(79)時の糸

 

 

すみずみまで明るく照らされて、全てがあからさまになるよりも、影で隠された箇所を想像力で補うのが夜の愉しみだ。

 

寝室はダウンライトのみで、分かるのは身体のシルエットと凹凸のみだ。

 

チャンミンの部屋がモノトーンでまとめられているのは、気取っているわけではない。

 

頭痛に悩まされるようになってから特に、色彩鮮やかなものは目にうるさいからと、機能性のみを求めた結果だった。

 

互い違いに傾けた頬同士が近づく。

 

二人の唇は既に開いており、重なり合うと同時に舌をからませた。

 

(毎度、チャンミンに押されっぱなしだったからなぁ)

 

ユノはチャンミンの後頭部に手を回して、自分の方へと引き付けていた。

 

(もろベッドの上、となると...緊張してしまう)

 

チャンミンはユノの手首で光るライトに気付いた。

 

「あ」

 

チャンミンはユノのリストバンドを外し、サイドテーブルの引き出しにそっと仕舞った。

 

(俺だったら部屋の向こうに放り投げるんだけどなぁ。

こういう丁寧なところ、好きだよ)

 

チャンミンの両手で包み込まれたユノの白い顔と、薄暗い中でもよくわかる、男性にしては紅い唇。

 

(ユノは男なのに...どうして、こんなに可愛いんだろう!)

 

思い余って、挟んだ頬をぐにぐにと上下に揉んでしまうのだった。

 

「おい!

不細工な顔にすんな!」

 

ユノは負けじとチャンミンの両頬をつまんで、左右に引っ張った。

 

「いででで!

痛いよ!」

 

「あんたは何されてもハンサムさんやね」

 

「そうかなぁ?

ユノだって、顔が整ってるよ。

いつも、綺麗だなぁ、って思ってたんだ」

 

チャンミンの頬から素早く手を離すと、ユノは後ろに飛び退った。

 

室内の色味はオレンジ色の光と黒い影のみで、ぼっと赤くなったユノの頬は悟られずに済んでいた。

 

「は、恥ずかしいこと、よく口にできるな~」

 

「ホントのこと言ってるだけじゃないか」

 

「......」

 

照れ屋だったり大胆だったり、チャンミンの性格のふり幅の大きさに、ユノは未だに慣れない。

 

 


 

 

~ユノ~

 

チャンミンちの浴室は、湯船がなかった。

 

湯船の中でこわばった足首を温め、もみほぐす必要があった。

 

パネルを操作すると、四方からスチームが吹き出し、浴室はサウナ状態になった。

 

義足を外した俺は、滑って転んではいけないと浴室の床に座り込んだ。

 

欠損した上をもみほぐしながら、風呂から出た後のことを想像してみた。

 

ここで俺は迷ってしまうのだ。

 

チャンミンは、どっち側になるのだろう?

 

俺と恋愛することに何の抵抗もなかった様子だったのには、俺も驚いた。

 

欲においては希薄な状態で、人格は真っ新で素直、常識や偏見もなくて...ところが、感情が豊かになるにつれ、欲を覚えるようになった。

 

俺の恋愛対象は男で、こういう質は少数派ではあるが隠すことではない為、職場でオープンにしている。

 

(セクハラ言動のボーダーラインを定める意味でも、明確にしておくのが世の常だ)

 

俺にとっては当然なことでも、チャンミンの履歴書を読む限り、彼はノンケだ。

 

だから、「どっち?」と訊くわけにはいかないのだ。

 

ところが、女性経験については...。

 

「う~ん...」

 

俺は腕を組み、唸っていた。

 

YKという女性の登場は大迷惑だった。

 

よりによって、カイ君の姉だったとは!

 

「...マックスかぁ...」

 

YKを思い出すことはないけれど、チャンミンが恐れていたように、手指の感触が記憶を呼びおこすきっかけになるかもしれない。

 

(まさか!

ありえない!)

 

これまでのチャンミンのキスの仕方を思い起こしてみた。

 

記憶にはなくても、身に染みついた本能のようなものが、あの激しさだとしたら!

 

俺はチャンミンに組み敷かれるのだろうか。

 

俺には経験のない側だった。

 

「......」

 

浴室内はスチームで満たされ、玉のような汗が肌をすべり落ちた。

 

流れに任せよう...これが、俺が出した結論だった。

 

 


 

 

チャンミンは震える指で、ユノのパジャマのボタンを外してゆく。

 

(ま、まるで女の子のようなんですけど?)

 

ユノは天井を仰いで目をつむり、チャンミンにされるがままにいた。

 

パジャマの上が脱がされた時、ごくり、とチャンミンが唾を飲みこむ音がユノの耳にはっきりと聞こえた。

 

チャンミンにとって、ユノの裸体を目にするのは初めてだったのだ。

 

ユノにしてみれ、全裸にならなくても、件の行為の妨げにならなければよいのであって...。

 

丁寧に衣服を脱がし合う行為の経験がほとんどなかった。

 

(チャ、チャンミンは、俺を女の子のように扱っている...!)

 

チャンミンの手によって、パジャマの下もするっと脱がされたことが、恥ずかしくてたまらないユノ。

 

(こんな流れ...初めてなんですけど?)

 

下着1枚になったユノの姿に、チャンミンはハッとすると、自身のTシャツとスウェットパンツを手早く脱いだ。

 

何度か目にしたことのあるチャンミンの裸体であっても、「その後」のことが控えている今、ユノのトキメキは上昇するばかり。

 

二人はもう一度、唇を重ね合わせた。

 

片手は相手のうなじに、互いの舌で口内をいっぱいにさせ、もう片方の指は互いの下着にひっかけられていた。

 

これで、邪魔するものは何もなくなった。

 

マットレスに二人の身体が沈んだ。

 

 

(つづく)

 

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(78)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

「...っつ」

 

こめかみが疼く。

 

「はあ...」

 

ユノに何度、真っ裸を見られたことか...。

 

見せるものは全部見られてしまった、ってことか。

 

キッチンカウンターに常備している、頭痛薬を水なしで飲み込んだ。

 

ユノのために追加の毛布を用意しようと、寝室へと移動した時...。

 

ベッドが目に入った。

 

今朝ベッドメイクしたそこは、真っ白なシーツと布団カバーでしわひとつなく整えられている。

 

ベッドは2人分、ゆうに横たわれるダブルサイズだった。

 

「......」

 

それから、入浴中のユノを意識した。

 

ちょっと待て...ぼんやりしていたけど、つまり、その...。

 

僕が置かれている状況とは、その、つまり、えっと...。

 

つまり、そういうことだ。

 

困ったな。

 

僕が覚えていないだけで多分、最低2人の女性と恋人関係にあったらしい。

 

つまり僕は...全くの未経験ではないらしい。

 

ところが、そういう行為の手順というか、どういう流れですすむのかとか、さらには「そういうこと」をした時の感覚が、僕の頭には残っていないのだ。

 

さらに問題なのは、ユノが男だということ。

 

僕が調べた限りだと、同性同士の恋愛は少数派だそうだ。

 

かつての時代よりずっとスムーズに、結婚やお互いが望めば妊娠出産も叶うのだとか。

 

男性の肉体構造では不可能なことを、どうやって可能に変えてゆくのか、その技術に興味をそそられた。

 

でもその時は、妊娠出産云々以前の交際段階について調べ物をしていたため、後回しにした。

 

恋愛関係が深まっていくと、肉体的な接触を求め合うようになる。

 

...ユノにハグやキスを求める僕は、その通りだと頷いた。

 

より深まっていくと、肉体の内部で繋がりあい、共に快感を分かち合いたくなる。

 

...その通りだ。

 

僕が困ってしまうのはここからだ。

 

ユノが女性ならば、僕の経験の有無は問題にならない。

 

だって本能的に身体が動くものだろうからだ。

 

ユノも僕も男だ。

 

ひとつだけ確実に言い切れるのは、ユノの身体にもっと触れたいし、僕に触れて欲しい。

 

答えが知りたくて、手に入る限りの情報を求めてみたが、どこも似たり寄ったりな事ばかり。

 

僕のあそこが形とサイズを変えて疼くのは、身体が欲しているのだ。

 

ユノは男と恋愛するのは初めてなんだろうか...常に恋愛対象は同性なんだろうか。

 

ベッドに腰掛けて、僕は頭を抱えた。

 

僕はユノに触れたい欲に突き動かされて、これまでに何度かユノを押し倒してしまっていた。

 

自分があそこまで情熱的な男だとは、思いもよらなかった。

 

ユノが好きだという感情が、肉体にまで侵食してきたのだろう。

 

ユノに止められてからようやく、性急さにハッとなっていたのだ。

 

...そうか。

 

僕はよほどユノのことが、好きなんだなぁ。

 

でも、男女と同様の行為をしたければ、ひと手間が必要になる。

 

(...今から間に合うかな...)

 

タブレットに手を伸ばした時...。

 

「チャンミン...?」

 

寝室の戸口に、僕が貸したパジャマを着たユノが立っていた。

 

(よかった、サイズはぴったりだ)

 

僕が悶々と頭を悩ませているうちに、入浴を終えていたんだ。

 

右ひざを曲げているのは、義足を外しているからだ。

 

立ちあがった僕はユノに近づくと、彼を肩の上に担ぎ上げた。

 

「こら!

一人で歩ける!

俺は荷物じゃないんだぞ!」

 

胸の位置で抱きかかえるのは、なんだか気恥ずかしかった。

 

「わっ!」

 

ユノったら半身を起こすものだから、バランスを崩してしまう。

 

そして、ユノをベッドの上に、投げ出すように落としてしまった。

 

僕に背負い投げされたユノは、ごろんと一回転して着地した。

 

「あのなー!

荷物じゃないって言ってるだろうが!?」

 

「ユノが暴れるからだよ」

 

「......」

 

立ったままなのは変だよな、とユノの正面に胡坐をかいて座った。

 

「......」

 

「なあ。

チャンミン、もしかしてめちゃめちゃ緊張してたりする?」

 

覗き込むユノの目が三日月型になってるから、明らかに僕をからかってる。

 

「うるさいなぁ。

そう言うユノこそ、どうなんだよ?」

 

薔薇色の頬と濡れた髪のせいか、幼く優しい面立ちになっていた。

 

純粋に可愛い、と思った。

 

「明るいのは恥ずかしいな。

電気を消してくれない?」

 

寝室の中をキョロキョロ見回すユノの声も、上ずっているからきっと、彼も緊張しているんだ。

 

「う、うん」

 

ベッドサイドのパネルを操作して、互いの輪郭と表情がぎりぎり分かる程度まで照明をしぼった。

 

参ったなぁ...ドキドキする。

 

僕とユノが急接近してから一か月ほど。

 

ユノとこんな風になるなんて、思いもよらなかった。

 

僕の太ももに、ユノの手が乗せられた。

 

ユノの顔がすっと、近づいた。

 

僕と同じ香りがする。

 

 

(つづく)

 

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(77)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

ユノはバスルームで、僕はひとりリビングに残された。

 

シャワーを浴びたばかりなのに脇の下は汗で濡れていて、立てた片膝に額をぎゅっと押し当てた。

 

倒れていたところを、ユノに発見された。

 

なぜ意識を失うことになってしまったのか、僕の身体内でどんな異常が起きたのかは分からないけれど、ずんと脳みそが揺れる感覚に襲われた。

 

 

 

 

ユノが訪ねてくる前に入浴を済ませて、洗面所を出たところだった。

 

照明を消した室内は真っ暗で、リビングの窓から夜景がのぞめる。

 

洗面所の照明を背後に、僕のシルエットがくっきりと窓ガラスに映っていた。

 

オレンジ色の灯りに、黒い僕の影。

 

オレンジと黒のコントラスト。

 

オレンジ色の炎と黒い影。

 

ぽたぽたと湯上りの肌を滴り落ちる水。

 

ちゃぷちゃぷと僕の肩を濡らす液体。

 

熱くて仕方がないのに、僕をびしょ濡れにするそれは冷たくて気持ちよかった。

 

巨大なもので腰を挟まれて身動きがとれない。

 

おかしいな...僕は今、洗面所の入り口に立っていたはずなのに。

 

「チャンミン!」

 

振り絞るような必死の声。

 

僕のこめかみから温かいものが首につたっていて、確かめたわけじゃないがそれが血だと知っていた。

 

伸ばした手の平は、砂利交じりの土か。

 

僕の指に絡まる細い指は、僕を呼ぶ声の主で顔は見えない。

 

高い声は、女の人のものだ。

 

オレンジ色の光がまばゆ過ぎるせいなのか、顔面が黒く塗りつぶされている。

 

肩幅や、首から肩へのシルエットから判断しても、やっぱり女の人だ。

 

「チャンミン!」

 

この人は、何度も僕の名前を呼んでいる。

 

誰だ...この人は?

 

「チャンミン...もうすぐだからね。

もうちょっと、頑張って」

 

「頑張る?」

 

頑張るって、何を?

 

動かせるのは肩から上で、その下は何か巨大なものが僕を押しつぶしていて身動きがとれない。

 

腰から下の感覚がない。

 

「チャンミン!」

 

その人はまた、僕の名前を呼んだ。

 

頭を持ち上げているのが、いよいよ辛くなってきて地面に片頬を落とした。

 

目に入る血が視界を妨げて、拭いたくても出来ず、まばたきを繰り返した。

 

「チャンミン!

こっちを見て!」

 

渾身の力を振り絞って、頭を持ち上げた。

 

彼女は僕の手を握りしめたけど、握り返す力が僕にはもう、ない。

 

指先だけで、彼女の手の平をくすぐるのが精いっぱい。

 

「K」

 

僕は呼んでいた。

 

「目をつむっちゃ駄目。

こっちを見て」

 

「...K」

 

K...?

 

僕の名前を何度も呼んだ。

 

感覚を失いかけた僕の手を、握りしめる彼女の手。

 

Kって...誰だ?

 

この直後だ。

 

もの凄い力で闇へと引きずり下ろされたかのように、感覚が失われた。

 

目覚めたら、ユノの膝の上にいた。

 

頭蓋骨の内側が、ズキズキとえぐるように痛い。

 

僕は立ちあがった。

 

頭は痛いは、不快な夢は見るは、意識を失うは。

 

僕はどんどん記憶を失っていっているらしいから、夢の内容が実は現実のことだったら...どうしよう!

 

なぜなら、夢にしては生々しかった。

 

夢の中で、架空の人の名前をでっちあげるものだろうか?

 

こめかみ上の生え際を指で探ってみたが、傷跡らしいものはない。

 

僕を呼んだあの女の人は、過去に会ったことがある人だったらどうしよう。

 

K...なんて、知らないよ。

 

もっと重要なことに思い至る。

 

何か巨大なものに下敷きになったらしい僕に、叫ぶように名前を呼んでいた彼女...K。

 

ユノと水攻めになって、閉じ込められた時に、うとうとしていた僕は夢をみていた。

 

断片的なものだったけれど、果汁滴る僕の腕をぺろりと舐めていた女の人。

 

彼女と、さっき見た夢の中に登場した「K」と、同一人物だ。

 

僕の腕を舐めていた女の人の顔はぼんやりとしていて、判別できなかったが、Kという女の人だと、なぜか確信していた。

 

「あ...!」

 

もうひとつ発見したことがある。

 

あれはいつのことだっけ、降り積もった落ち葉を誰かと一緒に、踏みしめながら歩いていた。

 

落ち葉を踏む、かさかさいう音がリアルだった。

 

あの夢でも、僕の隣を歩く人物の顔は分からなかった。

 

そうであっても、その人も「K」に間違いないと分かった。

 

この確信は勘違いなんかじゃない。

 

夢に登場した3人の女性は、「K」だ。

 

Kとの関係性は恐らく...いや、確実に、どう考えても、「恋人同士」のような雰囲気だった。

 

単に僕が覚えていないだけのことかもしれない。

 

はっと意識にのぼってきたこの発見に、僕の心は衝撃を受けた。

 

マックスだの、YKだの、Kだの...次々と登場してくる僕の知らない人たち。

 

僕を混乱に陥れる彼らに、腹がたってきた。

 

なぜって、僕は覚えていないから。

 

マックスとYKに関しては、夢にも出てこないし、全く思い出せない2人だ。

 

もっと混乱するのは、マックスと僕が同一人物かもしれないということ。

 

これ以上、考えるのはよそう。

 

頭痛が始まってきたようだから。

 

 

(つづく)

 

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(76)時の糸

 

 

~ユノ~

 

「どうしてそう言い切れるのさ?」

 

チャンミンは眉間にシワを寄せ、疑わしげに訊ねた。

 

「もしクローンだったらさ、チャンミンみたいに性格がひねくれた人間にしないだろ?

口は悪いし、人付き合いも下手だし。

頭痛がするとかさ、ぶっ倒れる時もあるとかさ。

問題ありまくりじゃん」

 

「...ユノ」

 

チャンミンはじとりと俺を睨みつけた。

 

「...それって、悪口だろ?」

 

「嘘うそ!

チャンミンは優しいよ、とっても」

 

「ホントに?」

 

俺の言葉に、たちまち機嫌を直して笑顔になるチャンミンが可愛いと思った。

 

長い脚を窮屈そうに折って、大きな背中を丸めて俺の肩におでこをつけてすがるくせに。

 

よしよし、といった風に頭を撫ぜたら、「子供扱いするな」って俺の手を払いのける。

 

やれやれ、面倒くさい男だ。

 

「あの女の人みたいに、昔の僕を知っている人が次々と現れたらどうしよう。

頭の中がぐちゃぐちゃになる」

 

「あり得るね」と心の中で答える。

 

「もし、僕の家族と会う時があったとしても、僕は分からないんだ」

 

「......」

 

「でもね、僕が怖いのはもっと別なことなんだ」

 

真顔のチャンミンが、俺と真っ直ぐ目を合わせてくる。

 

綺麗な顔をしている、とあらためて見惚れた。

 

「ユノだけだ。

僕の中ではっきりしている存在は、ユノだけなんだよ」

 

「チャンミン...」

 

「もし、今この瞬間も1秒ずつ記憶が消えていってしまっているとしたら、ユノのことも忘れていくってことだろ?

僕の裸を覗き見したユノとか、僕を見舞ってくれたとか、不法侵入の犯罪を犯したとか」

 

「おい!」

 

「閉じ込められたことや...それから、えっと...恥ずかしくて言えないこととかも...」

 

最後の部分は消え入るように言って、チャンミンは俺の手を握る力をこめた。

 

いつもの俺だったら、「恥ずかしくて言えないことって、なあに?」とからかうところだけど、出来るはずがない。

 

チャンミンは真剣だった。

 

チャンミンは俺に伝えたいことがあって一生懸命なんだ。

 

自身の心情を、誰かに告白できるようになったんだから。

 

「忘れないよ、大丈夫。

チャンミンは賢いから、俺とのことはしっかりインプットされたままだ。

おいおい、チャンミ~ン。

泣くなよ。

泣き虫だなぁ」

 

チャンミンの頭をくしゃくしゃと、撫ぜてやる。

 

「うんっ...。

ユノといると僕は感情的になるんだ」

 

潤んだ目を半月型にさせた、笑顔の泣きっ面。

 

乱れて前髪が立ち上がり、濃い眉毛が下がっている。

 

スウェットパンツの裾からのぞく、くるぶしと大きな裸足。

 

「あんたのお世話は俺がしてやるから、心配しなくてよろし。

さささ、酒の続きを飲もうではないか。

今夜はあんたんちに泊まるんだから、夜通し酒盛りができるぞ」

 

ロマンティックな雰囲気になるのがちょっと怖くて、誤魔化すように新しいワインを開封した。

 

「どわっ!?」

 

とび掛かったチャンミンによって、気付けば俺は仰向けに押し倒されていた。

 

手にしていたワインボトルをごとんと倒してしまい、とくとくと床に中身がこぼれていく。

 

待て待て待て待て!

 

いきなり押し倒すのかよ。

 

甘いムードとか、全部すっ飛ばすのかよ?

 

チャンミン、あんたの動きは予測がつかない。

 

顔の両脇に両手をついて、チャンミンは俺を見下ろしていた。

 

ゆ、床ドン...。

 

「...チャンミン」

 

チャンミンの眼がマジだ。

 

男の眼になっている。

 

「床でか!?」

 

心の準備、ってのが必要なんだ。

 

俺の上で四つん這いになったチャンミンの下の方に、そっと視線を移動させた。

 

たるんだスウェット生地で、分からない。

 

こら!

 

何を確認しようとしてるんだ?

 

「んぐっ」

 

チャンミンに唇を塞がれて、予感はしていたけど強引な動きに、一瞬身体が強張った。

 

Sの言葉を思い出した。

 

『真実を知っても揺るがないくらいの関係を、今のうちに築きなさい』みたいな内容だったっけ?

 

腹を決めるしかないな。

 

...とは言え...床の上はなぁ。

 

チャンミンは顔の角度を変えて、俺の唇をこじあけにかかる。

 

「っん...んー」

 

相変わらずキスがうまくて、頭の芯がくらくらする。

 

俺の両頬を挟んだチャンミンの力が強い。

 

「布団の上に移動...しよう」

 

「......」

 

駄目だ、聞こえていない。

 

「で、きれば、風呂に...入ってからにしたい...」

 

「......」

 

「チャン...ミン...!」

 

俺はチャンミンの顎を突っ張った。

 

「タンマだ、タンマ!!」

 

チャンミンは尻もちついて、茫然といった表情だ。

 

「あのなー。

俺にだって理想の流れってのがあるんだ。

ヤリたい盛りかもしれんが、ちょっと我慢しろ」

 

「...ごめん、思わず」

 

濡れた唇を手の甲で拭った。

 

相手が俺じゃなきゃ、ドン引きされるガッつき方だった。

 

「あんたの意気込みは十分伝わってるよ。

いちお、俺にも準備ってのがあるから、風呂に入らせてくれ」

 

「......」

 

浴室にいきかけた俺は、ニヤニヤ顔でくるりと振り向いた。

 

「覗くなよ」

 

「!」

 

「風呂場で『初めて』はなぁ...。

やっぱベッドの上がいいからなぁ」

 

「なっ!?」

 

かーっとチャンミンの顔が真っ赤になった。

 

頭のてっぺんから湯気が出そうなくらいに。

 

「1点確認なんだが、あんたも風呂に入ったほうがいいんじゃないか?

ほら、いろいろとさ?」

 

「え...?

シャワーはもう浴びたけど?」

 

なるほど。

 

チャンミンは知識ゼロかもしれない。

 

「裸になって、ベッドで待ってろよ、な?」

 

「......」

 

 

 

 

洗面所の鍵をかけて、着ているものを脱いだ。

 

「はぁ...」

 

あの様子じゃ...激しいのかな?

 

大丈夫かな、俺。

 

 

(つづく)

 

 

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(75)時の糸

 

 

(痛いだろけど堪忍な)

 

ユノはチャンミンの頬を、ちょっと痛いかな、と心配するくらい強めに張った。

 

「う...ん...」

 

まぶたが震える。

 

(やった...!)

 

「チャンミン!」

 

「ん...」

 

「おネンネする時間はまだ早いぞ!

起きろ!」

 

ぱちり、とまぶたが開く。

 

チャンミンは、まばたきを繰り返す。

 

しばらく視線を彷徨わせていたが、ユノの腕の中の頭を持ち上げると...。

 

「あ...れ?

ユノ?」

 

と、うつろな眼でユノを見上げた。

 

「ど...したの?」

 

「......」

 

天井の照明がまぶしいのか、目を細めた。

 

「まぶし...」

 

「ど...ど...ど...。

『どうした?』じゃねーよ!!」

 

きょとんとしたチャンミンの様子に、パニック状態だったユノの緊張は解け、代わりに怒りが湧いてきた。

 

「馬鹿たれ!!!

どんだけ心配したと思ってんだ!?」

 

「あ...れ?

僕...」

 

チャンミンは半身を起こして、周囲を見渡し、倒れた拍子に打った頭をさする。

 

状況把握に時間がかかっているようだ。

 

「チャンミンの馬鹿やろう!!」

 

「...ユノ?」

 

ユノの顔がくしゃくしゃにゆがみ始めた。

 

「心配したんだよ?

てっきりかくれんぼしてるかと思ってて...。

っく...。

そしたら、床に転がってるじゃん。

つまづいじゃったよ。

...っく。

死んじゃったんかと思ったんだぞ?」

 

「...ユノ」

 

「うわーん」

 

ユノが天井を仰いで泣き出した。

 

「ユノ...」

 

チャンミンは、大泣きするユノをどうすればいいか分からず、数秒ほど見つめていたが、

 

「泣かないで。

ユノ...」

 

チャンミンは腕を伸ばすと、ユノの頭を引き寄せた。

 

「ユノ?」

 

「うわーん」

 

チャンミンの胸を、ユノの涙が濡らす。

 

(こんなシチュエーション、前にもあったな。

僕が風邪をひいて仕事を休んだ日の夜だ。

僕を心配して「不法侵入」してきたユノが、今みたいに泣いていた)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

背中にまわされたユノの腕に力がこもる。

 

(あの時の僕はどうしたらいいか分からなくて、戸惑ってた)

 

手の平の下のユノの頭が小さくて、ショートヘアの黒髪が柔らかくて、チャンミンの心に温かいものが灯る。

 

(ユノが僕を頼ってくれている)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

泣いているせいで、手の平に伝わるユノの体温が高かった。

 

「心配かけて...ごめんな?」

 

「ふう...」

 

ひとしきり泣いたユノは、むくりと顔を起こした。

 

(よかった...泣き止んだ)

 

チャンミンはほっと息を吐く。

 

「...チャンミン」

 

「ん?」

 

「あんたさ...服を着なって」

 

「わあ!!!」

 

「裸になるのは、もうちょっと後にしな」

 

「......」

 

「まずは酒でも飲もうか」

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

「...体調は...もう平気なのか?」とチャンミンは訊ねてきた。

 

「ん?」

 

「ほら、具合が悪そうだったから...事務所で...」

 

俺は口いっぱいに頬張ったスナック菓子をビールで流し込み、「ああ!あれね」と答えた。

 

他人への関心が低い「あの」チャンミンが、人の不調を察するとは成長したものだ、と感心していた。

 

焚火の炎を見てフラッシュバックに襲われた。

 

意識が遠のきぶっ倒れてしまったとは、チャンミンを心配させてしまうから言えない。

 

加えて、「どうして火が怖い?」の質問に答えられないから言えない。

 

俺の右足...くるぶしから下の義足の理由...子供の頃に遭った事故のことについては、先日チャンミンに説明した。

 

具体的な説明は、今のチャンミンには出来ない。

 

今夜、心配していたのは俺の方だった。

 

めらめらと揺れる炎にチャンミンが恐怖するのを想定して、Sに来てもらった。

 

それとなく注意を払っていたのに、呑気に飯を食べる姿に安心した。

 

この男...意外に神経が太い奴なのかもしれない。

 

俺の方がダウンするなんて!

 

「気分が悪かっただけ。

復活したよ。

じゃなきゃ今、バクバク食べてないだろう?」

 

「確かに...。

丸一日餌をもらえていなかった犬みたい」

 

「おい!」

 

ポップコーンをチャンミンに投げつけた。

 

俺を皮肉る言葉がレベルアップしてきてるのが、小憎たらしい。

 

「はははっ。

どう?

もう1本飲む?

取って来るよ」

 

額に当たって落ちたポップコーンを口に放り込むと、チャンミンは立ちあがった。

 

「いや、もういらない。

そんなことより...」

 

俺はチャンミンのスウェットパンツの裾を引っ張り、座るように促した。

 

「あんたの方こそもう大丈夫なわけ?

ぶっ倒れてたじゃん」

 

ごろりと横たわったチャンミンの姿を思い出すと、今でもぞっとする。

 

YKさんの登場やら、その時はなんともなくても炎のショックは大きくて、時間差でガツンときたんだ。

 

負荷がかかり過ぎて、頭のネジが吹っ飛んでしまったのでは?と。

 

「う...ん。

前も話したけど、頭の中がぐらぐらするんだ。

ぐらぐら、というか、ぐちゃぐちゃになるんだ」

 

そうだろうね、と心の中で相槌を打つ。

 

「僕の頭は問題だらけだ。

覚えていない。

まるで僕には過去がなかったみたいに。

忘れていってるんだと思う。

そこに、YKさんとかいう女の人が出てきて...僕のことを知っているって」

 

チャンミンはここで言葉を切った。

 

「ねぇ、ユノ」

 

そして胡坐を崩すと、身を乗り出してきた。

 

「本当に僕は知らないんだ、あんな人。

僕に抱きついてくるし...触って欲しくないのに...!」

 

四つん這いで俺の正面に近づいたチャンミンは、俺の肩に手を置いた。

 

「僕が覚えていないだけで、あの女の人と何かがあったってことだろう?

だって、泣いてた。

僕のことを『マックス』だって言い張っていた。

...僕とそっくりな人、といえば、『双子』しか思いつかない。

でも、僕には『双子』の兄弟っていたっけ?って。

そこで気付いたんだ」

 

チャンミンの苦し気にゆがんだ顔。

 

「ぞっとした。

僕は...僕の家族。

...分からないんだ。

父も母も、妹や兄がいるのかどうかも...思いつかないんだ」

 

苦しむチャンミンを前に、俺の呼吸も苦しくなった。

 

「...そうか」

 

俺はチャンミンのうなじを引き寄せて、小刻みに震える背中をさする。

 

「僕は...誰、なんだ?

忘れているだけなのかな?

...非現実的な考えも思いついた。

ある日突然、ぽんとこの世に送りだされた人間なのかな、って。

ほら、クローン人間ってあるだろ?」

 

むすりと無表情の下で、賢いチャンミンの頭は不安を増幅させ、ありとあらゆる可能性を思考していたのだろう。

 

「...クローン...じゃないよ」

 

苦しむチャンミンの為に、わずかな救いにしかならないだろうけど、真実のひとつだけを差し出してやった。

 

 

(つづく)

 

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