(9)NO?-2章-

 

 

~チャンミン~

 

民ちゃんらしい質問に、毎度フリーズするような僕じゃないのだ。

 

「そうだなぁ...」

 

レースパンツと紐パンツとどちらがお好みか、と尋ねる理由は明らかだ。

 

早くも10日後のことを念頭に、民ちゃんは僕を喜ばせようとしているのだ。

 

可愛いなぁ、と思った。

 

「で、どちらがいいですか?

下はすっぽんぽんがいい、ってのはナシですよ」

 

「!!!」

 

「そりゃあね、イタす時は脱がなくっちゃできませんけど、スタート時点ではパンツを穿いていたいです!

チャンミンさんはその方がお好みなのかもしれませんけど、さすがにその要望には添えません」

 

「はあぁぁ...」

 

僕の平静と余裕もこの程度。

 

「民ちゃん、落ち着いて」

 

「好き」のひとことに照れまくっていたのに、どうしてこれ系の話となると大胆になってしまうんだろう、この子は?

 

民ちゃんの頭は、アレのことでいっぱいなのだ。

 

そりゃそうだろうな...民ちゃんは『未経験』だから。

 

「え~っと...紐、かな?」

 

民ちゃんの腰骨あたりに結わえられた紐をほどき、留めを失った下着がはらりと床に落ちる...想像してしまった。

 

お約束の「チャンミンさん...顔がエロいです」と突っ込まれそうだ、とはっとして民ちゃんの表情を窺った。

 

あれ?

 

「了解です」と、民ちゃんは力強く頷いた。

 

恥ずかしくなった僕は、「で、もうひとつの質問って?」と尋ねた。

 

「いつえっちしますか?」と訊いてきそうで、その回答に思案を巡らせた。

 

ところが。

 

「...ユンさんのモデルの話...怒ってますか?」

 

「!」

 

「ユンさんのモデルの件...ごめんなさい。

チャンミンさんに言いにくくて...怒られそうで...内緒にしてました」

 

そう言って民ちゃんはぺこりと頭を下げた。

 

「うん。

怒ってるよ」

 

「ごめんなさい」

 

もう一度民ちゃんは頭を下げた。

 

忘れていたわけじゃない。

 

モデルについての説教は後日にまわそうと思ったのだ。

 

僕に内緒にしていたことに腹が立っていたことよりも、まずは民ちゃんの『例の彼』についての気がかりを解消させたかったからだ。

 

「もう謝らなくていいよ。

次からは僕も一緒だし」

 

「うふふふ。

そうでしたね」

 

「週末は空いてる?」

 

「デートのお誘いですね」

 

「うん」

 

民ちゃんはストレートだから話が早い。

 

ムードがないとも言えるけれど、民ちゃんらしいところが気に入っている。

 

「電話かメールで予定を決めようね」

 

「楽しみです」

 

揃えた指で口を覆うのは、民ちゃんが喜んでいる時の仕草だ。

 

「じゃあね」

 

僕は片手をあげて、その場を立ち去ろうとした時、民ちゃんの手が僕の手首を捕らえ、ぐいっと引き戻された。

 

「わっ!?」

 

その馬鹿力に、背後にずっこけるところだった。

 

「な、何?」

 

「バイバイのキスしてください」

 

「好き」に照れるくせに、キスのおねだりは躊躇なくできる民ちゃんが、大好きだ。

 

民ちゃんの片頬に手を添え、唇を押し当てるだけのライトなキスをする。

 

やっぱりカチコチになってしまった民ちゃんが可愛かった。

 

 


 

 

~民~

 

チャンミンさんは何度もこちらを振り返って、手を振ってくれた。

 

ジェスチャーで早く部屋に帰るよう、言っている。

 

先の角を曲がるまで、見送りたかったから。

 

私の心はホカホカに温かい。

 

ずっとずっと夢見てきたのが実現したのだ。

 

違う。

 

夢にまで見た『彼氏』が出来た喜びじゃない。

 

好きな人から好意を持ってもらえて、隣を歩いてくれる喜びだ。

 

チャンミンさんのことを「意識している」と意識するずっと前から、意識していた。

 

そのことに気付くまでに時間がかかってしまったけれど。

 

チャンミンさんを前にすると、彼を驚かせてしまう発言をいっぱいしてしまう。

 

思ったことを丸ごとぶつけても、チャンミンさんなら大丈夫、そんな安心感のせいだね。

 

うんうん、と頷きながら、ドアのカギを開けた。

 

 

言い出せなかった。

 

二つの質問の前に、チャンミンさんに伝えたいことがあった。

 

「お話したいことがあります」の言葉を、チャンミンさんは「キスしてください」と捉えてしまったみたい。

 

全く、チャンミンさんはいつもいつもキスに関しては勘違いしてばかりだ。

 

私を驚かせてばかりだ。

 

おかしなことを口にしてしまってチャンミンさんを驚かせる私よりも、彼の方がもっと驚かせ屋だ。

 

私よりずっと年上なのに、勘違いしたりヤキモチ妬いたり、落ち着いているように見えて落ち着きがなくて面白い人だ。

 

バッグをラックにひっかけ、手を洗って、床に腰を下ろした。

 

抱えた膝に顎をのせ、なんの装飾もない殺風景な白壁を睨みながら、私は思いにふける。

 

チャンミンさんに伝えたいことがあった。

 

ユンさんのことだ。

 

私が好きで憧れていた人とは、実はユンさんだってこと。

 

昼間の事務所で、ユンさんに敵意むき出しのチャンミンさんに、私はヒヤヒヤしていたのだ。

 

チャンミンさんとユンさんとの間で、どんなトラブルがあったのかは知らない。

 

うっかり口を滑らしてしまって、チャンミンさんの不信を買うようなことはしたくない。

 

あとから知られてしまう前に、早いうちに伝えたい理由はそこだ。

 

もちろん、隠し事はいけない。

 

今教えたとしても、チャンミンさんはとても嫌な思いをするだろう。

 

加えて、ユンさんが私の背中を押してくれたおかげで、田舎を出る決心がついたことにも、チャンミンさんは面白くないだろう。

 

チャンミンさんはユンさんが嫌いなのだ。

 

「...どうしよう」

 

初めての時のパンツの話よりも、ユンさんのことの方が重要なのに...。

 

 

 

 

「うふふふ」

 

今日は2回もキスをしてしまった。

 

胸の奥がくすぐったくなる。

 

「あ!」

 

思い出した。

 

ユンさんにもキスをされたんだった。

 

舌を入れた大人なキスだ。

 

...浮気だ、私は浮気をしている。

 

チャンミンさんには内緒にしておいた方がいいよね。

 

私はチャンミンさんを怒らせることばかりしている。

 

 

(つづく)

 

 

[maxbutton id=”27″ ]

(8)NO?-2章-

 

 

~チャンミン~

 

しつこいことは分かってる。

 

不安だったんだろうな。

 

ユンのモデルになっていたことを、僕に隠していたことが引き金になったんだと思う。

 

民ちゃんは隠し事がうまい。

 

民ちゃんから「好き」の言葉をもらっていたのに、彼女の想い人...彼女の過去の恋の行方を確認したかった。

 

(2か月近くほったらかしにしてた僕には、民ちゃんを責める資格はないって分かってる)

 

民ちゃんより年上の僕がこんな小さなことに拘るなんて、つくづく大人げない。

 

僕の質問に黙りこくってしまったことが、より不安を煽った。

 

「チャンミンさん!」

 

民ちゃんは振り向くと、僕をキッと睨みつけた。

 

「その人のことは、好きじゃないです!」

 

「...っ!」

 

僕の頬は、民ちゃんの両手で包み込まれた。

 

「しっかりしてください!」

 

民ちゃんの冷たい手で力いっぱい挟まれて、僕の顔は変な顔になっているだろう。

 

「私はっ。

チャンミンさんのことが好きだから、『好き』って言ったんです」

 

「...民ちゃん」

 

民ちゃんは僕の頬から両手を下ろすと、その手でひらひらと顔を扇いだ。

 

「これ以上は言いませんからね。

は、恥ずかしい...こと...恥ずかしいからっ!

『たらし』のチャンミンさんみたいに、ポンポン言えないんです」

 

「だ~か~ら~。

僕は『たらし』じゃないって。

よそ見はしないよ」

 

「いーえ!

チャンミンさんはよそ見をする人です。

だってほら...リ...」

 

「リアのこと?」

 

「...そうですよ」

 

そっか...。

 

民ちゃんも僕と同じことを気にかけていたんだ。

 

「そうだね。

民ちゃんと暮らしていた時、僕にはリアがいた。

でもね」

 

新月の夜、街灯の橙色の灯りでは民ちゃんの顔色は分からない。

 

照れ屋の民ちゃんを確かめたくて、今度は僕の方が手を伸ばし、彼女の両耳を包み込んだ。

 

「チャっ...!」

 

僕の冷たい指と民ちゃんの熱々の耳たぶ...やっぱり、彼女は猛烈に照れている。

 

「心変わりだよ。

誰かと付き合っていたり、誰かのことを好きでいた時、その人よりももっと好きな人が現れたんだ。

片想いだったとしても、僕がしたことは『浮気』だね。

僕は民ちゃんに心変わりした」

 

交際中の女性がいるのに、「この子、いいな」と気持ちが他所にいってしまいそうになる経験はあった。

 

こんな程度のことで『浮気』なんて大袈裟だ。

 

でも、民ちゃん相手にはそれが通用しない。

 

民ちゃんは初心で潔癖で、それから青い。

 

いつか民ちゃんが僕との交際に関して、不安感や不信感を抱いてしまうことは必ずある。

 

だから、前もって僕自身の恋愛における基本姿勢(?)を、バシッと示してあげることも、恋愛初心者の民ちゃんを安心させる材料になるのでは、と思ったのだ。

 

僕の両手の中に民ちゃんの小さな顔がおさまっている。

 

以前は「に、似てる...」と内心驚きの連続だったのに、今はもう、僕にそっくりの女の子じゃない。

 

全くの別人に僕の目に映っている。

 

「民ちゃんも似たようなものでしょ?」と同意を得ようとしたら、

 

「そうです!

私もチャンミンさんに心変わりしたんです!

悪かったですね!」

 

目一杯怖い顔を作ってるみたいだけど、口の端がぴくぴくしている。

 

「悪くないよ。

しつこく問い詰めたりしてごめん。

気になってたから」

 

「チャっ、チャンミンさん!

痛いし、人が見てるから離して下さい!」

 

「ごめん!」

 

民ちゃんの指摘で、彼女の両耳を引っ張ったままだった手を離した。

 

僕らは数分の間、無言で歩き続けた。

 

歩幅も気にせず、ぐんぐん早歩きで闊歩する。

 

背後からの街灯の灯りに、僕らの前に長い影ができる。

 

民ちゃんほど背の高い女性と肩を並べて歩いたことはなく、同じ目線に『彼女』の顔があること自体が新鮮だった。

 

「送って下さりありがとございます」

 

いつの間にか、民ちゃんのアパートの前に到着していた。

 

「うん」

 

このまま立ち去ってしまうのは、いかにも寂しい。

 

寂しいけれど、民ちゃんの部屋に入るのはまだ、早い気がしてみたり(すでに入っているけれど)

 

民ちゃんはきっと、僕は下心たっぷりでいる(その通りなんだけどさ)、と警戒しそうだから。

 

でもなぁ...このまま帰るのは物足りない。

 

「...あの」

 

「ん?」

 

「チャンミンさんにお話があります」

 

「キスしてください」かな?

 

と予想した僕は、民ちゃんの両頬を包み込み、素早く唇を塞いだ。

 

民ちゃんは直立不動、僕は目を閉じていたから、彼女の真ん丸に見開いたままであろう両目は確認できない。

 

「止めて下さい!」と張り手が飛んでこなくてよかった。

 

僕らの吐息が、互いの頬を温かく湿らした。

 

唇を押し当てるだけの初心で優しいキス。

 

食後に飲んだコーヒーの香りがするキスだ。

 

「?」

 

民ちゃんが僕の二の腕を叩いている。

 

「!」

 

アパートの住民らしい男性が、塀すれすれに僕らを避けて通り過ぎ、何度か振り向きながら階段を上がっていった。

 

彼は多分、先日と同じ人物だろう。

 

「え~っと、その」

 

民ちゃんは足元に視線を落としたり、前髪を耳にかけたりと落ち着きない。

 

「僕に話って?」

 

「やっぱり...そのう...」

 

「え~。

気になるから今、言ってよ」

 

ぐうぅぅ。

 

「...お腹空いたの?」

 

「...そのようですね」

 

僕らは顔を見合わせ、くすくす笑う。

 

「そうだ、チャンミンさん。

私からも質問があります」

 

民ちゃんは僕にピースサインをして見せ、「ふたつあります」と言った。

 

「質問?

どうぞ、何でも訊いて」

 

「まず1つ目。

チャンミンさんはどんなパンツが好きですか?」

 

「へ?」

 

「私のパンツがどんなだかはご存知でしょう?

色気のないパンツだと思っていたでしょう?」

 

民ちゃんのパンツを干すことも何度かあったから、僕は知っているのだ。

 

「色気がないなんて...。

民ちゃんに似合ってると思うよ」

 

と、答えたものの、パンツだけになった民ちゃんは見たことはない。

 

「チャンミンさんのことだから、そう答えると思いました。

遠慮しなくていいですから。

チャンミンさんの性癖を教えてください」

 

「せ、せいへき!?」

 

「すみません。

言葉の使い方を間違えました」

 

「もー、民ちゃ~ん」

 

民ちゃんはずいっと僕に顔寄せて、こう尋ねたのだ。

 

「レースと紐とどっちがいいですか?」と。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(7)NO?-2章-

 

 

~チャンミン~

 

店選びを失敗したかもしれない。

 

僕らの前に供された料理を見るなり民ちゃんは、少しだけがっかりした表情を見せたから。

 

僕以外の者だったら、民ちゃんの口角がちょっぴり震えたところなんて気づかなかっただろう。

 

小さな変化に気づけてしまう僕は、それだけ民ちゃんに神経を払っているということ。

 

民ちゃんは分かりやすく単純なところがあるけれど、子供じゃないし、気遣いのできる子だから、あからさまに表情に出したりはしない。

 

「想像と違った?」

 

好き嫌いなく何でも美味しく食べる子だったから、珍しいなぁと思った。

 

「全~然。

美味しそうです」

 

民ちゃんはにっこり笑って、フォークを手にした。

 

1片1片、ジェンガのように積み重ねられた野菜(名前の分からない洒落たもの)の土台は、ゼリーで固めた肉(ハム?ひき肉?)のようなもの。その上に、オレンジ色のソースがト音記号のようにかけられている。

 

手の込んだ料理だ。

 

一口サイズの3分の1サイズにナイフで切り分けられたゼリーは、崩れないようフォークの先に乗り、あ~んと大きく開けた民ちゃんの口の中に消えていく。

 

もしかして...。

 

「あれ?

チャンミンさん?

食べないんですか?」

 

お食事中の民ちゃんに見惚れる...じゃなくて観察する目になっていたようだ。

 

「う、うん。

食べるよ」

 

「奥行きのある味ですね。

美味しいですね」

 

「ねえ、民ちゃん?」

 

「はい?」

 

民ちゃんのお皿は空っぽだ。

 

「量が少ないんでしょ?」

 

ズバリ指摘されて、民ちゃんは気まずそうに、申し訳なさそうに、「はい...すみません」とつぶやいた。

 

民ちゃんと外食をするのは、出会った翌日にビアガーデンに行ったきりだった。

 

晴れて付き合えるようになって初めての外食、僕は気合を入れすぎていたようだ。

 

あの日の民ちゃんは何皿も綺麗に平らげていたんだった、僕以上に大食いだったことを失念していた。

 

うつむいてもじもじしている民ちゃんが可哀想になって、

 

「帰りに夜食を買って帰ろう」

 

そう言ってから、僕らはもう一緒に暮らしていないことを思い出した。

 

色っぽい方向に勘違いさせてしまったかなぁ、と心の中で「あちゃ~」と額を叩いた。

 

どちらかの部屋に寄って、そこで買い込んできた夜食を広げる。

 

僕の部屋だったら、民ちゃん好みの甘いカフェラテを淹れてあげて、バラエティ番組に笑って...。

 

...そんな願望はもちろんある。

 

一緒に暮らしていた時は当たり前だったことが、住まいが別々になり、それプラス、恋人同士にステップアップした現在、部屋に招き入れることに無性に照れてしまうのも確かだ。

 

僕くらいの年齢になれば、そういう関係に至るまでにそう時間はかからない。

 

でも民ちゃんは男性との交際は僕が初めて、それプラス、関係を深めてゆく進度を極度に気にしている。

 

カチコチに緊張させてしまっても可哀想だ。

 

そりゃあ、いつかは...出来れば近いうちに、互いの部屋を行き来して、お泊りなんかもして...いいなぁ。

 

民ちゃんと後輩Sから指摘されて知ったこと、妄想中の僕の顔は緩みきっているんだって。

 

民ちゃんに突っ込まれる前に、口元をきりっと引き締めた。

 

「そういう意味じゃなくて、食べ歩きできるようなもの。

家までは徒歩だし、どうかなぁ?って思って」

 

「...えっと、え~っと。

ごめんなさい。

夜食はいらないです。

チャンミンさんがせっかくご馳走して下さったんです。

お腹の中を他の食べ物で混ぜたくないです。

美味しかったです...とっても美味しかったです」

 

「...そっか。

美味しいと言ってもらえて、よかった」

 

窓ガラスが曇っていたはずだ、外の空気はキリっと冷たい。

 

落ち葉がかさかさと、回転しながら歩道を横切っていく。

 

民ちゃんの手を握った。

 

照れた民ちゃんはしばらくの間、うつむいていた後、僕の手を頼もしい力で握り返してきた。

 

「ねえ民ちゃん。

教えて欲しいことがあるんだ」

 

「何ですか?

パンツの色は何色、って?」

 

「うん。

教えてくれるんだ?

何色?」

 

「...う...」

 

民ちゃんの大胆発言への切り返しが、うまくなってきたぞ。

 

再びうつむいてしまった民ちゃんに、僕は得意げだ。

 

「...黒です」

 

「!!」

 

まさか、本当に教えてくれるなんて...僕もまだまだ初級者だったようだ。

 

「...そうなんだ」

 

パンツの話で、民ちゃんへの質問が流れてしまうところだった。

 

それは僕なりに勇気を振り絞ったもので、いつ尋ねたらいいかタイミングを計っていたのだ。

 

「民ちゃんは...僕に教えてくれていたよね。

好きな人がいるって。

その人のことは、どうなったの?」

 

僕の手の中で民ちゃんの手が震えた。

 

僕らは立ち止まった。

 

僕は民ちゃんの横顔から目を離さない。

 

長い前髪のせいで、片頬の半分が隠れている。

 

「もう好きじゃないです」

 

「ふう...」

 

安堵のため息を隠すことはできなかった。

 

『例の人』への気持ちは離れてしまっていたから、僕のことが好きだと告白してくれたんだ。

 

当然のことなのに、なんとなく...不安だった。

 

民ちゃんは分かり易いのに分かりにくい。

 

『例の彼』については身をくねらせていたくせに、僕相手にはそれらしい素振りは見せていなかった。

 

かつてした『恋人ごっこ』でなんとなく、頬にキスされた時「もしかして...」、「好きです」の言葉でようやく「やっぱり!」...それくらい、表情や態度だけでは推しはかりにくかった。

 

『例の彼』への恋心と僕への想いが並走していた時期は必ずあったはず。

 

「ホントに?

とても好きだったんだろう?」

 

「それはまあ...そうでしたけど」

 

「...彼のことはもう諦めたんだ?

かっこいい人だったんだろう?」

 

問い詰めるような言い方になっていた。

 

友人の妹から同居人、そして彼氏に昇格したことに浮かれていた僕だけど、実は心の奥底で引っかかっていたことが頭を出した。

 

きっかけは、ユンの事務所でだ。

 

ユンのモデルになっていたなんて知らなかった。

 

そのスケッチは(悔しいけれど)巧みで美しかった。

 

半分裸みたいな姿だったことに、猛烈に腹が立った。

 

民ちゃんは内緒ごとが上手い子のようだ。

 

「もう会っていないんだ?」

 

吹き抜けた初冬の風が、民ちゃんの髪をなびかせた。

 

露わになった民ちゃんの横顔は、表情を無くしていた。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(6)NO?-2章-

 

~ユン~

 

ふぅん、そういうことか。

 

俺が現れるなり、背筋を伸ばしたチャンミン君と民。

 

喜怒哀楽が分かりやすい子だと見込んでいた民の方が、平静を装うのが上手いのが意外だった。

 

反面、チャンミン君といえば首筋の血色がよくなっていた。

 

俺に食いつかんばかりのチャンミン君の眼の色には、前々から気付いていた。

 

チャンミン君は民に気がある...恋愛感情を抱いている。

 

俺に横恋慕している民。

 

俺に唇を塞がれた時の、見開いた眼、キスに慣れていない風の固く引き結ばれた唇。

 

「彼氏がいる」と、涙ぐんだ眼で俺を睨みつけていた。

 

この二人は兄弟だと長らく勘違いしていたが、赤の他人同士だと知って余計に面白くなってきたと、俺は満足した。

 

見れば見るほど同じ顔をしている。

 

この二人を絡ませてポーズをとらせた時、禁断の双子愛の姿を作品中に昇華できそうだ。

 

内心でこのような企みでぞくぞく舌なめずりしていることを、彼らに悟られるわけにはいかない。

 

これはアーティストゆえの純粋な制作意欲だが、凡人には理解できまい。

 

「お二人さんには以前からお声掛けをしていた件です」

 

携えてきたスケッチブックを広げ、ラフ案を見せた。

 

「以前から...?」

 

チャンミン君は表情を曇らせ、民の方を窺った。

 

「あわわ」

 

民は口を押えて、チャンミン君から顔を背けた。

 

初耳らしい。

 

「民くんには依頼をしていてね。

何度かスケッチを取らせてもらっていたんですよ」

 

スケッチブックをめくって、件のページを見せた。

 

タンクトップ姿のもの、胸にキモノを抱きしめ背中をむき出しにしたもの...。

 

見れば見るほど美しい。

 

ところがチャンミン君は、描かれた民の姿に感動するどころか、はた目にも分かるほど顔色が青ざめていった。

 

「民ちゃん?」

 

チャンミン君は未だ顔を背けたままの民を、キッと睨みつけた。

 

太ももにおいたこぶしが震えている。

 

分かりやすい男だ。

 

「ご覧の通りにヌードではありませんよ。

ま、裸同然だということは認めますがね、ははっ」

 

「......」

 

「チャンミン君...これは、あなたのとこのカタログ用の作品なんですよ?」

 

「...っ...」

 

チャンミン君は担当として、俺に仕事を依頼している立場を思い出したようだ。

 

『3本の腕』のイメージを説明したことがありますが、もっと大型の作品にしたいと考えたわけです」

 

「写真撮影の際、搬出搬入ができませんよ?」

 

「私のアトリエで撮れば問題ないでしょう?

初回もそうしたでしょう?」

 

「...その通りですが」

 

無言が続き、この間チャンミン君は思考を巡らしているようだ。

 

民は落ち着きなく、スケッチブックや隅に置かれた筆記用具を入れたトレーなどを見ている。

 

「お受けします」

 

「ええっ!?」

 

驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった民は、口を押えた。

 

「ユンさんのご希望に沿いましょう」

 

「それは、ありがたい。

引き受けてくださり、非常に嬉しいです」

 

「ただし!」

 

「はい。

条件があるのでしょう?」

 

チャンミン君の次の台詞は予想がついた。

 

「服を脱ぐのだけはお断りします」

 

「そういうわけいかないよ」と、心中でつぶやいた。

 

「平日は仕事があるので、夜か休日に限られます」

 

「その辺は承知してます」

 

チャンミン君は、うつむいたままの民を窺うと、

 

「これも仕事です」

 

と答えた。

 

つくづくチャンミン君は分かりやすい、ほくそ笑んだ。

 

 


 

~チャンミン~

 

民ちゃんは円形の柱にもたれて僕を待っていた。

 

頭上の時計は待ち合わせ時間3分前を指していた。

 

駆け寄る僕に気付かず、ぼぅっと目の前を行き交う人混みを眺める横顔に見惚れた。

 

民ちゃんと待ち合わせをするのは、初めて会った時以来だった。

 

あまりにもぼぅっとしていて、民ちゃんは肩を叩かれるまで僕の接近に気付かなかったようだ。

 

「わっ!

びっくりするじゃあないですか!?

私はサプライズが苦手なんですよ?」

 

胸をなで下ろす民ちゃんの胸の薄さに、「ぺちゃぱいを気にしていたなぁ」と、くすりとしてしまう。

 

「...チャンミンさん」

 

民ちゃんのどすのきいた声音とすっと細められた目。

 

「どこを見ているんですか?

何が可笑しいんですか?」

(『ペチャパイで悪かったですね!』と、民ちゃんを悲しませてしまう)

 

「民ちゃんを見ていたんだよ。

いいなぁ、と思って...」

 

僕は民ちゃんの手をとって、歩き出した。

 

「わっ!」

 

民ちゃんを黙らせるには、こうするのが手っ取り早い。

 

民ちゃんは自身が予期しないタイミングで、愛情を込めた言葉や肉体的接触があると、途端に無口になってしまう。

 

僕を凍り付かせる言葉をポンポン投げかけるのに、いざ自分が口にする番になると、口ごもってしまうのだ。

 

(『エッチはいつしますか?』『チャンミンさんのソコ、暴れています』とか...凄いよ、民ちゃん)

 

だからきっと、「好きです」も、「会えて嬉しいです」の言葉も、勇気を振り絞ったものなんだろうなぁ。

 

声も囁くように小さかった。

 

民ちゃんからの言葉を期待するよりも、僕自身が彼女に沢山、大事に想っている気持ちを伝えてやろうと思った。

 

僕に引っ張られる格好であっても、手をふりほどくことなく、僕の後ろをついてくる民ちゃん。

 

改札口を抜けた時には、僕らは肩を並べてホームへの階段を上っていた。

 

そして、民ちゃんは僕に握られた手首を引き抜き、僕の手を握った。

 

隣の僕を見て、照れくさそうに笑った。

 

手を繋ぐだけで、こんなにドキドキするなんて。

 

帰宅ラッシュの混雑する時間帯。

 

スーツ姿のサラリーマン風とカジュアルな装いをした双子の二人が、手を繋いで電車を待っている。

 

民ちゃんは緊張しているみたい。

 

だって、僕の手の中で、民ちゃんの手の平が汗で濡れている。

 

この汗はもしかしたら、僕のものかもしれない。

 

重なり合った手の平は、僕ら二人分の汗で温かく湿っていた。

 

 

(つづく)

 

 

[maxbutton id=”27″ ]

(5)NO?-2章-

 

 

~チャンミン~

 

民ちゃんは、テーブルを挟んで斜め前の僕を上目遣いで見つめている。

 

民ちゃんはやっぱり、可愛い。

 

告白をし合い、キスを交わした日以来、顔を合わすのは初めてだった。

 

(僕は2日連続で残業で、民ちゃんは兄の家の夕飯にお呼ばれしていたのだ)

 

僕は途端に照れくさくなり、コーヒーカップに口をつけた。

 

(民ちゃんが淹れたコーヒー...美味しい。

僕と暮らしていた頃は、コーヒーの分量を間違えてばかりで下手くそだったのに)

 

民ちゃんの成長が嬉しい半分、寂しさも半分と複雑な心境だ。

 

「チャンミンさん!」

 

民ちゃんは小声で僕に話かけた。

 

「何?」

 

僕も小声で答える。

 

「急に来るなんて...聞いてませんよ!」

 

「ごめん。

驚かせようと思って」

 

民ちゃんは僕の足を蹴飛ばした。

 

「私はサプライズに弱いんです!

びっくりしてびっくりして、びっくりしました」

 

「少しでもいいから会いたくてね。

ちょうどここに用事があったんだ」

 

僕は優しく、民ちゃんの足をつつく。

 

頬を真っ赤に染めた民ちゃんが、もっともっと可愛らしいと思った。

 

この子をどうして2か月近く、放っておいたのだろう。

 

ぐずぐずと先延ばしにしてきた、意気地のない自分が馬鹿みたいだ。

 

これからの僕は、民ちゃんの手を離さないようにしないと。

 

「さよなら」と言って僕の元を離れていった日、民ちゃんの僕への気持ちに気付いた。

 

そして、僕のことが好きだと告白してくれるまで、民ちゃんの気持ちに確信がもてなかった。

 

それくらい民ちゃんは、巧妙に気持ちを隠していられる子だ。

 

本人には隠すつもりはないのだろう。

 

ほにゃららとした言動に誤魔化されて、民ちゃんが何をどう思っているのかまで、僕は見抜けずにいた。

 

民ちゃんには好きな人がいたはずだ。

 

その人への恋心はどうなってしまったんだろう。

 

民ちゃんはそのことに一切触れなかった。

 

つまり、こういうことなのだ。

 

民ちゃんは肝心なことを教えてくれない。

 

だからこそ、だ。

 

民ちゃんの手をしっかり握りしめていないと、僕の気付かないうちにふわふわっとどこかへ行ってしまいそうだった。

 

その上、ユンというオオカミの元で、民ちゃんは働いている。

 

民ちゃんを見つめる、ギラギラと欲の浮かんだ厭らしい目。

 

民ちゃんは絶対に気付いていない!

 

ユンと民ちゃんの身長は同じくらい。

 

ユンは厚みのある逞しい身体付きで、民ちゃんは華奢だ。

 

この二人が並んだところを想像してみて、お似合いかもしれない...と思いかけて、それを打ち消した。

 

「民ちゃんに会いたかったんだ」

 

僕は重ねて言った。

 

民ちゃんの眉根にしわがよった。

 

(あれ?何かマズいことを口にしてしまったのかな?)

 

僕は未だに、民ちゃんの怒らせポイントをつかめずにいる。

 

「チャンミンさん...。

いつから...」

 

「あでっ!」

 

民ちゃんがさっきより強めに、僕の足をポンと蹴ったのだ。

 

「いつからプレイボーイになったんですか!?」

 

「思ってることを口にしただけだよ」

 

「チャンミンさんがそんなキャラだったなんて...知りませんでした!」

 

「僕は前からこうだったでしょう?」

 

「いーえ!

前のチャンミンさんはもっとこう...奥ゆかしい人でした。

...それなのに、それなのに...。

急に『たらし』になっちゃって...」

 

「『たらし』って...酷いなぁ」

 

『会いたかった』のひと言に、民ちゃんは照れくさくて仕方がないのだろう。

 

これくらいで照れてしまう民ちゃんだ、彼女自身もこの手の言葉をなかなか口に出せない性格なんだろうなぁと思った。

 

大胆な発言で僕を慌てさせるくせに、さ。

 

「民ちゃんにしか言わないよ、『会いたかった』だなんて。

だから、素直に受け取って、ね?」

 

民ちゃんは相変わらず眉根を寄せたまま、僕の言葉について考えこんでいるようだった。

 

「チャンミンさんの気持ちは、十分伝わりました。

あの...」

 

民ちゃんはうつむいてしまう。

 

『エッチはいつしますか?あと10日ですよ?』とか言い出しそうだった。

(民ちゃんのことだ、2週間という期限を忠実に守りそうだ)

 

「あの...私も...嬉しかったです。

チャンミンさんに会えて」

 

「...民ちゃん」

 

予想外の言葉に、僕はじんと感動してしまうのだ。

(エロい方向につい考えてしまった僕ときたら...)

 

「それにしても!

今夜会えるじゃないですか!

いきなり登場しないでくださいよ!」

 

民ちゃんは僕の足を蹴った。

 

「仕事だから仕方ないだろう?」

 

僕も民ちゃんの足を蹴り返した。

 

「いったぁっ!!」

 

叫んだ民ちゃん。

 

「ごめん!

ごめんね」

 

僕はテーブル下にしゃがみこんで、民ちゃんの足の具合を確かめた。

 

「痛かった?」

 

すると、身をかがめて民ちゃんがテーブル下を覗き込んだ。

 

「嘘です」

 

「もぉ。

びっくりするじゃないか」

 

目を半月型に細めた笑顔に、僕はすぐさま許してしまうのだ。

 

「お返しです」

 

僕らは顔を見合わせてクスクス笑っていると、コツコツとノック音が。

 

スケッチブックを持ったユンだった。

 

「お待たせしました」

 

もしかしたら、僕らのじゃれ合いをパーテーションの向こうで聞いていたのかもしれない、とひやっとした。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]