(5)19歳-出逢い-

 

「ユノ」

 

揺すぶられて目覚めると、間近に迫ったチャンミンの顔。

 

「嫌な夢でも見たのですか?」

 

チャンミンの手で寝汗を拭われて、俺は唸り混じりの吐息をつく。

 

「...いや、ちょっと...思い出してしまって」

 

「そうですか...」

 

チャンミンは俺の頭をかき抱くと、子供にするみたいに髪をやさしく漉いてくれる。

 

「女なんて...嫌いだ」

 

「僕が男でよかったです」

 

「ああ。

全く、その通りだ」

 

説明なんてしなくても、俺のことはチャンミンには全てお見通しだ。

 

チャンミンの裸の胸に片頬をくっつけて、目を閉じる。

 

彼の規則正しい鼓動を確認して、俺は安堵する。

 

よかった、チャンミンは生きている。

 

 


 

 

「ユノ!

ふくれた顔をしていたら、ハンサムが台無しですよ」

 

俺の髪にリボンを結ぶチャンミンと、鏡の中で目が合った。

 

俺の髪の毛は母さんの趣味によって、顎下で切り揃えられたボブヘアだ。

 

「チャンミン...俺の髪を短くして」

 

「怒られますよ?」

 

「怒られるのは慣れてるよ」

 

ハサミを取り出した時、俺はハッとした。

 

チャンミンに俺の髪を切らせたら、チャンミンが怒られてしまう。

 

この屋敷では、チャンミンの立場はうんと低い。

 

俺の力じゃかばいきれない。

 

小さな子供の自分が情けなかった。

 

「怒られるようなことは、やめておきましょうね」

 

「...わかった」

 

頬におしろいをはたかれ、口紅を塗られた。

 

鏡に写る俺は、確かに女の子そのものだ。

 

「ユノ様、時間ですよ」

 

母さん付きの待女Tさんが、俺を呼びに来た。

 

この人は、大人たちの中でもマシな部類で、ドレスを着た俺を「可哀想に」と憐れむような眼差しで見る。

 

母さんのやることが、「普通じゃない」ってことを知っている眼差し。

 

彼女も使用人の立場だから、母さんのやることに何も口出しできないのだ。

 

「行ってらっしゃい」

 

部屋のドアの前で、チャンミンは胸の高さで小さく手を振った。

 

他の階には、チャンミンは足を踏み入れることができない。

 

エレベータを降り、階段ホールの前を通って母さんのサロンに向かう途中、階段の最後の一段に立つチャンミンを見つけた。

 

不機嫌さと不安感を隠せなかった俺を心配して、先回りして待っていてくれたんだ。

 

チャンミンは、俺が叱られてお尻を叩かれたりするのを心底案じている。

 

本当はそれだけじゃないんだけど、チャンミンには内緒にしていた。

 

そういう日は、もの凄く嫌だったけど女中頭Kや、待女Tさんに身体を洗ってもらう。

 

チャンミンに見られたくなかった。

 

心配性のチャンミンを悲しませたくなかったんだ。

 

チャンミンは俺を心配することしかできない。

 

俺に痛いことをする大人や従弟たちに腹を立てて、彼らに抗議することが出来ない身分だから。

 

俺の心情に共感してくれることまでしか出来ないんだ。

 

わずか7歳の子供の俺が、そこまで考えが及ぶようになるなんて...相手を思いやる心...チャンミンに教わった。

 

無条件に注がれるチャンミンの愛情に、甘えているばかりじゃないのだ。

 

 


 

 

俺が生まれた時、赤ん坊が女の子じゃないことに、母さんは相当がっかりしたらしい。

 

母さんは俺を女の子として育てようと、固く心に決めたとか。

 

母さんの優しさは胸やけしそうに甘ったるく、人工的に色付けされた砂糖菓子のようだった。

 

だが、その優しさも歪んだ愛情によるもの。

 

母さんの目に映る俺は女の子で、少しでも男であるしるしを見つけると途端に、俺を蔑む目で見る。

 

俺を溺愛しているかに見えて、子育てそのものは乳母任せで、言葉が話せるようになると子守りロボットにその役は移った。

 

鼻水べたべたな手や、うるさい泣き声と奇声、排せつ物で汚す生身の俺は見たくないのだ。

 

毎週土曜日に、繊細なレースで縁どったドレスで着飾った俺を眺め、撫ぜまわし、クリームたっぷりのケーキを食べさせることが、母さん流の愛し方なんだと思う。

 

「まあ、ユノ。

今日も可愛らしい...」

 

胸の上で両手を合わせて嘆息した母さんは、「どう?」と得意げにサロンに集う面々に俺を見せびらかす。

 

複雑に結い上げた髪、複雑に重ね着したドレス、キラキラ光る宝石、濃い化粧、細いヒール、いい香りをさせた女たち。

 

母さんの友達だという彼女たちは、入れ替わり立ち替わり、山深いここまで車や飛行機で訪ねてくる。

 

母さん自慢のサロンでぺちゃぺちゃお喋りをしたり、お菓子をつまんだりして遊んでいく。

 

「今日のユノは、お風呂に入るの、ね?」

 

俺にそっくりな黒い瞳で覗き込まれると、俺は頷くのがやっとになる。

 

チャンミンによって着せられたドレスを、1枚1枚、母さんの白くて華奢な手が脱がせていく。

 

「ユノ!」

 

耳元で囁かれたものなのに、俺にとってはどすのきいた怒鳴り声だった。

 

「母さん...ごめんなさい」

 

俺は慌てておちんちんを、両ももの間に挟んで隠した。

 

「みなさん、見てぇ。

ユノは女の子なのよ。

可愛いでしょう?」

 

俺は内ももに力を込めて、おちんちんがはみ出さないようにそろそろと、泡だらけのバスタブに身を沈める。

 

チャンミンに結んでもらったリボンは解かれ、俺の髪をシャンプーする姿を女たちに披露する。

 

「いたいっ!」

 

母さんの長い爪で、俺のお尻がつねられた。

 

「こんなに可愛いのに、お人形さんみたいなのに、痛いっていうの」

 

「あなたたちもどう?

ユノはとっても可愛い声で痛いっていうのよ?」

 

最初は遠慮がちだった女たちも、慣れてくればその行為もエスカレートしてくる。

 

女たちが帰った後、母さんは豊かな胸に俺の頭を埋めて、「ユノを愛しているから、痛いことをするのよ?次は気を付けるのよ?」と言うのだ。

 

こんなの愛じゃない。

 

チャンミンの愛情が注がれているうち、母さんのそれはニセモノだという確信を強めていった。

 

トラウマになってもおかしくないことなのに、そうならなかったのはチャンミンのおかげだ。

 

俺が8歳になった頃、いつまでも隠し切れなくてチャンミンにバレてしまって、その時の彼の表情が忘れられない。

 

チャンミンの丸いカーブを描いた...優しい心根そのものの...目から、涙の粒がぼろぼろとこぼれ落ちて、俺の頭をかき抱いておいおいと泣いた。

 

「知らなくてすみません」って。

 

俺の頬はチャンミンの涙でぐっしょりと濡れてしまい、いつまでも泣き止まないチャンミンの頭を撫ぜた。

 

「ユノを守れなくてすみません」って。

 

大人なのに子供の俺によしよしされるなんて、カッコ悪いとは思わなかった。

 

俺のために泣いてくれるチャンミンを慰めないと、って自然に出た行動だった。

 

俺の全部を目にしてくれて、俺を励まし、自信をくれる言葉を惜しげなく注いでくれた。

 

俺の味方はチャンミンだけ。

 

俺はチャンミンのことが、心から大好きだった。

 

 

 

 

9歳のある日。

 

書き物机からハサミを取り出した母さんが、俺のスカートをまくし上げてこう言った。

 

「ちょん切らないと駄目ねぇ」って。

 

そばで控えていた待女Tさんが止めに入ってくれたから、大惨事にならずに済んだ。

 

俺はそれ以来、女がもっと嫌いになった。

 

俺が男色の道を選んだのも、チャンミンが常にそばにいたせいばかりじゃないのだ。

 

 

(つづく)

 

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(4)19歳-出逢い-

 

 

チャンミンは、夜になれば眠くなるし風邪をひくときもある。

 

チャンミンは、本来なら使用人の部屋で眠る身分だ。

 

でも俺はそんなの嫌だったから、駄々をこねて駄々をこねて、しつこく駄々をこねた末、同じ部屋にベッドを置いてもらえることになった。

 

俺の大きなベッドに比べると、チャンミンのベッドは小さい。

 

チャンミンはとても背が高いから、ベッドの端から大きな足が突き出ていた。

 

そんなチャンミンが可哀想で、「ベッドを交換しよう」と提案した。

 

「それはいけません。

ユノは僕のご主人なんですよ。

ご主人様を、下僕のベッドに寝かせるわけにはいきません」

 

「ゲボク、の意味が分かんない」

 

「ユノの身分の方が、『上』という意味ですよ」

 

「チャンミンは俺と一緒じゃないか。

チャンミンは大人だし。

子供は大人の言うコトをきくものなんだろう?

チャンミンの方が、『上』じゃないか?」

 

「困りましたね。

僕は大人ですが、アンドロイドなんです。

人間はアンドロイドより、偉いのです。

それに、僕はユノのご両親に雇われている身分なのです」

 

チャンミンは、納得がいかず膨れる俺の肩をつかむと、俺を覗き込んで諭すように言った。

 

「意味わかんないよ」

 

俺は寂しくて、哀しかった。

 

当時の俺は小さな子供だったから、哀しさの正体は何なのか分からなかった。

 

小さな身体の俺のベッドは大きくて、大きな身体のチャンミンのベッドが小さいなんて間違ってるって、チャンミンが可哀想だって思っていた。

 

「チャンミン...俺のベッドで一緒に寝ようよ。

寝相が悪くても大丈夫だよ。

すんごく広いから」

 

パジャマに着替えた俺は、チャンミンの手を引っ張った。

 

「わ!

こぼれます!」

 

おやすみ前のホットココア...女中頭Kが決めたバカバカしい習慣だ...のトレーをサイドテーブルに置くと、チャンミンはいつもの困った顔をした。

 

「ユノのお願いでも、それだけは絶対にできません。

人間のベッドに僕が上がるなんて、絶対に許されない事なのです」

 

「それなら、チャンミンのベッドで一緒に寝ようよ!」

 

「もっといけません!」

 

「チャンミン...」

 

ここで諦めないのが、ユノという男。

 

賢いチャンミンといるうちに、俺にも知恵がついてきたんだ。

 

今になって思い返すと、チャンミンは俺の才能を引き出す能力に長けていたんだ。

 

「いいこと考えつーいた!」

 

俺はベッドカバーを外して床に敷いた。

 

ソファカバーも外して床に敷いた。

 

最後に、俺の掛け布団を引きずり下ろして、それも床に敷いた。

 

チャンミンが俺を手伝わなかったのは、俺の思いつきに賛成していないせいだった。

 

分かっていたけど、俺は分からないふりをして寝床を整えた。

 

俺のベッドも駄目、チャンミンのベッドも駄目...それなら、って。

 

「どう?」と許可を求めるみたいにチャンミンを振り返った。

 

俺はチャンミンの『ご主人様』なんだから、本来ならチャンミンの許可なんていらない。

 

チャンミンには沢山、「してはいけないこと」があり、チャンミンは忠実にそれに従わなければならない。

 

例え俺が命じたとしても、それが「してはいけないこと」だったら、チャンミンは俺の命令に背かざるを得ないのだ。

 

俺とひとつベッドで眠ることは許されていない。

 

俺がどれだけねだっても、チャンミンは首を縦にふることが出来ないのだ。

 

分かってたけど、俺はとにかく納得がいかなくて、子供らしい癇癪をおこしていたのだ。

 

どんなに俺が、チャンミンと同等だと思って接していても、周囲がそれを許さない。

 

チャンミンをかばっても、所詮小さな子供だ、大人たちに一蹴されてしまう。

 

チャンミンはアンドロイドで、召使で、人間以下の身分であることは、俺の力じゃ変えられないのだ、哀しいことに。

 

チャンミンと共に過ごすうちに、そういうことを実感していった。

 

全裸になった俺とチャンミンが、手足を絡め合い、ひとつのベッドで眠れるようになったのは、何年も後のことだ。

 

 


 

 

「あの時は背中が痛かったですね」

 

「でも、楽しかったなぁ」

 

「ピクニックみたいでしたね」

 

「チャンミンは朝まで腕枕してくれたよなぁ...」

 

「Kさんが突然部屋に入って来たときは、びっくりしましたねぇ」

 

「絶対にバレたらいけないって。

俺ってば、『腹が痛い、腹が痛い』って大泣きしてさ、無理やりKを便所に連れていったんだよなぁ」

 

「そうでしたね...。

バレなくて済んでよかったです」

 

俺がKを部屋の外へ追い出すまで、チャンミンは毛布にもぐりこんでじっとしていた。

 

大きな背中を丸めて息をこらしていただろうチャンミンを想像すると、十年以上たった今でも胸が詰まる。

 

俺は寝返りをうって隣のチャンミンと向かい合う。

 

当時と変わらない美しい人、チャンミン。

 

片目を覆う長い前髪に指を伸ばし、耳にかけてやった。

 

当時と変わらない、胸が痛くなるくらい綺麗な瞳。

 

「バレていたら、今こうして、ユノといられませんでした」

 

「ああ。

まったくその通りだ」

 

 


 

 

Kが部屋に飛び込んできた時、俺はバレたらいけないと、Kを部屋の外へ追い出す作戦をとっさに閃いたのだ。

 

床で寝ていたことがバレるのを恐れていたわけじゃないんだ。

 

「チャンミンと」一枚の毛布を分け合って、横になっていたことが問題なのだ。

 

7歳ながら、俺とチャンミンが肩を寄せ合ってひとつの布団で寝ることは、「駄目なこと」だと察していた。

 

Kを撒いてトイレから戻ってみると、俺のベッドは綺麗にベッドメイキングされていた。

 

小さな、折りたたみのベッドに腰掛けていたチャンミンは、すまなさそうな泣き出しそうな顔をしていた。

 

誘った俺が悪いのに、「ごめんなさいね」とチャンミンは謝った。

 

正直...哀しくて寂しい思い出のひとコマだった。

 

(つづく)

 

 

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(3)19歳-出逢い-

 

「チャンミンは、何歳なの?」

 

宿題をする俺を見張っていたチャンミンに質問した。

 

(勉強することが大嫌いな俺を、机に向かわせるためにチャンミンは四苦八苦してるんだ)

 

チャンミンは、父さんより若く見えるし、従妹より年上で、叔父さんと同じくらいかな、って予想していた。

 

「製造年月日からの日数を言えばいいんですか?

それとも、設定年齢のことですか?」

 

チャンミンの話し言葉は難し過ぎて、7歳の俺にふさわしくないんだ。

 

「言ってる意味が分かんないよ。

チャンミンは大人でしょ?

身体も大きいし、それに...」

 

椅子に座ったチャンミンの膝に、俺はまたがった。

 

「ひゃぁ!

くすぐったいです」

 

俺に顔じゅう撫ぜまわされて、チャンミンは悲鳴をあげた。

 

「ヒゲも生えてるし!

アンドロイドもヒゲが生えるんだね」

 

「そうですよ。

僕は最先端の技術を結集させた、非常に高価で貴重な代物なのですよ」

 

「言ってる意味わかんない」

 

「ふふふ。

そうですね、僕はユノより年上ですね」

 

「そんなことくらい、分かってるよ」

 

「ふふふ。

いくつでしょうか?」

 

「え~。

15歳?」

 

「それじゃあ中学生ですよ?

子供じゃないですか」

 

「じゃあ、30歳?」

 

「そこまでおじさんじゃありません!」

 

チャンミンの子供みたいにぷぅと頬を膨らませるところが可笑しいんだ。

 

「僕はれっきとした大人です!」

 

威張ったチャンミンは、胸をこぶしでとんと叩いた。

 

「チャンミンは大人なのに、俺と遊んでくれる」

 

「そうですよ。

僕の仕事は、ユノと遊ぶことなんですよ」

 

「楽しそうな仕事だね」

 

「はい。

ユノと遊ぶのは楽しいです」

 

俺は嬉しくって、チャンミンの首に腕を巻き付けた。

 

チャンミンの匂いがする。

 

俺はチャンミンが大好きだ。

 

 


 

 

チャンミンはアンドロイドであり、同時にれっきとした人間でもあった。

 

俺の身体と「同じところ」がいっぱいあったから。

 

俺とチャンミンの「同じところ」を見つけることに夢中になっていた。

 

チャンミンは、俺と同じようにご飯を食べるし、トイレにも行く。

 

夕食のテーブルに苦手なものが出されると、チャンミンのフォークが高速でそれをさらっていってくれる。

 

ちらりと隣を見ると、それを美味しそうに食べるチャンミンが、いたずらっ子のようにウィンクしてみせる。

 

どうやっておしっこをするんだろうと、興味しんしんだった俺は、トイレにたつチャンミンの後をついていったことがある。

 

ふんふんと鼻歌を歌うチャンミンは、俺に気付かない。

 

チャンミンの背後からそーっと前をのぞきこんだ。

 

俺の目の高さにある「それ」と、「それ」から放物線を描くものまでバッチリ見てしまって...。

 

(へぇぇ。

俺と一緒だ。

叔父さんとおんなじくらい、おっきい...!)

 

そこでようやく俺に気付いたチャンミンは、「わっ!」ってビックリ仰天。

 

「ユノ!!」

 

チャンミンの顔が真っ赤になっていて、怒っているのに全然怖くなかった。

 

「チャンミンの、おっきいね。

やっぱり大人だね」

 

「ユ~ノ!!

そういうことを口にしたら駄目ですよ!」

 

「ボーボーだったね」

 

小学生男子なんて、そっち系の話が大好きなものなんだ。

 

「チャンミンはボーボー!」

 

だから俺は、面白くってしつこくチャンミンをからかった。

 

「悪い子はお仕置きですよ」

 

チャンミンの肩に担ぎあげられて、俺は楽しくって、お腹の底から笑いがこみあげてきた。

 

「うひひひっ!

チャンミーン!

下ろせー!!」

 

「駄目です!

えっちなユノにはお仕置きです!

お尻ぺんぺんですよ!」

 

お尻を叩くなんて絶対にしないくせに、チャンミンはそう言って、代わりに俺をぐーんと持ち上げたり、すとんと落として床すれすれでキャッチする。

 

可笑しくって楽しくって、俺は「ひゃははははっ!」で笑って叫んだ。

 

俺を下でキャッチする時、チャンミンの腕の筋肉がぎゅっと固くなった。

 

チャンミンは力持ち。

 

「僕はもう、へとへとです」

 

俺のエンドレスな「もう一回やって!」に、チャンミンは汗びっしょりになっていた。

 

屋敷はとても広くて、食堂から俺の部屋まで階段を5階分と長い廊下を行かないとたどり着けない。

 

エレベーターを使えるのは人間だけで、アンドロイドのチャンミンの利用は...エネルギーの無駄遣いなんだそうだ...禁止されていた。

 

「僕は階段で行きますから、ユノは先に行っていてください」

 

チャンミンはそう言って、俺をエレベーターに乗せようとしたが、こういう決まり事に納得がいかない俺は、「やーだよ」って言うことをきかない。

 

エレベーターの扉が閉まる寸前、俺は扉をすり抜けて外に飛び出す。

 

「チャンミンと離れたくない」

 

チャンミンの太ももにしがみついて、ほっぺをこすりつけた。

 

「ユノ...。

困りましたねぇ」

 

チャンミンの大きくて温かい手の平が、俺の頭にそっと置かれた。

 

「お!

いいことを思いつきました」

 

チャンミンは俺をおんぶした。

 

それ以来毎日、俺の部屋までたっぷり5階分の階段を上るのだ。

 

「これなら僕の足で歩いているから、オッケーですね」って。

 

チャンミンに高い高いをしてもらって、キャッキャッとはしゃぐ俺の声が階段ホールに響き渡る。

 

俺はチャンミンのことが大好きだった。

 

 

「ユノ様!!!」

 

鋭いキンキン声に、俺もチャンミンも振り返る。

 

女中頭Kが恐ろしい顔をして、仁王立ちしていた。

 

「なんですか!!

ユノ様をこんなところに!」

 

チャンミンは肩から俺を下ろすと、「申し訳ありません」と頭を下げた。

 

俺はチャンミンのお尻の陰から目だけそうっと出して、彼のズボンをぎゅっと握りしめた。

 

チャンミンは俺の頭に後ろ手を添えて、鬼みたいなKの視線から守ってくれる。

 

「アンドロイドの分際で!」

 

俺の頭に触れていたチャンミンの手が、ピクリと震えた。

 

「ユノ様!

こちらへいらっしゃい!」

 

つかつかと近寄ってきた女中頭Kは、チャンミンの背後に隠れていた俺の手首をつかんだ。

 

そして、俺を引きずる勢いで、階段ホールから連れ出そうとする。

 

「痛い痛い!」

 

俺はわざと大きな声を出した。

 

「ユノ!」

 

チャンミンは乱暴な女中頭Kから、俺を引き離そうとして手を伸ばしかけたが、すぐにその手を引っ込めた。

 

「あの...ユノ様が痛がっています」

 

『アンドロイドは人間に危害を加えたらいけないんですよ」

 

チャンミンの言葉の真意を理解できるようになるには、俺は子供過ぎた。

 

あの時は、俺を助けてくれなかったチャンミンに滅茶苦茶腹が立った。

 

「ユノ様を何だと思っているんです?

ユノ様に懐かれているからっていい気になって。

今度こういうことがあったら...送り返しますよ?」

 

Kは立ち尽くすチャンミンに脅し文句を浴びせると、「やだーやだー」と泣きじゃくる俺の脇腹をつねった。

 

「お父様に言いつけますよ!」

 

俺は泣き止むしかない。

 

父さんは怖い人なんだ。

 

俺はKに引っ張られる格好でエレベーターに乗せられ、部屋の前まで送り届けられた。

 

ドアの隙間から目だけ出して、こちらに向かうチャンミンを待った。

 

廊下の向こうからやってくるチャンミンの姿を見つけた途端、我慢できなくなって俺は走り出す。

 

俺は力いっぱいチャンミンの脚に飛びついた。

 

「また怒られますよ」

 

チャンミンは両眉を目いっぱい下げて困った風だった。

 

三日月形に細められた目から、チャンミンも俺に会えて嬉しがっていることが伝わってきた。

 

わずか10分ばかりの間だったけど、無理やりチャンミンから引き離されたこの一件は、7歳の俺に恐怖を植え付けたのだった。

 

「チャンミンがどこかへ行ってしまったら、どうしよう」って。

 

 

(つづく)

 

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(2)19歳-出逢い-

 

あまりに精巧なチャンミンに驚いてしまったのには、理由がある。

 

ちょっと前まで、俺には「お守り役ロボット」がいた。

 

そのロボットは確かに人間の姿をしていたけど、3つ以上の関節を同時に動かせなくてぎくしゃくしていた。

 

俺が難しい質問をするとメモリが足りないのか、しばらくフリーズしてしまう。

 

反応があるまで待つのはイライラするし、駆け回って遊ぶことも出来ないし、その他いろいろ問題があって、結局お払い箱になったんだ。

 

どうして俺に、「話し相手」だとか「遊び相手」が必要だって?

 

俺の家は、針葉樹だらけの山深い中にあって、近辺には誰も住んでいない。

 

一番近い学校までは、車だと2時間、飛行機だと20分くらいかかる場所にある。

 

だから俺は、自宅でネット回線ごしで授業を受けている。

 

俺に限らず、よその子たちも似たようなものだ。

 

それに加えて、俺には兄弟がいない。

 

広い屋敷の中で、子供は俺だけだ。

 

そんな俺の遊び相手として、両親はチャンミンを買ってくれたんだと思う。

 

先代の『お守り役ロボット』と比べものにならないくらい、チャンミンはホンモノの人間に近い。

 

近いどころか、人間そのものだった。

 

 


 

 

俺はたちまち、チャンミンのことが大好きになった。

 

チャンミンは優しくて、物知りで、力持ちだった。

 

チャンミンに肩車されて、裏山を散歩する。

 

チャンミンはとても背が高いから、木の枝に頭をぶつけてしまうこともある。

 

「わぁ!

すみません、ユノ!」

 

慌てたチャンミンは肩から俺を下ろして、俺の頭をすみずみまで点検した。

 

「チャンミン...!

くすぐったいったら」

 

耳の穴まで確認しようとするチャンミンの手を押しのけて、俺は笑いころげる。

 

「安心しました...。

あなたに怪我をさせたら...」

 

チャンミンは俺を引き寄せると、ぎゅっと抱きしめた。

 

大人の男の人にぎゅっとしてもらうことは経験がなくて、俺はびっくりした。

 

(俺の父さんはそういうことはしない人なんだ。いつも遠巻きに俺を見ている)

 

チャンミンの胸は、母さんのものと違って固かったけど、温かくて、頼もしくて、安心できた。

 

「よかった...無事でよかった」

 

俺のほっぺの下で、チャンミンの心臓がドキドキしていた。

 

(そうなんだ。

チャンミンは、俺の身体と同じように、人間みたいに胸がドキドキするんだ)

 

「チャンミン...苦しい...放して」

 

呻くと、チャンミンは「すみません」と謝って腕を離した。

 

「たんこぶくらい、全然平気だよ」

 

「たんこぶが!?」

 

チャンミンの顔色が、さーっと青くなった。

 

「嘘。

俺は男だし、強いんだ。

平気だよ」

 

「もー。

焦りました」

 

チャンミンは尻もちをつくみたいにその場にへたり込んで、後ろにごろんと寝転がった。

 

とても子供じみたことをするから、俺は可笑しかった。

 

「チャンミンは心配性だね。

俺の母さんより心配性だ」

 

俺もチャンミンに習って、隣に寝転がった。

 

落ち葉がカサカサと乾いた音をたてた。

 

ぐるりと囲んだ木々の梢の真ん中から、うす青い初冬の空が広がる。

 

心配性のチャンミンによって、俺はコートにマフラー、帽子とむくむくに着ぶくれていた。

 

「ユノに何かあったら、僕はここにいられなくなるんですよ?」

 

「ええぇっ!?

なんで?」

 

俺は飛び起きて、地面に寝転がったままのチャンミンの肩を揺すった。

 

「それはですね。

僕が『アンドロイド』だからですよ」

 

チャンミンはそう言って起き上がると、俺の服についた枯れ葉を払いのけながら言った。

 

「アンドロイドは心配性なの?」

 

7歳の俺には『アンドロイド』の言葉の意味がよく分からなかったけど、人間とは違うものだってことは知っていた。

 

召使みたいなものだって。

 

「アンドロイドは、人間に危害を加えたらいけないのです。

そういう、絶対的なルールなのです」

 

「叩いたり?」

 

「そうです」

 

振り返ってみると、確かにチャンミンは俺に手を挙げたことは一度もない。

 

父さんに頬を張られたことは何度もあるし、女中頭のKは母さんが見ていない隙に俺の脇腹をつねったりする。

 

他にもいっぱい...俺んちにはいろんな大人が訪ねてくる...痛いことをしてくる人がいる。

 

チャンミンの背中に乗って、滅茶苦茶に髪の毛を引っ張ったり、お馬さんだとお尻をスリッパで叩いたり、プラスチック弾のピストルの的にしたりしても、チャンミンは困ったように笑うばかりだった。

 

「ユノには擦り傷ひとつ、負わせられません」

 

「ルールを破ったら、どうなるの?」

 

「ルールを破らないように...」

 

チャンミンは、ちょんちょんと自身の頭を指さした。

 

「プログラムされてますから。

余程の不可抗力がない限りは、危害を加えることはあり得ません」

 

フカコウリョク...キガイ...?

 

チャンミンの言っている言葉が難しくて、俺は分かったような分からないような顔をしていた。

 

「僕の仕事は、ユノの心配をすることです。

ユノの仕事は、子供らしく遊んで勉強をすることですからね」

 

お尻についた落ち葉を払うと、俺の方に手を伸ばした。

 

「チャンミンは...」

 

「なんですか?」

 

「チャンミンも子供の時、いっぱい遊んだ?」

 

「え?」

 

俺と手を繋ぐチャンミンの頭は、うんと高いところにある。

 

チャンミンも俺みたいに小さい時があったのかなぁ、って知りたくなったんだ。

 

「チャンミンは何して遊んだ?」

 

俺たちは立ち止まり、俺はチャンミンを見上げて彼の答えを待った。

 

「...子供の時ですか。

...もう忘れました」

 

チャンミンは肩をすくめて、ひっそりと浅く笑った。

 

とても寂しそうな笑い顔で、「聞いてはいけないことを尋ねてしまった」と7歳の俺は後悔した。

 

「大変です、ユノ。

鼻水が出てます」

 

チャンミンの大きな親指で、俺の鼻下が拭われる。

 

チャンミンは俺を背負うと、「しっかりつかまっているんですよ」と駆け出した。

 

「風邪をひいたら大変です。

お家に帰って、ホットレモンを飲みましょうね」

 

 

 

チャンミンは俺を叩かない。

 

それなら、俺もチャンミンを叩いたりするのはよそう、と心に決めた。

 

チャンミンの首に回した腕に力をこめた。

 

「大好きだ」っていう気持ちをうんと込めて。

 

チャンミンは大人だけど...。

 

チャンミンはアンドロイドだけど、俺の大事な友達だから。

 

 

(つづく)

 

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(12)ユンホ先輩(最終話)

 

入社したばかりのことだ。

凄い人がいるとは聞いていた。

その凄い人が僕の教育係だった。

そして、その教育係とは入社3日経っても会えずにいた。

欠勤していたのだ。

ぎりぎりの人員で回している部署だったから、戦力に成り得ない新人は事務所で留守番だ。

10年前のまま更新されていないマニュアルノートを読みこんでいた時、こつん、と後頭部に何かが当たった。

 

「?」

 

振り向くとイケメンが立っていた。

この人がうわさの『凄い人』...ユンホ先輩だった。

見た目では問題児であることは分からなかった。

黒々とした目はきらきら輝き、口角だけちょっと上げた唇は引き結ばれ、スーツはシワひとつない。

とてもとても、怠け者には見えなかった。

その後、ユンホ先輩の「普通じゃない」ところ、理解しにくいところに次々と直面することになる。

僕を確かに見ているんだろうけど、どこを見ているのか分からない。

その曖昧感から、ユンホ先輩をとらえどころのない人だと判断した。

僕の頭をこつんとしたものは、見積書で折った紙飛行機だった。

マヂか...。

 

「お前が新入社員?」

「はい!

チャ、チャンミンと言います。

よろしくお願いします!」

 

就職活動で習った通りのお辞儀をした僕に、ユンホ先輩は「かったいヤツだなぁ」と呆れていた。

 

「ではチャンミン君。

昼めしを食いにいこう」

「ええっ!?

まだ9時ですよ?」

 

「朝メシを食っていないから腹が減ってるんだ」

「いや...だからって...」

「近くの美味い店を教えてやるんだ。

これも新人教育だ、サボりじゃない」

 

こじ付けの説得に、「噂通り、凄い人だ...」と唖然とした。

 

 

かいた汗がひいた頃、真冬の裸は寒すぎて1枚きりの掛布団にもぐりこんだ。

僕らは向かい合わせに横になり、僕はユンホ先輩の胸に額をくっつけていた。

ユンホ先輩の肌はすべすべしていた。

男の僕が言うのも変だけど、ユンホ先輩の男らしい匂いにくらくらしていた。

 

「先輩...変なこと、考えていないですよね?」

「変なこと?

なぜそう思った?」

 

「今日のユンホ先輩はいつもと違うし、冴えてるって言ってるのに疲れきっています。

僕とヤッちゃうし...。

とにかく変なんですよ」

 

「俺が変なのは、今日に始まったことじゃないだろう?」

「...その通りですけど。

そろそろ折れちゃうんじゃないかって、心配なんです。

先輩の病気のこともあります」

 

「調べたんだ?」

「いいえ。

先輩の『傾向』...みたいなものから判断したのに過ぎません」

 

「よく見てるんだな」

「そりゃあ...好きだからですよ」

 

「嬉しいね」

「何度も言わせないでくださいよ」

 

ユンホ先輩は、つんと拗ねる僕の後頭部をわしゃわしゃと撫ぜた。

 

「そろそろ休む頃合いかな、と思っているんだ」

「...そう...ですか」

 

入院するのかな、と真っ先に思った。

 

「俺の場合、だいたい3年から4年スパンなんだ。

世俗から離れて休養する。

ある程度回復したら、再び現実社会に帰還する。

俺の人生はこれの繰り返しなんだ」

「3年か4年ですか...」

 

「ああ。

休養した後の復帰は大変だ。

空白の期間を取り戻すのにね。

いっそのこと何もかも真っ白にしたくなるよ」

「真っ白って...変な意味じゃないですよね?」

 

「究極の世界は実に魅力的だ。

振り回されることもない、落ちた時の無気力感から逃れられることができる。

周囲に迷惑をかけるんじゃないかと恐れる必要もなくなる」

 

「先輩...」

「チャンミンは可愛い後輩だったよ。

俺の世話は大変だっただろ?」

「すぐに慣れましたから」

 

ユンホ先輩の腕が伸びてきて、僕はより深く彼の胸にすっぽりとおさまった。

僕らの背丈は同じくらいなのに、ユンホ先輩の方が大きく感じられるのだ。

後輩である僕はいつまでも小さいのだ。

この大小は存在感を言う。

 

「俺はチャンミンに迷惑をかけたことはあるか?」

 

僕は身構えた。

自身の振る舞いについて、初めて僕に問うたのだ。

 

「迷惑をかけてきたか?」

「ないです...全然」

 

「俺は迷惑だったか?」

「いいえ。

先輩はよくやってきました」

 

ユンホ先輩は遅刻早退欠勤続き、成果をあげ、豪快に見せていて...注意深く生きている人だった。

僕はチャンミン先輩となり、ユンホ先輩の背中を擦った。

 

「よくやってきました」

 

僕の手の平はぼこぼこと、浮き出た背骨を感じとっていた。

ユンホ先輩は食事をろくにとっていないようだった。

絶好調のユンホ先輩は、睡眠欲に加えて食欲が消えてしまうのだ。

総菜の夕飯にもほとんど箸をつけていなかった。

分厚いコートと緊張のせいで、見落としていた。

 

「ごめん。

俺はもう疲れてしまって...」

 

そうか、僕を今夜招いた理由。

心底の弱音を吐きたかったんだ。

 

「頑張り過ぎたんです。

もっと先輩の好きなように生きたらどうですか?

遅刻も早退も、欠勤しなくても済むような環境にいくのはどうですか?

人が少ない環境に?」

「......」

 

突如、ふつふつと怒りが湧いてきた。

毎度のことながら、僕は認識能力が鈍くて、それへの反応もワンテンポ遅いのだ。

 

「『好きだった』ってどういうことですか!?」

 

僕はむくっと半身を起こし、ユンホ先輩を睨みつけた。

 

「え?」

 

「過去形だったじゃないですか!

『好き』って言われても、素直に喜べないですよ!

意味深なこと言って、僕を心配させないで下さいよ!」

 

「チャンミン...」

「こっそり会社を辞めて、どこかへ行っちゃうつもりだったんでしょう?

し、死ぬつもりだったんでしょう?」

 

肯定の証拠に、ユンホ先輩は無言だった。

 

「僕はね、シーソーみたいなユンホ先輩がいいんです!」

僕がいるじゃないですか...。

...っく」

 

泣き落としなんてしたくない、にじんだ涙をごしごし拭った。

 

「『好きだった』なんて二度と言うんじゃねぇ!

...じゃなくて、二度と言うんじゃねぇですよ!

過去形なんて聞きたくねぇ...ですよ!」

 

頭に血がのぼった自分を止められない。

 

「先輩は僕とヤったんです!

先輩だって男が好きなくせに!

ずっと告白できなかった自分が馬鹿みたいですよ!」

 

僕はユンホ先輩の肩をぐらぐらと揺すった。

 

「僕は先輩が好きです!

僕と付き合う運命です!」

「...チャンミン、お前...」

 

「会社を辞めるなら堂々と辞めろ!

いつもの先輩でいてくださいよ!」

 

ユンホ先輩に伝えるべきことを順に、羅列していった。

僕の言葉は全部、ホントウのことなんだ。

ユンホ先輩の真似をしたんだ。

 

「分かった、分かったよ」

 

ユンホ先輩も起き上がり、「鼻水が出てる」と掛布団で拭いてくれた。

外灯の灯りがユンホ先輩の肉体の凹凸を、ぼんやり照らしていた。

彫刻みたいに細く引き締まっていて美しすぎて、さらにユンホ先輩のことが好きになった。

僕はユンホ先輩の前だと、自由に素直に振舞える。

これってなかなか凄いことだ。

 

 

僕はスイッチが切れてしまったユンホ先輩の腰を抱き、駅に向かっていた。

僕のボストンバッグには、殺虫剤のスプレーと抱っこサイズのぬいぐるみが入っている。

僕は7年勤めた会社を辞めた。

ユンホ先輩とセックスをした翌日に。

非常識過ぎて笑ってしまうよ。

特急列車の中でぐったりとしているユンホ先輩に構わず、僕はビールを飲み駅弁を食べた。

 

「先輩、あーんしてください」

 

素直に開いたユンホ先輩の口の中に、ミカンのひと房を押し込んだ。

ユンホ先輩はもぐもぐと咀嚼している。

 

「チョコレート、食べますか?」の問いには答えなかった。

 

スイッチが入ったユンホ先輩は凄いと知っている僕は、スイッチが切れた彼を心配していなかった。

ユンホ先輩なら場所が変わっても、いい結果を生んでくれるはずだから。

 

 

発見したこと。

ユンホ先輩は「好き」と口にすることに、猛烈な照れを感じる人らしい。

お客に暴言を吐けた人なのにね。

僕は耳をそばだてる。

僕の上になり下になり腰を揺らし、絶頂の刹那、ユンホ先輩が口走る言葉。

切なく甘い声音の「好きだ」を、僕は絶対に聞き漏らさない。

そして、ユンホ先輩は数年も数カ月も前のエピソードを小出ししては、僕をきゅんとさせる。

 

「チャンミンに眼を見せた時があっただろ?」

「はい」

 

はっきりと覚えている。

あれは入社3年目の夏、倉庫内での出来事だった。

 

「お前の茶色い眼が綺麗で感動した」

「...え!」

 

「泣きそうになってしまって...焦点を散らしていた」

「...もしかして、その時に僕に惚れちゃいましたか?」

 

「さあ、どうだったかなぁ?」

 

とぼけたユンホ先輩は照れを隠すために、カーテンにへばりついた蝉の抜け殻を僕に向かって投げて寄こす。

僕は悲鳴をあげて飛び退る。

 

ここは虫の王国。

もうすぐ初夏の季節だった。

 

 

ユンホ先輩はことあるごとに、「いい加減、敬語はよせよ」と言う。

僕は毎回「それは出来ませんね」とつっぱねる。

僕はこの先もずっと、ずっと、ユンホ先輩を「先輩」と呼び続けるだろう。

 

 

僕にとってユンホ先輩は、永遠に「ユンホ先輩」なんだから。

 

 

(おしまい)