き、バスルームからタオルを抱えてリビングへ戻った。

 

ユノさんはぐらぐらに沸いたお湯をバケツに注ぎ、ちょうどよい湯温になるまで水を加えるごとに、指で湯温を確かめていた。

 

「よし」と頷いたユノさんは、タオルをお湯に浸してゆるく絞った。

 

ホットタオルでこの小さな生き物...チャンミンの身体を拭いた。

 

足先とお腹、尻尾についたウンチ汚れを拭き取った。

 

お湯を取り換え、別の綺麗なホットタオルでチャンミンの頭と背中をごしごし拭いてやった。

 

肋骨が浮き出るくらいやせ細っていて、頭ばかり大きく見えた。

 

チャンミンは気持ちよさそうに、まぶたを半分閉じている。

 

「チャンミンは君のことを気に入ったようだね」

 

「そうかな?」

 

「飼育員の誰にも心を許さなかったんだ。

歯のない口で噛みついたり、唸ったりしてさ」

 

「そっか...チャンミンにはママがいないんだね。

自分が何なのかも分からないなんて...。

可哀想だね」

 

チャンミンの頭に手を置いた。

 

私の手の平に、チャンミンの真ん丸の頭蓋骨がぴったりとおさまった。

 

 

(つづく)

 

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