(8)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

高原にかぶせられていた純白の分厚い布団が、日に日にかさを減らしていった。

 

日の出の時間も早まってきた。

 

天高く澄んだ空の青も、日増しに色濃くなってきた。

 

溶け残った雪の白と、芽吹き前の茶色い地面がまだらになって、家の前一帯に広がっている。

 

昨年の私だったら、冬の名残と春の訪れの端境の景色を美しいものだと捉えられず、冬の終わりを寂しく、残念に思っていた。

 

「チャンミンみたい...」と、つぶやいた。

 

チャンミンの毛皮は、白と黒と茶色と黄金色がパズルのように組み合わさっている。

 

その模様は、ヒョウ柄ともホルスタイン柄とも言える。

 

ポーチのベンチで日光浴をしていた私は、前庭で用を足すチャンミンを見守っていた。

 

風はひんやりしているけれど、じっとしていると日光に温められて、ぽかぽかと暖かい。

 

冬物の防寒コートはもう不要だ。

 

「おいで」

 

チャンミンは階段を1段1段をよじ登ってくる。

 

すっかり重くなったチャンミンを、膝の上に乗せた。

 

両まぶたの上に、眉毛のように白い斑点がひとつずつある。

 

この丸い眉毛が、チャンミンの顔を滑稽に、でも愛らしく見せているのだ。

 

目の前に広大な地が広がっているのに、チャンミンの行動範囲は家と前庭の10メートルの往復だけ。

 

知らない地へ足を踏み出すことを恐れているのもあるだろうけれど、チャンミンは私に気を遣っているのだと思う。

 

私はチャンミンを抱いてポーチから下りると、彼を地面に下ろした。

 

チャンミンはとことこと、前庭と道路の境ぎりぎりまで歩いてゆき、腰を落とした。

 

つんと、顎を持ち上げ、そよぐ風を鼻に受けている。

 

チャンミンの隣にしゃがみ込んだ。

 

風がどれだけ吹こうが、チャンミンの鼻は常に濡れている。

(絶対に乾かしてはならぬと、鼻の細胞はせっせと水分を送り出しているのだろう)

 

明るい茶色の眼はつむったまぶたで隠れてしまっている。

 

眠ってしまったわけじゃないのだ。

 

肌色の鼻はうごめいたままだ。

 

チャンミンはこんなに大きな頭をしているんだもの、目を閉じて一か月後の草原を想像しているのだ。

 

それから、普段折り畳まれている目蓋のしわの一本一本に、日の光を浴びようとしているのだ。

 

私は隣のチャンミンを飽くことなく、見つめ続けた。

 

「生きているとはなんと素晴らしきことかな」

 

チャンミンは心の中で、そうつぶやいているのだろう。

 

草原をはるばる吹き渡ってきた風に、長いまつ毛が揺れていた。

 

「あっちに行ってみたい?」

 

チャンミンに尋ねてみた。

 

目を開けたチャンミンは私を見上げた。

 

もう少し暖かくなったら...雪どけ水でぬかるんだ地面が乾き、草花で覆われるようになったら...。

 

外の景色の中で見るチャンミンは、ちっぽけだった。

 

私の足の甲に、チャンミンの小さな足が乗った。

 

「行ってみたい」の返事の代わりだと思う。

 

 

私は家の周りを点検するようにぐるりと歩き回っていた。

 

チャンミンはちょこちょこと私の後を追ってくる。

 

雪の重みで枯れ草や落ち葉が地面にぺったりと張り付いていて、チャンミンはそこへ鼻づらを突っ込んで匂いを嗅いでいる。

 

建物の角の向こうに私の姿が消えてしまったことに気付くと、大慌てで、この世の終わりかのような半べそかいた顔で追いかけてくる。

 

ユノさんは動物園の仕事が休みで、冬の間に傷んでしまった雨どいの修理のためハシゴに乗っていた。

 

「新しいものと交換しないと駄目みたいだ」

 

歪んだ雨どいを手にハシゴから下りてきたユノさんは、「叩いても真っすぐにするのは難しそうだ」と苦笑した。

 

築70年、あちこちにガタがきてもおかしくない建物は、こまめな修繕を必要としていた。

 

ユノさんがこの家を相続した時は、とても人が住めないほどに荒れていたそうだ。

 

施設にしかいく道のなかった私はユノさんに引き取られ、古いけれど住み心地のよいこの家に暮らし始めて約2年になる。

 

ここから50km離れた地で私と両親は問題を起こし、この地では2年前と去年と2度も問題を起こしていた。

 

ここから5km離れた街では当然、私が起こした出来事を知っている者たちがいる。

 

私には真実を主張できっこないと知っている彼らは、冷笑を浴びせるに決まっている。

 

私がずっと家に閉じこもっている理由のひとつが、それだ。

 

「街に買いに行ってこないと...ミンミンも一緒に来るか?」

 

「ううん」

 

私はいつものように断って、車に乗り込んだユノさんに頭を差し出した。

 

いつものようにユノさんに頭を撫ぜてもらう。

 

「ユノさん。

チャンミンを散歩に連れていこうと思うんだけど。

紐に繋いでいった方がいいかな?」

 

「紐?」

 

「うん。

チャンミン、どこかへ行っちゃうかもしれない。

山や野原で暮らしたいって」

 

ユノさんは窓から 私の足元を親指で指した。

 

「...どうだろう。

どこへも行かない、と俺は思っている」

 

「どこへも行かないって、どうしてわかるの?」

 

「野生に還りたくても、チャンミンは野生動物なのかどうかわからない。

なんせ図鑑に載っていない唯一の生き物だ。

彼にとって世界のすべてが、この家なんじゃないかな?」

 

「世界が広がったら...」

 

新境地を求めて旅に出たくなるかもしれない...と、心の中でつぶやいた。

 

「チャンミンはまだまだ赤ちゃんだから、そんな心配はもっと後のことだよ」

 

ユノさんはもう一度私の頭を撫ぜると、車を出した。

 

チャンミンはユノさんの車を追って駆けだしたが、前庭と道の境界線でぴたりと足を止めた。

 

チャンミンの世界を広げてあげようと思った。

 

遠くまで行ってしまいたいのかどうかは、チャンミンの判断に任せようと思った。

 

 

(つづく)

 

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(7)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

ポーチに置いたベンチに座って、空と雪原の境界線を眺めていた。

 

視界の上下が青と白に、ちょうど2分の1に分かれている。

 

晴天の日が続いていた。

 

1メートル以上積もっていた雪のかさも、目に見えて少なくなってきた。

 

私の視力はきっと、もの凄くいいはずだ。

 

遮るもののない開けた風景を、毎日見続けているから。

 

毛布にくるまったチャンミンも私を真似て、空と雪原の境界線に鼻先を向けている。

 

景色に魅入っているフリはしていない。

 

無数の毛細血管と神経が張り巡らされたチャンミンの耳は、高性能のアンテナだ。

 

雪原の右端に杉林があり、チャンミンの耳はそちらを向いている。

 

私の耳ではキャッチできない音...雪下の巣穴を出入りするネズミの足音、日光に温められた雪粒が溶け崩れる音。

 

...もっと哲学的な音...遠い遠い彼の地の音を聞いているのかもしれない。

 

 

 

一か月前のことだ。

 

ユノさんが古着屋で幼児用のTシャツを買ってきてくれた。

 

短毛のチャンミンが寒いだろうからと、私が頼んだのだ。

 

3歳児サイズのそれは、小さなチャンミンには少し大き過ぎたため、余った生地を腰のあたりで縛ってやった。

 

これで温かく過ごせると満足した私は、いつもより豪勢な夕食の準備にとりかかった。

 

ケーキは昼間のうちに焼いておいた。

 

その日はユノさんの23歳の誕生日だったのだ。

 

動物園の仕事が忙しくて、帰宅時間が遅い日が続いていた。

 

疲れが溜まっていたユノさんは、ラグの上にタミーと寄り添って昼寝をしていた。

 

私の足首を舐めたり引っかいたり、うっかり蹴飛ばされても足元にいるはずのチャンミンがいなかった。

 

じゅうじゅういう炒め物の音で気付かなかった。

 

台所はリビングの一角にある。

 

振り向いた私は、その光景に「チャンミン!」と大きな声が出てしまった。

 

私の声に目を覚ましたユノさんは、何事かと起き上がった。

 

さっきまでまとっていた赤いTシャツから、チャンミンの胴が消えていた。

 

Tシャツはチャンミンの胴回りの空洞を保ったまま自立していた...まるでチャンミンがTシャツの中から外へとワープしたかのように。

 

チャンミンはラグに背中をこすりつけて、ジタバタしていた。

 

短い前脚でどうやって脱いだのか、大きな頭をどうやって襟元から抜いたのか、首をかしげたのだった。

 

 

その一か月後の今日、懲りない私はもう一度チャンミンに服を着せてみた。

 

ユノさんのベッドのシーツを洗濯機に入れて、リビングに戻った時、私は「チャンミン!」と叫んでしまった。

 

Tシャツの残骸が散らばっていた。

 

生地が毛先に触れて、毛皮の下の敏感な皮膚を不快に刺激したのだろう。

 

チャンミンの小さな顎に、尖った犬歯が生え始めていた。

 

毎日見ているとその変化に気付きにくいが、チャンミンは日々、じわりと成長している。

 

私の小指の爪よりもずっと小さな歯で、どうやってビリビリに切り裂けるのか首をかしげてしまった。

 

チャンミンに服を着せるのは諦めた。

 

寒かったら私の腕に飛び込んでくればいいし、こうして毛布でくるんでやればいい。

 

 

ユノさんの誕生日の話に戻ろう。

 

いつもより豪勢な夕飯のあと、バースデーケーキを...ふわふわに泡立てた生クリームを、これでもかと塗った...切り分けた。

 

タミーのお皿にも、「特別だよ」とひと切れのせた。

(ペロッと一口で飲み込んでしまった)

 

「チャンミンは...まだ早いかな?」

 

その頃のチャンミンは、ミルクに浸してふやかしたパンを食べられるようになっていた。

 

「そうだね。

チャンミンが肉食なのか草食なのか分からないね。

試しに野菜をあげてごらん」

 

人参グラッセをフォークでつぶしたものを、チャンミンのお皿にのせてみた。

 

チャンミンは頭を屈めて、ふんふんと肌色の鼻で匂いを嗅ぐ。

 

ふごふごと鼻を鳴らしている。

 

重い頭を支えようと、後ろ脚は踏ん張っている。

 

赤い舌でちろちろと舐めてみた直後、お皿の上のものが一瞬で消えた。

 

次に崩した肉団子をお皿にのせた。

 

これも一瞬で消えた。

 

私とユノさんは顔を見合わせた。

 

ユノさんなんて、切れ長の目をさらに細めて愛おし気にチャンミンを見ていた。

 

ケーキをひと切れ、うやうやしくチャンミンのお皿にのせた。

 

どうせ味わいもせず、ぱくっとひと口で食べてしまうと思った。

 

ところが、クリームをひと舐めひと舐め、いっぺんに無くなってしまうのを惜しむようだった。

 

特別なケーキ...ユノさんのバースデーケーキだって知ってるんだ。

 

チャンミンが可愛らしくて、私の分も分けてやろうとしたら、

 

「明日、トイレの始末に困るのは君だよ」と、ユノさんは言った。

 

チャンミンは物欲しげに、私たちの顔を交互に見上げていた。

 

 

チャンミンの丸い後頭部をスローテンポで撫ぜていた。

 

悪戯心が湧いてきて、チャンミンのぬらぬらした鼻をくすぐった。

 

大きな鼻がもぞり、と歪んだ。

 

「ぶちゅん」と、くしゃみをした。

 

そして、濡れた鼻を舌でひと舐めした。

 

辺りはあまりにも眩しくて、私は眼を細めていた。

 

チャンミンを覗き込むと、彼の上まぶたは下まぶたにくっつきそうだった。

 

密に生えた白いまつ毛が、日光を浴びて透明に透けていた。

 

眠りにつく瞬間を、今日も見ることができた。

 

私も安心して目をつむる。

 

チャンミンを毛布でくるみなおした。

 

 

(つづく)

 

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(6)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンは私の後をどこまでも付いてくる。

 

まるでカルガモの雛のようだった。

 

それが本能からくる刷り込みなのか、私を慕っているのかはチャンミンに尋ねてみないと分からない。

 

さほど広くない家なのに、トイレにも寝室にもチャンミンは付いて回る。

 

私は短足のチャンミンの歩みに合わせる、ちゃんと付いてきているか、何度も振り返る。

 

4本の脚を動かすことに必死で、大きな耳が重たげにチャンミンは頭を落とし、足元しか見ていない。

 

時折頭を持ち上げ、私のかかととふくらはぎが視界にあるか確認している。

 

意地悪をしたい欲求を抑えるのがやっとだった。

 

ドアの陰に隠れた私...前方にあるはずの私の足が忽然と消えて、パニックになるチャンミンを見たくて仕方がなくなる...けれども、そんなことはできっこなかった。

 

チャンミンのママは私なのだ。

 

 

チャンミンの1日は、私の足を執念深く追いかけているか、ミルクを飲んでいるか、眠っているかのいずれだ。

 

タミーのお腹を枕に、チャンミンは仰向けに寝ている。

 

チャンミンという生き物は、お腹を上にして眠る習性があるのだろう。

 

鍋いっぱいのミルクを飲んで、チャンミンの下腹はこんもり膨れている。

 

後ろ脚は大股広げで、胸の上で曲げた前脚は行儀よく揃えている。

 

私はチャンミンの隣に横たわり、間近から彼を観察した。

 

常に濡れている鼻は乾いていた。

 

大きな耳は、頭の両脇に垂れている。

 

すーすーと寝息をたてて、後ろ脚が稀にぴくぴくっと痙攣しているのは、夢を見ているだろうな。

 

見れば見るほど不格好な姿だけど、私の目にはたまらなく可愛らしく映っている。

 

私とチャンミンは似た者同士。

 

私も醜い見た目をしているからだ。

 

ここに暮らすようになってすぐ、ユノさんは洗面所の鏡を取り外してしまった。

 

タイル張りの壁には、鏡を吊り下げていたフックだけが残されている。

 

だから、出勤前にひげを剃る習慣にしているユノさんは苦労していて、剃り残しがないかチェックをするのが私の役目になっている。

 

ラグに横たわっていた身体を起こした。

 

雪降りの日が一週間続いている。

 

グレーの雪雲に空は覆われて、昼間なのに家の中は薄暗かった。

 

私とチャンミン、タミーは雪に閉じ込められている。

 

早朝、ユノさんが雪をかいて作ってくれた小径が隠されてしまった。

 

そろそろチャンミンのトイレの時間だ、ポーチの雪をかいておいてやろう。

 

チャンミンの後ろ脚がパタパタっと宙を蹴った。

 

夢の世界のチャンミンの脚は小鹿のように長く、雪野原を跳ぶように駆けているのかもしれない。

 

オーバーを着た私はチャンミンを見下ろして、当分目を覚ましそうにない様子に安心して、外へ出た。

 

 

リビングと台所、寝室が二つ、浴室があるだけの、三角屋根の小さな家。

 

深緑に塗られたペンキはところどころ剥がれている。

 

東向きの玄関の前にはポーチがあって、そこの階段から前庭に下りられる。

 

一面草原...冬の間は雪に覆われている...が広がっていて、斜め前にプラムの木が植わっている。

 

ゆるやかな蛇行を描いた道が...私たちの家に用事がある者しか通らない...雪原の彼方まで続いている。

 

今朝、ユノさんのトラックが付けた轍は当然、消えてしまっている。

 

スコップでポーチの上を、次に階段を、最後に階段から道路までに小径を作った。

 

「ふぅ...」

 

作業を終えた頃には、息があがり、マフラーを巻いた首に汗をかいていた。

 

これで帰宅したユノさんは困らないだろう。

 

「あ...」

 

雪原と道路が視界から途切れる一点からこちらに向けて、自動車が近づいてくるのに気づいた。

 

私はスコップを放りだして、家の中に駆け込んだ。

 

靴を脱いだ途端、靴下が生温かいものを踏んだ。

 

チャンミンの粗相の後だった。

 

最近のチャンミンは、何をすると私の機嫌が悪くなるのか分かるようになっていた。

 

チャンミンは、というと...テーブルの脚の陰に、首をすくめて伏せの姿勢でいた。

 

上目遣いに私を見上げている。

 

すんません、ママがいなかったもので、我慢できなかったもので...といった風に。

 

私の叱責を覚悟した表情だった。

 

目覚めのおしっこがしたくなったチャンミンは、ドアをカリカリ引っかいたのに、外にいた私は気づかなかった。

 

それ以前に、私の姿が視界にいなくて、パニックになってお漏らしをしてしまったのかもしれない。

 

「怒ってないよ」

 

テーブルの前でひざまついて両手を広げると、チャンミンはよちよちと走り寄ってきた。

 

私はチャンミンを抱き上げて、頭を撫ぜた。

 

自働車が停車する音が聞えた。

 

郵便配達員がポーチの階段を上る音が聞えた。

 

ポストの蓋を開ける蝶番がきしむ音まで聞えた。

 

雪降る日は、どんな微かな音も大きく響き聞える。

 

私はチャンミンを抱き締めたまま、じっとしていた。

 

 

 

 

「明日、街へ行く予定なんだ。

ミンミンも一緒に行くか?」

 

「留守番してる」

 

「買ってきて欲しいものはある?」

 

「ううん。

図書館に寄って欲しいな」

 

ユノさんに本のリストを書いたメモ用紙を渡した。

 

「家の中に閉じこもっていないで、もっと外出しなさい」なんて、一言も言ったことはない。

 

それでも毎回、「一緒に行く?」と尋ねてくれる。

 

何千回も誘ったら、いつか「一緒に行く」と私が答える日を待っている。

 

「そうだ!

首輪!

首輪があったら買ってきて」

 

ユノさんは、咎めと優しさの交じり合った眼で私を見た。

 

「チャンミンに首輪をしたいと思ってる?」

 

虚をつかれた私は、数秒間考えてから、

 

「ううん」

 

首を振った。

 

 

(つづく)

 

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(5)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

玄関のドアをカリカリ引っかいたら、おしっこの合図だ。

 

私はドアを開けて、チャンミンを外へと出してやる。

 

温かい室内にひゅっと寒風が吹き込んだ。

 

外は闇に包まれているのに、ほの明るいのは、雪原がわずかな星の光を反射して発光しているからだ。

 

ドア脇に吊るした温度計は氷点下10度を示している。

 

ユノさんの大きな足跡は、夕方から降り出した雪で隠れてしまっていた。

 

小さな足跡を点々と付けながら、チャンミンはポーチの端っこまでよちよちと歩いていく。

 

目的地まで抱き上げていってあげたいのを、ぐっと堪える。

 

チャンミンの鼻息が白い。

 

ガス火にかけたフライパンの中身を気にしながら、チャンミンの用が済むのをじりじりと待つ。

 

薪火が温めた部屋が冷えていくのも構わず、私はドアを開けたままだ。

 

この子はトイレを覚えてから半日も経っていないのだ。

 

ポーチは小さなチャンミンにとって広大で未知なる地。

 

数センチの雪も、チャンミンにとっては脚の付け根まで達する深さなのだ。

 

階段から転げ落ちるかもしれないし、辺りをうろつく野犬に襲われるかもしれない。

 

そして何より、ママである私に捨てられたと絶望してしまうかもしれない。

 

お尻を落とした姿勢のバランスをとろうと、後ろ脚を踏ん張っている。

 

膀胱を空っぽにしたチャンミンは、雪に脚をとられながら私の方へ一目散に(本人はそのつもり)駆けてくる。

 

差し伸ばした私の両手の間が、チャンミンのゴール地点だ。

 

「いい子いい子」と頬ずりせずにはいられない。

 

バターが焦げる匂いに慌てた私は、チャンミンを抱き上げたまま台所へ走った。

 

今夜のメニューは、ユノさんが下処理を済ませておいた魚にパン粉をつけ、バターで焼いたものだ。

 

私の仕事は夕飯の用意で、ユノさんは今、入浴中だった。

 

身体に染みついたケモノの匂いを落としてから、食卓につくのがユノさんの日課なのだ。

 

仕事中のユノさんを、実は見たことがない。

 

沢山の動物と触れ合えていいなぁと、動物好きたちは憧れるだろう。

 

実際は、単なる動物好きだけじゃ務まらない、覚悟のいる仕事なんだろうと...ユノさんの仕事ぶりを見たことはなくても、そうじゃないかな、と思っている。

 

想像してみた。

 

早朝。

 

ユノさんは、野菜くずと乾草を積んだ荷車を押している。

 

屋外の運動場は、前夜からの雪が降り積もって足跡ひとつない。

 

アルパカたちは畜舎の中で餌の時間を待っている。

 

チャンミンはおくるみに包まれていたのだろうか。

 

いずれはアルパカたちの脚に、踏み潰されそうだったのではないだろうか。

 

ユノさんは鋭い目で動物たちに変化はないか見て回る。

 

白と茶色と黒と黄金色と灰色のまだら模様の、毛むくじゃらな塊を見つける。

 

ユノさんは驚いただろう。

 

ユノさんは腰にぶら下げた鍵束から、アルパカ部屋のものを見つけ出す。

 

カシャンと錠に鍵が回る音に次いで鉄製の扉がきしむ音が、コンクリート張りの建物内に響く。

 

駆け寄ったユノさんは、小さな毛皮の塊を両手で包み込む。

 

その不可思議な生き物...チャンミンは、ユノさんの大きな手の平におさまってしまうほど小さい。

 

ユノさんは目の高さまでチャンミンを持ち上げて、彼と目を合わせる。

 

チャンミンの大きな眼に、ユノさんの顔が映っている。

 

ユノさんはつなぎのボタンを外し、懐深くにチャンミンを隠す。

 

どんなに可愛くても、動物園の動物を勝手に持ち帰ることはできない。

 

休憩室か事務所で様子を見るしかない。

 

段ボール箱に敷いたタオルの上にチャンミンを下ろす。

 

この子は、誰の子だ?

 

知識豊かな飼育員たちにも、獣医たちも首をかしげていただろう。

 

これまで見たことのない、さまざまな動物の寄せ集めのような不格好な生き物。

 

どうやら赤ん坊のようだ。

 

どこからやってきたんだ?

 

多くの人間たちに至近距離から眺めまわされ、チャンミンは震えていただろう。

 

身体をいじくりまわされ、最も敏感な鼻に不用意に触れられ、チャンミンはパニックだったろう。

 

鼻先でひらひら揺れる無遠慮な指に、チャンミンは噛みついた。

 

唸り声は威嚇のものにしては迫力がない。

 

甘いミルクの香りからも顔を背けた。

 

そうであっても。

 

ユノさんに見つけてもらってよかった。

 

わが家に連れ帰ってもらえて、本当によかった。

 

 

食卓テーブルに並んだ温かい料理を、ユノさんと食べた。

 

人間の食べるものはごくたまにしかもらえないと知っているから、タミーはストーブの前から動かない。

 

窓ガラスは結露で白く曇っている。

 

サイズが合わなくなった私の古いスニーカーに、チャンミンは頭を突っ込んでいた。

 

「チャンミン、おっぱいの時間ですよ~」

 

夕飯前にストーブから下ろしてほどよい温度に冷ましたやぎ乳が、チャンミンの食事だ。

 

「チャンミン」に反応したのか、それとも「おっぱい」なのかは、チャンミンに聞いてみないと分からない。

 

チャンミンはスニーカーから頭を抜くやいなや、私を見上げる。

 

「待ってました!」と言わんばかりにまっしぐらに駆けてきて、私の足首に突進する。

 

気持ちは一直進でも、身体がついてこない。

 

脚はもつれ気味なのに、表情は真剣なのだ。

 

後ろ立ちして、私のズボンをカリカリと引っかく。

 

「すっかりママの顔だね」

 

ユノさんはまんべんなく火がまわるよう、火ばさみで薪をくべ直していた。

 

ストーブの前にしゃがみ込んだユノさんの背中はとても広い。

 

私はチャンミンの...一心に注射器をちゅうちゅう吸っている...小さな背中を撫ぜた。

 

 

(つづく)

 

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(4)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

チャンミンにトイレを覚えさせるのは、早いうちに諦めた。

 

この子は私がちょっと目を離した隙に、おしっこをするのだ。

 

特にお気に入りなのがラグの上だった(タミーや私たちの足の匂いが染みついているせいなのかな)

 

ユノさんは雪が溶け始めた春先になると、薪割りに精を出す。

 

日当たりの良い軒下に、薪を山と積んで湿気を飛ばす。

 

秋口になるとその薪をポーチの床下に積み直す。

 

ストーブ脇の木箱いっぱいに薪を用意するのが、私の仕事だ。

 

氷点下の外気に身を丸め、ポーチから薪を一抱え取って引き返してくるわずか数分の間に、チャンミンはラグの上に水たまりを作っていた。

 

「もう!」

 

仏頂面な顔をしたって、赤ちゃんのチャンミンには通じない。

 

肌色の鼻をひくひくさせて、そう広くはないリビングの探検の真っ最中だった。

 

帰宅したユノさんに、「チャンミンったらトイレを覚えてくれないの!」と訴えた。

 

チャンミンのためにトイレは用意してあった。

 

タミーが子犬の時、寝床として使用していた藤籠に新聞紙とおがくずを敷いたものがそうだ。

 

市場で買ってきた魚の内臓を抜く作業をしていたユノさんは、手を止めた。

 

「それはミンミンがチャンミンを観察していないからだよ。

あの子をよ~く見てごらん」

 

チャンミンはごろりと横になったタミーのお腹に、鼻づらをこすりつけている。

 

雄のタミーにはあるはずのないおっぱいを探しているのだ。

 

温厚なタミーは、チャンミンにされるがままになっている。

 

太短い後ろ脚を踏ん張って、同じく太短い前脚でタミーのお腹をふにふにしていた。

 

「そっか!」

 

チャンミンの短い脚じゃあ、藤籠の縁を乗り越えられないのだ。

 

どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。

 

度重なる粗相の後始末にカリカリしていた私は、チャンミンを観察する目を失っていたのだ。

 

タミーがそわそわし出した。

 

ドアを開けてやると、タミーはポーチから前庭に降り立ち、後ろ足をあげた。

 

私はドアを開けて、タミーが用を済ませて戻ってくるのを待った。

 

「駄目だよ、チャンミン!」

 

小さなチャンミンが私の両足をすり抜けて行ったのだ。

 

ポーチには、雪原から吹き込んだ雪が数センチほど降り積もっていた。

 

「チャンミン!

寒いから!」

 

毎日のホットタオルと、ユノさんが職場から持ち帰った塗り薬で、チャンミンの皮膚炎はよくなっていった。

 

そうであっても、禿げたところに産毛が生え始めた程度。

 

チャンミンが凍えてしまう!

 

ドアの框に脚をひっかけてしまい、チャンミンはポーチの床にまともに頭から突っ込んでいた。

 

慌てた私は、チャンミンを抱き上げようとした。

 

「好きにさせておきなさい」

 

リビングのユノさんは私を止めた。

 

「でも...」

 

「いつまでも家の中に閉じ込めておくのは可哀想だよ」

 

ユノさんの大きな足跡をたどって、チャンミンはよたよたと歩いている。

 

文字通り、よたよたよちよちと。

 

ここに来てから、ミルクを沢山飲んだおかげで、チャンミンはひと回り大きくなった。

 

チャンミンは頭も大きいし、お尻も大きい。

 

極めてアンバランスな身体付きなのだ。

 

歩を進めるたびに、お尻を左右に揺すっている。

 

短い尻尾をぴんと伸ばしてバランスを取ってはいるけど、前脚を滑らせて再び頭を打ちつけた。

 

雪で覆われたポーチの板張りの床は凍り付いている。

 

私はヒヤヒヤしながら、チャンミンの後ろ姿を見守った。

 

そのうちに足元の不確かな地を歩くコツを覚えたらしい。

 

足取りがスムーズになってきた。

 

庭へと下りる階段の手前まで到達した時、私はチャンミンへ駆け寄ろうとした。

 

幼い動物は高低差が分からないのだ。

 

「チャンミンの好きなようにさせておきなさい」

 

再度、ユノさんは私を止めた。

 

チャンミンはふんふんと床の匂いを嗅ぎだした。

 

その場をぐるぐると廻り出した。

 

階段下のタミーの目が、見守るものになっている。

 

チャンミンは大きな腰をすっと、落とした。

 

「やった...!」

 

まだまだバランスのとれない足腰で、生後1か月の赤ちゃんだ。

 

片脚をあげるのはまだまだ早い。

 

くるりと向きを変えたチャンミンの、私を見上げた顔といったら!

 

「どう?」と自慢げに、大きな大きな目をキラキラさせていた。

 

私は駆け寄り、チャンミンを抱き上げた。

 

「偉いね~。

よくやったね~」

 

チャンミンの丸い頭を何度も撫ぜた。

 

大きな鼻は雪まみれになっていた。

 

「チャンミン、いい子だね~。

凄いね~」

 

白と黒と茶色のまだら模様の背中を撫ぜた。

 

この時こそ、ユノさんは私を止めなかった。

 

チャンミンは私の唇をぺろぺろ舐めた。

 

(つづく)

 

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