(95)NO?

 

~チャンミン~

 

お弁当を届けるだなんて、アピールが控えめ過ぎだったかな。

 

ある日突然、玄関前に食事が届けられていたりなんかしたら...気味が悪いよな。

 

民ちゃんへ手紙を書いた。

 

民ちゃんを心配する気持ち、僕の近況、そして、民ちゃんがいなくて寂しい思いをしていると、時間をかけて書いた。

 

そうしたら、便せん5枚もの大作になってしまった。

 

思いが込められ過ぎた手紙は重すぎると直前で気付いた僕は、メモ用紙にひとこと『お腹いっぱい食べてください』とだけ書いて、差し入れに添えた。

 

僕からのものだと、気付いてくれたかな。

 

気持ち悪くて捨ててしまっているかもしれない。

 

会いにもいかず、電話もせず、当たり障りのないメッセージを送信するだけの僕に、腹を立てているかもしれない。

 

それとも、僕のことは見切りをつけて、大本命の彼との関係を進展させているかもしれない。

 

じっとしていられなくなった。

 

僕は今日から変わったんだろ?

 

民ちゃんを裸にする夢まで見てしまったんだぞ?

 

食べかけの料理はそのままに、服を着替えコートを羽織った。

 

向かう先はもちろん、民ちゃんの部屋だ。

 

時刻は20時。

 

もう帰宅している頃だ。

 

 


 

 

~民~

 

(チャンミンさん...帰ってきてるといいんだけど...)

 

深呼吸したのち、エントランスドア前のパネルを操作した。

 

アパートから電車で3駅目、駅から駆けてきたから暑くてブルゾンは脱いでしまった。

 

『はい?』

 

応答したのがリアさんの声で、一瞬ひるんでしまう。

 

(訪ねてきても不自然じゃないよね。

チャンミンさんの弟(妹だっけ?どっちでもいいや)ってことになってたはずだから)

と、思い直した。

 

「民です。

...あの。

...チャンミンさんは...?」

 

『いないわよ』

 

チャンミンさんはリアさんと暮らしているんだから、リアさんが出てもおかしくない。

 

「...そうですか。

じゃあ、いいです。

約束なしで来た私が悪いので...」

 

チャンミンさんの顔を一目みたくて、衝動的にここまで来てしまったけど、リアさんのつっけんどんな言い方にその気持ちは一気にトーンダウンしてしまった。

 

「夜分遅くからすみませんでした」

 

がっくりと肩を落として立ち去ろうとした時、

 

『上がってらっしゃいよ。

あなたと話をしてみたかったし』

 

「でも...」

 

リアさんとしたいお話なんてないんだけどな。

 

幸せそうなリアさんの顔なんて見たくないんだけどな。

 

ここまで来てしまったけど、よく考えてみたら、チャンミンさんにはリアさんがいるんだった。

 

タッパーを返すのなんて、今すぐじゃなくてよいのに、どうしてもお礼の気持ちを伝えたかったから、ここまで来た。

 

でも...「美味しかったです」と伝えた後、どうすればいいんだろう。

 

『こんな意味ありげなこと、もうしないで下さい』って、言った方がいいんだろうな。

 

次から次へと思いが湧いてくる。

 

チャンミンさんの不在にようやく慣れかけてきた生活を、突如かき乱しにきた彼の行動に腹がたってきた。

 

『早く、上がって来て』

 

リアさんに命じられ、私は断り切れずに『はい』と答えた。

 

足取り重く、エントランスの自動ドアが開いた先へと進んでいった。

 

 

(つづく)

 

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(94)NO?

 

~民~

 

「いただきます」

 

タッパーの中身は、エビのピラフとスパニッシュオムレツ、それから大きめ野菜をグリルしたサラダ。

 

小さな容器に詰めた手作りドレッシングも添えられていた。

 

「チャンミンさん...うっうっ...うっ...」

 

しゃくりあげながら、涙を流しながらそれらを口に運ぶ。

 

「そうだ...」

 

「美味しい状態で食べないと」、と電子レンジで温めた。

 

ごくごく普通の冷蔵庫の上には、余計な装飾を排除したシルバーの電子レンジが鎮座している。

 

外国製のスタイリッシュなデザインのそれは、ユンさんからの引っ越し祝いだった。

 

「遠慮せず言いなさい。何がいい?」と問われて、「それじゃあ...」と電子レンジをリクエストしたのだった。

 

ユンさんの好意に、どこまで甘えればいいのか分からなかった。

 

いつまでも自宅まで送ってもらうわけにもいかない。

 

ユンさんは優しい。

 

取り乱したりもしないし、大きな声も出さない。

 

でも。

 

覗き込むように私を見る目が鋭くて熱くて、どう見返せばいいのか分からない。

 

私の背を撫ぜおろす手が、なんていうか...スキンシップを超えている感じがして、どう反応すればいいのか分からない。

 

「...美味しい...」

 

エビの香味と歯触りが食欲をそそるし、チーズを混ぜたオムレツは濃厚で滋養が身体にしみわたる。

 

サラダの野菜もグリルで焦げ目がつけてあって、手が込んでいるのが伝わった。

 

「うっ...うっ...」

 

チャンミンさんも優しい。

 

あわてんぼうだし、びっくりするようなことを突然言い出すし、リアさんといちゃいちゃしていたかと思えば、私の首にキスしてきたりして、よく分からない人。

 

よく分からない人だけど、一緒にいて楽しい人。

 

そして、私の為にご飯を作ってくれる人。

 

今日になって、いきなりご飯を届けてくる人。

 

チャンミンさん...何がしたいんですか?

 

分からないです。

 

涙がこぼれる。

 

最後のひとスプーンを、口に入れる。

 

ぽろぽろ涙がこぼれ落ちる。

 

チャンミンさん...美味しいです。

 

お腹いっぱい食べました。

 

汚れたタッパーを丁寧に洗って、フキンで水気を拭き取った。

 

次から次へとこぼれ落ちる涙を、袖口で拭う。

 

「よし」

 

ブルゾンを羽織り、綺麗になったタッパーの入ったエコバッグを肩にかけ、靴を履く。

 

チャンミンさんにお礼が言いたいです。

 

チャンミンさんの顔が見たくなりました。

 

今すぐ。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

「さむっ」

 

ぶるりと震えて、エアコンをつけた。

 

スーツを脱いで部屋着のスウェットの上下に着がえた。

 

作り置きのおかずと冷凍ご飯をレンジで温めた。

 

「はぁ...」

 

出るのはため息ばかり。

 

TVからは、芸人たちがゲラゲラと笑う声、派手な効果音。

 

僕は全然、楽しくも面白くもない。

 

民ちゃん...食べてくれたかな。

 

昼間、外回り途中に民ちゃんの部屋に寄って、僕の作った料理を届けてきた。

 

日中、傷まないように保冷パックも入れておいたし、気候も涼しいから大丈夫なはず。

 

今、僕の口の中で咀嚼されているものは、民ちゃんのと全く同じメニューだ。

 

綺麗に仕上がったものは民ちゃんへ、焦がしてしまったのが僕の分。

 

僕からの差し入れだってことを、民ちゃんは気付いてくれただろうか。

 

民ちゃんは鈍感だからなぁ...。

 

いや、違う。

 

彼女は意外に鋭い子だった。

 

そして、慎重。

 

僕と民ちゃんは、顔だけじゃなく慎重なところも似ているんだ。

 

あの夜の時の会話。

 

お互いに肝心かなめな部分に触れないよう、慎重な言葉選びで交わされたものだった。

 

民ちゃんは何かに焦れていて、くいいるように僕の反応を待っていた。

 

僕の方は、民ちゃんの告白に近い言葉をぶつけられて、突っ込んだことを言えずじまいだった。

 

あんなに早口で、怒った眼をした民ちゃんに接するのは初めてで、彼女の問いに答えられずにいた。

 

そんな僕に、民ちゃんの涙目が「残念です」と語っていたような気がする。

 

僕に向けられている好意の正体...なんとなく分かった。

 

僕は民ちゃんのことを何でも分かった気でいた。

 

民ちゃんの魅力探しに夢中になっていて、彼女の気持ちに全然目を向けていなかった。

 

僕のことを好きでいてくれたらいいなぁ程度にしか望んでいなかった。

 

リアという女性の存在を、ひどく気にしていたなんて気づいていなかった。

 

リアと別れると民ちゃんに決意表明をしてから1か月以上、あの部屋を出なかった僕だ。

 

民ちゃんが愛想をつかしても当然のこと。

 

あの日、僕の頬へ押し当てられた民ちゃんの唇は、「バイバイ」のキスだったのだ。

 

 

(つづく)

 

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(93)NO?

 

~民~

 

チャンミンさんは今、何をしてますか?

 

元気ですか?

 

3日に1度のペースで、メールが届く。

 

『怪我の具合はどうですか?

無理はしないでください。』

 

『ご飯はちゃんと食べていますか?』

 

『朝晩、涼しくなってきました。

風邪をひかないように』

 

これに応えたら駄目だから、返信はしない。

 

私を案じる言葉ばかりで、胸がつまるからすぐに消去した。

 

残していたら何度も眺めてしまって、チャンミンさんを思い出してしまうから。

 

それに...。

 

『会いたい』の言葉のひとかけらもないことに、がっかりしてる自分もいて、つくづく矛盾だらけだ。

 

本当はどうしたいのか心の奥底では分かっているけど、力いっぱい蓋をする。

 

チャンミンさん...優しい言葉を私にかけないで下さい。

 

低いエンジン音とテールランプが消えるまで、アパートの外廊下から見送った。

 

私を心配したユンさんが、毎晩自宅まで送ってくれるのだ。

 

ユンさんのことが好きなはずなのに、胸がすうすうする。

 

怪我が治った今も当たり前のように、習慣のように私を送ってくれる。

 

夕食を御馳走してくれる日もある。

 

負担に思わせないよう、カジュアルなお店をチョイスする辺りがユンさんらしい。

 

その好意に素直にのっかる私もどうかと思う。

 

そう思ってしまうってことは、ユンさんは私に対して好意を抱いてくれるのかな。

 

確かに胸はドキドキするし、嬉しいけど、チャンミンさんといて感じるそれとはちょっと違うのだ。

 

あー、頭がぐちゃぐちゃする!

 

黒いローファーを見下ろす。

 

初給料で買ったもの。

 

チャンミンさんの洋服を借りられなくなって、でも何着も揃えられない。

 

毎日白シャツと黒パンツ姿だけど、ユンさんを真似して、デザイン違いの白いシャツを揃えた。

 

肌寒くて、そろそろカーディガンが必要かな、と両腕をさすりながら部屋に戻る。

 

「ん?」

 

ドアノブに何かがぶら下がっている。

 

通販で何か注文したっけ?

 

小さな紙袋で、中を覗くとタッパーが3つ、お義母さんかなって思った。

 

お義母さんは、料理が下手な私を知っているから。

 

ライトを点けると暗い部屋が、家具のない殺風景な部屋が露わになる。

 

手洗いを済ませた私は、紙袋からタッパーを取り出しかけて、

 

「そうそう!」

 

流し台の下(食器を収納するラックは未だない)からお皿をとって、小さな折りたたみテーブルの上に並べる。

 

「さてさて、何かなぁ」

 

ユンさんがご馳走してくれる食事以外は、恥ずかしいくらい貧弱な食生活だったから。

 

両手をこすり合わせて、タッパーをテーブルに並べると。

 

「ん?」

 

ひらりと私の膝に舞い落ちた。

 

『お腹いっぱい食べてください』

 

1枚の小さなメモ用紙。

 

「...チャンミンさん」

 

名前もない、チャンミンさんの書く文字も見たこともないけれど、彼だとすぐに分かった。

 

ぶわっと涙が膨れた。

 

「チャンミンさーん」

 

泣いた。

 

声を出して。

 

チャンミンさんは優しい。

 

TVのないこの部屋に、私の泣き声が響く。

 

びっくりするほど大きな声で泣いた。

 

会いたいです。

 

チャンミンさんに会いたいです。

 

私はチャンミンさんがいないと、駄目みたいです。

 

会いたいです。

 

 

(つづく)

 

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(92)NO?

 

 

~君とキスしたい~

 

一方、民の方といえば...。

 

作品作りに没頭するユンの指示に従って、てきぱきと立ち働いていた。

 

忠実に、敏捷に動いていれば、次々と襲うむなしさを忘れられるからだ。

 

とある老舗デパートのショーウィンドウを12月の一か月間、ユンの作品が飾る。

 

納期を1か月後に控え、制作工程も仕上げに差し掛かっていた。

 

搬入しやすよう、2メートル四方の作品は分割できる造りにせねばならず、つなぎ目の工夫にユンは民と共に知恵を絞った。

 

制作過程に参加させてくれることを、民は素直に喜んだ。

 

民の後頭部は、大きなリボンが飾られている。

 

Kのアイデアだ。

 

長めの頭頂部の髪で禿げた箇所を覆って、ヘアアクセサリで留めてある。

 

抜糸の済んだ傷も癒えた。

 

手を止めると、チャンミンのことが思い出されて仕方がなかった。

 

(ユンさんのことが好きなはずだったのに。

よそ見をしていたのは、私の方なのに...)

 

引っ越し日と翌日は、郷里から義母が来てあれこれと世話をやいてくれた。

 

布団一式と基本の家電を買ってもらい、夜は義母と1枚の布団を分け合って眠った。

 

真上の天窓の向こうは真っ黒で、星は見えなかった。

 

「辛くなったらいつでも帰っておいでね」

 

駅の改札前で別れる間際、義母の言葉に、「今すぐ帰りたい」と口走りそうになるのを必死で抑えた。

 

(どうしてこんなに寂しいんだろう)

 

ぺたりと床に座り込んだ民は、チャンミンの家を出て初めてぽろぽろと涙を流した。

 

届いた冷蔵庫を、苦も無く動かせる自分にも泣けてきた。

 

(チャンミンさんの手伝いがなくても、引っ越し作業くらい一人で出来るじゃない...)

 

シャワーのお湯が傷口を濡らしてしまい、雑な洗い方になってしまう自分に泣けてきた。

 

翌日、泣き腫らした顔で出勤してきた民に、ユンはおや、と眉を上げた。

 

新しい住所をユンに知らせると、「引っ越し祝いは何がいい?」と民に尋ねた。

 

帰宅途中、スーパーで食材を買ってきたものの、ジャガイモひとつうまく剥けない自分に泣けてきた。

 

(夕飯はずっと、チャンミンさんが作ってくれたから...)

 

民は調理をすることを諦めて、翌朝用に買った食パンをかじり、口の中がパサパサすることにも泣けてきた。

 

(チャンミンさんから距離を置こうと、決めたのは自分じゃない。

だって、チャンミンさんはリアさんのものなんだもの。

でも。

どうしてこんなに悲しいんだろう)

 

うかない顔の民に、ユンは「この子に、何かあったな」とひと目で感づいた。

 

「民くん。

チャンミン君は?」

 

「えっ!!」

 

ユンの口から出た「チャンミン」の名前に、民は動揺を隠せない。

 

「チャ、チャンミンさん、ですか?

さ、さあ...。

私、チャンミンさんのところをお暇してからは、会ってないです...」

 

「ところで、チャンミン君は、民くんとどういう関係なんだい?」

「えっ!

チャンミンさんは...あの...その...」

 

しどろもどろになる民に、

 

「すまないね。

君とチャンミン君は兄弟だなんて、勘違いをしていた」

 

民の本来の兄Tから、民が事故に遭ったと連絡があった時に、このことに気付いたのだ。

 

「非常に似ていたからね」

 

「は、はい。

全くの他人なんです」

 

「それなのに、一緒に住んでたんだ?」

 

「それは...チャンミンさんはお兄ちゃんのお友達なんです。

仕事と住むところが決まるまで、住まわせてもらっていたんです」

 

「本当に、それだけかい?」

 

意味深なユンに、民は両手を激しく振った。

 

「なあんにも。

全~然」

 

(それにしては...チャンミン君の態度が不自然だった。

『友人の弟』以上のものだったぞ...。

俺に噛みつかんばかりの目をしていた。

悟られたかな...。

ふうん。

チャンミン君もそっち側か。

面白くなりそうだな。

同じ顔を並べて、絡ませたら面白い作品が出来そうだな)

 

ユンの頭の中に、双子以上に同じ顔をした二人を前に制作をする光景が浮かぶ。

 

「モデルの方は、怪我がよくなってからにしよう。

ポーズをとらせたら辛いだろうから。」

 

そう言って民の身体を気遣ったユンは、民をモデルとしてポーズをとらせることから解放していた。

 

 

(つづく)

 

 

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(91)NO?

 

~チャンミン~

 

「民ちゃん...」

 

僕の上に乗った民ちゃんが、前かがみになって僕の両胸に手を当てていた。

 

民ちゃんと繋がっている箇所が...。

 

温かくて締め付けられていて...もの凄くもの凄く...気持ちがいい。

 

僕は民ちゃんのほっそりとした白い身体を見上げていた。

 

少年のように薄い胸と、ピンク色の胸の先端が色っぽくて、僕の欲情を煽った。

 

民ちゃんの細い腰に両手を添えた。

 

「チャンミン...」

 

民ちゃんは僕を見下ろして、唇だけで僕の名前を呼んだ...。

 

「わあっ!!!」

 

飛び起きた僕は、激しく胸を打つ鼓動を収めるまで、しばらくの時間が必要だった。

 

「はあはあはあ...」

 

汗びっしょりで、Tシャツが背中に張り付いている。

 

うなじに触れると、後ろ髪も濡れている。

 

ゴシゴシと顔をこすって、ついでに両頬を叩いた。

 

「まずい...まずいぞ...」

 

がらんとした部屋で、床に直接敷いた布団に僕はいる。

 

僕は民ちゃんとヤッている夢を見ていた。

 

あの気持ちよさは夢にしてはリアルだった。

 

痛いくらいの疼きに、僕は慌てて下半身を確認する。

 

下着の中も確認して、安堵の息を吐く。

 

よかった、濡れてない...。

 

「はあ...」

 

チャンミン...僕は、一体何をしてるんだ?

 

末期症状だ。

 

このままじゃ駄目だ。

 

気持ちの上では我慢してても、とうとう身体の方が耐えきれなくなってきてるぞ。

 

民ちゃんとどうこうしたい、っていう意味じゃない。

 

抑圧していた感情が身体の方にも侵食してきたということだ。

 

しょぼくれていないで、行動に移すんだ。

 

部屋を見回す。

 

必要に迫られて開けた段ボールが、部屋のあちこちに置かれている。

 

カーテンすら買っておらず、急場しのぎに吊るしたシーツが朝日を透かしている。

 

民ちゃんがいなくなって2週間後に、僕はこの部屋に引っ越してきた。

 

投げやりな精神状態で選んだこの1LDKは、以前の部屋の3分の1の賃料で、2駅分職場に近い。

 

自分でも呆れることだけど、実は民ちゃんの部屋から歩いて10分のところにある。

 

無意識に、少しでも民ちゃんの近くにいたいと望んでいた証拠だ。

 

全く、僕という男は...。

 

床に置いた携帯電話が、チカチカと点滅している。

 

リアからの着信だ。

 

僕に何の用事があるのか、まだ打ち明けたい話があるのか、留守番役がいなくなって寂しいのか、頻繁に携帯電話を鳴らすのだ。

 

あれ以来、リアと会話を交わす気になれなかった僕は、顔を合わさないよう帰宅して即6畳間に引っ込んでしまう。

 

夜中に帰宅したリアと同じベッド...かつてリアと選んだ、大きくて寝心地のよいベッド...で眠りたくなかったから。

 

そして6畳間で眠った。

 

民ちゃんの残り香に、胸がうずいた。

 

手の平を返したように、ここまで冷たくなれる自分に驚いた。

 

もっと早くこうしているべきだったんだ。

 

民ちゃんの部屋を探す前に、僕の部屋を先に決めるべきだったんだ。

 

そうしていれば、リアとのいざこざを民ちゃんに見せずに済んだのに。

 

引っ越しの日程は、リアに知らせなかった。

 

あとは一人でなんとかしてくれ、と鍵をキッチンカウンターに置いて、僕は引っ越していった。

 

民ちゃんにも知らせずにいた。

 

電話1本で済むことなのに、第一声の一言が思いつかなくて、ずるずると2か月近く経ってしまった。

 

時間をかけて言葉を選んだメッセージを送るのが、精いっぱいだった。

 

民ちゃんからの返信はない。

 

それでも、僕はメッセージを届け続ける。

 

洗面所の鏡に映る自分と目が合う。

 

鏡を見る度、僕の胸はしくしくと痛むんだ。

 

だって、僕と民ちゃんは瓜二つだから。

 

まるで、民ちゃんと目を合わせているみたいだ。

 

もっとも、寝起きの僕は民ちゃんとかけ離れている。

 

「泥棒さんみたいな顔をしてます」と、頭の中の民ちゃんがぼそりと僕に言う。

 

その声を振り払うように、冷たい水で乱暴に顔を洗った。

 

ついさっきまで見ていた、いやらしい夢の記憶を追い払う。

 

秋の訪れ、蛇口から流れる水も冷たく感じるようになった。

 

時刻を確認すると...まだ午前5時。

 

よし、間に合う。

 

荷ほどきは1割しか済んでいないが、キッチンまわりは充実していて、新調した冷蔵庫の中も色とりどりの食材で満たされている。

 

むなしい気持ちを紛らわすために、料理のレパートリーを増やすことに躍起になっていたから。

 

食べきれなくて、後輩Sの分まで弁当を作って持っていったら、

「先輩...どうしちゃったんすか?

キモいですよ、キモいです」

 

ぶるぶる震えるフリをしながらも、「ありがたく頂戴します」と、昼休憩に男二人並んで弁当を広げているのだ。

 

まっすぐ帰りたくなくて、3日と空けずSを飲みに誘う。

 

「先輩...どうしちゃったんすか?

彼女と別れたからって、僕に迫るのはやめてくださいよ。

そういう趣味はありませんから。

先輩とそういう関係だなんて...キモいですから」

 

おえぇっと吐く真似をしながらも、「奢ってくださいよ」」と夜の街に繰り出すのだ。

 

フライパンの中で、じゅうじゅうと美味しそうに焼けるオムレツに、僕はふふふっと笑った。

 

一人笑いなんて、キモいぞと、自分に突っ込みながら。

 

僕には計画があった。

 

その素敵な思いつきに、笑みがこぼれるのだ。

 

フライパンを揺すりながら、民ちゃんの台詞が頭の中をぐるぐると巡る。

 

『どうしてなのか、チャンミンさんはわかりますか?』

 

...分かったような気がするよ。

 

『顔だけじゃなく、性格も似てますね』

 

...うん、その通りだね。

 

民ちゃんがいなくなって50日目に、僕は動き出す決心をした。

 

我ながら行動が遅い、のろまな男だ。

 

まだ、間に合うよね?

 

(つづく)

 

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