(10)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩の言う通り、ちらついていた雪がさらさら降りに変わり、路面を白く覆っていた。

気温が低い証拠に、雪の一片ひとひらが細かかった。

スーパーマーケットで総菜や飲み物、つまみになるものを買い、ユンホ先輩のアパートへ向かった。

道中ずっとユンホ先輩は無言で、僕の方も話題を探す努力はせず、口を閉じていた。

明らかにいつもとは様子が異なっていた。

一度部屋に戻ったらしく、ユンホ先輩は私服姿だった。

ユンホ先輩の恋人を空想するたび、彼の私服姿も一緒に想像していた。

 

「さぞエッジのきいたファッションに身を包んでいるのでは?」の僕の予想を裏切って、気の抜けたものだ。

ノーマルなユンホ先輩の恰好なんだろうな、ラフなのにスタイルの良さが際立っていたもので、よく似合っていた。

 

「忘れてた...!」

 

ユンホ先輩はつぶやき、前方に見えるコンビニエンスストアへと駆けて行った。

 

「先輩!」

 

ユンホ先輩のスニーカーが付けた足跡を、そのまま辿りながら彼を追った。

身長は変わらないのに、ユンホ先輩の歩幅は大きかった。

ユンホ先輩がコンビニエンスストアに立ち寄ったのは、僕の下着を買うためだった。

 

「えっ?えっ?」

 

下着...ということは...?

 

「今夜のチャンミンは、俺んちに泊まるんだ」

「待ってくださいよ!

先輩んちにって...何も準備してないし、予定していないし...」

 

「お泊り発言」にびっくりしてしまい、相変わらずのユンホ先輩の強引さについていけずに、あたふたしてしまった。

 

「その準備を今してるんじゃないか?」

 

ユンホ先輩は僕の頭からつま先まで見ると、

 

「お前は...Mサイズでいいな。

あとは、靴下と...。

Tシャツは俺のを貸してやる」

 

僕の異議を差し挟む隙を与えず、てきぱきと買い物かごに入れてゆき、会計まで済ませてしまった。

店内の明るすぎる照明のもとで、案の定、ユンホ先輩はくすんだ肌色をしていた。

今のユンホ先輩は本人の言う通り、冴えている。

ユンホ先輩を注意深く観察するようになった1年半の経験上、そろそろエネルギーが消える瞬間が迫っている。

 

パチン、とスイッチが切れるかのように。

 

 

「...先輩」

 

僕は絶句した。

部屋はがらんどうだった。

敷布団が1組と折りたたみテーブルがあるだけ。

テレビも無くなっていた。

 

 

折りたたみのテーブルに、買ってきた食べ物と飲み物を広げ、ささやかな晩餐が始まった。

ユンホ先輩はおそらく、僕に話したいことがあるんだ、と直感していた。

僕はビールを、ユンホ先輩はジュースを飲んでいた。

後輩だけお酒を飲んでいていいのかなぁ、遠慮がちに口をつける僕に、ユンホ先輩は苦笑した。

 

「薬を飲んでいるから、アルコールはダメなんだ」

「そういうものなんですね」

 

初耳だったから驚いた。

 

「いっぱいあるんだ、食え食え」

 

ユンホ先輩は僕の前に、総菜のトレーを押しやってくれる。

冷えてぼそぼそした焼きそばを頬張る僕を、ユンホ先輩はニコニコしながら見守っている。

 

「若いっていいなぁ」

「先輩だって若いですよ」

 

「俺は30過ぎのおっさんだ」

「知ってます、先輩?

僕ももうすぐ30歳なんですよ?」

 

「え!?

若く見えるなぁ」

「よく言われます。

童顔なので」

 

物もなく、音もなく、色もない空間は、引っ越してきたばかりの部屋みたいで、僕らの声はよく響いた。

 

「お前、俺の尻ばかり見ていただろ?」

「えぇっ!?」

 

ユンホ先輩の突然かつ唐突な発言に、僕はとび上がった。

そして、僕の中でパチン、とスイッチが入った。

ビール2缶でほろ酔い気分の僕は、アルコールの力を借りることにした。

僕は胡坐から正座に座り直し、背筋を伸ばした。

 

「はい、見ていました」

 

僕ははっきり認めた。

そりゃそうだろう、ユンホ先輩の切れ長の目が真ん丸になった。

僕はユンホ先輩のことがずっとずっと気になっていた。

ずっとずっと、ユンホ先輩に気持ちを打ち明けたかった。

でも、それがしづらい理由があった。

 

「僕は...男が好きな男です。

僕の恋愛対象は男です。

だから...言えずにいました」

「...チャンミン...」

 

「先輩に気持ち悪いと思われたくなかった。

先輩のことだから、今までと変わらない態度で接してくれると思います。

でも、先輩のことを見ていたり、こんな風に...」

 

僕はユンホ先輩の肩に触れた。

 

「偶然、身体が触れてしまった時。

こんな風に。

下心があるんじゃないか、って警戒されたくなかったんです」

「......」

 

「僕っ...先輩のこと」

 

正座した太ももに置いた手を、ぎゅっと握った。

葉を落した欅の枝に雪が降り積もってゆく。

アイスクリームを食べた夏の日。

Tシャツ姿のユンホ先輩が頬杖をついていた窓辺。

結露した窓の桟に、抱っこサイズの真っ白な熊がちょこんと座っていた。

 

「...あ」

 

傷ついたユンホ先輩を見たくなくて、意気地なしの僕はぬいぐるみに向かって話したんだった。

これは残しておいたんですね?

今夜の僕はユンホ先輩の目を、まっすぐ見つめた。

ユンホ先輩と確かに目が合っている。

 

「好きです」

 

なぜ、心の内をさらけ出すことができたか?

それは、ユンホ先輩がどこかへ行ってしまうと、心のセンサーがキャッチしていた。

言い逃げのような形の告白。

意気地なしで弱虫な自分は昨年と変わりがなかった。

けれども、ユンホ先輩はここを去る覚悟を決めていると分かっていたから、大胆になれたのだろうか。

 

「俺はお前が好きだったよ」

「...先輩...?」

 

「好きだった」

「えっと...あの...その...」

 

ユンホ先輩の言葉の意味が数秒遅れで認識できた時、僕の脳内で花火が打ち上げられた。

 

「ええええっ!?」

 

どう解釈すればいいんだろう!?

ユンホ先輩の「好き」と、僕の「好き」が違っていたら大赤面ものだ。

 

(つづく)

(9)ユンホ先輩

 

ユンホ先輩とセックスをしてしまった日のことを語ろうと思う。

入社7年目の冬のことだ。

凍てつく寒さの倉庫で、僕はやはり一人で棚卸を行っていた。

ジャージの上にジャンパーを、ニット帽をかぶり、ポケットにはカイロを仕込んでと、防寒対策は万全だった。

それでも、かじかむ指からペンを取り落しそうになった。

終業2時間前、ユンホ先輩はすまなさそうに僕に会釈をした。

体調が悪いのだろう、その笑顔も口角だけをわずかに持ちあげたささやかなものだった。

僕は「分かってます、お大事に」の気持ちをこめて頷いてみせた。

僕はユンホ先輩の秘密を知っているのだ。

自分だけが知っている優越感に浸っていた。

 

 

ここ1か月間、ユンホ先輩は絶好調だった。

遅刻早退欠勤なし、声も大きくはきはきとしていた。

大きな商談をあっという間にまとめ、3カ月連続で昨対を割っていた僕らの部署を数字から救った。

調子がよい時期のユンホ先輩は突っ走ってしまうから、僕はそばで見ていてヒヤヒヤしていた。

薬名を頼りに調べなくても、ユンホ先輩を注意深く観察していれば、彼が常人以上にエネルギーを使って生きていることが分かった。

僕の乏しい知識から、ユンホ先輩が抱える病気...障害について、なんとなく分かりかけていた。

1年前の夏以来、ユンホ先輩は僕の前ではより自由に振舞っているように見えた。

強がっていない、っていうのかな?

「ユンホ先輩、ちゃんと寝ています?」と尋ねると、「そうだなぁ...1時間は寝てるよ。眠くならないんだ」と正直に申告してくれた。

明らかに塞ぎ込んでいる時は仕事どころじゃないようで、「先輩、心配されたくなければ早く帰ってください」と、会社から追い出した。

4日連続欠勤した時はさすがに心配になって、食べ物を差し入れにアパートを訪れた。

ドアを開けたユンホ先輩は、ボサボサ頭で眼は半分しか開いていなかった。

僕は靴を脱ぎ、室内へとユンホ先輩の背中を押した。

室内を埋め尽くしていたぬいぐるみが消えていた。

 

「あ...れ?

ぬいぐるみは?」

「...捨てた」

「そう...ですか」

 

代わりに室内は、このアパートの外観にふさわしいカントリー調のインテリアにまとめられていた。

ぬいぐるみを押し込んだゴミ袋を、収集ステーションに運ぶユンホ先輩。

こうと決めたら自分を止められないと、ユンホ先輩は言っていた。

いくらでも手伝ってあげたのに...代わりに僕が貰ってあげられたのに。

ユンホ先輩は僕だからこそ、打ち明けてくれたんだ。

先輩と後輩関係でいた6年間で、ユンホ先輩は秘密を打ち明けてもいいくらい、僕を信頼してくれたと思いたい。

実のところ、打ち明けずにはいられないほど辛くなっていたんだったとしても、出来る限りサポートしてあげたいと思うようになった。

意気地なしから突っぱねてしまった後悔を消したい自分のためでもあるし、後輩として好きだったし、ひとりの男性として好きだったからだ。

 

 

通常より在庫を多く抱えていたこともあり、棚卸作業は終業時間を過ぎても終わらない。

僕は端の端まで手を抜きたくない固い男だから、余計に時間がかかっていた。

倉庫内は暗闇に沈み、いよいよボードの文字が読みにくくなってきたし、鉄製階段のステップを踏み外したら危険だ。

両手に息を吹きかけながら、電源スイッチのある入り口ドアまで向かった時だ。

突然鉄製ドアが開き、倉庫に入ってきた人物が、シルエットだけでユンホ先輩だと分かった。

 

「...先輩?

帰ったんじゃなかったんですか?」

「可愛い後輩がいるのに、帰るわけないだろ~」

 

ユンホ先輩は分厚いコートに、ぐるぐる巻きにしたマフラーに顎を埋めていた。

 

「ふふふ。

明日は吹雪になるかもしれませんね。

建物の中なのに、マイナス2℃ですよ」

 

僕はドア横の気温計を指さした。

 

「ああ、降るかもね。

もうチラつきだしてるよ、風も強い」

「ここは僕ひとりで大丈夫です。

もう少しで終われそうです」

 

ユンホ先輩は僕からボードを取り上げると、ペーパータオルの段ボールの棚をちらりと見、さらさらっと数字を記入した。

 

「先輩!

適当な数字を...」

 

手を高くかかげて、ボードを取り上げようとした僕を阻んだ。

 

「1箱2箱違ってても、分かんないさ。

最近の俺は冴えているんだ。

だいたい合っているよ」

 

調子が悪いと言っていたくせにけろっとしている風に見えたけれど、暗がりのせいで表情と顔色を確かめられない。

毎度腹をたてていたら、ユンホ先輩の隣にはいられない。

 

「これから夕メシを食いにいこう」

「ええっ!?」

 

夕飯を誘われたのは初めてだった。

 

「いいんですか?」

「ああ。

外は落ち着かないから、俺んちでいいか?」

 

「かまいません...けど」

 

カントリー調インテリアの部屋から、今はどんな部屋に様変わりしているだろう?

 

 

この後、僕はユンホ先輩の部屋に行き、夕飯を食べ、それから...。

どういう流れでセックスをすることになったのか、どんな風だった詳細を書いてもいいのかな。

ショックがダイナマイト級で、僕の頭も身体もくらくらしてしまったし、僕とユンホ先輩の関係が決定づけられた出来事でもあるから、説明した方がいいのかな。

 

(つづく)

(8)ユンホ先輩

 

入社4年目のことだ。

 

当時の僕の目にはまだ、営業成績ナンバーワンのユンホ先輩の裏の努力を知らずにいた。

 

身の回りに必ず1人はいる、オンオフの差が大きく、省エネモードが常の者として映っていた。

 

資料まとめに精を出していた午後2時。

 

「ジュースを飲みに行こう。

喉が渇いた」

 

背後からユンホ先輩の声が降ってきた。

 

数十秒前から背中に視線を感じていたけれど、わざと無視をしていた。

 

資料完成までタイムリミット1時間を切っており、ユンホ先輩の相手が出来る余裕はなかったからだ。

 

「お断りします。

昼休みから1時間も経っていないんですよ?

僕は忙しいのです。

ひとりでコーラを飲んできてください」

 

「びしっと断ることができた」と、誇らしく思っていたら...。

 

「わっ!」

 

強引なユンホ先輩は、僕が座るオフィスチェアの背もたれをつかむと、ごろごろと事務所の外へと押していくんだ。

 

「ちょっ...待って!」

 

「待たない。

かっかしながらの仕事は、いい結果を生まないぞ」

 

「落ちる...!」

 

「キャスターがぶっ壊れるのでは?」と不安になるスピードで、僕は振り落とされないよう椅子の座面をつかんでいた。

 

僕を乗せたオフィスチェアは廊下を疾走していった。

 

 

「チャンミンは何がいい?」

 

「アイスコーヒーのブラックをお願いします」

 

自販機前で飲み物を選ぶユンホ先輩。

 

手元から滑り落ちた2本のペットボトル。

 

長椅子の下に転がるそれを追う手が、それをキャッチした手とぶつかった。

 

ベタなシーン。

 

初めてユンホ先輩の身体に触れた時だったと思う。

 

4年間も共に働いてきて、指先ひとつ触れ合わずにきたことに驚いた。

 

僕が意識的に「触れたらいけない」と、接触しそうになるのを避け続けていたのだろうか。

 

ユンホ先輩に抱く感情の濃度が、他者とは違うことに気付いた瞬間だった。

 

あんな問題児と恋愛ができるとは、とても想像がつかなかった。

 

ユンホ先輩の恋人は振り回されて苦労していそうだ。

 

後輩である僕でさえ、呆れっぱなしなのに。

 

でも...もし恋人がいるとしたら...どんな人なんだろう、と興味が湧いた。

 

その頃だったのかな。

 

ユンホ先輩の首筋や肩、腰やお尻に普通じゃない視線を向けてしまうようになったのは。

 

渋々ながら、ユンホ先輩の昼食の誘いに内心ウキウキとしていた。

 

「ユンホ先輩。

今日はパスタにしません?

美味しいカルボナーラを出すお店がオープンしたそうですよ?」

 

「俺は行きたくない。

俺はラーメンの気分なんだ。

カルボナーラが食いたければ一人で行ってこい。

じゃあな」

 

「わっ!

僕もラーメンにします!」

 

立ち去るユンホ先輩を追いかけることもあったなぁ。

 

「明日、カルボナーラを食いに行こうか?」

 

「...明日は休みですよ」

 

気に召さない提案の時はばっさり断る遠慮のなさは、ユンホ先輩相手だと僕も同様だった。

 

ユンホ先輩の前では、僕は正直者になれてると思う。

 

それなのに、入社6年目の夏。

 

ユンホ先輩が差し出してくれた秘密...むき出しの心を、丁重に押し返してしまったのだ。

 

僕は職場の後輩に過ぎないのに、仕事の範囲を超えたところまで踏み込んでしまっていいのか?と躊躇してしまったんだ。

 

尊敬したり呆れたり、綺麗な横顔に憧れているだけがちょうどよいのでは?と、変化を恐れていたんだ。

 

けれども、あの日以降のユンホ先輩は、「僕を頼ってください」の言葉通り、僕の肩に触れる程度の控え目さで、僕を頼ってくれた。

 

たった1年半の間のことだったけれど。

 

嬉しかったなぁ。

 

 

ユンホ先輩が3か月ほど休職したことがあったことを思い出した。

 

海外へ放浪の旅に出かけたのでは?

 

入社3年目の僕は、他部署の者たちの噂話を信じ、なんと社会人失格な人物なんだろうと呆れていた。

 

それは僕の心の中で温かに膨らむ感情を、抑え込むストッパーとして働いてくれた。

 

ユンホ先輩のアパートを初めて訪れた夏のあの日にやっと、休職した理由が分かった。

 

放浪の旅どころか、3か月入院していたのだ。

 

部長も課長も人事部も承知のことで、僕らの部署では事情を知らないのは主任と僕の2人だけだった。

 

個人情報を一切漏らさないその徹底ぶりに、案外いい会社だなぁと感心したのだ。

 

 

(つづく)

 

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(7)ユンホ先輩

 

 

ユンホ先輩が放ってよこした薬袋は、受け取ってすぐ彼に押し返した。

 

「そこまでしなくても...。

言いたくないのなら黙っていていいですから」

 

僕に調べさせようだなんて...。

 

僕にとってのユンホ先輩は、大胆でポジティブそのものだったから、脆さが垣間見えてしまって哀しかった。

 

この哀しさは落胆、という意味じゃない。

 

外回りの日以外はほぼ毎日、1日8時間面を付き合わせている仲なのに、ユンホ先輩は脆さを気取られないようにしていたんだ。

 

6年間騙され続けていた自分も素直過ぎるけれど、さ。

 

傷ついた表情をしているだろうユンホ先輩を見たくなかったから、斜め横にちょこんと座る抱っこサイズの熊に向かって話した。

 

「ユンホ先輩は健康じゃない時がある。

だからこれからは、遅刻したり休んだりしても、全てがサボりだとは思いませんよ。

10回中1回は体調不良だと思っておきます」

 

「そりゃどうも」

 

「辛い時があったら僕に頼ってください。

代わりにできることは、力になりますから」

 

「...そっか。

ありがと」

 

ユンホ先輩は僕の言葉に落胆しただろう。

 

僕からの質問を待っていたのだから。

 

「僕なら大丈夫、全部打ち明けてください」と、胸を叩けなかった。

 

...ユンホ先輩、ごめんなさい。

 

今の僕じゃ力不足です。

 

受け止めきれません。

 

ユンホ先輩はとても大きな存在で、部屋に上げてもらった上に、秘密まで教えてもらって、喜びの洪水であっぷあっぷしそうなんです。

 

もう少し、時間をください。

 

 

「...存在自体、か」

 

先ほどのユンホ先輩の言葉をつぶやいてみた。

 

「...俺は...」

 

「はい?」

 

「このぬいぐるみ...異常だろ?」

 

「...はい、まあ...そうですね。

こつこつ集めたんですか?」

 

「こつこつどころか、一か月でばば~っと集めた。

部屋いっぱいに欲しかったから。

血眼になって探して、大枚払って集めに集めた」

 

そうだろうな、これだけの数を集めるには相当な額が必要だっただろう。

 

「どうして熊のぬいぐるみなんです?」

 

「たまたま、それだっただけ。

集めるものは何だっていいんだ。

欲しいと思ったら止められない、一直線だ。

熊の前はスニーカーを集めていた」

 

「そのスニーカーは?」

 

「捨てた。

異常だよ」

 

その後の僕らは無言だった。

深追いしなかった僕のせいだ。

でも、これだけは伝えておかないと、と思った。

 

「先輩」

「んー?」

 

「僕、先輩のこと馬鹿になんかしてません。

そりゃあ、呆れることはありますよ。

肝心な時にいなかったりして、ムカつくこともあります。

正直に言っちゃうと、ちょっとだけ小さく小馬鹿にしてたかもしれません」

「それが嫌だったんだよ」

 

つんと口を尖らせたユンホ先輩が可愛くて、くすりとしてしまった。

 

「『小馬鹿』っていう言い方が悪かったですね。

『やれやれ、仕方がないなぁ』って、呆れてる感じです」

「呆れて当然だよ」

 

ユンホ先輩にしてみたら、相手にため息をつかせることイコール、馬鹿にされている風に捉えてしまうのだろう。

 

「...ユンホ先輩は。

強引だし、いい大人が遅刻ばっかりしてるし、サボってアイス食べてるし。

ムカつく客には容赦ないし」

「......」

 

「すごくカッコいいのに変わり者過ぎて、うちの女性陣からは全然モテないし。

ぬいぐるみの部屋に住んでるし...びっくりですよ」

 

「......」

 

「そんなユンホ先輩が面白くて...僕。

僕、好きですよ。

別にそのままでいいじゃないですか。

僕は今のユンホ先輩しか知らないんですから」

「...そっか」

 

18℃に設定した室内は涼しく、さらさらに乾いた肌に触れるふわふわの毛皮が気持ちよくて、うとうとと眠くなってきた。

 

「ここで昼寝してゆけよ」

「はい」

 

僕は素直に頷いた。

「布団代わりだ」とユンホ先輩は僕の上にぬいぐるみを積んでくれた。

 

「ぬいぐるみに埋もれる会社員...シュールで可愛いよ」

 

ユンホ先輩の手が伸びてきて、僕の前髪をくしゃっとした。

やる時はやるし、優しいし、ランチは2回に1回は奢ってくれるし、僕より年上なのに肌はきめ細かいし、すっきり涼し気な目元に鼻も高いし...。

 

なんだよ、最高じゃないか。

 

 

目覚めた時は夕刻で、真夏の日没までには2時間はあった。

蝉の鳴き声はいくぶん、大人しめになっていた。

ユンホ先輩は窓の桟で頬杖をついて外の景色を眺めていた、ぼんやりと。

そして、ワイシャツは脱いでしまっていて、白いTシャツ姿になっていた。

欅の枝葉が、ユンホ先輩の白い顔にまだら模様の影を作っていた。

手をいっぱいに伸ばせば欅の枝に届きそうだった。

 

「起きたか?」

 

僕の気配にユンホ先輩は振り向くと、にっこり笑った。

 

「はい」

 

僕はぬいぐるみの中からもぞもぞ起き出して、ユンホ先輩の隣に腰をおろした。

 

「大自然で暮らせたらいいなぁ。

こんなゴミゴミしたところじゃなくってさ」

「僕もそう思います」

 

濃い緑色の葉が、眩しく熱い西日を遮ってくれていた。

 

「虫が苦手なら難しいんじゃないかな?

田舎は虫の王国だぞ」

「その気になれば、殺虫剤に囲まれて住みますよ」

 

「何万匹も目にしているうちに、素手で捕まえられるようになるさ」

「何万匹...怖いこと言わないでくださいよ」

 

ユンホ先輩のぬいぐるみの部屋を訪ねたのは、この夏の日の1回きりだった。

 

 

薬袋に印刷された薬名は調べなかった。

うろ覚えだったし、知ったところでどうしようっていうんだ?

調べるべきだったんだろうと思う。

ユンホ先輩は知られたがっていた。

後になって僕は気が付いた。

その時は聞き流していた言葉。

 

『家族や恋人以外には絶対に知られたくないこと』って言っていたじゃないか!

 

ああ、僕の馬鹿馬鹿。

 

 

(つづく)

(6)ユンホ先輩

 

アンティーク調のドアが並ぶ中、ユンホ先輩の部屋のものだけ真新しく浮いて見えた。

鍵穴に接着剤を注入されてドアが開かず、出社できなかったことがあった件の証だ。

 

「ドアをけ破ろうと無茶苦茶やってしまって...ドアごと交換になったんだ」

「閉じ込められるなんて...どこかで恨みを買ってたんじゃないですか?」

 

僕の冗談を否定するかと思ったら、ユンホ先輩は「...そうかもね、俺が意識していないだけで」と答えた。

 

「俺ね、トラブルを引き寄せちゃうんだよね」

「分かる気もしますけど」

 

室内は、僕の予想を超えて凄まじかった。

無駄を徹底的に省いたミニマリストな部屋か、真逆のカオスな部屋か、どちらかだと予想していたのだ。

間取りはワンルームで、多分10畳くらい。

「多分」と言ったのは、床が見えなかったからだ。

それはぬいぐるみの大群だった。

床一面を、むぎゅむぎゅと大量のぬいぐるみが埋めていた。

ふわふわの雲の上にいるかのようだった。

 

「...せ、んぱい...」

 

全て白い熊だった。

 

「マヂですか...?」

 

手の平にのるくらいの小さなものから、長身のユンホ先輩ほどある巨大なものもあった。

 

「座れ。

とっとと食べよう」

 

ユンホ先輩は、ぽかんと立ち尽くす僕から買い物袋を引き取った。

 

「でも...」

「座れって」

 

手首を引っ張られ、僕はその場にすとんと腰をおろした。

数匹のぬいぐるみが僕のお尻の下敷きになってしまっている。

ユンホ先輩の「クッション代わりになって座り心地がいいだろ?」の言葉通りだったけれど。

ただし、今の季節にファーの感触は暑苦しかった。

 

「俺の部屋については後で説明してやる。

質問には後で答えるから 今はアイスを食おう」

 

 

アイスクリームは唇に触れた途端、ずるりと棒から溶け落ち、慌てて舌で受け止めた。

指に垂れるクリームは冷たくて、肌に温められてたらたらと手首へとつたっていった。

アイスクリームを食べることに集中した数分間、僕らは無言だった。

ノルマはひとり5本。

クリームを舐める舌の音。

ユンホ先輩の濡れた下唇に、視線は自然と吸い寄せられた。

ユンホ先輩と目が合いそうになる度、僕は慌てて室内を見渡すフリをした。

3回繰り返した。

4回目でユンホ先輩の視線に捕まってしまった。

 

「俺の顔になんか付いてる?」

 

僕の頭はフル回転、苦し紛れに出したこの言葉。

 

「ここに...チョコレートが」

 

と、唇の横をちょんちょんと指さしてみせた。

 

「ここ?」

 

唇の片端を拭うユンホ先輩に、「いえ、そっちじゃなくて...」と逆を指し示した。

 

「ここ?」

 

ユンホ先輩は鼻の頭を指さしたのだ。

 

「...いや、そこじゃなくて...」

「ここ?」

 

今度は耳たぶを指さしている。

 

「...先輩」

 

ユンホ先輩はニタニタ笑っていて、どうやら僕をからかっているらしい。

 

「ここです」

 

とっさに指さしてしまったのは唇の真上だった。

 

「え?」

 

ああ、なんて大胆なことを...恥ずかしい!

 

「えっと...子供みたいにチョコだらけです。

口の周り全部」

 

ユンホ先輩に射竦められて、僕は顔を背けることも目を反らすこともできずフリーズしていた。

 

「チョコだらけ...です」

 

僕らは次のまばたきまでの間、見つめ合った。

ユンホ先輩の黒目は大きくて、どこを見ているのか分かりにくいのだけど、今この時は確かに僕と目が合っている。

心の中は「どうしようどうしよう、この後何を言えばいいんだろう?」とパニックだった。

 

「チャンミンがとってよ」

 

ユンホ先輩はのり出していた身をひくと、巨大ぬいぐるみに埋もれるようにもたれかかった。

ホッとしていたし、ユンホ先輩とどうにかなってしまいそうな期待が破れて残念がってもいた。

 

「はい...」

 

ユンホ先輩の傍まで、四つん這いでぬいぐるみをかき分けていった。

 

「ここです」

 

ユンホ先輩はじっとしていた。

付いてもいないチョコレートを親指で拭った。

冷たくしっとりとした触感。

ふかふかに柔らかな触感。

 

「チョコだらけです」

 

ユンホ先輩の唇に触れた指を、僕は咥えてしゃぶった。

僕の行為に驚いたのか、ユンホ先輩の目が大きく丸くなった。

 

「...あ...!」

 

なんと大胆なことをしてしまったのだろう!

僕の心は再び大パニック状態になった。

ティッシュやハンカチで拭えば済むことなのに!

 

「...チャンミンって」

 

ユンホ先輩はぬいぐるみから身体を起こすと、

 

「面白いやつだなぁ」

 

両頬を押さえて大赤面する僕の肩を、ぐらぐら揺すった。

僕はうつむいていたから、ユンホ先輩の顔色を確かめられなかった。

照れていたらいいな、と思った。

 

 

「身体のこと...どうして今さら教えてくれる気になったんですか?」

 

アイスを食べ終わった僕らは、ぬいぐるみに全身を預けて、並んで横たわっていた。

 

「...そうだなぁ...」

 

ユンホ先輩はそう言いかけたまま、黙ってしまった。

 

「あの...言いたくなければ。

すみません、変なこと聞いてしまって」

 

「いや」

 

ユンホ先輩は僕の方へと、横向きに寝返った。

 

「お前には馬鹿にされたくない、と思ったんだろうな。

誤解され続けたくない、っていうの?」

 

「...馬鹿になんか...してないですよ」

 

僕は半分だけ嘘をついた。

 

「病気...じゃなくて障害については家族と恋人以外には絶対に知られたくなかった。

不真面目で身勝手、変わり者で通していれば、だいたいはなんとかなる。

知らせる必要もない。

でも、『本当の自分』を知って欲しい欲はあるんだ」

 

「先輩は...どこが悪いんですか?」

 

「...俺の存在自体」

 

「...言っている意味が分からないんですけど?」

 

ユンホ先輩はぬいぐるみの海をかき分け、白い紙の袋を持って戻ってきた。

 

「後で薬の名前を検索してみな。

自分の口からは言いづらい」

 

ユンホ先輩の黒目は潤んでいて、どこを見ているのかわからなかった。

 

 

(つづく)