(77)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

ユノはバスルームで、僕はひとりリビングに残された。

 

シャワーを浴びたばかりなのに脇の下は汗で濡れていて、立てた片膝に額をぎゅっと押し当てた。

 

倒れていたところを、ユノに発見された。

 

なぜ意識を失うことになってしまったのか、僕の身体内でどんな異常が起きたのかは分からないけれど、ずんと脳みそが揺れる感覚に襲われた。

 

 

 

 

ユノが訪ねてくる前に入浴を済ませて、洗面所を出たところだった。

 

照明を消した室内は真っ暗で、リビングの窓から夜景がのぞめる。

 

洗面所の照明を背後に、僕のシルエットがくっきりと窓ガラスに映っていた。

 

オレンジ色の灯りに、黒い僕の影。

 

オレンジと黒のコントラスト。

 

オレンジ色の炎と黒い影。

 

ぽたぽたと湯上りの肌を滴り落ちる水。

 

ちゃぷちゃぷと僕の肩を濡らす液体。

 

熱くて仕方がないのに、僕をびしょ濡れにするそれは冷たくて気持ちよかった。

 

巨大なもので腰を挟まれて身動きがとれない。

 

おかしいな...僕は今、洗面所の入り口に立っていたはずなのに。

 

「チャンミン!」

 

振り絞るような必死の声。

 

僕のこめかみから温かいものが首につたっていて、確かめたわけじゃないがそれが血だと知っていた。

 

伸ばした手の平は、砂利交じりの土か。

 

僕の指に絡まる細い指は、僕を呼ぶ声の主で顔は見えない。

 

高い声は、女の人のものだ。

 

オレンジ色の光がまばゆ過ぎるせいなのか、顔面が黒く塗りつぶされている。

 

肩幅や、首から肩へのシルエットから判断しても、やっぱり女の人だ。

 

「チャンミン!」

 

この人は、何度も僕の名前を呼んでいる。

 

誰だ...この人は?

 

「チャンミン...もうすぐだからね。

もうちょっと、頑張って」

 

「頑張る?」

 

頑張るって、何を?

 

動かせるのは肩から上で、その下は何か巨大なものが僕を押しつぶしていて身動きがとれない。

 

腰から下の感覚がない。

 

「チャンミン!」

 

その人はまた、僕の名前を呼んだ。

 

頭を持ち上げているのが、いよいよ辛くなってきて地面に片頬を落とした。

 

目に入る血が視界を妨げて、拭いたくても出来ず、まばたきを繰り返した。

 

「チャンミン!

こっちを見て!」

 

渾身の力を振り絞って、頭を持ち上げた。

 

彼女は僕の手を握りしめたけど、握り返す力が僕にはもう、ない。

 

指先だけで、彼女の手の平をくすぐるのが精いっぱい。

 

「K」

 

僕は呼んでいた。

 

「目をつむっちゃ駄目。

こっちを見て」

 

「...K」

 

K...?

 

僕の名前を何度も呼んだ。

 

感覚を失いかけた僕の手を、握りしめる彼女の手。

 

Kって...誰だ?

 

この直後だ。

 

もの凄い力で闇へと引きずり下ろされたかのように、感覚が失われた。

 

目覚めたら、ユノの膝の上にいた。

 

頭蓋骨の内側が、ズキズキとえぐるように痛い。

 

僕は立ちあがった。

 

頭は痛いは、不快な夢は見るは、意識を失うは。

 

僕はどんどん記憶を失っていっているらしいから、夢の内容が実は現実のことだったら...どうしよう!

 

なぜなら、夢にしては生々しかった。

 

夢の中で、架空の人の名前をでっちあげるものだろうか?

 

こめかみ上の生え際を指で探ってみたが、傷跡らしいものはない。

 

僕を呼んだあの女の人は、過去に会ったことがある人だったらどうしよう。

 

K...なんて、知らないよ。

 

もっと重要なことに思い至る。

 

何か巨大なものに下敷きになったらしい僕に、叫ぶように名前を呼んでいた彼女...K。

 

ユノと水攻めになって、閉じ込められた時に、うとうとしていた僕は夢をみていた。

 

断片的なものだったけれど、果汁滴る僕の腕をぺろりと舐めていた女の人。

 

彼女と、さっき見た夢の中に登場した「K」と、同一人物だ。

 

僕の腕を舐めていた女の人の顔はぼんやりとしていて、判別できなかったが、Kという女の人だと、なぜか確信していた。

 

「あ...!」

 

もうひとつ発見したことがある。

 

あれはいつのことだっけ、降り積もった落ち葉を誰かと一緒に、踏みしめながら歩いていた。

 

落ち葉を踏む、かさかさいう音がリアルだった。

 

あの夢でも、僕の隣を歩く人物の顔は分からなかった。

 

そうであっても、その人も「K」に間違いないと分かった。

 

この確信は勘違いなんかじゃない。

 

夢に登場した3人の女性は、「K」だ。

 

Kとの関係性は恐らく...いや、確実に、どう考えても、「恋人同士」のような雰囲気だった。

 

単に僕が覚えていないだけのことかもしれない。

 

はっと意識にのぼってきたこの発見に、僕の心は衝撃を受けた。

 

マックスだの、YKだの、Kだの...次々と登場してくる僕の知らない人たち。

 

僕を混乱に陥れる彼らに、腹がたってきた。

 

なぜって、僕は覚えていないから。

 

マックスとYKに関しては、夢にも出てこないし、全く思い出せない2人だ。

 

もっと混乱するのは、マックスと僕が同一人物かもしれないということ。

 

これ以上、考えるのはよそう。

 

頭痛が始まってきたようだから。

 

 

(つづく)

 

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(76)時の糸

 

 

~ユノ~

 

「どうしてそう言い切れるのさ?」

 

チャンミンは眉間にシワを寄せ、疑わしげに訊ねた。

 

「もしクローンだったらさ、チャンミンみたいに性格がひねくれた人間にしないだろ?

口は悪いし、人付き合いも下手だし。

頭痛がするとかさ、ぶっ倒れる時もあるとかさ。

問題ありまくりじゃん」

 

「...ユノ」

 

チャンミンはじとりと俺を睨みつけた。

 

「...それって、悪口だろ?」

 

「嘘うそ!

チャンミンは優しいよ、とっても」

 

「ホントに?」

 

俺の言葉に、たちまち機嫌を直して笑顔になるチャンミンが可愛いと思った。

 

長い脚を窮屈そうに折って、大きな背中を丸めて俺の肩におでこをつけてすがるくせに。

 

よしよし、といった風に頭を撫ぜたら、「子供扱いするな」って俺の手を払いのける。

 

やれやれ、面倒くさい男だ。

 

「あの女の人みたいに、昔の僕を知っている人が次々と現れたらどうしよう。

頭の中がぐちゃぐちゃになる」

 

「あり得るね」と心の中で答える。

 

「もし、僕の家族と会う時があったとしても、僕は分からないんだ」

 

「......」

 

「でもね、僕が怖いのはもっと別なことなんだ」

 

真顔のチャンミンが、俺と真っ直ぐ目を合わせてくる。

 

綺麗な顔をしている、とあらためて見惚れた。

 

「ユノだけだ。

僕の中ではっきりしている存在は、ユノだけなんだよ」

 

「チャンミン...」

 

「もし、今この瞬間も1秒ずつ記憶が消えていってしまっているとしたら、ユノのことも忘れていくってことだろ?

僕の裸を覗き見したユノとか、僕を見舞ってくれたとか、不法侵入の犯罪を犯したとか」

 

「おい!」

 

「閉じ込められたことや...それから、えっと...恥ずかしくて言えないこととかも...」

 

最後の部分は消え入るように言って、チャンミンは俺の手を握る力をこめた。

 

いつもの俺だったら、「恥ずかしくて言えないことって、なあに?」とからかうところだけど、出来るはずがない。

 

チャンミンは真剣だった。

 

チャンミンは俺に伝えたいことがあって一生懸命なんだ。

 

自身の心情を、誰かに告白できるようになったんだから。

 

「忘れないよ、大丈夫。

チャンミンは賢いから、俺とのことはしっかりインプットされたままだ。

おいおい、チャンミ~ン。

泣くなよ。

泣き虫だなぁ」

 

チャンミンの頭をくしゃくしゃと、撫ぜてやる。

 

「うんっ...。

ユノといると僕は感情的になるんだ」

 

潤んだ目を半月型にさせた、笑顔の泣きっ面。

 

乱れて前髪が立ち上がり、濃い眉毛が下がっている。

 

スウェットパンツの裾からのぞく、くるぶしと大きな裸足。

 

「あんたのお世話は俺がしてやるから、心配しなくてよろし。

さささ、酒の続きを飲もうではないか。

今夜はあんたんちに泊まるんだから、夜通し酒盛りができるぞ」

 

ロマンティックな雰囲気になるのがちょっと怖くて、誤魔化すように新しいワインを開封した。

 

「どわっ!?」

 

とび掛かったチャンミンによって、気付けば俺は仰向けに押し倒されていた。

 

手にしていたワインボトルをごとんと倒してしまい、とくとくと床に中身がこぼれていく。

 

待て待て待て待て!

 

いきなり押し倒すのかよ。

 

甘いムードとか、全部すっ飛ばすのかよ?

 

チャンミン、あんたの動きは予測がつかない。

 

顔の両脇に両手をついて、チャンミンは俺を見下ろしていた。

 

ゆ、床ドン...。

 

「...チャンミン」

 

チャンミンの眼がマジだ。

 

男の眼になっている。

 

「床でか!?」

 

心の準備、ってのが必要なんだ。

 

俺の上で四つん這いになったチャンミンの下の方に、そっと視線を移動させた。

 

たるんだスウェット生地で、分からない。

 

こら!

 

何を確認しようとしてるんだ?

 

「んぐっ」

 

チャンミンに唇を塞がれて、予感はしていたけど強引な動きに、一瞬身体が強張った。

 

Sの言葉を思い出した。

 

『真実を知っても揺るがないくらいの関係を、今のうちに築きなさい』みたいな内容だったっけ?

 

腹を決めるしかないな。

 

...とは言え...床の上はなぁ。

 

チャンミンは顔の角度を変えて、俺の唇をこじあけにかかる。

 

「っん...んー」

 

相変わらずキスがうまくて、頭の芯がくらくらする。

 

俺の両頬を挟んだチャンミンの力が強い。

 

「布団の上に移動...しよう」

 

「......」

 

駄目だ、聞こえていない。

 

「で、きれば、風呂に...入ってからにしたい...」

 

「......」

 

「チャン...ミン...!」

 

俺はチャンミンの顎を突っ張った。

 

「タンマだ、タンマ!!」

 

チャンミンは尻もちついて、茫然といった表情だ。

 

「あのなー。

俺にだって理想の流れってのがあるんだ。

ヤリたい盛りかもしれんが、ちょっと我慢しろ」

 

「...ごめん、思わず」

 

濡れた唇を手の甲で拭った。

 

相手が俺じゃなきゃ、ドン引きされるガッつき方だった。

 

「あんたの意気込みは十分伝わってるよ。

いちお、俺にも準備ってのがあるから、風呂に入らせてくれ」

 

「......」

 

浴室にいきかけた俺は、ニヤニヤ顔でくるりと振り向いた。

 

「覗くなよ」

 

「!」

 

「風呂場で『初めて』はなぁ...。

やっぱベッドの上がいいからなぁ」

 

「なっ!?」

 

かーっとチャンミンの顔が真っ赤になった。

 

頭のてっぺんから湯気が出そうなくらいに。

 

「1点確認なんだが、あんたも風呂に入ったほうがいいんじゃないか?

ほら、いろいろとさ?」

 

「え...?

シャワーはもう浴びたけど?」

 

なるほど。

 

チャンミンは知識ゼロかもしれない。

 

「裸になって、ベッドで待ってろよ、な?」

 

「......」

 

 

 

 

洗面所の鍵をかけて、着ているものを脱いだ。

 

「はぁ...」

 

あの様子じゃ...激しいのかな?

 

大丈夫かな、俺。

 

 

(つづく)

 

 

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(75)時の糸

 

 

(痛いだろけど堪忍な)

 

ユノはチャンミンの頬を、ちょっと痛いかな、と心配するくらい強めに張った。

 

「う...ん...」

 

まぶたが震える。

 

(やった...!)

 

「チャンミン!」

 

「ん...」

 

「おネンネする時間はまだ早いぞ!

起きろ!」

 

ぱちり、とまぶたが開く。

 

チャンミンは、まばたきを繰り返す。

 

しばらく視線を彷徨わせていたが、ユノの腕の中の頭を持ち上げると...。

 

「あ...れ?

ユノ?」

 

と、うつろな眼でユノを見上げた。

 

「ど...したの?」

 

「......」

 

天井の照明がまぶしいのか、目を細めた。

 

「まぶし...」

 

「ど...ど...ど...。

『どうした?』じゃねーよ!!」

 

きょとんとしたチャンミンの様子に、パニック状態だったユノの緊張は解け、代わりに怒りが湧いてきた。

 

「馬鹿たれ!!!

どんだけ心配したと思ってんだ!?」

 

「あ...れ?

僕...」

 

チャンミンは半身を起こして、周囲を見渡し、倒れた拍子に打った頭をさする。

 

状況把握に時間がかかっているようだ。

 

「チャンミンの馬鹿やろう!!」

 

「...ユノ?」

 

ユノの顔がくしゃくしゃにゆがみ始めた。

 

「心配したんだよ?

てっきりかくれんぼしてるかと思ってて...。

っく...。

そしたら、床に転がってるじゃん。

つまづいじゃったよ。

...っく。

死んじゃったんかと思ったんだぞ?」

 

「...ユノ」

 

「うわーん」

 

ユノが天井を仰いで泣き出した。

 

「ユノ...」

 

チャンミンは、大泣きするユノをどうすればいいか分からず、数秒ほど見つめていたが、

 

「泣かないで。

ユノ...」

 

チャンミンは腕を伸ばすと、ユノの頭を引き寄せた。

 

「ユノ?」

 

「うわーん」

 

チャンミンの胸を、ユノの涙が濡らす。

 

(こんなシチュエーション、前にもあったな。

僕が風邪をひいて仕事を休んだ日の夜だ。

僕を心配して「不法侵入」してきたユノが、今みたいに泣いていた)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

背中にまわされたユノの腕に力がこもる。

 

(あの時の僕はどうしたらいいか分からなくて、戸惑ってた)

 

手の平の下のユノの頭が小さくて、ショートヘアの黒髪が柔らかくて、チャンミンの心に温かいものが灯る。

 

(ユノが僕を頼ってくれている)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

泣いているせいで、手の平に伝わるユノの体温が高かった。

 

「心配かけて...ごめんな?」

 

「ふう...」

 

ひとしきり泣いたユノは、むくりと顔を起こした。

 

(よかった...泣き止んだ)

 

チャンミンはほっと息を吐く。

 

「...チャンミン」

 

「ん?」

 

「あんたさ...服を着なって」

 

「わあ!!!」

 

「裸になるのは、もうちょっと後にしな」

 

「......」

 

「まずは酒でも飲もうか」

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

「...体調は...もう平気なのか?」とチャンミンは訊ねてきた。

 

「ん?」

 

「ほら、具合が悪そうだったから...事務所で...」

 

俺は口いっぱいに頬張ったスナック菓子をビールで流し込み、「ああ!あれね」と答えた。

 

他人への関心が低い「あの」チャンミンが、人の不調を察するとは成長したものだ、と感心していた。

 

焚火の炎を見てフラッシュバックに襲われた。

 

意識が遠のきぶっ倒れてしまったとは、チャンミンを心配させてしまうから言えない。

 

加えて、「どうして火が怖い?」の質問に答えられないから言えない。

 

俺の右足...くるぶしから下の義足の理由...子供の頃に遭った事故のことについては、先日チャンミンに説明した。

 

具体的な説明は、今のチャンミンには出来ない。

 

今夜、心配していたのは俺の方だった。

 

めらめらと揺れる炎にチャンミンが恐怖するのを想定して、Sに来てもらった。

 

それとなく注意を払っていたのに、呑気に飯を食べる姿に安心した。

 

この男...意外に神経が太い奴なのかもしれない。

 

俺の方がダウンするなんて!

 

「気分が悪かっただけ。

復活したよ。

じゃなきゃ今、バクバク食べてないだろう?」

 

「確かに...。

丸一日餌をもらえていなかった犬みたい」

 

「おい!」

 

ポップコーンをチャンミンに投げつけた。

 

俺を皮肉る言葉がレベルアップしてきてるのが、小憎たらしい。

 

「はははっ。

どう?

もう1本飲む?

取って来るよ」

 

額に当たって落ちたポップコーンを口に放り込むと、チャンミンは立ちあがった。

 

「いや、もういらない。

そんなことより...」

 

俺はチャンミンのスウェットパンツの裾を引っ張り、座るように促した。

 

「あんたの方こそもう大丈夫なわけ?

ぶっ倒れてたじゃん」

 

ごろりと横たわったチャンミンの姿を思い出すと、今でもぞっとする。

 

YKさんの登場やら、その時はなんともなくても炎のショックは大きくて、時間差でガツンときたんだ。

 

負荷がかかり過ぎて、頭のネジが吹っ飛んでしまったのでは?と。

 

「う...ん。

前も話したけど、頭の中がぐらぐらするんだ。

ぐらぐら、というか、ぐちゃぐちゃになるんだ」

 

そうだろうね、と心の中で相槌を打つ。

 

「僕の頭は問題だらけだ。

覚えていない。

まるで僕には過去がなかったみたいに。

忘れていってるんだと思う。

そこに、YKさんとかいう女の人が出てきて...僕のことを知っているって」

 

チャンミンはここで言葉を切った。

 

「ねぇ、ユノ」

 

そして胡坐を崩すと、身を乗り出してきた。

 

「本当に僕は知らないんだ、あんな人。

僕に抱きついてくるし...触って欲しくないのに...!」

 

四つん這いで俺の正面に近づいたチャンミンは、俺の肩に手を置いた。

 

「僕が覚えていないだけで、あの女の人と何かがあったってことだろう?

だって、泣いてた。

僕のことを『マックス』だって言い張っていた。

...僕とそっくりな人、といえば、『双子』しか思いつかない。

でも、僕には『双子』の兄弟っていたっけ?って。

そこで気付いたんだ」

 

チャンミンの苦し気にゆがんだ顔。

 

「ぞっとした。

僕は...僕の家族。

...分からないんだ。

父も母も、妹や兄がいるのかどうかも...思いつかないんだ」

 

苦しむチャンミンを前に、俺の呼吸も苦しくなった。

 

「...そうか」

 

俺はチャンミンのうなじを引き寄せて、小刻みに震える背中をさする。

 

「僕は...誰、なんだ?

忘れているだけなのかな?

...非現実的な考えも思いついた。

ある日突然、ぽんとこの世に送りだされた人間なのかな、って。

ほら、クローン人間ってあるだろ?」

 

むすりと無表情の下で、賢いチャンミンの頭は不安を増幅させ、ありとあらゆる可能性を思考していたのだろう。

 

「...クローン...じゃないよ」

 

苦しむチャンミンの為に、わずかな救いにしかならないだろうけど、真実のひとつだけを差し出してやった。

 

 

(つづく)

 

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(74)時の糸

 

 

「どうしよう!

『マックス』を知ってる人が登場しちゃったよ」

 

「落ち着いて、ユノ。

ここなら彼を知る者なんていないって、判断したのはセンターでしょ。

ユノの責任じゃないんだよ?」

 

Sはテーブルに伏せたユノの肩を叩いた。

 

「センターに報告しましょ。

そして、対策を練りましょ?」

 

「チャンミンをどこか遠くへやろう。

混乱してるみたいだし」

 

「慌てないで。

今の段階なら、人格がバラバラになってしまうようなことにはならないから」

 

「でもさ、段階的に早いじゃん。

雰囲気的に『マックス』と恋愛関係にあった風だったんだよ」

 

「ユノが心配してるのは、そのYKとか言う人とチャンミンがどうかなるかもしれないことじゃないの」

 

「......」

 

図星だったユノは黙り込む。

 

「ユノ。

チャンミンがYKを思い出すことなんて、100%あり得ないんだから」

 

「でもさ、記憶ってのは染みついてるものでしょ?

何かの拍子にさ、YKさんの側にいるうちに、匂いとかさ。

ぽろっと思い出すかもしれないじゃない?」

 

「うーん...あり得なくはないけど。

万が一、思い出したとしても、今のチャンミンは今のチャンミンなんだから。

『今が』確かなのよ。

かつてのチャンミンの『時』は、チャンミンには存在しないのよ」

 

「Sの旦那さんはどんな感じ?」

 

「そうねぇ...。

夫のMは、私と積み上げてきた『時』だけが、確かなもののようよ。

とは言っても、Mは事情を全部知ってるっていうのもあるけど」

 

「でしょ?

...チャンミンに打ち明けた方がいいのかなぁ」

 

「駄目!

ユノの判断で動いちゃ駄目。

指示を待ちましょう、ね?」

 

「う...」

 

「『マックス』だとか、元彼女にオロオロしてる前に、チャンミンとの確固たる関係を結びなさいよ。

...だって、好きなんでしょ?」

 

「うん...」

 

「元彼女の登場とか、真相を知った瞬間とか、そういうものに直面しても揺らがない関係を作りなさいよ」

 

「俺の任務が終わったら...俺、どっかに飛ばされるのかなぁ?」

 

「遠距離になるわね。

そうならないかもしれないし」

 

「でもさ、また新しい人の側に張り付くことになるんだよ。

チャンミン...絶対に嫌がるよ」

 

「尚更、今のうちに関係を深めなさいよ。

あなたを見るチャンミンの顔ときたら...。

気付いてなかったでしょ?

熱々の目をしてたのよ」

 

「ホントに?」と、ユノはここでようやく顔を上げた。

 

「本当よ。

今のチャンミンは、あなたが頼りなんだから、ね?」

 

 


 

 

「出ない...」

 

チャンミン宅のチャイムを鳴らしても、応答がない。

 

電話をかけても出ない。

 

(ったく、いつもいつもチャンミンは!

どうせ風呂にでも入ってるんだろう。

タイミングの悪い男だなぁ。

...今夜も裸を拝ませてもらうかな)

 

ニヤリとしたユノは、

 

「仕方がないなぁ...。

こいつの出番だ」

 

トートバッグから手の平サイズの端末を取り出す。

 

得意の小細工プログラムで、生体認識キーを軽く突破した。

 

「おーい、チャンミン!

来たぞ!」

 

部屋の中は暗く、洗面所から漏れる灯りだけだった。

 

(やっぱり、風呂か)

 

チャンミンを驚かそうと、洗面所まで抜き足差し足で近づいた。

 

ひょいっと頭だけを突っ込んで、大きな声を出そうとしたところ...。

 

「あり?」

 

真っ白で清潔な洗面所は、無人だった。

 

ただ、シャワーを使ったばかりで湯気が立ち込めている。

 

(...ってことは。

チャンミンのやつ...)

 

くっくっくと笑いが込みあげてきた。

 

(俺を驚かそうと、どっかに隠れているんだな。

可愛らしいことをしおって。

チャンミンのくせに100年早いのだ)

 

自分の姿が見られないよう洗面所の照明を落とす。

 

チャンミンの部屋の家具の配置は、だいたい頭に入っている。

 

(ダイニングテーブルはこの辺り...ソファをこう避けて...)

 

チャンミンが隠れているのは寝室だな、と当たりをつけて足音をたてずに...。

 

「どあっ!!!」

 

ユノは大きくつんのめる。

 

正面からどすんと、床にたたきつけられる、と覚悟したら、柔らかいものの上に着地した。

 

踏み出したつま先に何かを引っかけてしまったのだ。

 

「!!」

 

身体の下のぐにゃりとしたもの...まさぐると...。

 

「チャンミン!?」

 

ユノは、床に横たわっていたチャンミンにつまずいたのだった。

 

(どうしよどうしよ!)

 

即行飛び起きて、壁の照明スイッチを点ける。

 

チリひとつない白い床に、チャンミンがくの字になって横たわっていた。

 

「チャンミン!」

 

チャンミンを膝の上に抱き起こす。

 

固くまぶたを落としたチャンミンの頬を、叩く。

 

「こら!

起きろ!」

 

肩をぐらぐらと揺すった。

 

「起きろ!!」

 

シャワーを浴びたばかりなのか、濡れた髪から雫がしたたり落ちていた。

 

「チャンミン!」

 

(やっぱりYKさんの登場はショックが強かったか!?)

 

 

(つづく)

 

 

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(73)時の糸

 

 

~YK~

 

マックスは画家だった。

 

ベッドに横たわった私を...透けた薄布のドレスをまとった私を、全裸になった私を...モデルに精力的に描いた。

 

デジタル画が当たり前の世の中で肉筆の絵画は珍しい。

 

マックスは余裕ある生活を送っていたから、おそらく「売れて」いたのだろう。

 

裕福な生まれだとも聞いていたから、労働の必要のない身分でもあった。

 

ただ、家族の話になると、途端にマックスの口調は重くなる。

 

研究所の所長だという変わり者の父親と、神経質で心配性な母親、兄はいたが亡くなって今はいない、と話していた。

 

「俺の身の上話はもういいよ。

それよりも、YKの話を聞かせて」

 

キャンバスに向かうマックスに、私はこれまでの旅暮らしの苦労話や、年の離れた弟カイの面白エピソードを語った。

 

マックスから指輪を贈られたあの頃、彼は大作に取り組んでいた。

 

2メートルくらいはあっただろうか。

 

後ろ立ちした白いユニコーンにまたがった女神の...女神は私だ...絵を描いていた。

 

ブラインドから差し込む熱帯の光が、シーツの上に縞模様を作り、私の薬指を飾るその石がちかちかと輝いていて。

 

幸福に満ちた日々だった。

 

短く刈った髪、白いタンクトップ、絵の具で汚れた指...時おり振り返って見せる笑顔。

 

私はマックスを心底愛していた。

 

最後にキャンバスの右下に『Changmin』とサインをして、作品は完成を迎える。

 

マックスは雅号として、『チャンミン』を名乗っていた。

 

「どうして『チャンミン』なの?」

 

と尋ねたら、「響きがいいだろ?」と答えたから、「ふうん」と言ってそれ以上追求しなかった。

 

常に真夏の国で、マックスがいなくなってしまったあの日の季節は分からない。

 

その日、完成したばかりの作品の搬送の打ち合わせに行くと言って、朝早くでかけたマックス。

 

ユニコーンの作品を故郷の父親の元に送るとか言っていた。

 

「なんだかんだ言って、家族想いなのね」と言って、マックスを見送った。

 

そして、そのまま帰らなかった。

 

待てど暮らせど帰ってこなかった。

 

始終、過激な小競り合いのある地域だったから、何かの抗争に巻き込まれたのか。

 

その日も大規模なビルの爆破事件があって死者が出たと聞きつければ、止めにかかる声を無視して瓦礫の山を探し回った。

 

マックスは見つからない。

 

私を捨てて、この地を去ってしまったのだと結論づけ、絶望した。

 

廃人のようになってしまった私は、故郷から弟カイを呼び寄せた。

 

カイはまだ19歳なのに冷静で、私とマックスとの思い出の品を容赦なく、淡々と処分してくれた。

 

唯一捨てられなかったもの...マックスから贈られた指輪だけが、今も私の手元にある。

 

 

 

あれから5年。

 

その間、別の恋を1つ経験し破綻した私は、疲労だけを引きずり、不思議なことに寂しさを感じないことに驚いた。

 

息がとまるほど打ちのめされた、マックスとの失恋のインパクトが強すぎたせいだ。

 

マックスと過ごした日々はわずか1年ほどだったけれど、マックスという泥沼に深く沈みこんでしまった私は、未だに抜け出せずにいるんだ。

 

カイに招待されていった『落ち葉焚き』だとかいうパーティ。

 

カイの部屋で怠惰な生活を送っていて、うっかり寝坊してしまって、慌てて駆けつけた。

 

カイの職場である建物はとても古びていて、手動のエントランスドアが珍しかった。

 

建物の中に入ったことで寒さでこわばっていた身体が、ホッと緩んだのもつかぬ間...。

 

息が止まるかと思った。

 

背が高くて、痩せていて...。

 

頭の形、肩のライン...全部、記憶にある通り。

 

驚いた時の丸い目や、不貞腐れたような唇の形も、記憶にある通り。

 

短かった髪が伸びて、狭い額を覆っていた。

 

別れた時よりも5年の時を重ねた顔...頬と顎が引き締まっていた。

 

「...マックス...!」

 

ところが彼はきょとん、とした顔をしていて、私を前にしてもこれっぽちも、目の色を変えなかった。

 

「マックス」と呼んでも、全くの無表情だった。

 

たまらなくって、身を投げ出すように「マックス」に抱きついた。

 

でも、背中に腕はまわされない。

 

私が一方的に、「マックス」を抱きしめるだけで、悲しかった。

 

彼は「違います」を繰り返していた。

 

当時の鋭い眼光は消えていて、大人しく穏やかな目をしていた。

 

忘れたふりをしているのか、本当に忘れてしまったのか。

 

どちらかというと、後者の方だと思った。

 

ニットの胸から香る匂いも同じなのに。

 

私を拒絶する言葉と当惑した顔がショックだった。

 

悲しかった。

 

南国まで駆けつけたカイに、マックスの写真を見せていればよかった。

 

私の記憶が確かなものだと、証人になってくれたのに。

 

カイに写真を見せなかったのは、「へぇ、かっこいい人だね。モテるだろうなぁ」って褒めるに違いなかったから。

 

褒めるんじゃなくて、「酷い男だね。不細工だし。こんな男別れて正解」って、同調して欲しかったから。

 

彼は『マックス』で間違いない。

 

だって、彼の名前が『チャンミン』だったから。

 

 

(つづく)

 

 

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