(49)時の糸

 

 

(まずい...)

チャンミンは、自分の両足が挟んでいるものを意識しだした。

途端に、胸の鼓動が早くなる。

喉がごくりと鳴ってしまう。

(まずい...。

この状況はあまりにも...。

まずい!)

デニムの厚い生地を通して、ユノの身体の熱が伝わってくるだけじゃない。

(自分が抱えている、ほどよい弾力ある固い身体!

これが、大問題なんだ!

何か違うことを考えるんだ!

えーっと、よし!

明日の段取りを考えよう!

​報告をして、屋上に上がって被害調査と原因追及、恐らくバルブの故障だろうから、工事が必要になる、修理・交換となれば当分雨水に頼れないだろうから、潅水が不足して...。

ダメだ!

明日の心配より、今の心配だろ!

​ドア下まで水がひいたら、僕がまず先に降りて、それからユノを下ろして、ここの後片付けは明日考えよう。

課長に連絡を入れて...その前に、僕らはびしょ濡れだから、家まで歩くのは無理があるな...。

寒いよな、コートを羽織ればなんとかなるか...。

ドームを出て、家に帰って...ユノはどうする?

家まで送っていった方がいいよな。

...ユノの家ってどこだろう?

...ユノは一人暮らしだろうか?

送っていったら建物の前で別れるのか?

部屋の前まで送っていった方がいいのか?

で、「お疲れ様」って言って別れて...。

その前に「お風呂でちゃんと温まりなよ、って言ってあげよう。

...家に帰ったら「大丈夫?」って電話をかけて。

...明日の朝は、体調は大丈夫か電話をかけて...。

ダメだ!

ユノのことを考えてたらダメだろう!)

「どうしたチャンミン?」

チャンミンの固く握ったこぶしに気づいたユノが、振り返る。

「べ、別に」

「まだ水はひかんのかなぁ」

「あと30分かそこらだと思うよ」

「そんなにかかるのぉ?

俺の身体がもたない、寒い、怖い!」

「駄々をこねるなよ。

​あともう少しだから」

 

ユノは深呼吸をし、ぎゅっと目をつむる。

(楽しいことを考えていよう。

ここから出られたら、何を食べようっかなぁ。

熱々のラーメンがいいなぁ。

いやいや、その前に風呂に入りたい。

お湯に身体を沈めたら...いいねぇ...。

明日の仕事は休んでやる!

一日、家でゴロゴロしてやる!

......ん?

​​

......んん!?)

ユノの思考が止まる。

「......」

(これは...。

...これは...。

これは...!

間違いない!

どうしよう...気付いてしまった!

黙っているべきか。

気付かないふりをしたら、かえって恥ずかしいよなぁ...)

「...チャンミン」

「ん?」

「俺がこれから言うこと...気にし過ぎるなよ」

「どうした?」

(言い方に気を付けないとチャンミンのことだ、しつこく悩むに違いない)

「俺は気にしてないからな!」

「?」

(しまった!

全然気づいていなかったか!

そっとしておこう)

「何でもない」

「え?」

「俺の気のせいだった」

「言いかけて止めるなんて、気になるじゃないか」

「でもなぁ...」

(弱ったなぁ。

言いだしにくくなった)

「いつもユノはズケズケ言うくせに」

「ええっと」

「早く言えって」

「言っちゃうよ、いいか?」

「いいよ」

「あたってる」

「あたってる?」

「そう」

「何が?」

「だからさ、あんたの」

「......」

「あたってる」

「わっ!」

ユノが何を指摘しているのかを、理解したチャンミン。

パッとユノに回していた腕を離し、後ろに飛びのこうとしたが、それが難しい時と場所だった。

「こらっ!」

すぐさまユノの手がチャンミンの手首をとらえて、強引にウエストに回される。

「落ちるとこだったじゃないか!

あれほど突き落とすなって、言ってたのに!」

「ゴメン」

「なあ、チャンミン」

「なんだよ......」

「ユノさんは、非常に嬉しいぞ」

「?」

「あんたがれっきとした男だってことが分かって」

「......」

腕を抜こうとするチャンミンの手を、ユノは押さえ込む。

「だーかーらー!

手を離すなったら!

恥ずかしがるのは後にしろ!」

「後にしろって言われても...」

「生理現象なんだから、気にするな」

(生理現象だから、余計に恥ずかしいんだって)

「はあ」

チャンミンはがくりと首を落とす。

ユノから離れるわけにもいかず、自分の意志でどうにでもできない。

(辛い...。

恥ずかしいなんてレベルじゃないよ。

ユノの顔を見られない)

「ユノ...僕は下にいるよ」

腰を上げようとするチャンミンの膝を、ユノは強く押えた。

「だから、気にするなって」

「くっついていたら、おとなしくなってくれない」

「今さら何照れてるんだよ!

あんたのはとっくの前に見せてもらったこと、忘れたのか?」

「だから、あの時の話はするなって!」

「あはははは」

(からかうと面白い奴だなぁ)

ひとしきり笑ったおかげか、ユノの中から高所の恐怖心が薄らいでいた。

「ユノ!

お願いだから動かないでくれる?」

「刺激しちゃうから?」

「本当に突き落とすよ」

「わかった。

大人しくしているよ」

お尻がしびれてきたユノは、もぞもぞと動かす。

「ユノ!

動くなったら!」

「チャンミンが暴れん坊すぎるんだって」

「暴れん坊って...ユノ...もう」

(ごめん、チャンミン。

あんたをからかうのは、本当に楽しいよ)

 

 

(つづく)

 

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(48)時の糸

 

 

~カイ~

 

 

「カイ君、ちょっといいかな?」

 

翌日、ユノさんに声をかけられた。

 

「どうしたんですか?

二日酔いしてないんですね。

ほんとにお酒が強いんですね」

 

「ハートが弱ってたせいだ...あれは、うん。

あれだけの量で酔っぱらうなんて、面目が立たないよ」

 

そこで、ユノさんは言葉を切った。

 

「あのさ。

カイ君、ありがとな」

 

ユノさんの言葉が嬉しかった。

 

「また飲みに行きましょうよ。

次は、僕の話を聞いてくださいよ」

 

「あはは、そうするね。

しっかし、カイ君。

あんた、モテるでしょ?」

 

「どうかなぁ」

 

「とぼけるなとぼけるな」

 

...と、以上がユノさんとの距離がぐんと近づいた出来事だ。

 

ユノさんは、1年くらい前にどこかの施設からここに出向してきた。

 

Tさんと組んで資料保管やデータ管理を行う部署に配属された。

 

作業着に着替えてドームへ出て、僕を手伝ってくれることもある。

 

グレーのつなぎと長靴姿が、まるで少年みたいだ。

 

この職場では僕が一番年少だったこともあって、周囲に頼りやすい立場だ。

 

面倒見のいいユノさんに、いかにも年下面して絡んだりして。

 

人それぞれキャラクターの役割があるから、「新人君」のふるまいは、職場の空気を和ませるんじゃないかと、僕は考えている。

 

ユノさん相手に、その立場を発揮させてもらった。

 

僕はとりたて、年上好きじゃない。

 

でも、ユノさんは面白いひとだなぁ、って、興味を持っていた。

 

方言交じりの話ことばや、いつも黒づくめで、自分のルックスがどれだけ抜きんでているか、ホントに気付いていないみたい。

 

Tさんにフラれたのに、ユノさんの仕事ぶりはいつも通りで、Tさんとのコミュニケーションもうまくやっているみたいだ。

 

そんな姿も、いいなぁって思った。

 

他のスタッフたちにはバレないよう、僕はさりげなくユノさんを見ている。

 

ぐいぐいとアピールしたら、きっとユノさんは困ってしまうだろうから。

 

そういえば、チャンミンさんも同時期にここに入職してきた。

 

ぼーっとしていて無表情な人で、他のスタッフたちと交わることもなく、いつも独りでいた。

 

そんなチャンミンさんの態度に構わず、僕は話しかけてるんだけどさ。

 

無口なチャンミンさんだけど、尋ねたことには答えてくれるし、勉強家で賢い人だと思う。

 

最近のチャンミンさんは、いつもと違う感じになってきた。

 

言葉数が多くなってきたし、笑顔を見せるようになった。

 

ぼんやりしているのは変わらないけど、以前は無心のぼんやりだったのが、最近のぼんやりは、明らかに考え事をしているみたいだ。

 

今日のチャンミンさんの目付きで、僕は気づいてしまった。

 

僕とユノさんが油を売ってたところに出くわした時の、チャンミンさんときたら。

 

これまでチャンミンさんには、職場で特に親しい人はいなかったはず。

 

だから、腹をたてる対象もいなかったはず。

 

それなのに、ユノさん相手に苛立った態度を見せたり、無視したりしてさ。

 

チャンミンさんの僕を見る目には、怒りがこもってた。

 

チャンミンさんに何か失礼なことしちゃったかな、ってふり返ってみたけど何もない。

 

先週、「恋わずらいですか?」ときいた時の、チャンミンさんの表情と、今日のエピソードをリンクさせてみて、僕は結論を出しましたよ。

 

チャンミンさんったら、分かりやすいです。

 

もしかして、僕が原因?

 

チャンミンさん、ユノさんのことが好きですね。

 

 

 

 

料理をする間外していたリストバンドを、エプロンのポケットから出した。

 

(ユノさんに電話をしてみよう)

 

時刻はまだ21時。

 

夕飯も済んだ頃で寝るには未だ早い、大丈夫だ。

 

ナンバーは登録してある。

 

発信音を7回聞いたところで、呼び出しを終了させた。

 

これ以上は、しつこい。

 

サラダを食べ終わった姉ちゃんは、ソファに寝そべってタブレットを見ていた。

 

ソファの側にも、箱が詰まれている。

 

「姉ちゃん、週末手伝ってやるからさ、共用スペースのものは一掃しちゃってよ」

 

「わかったわよ」

 

散らかったものは全部、姉ちゃんの部屋に押し込んでしまおう。

 

結局、姉ちゃんの世話をすることになるんだよね、僕は。

 

 

 


 

 

~ユノとチャンミン~

 

 

「狭い。

チャンミン、もうちょっと奥に詰められないわけ?」

「これが限界だよ。

ユノのお尻が大きいんだって」

「おい!」

ユノは肘でチャンミンの腹をつく。

「座るとユノって僕より背が高いね」

「おい!

胴が長いってか?」

ユノはもっと強く肘で突いた。

「あんた、失礼なことをちょいちょい挟んでくるよなぁ?」

「冗談に決まってるじゃないか!」

「だからこそタチが悪いんだよ!

冗談言わんかった奴の気まぐれ冗談は、本音に聞こえるんだよ!」

「ごめん」

体温を奪っていくだけの水から上がったおかげで、ずいぶんマシにはなったが、濡れた衣服と気温の低さのせいで、身体が凍えそうなのは変わらない。

ユノはつとめて天井に視線を向けている。

(下を向いたらいかん!)

ユノにしてみれば、数十メートル上の断崖にいる気分だった。

タンクの縁をつかむ手は、力を込めすぎて真っ白になっている。

チャンミン相手に文句を垂れて、恐怖心を紛らわせようとしていた。

「チャンミン!

あんたの腕が命綱なんだからな!

絶対に離すなよ!」

「しつこいなぁ」

換気口からいきおいよく噴出していた水も、ちょろちょろと壁を伝うまで減ってきた。

水面には排水口に向かって大きな渦巻きが出来ている。

水かさも、わずかずつ下がってきているようだ。

自分の腰を挟んでいるチャンミンの大腿や、背中に密着した身体も、ユノは意識する余裕がゼロだった。

(寒いし、高いし、サイアクだ!

早く、こんな状況から逃げ出したい!

チャンミンの馬鹿野郎!)

 

 

(つづく)

 

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(47)時の糸

 

 

リビングの壁の一面だけマスタードイエローに塗り、アンティークの重厚な木製家具。

 

そこかしこにカラフルでエキゾチックな装飾品。

カイは衣服だけでなく、インテリア方面でも独特のセンスの持ち主だった。

家じゅうあちこちに散らばる物たちを目にするたび、ため息をついた。

バランスと配色を計算した上でディスプレイした雑貨の合間に、美顔ローラーだとか手袋だとか、チョコレートの箱だとかが放り出されている。

「出来たよー」

ドアをノックして声をかけると、カイはエプロンを外した。

「お待たせ、今夜は何かなぁ?」

ぶかぶかのスウェットの上下を着たYKが、カウンターテーブルについた。

荷物から着替えを見つけ出せなかったYKに、自分のスウェットを貸してやったのだ。

カイはよく冷やしたワインを、それぞれのグラスに注いでやる。

「ドレッシングをそんなにかけたらさ、意味なくない?」

「他に食べないから、許容範囲」

「あっそ」

ボウルいっぱいのサラダと格闘するYKに、カイは呆れた視線を送る。

YKは年の離れた姉だ。

年齢の話題を出すと、鉄拳が飛んでくるので口をつぐんでいる。

スウェットの袖から出る手首も、片膝を立てているせいで露わになったふくらはぎも、ほっそりとしている。

色素が薄そうな髪の色、切れ長の大きな目を縁どる羽のようなまつ毛、長身。

カイとYKはよく似ている。

カイと違って、YKの肌がほんのり日焼けしているのは、長年南方で暮らしていたせいだ。

 

YKは美容に関することなら貪欲な興味を示した。

 

積極的な情報収集の末、その技を身につけようと世界中を飛び回った。

その知識豊富さとテクニックを活かして、エステティシャンになり、これからサロンで働くことになっている。

 

カイが小学生の時には、YKはすでに成人して家を出ていた。

得体のしれないマッサージオイルや、何かを練りこんである不気味な石鹸を送りつけてくるので、家族全員で閉口していた。

恵まれた容姿を活かして、臨時収入目当てにモデルもやっていたらしい。

それもファッションモデルではなく、画家や彫刻家のモデルだと聞いたとき、カイは姉らしいと思った。

男運もなく、毎回ロクでもない男にひっかかっては泣いていたっけ。

数年前も大失恋したとかで、大荒れのYKの面倒をみるため、両親に代わって現地まで出向いたこともあった。

10代にしてカイは、どんな言葉をかけてどう扱えば、女心をくすぐらせるのかを、会得していた、必然的に。

どんな心境の変化で、カイの住む街へ引っ越してきたのかは、彼女に尋ねたことはない。

(失恋でもして、新しい環境に身を置きたくなったのだろう)

カイは自分用の白身魚のソテーに、ナイフを入れる。

皮目をカリカリに焼いた香ばしさに、「我ながら美味い」と舌鼓をうつ。

「失恋」のワードから、カイはある出来事を思い出していた。

 


 

~カイ~

 

半年前の終業後のことだ。

忘れ物をとりに職場に戻った時、保管室から声がする。

開いたままのドアからのぞくと、ユノさんがデスクに顔を伏せて大泣きしていた。

「うえーん、えーん」なんて、漫画の世界みたいな泣き方と音量だった。

こんなに派手な泣き方をする人は初めて見た。

(凄いや...)

感心しながらも、僕の中にいたずら心がむくむくと湧いてきた。

そーっと足を忍ばせて、ユノさんの背後に立って、両肩を叩いた。

「わっ!!」

「うわっ!」

とびあがるほど驚くって言葉そのもの。

「びびびびっくりしたぁ」

ユノさんの涙は止まっていた。

「一緒に飲みに行きませんか?」

ユノさんはしばらくぽかんとしていたけど、真っ赤な目のままにっこり笑った。

「よっしゃ!

行こ行こ!」

ずんずん歩く彼の後を追いながら、僕も笑顔だった。

ユノさんが泣いていた理由は、簡単に察せられた。

とうとうTさんにフラれたんだ。

ユノさんは分かりやすい。

さっきまで泣いていたのに、面白い人だ。

「俺は酒が強いよ~。

果たしてカイ君はついてこられるかな?」

「え~。

僕はワインだったらボトル半分が限界です」

「よっわいなぁ。

まーいいや、俺が代わりに飲んでやる。

カイ君はジュースでも飲んでなさい」

 

その夜、酒が強いと豪語してたくせに、ベロベロに酔っぱらったユノさんを抱えて帰る羽目になった。

ユノさんとのおしゃべりは楽しかったから、介抱も苦じゃなかった。

ユノさんの失恋を利用する形になっちゃって、申し訳なかったけど。

 

 

(つづく)

 

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(46)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

「僕が引っ張るから、ユノは押すんだ」

 

「オッケー」

 

2人とも太ももまで水に浸かった上での力作業。

 

「いくよ」

「くーっ!」

 

一息つく。

 

「もうちょっと」

「おーもーいー!」

 

力が入りにくくて手こずった。

 

掛け声に合わせて力をこめているうち、数センチずつギシギシきしみながら移動させることができた。

 

「抜けてる!」

 

50センチほど移動させた時、ユノが目を輝かせて僕を見た。

 

発電機があった場所に向かって、水が流れ込んでいくのが分かった。

 

吸い込まれていく水が、水面に水流の渦を作っている。

 

「やった!」

「やった!」

 

僕とユノはお互い手を握って上下に振る。

 

「助かったぁ!」

 

突然、ユノがへなへなと水中に沈みかける。

 

「わぁ!

ユノ!」

 

僕は慌ててユノの手を引っ張り上げた。

 

安堵のあまり腰が抜けたみたいだ。

 

僕は身をかがめてユノの腰に腕をまわし、自分の肩の上に担ぎ上げた。

 

「おい、俺は荷物じゃないんだぞ」

 

文句を言うユノ。

 

(強がっていたんだな。

ホントは怖くてたまらなかったんだな)

 

「水の中から出よう。

ドアが開くまで、しばらくかかる。

僕も寒い」

 

僕も限界だった。

 

入口ドアのステップよりも高い場所はないかと、周囲を見回す。

 

「あそこまで移動しようか」

 

室内に並ぶタンクのうち、1つだけ背丈が低いタンクがある。

 

低いとはいえ2メートルはある。

 

「ほらユノ、端を持って」

 

「よいしょっと」

 

ユノをタンクの上に載せてから、僕もよじ登る。

 

タンクはつるつる滑るのと、足がかりがないから懸垂の要領で身体を持ち上げる。

 

「鍛えた筋力が活かされたね」

 

「よいしょっ」

 

タンクは、高さ2メートル、直径1メートルの円筒形のもの。

 

幸いタンクの背面は、壁に接している。

 

「狭いから、気を付けて」

 

僕はユノを突き落とさないよう、用心しながらタンクの上に両脚をおさめた。

 

「高いなぁ。

怖いなぁ。

俺は高いところが苦手なんだよ」

 

ユノは下を見ないよう、顔をそむけて目をつむっている。

 

「下は水だから、万が一落ちても大丈夫だよ」

 

「ばっかもん!

そういう問題じゃないんだよ」

 

「落ちないよう気を付けなくちゃ」

 

「ほこりだらけだし」

 

ユノが真っ黒になった手を僕に見せる。

 

たっぷりとほこりが堆積していたから、僕らの濡れた洋服は容赦なく汚れてしまう。

 

「狭いな」

 

タンク上部は面積1メートル、天井まで1.5メートル。

 

ユノは中腰、僕は膝立ちでバランスが悪い。

 

落ちないように互いに二の腕をつかんでいる格好だ。

 

「この姿勢はキツいぞ」

 

「ユノはここにいなよ。

僕は下にいるから」

 

「ばかたれ!

あんたが凍死するぞ」

 

「どうしよっか...」

 

「よし!

チャンミン、あんたは壁際に行って」

 

ユノと場所を入れ替える。

 

「オッケー...いてっ!」

 

ふいに上げた頭を、コンクリートの天井にぶつけてしまった。

 

「うっ、ううぅぅ...」

 

「大丈夫か?」

 

頭頂部を抱えていると、ユノはぶつけた箇所を撫でまわし、触った手のひらに目を凝らした。

 

「安心しろ、チャンミン。

血は出ていない。

のっぽな自分を忘れるんじゃないぞ」

 

そろそろと、ユノと場所を入れ替える。

 

「あんたがまず座るんだ」

 

そろそろと腰を下ろした。

 

「もうちょっと脚を広げな」

 

「よっこらしょ」

 

広げた僕の太ももの間に、ユノが腰を下ろした。

 

(近い近い近い!)

 

僕は手のやり場に困って、迷った挙句タンクの淵をつかんだ。

 

「チャンミン、俺を突き落とすなよ」

 

「当たり前だろ」

 

ユノの片手が伸びて、僕の手首をつかむとぐいっと自身のウエストに巻きつかせた。

 

「!」

 

「つかんでて。

手を離すなよ。

俺はとにかく、高いところが苦手なんだ」

 

「う、うん」

 

ユノのウエストで組んだ僕の手の平が、汗ばんできた。

 

ぽたぽたと未だ天井からしたたり落ちる水音が、コンクリート造りの部屋に反響する。

 

しばらくの間、僕らは無言だった。

 

「...チャンミン」

 

「ん?」

 

「照れるな照れるな」

 

「なっ...!」

 

ユノにバレていた。

 

僕の両足の間のユノのお尻とか。

 

僕の手の下のユノの固いウエストとか。

 

目前に伸びるユノのうなじとか。

 

意識し出すと、僕の心拍数は上がっていく。

 

すっかり寒さを忘れてしまった。

 

僕は相当、困惑していた。

 

僕には刺激が強すぎた。

 

 

(つづく)

 

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(45)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

ユノは抵抗もせず、おとなしく僕の腕の中におさまっていた。

僕は小刻みにふるえるユノの背中をさすった。

憎まれ口を叩く、いつも元気なユノの声が今では弱弱しくて、僕の胸は痛くなる。

​​

(ごめん、ユノ。

僕がぼんやりしていたばっかりに…)

気温も低くお互いずぶ濡れで、さすったくらいじゃ彼を十分に温めてあげられないけど。

今はこうしてあげるのが精いっぱいだ。

僕のせいでユノをこんな目に遭わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

さっきまで興奮状態で寒さどころじゃなかった僕も、Tシャツ1枚で足元から這い上がる寒気で震えていた。

ユノのニット越しに、ユノの体温がじわじわと、凍り付きそう僕の身体にじわじわと伝わってくる。

くっついているとあったかいな。

僕のあごの下にユノの濡れた髪があって、視線を横に移すと鳥肌の立った白い首。

知らず知らずのうちに、ユノを観察してしまう。

ユノの耳たぶには、ピアスの穴。

先週、僕の家にユノを招いた時、綺麗な石のついたピアスをしていたっけ。

そのピアスがマフラーにひっかかってしまって、不器用なユノを見かねて僕が代わりに取ってあげようとして、それから...。

それから...?

瞬間、首と頬が熱くなってきた。

ユノにキスしたこと思い出してしまった。

「俺たちはいい年した大人なわけ!いちいち謝るな」って怒ってたよな。

キスひとつでしつこく思い出してみては赤面している僕は、ユノの言う通り「お子様」なんだろうな。

水中に浸かった太ももから足先までは、じんじんと痛いほどなのに、胸や腕はこのように温かくて。

そういえば、ユノを抱きしめるのはこれが初めてだ。

換気ダクト口から放水していた水の勢いが、若干弱まってきたようだ。

ユノは身体の前で固く交差していた手をほどいた。

(お!)

ユノのほどいた手が、そのまま僕の背中にまわされる。

そして、ユノの温かい息が僕の首筋の一か所を温めた。

僕の背中に回されたユノの手を意識した。

(なんだか感動する)

僕を子供扱いばかりしているユノが僕を頼っている。

ちょっと嬉しかったりして。

どうか僕の体温が、ユノのかじかんだ手の平を温めますように。

ユノに対して腹を立てていた気持ちは、どこかへ行ってしまっていた。

あの時、ユノはカイ君の隣を歩いていたけど、今はこうして僕の腕の中にいる。

「少しはマシになった?」

「うん」

ユノは僕の肩に、額をぴったりとくっつけたまま頷いた。

「落ちてくる水も落ち着いてきたみたいだよ」

「うん」

「水が引かないとドアを開けられないからさ。

ユノ、ちょっとだけ頑張ってくれるかな?」

「動かすんだろ?」

「少しは身体は動く?」

「うーん、5分位なら」

「ぷっ、5分って...根拠は?」

「あのな、下半身の感覚がないわけ。

キンキンに凍り付いてるわけ」

「そうだよね、ごめん」

僕の腕の中で、ユノは僕と目を合わせた。

「あらら。

チャンミン君、顔が赤いよ」

いつもは目を細めてニヤニヤ顔で僕をからかうユノなのに、今の彼はかすかにほほ笑んだだけ。

「そうかな?」

寒さで震えているユノが可愛らしい。

新鮮な思いでユノを見ていると、

「すごいね、こんな時にTシャツ1枚でさ。

やっぱ鍛えてると、熱量が違うのかな」

「寒いに決まってるだろ!」

まだ少し勢いが足りないけれど、いつものユノに戻っている。

もうしばらくの間、こうしていたかったのに。

少しだけ残念。

我ながら大胆な行動をしてしまったことに考えが及んだら、カッと首が熱くなってきた。

「意味わかんないこと言ってないで。

ほら、手伝って!」

僕は腕を開いて、ユノの肩を押し出した。

「ちぇっ」

ユノは口をゆがめて、渋々といった風に発電機の脇に立つ。

僕もユノの向かい側に立って、フレームを握る。

相当重い。

持ち上げるのは無理だけど、引きずれば何とかなりそうだ。

氷のように冷えた鉄に、ユノからもらった体温が吸い取られるようだ。

「チャンミン」

「ん?」

「ありがとな」

「何が?」

「あのなぁ、チャンミン。

​毎度のことだが、いちいちすっとぼけるのはおやめ」

あきれた表情のユノの顔が赤くなっていた。

「ユノも顔が赤くなってるよ」

ユノも照れていることがわかって、僕はなぜか嬉しかった。

「チャンミンのくせに生意気だぞ」

「ははっ」

 

 

(つづく)

 

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