(34)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

「話がまわりくどい奴だったからね」

 

「彼女?」

 

「はぁ?」

 

ユノの口があんぐりと開いた。

 

「お前の口から『彼女』という言葉が出ることが驚きだよ」

 

「僕が『彼女』って言ったら、そんなにおかしいわけ?」

 

ついつい言い方がとげとげしくなってしまう。

 

「チャンミン...。

お前、焼きもちやいてたりする?」

 

「ヤキモチ...ってどういう意味?」

 

言葉の意味が分からなくて、首をひねっている僕をみかねて、

 

「ま、ええわ。

後で調べときなさい」

 

楽しそうに言って、リビングに直行する。

 

「俺には、彼女なんていないよ。

フリー中のフリーだ」

 

僕はよっぽどホッとした表情をしたのだろう、それを見てユノはにっこり笑った。

 

「フリーだから、チャンミンとキスしてもいいわけ」

 

「コ、コーヒーを淹れなおしたから、ユノ」

 

思い出して顔が赤くなっているのを、ユノに見られないよう、僕はキッチンに向かった。

 

「そういえば、催促してるんじゃないんだけど...。

その袋の中身は何?」

 

部屋の隅に置かれたままの紙袋を指さす。

 

「あ、ああ、それね」

 

「出張のお土産でしょ?」

 

「う、うん。

でもさ、チャンミンがご馳走を用意してくれて。

ほら、お腹いっぱいでだろ?

今さら、もういいかなぁ、と思ってるんだけど...」

 

「見せて!」

 

ユノはしぶしぶ僕にその袋を手渡した。

 

「何、これ?」

 

「天むす」

 

「天むす?」

 

「海老の天ぷら入りの握り飯のこと」

 

「おいしそうだね」

 

「うまいぞぉ。

でも、今夜はもう食べられない。

お腹いっぱい」

 

「明日、食べるよ」

 

「そうしな、チャンミン」

 

「ありがとう、ユノ」

 

「どういたしまして。

さてと!

そろそろ、帰るわ」

 

「ええっ!

もう?」

 

「もう23時だよ、チャンミン」

 

いつの間に、そんな時間になっていたことに驚く。

 

「せめてコーヒーだけでも、飲んでからにしなよ」

 

ユノは既に、コートに腕を通している。

 

「寂しいのか、チャンミン?」

 

コートを脱ぐと、ユノはダイニングチェアに腰かけた。

 

「オーケー。

コーヒーもらおうか」

 

マグカップにコーヒーを注ぐ僕の胸は、まだチクチクしていた。

 

(ユノは恋人はいないと言ってたけど...『彼』って誰のことだろう?

どうしてこのことが、こんなにも気になるんだろう、苦しいんだろう)

 

「あちっ」

 

考え事をしていたせいで、マグカップからコーヒーが溢れていた。

 

「わー、大丈夫かぁ!?」

 

ユノは僕からマグカップを取り上げ、布巾を手渡してくれたりと、世話を焼いてくれる。

 

楽しかったり、ドキドキしたり、重苦しくなったり、めまぐるしく変化する感情に、僕は振り回されている。

 

視界が鮮やかになって、そんな自分を新鮮に前向きにとらえていたけれど...。

 

苦しい思いはごめんだ、と思った。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(33)時の糸

 

 

 

~チャンミン~

 

 

「はあぁぁ」

 

リビングに残された僕は、大きく息を吐いた。

ユノといると、僕の口からするすると言葉が出てくる。

加えて、ユノは僕をドキドキさせるのがうまい。

時計をみると、既に22時だ。

ユノといると、時間が経つのを忘れてしまう。

こんなに楽しいことは、これまであっただろうか?

 

自分の経験を振り返るのは、止めていた。

深く霧が立ち込めている見通しが悪い道を進んでいるような、

今自分が居る場所を見失ってしまうような、

不安で不快な気分に襲われるからだ。

僕は、今のことだけを見ていたい。

汚れた食器をディッシュウォッシャーへ入れて、スイッチを押す。

​コーヒーを淹れなおした。

キッチンの隅に、白い紙袋があるのに気づいた。

(ユノが持ってきてくれた「お土産」かな?)

 

渡される前に、中身をのぞくのは悪いと思って、そのままにしておいた。

 

 

 

ユノが戻らない。

もう15分も経っている。

​(まさか、帰ってしまった?)

しかし、コート掛けにはユノの赤いコート、その足元にはバッグも残されている。

マンションの廊下は寒い。

 

上着を羽織っていないユノが風邪をひいたらいけない。

まだ電話中でも、コートだけは持っていってやろう。

玄関のドアを開けると、ユノの声が聞こえる。

​(長電話だな)

ユノはこちらに背を向けてエレベーターホールにいる。

イヤホンに指をあてて、会話に集中しているようだ。

ユノにジェスチャーで知らせようとした。

「...だからさ。

彼は...違うって!」

(彼?)

「彼」という言葉に反応してしまい、コートを掛けた腕を思わずひっこめてしまう。

ユノは僕に気づいていない。

「うん...それは分からないよ...日が浅いし...」

​「......彼?

...どうかな」

 

(...『彼』って誰だよ)

僕の胸がギュッと締め付けられる。

​(『彼』って...ユノの...?)

「えー!

今からぁ?」

ユノが大きな声を出し、僕はビクッとした。

​「友達んちにいるからさ。

...違うって!

...男だよ」

(『友達』?

『男』?

...僕のこと?)

僕の胸がますます締め付けられる。

(電話の相手には知らせたくないんだ、僕の家にいることを。

電話の相手は...ユノの恋人か?

ユノが言ってた『彼』って誰のことだ?

『彼』って、Tさんのことかな、カイ君のことかな)

ここまで考えがおよんで、初めて気づく。

僕はユノのことを、ほとんど知らない。

ユノとまとも話をするようになったのは、ほんの数日の間のことで、トータルで12時間もないかもしれない。

「明日でいい?

...じゃあ、いつものお店で」

ユノの電話が終わりそうな気配だったので、僕はユノに気づかれないように静かにドアを開け、部屋へ戻った。

僕は玄関ドアにもたれて、ため息をついた後、天井をあおぎ見た。

「彼」と言ったユノの言葉に動揺している自分がいた。

ユノには、交際している人がいるのかもしれない。

僕の胸がズキズキと痛んだ。

もたれていた玄関ドアが、どんどんと振動した。

​​

電話を終えたユノがドアを叩いているようだ。

オートロック式だから、カギが無ければ部屋には入れない。

​(チャイムを鳴らせばいいのに...)

意地悪をしてユノを締め出してもよかったくらい、僕は腹を立てていたけど、彼に風邪をひかせたくなかったから、ドアを開けてやった。

「寒い寒い!」

ユノは両腕をさすりながら部屋へ入ってきた。

「ずいぶんと長い電話だったね」

知らず知らずのうち、言い方が嫌味になってしまう。

ユノがぎくりとしたように見えたのは、僕の気のせいだろうか。

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(32)時の糸

 

 

~ユノ~

 

 

すぅっと、チャンミンの顔が近づいてきた時。

不意打ちだった。

驚く間もなく​、チャンミンにキスされていた。

​​

​でも、目の前にある、閉じられた彼のまぶたを見て、「ああ、そういうことか」と思った。

自分の唇にそっと優しく重ねられた、チャンミンの唇の感触。

唇の感触で分かる。

チャンミンは、リラックスしていて全然緊張していない。

​かといって、慣れた感じでもない。

いやらしさのない、素直なキスだった。

うまく説明ができないけれど、腑に落ちた。

うぬぼれじゃなく、チャンミンは俺を想ってくれていると。

俺も彼のことを想っていると。

そして、チャンミンとこうなることは、当然のことだと。

次から次へと、あらわになっていくチャンミンの真の姿に、俺はついていけない。

だんまりむっつり君かと思っていたけど、そうではない。

チャンミンとの距離が近くなって、まだ一週間。

たった一週間の間で、チャンミンは芽吹いた若葉のようにのびのびと本来のキャラクターを出してきているみたいだ。

​きっかけは何だっていい。

​俺はチャンミンがこうなってくれることを、ずっと望んでいたから。

 

 

「...今も、頭が痛いことあるんか?」

スプーンですくった、とろっと柔らかいレアチーズケーキを口にほおばった後、チャンミンに尋ねた。

冷たくなめらかな舌ざわりと、ブルーベリージャムの酸味、甘さ控えめのチーズクリームが絶妙でスプーンの手が止まらない。

チャンミンは、少しの間を置いた後、

「...あるといえばあるし。

...なんともないよ」

軽く笑って、そう言った。

「どっちだよ!」

「うーん...支障はあるかな、日常生活に」

チャンミンはスプーンをくわえたまま、ぐるっと視線を天井に向けた。

チャンミンが注文したチーズケーキは、ケーキというよりプリンに近くて、切り分けることもできず、そのままスプーンですくって食べている。

床に直接座って、一つのケーキを二人で分け合ってる。

(全く、俺たちはいつも、何かを食べている。

一週間前は、ヨーグルトを食べてたんだっけ?

一週間!?

​まだそれだけしか経っていないんだ!)

「週明けには、病院へ行くんだよ」

チャンンミンが淹れてくれた濃くて美味しいコーヒーをすする。

「薬を処方してもらわないと」

チャンミンは、口角を下げる。

「直接行かないとだめなのかなぁ。

​ネットで済ませようと考えてたんだけど?」

「駄目だめ!

ちゃんと診てもらわんと」

​「面倒だなぁ」

「自分の身体のことだろ?

​俺が一緒についていってやらんと怖いのか、チャンミン?」

「...ユノ!

​​僕を小学生みたいに扱うのはやめて欲しい」

他愛のない会話をしているうち、大きなチーズケーキはあっという間になくなった。

 

「俺らって、大食いなんだね」

「8割はユノが食べた」

「逆だよ逆!

食いまくったのはお前の方だ」

「ユノは運動はしていないの?」

「してない。

毎日がエクササイズだ」

「そうなんだろうと思った」

「どういう意味だよ」

「体型がどうこうじゃなくて、ユノの性格的に」

「ストイックじゃないって意味か、こら?」

「深く考えないで」

「チャンミン。

お前こそ、何かやってんの?」

​「どうして?」

「細いのに、ぺらっとしてないじゃん」

「そうかなぁ」

「も一回見せて」

「何を?」

「とぼけるな、チャンミン!

見せろ見せろ」

「やめろって、ユノ!」

「ペロッとめくってみせるだけでいいから!」

「恥ずかしいから!」

「今さらなんだよ!

お前の大事なとこも、もう見ちゃってるんだぞ、こっちは!」

「あの時の話はするなー!」

(あっ!)

リストバンドが震える。

(電話だ)

つかんでいたチャンミンの腕を放した。

​​

​(このタイミングに、これだもの)

「ごめん、電話に出ていいかな?」

俺はチャンミンに身振りで、部屋の外へ出ることを伝えた。

チャンミンの部屋のドアを開けて、廊下へ出る。

着信をボタンをタップして、通話状態にした。

​「はい」

『こんばんは、ユノ』

​思わず舌打ちしてしまう。

「夜遅く、何なんなのさ?」

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(31)時の糸

 

 

「あのな、俺らはいい年した大人なわけ。

キスしたくらいで、いちいち謝るな!

謝るくらいなら、キスするな!

謝るのなら...。

うーん、そうだな...」

 

ユノはしばし考えた後、

 

「酔った勢いでヤッちゃった後にしろ!」

 

一気に話すユノを見るチャンミンは、ぽかんとしている。

 

「...自分でも分からないんだ。

...つい、したくなって...」

 

「あー!

やめいやめい!」

 

「うぐっ」

 

ユノの片手が伸びて、チャンミンの口を塞いだ。

 

「いちいち説明せんでもいい!

余計照れるだろうが!」

 

(ユノは、どうってことないのか?

僕の胸はまだ、ドキドキしているのに)

 

「俺に謝らなくてもよろし」

 

ユノはチャンミンの口を塞いでいた手を、外した。

 

「ユノにとって...大したことないんだ?」

 

「そういう意味じゃないって!」

 

ユノは頭を抱えている。

 

「あーもー!

めんどくさい奴やなぁ!」

 

(!)

 

ユノの両手で、チャンミンの頬は挟まれた。

 

(近い近い!)

 

15センチの距離にあるユノの顔に、チャンミンののどがゴクリと鳴る。

 

ユノは両手に挟んだチャンミンの熱い頬と、見開いた彼の目を凝視する。

 

(丸い目しちゃって、可愛いなぁ)

 

「もう一回する?」

 

「な、何を?」

 

(とぼけてるのか、本気でわかってないのか...)

 

「決まっとるだろうが!」

 

「そ、それは...」

 

(あーもー。

面倒くさいやつだ!)

 

ユノの耳にも、チャンミンが鳴らすのどの音が聞こえる。

 

(緊張しちゃって、可愛い)

 

「嫌か?」

 

ユノはさらに、顔をチャンミンに近づける。

 

「い、嫌じゃ...ないです」

 

ユノの手の中で、チャンミンは首を振る。

 

「そっか」

 

「......」

 

チャンミンは、ギュッと目をつむる。

 

(目をつむっちゃって、女子高生か!)

 

ユノはチュッと音をたてて、チャンミンのおでこにキスをした。

 

(あれ?)

 

ユノの両手から解放され、目を開けたチャンミン。

 

ぽかんとしたチャンミンに、ほほ笑むユノ。

 

「お前がリードせんといかんよ、チャンミン」

 

「そ、そうだね」

 

(さらっと言っちゃうんだ)

 

「次はもっとロマンティックに頼むよ」

 

動揺を隠してユノは冗談っぽく言うと、チャンミンは白い歯を見せて笑った。

 

「そうするよ」

 

「はぁ?」

 

(はっきり言っちゃうんだ、そこ)

 

「素直に答えられても、反応に困るんだよ、チャンミン!」

 

ユノの言葉に、きょとんとするチャンミン。

 

(可愛らしい顔のくせして、この男...。

モジモジ君は撤回だ!)

 

 

 

 

「さぁ!」

 

チャンミンは、勢いよく両膝を叩いた。

 

「ユノ、デザートにしよう!」

 

「は?」

 

スタスタとキッチンへ歩いてゆく、裸足のチャンミン。

 

「いろいろあったから、お腹が空いた」

 

「もう?」

 

(いろいろあったって...何だよ。

俺の方だって、心がめまぐるしかったよ)

 

「お腹空いた、ってなぁ。

まだ30分しか経ってないぞ?」

 

ユノはチャンミンを追って、キッチンへ。

 

「俺も手伝うよ。

コーヒー淹れようか?」

 

ユノがコーヒーサーバーに水を入れようとすると、ひょいとそれをチャンミンから取り上げられた。

 

「ユノは皿を持って行って」

 

チャンミンはユノの背中を押して、キッチンから追い出した。

 

「ユノのコーヒーは恐ろしくて飲めない」

 

「何だとー!」

 

「泥のようなコーヒーを飲まされたからね」

 

「あは~。

ごめんな」

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(30)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

目を開けると、ユノと目が合った。

​ユノの真っ黒な瞳に映る僕と目が合う。

(わっ!)

彼のうなじから手を離して、身を引いた。

​(僕は...何をしたんだ?)

絶対に、ユノは「馬鹿野郎!」って怒鳴るに違いない。

 

(もしかしたら、平手打ちを食らうかもしれない)

​固唾をのんで、ユノを見守った。

(あれ...?)

口を両手で覆ったユノは、パタンとソファの背もたれに倒れた。

「......」

​ユノは、そのまま身動きしない。

「......」

「...ユノ?」

​ユノはソファの背もたれに頭をもたせかけて、天井をあおいだ格好のままだ。

「ごめん」

不安になった僕はユノの横に座って謝った。

​「ホントに、ごめん」

ユノの瞳がキョロリと動いて、僕と目が合う。

「えっと...そんなつもりはなくて...」

​へどもどする僕。

(やっぱり、殴られるかもしれない)

「ユノ...?」

ソファの上に膝立ちをして、ユノを見下ろした。

「チャンミン」

「う、うん!」

​​

(怒ってるよな......ん?)

まだ口を覆ったままのユノの瞳が三日月の形になった。

「チャンミン!」

「うわっ!」

名前が呼ばれた直後、僕の頭はユノの腕にタックルされていた。

​「ちょっ...!」

僕の首に巻かれたユノの腕は力強い。

「また、僕を絞め殺すつもりか?」

「......」

髪をぐちゃぐちゃにされた。

「ストップ!」

​​

​僕の頭はユノの脇に挟まれているわけで、押し付けられた固い胸を意識してしまう。

(参ったなぁ...)

「ストップだって......って、わっ!」

いきなりパッと解放された僕は、反動でソファから転げ落ちてしまった。

「ったいなぁ!」

​「おい、チャンミン君!」

見上げると、ユノは腕を組んで仁王立ちしている。

​「なんだよ?」

​ふくれて答える。

ユノに振り回されっぱなしの僕。

​「ごめん、とはどういうことだよ!」

​「えっ?」

 

「ごめんとはどういうことだよ!」

僕には、ユノの言葉の意味が分からなかった。

​「それは...ユノに、悪いことしたなって」

「ほほぅ」

「だから、ごめん」

​「悪いことしたって、チャンミン君、何しちゃったの?」

「ぐっ」

(口に出して言えないよ、そんな恥ずかしいこと)

「悪いことって、な~に?」

ユノは小首を傾けて、にっこり笑った。

「教えて、チャンミン?」

​「ユノに...その...キ、キスしちゃって...悪かったなって」

ユノはニヤニヤ笑っている。

(ユノはまた、僕をからかっている!)

「ねぇ、チャンミン」

仁王立ちしていたユノは、再び僕の隣に座った。

「後で謝るくらいなら、キスなんてするな!」

「え?

どういう意味?」

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]