(23)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

街までの5kmくらいどうってことない。

 

チャンミンと草原を毎日のように駆けまわっていたのだから、脚も心臓も鍛えられた。

 

「2時間くらいで戻るからね」と眠るタミーの頭を撫ぜた。

 

玄関ドアのカギを締め、つばひろ帽子をかぶった私はチャンミンを連れて出発した。

 

時折吹く風は冷たく、帽子が飛ばされないようあご紐を締め直した。

 

眩しすぎて見上げることができなかった夏空は、いつのまにか遠く高く、澄んだ青をしている。

 

太陽はまだ東の方にあり、頑張ればお昼までに到着できるだろう。

 

春先に毛刈りをした羊たちは、この頃にはふわふわの毛に包まれ、思い思いに草を食んでいる。

 

草木はまだ青々としているけれど、冬に備えて刈った牧草を乾かす人々、穂草の先が黄金色に色づき始めていた。

 

草原の小路を私とチャンミンは、一歩一歩確かな足取りで歩いてゆく。

 

今日のチャンミンはよそ見も寄り道もしない。

 

私の隣を、短い四肢をちょこちょこ素早く動かし、その表情は真剣そのものだった。

 

肩で風を切り並んで歩く私たちは、目的を共有しあう同士だ。

 

チャンミンがいるからだ。

 

冬の頃は、小さな赤ん坊だったのに。

 

私の手からお乳を飲んでいたのに。

 

いつしか頼もしい相棒になっていた。

 

チャンミンが一緒ならば、私は安心して外出が出来る。

 

かつてチャンミンとタミーが留守番をしていた木柵までたどり着き、私は後ろを振り返った。

 

風に撫ぜられた草原の穂先が、ざわざわと乾いた音をたてていた。

 

遠くの1点に、雑木林を背負った私たちの小さな家がある。

 

赤い三角屋根、水色の壁は先週ユノさんとペンキを塗ったばかり。

 

スニーカーの紐を結び直し、「よし!」と自分自身に喝を入れた。

 

私は行く手に視線を戻した。

 

動物園へ行くには街を縦断しなければいけない。

 

早い鼓動を鎮めようと、大きく深呼吸をした。

 

街への道はゆるやかな下り坂で、途中でアスファルト敷きになり、そして道幅も広くなってきた。

 

そろそろ、チャンミンを隠さないといけない。

 

団扇のような耳と子豚のような肌色の鼻、ロリスのような大きな眼、白と茶と黒と黄金色のまだら模様、尻尾は短く、四肢はダックスフンドのように短くて、後ろ脚はひづめだ。

 

世の中の動物たちの寄せ集めのような、不格好なチャンミン。

 

それでもパーツのひとつひとつに注目すると、どれもが実用的でとても美しいと思っている。

 

羽が生え始めたとしても、私は驚かない。

 

もしかしたらチャンミンは、宇宙からやってきたエイリアンなんじゃないかと空想することもあった。

 

「チャンミン、おいで」

 

私はリュックサックにチャンミンを入れた。

 

スイカ2個分のチャンミンは重く、ずしりと肩ひもが食い込んだ。

 

チャンミンはおデブさんだけど、運動量が多いからその身体は筋肉で引き締まっていて、脂肪でぶよぶよではないのだ。

 

「人が来たら隠れているんだよ?」

 

「了解です」

 

チャンミンはリュックサックの口から、頭をひょこっと出している。

 

初めて見る景色に、「うわぁぁ」と感嘆の声を心の中で漏らしているだろうな。

 

タミーのことがなければ、二人だけで街へ出かけるなんて決してなかったことだった。

 

チャンミンは私が歩きやすいよう、じっとしていた。

 

ユノさんにクッキーを買ってもらったカフェの前まで到達した。

 

時折自動車が通り過ぎ、エンジン音をいち早く聞き取ったチャンミンは、リュックサックの中に頭を引っ込めた。

 

耳が飛び出しているかもしれない。

 

私はカフェの脇に隠れ、一旦チャンミンを外に出した。

 

チャンミンの両耳をタオルで包み隠し、顎下で縛った。

 

以前想像した通り、頬かむりしたチャンミンが滑稽で可愛らしくて、ぷっと吹き出してしまった。

 

「そんなに変ですか?」

 

「ううん、とっても可愛いよ」

 

「喉が渇きました」

 

「ひと休憩しようか?」

 

私たちは砂糖入りの甘くて熱いお茶を飲み、ビスケットを半分こして食べた。

 

「行くよ。

急がないと」

 

チャンミンをリュックサックに戻し、私は先を急ぐ。

 

冷たい空気も、歩きどおしで温まった身体にはちょうどよかった。

 

 

 

 

カフェを過ぎたあたりで道は二股に分かれていて、そこを真っ直ぐ進む。

 

確か、ユノさんは動物園までの道順をそう話していたような覚えがある。

 

自働車修理工場の前を通り過ぎた辺りから街が始まる。

 

通りを歩く人も多くなり、さまざまな店が立ち並ぶエリアに差し掛かった。

 

私は帽子を深くかぶり直し、うつむいて自分のスニーカーだけを見て歩いた。

 

花屋、八百屋、文房具店、衣料品店、クリーニング屋、時計屋、古本屋...。

 

ショウウィンドウを見ないように、石畳だけを見て歩いた。

 

肉屋の軒先に、豚の後ろ脚がぶら下がり、切り落とされた頭が3体分並んでいた。

 

私は顔を背け、小走りして通り過ぎた。

 

緊張と羞恥のあまり、総菜屋の揚げ物の匂いで胸がむかついた。

 

すれ違う人々や、通りの向こうの人さえ皆、私に注目している気がしてならなかった。

 

同居人に怪我をさせ、都会から来た少年を川に突き落とした醜い子供だって。

 

学校にも行っていなくて、同性愛者と暮らしているって。

 

私の両親の噂もここまで伝わっているだろう。

 

人は不幸の匂いがする話が大好きだから。

 

300mばかりの間だ、我慢しよう。

 

リュックサックの肩ひもをぎゅっと握りしめた。

 

手前に看板があっただろうけど、下を向いていたせいで見逃したのだ。

 

「...えっと、ここを曲がるんだっけ?」

 

この交差点で左に曲がるのか、もうひとつ向こうなのか分からなかった。

 

私はユノさんの動物園に行ったことがない。

 

 

(つづく)

 

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(22)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

ユノさんと夜の散歩をしていた。

 

満月の夜で懐中電灯は不要だった。

 

夜目がきくチャンミンは、ずっと前方へ走っていったかと思うと、引き返してきて私たちの足元にまとわりつく遊びを繰り返している。

 

リリリ、リリリと鈴虫の鳴き声も、首元を撫ぜる夜気も涼やかだった。

 

月光に照らされて濃紺色の影が、ユノさんの顔の凹凸を浮かび上がらせている。

 

逞しいイメージしかなかったユノさんだけど、実はとても女性的で優しい顔をしているのだ。

 

「チャンミンは何歳まで生きるの?」

 

チャンミンの存在感が増すごとに、膨らんでいった不安だった。

 

「チャンミンの心臓の音を聞いてごらん。

拍動が早ければ、人間より早く死ぬだろうね」

 

チャンミンを呼びよせ、彼の胸に耳を押し当てた。

 

運動の最中だったから当然だけど、ドクドクと鼓動が早かった。

 

私の頭蓋骨にその振動が伝わってくるほど、力強い拍動だった。

 

これまで何度抱きしめただろう、チャンミンの胸に頬ずりした時に感じとった鼓動を思い出してみた。

 

私と同じくらいだった...多分。

 

「チャンミンは、人間でいうと何歳くらいかな?」

 

「そうだなぁ。

小学生くらいかな?」

 

「へぇ...。

じゃあ1年で12歳くらい?」

 

「動きがまだまだ子供っぽいから、それくらいだろうね。

好奇心旺盛だし、怖いもの知らずだし」

 

「そうだねぇ」

 

寿命の話をした2週間後のことだった。

 

 

 

チャンミンには苦手なものがたくさんあった。

 

押すとピーピー音が鳴るゴム製のボール(タミーの玩具)、ユノさんの怒った顔、雷、そしてイカ...。

 

 

ユノさんが活きのいいイカを手に入れてきた日。

 

複雑に調理せずシンプルに、丸ごとを軽く炙って食べることにした。

 

それを食卓に運ぶ途中、ラグの裾に足を引っかけてしまった。

 

丸焼きイカが弧を描いた落下点が、大きく開いて待ち構えていたチャンミンの口だったのだ。

 

パクっと、見事にチャンミンの口の中に着地した。

 

空を飛んできたご馳走にチャンミンは、私から奪い返される前にと、よく噛みもせず飲み込んでしまった。

 

チャンミンは食い意地が張っているのだ。

 

「僕は悪くないですよ。

これが僕の口をめがけて飛んできたのです」

 

「チャンミンの馬鹿!」

 

イカの余りはまだあったため、もう一度焼かないと、と台所へと引き返そうとした時だった。

 

「ぐへっ」

 

おかしな音に振り向くと、チャンミンは背中を痙攣させ、「かっかっ」と喉を鳴らしていた。

 

私は駆け寄り、チャンミンの口吻を上下に開いて、喉の奥を覗き込んだ。

 

白い塊が詰まっている。

 

チャンミンは「げぇげぇ」えずいている。

 

「ユノさーん!」

 

慌てふためいてユノさんを呼んだ。

 

入浴中だったユノさんは、腰にタオルを巻いた姿で駆けつけた。

 

息ができないため、チャンミンの舌がみるみるうちに白くなっていった。

 

ユノさんはチャンミンの後ろ脚をつかむと、チャンミンを逆さづりにした。

 

その荒々しさに、私は固唾をのんで見守った。

 

そして、チャンミンの背中を数度叩いた。

 

歯型がひとつだけついたイカの丸焼きが、べたっと床に落ちた。

 

...このエピソードをきっかけに、チャンミンはイカが嫌いになったのだ。

 

チャンミンは食いしん坊だから、食べ物がらみの失敗談がたくさんある。

 

 

 

 

私はチャンミンを街に連れていったことがないので、汽車の音や人混み、豚が丸ごとぶらさがった肉屋...きっと嫌いになるだろうと思う。

 

街、人が沢山いるところ...私が苦手な場所。

 

私とユノさん、配達の人たち...これがチャンミンが出会ったことがある人間の全てだ。

 

それでいいのかな、と思うようになった。

 

チャンミンが大好きだから、彼をいろんなところに連れていってあげたい。

 

海も見せてあげたい...私も海へは行ったことがないから、ユノさんに連れて行ってもらおう。

 

でも、チャンミンは珍獣だから、人々から好奇の目で見られてしまう。

 

ユノさんのトラックの窓から、眺めさせるのもいいアイデアかもしれない。

 

大きな耳はタオルで頬かむりして隠すのだ。

 

その姿を想像し、滑稽で可愛らしくて吹き出してしまった。

 

笑っている場合じゃないことにハッとして、周囲を見回したけど、居間にはチャンミンとタミーがいるだけだ。

 

ユノさんは仕事で留守だった。

 

ここ2、3日の天候は異常だった。

 

9月だというのに、昨日までは真夏のような暑さだった。

 

一転、今日はカーディガンを引っ張り出さないといけないほどの肌寒さだった。

 

古毛布を敷いた上にタミーが横たわっていた。

 

健康な私でも風邪をひかねない気温差で、おじいさん犬のタミーの老体は特に堪えたのだ。

 

「そっと寝かせておきなさい」と、ユノさんは言い置いて出勤していった。

 

タミーの鼻先に、水の入ったボウルを近づけてやると、億劫そうにやっとのことで首を持ち上げ、水を飲んだ。

 

食事は今朝、ユノさんが与えていたから、夕方まではやらなくてもいいが、欲しがった時のために、パンを牛乳でふやかしておいた。

 

タミーの首を揉んでやっていると、チャンミンも真似をして背中を前足でふにふにと踏んだ。

 

チャンミンが赤ちゃんだったとき、私の手首をおっぱいのつもりでふにふに揉んでいた頃のことが思い出された。

 

時の経過を楽しむ伸び盛りのチャンミンに対し、死に近づいていく年ごろにさしかかたタミーの場合は、時の経過を恐れるようになる。

 

犬の寿命は15年前後だったはずだ...タミーはまだ13歳だもの、大丈夫。

 

「僕にできることがあったら何でも申しつけてください」と私の足元にまとわりつき、何も頼まれごとがないと知ると、タミーのお腹にくるまるように横になった。

 

タミーの呼吸はとてもゆっくりで、寝顔はおだやかだった。

 

私の心は不安感でいっぱいだった。

 

このままタミーが、ユノさんが帰宅する前に死んでしまうかもしれない恐怖に憑りつかれていた。

 

タミーはユノさんの宝物だ。

 

ユノさんの家で暮らし始めた2年前からタミーはおじいさんで、穏やかな性格で私に対し一度も吠えたことがない。

 

犬といえば、狂暴な野犬しか知らなかった私は驚いた。

 

タミーにとってユノさんは絶対的な存在なのだ...ユノさんを見つめる眼でひしひしと伝わってきた。

 

ユノさんが出かけてまだ2時間しか経っていなかった。

 

この家には電話はない。

 

「よし!」

 

リュックサックを取ってきて、お茶を入れた魔法瓶とビスケット、そしてノートと鉛筆を詰めた。

 

ジャンパーを羽織り、チャンミンの名前を呼んだ。

 

 

(つづく)

 

 

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(21)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

かきむしったせいで、ふくらはぎの虫刺され痕が赤く腫れていた。

 

チャンミンのピンク色のお腹にもぽつんぽつんと赤い痕があり、短い脚の彼の代わりに私が掻いてあげた。

 

夏の夜はこもった熱で寝苦しくて、窓を開けっぱなしにしている。

 

蚊帳を吊ってはいるが、隙間から忍び込んだやぶ蚊に刺されたのだ。

 

朝晩は涼しくなり、チャンミンのぬくもりの出番がやってきた。

 

私の脇腹だけにお尻をくっつけて眠っていたのが、朝方になると肌寒さに私の懐にもぐり込んでくる。

 

「夏も終わったねぇ」

 

ミンミンミンミンと私を呼ぶ蝉の声も、いくぶん大人しくなってきているようだ。

 

眉の上に貼った絆創膏はもうすぐとれるだろう。

 

絆創膏に触れる私に、チャンミンは肩を落とし申し訳なさそうに眉を下げた。

 

 

 

チャンミンの後ろ足は、二股のひづめになっている。

 

その爪は琥珀色の半透明をしている。

 

プラムの木によじのぼれたのも、爪先が鋭く尖っているからだった。

 

チャンミンの爪は時には凶器になった。

 

元はと言えば、意地悪をした私が悪かった。

 

私の腕からすり抜けようと身をよじった時、そうはさせまいと力いっぱい抱きしめた。

 

チャンミンは渾身の力でもがき、弾みで後ろ足で私の顔を蹴った。

 

チャンミンの鋭い爪先が、私の皮膚を切り裂いた。

 

血が沢山出た。

 

とっさの行動で悪気は全くなかったにせよ、大好きなチャンミンに傷つけられたことにショックを受けた。

 

自分が何をしでかしたのか、チャンミンは瞬時に悟ったのだろう。

 

一度はテーブルの下に引っ込んだが、顔を押さえうずくまる私にそろそろと近づいてきた。

 

心配げに私の腕を引っかいた。

 

「やめて!」

 

私は肘でチャンミンを追い払った。

 

元々醜い顔をしている私だったから、傷痕ができようと構わなかった。

 

でもユノさんは「痕になったらいけない」とそれを許さず、私は有無を言わせず街の診療所へ連れていかれることになってしまった。

 

チャンミンがひとりで留守番をするのは、この時が初めてだったかもしれない。

 

「僕も行く!」と私の膝に飛び乗ろうとするチャンミンに、ユノさんはぴしりと命じた。

 

「タミーと留守番をしていなさい」

 

チャンミンはすごすごとトラックから離れ、地面にぺたりとお尻を落とし、悲し気に私を見上げた。

 

私は乱暴にドアを閉めた。

 

トラックが走り出すと、チャンミンも走り出した。

 

「家に戻りなさい!」

 

窓から顔を出し、追いかけてくるチャンミンを大声で叱りつけた。

 

半べそかいた顔で走っている。

 

走りの速いチャンミンでも自動車のスピードには敵わない。

 

それでもチャンミンは、両耳をたなびかせ追いかけてきた。

 

どこまでも追いかけてきた。

 

チャンミンを置いてけぼりにした。

 

チャンミンは私のことが心配なのだ。

 

出血を押さえたタオルに、こみあげてきた涙がしみ込んだ。

 

ユノさんはシフトレバーから手を離すと、私の頭を撫ぜた。

 

サイドミラーに映るチャンミンのまだら模様は遠くなってゆき、ついには見えなくなった。

 

「街まで追っかけてくるかもよ?」

 

「タミーにお守りを任せたから、大丈夫。

タミーはチャンミンの先輩だからね。

吠えてチャンミンを呼び戻してくれるよ」

 

「ホントに?」

 

「ああ。

タミーもチャンミンもとても賢い子たちだ。

何をすると俺たちが困るのか、ちゃんと理解しているよ」

 

診療所に到着した私は、ズキズキ疼く傷口よりも、ぎゅっと縮まった胸の方が痛かった。

 

幸い診療所の待合室には、腰の曲がったよぼよぼのおじいさんがいるだけで助かった。

 

診療所の医師は私の顔を眺めまわすことなく、私の傷口だけを見た。

 

医師は私の事情を承知しているからだ。

 

看護師の視線だけが気になった。

 

後で旦那さんや、子供や、ご近所さんに「あの子が来たよ」って言うんだろうな。

 

処置の間、ユノさんは私の手をずっと握ってくれた。

 

緊張の汗で濡れていた私の手の平に対し、ユノさんの大きな手の平は温かく、からりと乾いていた。

 

眉上の切り傷は3針縫っただけで済み、痛み止めを処方してもらい私たちは帰路についた。

 

「ココアでも飲んで帰るか?」

 

カフェの看板を見て、ユノさんは私を誘った。

 

「ううん、いいや」と、私は首を振る...いつものことだ。

 

「早くお家に帰りたい」

 

「チャンミンとタミーにお土産を買っていこうか?

留守番のご褒美だよ」

 

ユノさんの提案に私は大きく頷いて、カフェに寄って、クッキーを13枚とココアを買った。

 

街を抜け草原の小路にさしかかったとき、ヘッドライトに二対の赤い光が反射した。

 

「チャンミン!」

 

境界の木柵の下で、チャンミンがうずくまっていた。

 

私たちの帰りを待っていたのだ。

 

タミーもいた。

 

言うことをきかないチャンミンに、タミーは老体に鞭打ってチャンミンに付き合ってあげたのだろう。

 

「チャンミン!」

 

トラックから飛び降りた私は、チャンミンを赤ん坊を高い高いするように抱き上げた。

 

「お前は馬鹿だねぇ。

ずっとここにいたの?」

 

「待ちくたびれました」

 

目の上に貼ったガーゼを避けて、チャンミンは私の頬をべろりと舐めた。

 

ユノさんもタミーを抱き締め、がしがしと首をかいてやっていた。

 

チャンミンとタミー、そして私はトラックの荷台に乗って、私たちの家に帰りついた。

 

夕日はオレンジ色の火の玉となって、草原に落っこちてきそうだった。

 

草原は夕闇に沈みかけていた。

 

 

その夜のチャンミンは金魚のフンのように、私の後をついてまわった。

 

チャンミンなりに私を心配してくれていたのだろう。

 

「全~然、怒ってないよ。

びっくりしただけだよ」

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

「自分が悪いんだ。

嫌がることして、ごめんね」

 

「謝るのは僕の方です。

あなたの顔に傷をつけてしまいました」

 

チャンミンの瞳の底には、涙の湧き水がある。

 

眼の表面の涙が膨れ、次のまばたきで目尻からぽろりとこぼれ落ちた。

 

チャンミンの涙はいくらでも湧いてきて、毛皮を濡らして涙の筋を作った。

 

垂れ下がる鼻水が床につきそうだった。

 

「お前は凄いねぇ。

ウミガメみたいに涙を流せるんだね」

 

「はい。

僕は泣き虫なんですよ」

 

チャンミンは私に「ごめんなさい」と謝り、私も彼に「自分こそごめんね」と謝った。

 

眠くなるまでずっと、繰り返した。

 

 

 

(つづく)

 

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(20)君と暮らした13カ月

 

~夏~

 

川から引き上げたのは、彼の父親だった。

 

彼が落下した直後、彼の父親...食事の用意の途中に消えた妻を追ってきた...が現れたのだ。

 

彼は診療所に運ばれ、現場には私だけが残された。

 

駆けつけてきたユノさんに抱きついて、何が起こったのかをつっかえつっかえ全て伝えた。

 

ユノさんは私の言葉を代弁し、訴えた。

 

町長も警察も駆けつけた。

 

そして、誰しも分かりやすい、あり得そうな結論に至ってしまった。

 

この状況下で、最も私を責めるべき彼の母親は、私とは距離をおき、存在を無視しつづけた。

 

大ごとにならずに済んだのは、彼ら家族は都会へと帰ってしまったからだ。

 

そしてユノさんが、現場にいた3人の位置関係と時系列を整理してみると、私が巨岩の上にいられるはずはないと主張したおかげでもあった。

 

彼が意識をとり戻すや否や、彼をさらうように連れ去ってしまった。

 

さよならも言えなかった。

 

彼は水泳がうまかった。

 

大量に水を飲みこんだせいで、いっときは意識はなかったが、診療所へと運ばれる途中に息を吹き返した。

 

彼が溺れそうになった原因を作ったのは、私だ。

 

私が下から手を振らなければ、彼は川へと飛び降りようとしなかった。

 

私と一緒にいなければ、母親に腕をつかまれたりしなかったのだ。

 

 

たまたま居合わせた者たちの、真相を捻じ曲げた憶測が人へ人へと伝播していく。

 

「こんな真相だったら、さぞかし人々は興味を持って聞いてくれるだろう」と脚色したストーリーだ。

 

噂話にのぼるたびに、その噂は間違っていると訂正して回るわけにもいかない。

 

彼は遠くへ行ってしまったし、私も声高に主張する術がなかった。

 

そして、何も言えずに去ってしまった彼に、裏切られた気がしていた。

 

 


 

 

「どう思う?

チャンミンは、どう思った」

 

チャンミンの眉間にしわが寄っていた、これは熟考中である時の徴だった。

 

ふんと鼻を鳴らすと、私の太ももからぴょんと飛び降りて、私の洋服をくわえて引きずってきた。

 

「わかった、帰ろうか」

 

帰り道はチャンミンが先導する。

 

「道を覚えるくらい、朝めし前ですよ」

 

数メートルの距離を保ち、数歩進むごとに私を振り向いた。

 

私がどこかに行ってしまわないよう、心配しているかのようだった。

 

重く深刻なストーリーを打ち明けたばかりの私を気遣っている。

 

チャンミンの白く大きなお尻と、落ち葉が降り積もった地面、黄色い長靴だけを見て歩いた。

 

うるさすぎる蝉の鳴き声で聴覚がおかしくなり、全身に大量の汗がまとわりつく。

 

視界が狭くなり、景色が揺らいできた。

 

「...っ...っ」

 

私は立ち止まり泣いていた。

 

嗚咽が喉でつっかえて、呼吸がしづらくとても苦しい。

 

「っく...ひっく...っく...」

 

しゃっくりみたいな声しか出なくて、喉で堰き止められた重たいものを吐き出せずにいた。

 

チャンミンは私がついてこないことに、私の様子がおかしいことに気付くと、引き返してきた。

 

後ろ立ちして私の膝小僧をぺろぺろ舐めた。

 

長靴を噛んで引っ張るチャンミンに従って、私はしゃがみ込んだ。

 

「うーっ...うっ、うー」

 

私の喉から言葉にならない呻き声が漏れる。

 

「...うー、うーっ、うー」

 

例え動物の鳴き声のようであっても、声をあげて泣くのはいつぶりだろう。

 

こめかみから流れる汗とぽろぽろと溢れ出る涙が交じり合う。

 

チャンミンは顔を覆った私の手の平の間に、自分の鼻づらを強引にねじこむと、あとからあとへとこぼれ落ちる涙を舐めとっていく。

 

「よく話してくれましたね。

たくさんお泣きなさい」

 

頭の中に響いてくるチャンミンの言葉に、私は彼を抱き締めた。

 

ふかふかの毛皮、温かく柔らかい身体、冷たく濡れた鼻。

 

チャンミンはだらりと力を抜いて、私に抱かれるままでいてくれた。

 

チャンミンは凄い。

 

とても思慮深く賢いチャンミンは、単なる「生き物」じゃない。

 

さすが図鑑に載っていないだけある。

 

気が済むまで、涙が枯れるまで私は唸り続けた。

 

喉が嗄れてひりひりするまで声を出したのは、いつぶりだろう。

 

 

 

 

「自分じゃ気付かないんだ。

どれだけ心が傷ついているのか。

平気なふりをしているから、平気だと勘違いしてしまうんだ。

ミンミンの場合は、言葉にできずグッと気持ちを飲み込んでしまっているよね」

 

その夜、私はユノさんとポーチのベンチに並んで腰かけていた。

 

足元に蚊取り線香を焚き、ユノさんはプラム酒を、私は牛乳を飲んでいた。

 

屋外の作業が多いため、ユノさんの腕は真っ黒に日焼けしていた。

 

草原からは虫の、雑木林からはカエルの鳴き声、灯りに誘われた蛾やカゲロウが外灯の電球にパタパタとぶつかる音。

 

チャンミンは、というと、私とユノさんの膝の上に長々と寝そべっている。

 

昼間の水遊びと、私への心配とでお疲れなのだ。

 

それでも耳先を小刻みに震わせ、私たちの会話に耳をそばだてている。

 

「ユノさんには全部話しているよ」

 

「そうだね。

俺にはなんでも話してくれるよね。

でもね。

俺はミンミンじゃないし、どうしても大人の観点からものごとを見てしまって、ついつい厳しいことを言ってしまうことがある。

アドバイスにしても、人生経験をつんでいる立場からのものだから、ミンミンにとってピンとこないものも多いと思う。

単に話を聞くだけで済んでしまっていることもね」

 

「そんなことないよ。

ユノさんは力になってくれてるよ。

ユノさんにいっぱい助けてもらってるよ」

 

「そう言ってもらえると嬉しいね。

でもね、ミンミンと同じ目線で、それが悪いことであっても全部受け止めて、認めてくれる存在がいると最高だね」

 

「...チャンミンみたいな?」

 

「そうだよ。

よかったな、ミンミン?

なかなかそんな存在とは巡り合えないんだぞ?」

 

「私が犯人なの」と口にした時、チャンミンが怒ったことを思い出していた。

 

あれは、私の考えを単に否定するものではなく、私自身を肯定するための否定だったのだ。

 

 

(つづく)

 

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(19)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

彼は泳ぎが得意だった。

 

私だけの遊び場では物足りなくなったころ、彼は上流を指さした。

 

他の子供たちは既に、別荘へと引き上げていった時間帯だったため私は頷いた。

 

上流の遊び場は、石を積んで川を堰き止めてあり、川底に転がる石に爪先をぶつける心配なく、下流よりもっとのびのびと泳ぐことができる。

 

まさしく天然のプールだった。

 

道路へ上がるための階段もあった。

 

一度体験してみたかった、巨岩から飛び込みをくたくたになるまで繰り返した。

 

冷たい飲み物を飲みながら、私たちは間にノートを挟んで会話した。

 

彼は、ひとりっ子であること、犬が好きで人参は嫌いなこと、家庭教師に勉強を教えてもらっていること、去年は海辺で夏を過ごしたこと、母親が神経質過ぎて困っていること。

 

私は、両親はいないこと、犬も人参も好きなこと、学校には通っていないこと、遠い親戚のお兄さんの家で暮らしていること、そのお兄さんが素晴らしい人であること。

 

日光であぶられた頭のてっぺんが焦げそうだったから、1枚のバスタオルを分け合った。

 

ヒグラシが鳴き始め、川面に伸びる巨岩の影が長くなる頃がさよならの時間だ。

 

この時だけは階段を使って一緒に道路へと上がり、「また明日」と手を振った。

 

帰宅が遅い息子を心配したのか、彼の母親らしい女性が通りへと出ていた。

 

こちらを食い入るように見ているので、きびすを返してその場を足早に立ち去った。

 

醜い私の顔にショックを受けたんだろうと思った。

 

 


 

 

何かを察したのだろう、チャンミンは私の膝に乗ってきた。

 

水に濡れていた時は閉じ込められていたチャンミンの体臭が、乾くにつれ香ってきた。

 

チャンミンの匂い...焼きたてのパンのような香ばしい匂いだ。

 

チャンミンのまだら模様の毛皮は、強い日差しであっという間に乾いていく。

 

私の太ももは、チャンミンの鼓動を感じとっていた。

 

とくとくと早い。

 

こんがりと焼けた火照った腕に、チャンミンの冷たく濡れた鼻が気持ちよかった。

 

チャンミンは全身の力を抜いて、私にすべてをゆだねていた。

 

ぐらぐら不安定な太ももの上で、ずり落ちないよう前足だけが私の片腕に爪を立てていた。

 

この角度だとチャンミンの顔は見えないけれど、白いまつ毛に縁どられた眼は考え深げにどこでもない一点を注視しているだろう。

 

大きな耳は私の方へと傾けられ、ぴくぴくと尖った耳の先を震わせていた。

 

チャンミンは私の話を最後まで聞き届けるつもりだ。

 

 


 

 

「今日は夕立があるかもしれない。

遅くならないうちに帰るんだよ?」

 

ユノさんにくしゃり、と頭を撫ぜられ、私は「もう!」と頬を膨らませて、乱れた髪を整えた。

 

休日だったユノさんは、ポーチでタミーにブラシをかけていた。

 

タミーは気持ちよさげにお腹を見せている。

 

ユノさんは毎日、別荘地へと出かける私の動機を知っている。

 

私をひやかしたり、彼について詳しく聞きだしたりせず、一歩下がった位置で見守っていた。

 

その日、午前中は雨降りで、今日の川遊びは中止かなとがっかりしていたら、正午には雲間から日が射してきた。

 

「行ってきます」

 

ユノさんに声をかけると、「彼と一緒に食べたらどうかな?」と、紙袋を手渡した。

 

中身はイチゴジャムを挟んだだけのパンで、不器用なユノさんらしくて笑ってしまった。

 

ユノさんなりに、私の恋を応援してくれていたのだ。

 

 

 

 

口の軽い管理人が触れまわったのもいけなかった。

 

私が彼を突き落としたことになっていた。

 

彼が川へと落下したその時、私は既に水中にいたというのに。

 

 

 

水面にぷかぷか浮かんで手を振る私に、彼も手を振った。

 

彼は巨岩の飛び込み台にいた。

 

午前中の降雨で少しだけ水かさが増していたけれど、大したことはなかった。

 

灰色の分厚い雲がみるみるうちに青空を、周囲から中央へと埋めていった。

 

突然、ビカビカっと雷光が空をキザギザに切り裂いた。

 

一瞬、彼の身体が逆光に浮かび上がった。

 

彼を呼びにきたのだろう、彼の母親が川岸に立っていた。

 

彼は不意に現れた母親に驚くと、帰るように手を振った。

 

彼女は水面に浮かぶ私に気付くと、川岸から巨岩へと飛び乗った。

 

巨岩の先にいる彼の方へと、危なっかしい足取りで近づいていく。

 

彼を連れ戻そうとしたのだろう。

 

もう一度、空が光った。

 

彼の元へたどり着いた母親は、彼の二の腕をつかんだ。

 

母親の手から腕を引き抜こうと、彼は身をよじった。

 

直後、雷鳴がとどろいた。

 

母親の指の力はあまりに強かったのだろう。

 

彼の身体がぐらりと傾いた。

 

あっという間のことだった。

 

背中から落下していった。

 

母親の叫び声は雷鳴にかき消された。

 

 


 

 

「チャンミン。

私はね、『犯人』なんだよ?」

 

チャンミンを抱き上げ、彼と目線を合わせた。

 

何かを言い聞かせたい時、チャンミンの反応を確かめたい時、いつも私は彼の瞳を覗き込むのだ。

 

チャンミンは後ろ脚で空を蹴り、私の腕の中から逃れた。

 

地面に下り立ったチャンミンは、怒っている風に見えた。

 

「犯人だ」だなんて自虐的な言葉を発したことに、チャンミンは怒ったのだ。

 

「ミンミンが『犯人』だなんて、僕は信じませんからね。自分を悪い風に言うのはおやめなさい」って思っていたらいいな、と思った。

 

「安心して。

彼は死んでいない...助かったよ」

 

チャンミンの眉根が持ち上がり、ボタンのような白い眉毛が下がった。

 

チャンミンは私の太ももの上に飛び乗ってきた。

 

私は続きを語り始めた。

 

 

(つづく)

 

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