(18)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

一番端の別荘の手前で道を外れ、もう一度斜面を下る。

 

涼し気な川音に向かって慎重に、1歩1歩足元を確かめながら下りていく。

 

「滑るからゆっくりだよ」と、チャンミンに何度も声をかけた。

 

別荘地からだと管理人が作った階段があるが、それはしたくない。

 

後ろ向きになって下りるチャンミンが、人間みたいでおかしかった。

 

抱っこしてあげた方がいいかな、それともリュックサックに入れてあげた方がいいかな、と思った時、私の脇を茶色い塊が通り過ぎた。

 

「チャンミン!」

 

ごろんごろんと転がっていくチャンミンは、ボールそのものだった。

 

慌てた私は斜面に長靴を滑らせ、チャンミンを追った。

 

尖った葉先が頬や腕にかすり傷を作った。

 

河原の砂地にひっくり返ったチャンミンを抱き起し、彼の身体じゅうを点検した。

 

チャンミンがおデブさんで助かった。

 

舌を口からはみ出させ、びっくり眼のチャンミンは無傷だった。

 

 

 

 

チャンミンのことだから川に飛び込むかと予想していたのに、反してチャンミンは慎重派だった。

 

前足の先っちょを水に浸し、キンと冷たい水温にビクッとした後、そろりそろりと身体を浸していった。

 

数メートル浅瀬が続き、湾曲したところに私の身長以上より深い淵がある。

 

水底まで潜って綺麗な石を拾って浮上する遊びがお気に入りだった。

 

浮上する度、チャンミンの様子を窺った。

 

チャンミンは浅瀬で盛大に水しぶきを上げて走り回っていた。

 

遊びに夢中になっているのに安心し、私はとび上がって勢いつけて再び潜水した。

 

この谷川にはこういった箇所がいくつかある。

 

別荘地がある上流では、ここよりももっと深い淵がある。

 

川面に張り出す形の巨岩は、格好の飛び込み台となっていた。

 

天然のプールに大喜びの都会っ子が飛び込むところを、何度か見かけたことがある。

 

太陽が最も高くなる頃が彼らの水泳時間で、私はその時間帯を避けようと、午後3時まで待っていた。

 

水の中で目を開けると、日光が透明過ぎる水を貫いて光の筋を作り、川底に光の輪っかが揺らめいていた。

 

泳ぐ川魚たちはうろこにそれを反射させ、私の動きに合わせて散っていった。

 

ごうごういう水中の音に覆われていると、真空空間にいるみたい...聴いたことはないけれど...だった。

 

雑木林を抜ける時もそうだけど、川に沈んでいる時は特にそう。

 

口を開けば押し寄せる水で窒息してしまうから、口をつぐんでいればよい。

 

頭上にチャンミンのお腹が通り過ぎた。

 

水かきの要領で、四肢は忙しく駆け足している。

 

川原で遊んでいるのが物足りなくなって、私を追ってきたのだ。

 

すでにびしょ濡れになっているのに、これ以上は絶対に顔を濡らすまいとつんと顎を持ち上げている。

 

チャンミンは泳げることを発見した。

 

たっぷり川遊びをした私たちは、川岸にタオルを敷いて休憩をした。

 

「ねえチャンミン。

私の話を聞いてくれる?」

 

チャンミンは私の親友。

 

ぎらつく太陽で石は火傷しそうに熱く、チャンミンもタオルの上でお座りしていた。

 

「どうぞお話ください」と、私をじぃっと見上げ、首をわずかに傾げた。

 

「私たちがあっちで泳がないのは...」

 

上流の方角をさした指につられて、チャンミンの頭も振り向かれた。

 

「私はなにかと問題児なんだ。

おととし、私は事件を起こしたんだよ」

 

『事件』の言葉にチャンミンの眼がわずかに大きくなった。

 

チャンミンは私の言葉を理解できるのだ。

 

「それなのに不思議だね。

普通の神経の持ち主なら二度と近づきたくないでしょうね。

でも私はあべこべだから、ここは平気だったりする。

なんでだと思う?」

 

チャンミンはさっきより深く首を傾げた。

 

「はて、なんだろう?」と考えを巡らしているように見えた。

 

「夏が終わると皆、都会へ帰ってしまうからかなぁ。

それにここは貸別荘が多いんだ。

毎年違う都会っこが来るんだよ」

 

チャンミンの前足が私の足の甲にとん、と乗った。

 

「事件について知りたいんだね。

秘密でもなんでもないよ。

街の人たちも知っていることだから」

 

 

 

 

彼は綺麗な男の子だった。

 

年齢は私の1つ上だった。

 

2年前の夏。

 

彼は私のいる下流へと、川原づたいに下ってきたのだ。

 

川遊びの時間はとうに過ぎ、子供たちの多くは昼寝時間だった。

 

昼間からお酒を飲む大人たちのはしゃぐ声が、静かな別荘地に響いていた。

 

彼は騒がしいのが苦手な子だった。

 

そして無口な子だった。

 

ひとり静かに近づく彼に気付けず、脱いだ洋服をかき集めて藪の中に隠れる間がなかった。

 

とっさに麦わら帽子を取ろうとした時、風が吹き渡った。

 

帽子は風にさらわれ、くるくる回転して飛んで行き、川面に落ちた。

 

(流れされる!)

 

ユノさんのお下がりだった帽子が流されてしまう、焦ってそれを追おうとした。

 

すると彼は腕で私を押しのけ、ざぶざぶ水面をかき分け流れへと入っていった。

 

麦わら帽子は回転しながら、突き出た石にひっかかったり、流れにのったりと遠ざかっていく。

 

私は固唾をのんで彼の後ろ姿を見守った。

 

淵の辺りで浮かんでいた帽子をつかむと、それをかぶり、すいすいと泳いで引き返してきた。

 

水から上がった彼は、私の頭に帽子を乗せた。

 

恥ずかしくて 私は「ありがとう」も言えずにうつむいていた。

 

水着から突き出た彼の棒のような足、濡れたスニーカー。

 

避暑にやってきて間もないのか、首と腕が日焼けしたての真っ赤な肌をしていた。

 

水着の上にTシャツ姿は私と同じだった。

 

濡れて肌に張り付いたTシャツの下の身体は、痩せて薄かった。

 

麦わら帽子のつばの下から、彼をそうっと観察していた。

 

私たちはタオルの上に並んで腰かけ、川を眺めていた。

 

彼も私も黙っていた。

 

彼は口がきけない子なのかもしれない、と思った。

 

だから安心して私も黙っていられた。

 

はじめて視線を交わした時...私が自惚れていただけなのかもしれないけれど...彼は「私を認めた」と感じた。

 

蝉の鳴き声がやや弱まり、私たちの影が長くなってきた頃、彼は立ち上がった。

 

差し出された手の意味が分からなかった。

 

彼はこくりと頷き、その手が私のためのものだと分かると、私はそっと手を置いた。

 

力強く握った手は、太陽で温もった熱いものだった。

 

彼と対面して恥ずかしくなり、私は麦わら帽子をより深くかぶった。

 

片手をあげると、彼は上流へと戻っていった。

 

私も手を振った。

 

石と石との間を器用に飛び移り、少しも危なっかしくない確かな足取りだった。

 

翌日から毎日、雨の日を除いてこの川原で彼と会うのが日課になった。

 

ユノさんは「好きな子でもできた?」とニヤニヤ笑っていて、私は「そうだよ」と素直に認めた。

 

 

(つづく)

 

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(17)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

風のない日だった。

 

私とチャンミンは、ポーチのベンチにぐったりとだらしなく座っていた。

 

暑さが堪えているチャンミンの呼吸は早く、舌は出しっぱなしだ。

 

プラムを漬けたシロップを、水で薄めたものを飲んでいた。

 

からからと氷がたてる音が涼やかだった。

 

グラス表面の水滴が指先を冷たく濡らし、チャンミンの鼻に押し当ててやった。

 

チャンミンの身体で唯一体温調整できるのは鼻だと、ユノさんに教えてもらったからだ。

 

プラムジュースをガラスボウルに注いで、チャンミン用に用意した。

 

チャンミンの頑丈な顎はゴリゴリ氷をかみ砕き、長い舌であっという間にボウルの中身を飲み干してしまった。

 

「暑いね~」

 

手にした団扇を自分とチャンミンと交互に扇いだ。

 

団扇で扇いでやるとチャンミンは気持ちよさげに目を閉じ、彼の次は私の順番。

 

汗がにじむ首元を扇いでいると、私の腕にとん、と前足を置いて「そろそろ僕の番ですよ」と催促する。

 

牧草は厳しい暑さで茶色く枯れている箇所がところどころあった。

 

自前のセーターを着た羊たちは、数本の樹木があるだけのささやかな林で涼んでいた。

 

空と草原の境界線は、そこだけ空気が歪められてゼリーの層が出来ていた。

 

「チャンミン、あれが陽炎だよ。

見える?」

 

チャンミンはお付き合い程度にちらと視線を向けただけで、ベンチの下にもぐり込んでしまった。

 

チャンミンは陽炎には興味がないようだ。

 

花壇に植えたヒマワリは、ぐったりと頭を垂れている。

 

ひまわりの種をチャンミンにあげたら食べるかな?

 

きっと大好きだろうな。

 

暑い暑いといいながらポーチにいたのは、これからしようとすることに迷っていたせいだ。

 

裏手の雑木林へ散歩に出かけるには、少しばかり勇気が必要だったのだ。

 

用意はできていた。

 

洋服の下に水着を着こみ、リュックサックには必要なものを詰め込んであった。

 

タオル、お菓子、万が一のためにチャンミン救出用のロープ。

 

カーキ色のこの大きなリュックサックは、ユノさんからのお下がりだ。

 

引きこもりのせいで出番のなかったこれが、チャンミンとの散歩で大活躍している。

 

笹やイラクサでひっかき傷をつけないよう、長靴を履いてもいた。

 

私の足元がいつものサンダル履きじゃなく長靴だということに、チャンミンは気づいているのに気づいていないフリをしていた。

 

チャンミンの眼が期待できらきら輝いていたから、それがフリだと私にはバレていた。

 

「暑いですねぇ」とベンチの下で腹ばいになって、昼寝するふりをしている。

 

「よし!」

 

すっくと立ちあがりリュックサックを背負うと、ベンチの下からチャンミンは転がり出てきた。

 

いつものチャンミンは、先へと駆けてゆき私が追い付くのを待って、再び私を先導していくのだが、彼にとってはじめての雑木林。

 

この日のチャンミンは不安なのか、私の後を追ってくる。

 

林の中へと足を踏み入れると、鬱蒼と茂る葉でぎらつく日光は遮られ、気温が3度ほど下がったように感じられた。

 

やかましい蝉の声との距離が縮まった。

 

太い脚のわりにチャンミンの足先は小さい。

 

木の葉が降り積もった湿った地面は柔らかく、私たちの足裏を受け止めた。

 

蝉の音を除けば、ガサガサと笹の葉をかき分ける音だけだった。

 

「チャンミン!

食べちゃダメ!」

 

私は悲鳴をあげた。

 

チャンミンは木の根元に生えたクリーム色のキノコに興味津々だった。

 

鼻の穴でキノコを吸い込みかねないほど、鼻をうごめかしている。

 

「毒だよ、毒!

死んじゃうよ!」

 

私はチャンミンを突き飛ばし、辺りに生えていたキノコをひとつ残らず踏み潰した。

 

「なんでもかんでも口に入れていいってものじゃないよ!

お前は食い意地が張ってるんだからっ!」

 

その間チャンミンは、今まで見せたことのない私の剣幕にポカンとしていた。

 

突き飛ばされ腰を抜かしたようにお尻を落としたチャンミンに、私は我に返った。

 

「ごめん。

ごめんね」

 

恐怖と怒りの形相を解くと、チャンミンはそろり立ち上がって私に歩み寄り、鼻づらをこすりつけた。

 

チャンミンと目線が合う高さまで抱き上げ、

 

「びっくりさせてごめんね。

そうだよね、チャンミンは知らなかったもんね」と謝った。

 

チャンミンの眼に、木漏れ日と梢が作る影が映り込んでいた。

 

「あともう少しだよ。

出発進行!」

 

私はチャンミンを地面に下ろし、彼を先導して傾斜の緩やかな林の中を突き進んでいった。

 

私たちの家の裏手の雑木林を2、3百メートル上ると舗装された道路に出る。

 

それは別荘地へと続く道であり、メインストリートでもある。

 

管理人の手入れにより、道際の雑草は短く刈られている。

 

十数棟の建物が樹木や塀を境界線に、十分な間隔をもって建っている。

 

去年は見かけなかった自働車が2,3台駐車していた。

 

別荘地を突っ切った方が近道になるが、今の私はチャンミンを連れている。

 

みすぼらしい田舎者の自分をさらすのも恥ずかしかったし、他にもいくつかの理由があった。

 

私には出来ない理由が沢山あり過ぎる。

 

そして、沢山の矛盾も抱えている。

 

思い煩うことなく、怖いもの知らずで何でもできたらいいのに、と思う一方、どうにでもなれ、と無茶なことも出来てしまう。

 

2年前、とても怖い思いをしたというのに、水遊びの用意を整えてチャンミンとここに来ている。

 

私の神経は、あるところでは極端に過敏で、別のところでは鈍感なのだ。

 

多分、心のセンサーが壊れているのだと思う。

 

ユノさんは、「人間誰しも矛盾だらけだよ。ミンミンにはおかしいところは全くない」と言い聞かせてくれるんだけど...。

 

 

(つづく)

 

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(16)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

私はポーチに腰掛けてユノさんの帰宅を待っていた。

 

隣にはチャンミンはおらず、私ひとりだった。

 

夕立後の生暖かい空気は濃密で、リンリンシャンシャンと虫の鳴き声に包まれていた。

 

裏手の雑木林、前庭、前方に広がる草原...何万匹もの虫が潜んでいる。

 

空も草原も濃紺に塗りつぶされている。

 

今夜は新月で、宇宙に散らばる星々も一面を覆う雲によって隠されていた。

 

室内から漏れる灯りだけが頼りで、私の影がポーチの階段から前庭へと伸びていた。

 

空と草原の境界線に、黄色い灯りを2つ見つけた!

 

気が急いていた私は立ち上がり、ヘッドライトが近づいてくるのをじりじりと待った。

 

トラックは前庭に頭を突っ込む格好で停車した。

 

エンジン音が止まると、再び辺りは虫の声で包み込まれた。

 

ユノさんはただ事じゃない様子の私に、トラックから素早く飛び降りると、

 

「ミンミン、どうした?」と駆け寄った。

 

ヘッドライトで目が眩み、視界がチカチカしていた。

 

「あのね、チャンミンがね」

 

「チャンミンが?

また何かやらかしたのか?」

 

「うん、ちょっとした非常事態なの」

 

ユノさんが帰ってきたから、もう大丈夫。

 

 

 

この日の午後、チャンミンは生まれて初めて雷を経験した。

 

夕方、私と草原を走り回り疲れたチャンミンは、ラグの上で昼寝をしていた。

 

冬の間中さんざんお世話になったタミーの毛皮は暑いからと、彼から離れたところで仰向けになっている。

 

空が灰色の雲に覆われはじめ、慌ててポーチの軒下に干した洗濯物を取り込んだ。

 

薄暗くなってきたのが心細くなったのか、チャンミンは目をしょぼしょぼさせて私の足元まで移動してきた。

 

自習中の私は、チャンミンのために足をぶらぶら揺らし、彼はじゃれついて私の靴下を噛んでいた。

 

「いったいなぁ!」

 

チャンミンの小さな犬歯が私の皮膚に食い込んだのだ。

 

テーブルの下を覗き込んで、怖い顔をしてチャンミンを睨みつけた。

 

ちょうどその時、ピカッと窓の外が光、遅れて雷鳴が轟いた。

 

窓ガラスがびりびり震えるほどの大きな雷鳴だ。

 

よほど驚いたのだろう。チャンミンのずんぐりした身体が、宙を一回転した。

 

慌てるあまり短い脚はもつれ、床に爪を滑らせながらも台所の食器棚の下に滑り込んだ。

 

「チャンミン?」

 

私は四つん這いになって食器棚の下を覗き込んだ。

 

チャンミンはガタガタと震えていて、短い尻尾でお尻の穴を隠していた。

 

恐ろしい音を聞きたくないとばかりに、大きな耳を伏せて耳の穴を塞いでいる。

 

「チャンミン?」

 

外は土砂降り雨で、ざあざあうるさい。

 

水を吸い込んだ土埃の匂いがする。

 

草原は雨しぶきでけむり、白く霞んでいた。

 

三角屋根と頑丈な柱と壁が、雷の音と土砂降りから守ってくれる、ここは安心できる空間なのだ。

 

懐中電灯で照らしてみた。

 

私の呼びかけにチャンミンは身体の向きを変えた。

 

懐中電灯の灯りに、チャンミンの眼が赤く光っていた。

 

チャンミンは腹ばいの姿勢でにじり寄ってきた。

 

ところが、食器棚の縁に大きな頭がつっかえて、鼻先しか外に出せない状態だった。

 

「チャンミン、お尻から出ておいで」

 

チャンミンは頭とお尻を食器棚の底板にこすりつけながら方向転換すると、こちらにお尻を向けた。

 

顔を出せたのはチャンミンの尻尾だけだった。

 

「我慢してて!」

 

チャンミンの尻尾をつかんで引っ張った。

 

駄目だった。

 

敏感な尻尾をぎゅうぎゅう引っ張られる間、チャンミンは我慢強く悲鳴ひとつあげなかった。

 

食器棚の隙間の高さと、チャンミンのコビトカバ的お尻を見比べても、無理なのは明らかだった。

 

「嘘...出てこられないんだ」

 

「はい...すんません」と、面目ないといった風に顎をぺたり、と床につけた。

 

どうして出られなのに、もぐり込むことができたのか不思議でたまらない。

 

非常事態を察したチャンミンの身体は、その瞬間だけ縮んだのだろうか。

 

チャンミンを不安がらせないよう、私はそこから離れるわけにはいかなかった。

 

 

私はあらかじめ、食器棚のお皿は全て外に出し、引き出しも外しておいた。

 

ユノさんと私は掛け声を合わせ、食器棚を持ち上げた。

 

この食器棚はどっしりとしてとても重く、5㎝持ち上げるのがやっとだった。

 

「チャンミン!

出て!」

 

私の合図に、弾丸のようにチャンミンが飛び出してきた。

 

解放されて余程嬉しかったのか、部屋中を狂ったように走り回っていた。

 

ラグはくしゃくしゃになっている。

 

チャンミンはホコリの塊になっていた。

 

干からびた野菜の皮らしきものや虫の死骸もくっついている。

 

「あの食器棚は俺が引っ越してくる前からあるんだ。

この家が建った時から、一度も動かしたことがなかったりして...」

 

「チャンミンがモップになって掃除をしてくれたね」

 

私とユノさんは顔を見合わせ、クスクス笑った。

 

 

 

 

最寄りの街に住む子供も大人も、私を知っているからみんな怖い。

 

私のことを気持ち悪がり、暴力的な子供だと顔を背けるのだ。

 

「親の顔が見たいわ」「一体、どんな育てられ方をしたのかしら」

 

だから、街には行かない。

 

私には友だちがいない。

 

自分のペースで気ままにいられるひとりぼっちも好きだけど、どうしようもなく寂しさに襲われる時もあった。

 

私を知らない子なら...それも、私が心惹かれたあの子になら、近づいても大丈夫かな、と思った。

 

とても素直そうな、優しそうな子だったから。

 

それも2年前のことだ。

 

今の私は...私の顔を見せられるのは、ユノさんとタミーと、そしてチャンミンだけだ。

 

 

(つづく)

 

 

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(15)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

活動量の増えたチャンミンは、ちゃんと見張っていないと危なっかしい。

 

私の腕の中に飛び込もうと全速力で駆けてくる。

 

もし途中で大きな落とし穴があったとしよう。

 

短い脚を高速回転させて、必死過ぎて変な顔をして、まっしぐらだ。

 

そして、私の目の前でチャンミンの姿がふっと消える。

 

落とし穴に落っこちたのだ。

 

「はて...何が起こったのでしょう?」と、きょとんとしているチャンミンを、穴から引きずり出す。

 

「すんません、穴があったとは...見えていませんでした」と、恥ずかしさを隠そうと後ろ脚で耳の後ろを掻きそうだ。

 

その落とし穴がとてもとても深いものだったら...正真正銘、私の目の前で消えてしまったらどうしよう、と怖くなる。

 

 

 

 

ユノさんの家に来て、3度目の夏が訪れた。

 

毛むくじゃらのチャンミンは早くもバテ気味で、台所の(我が家で最も涼しい場所なのだ)タイル張りの床に腹ばいになっている。

 

扇風機がぬるい空気をかきまわしていた。

 

頭がぼうっとして勉強に集中できず、チャンミンに倣って私も床に寝転がる。

 

体温でぬくもったら、ひんやりした場所へと寝返りをうつ。

 

横たわった姿勢で、私の真ん前に陣取るチャンミンのお尻を眺めた。

 

コビトカバみたいなお尻、と思った。

 

チャンミンの尻尾を引っ張ってみると、ここをいじられるのを好まない彼は大儀そうに振り返り、「やめて」と鼻を鳴らした。

 

「ふうん」

 

拗ねてチャンミンから距離をおくと、彼は不安になったのかほふく前進して、私の脇腹にお尻をくっつけて、昼寝の続きに戻る。

 

その箇所が湯たんぽと密着しているかのように熱かったが、私は我慢する。

 

 

 

 

日中は暑すぎて外遊びは出来ないけれど、代わりにチャンミンに水浴びをさせた。

 

ホースの水をチャンミンに浴びせた時の、彼の狂ったようなはしゃぎっぷりといったら!

 

ホースからほとばしる水を口に受け、がぶがぶと噛みつくのがチャンミンの好きな遊びだった。

 

「もっとやって」としつこくせがまれて、チャンミンの気が済むまで彼の遊びに付き合ってあげる。

 

地面を濡らす水は、からからに乾いて白茶けた地面に沁み込み、水たまりができる間もなく蒸発してゆく。

 

チャンミンの身震いがダイナミック過ぎるせいで、水浴びをしているのは彼なのに、私のTシャツも短パンも濡れてしまっていた。

 

太陽光を受けて、水しぶきがミニチュアの虹を作る。

 

真夏の濃い青空が映り込んだ、チャンミンのみずみずしい瞳に話しかける。

 

「ねえ。

チャンミンには虹が見える?」

 

彼の瞳孔がとらえた映像に色彩はあるのか?

 

モノクロームの世界なのか、カラフルな世界なのか。

 

こんな大きな眼をしているんだもの。

 

私の肉体を透かした先、草原に散らばる白い点々...ヒツジたちが見えていそうだ。

 

私が見ることができないもの...例えば、未来...も見ることができるかもしれない。

 

チャンミンは未来よりも、水遊びが楽しい今この時にしか興味がないのだろうな。

 

過去や未来に意識を集中している時、私の眼はここではないどこかを彷徨っている。

 

そしてその隙にチャンミンを見失ってしまう。

 

ぞっとした思いを振り払おうと首を振ったら、くらりと眩暈がした。

 

「お前の眼にはどう映っているの?」

 

「あなたと同じものを見ていますよ」

 

私の耳と心がキャッチしたチャンミンの言葉は、私の頭が都合よく変換したものなんだろう。

 

「さあ、もっと僕に水をかけてください」

 

 

 

 

私たちの家の背後、雑木林を抜けたところに別荘地がある。

 

夏の間、裕福な都会っこが避暑を求めて数週間滞在する。

 

標高が高いせいで太陽との距離が近く感じられるこの地、それでも木陰に入ると涼しい。

 

源流の小川は、川底の小石の色まで見分けられるほど透明で冷たく、腕を数分も浸していると痺れてくる。

 

私ひとりだけなら、別荘地から下流へ数十メートルくだった場所で水泳を楽しめた。

 

流れの一か所に深い淵があり、足の指やすねをぶつけて痛い思いをする心配なく、のびのびと手足を伸ばせた。

 

でも、今年の私は二つの理由でそれが出来ずにいた。

 

ひとつ目はもちろん、チャンミンの存在だ。

 

水浴びは好きだけど、チャンミンは泳ぐことができるのか未確認だった。

 

本人は泳ぎの達人のつもりでいて、水中に飛び込んで初めて、自分が泳げないことに気付く。

 

プラムの木の時は、人の目が届く前庭で、ユノさんに助けてもらえることができた。

 

山深いここでは、チャンミンを助けられるのは私だけだ。

 

平泳ぎと潜水しかできない痩せっぽちの子供が、おぼれまいと大暴れするチャンミンを川岸へ連れていけるだろうか。

 

チャンミンは生命の塊で、彼の全身は活きのよい魚のように躍動的なのだ。

 

肉や野菜の焼ける匂いにつられて上流へ駆けていってしまう恐れもある。

 

もうひとつの理由は、2年前に私が起こした出来事があったからだ。

 

思い出す度、真冬の川に突き落とされ凍り付く感覚を覚える。

 

私の顔はより醜く歪み、身体の表面はかあっと熱いのに、心も内臓も凍結してゆく。

 

...でも、チャンミンを信用して連れていってもいいかな、と思い直してもいた。

 

チャンミンには笑っていて欲しいから。

 

 

(つづく)

 

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(14)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

発見者はタミーだった。

 

尻尾をゆっさゆっさ振っているタミーの見上げた先。

 

チャンミンがプラムの木にしがみついて震えていた。

 

黄緑色の若実が気になって、齧ってみたくなったのだろう。

 

チャンミンは食いしん坊なのだ。

 

後先考えず木によじ登ったのだ。

 

地面には、齧りかけの実が1個転がっている。

 

実を齧ってみたところが強烈な酸っぱさに、期待を裏切られたチャンミンは驚いただろう。

 

「お前は馬鹿だねぇ。

まだ青いんだから、食べられないんだよ?」

 

「すんません、一口だけ、ほんのひと口だけ味見をしてみたかったんです」

 

幹にしがみついたチャンミンは、情けない顔で私とタミーを見下ろしている。

 

食べられないと諦めたチャンミンはここで初めて、木から下りられないことに気が付いたのだろう。

 

一体いつからそこにしがみついていたのやら。

 

家事や自習の合間に、チャンミンの様子を気にかけていた。

 

ポーチで昼寝をしたり、「遊びましょう」と足元にじゃれついたり、最後に見た時はタミーを追いかけ回していた(タミーは迷惑そうだった)

 

滅多に吠えないタミーの声に、様子が変だと外へ出てみたらこの有様だった。

 

ユノさんの帰宅を待つ間、私はチャンミンに声をかけ続けた。

 

「じっとしているんだよ」と。

 

ユノさんは長ハシゴをプラムの木に立てかけ、私はそれを押さえていた。

 

ユノさんの頼もしく逞しい腕に抱かれて、地上へと降り立ったチャンミン。

 

両耳を伏せ鼻水を垂らしたチャンミンは、半べそ顔をしていた。

 

 

プラムの実で、チャンミンはもう一度騒動を起こした。

 

プラムのシロップ漬けを作ろうと、籠いっぱいに摘んだものをチャンミンがつまみ食いをしたのだ。

 

つまみ食いどころか、15個も食べたのだ。

 

床に散らばっていた種...しゃぶってつるつるになっている...の数を数えたのだ。

 

チャンミンのお腹が、こんもりと膨れていた。

 

「チャンミン。

お前の胃袋はこれくらいなの」

 

仰向け寝だと圧迫して苦しいらしく、床に四つ足を伸ばして腹ばいになっていた。

 

「これくらい小さいの!」と、ジャムの瓶を突きつけて説明をする私を見上げている。

 

「何を仰っているのか、僕には理解できません」といった顔をしている。

 

チャンミンは現行犯で止めないと、何がいけなかったのか分からないんだった。

 

「怒ってごめんね。

苦しいね」

 

まだら模様の毛皮の背中を撫ぜた。

 

チャンミンは自分の身体のサイズを把握できていない。

 

私と同じくらいに大きい身体をしていると勘違いしているのだ。

 

ユノさんはチャンミンの太い脚を見て、「大きくなる証拠だ」と言っていたけれど、小型犬サイズのチビ助のままだった。

 

私のベッドへは、ひと跳びで上がれる。

 

でも、ユノさんのトラックに飛び乗ろうとジャンプしたものの、座席のへりに頭をぶつけて地面にひっくり返ることもしばしばだった。

 

 

からりと乾いていた空気も湿り気を帯びるようになってきた。

 

夕飯時間になっても、外は明るい。

 

リビングの壁に吊るしたカレンダーを、一枚やぶり取った。

 

残りの枚数を数え、「あと7枚か...」とつぶやいた。

 

チャンミンがやってきてから1分1秒が濃密過ぎて、時間への視野が狭くなっている。

 

その速度感を「今月も終わりなんだ」と、カレンダーをめくるタイミングではじめて実感する。

 

チャンミンには時間の概念はないだろうけど、彼は1秒1秒が一生懸命なんだろう。

 

チャンミンには「その時の今」しか存在しなかった。

 

私は過去を思い出して涙を流し、未来を想像して不安になる。

 

特に、過去の記憶に捉えられたままで、そこから逃れる方法が分からず、今この時を見失っていることの方が多い。

 

ユノさんみたいに大人なら、その術を知っているだろうから、教えてもらおうと思った。

 

チャンミンがやってきたこの年は、特別な1年だ。

 

ラグに腹ばいになって麺棒を齧るチャンミンを見つめた。

 

私も1秒1秒を懸命に生きようと思った。

 

 

 

 

ポーチの手すりに悪質なビラが貼りつけられていた。

 

卑猥で汚らしい言葉が書きなぐられていた。

 

読み上げるだけで口が腐ってしまいそうな言葉が並んでいた。

 

今回が初めてじゃなかった。

 

季節の変わり目になると、ある日突然出現する恐ろしいものだ。

 

同性愛者であるユノさんを批判し、貶めるものだった。

 

ユノさんが帰ってくる前に処分しなければ!

 

剥がしとってポケットに入れようとした時、それをチャンミンにさらわれた。

 

「チャンミン!」

 

奪い取ったそれを、チャンミンの爪が引き裂いた。

 

穴掘りの要領で前脚でガリガリと引っかいた。

 

それだけじゃ足りないと、前脚で押さえ鋭い犬歯でもってびりびりに破ってしまった。

 

執念ぶかく、徹底的に。

 

それは紙吹雪となって、風にのって草原へと散っていった。

 

 

(つづく)

 

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