(13)君と暮らした13カ月

 

~春~

 

 

私の後を付いてまわったチャンミンが、今度は私を従えて先を走る。

 

チャンミンの大きなお尻が弾んでいる。

 

丸めた背中がバネとなる、太い後ろ脚が地面を蹴り、前脚が衝撃を受け止める。

 

団扇のような両耳は風にたなびいている。

 

大きな鼻の穴は酸素を取り込もうと、開きっぱなしだ。

 

「チャンミン!」

 

先を行ったチャンミンを呼ぶと、四肢を踏ん張り急ブレーキをかける。

 

口角は上がり、真ん丸な眼が半月になって、笑顔に見えた。

 

全速力で私の腕の中に、飛び込んでくる。

 

勢いが強すぎて、チャンミンを受け止めた私は後ろにひっくり返ってしまう。

 

私の背中に押しつぶされた若草の匂いがぱっとたちのぼった。

 

大の字に寝っ転がった。

 

大鷹が旋回している。

 

遠くの農地から、畑を耕すトラクターのエンジン音が草地を震わせ耳に伝わる。

 

眩しくて麦わら帽子で顔を覆うと、チャンミンはその下に鼻ずらを突っ込んで私の顔じゅうべろべろ舐めた。

 

チャンミンのよだれは、そよ風で乾いてしまう。

 

チャンミンはよっぽど私のことが好きみたい。

 

チャンミンを撫でまわし、頬ずりをして、お腹をかいてやる。

 

嬉しくて仕方がないのだろう、チャンミンはふごふご鼻を鳴らし、もっと不細工な顔になった。

 

くすくす笑いが胸の奥から湧き出てくる。

 

ひらひら飛ぶ蝶々に噛みつこうと口をパクパクさせたり、猪がほじくりかえした穴にすぽんと落ちてしまったり。

 

頭から突っ込んで後ろ脚をバタバタさせているチャンミンを、助け出してやるのだ。

 

後ろ足でお腹をかく姿は、ドジを踏んだ自分に照れて、「すんません、穴があるとは...」と言い訳しているように見えた。

 

チャンミンの目線に合わせて四つん這いになってみる。

 

「落っこちても仕方ないよね、チャンミンはチビだから」

 

丈が伸びた穂草で行き先を見通せなかったのだ。

 

よそ見や寄り道をしながら、私が追い付くなり、もっと遠くへ跳ねるように駆けてゆく。

 

私は知っている。

 

チャンミンの後頭部にはもう一つの目があるのだ。

 

私がちゃんと付いてきているか、私の存在を常に意識している。

 

私が見守っているから、チャンミンは安心して草原を駆け回れるのだ。

 

あまりに遠くまで探索に行ってしまうから、意地悪な気持ちがどうしても湧いてくる。

 

チャンミンの白いお尻がジグザグに遠ざかるのを見計らって、彼とは逆方向へ私は走った。

 

「さあ、ついて来られたかな?」と、立ち止まって振り返ると、私の姿が見当たらないと焦りだす。

 

慌てた顔が見たかった。

 

チャンミンが赤ちゃんだった時には、どうしても出来なかった悪戯だ。

 

背後に私がついてきていないことに理解が追いつくやいなや、周囲を見回す。

 

引き返しては鼻先を天に向け、風にのって漂ってくる空気中に私の匂いを懸命に嗅ぐ。

 

「そこにいたんですね!」

 

私を見つけた時のチャンミンの顔といったら。

 

チャンミンは私の成すこと全てを真に受け、疑わない。

 

これが私の意地悪だったなんて、これっぽちも思っていないはずだ。

 

それどころか、「見失ってしまってごめんなさい」と、お腹を見せて私のご機嫌取りをしている。

 

意地悪の概念がないのか、私が意地悪をするはずはないと信じているのか。

 

「馬鹿だねぇ、お前は。

私のことを信じきって...」

 

チャンミンはひっくり返り、5カ月経ってもぽわぽわした産毛しか生えていないピンク色のお腹を見せた。

 

そこだけ渦を巻いたおへその毛をくすぐった。

 

 

走っても走っても、なかなか草原の端っこにたどり着けない。

 

運動不足な私がこんなに走ることができるなんて!

 

牧草は柔らかくスニーカーを受け止める。

 

チャンミンと並んで地面に腰を下ろし、柵にもたれて眼下に広がる街を眺めた。

 

リュックサックにいれてきた魔法瓶とコーンフレークの箱を出した。

 

汗をかいて暑いのに、温かい飲み物は喉を潤し、ホッとさせてくれる。

 

チャンミンのために魔法瓶の蓋に注いで、彼の足元に置いた。

 

「熱いからね。

冷めてからだよ」

 

チャンミンは人間じゃないのに、お茶が好きなのだ...それも、砂糖が沢山入った甘いお茶が。

 

お茶が冷めるのを待つ間、チャンミンはなにやら考え事をしている(ように見える)

 

チャンミンの頭の中を覗いてみたい。

 

「チャンミン、街まで行きたい?」

 

恐る恐る尋ねてみた。

 

チャンミンはふん、と鼻を鳴らしたので、私はほっとした。

 

チャンミンの頭が勢いよく横に振られ、私の肩ごしの向こうを注視していた。

 

ユノさんのトラック以外の自動車を見つけるや否や、チャンミンは草むらに隠れてしまう。

 

ヨモギの群生から、チャンミンの大きな耳がはみ出していた。

 

チャンミンは自分の姿形が不格好だと知っているのだ。

 

恥ずかしいのか、恐ろしいのか...その両方か。

 

それから、姿を見せたら大騒ぎになってしまって私を困らせたくないから。

 

私は麦わら帽子を深くかぶり直し、ユノさんちへ向かう郵便配達の自動車をやり過ごした。

 

「行っちゃったよ。

出ておいで」

 

声をかけると、チャンミンは草むらから飛び出してきた。

 

そして私を従え、「僕を見て!」と、右へ左へと素晴らしい跳躍をみせてくれる。

 

「チャンミン!

待って!」

 

...急に不安になった。

 

チャンミンは動物園で発見された謎の生き物。

 

珍種だからと、研究所のようなところに連れていかれたらどうしよう...。

 

そんなことはさせまいと、ユノさんが守ってくれる...だから大丈夫だ。

 

一昨年の出来事も去年の事件も、私に非がないように、ユノさんが頑張ってくれた。

 

私はチャンミンのママだけど子供で弱いから、ユノさんに守ってもらうのだ。

 

チャンミンのママ?

 

近頃の私たちは、親友同士みたい。

 

チャンミン...どこにもいかないでね。

 

12年間生きてきた人生で、最も愛し、唯一無二の宝物はチャンミンだった。

 

愛しさのあまり、泣き出してしまいそうだった。

 

 

(つづく)

 

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(12)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

ふと作業の手を...鉛筆を持つ手、ホウキを持つ手、フライパン返しを持つ手...止めたとき、しんと辺りが静まり返っていた時が要注意だ。

 

チャンミンが悪戯の真っ最中の気配を感じる。

 

チャンミンは、常に私の側にいないと不安でたまらない赤ん坊時代を過ぎ、ひとり遊びできるまで成長した。

 

ありまわる好奇心と体力を持て余して、いたずらの限りを尽くす。

 

どれだけの物を壊されただろうか。

 

コリコリいう音に振り返った私は、悲鳴を上げた。

 

チャンミンの尻尾は高速で振られている。

 

「これは噛んだらダメなの。

噛んでいいのは『これ』だけなの」

 

と、麺棒を指さした(以前チャンミンが使用不能にしてしまったモノだ)

 

「いい?

分かった?」

 

言い聞かせる間、チャンミンは「顔が怖いですよ?」と、きょとんと首をかしげている。

 

きょとんとした表情をしているが、彼は悪戯を咎められていることをちゃんと理解している。

 

その30分後には、床に落ちた鉛筆を木くずの山に変えていた。

 

当然、「チャンミンったら悪い子なの!」とユノさんに泣きつくことになる。

 

「チャンミンはネズミの一種なのかな?

なんでも齧りたがるの」

 

「歯が生え始めてむずがゆいのかもしれないね。

もっと大きくなったら落ち着くよ」

 

「大人になるのを待っているうちに、食卓テーブルがローテーブルになっちゃうよ?

ユノさん、困るでしょ?」

 

「一番いいのは、現行犯で捕まえることだね。

チャンミンには悪いことをしている意識はないんだ。

やっている最中に、『駄目』だと教えてあげなさい」

 

...なんて、ユノさんは分かりきったことを言うんだから。

 

被害は私のものにとどまらず、ユノさんのものやタミーの玩具にまで被害が及ぶようになっていた。

 

ユノさんの外出用の革靴を見事に分解してしまった日は、さすがにユノさんはチャンミンを叱りつけていた。

 

靴底、アッパー、ベロ、かかと、中敷き...これらそのまま靴職人の元に持ってゆけば、元通り縫い合わせてくれそうだった。

 

 

 

 

「チャンミ~ン」

 

今回は何だろうとドキドキさせて、チャンミンを探す。

 

コーンフレーク(チャンミンの好物のひとつ)の箱をゆすって音をたてながら、チャンミンの名前を呼んで2つの寝室と浴室を覗く。

 

換気のため開けていた玄関ドアを思い出して、ヒヤッとした。

 

敷地の境界線から外へ行ってしまったらどうしよう!

 

いつまでも散歩に連れていってあげない私に業を煮やして、「ひとりで平気ですから」と冒険に出かけてしまっていたら...!

 

ポーチから見下ろした景色に、私は言葉を失った。

 

昨年、農家たちを悩ませたカブ泥棒のニュースが頭をよぎった。

 

嵐の夜の翌朝のようだった。

 

蹴散らかされた黒土、細長い緑、黄色が散らばっている...。

 

私の気配を感じとったチャンミンは背中をびくりと震わせ、ゆっくりと振り向いた。

 

私たちはしばらくの間、見つめ合っていた。

 

硬直した私の様子に、ただ事ではないと察したようだ。

 

それまでむしゃむしゃと動いていたチャンミンの顎が止まった。

 

チャンミンの肌色の鼻は真っ黒で、眉毛の上に黄色の花びらが付いていた。

 

「チャンミン...」

 

チャンミンは自分が喜ばしくないことをしでかした、と気付いている。

 

私たちは目を合わせたままでいた。

 

チャンミンの眉根が盛り上がり、眉毛とおぼしき斑点が下がった。

 

「ミンミンを怒らせてしまった...マズイ」と焦り始めたのだろう。

 

口の中のものが地面に落ち、ころりと転がった。

 

チャンミンが咀嚼していたものは、掘り返した球根だった。

 

荒されていたのは花壇で、そこに植わっていたラッパスイセンがチャンミンの口と前脚によって無茶苦茶にされていたのだ。

 

丸い石を土留めした程度のささやかなものだったが、春になると黄色い花がそれは鮮やかに咲くのだ。

 

チャンミンの背が丸まり、首をすくめた格好になった。

 

短い尻尾がお尻の穴を隠した。

 

「チャンミン...ひどい、ひどいよぉ...」

 

その場で崩れ落ちて、私は泣いてしまった。

 

どうせチャンミンのことだ、いつものようにどこかに隠れて、上目遣いで私の機嫌が直るのを待つつもりだ。

 

両腕で囲った中に顔を埋めて泣いた。

 

今回の悪戯は度を越していた。

 

私の二の腕に冷たく濡れたものが押しつけられた。

 

顔を上げると、間近にチャンミンの眼があった。

 

私から目を反らさない。

 

白いまつ毛はまばたきを忘れ、明るい茶色の瞳に影を落としていた。

 

汚れた前脚が私の膝に乗った。

 

温かい舌で私の目尻の涙を舐めとった。

 

「チャンミンっ...くすぐったい」

 

実は、チャンミンが謝りにくるのを私は待っていたのだ。

 

私こそ、チャンミンに謝らないといけないのに...。

 

私がいつまでもぐずぐずと、チャンミンを連れて外出しなかったのがいけないのだ。

 

チャンミンは外出を渋る私に気を遣っていたのだ。

 

そうじゃなければ、とっくの前にひとりで草原を駆けずり回っていただろうから。

 

チャンミンの眉にくっついた花びらをとってあげた。

 

チャンミンの赤い舌が、この先の私の涙をどれだけ拭ってくれたことか。

 

 

被害は見た目ほど酷くなく、水仙の3分の2は植え戻すことができた。

 

帰宅したユノさんは、花壇に気づくと「やれやれ」と首をふりふり、ポーチに仲良く並んで座った私とチャンミンに苦笑して見せた。

 

水仙はユノさんがここに住み始めた際に、植えたものなのだ。

 

「ごめんなさい...」

 

チャンミンに代わって私は謝った。

 

猫背に背を丸めたチャンミンも、叱られた子供みたいにしょげてみせている。

 

「イチゴを買ってきたよ。

夕飯の後にみんなで食べよう」

 

チャンミンは丈夫な胃腸を持っていると、あらためて知った。

 

水仙の球根を10個も食べてもけろりとしていたんだもの。

(もちろん、イチゴも食べた)

 

この日以降、チャンミンは花壇を荒すことはなかった。

 

もっとも、大自然の中で遊びまわる機会がようやく訪れたおかげもあるけれどね。

 

 

(つづく)

 

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(11)君と暮らした13カ月

 

 

 

~春~

 

 

朝晩は冷え込む春先までは、チャンミンを湯たんぽ代わりに抱いて眠っていた。

 

チャンミンが段ボール製寝床で眠ったのは、この家にやってきた最初の夜だけ。

 

標高1,000メートルにあるだけに、冬は寒さ厳しく、夏は直射日光がぎらつき暑さも厳しいといった、過酷な地なのだ。

 

陽気がよくなってくるにつれ、チャンミンと寝床を共にするのが辛くなってきた。

 

チャンミンの体温は私より高く、熱の塊のようだ。

 

寝苦しく、チャンミンを肘で押しのけて寝返りをうつと、彼はごろんと1回転して私の脇腹にくっついてくる。

(チャンミンは仰向けで眠る習性がある)

 

チャンミンは私に身体の一部を密着していないと、安心して眠れないようなのだ。

 

「チャンミン...暑いよ。

あっち行って」

 

ベッドの真ん中で健やかに眠るチャンミンを起こさないよう、マットレスを動かさないよう、私はベッドの端ぎりぎりまで身体をずらした。

 

夢の世界で何か美味しいものを食べているらしく、チャンミンはくちゃくちゃと口を動かしている。

 

冷えたらいけない、お腹に毛布をかけてやった。

 

まるで人間みたい、と思った。

 

渦を描くへそが、呼吸に合わせて上下している。

 

身体も1か月ごとにひと回りずつ成長してきているから、1年後には私のベッドはチャンミンに占拠されるだろう。

 

チャンミンは寝相も悪い。

 

チャンミンに後ろ脚で蹴飛ばされ、私は寝返りをうってこれを避ける。

 

「ふごっ」と自分のいびきで目覚めたチャンミンは、離れたところにある私の身体ににじり寄る。

 

お尻を密着させて安心したのか、再び夢の世界へ。

 

暑いし、いびきはうるさいし、蹴飛ばされるしで、そっとチャンミンから離れる。

 

チャンミンはくっついてくる。

 

この繰り返しの末、私はベッドの端ぎりぎりまで追いつめられ、何度ベッドから落ちたことか!

 

深夜の静まり返った深夜、「どすん」という音に起こされたユノさんは、夢うつつの中くすり、と笑っていそうだ。

 

「今夜からユノさんがチャンミンと寝てよ。

寝相が悪いんだよ?

いびきも酷いんだよ?」

 

そう訴えたらユノさんは、チャンミンの両脇の下をつかんで抱き上げ、

 

「チャンミン、今夜は俺と寝ようか?」

 

と、自身の形のよい鼻をチャンミンの子豚のような鼻にこすりつけた。

 

チャンミンは「承知しました」と、ユノさんの鼻をべろりと舐めた。

 

これでひとりのびのびと安眠できる...と思いきや、眠れなかった。

 

裏山の木々がざわつく音、目覚まし時計のコチコチ音が耳にうるさい。

 

シーツの上に手を滑らしても、毛むくじゃらで柔らかいものに触れない。

 

寝返りをうっても、ぐにゃりと熱い塊がついてこない。

 

「ミンミン、すまない。チャンミンと寝るのは俺でも無理だった」と、ユノさんがドアをノックするのを待った。

 

ユノさんのベッドだからって、チャンミンはいい子ぶってお行儀よく寝ているんだろう。

 

私の負けだ...ユノさんに預けたャンミンを返してもらおう。

 

身体を起こした時、ガリガリとドアを引っかく音が!

 

私はベッドから飛び降り、ドアを開けた。

 

「チャンミン...!」

 

私のチャンミンがそこにいた。

 

後ろ立ちして、前脚で私の膝を甘噛みした。

 

廊下に髪をボサボサにしたユノさんが立っていて、「ほらね。こうなるだろうって、最初から分かっていたよ」といった風に苦笑していた。

 

チャンミンと向き合わせに横たわった。

 

寝室は夜明け間際の、白い霞みがかった空気で満ちていた。

 

チャンミンと目を合わせた。

 

チャンミンは目を反らさない。

 

初めて迎えた夜明けに、こうやってチャンミンの顔をしみじみと観察したんだった。

 

チャンミンのまばたきのペースが落ちてくる。

 

白い眉毛が脱力して下がってくる。

 

両耳が垂れてくる、鼻が乾いてくる。

 

丸い頭を撫ぜた。

 

不細工な顔に埋め込まれた1対の眼、美しすぎる瞳...冷たい水からすくい上げたばかりの琥珀色の宝石...に、心打ち震えた朝。

 

あれから、4か月。

 

朝日をもっと取り込もうと、カーテンを開けた。

 

分厚い秋冬ものから、春夏の軽やかなカーテンに付け替えよう。

 

今朝はこのまま起床して、ユノさんにお弁当を作ってあげよう。

 

あと10分はチャンミンの寝顔を見つめていよう。

 

来週になったら、チャンミンを散歩に連れていってやろう。

 

 

 

 

出勤するユノさんを見送った後、私はポーチのベンチに腰掛けぼうっとしていた。

 

私はこのままでいいのかな、と考え込んでいた。

 

ユノさんの家に引きこもって学校にも行かず、ここは隣家まで1kmも離れていて人目など気にしなくてもいいのに、目前に広がる空間に飛び込めずにいる。

 

裏手の雑木林なら木々に身を隠していられる安心感も手伝って、現に昨年の夏は毎日のように遊びに行っていた。

 

このまま、ユノさんの家で一生を終えるのかな。

 

ユノさんもいつかは恋人を作るだろうし、私が居たらその恋人は嫌がるだろうな。

 

私は何にこだわっているのかな。

 

足元に視線を落とした。

 

チャンミンは寝転がって、私のスニーカーの紐をしゃぶっていた。

 

「ねえ、チャンミン?」

 

私はチャンミンに声をかけた。

 

チャンミンは私を見上げた。

 

「お前は何を考えているの」

 

チャンミンは眼差しで答える。

 

「あなたと同じことですよ」

 

 

(つづく)

 

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(10)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

配達員とのやりとりで怖気付いてしまった私は、チャンミンと散歩に行けるだけの気力が消えてしまった。

 

チャンミンの身体を拭いてやり、「ごめんね」と謝った。

 

チャンミンの上目遣いの眼が、「気にしないでいいですよ。また今度でいいですよ」と言っていた。

 

臨時の配達員のように、若い男の人を見ると足がすくんでしまう。

 

1年前まで、この家には同居人がいた。

 

私がここにやって来る前から住んでいた。

 

同居人はユノさんの寝室で寝起きしていた。

 

二人の関係がどういう類のものなのか、当時11歳の私でも知っていた。

 

私の前では露骨なスキンシップはなかったけれど、その人はユノさんの立ち居振る舞いを常に目で追っていた。

 

その人を見つめるユノさんの表情も優しくて、ちょっとだけ嫉妬してしまった。

 

ここに暮らし始めた当初は、私は二人の世界に割り込んできた邪魔者で、とても居心地が悪かった。

 

部屋に閉じこもっていた私をリビングへ引っ張り出したのはその人で、半年も経つと3人で食卓を囲むのが当たり前の景色となった。

 

ユノさんとその人が私のお父さんとお母さんだったら...と、想像することもあった。

 

その人は懐っこい人で、ユノさんだったら絶対にしないこと...例えば、ラグに座って読書する私に、同じく胡坐をかいていたその人は「ここに座って」と膝を叩いた。

 

「そこまで私は子供じゃないのにな」と戸惑いながら、可愛がってくれるのなら、と素直にその人の膝に乗った。

 

飼い犬のように私の頭を撫ぜまわし、抱き上げるその人に、ユノさんは「ミンミンはペットじゃないんだから」とたしなめていた。

 

その人の視線が実はねっとりと粘着質なものだと察することができなかったのは、私が子供過ぎたからだ。

 

ユノさんは仕事で、その人がユノさんより早く帰宅した日のことだった。

 

5月下旬なのにとても暑い日で、ピッチャーいっぱいに作ったアイスティーをグラスに注ぎ足し飲みながら、食卓テーブルで私は自習をしていた。

 

テーブルの下に寝そべったタミーの尻尾が、私のふくらはぎを時折くすぐっていた。

 

その人は壁掛け時計に目をやり、つられて私も時間を確認した。

 

今すぐ用意を始めないと夕飯の時間に間に合わない、と席を立った時、

 

「分からない所があれば教えてあげるよ」

 

背中いっぱい熱い空気に包まれ、はっと顔をあげた時、その人の顔が真横にあった。

 

その人に覆いかぶされた私は、振り向くことなんて不可能で首を振るのがやっとだった。

 

「っ!」

 

うなじに吹きかけられる吐息は熱く湿っているのに、私は全身鳥肌がたっていた。

 

頭の中は真っ白だった。

 

私の肩から胸、お腹へと這いまわる手を、金縛りにあった私は成すすべもなく目で追うしかできなかった。

 

声を出せない自分が悔しかった。

 

抗議の言葉も、こみ上げる恐怖と怒りの感情も、喉奥で堰き止められていた。

 

その人の手が腰に達した時、限界を越えてしまった私は行動していた。

 

身体が勝手に、脳からの命令無しで動いた。

 

傍らにあったピッチャーをつかんで、その人の頭に打ちおろしていた。

 

取っ手だけになったピッチャーを握りしめ、頭を抱えて床にうずくまるその男を見下ろしていた。

 

 

 

 

あんなに怒ったユノさんを見たのは、あとにも先にも、その時だけだった。

 

顔を真っ赤にさせて怒る人は何度も見たことはあるけれど、怒りで顔色が真っ青になる人を初めて見た。

 

何が起こったのか、私がどんな思いをしたのか説明しなくても全部、ユノさんには伝わっていた。

 

「...でていけ」

 

やっとのことで絞り出したといった、ユノさんの掠れた声だった。

 

ユノさんは男の背中を蹴って、ドアの外へ締め出したかったんだろうに。

 

額を割って出血した人間に、乱暴なことをするわけにはいかず、ユノさんは男を診療所へ連れていくしかなかった。

 

診察室でどんな会話が交わされたのか、怪我の原因を問われてユノさんはなんて答えたのか、私は想像するしかなかった。

 

怪我をさせた私は、警察に捕まるかもしれない。

 

怖かった。

 

夜になって帰宅したユノさんは、私の顔を見るなり抱きしめた。

 

「悪かった...ごめん。

ミンミン、ごめんな」

 

つなぎにあの男の血がついていた。

 

翌日、ユノさんは男の持ち物を全部、箱に詰めて彼の実家へ宅配便で送ってしまった。

 

「本当はね、ぶっ壊して捨ててしまいたい。

さすがにそれは...ね?

もめ事がひとつ増えるだけだ」

 

そう言いながら、ユノさんはベッド―シーツとタオルを庭で燃やしていた。

 

男の匂いが染みついたものが耐えがたかったのだ。

 

ミンミンが望むなら、あいつを徹底的に責め立て償わせるけど、どうする?

 

そう問いかけているユノさんの眼に、私も眼差しで答えた。

 

ユノさんがいっぱい怒ってくれたから気が済んだよ、って。

 

灰色の煙が初夏の空に吸い込まれていった。

 

あれ以来、ユノさんは恋人も作らず、誰かに会いに出かけることも一切なくなった。

 

 

 

 

帰宅したユノさんに届いた荷物を渡した。

 

ユノさんには、何百kmも離れた地にお嫁にいった妹さんがいる。

 

嫁ぎ先は酪農が盛んな地だとかで、妹さんは定期的にハムやバターを送ってくれるのだ。

 

家の前に広がる草原に、夏になるとヒツジが放牧される。

 

緑に白い点々と散らばり、夕方になると群れを作って小屋へと帰っていく。

 

ただ眺めるだけの景色だった。

 

今年からは、チャンミンが駆け回る遊び場になる。

(怖いもの知らずでヒツジに近づいて、蹴られることもありそうだ)

 

「チャンミンとの散歩はどうだった?」とは、ユノさんは尋ねなかった。

 

行けずじまいだったことを分かっている。

 

チャンミンが可愛いからといって、外へ飛び出していけるほど私は素直で無邪気な子供じゃないのだ。

 

仰向けに寝っ転がったチャンミンのお腹をくすぐった。

 

ピンク色のお腹に4色の毛が中心にむかって渦巻いて生えている。

 

渦巻きの中心を指さして、「ここって何?」とユノさんに質問した。

 

「おへそだよ」

 

ユノさんは私の側にしゃがみこんだ。

 

「母親のお腹にいた証拠だ」

 

私はチャンミンのお腹にぴたっと、手の平を当てた。

 

毛が薄く、無防備に柔らかいお腹が、チャンミンの体温を最も感じられる場所だった。

 

私とユノさんにお腹を撫ぜられて、チャンミンは気持ちよさげで、四肢を動かすのを忘れていた。

 

 

(つづく)

 

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(9)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

ユノさんの帰りを待つ間、何かすべきことはないか頭を巡らしていた。

 

食事の用意も未だ早い、ホコリをはたいたラグはポーチの手すりに干してある、雑草も生えていない、今日の勉強のノルマも済んでいる。

 

虫の鳴き声も農園のトラクタのエンジン音もなく、プラムの木にとまった小鳥がさえずる歌だけ。

 

何をすべきで、何がしたいことなのか、私には分かっていた。

 

チャンミンはプラムの木のたもとを、前脚でほじくりかえしている。

 

陽気のよさに冬眠から覚めたトカゲでも見つけたのか、尻尾を千切れんばかりに振っている。

 

チャンミンが掘り返したのは、泥だらけのどんぐりの実だった。

 

家の裏手の雑木林を振り仰いだ。

 

きっと、冬ごもりの食糧にと埋めた場所をリスが忘れてしまったものだ。

 

決心がついた私は、スニーカーから長靴に履き替えた。

 

ぬかるんだ地面でスニーカー(ユノさんが買ってくれたばかり)を汚したくない。

 

裏口の壁に引っかけてあるロープの束に、一瞬迷った。

 

これくらい長いロープなら、自由に歩き回れるし、もっと遠くへ行きたがっても引き戻すことができる。

 

雪どけ水で増水した小川に、チャンミンが落っこちてしまった時にも役に立つ。

 

でも、ユノさんの言葉を思い出して、ロープにかけた手を下ろした。

 

ふと思いついて、家の中にリュックサックを取りに戻った。

 

チャンミンが歩き疲れてしまって、その場でへたりこんでしまったら、抱っこするよりもこのリュックサックに入れて運ぶ方が楽ちんだからだ。

 

スイカ1個分ほど重いんだもの。

 

プラムの木の下に飽きたチャンミンは、ユノさんが薪割りに使う切株の下の採掘にとりかかっていた。

 

後ろ脚をがに股に踏ん張り、両前足を高速回転させている。

 

一心不乱過ぎて、おかしな顔になっている。

 

「チャンミン!」

 

穴掘りに夢中になって、私の存在を忘れていたチャンミンは我にかえった。

 

首をすくめて猫背になり、白い眉(チャンミンを表情豊かにしている)を下げ、バツが悪そうな、恥ずかしそうに、「すんません。世紀の発見をしたもので」と言い訳しているみたいな表情をしている。

 

泥だらけの鼻づらと前脚で飛びつくんだから、ズボンの膝が汚れてしまった。

 

前庭の方から、自動車が停車する音が聞えた。

 

不意打ちに背中をどんと、叩かれたかのように私の心臓は跳ねた。

 

「チャンミン!」

 

チャンミンを呼び止めたけれど、遅かった。

 

何事かと前庭へと駆けて行ってしまったのだ。

 

私一人ならじっと、来訪者が家を離れるまでじっと身を潜めていたのに。

 

お客に噛みついて怪我をさせたり、去る自働車を追いかけて行ってしまったらいけない。

 

恐怖感よりもチャンミンが心配な気持ちが勝り、彼を追った。

 

宅配便のワゴン車が玄関前に停車していた。

 

助かった、と思ったのもつかの間、玄関のドアを叩いていたのは、いつもの配達員のおじさんじゃないことに、逃げだしたい気持ちが膨らんでいく。

 

私に気付くと、その若い配達員は「お届け物です」と胸ポケットにさしたペンを差し出した。

 

「ここにサインを」

 

私はペンを受け取り、指定の欄にユノさんの名前を記した。

 

配達員は本来なら学校に行っている曜日と時間に、子供が家にいることに、疑問を持ったようだ。

 

「ずる休み?」

 

激しく首を振ったけど、配達員の言い方に咎めるつもりはなさそうだったため、私はこくり、と頷いた。

 

「あれは...犬?」

 

配達員はポーチの下を指さした。

 

今度も首を横に振ったけれど、説明をしなければならないことにハッとして、こくんと頷いた。

 

犬じゃなければ、何?

 

その答えを私は用意できていない。

 

チャンミンはポーチの下にもぐり込んで、薪の陰から片目と鼻先を出していた。

 

好奇心は隠し切れず、肌色の鼻はひくひくうごめき、眼は光っていた。

 

チャンミンは名もなき種類の生き物なのだ。

 

チャンミンが身を隠してくれて助かった。

 

犬にしては大きな鼻と、大きな眼、大きな耳を持っている。

 

「雑種かな?」

 

頷くか首を振るだけの私を、内気な子供だと思ったのだろう。

 

愛想よく話しかけても黙ったままの私に、配達員は「仕方がないな」といった風に苦笑した。

 

配達員は小包を私に渡すと、次なる配達場所へとワゴンに乗り込み去っていった。

 

私はワゴンが完全に見えなくなるまで見届けたのち、安堵のため息をついた。

 

「チャンミン、おいで」

 

もう安心だよ、と手招きした。

 

チャンミンは弾丸のように私の胸に飛び込んできた。

 

私のセーターは泥だらけになってしまった。

 

 

 

 

チャンミンには私の声が届く。

 

もちろん、ユノさんにも。

 

それから、耳が遠くなっているタミーにも。

 

小鳥のさえずりに耳をすませながら、私は喉に触れた。

 

私の喉の奥で堰き止められた無音の声を聴きとろうと、チャンミンは大きな耳をそばたてている。

 

どうしよう、私の心の声も聴こえていたら!

 

大丈夫だ。

 

チャンミンは私の一部のようなものだから。

 

目に入れても痛くない、とはこんな感じなんだろうな。

 

もし私が悪いこともしたとしたら、チャンミンはそのまま真似をするだろう。

 

チャンミンにとって、私がすることはなんでも「YES」なのだ。

 

「チャンミン」と呼ぶと、チャンミンの尖った耳先がぴくぴくと動いた。

 

 

(つづく)

 

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