【78】NO?

 

 

~民~

 

はあぁぁぁぁ?

 

チャンミンさん!

 

何を言い出すんですかー!

 

私の『彼氏』ですって!?

 

チャンミンさんが投下した爆弾発言。

 

チャンミンさんは、私をびっくりさせてばかりだ。

 

カーテンから覗かせた顔を見て、「わぁ、チャンミンさん」って声をあげそうだった。

 

でも、我慢して開きかけた口を閉じた。

 

嬉しい気持ちが、その後すぐにぎゅっと嫌な思いで覆われたから。

 

今一番会いたくない人を見て、動揺してしまった自分を必死で堪えて、不機嫌な表情でいた。

 

絶対に笑ってやるもんか、って。

 

私のところに来るよりも、側にいなくちゃいけない人が他にいるでしょう?って。

 

本心は嬉しかった。

 

嬉しかったけど、手放しで喜べなかった。

 

チャンミンさんとリアさんが緊迫した空気を作っていて、しかも私が首を突っ込めない話題で、あの場を離れるしかなかったのだ。

 

チャンミンさんと目が合ったから、あの場に私がいたことはちゃんと認識していたはず。

 

ショックを受けた私を案じて...弁解をしようと、私を追っかけてきてくれたらいいな、なんて思った。

 

チャンミンさんの嘘つき。

 

半年以上、リアさんとエッチしてないって言ってたくせに、どうしてリアさんに赤ちゃんができるのよ。

 

リアさんは恋人なんだから、リアさんと「そういうこと」するのは当たり前のことなのに。

 

チャンミンさんは、リアさんを支えていかないと。

 

引っ越しも中止して、あのお部屋でリアさんと暮らし続けるんだ。

 

全然、喜ばしいことじゃない、私にとって。

 

どうしてだろう。

 

どうしてこんなに面白くないんだろう。

 

どうしてこんなに、私の心は狭いんだろう。

 

チャンミンさんに甘えられなくなることが、どうしてこんなに寂しいのだろう。

 

お兄ちゃんみたいだけどお兄ちゃんじゃなくて。

 

優しいくせにしょっちゅう私を触ってくる、ちょっとスケベな人。

 

触られて嫌じゃなくて、もっと触って欲しいなぁ、なんて思う自分もいて。

 

だから、チャンミンさんが他の女の人...リアさんといちゃいちゃされると嫌な気持ちになるんだ。

 

今頃になって、ようやく気付いた。

 

私はチャンミンさんのことを、異性として見ているんだ。

 

私のことをちゃんと、「女」として扱ってくれた初めての男の人だから。

 

『民ちゃんは女の子なんだよ』って、しょっちゅう言ってた。

 

毎回聞き流していたけど、チャンミンさんは私のことを「女の人」として見てくれた。

 

それにもかかわらず私は、チャンミンさんを異性として意識したらいけない気がして、心にストップをかけていた。

 

だって、チャンミンさんには「彼女」がいるんだもの。

 

『リアとは別れるつもりだ』と聞いた朝の食卓で、嬉しいと思ってしまった自分がいた。

 

 

チャンミンさんをこらしめてやりたかった。

 

忘れてるフリをした。

 

頭を打った拍子に、チャンミンさんのことなんて、忘れちゃってるフリをした。

 

リアさんと結婚するかもしれないチャンミンさんなんて、知らない。

 

チャンミンさんに抱く不信と苛立ちの感情が、私を意地悪にさせたのだ。

 

リアさんと仲の良いチャンミンさんなんか、これ以上知りたくない。

 

だから、「あなたは誰?」って、チャンミンさんなんか「知らない」って言ってみた。

 

記憶喪失の人みたいに。

 

うんと冷ややかに聞こえるように、演技した。

 

チャンミンさんのショックを受けた表情。

 

心底哀しそうな顔をした。

 

意地悪で子供っぽい私は、「チャンミンさんなんか知らない」を貫いた。

 

そうしたら、チャンミンさんは焦ってきて、「僕だよ、チャンミンだよ」って何度も繰り返した。

 

そのうち引っ込みがつかなくなって、「冗談です」って言い出せなくなってしまった。

 

それくらい、チャンミンさんは真剣だった。

 

チャンミンさんに何て言ってもらいたかったのかな。

 

チャンミンさんにとって私はどんな存在なのか、はっきりと聞いてみたかったのかな。

 

「大事な存在だよ」みたいな言葉を期待してたのかな。

 

私は幼稚だ。

 

大きな体を持て余してる甘ったれ屋だ。

 

口ごもって目を伏せたチャンミンさんは、顔をあげると今まで見たことがないくらい真剣な面持ちに変わっていく。

 

そして、私をまっすぐに見つめて言った。

 

予想もつかないチャンミンさんの言葉。

 

「僕は民ちゃんの彼氏だよ」

 

はあぁぁぁ?

 

チャンミンさんはやっぱり、私をビックリさせる人だ。

 

心のキャパシティを一気に超えて、溢れて、洪水になって、私の頭は真っ白になってしまったのだ。

 

 

(つづく)

 

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【77】NO?

 

 

~チャンミン~

 

「民ちゃん...?」

 

民ちゃんの固い表情が気になった。

 

僕はベッド脇の折りたたみ椅子に腰かけ、ベッドに乗り出すようにマットレスに両肘をついた。

 

「よかった...」

 

ネットからはみ出た前髪が、額に張り付いている。

 

いつものように、指を伸ばしてそのひと房をよけてやった。

 

額に指が触れた瞬間、ぎゅっと目をつむったその表情が可愛らしかった。

 

頭を動かすと痛むのか、きりっと直線的な眉がひそめられた。

 

「頭...痛い?」

 

「......」

 

「民ちゃん?」

 

「......」

 

まだ、ぼーっとしているのかな、民ちゃんは無言のままだ。

 

「事故って聞いたけど...何があったの?」

「怪我の具合はどう?」

「僕は...心配してたんだよ」

「昨夜は、どこに行っていたの?」

「民ちゃんが無事で、安心した」

「黙っていないで、何か言って?」

 

「チャンミンさん、ごめんなさい」って謝りの言葉がきけると思った。

 

「私...」

 

病院内は乾燥してるからか、小さな声がかすれていた。

 

「水、飲む?」」と、ベッドサイドに置かれた吸い飲みをとって、民ちゃんの口元に添える。

 

乾いてひび割れた唇が吸い口をくわえ、一口だけ水を飲み込んだ。

 

「ゆっくりでいいから...何があったのか、教えて?」

 

点滴の針が刺さった腕を揺らさないように、民ちゃんの手を両手で包んだ。

 

と、民ちゃんの反対側の手が、僕の手をゆっくりと押しはがした。

 

「離してください」

 

「!」

 

「誰ですか?」

 

「え?」

 

「あなた...誰ですか?」

 

「民ちゃん...何言ってるの?」

 

いつもの民ちゃんのおちゃらけ、だと思った。

 

「誰ですか?」

 

頭を打って、朦朧として意識が混濁しているだけだよね。

 

事故に遭って、ショック状態なんだよね。

 

だから民ちゃんは、醒めた目で僕を見ているんだ。

 

「僕だよ。

チャンミン、チャンミンだよ」

 

「知らない...チャンミンなんて...知らない」

 

嘘だろ。

 

事故のせいで、健忘症になってるのか?

 

Tはそんなこと言ってなかったぞ。

 

「民ちゃんは僕の家に住んでるんだよ。

覚えていないの?」

 

「......」

 

「やだなぁ、民ちゃん。

からかってるんだろ?」

 

「......」

 

「ホントに覚えてないの?」

 

いつもの民ちゃんだったら、このタイミングで「嘘です」って言うんだけど。

 

「民ちゃんの兄のT。

僕はTの友達なんだよ」

 

そうなんだよ、民ちゃんと僕の関係って、それだけなんだ。

 

「知らない。

あなたなんて知らない」

 

民ちゃんは消え入りそうに小さな、掠れた声でそう言った。

 

「事故に遭ったって聞いて、心配して来たんだよ」

 

僕はもう一度、民ちゃんの手を取ったけど、抵抗のこわばりを感じて悲しくなった。

 

民ちゃんが僕を拒絶している。

 

「民ちゃん...。

チャンミンだよ。

民ちゃんと僕は一緒に住んでいるんだよ?」

 

「知らない」

 

民ちゃんの瞳が、ゆらゆらと揺れている。

 

涙が膨らんでいる。

 

民ちゃんは僕を覚えていない。

 

「僕はね...」

 

言葉が喉にひっかかってしまい、軽く咳ばらいをした。

 

民ちゃんの手を握りしめた。

 

顔を寄せたら、不快に思ったのかわずかに頬を背けられた。

 

いつもの甘い香りはしなくて、消毒薬の匂いしかしない。

 

「僕は...」

 

僕は深呼吸する。

 

「僕は...民ちゃんの彼氏だ」

 

「!」

 

民ちゃんは大きく目を見開いた。

 

「僕と付き合ってるんだよ?

覚えていない?」

 

「......」

 

おい、チャンミン!

 

お前は一体、何を言ってるんだ!

 

 

(つづく)

 

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【75】NO?

 

 

~民~

 

 

(ん...?)

 

まぶたを開けて最初に目に飛び込んできたのは、真っ白い天井。

 

ゆっくりと視線を左右に向けると、薄ピンク色のカーテン。

 

カーテンを吊るすレールの曲線をたどり、液体の入ったプラスチックバッグ。

 

(点滴...?)

 

チューブをたどると、自身の左腕に繋がっている。

 

(!!)

 

「いたっ!」

 

飛び起きようとしたら、後頭部を襲う激痛に顔をしかめて、やむなく頭を枕に沈めた。

 

ここは...病院だ。

 

この風景、匂い、電子音...間違いない、病院だ。

 

でも、なぜ?

 

「民!」

 

真上から見下ろす顔。

 

「......」

 

状況把握ができずに、答えを導き出すまでに数秒ほどかかってしまった。

 

「お兄ちゃん...」

 

「よかった...」

 

安堵したお兄ちゃんは、傍らの折りたたみ椅子にどかっと腰を下ろした。

 

先日生まれたばかりの赤ん坊の夜泣きと、3人の3歳児の世話で疲労がにじんでいた。

 

「引ったくり、だってな。

目撃者がいたらしい。

その人が、救急車を呼んでくれたんだ」

 

「引ったくり...」

 

そういえば、そうだった!

 

早く手を離せばよかったのに、抵抗したせいで振り飛ばされて、それから...。

 

痛む頭を動かさないように、自分の身体を点検する。

 

カーテンと同じ色の病衣を着ていて、そっと頭に触れるとガーゼを固定しているネットに触れた。

 

「石頭でよかったな。

お前の取り柄は頑丈な身体だ」

 

両手の平には、擦り傷がある。

 

ひったくり犯に引きずられた際、リュックサックの肩ひもでできたのだろう。

 

自分が今、病院にいる事情が分かりかけてきた。

 

「バッグ...は?」

 

「中身だけ抜かれて、どっかに捨てられてるだろうな。

病院に運び込んだものの、携帯電話もない、財布もない」

 

「そう...だよね」

 

財布にはそれほど入っていなかったし、他は着替えと洗面用具の入ったポーチ程度だ。

 

被害は少ない。

 

「ズボンのポケットにパスケース入れてただろ?

それのおかげで、身元が分かった」

 

「ああ...!」

 

万が一、財布を落とした時のために、交通カードと運転免許証だけは別にして持ち歩いていたのだった。

 

よかった、お父さんのアドバイス通りにしていて。

 

「実家に連絡がいって、母さんから俺に連絡があって」

 

「うそっ!

お義母さん!」

 

思わず跳ね起きようとしてしまい、頭がずきんと痛んで、再びベッドに沈み込む羽目になる。

 

「駆けつける、って言ってたのを止めたよ。

まずは俺が様子を見にいくからって。

俺が来てすぐに、意識を取り戻したから、大丈夫そうだって連絡しておいた。

最初の時は覚えてないか...ぼーっとしてたからな」

 

「どうしよう...」

 

両手で顔を覆って呻いた。

 

事件に遭って、怪我をして...。

 

都会で暮らすなんて民には無理だ、って反対されるかもしれない。

 

お兄ちゃんは、そんな私の心配事を察したのか、

「大丈夫だ。

俺が味方してやるからな」

と言ってくれて、私はホッとした。

 

「今、何時?」

 

「えーっと、18時だ。

お前が運ばれたのが、真夜中だったから...半日以上は経っているか」

 

「...そんなに?」

 

「なんでまた、あんなところをほっつき歩いていたんだ?」

 

「え...っと、それは...」

 

チャンミンさんちに居られなくて、ホテルにお泊りしようと思い立って。

 

リアさんがチャンミンさんの赤ちゃんを妊娠しちゃって。

 

とてもビックリしてしまって...頭を冷やしたくて沢山歩いた。

 

どこまで自分が来てしまったのかも、分からなかった。

 

「ま、いいさ。

落ち着いたらでいいが、警察の人がお前と話がしたいそうだ」

 

「お兄ちゃん...ごめんね」

 

「いいさ。

脳震盪だけで済んで。

検査をした結果、何も異状なしだ。

打った拍子に裂傷になったみたいで、何針か縫ってるけどな」

 

なるほど、それでガーゼが当てられていたのか。

 

「そうだ!

職場に連絡しなくていいのか?」

 

「あああ!

そうだった」

 

ユンさんの顔が浮かんだ。

 

当然だけど連絡をしていないから、無断欠勤状態だ。

 

「ここじゃ携帯電話使えないから、俺から連絡を入れておくよ」

 

「うん、お願い」

 

以前、携帯電話が手元になかった時、番号が分からず困った経験から、ユンさんの電話番号は空で言える。

 

私が怪我をした、と聞いたら、ユンさんは心配してくれるかな?

 

お見舞いに来てくれるかな?

 

「お兄ちゃん。

私は、いつまでここに?」

 

「意識も戻ったし、念のための検査をもう一回したら出られるんじゃないかな。

ま、今夜はここで一泊だ」

 

「一泊...」

 

「明日出られるとしたら...。

迎えにくるよ」

 

「お兄ちゃんは仕事でしょ?

一人で大丈夫。

タクシーで帰るから」

 

「大丈夫か?」

 

「うん」

 

「よし。

じゃあ、俺は帰るわ。

そうそう...もう少ししたら、チャンミンが来ると思う」

 

「!!」

 

 

(つづく)

 

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【69】NO?

 

~嵐の予感~

 

~チャンミン~

 

 

血の気がささーっと下がった。

 

民ちゃんに妊娠の可能性が...ある!?

 

「......」

 

待てよ。

 

民ちゃんは『未経験』じゃなかったっけ?

 

いや、本人の口から直接確かめたわけじゃない。

 

僕がそう勝手に思い込んでいただけだ。

 

民ちゃんが...妊娠...!?

 

民ちゃんがこっちに来て3週間くらいだから...田舎にいるうちにってことか!?

 

X氏と?

 

片想いだって言ってたけど、すでに「関係」はあったんだ。

 

X氏は民ちゃんをホテルに誘うかなんかしたんだ。

 

押しに弱い民ちゃんだから、ほいほいついて行って、それで...!?

 

X氏は行きずりのつもりだったけど、単純な民ちゃんは本気で好きになってしまって、それで追いかけて来たんだ!

 

事態は意外と深刻だ...。

 

ずりずりっと僕は、滑り落ちるように床にへたり込んでしまった。

 

僕は大パニックだった。

 

開封済で揺するとカタカタと音がする。

 

ってことは?

 

「触んないで!」

 

手の中のものを勢いよく取り上げられて、見上げるとリアが怖い形相で僕を睨み下ろしていた。

 

「え...?」

 

リアの様子に、僕は自分の誤解に気付いた。

 

ってことは...。

 

リアが...妊娠...の恐れがある、ってことか!?

 

この箱を見つけて真っ先に、民ちゃんの妊娠を疑った自分の早とちりに驚くし、本当の持ち主がリアだと知って、もっと驚いた。

 

「リア...?」

 

リアは無言で僕を睨みつけて、僕から奪い取った箱を背中に隠した。

 

「......」

 

リアが妊娠...の恐れがある。

 

「相手」は誰だ?

 

僕、か?

 

自然な流れだと、そうなるはずだ。

 

しかし、リアと『そういうこと』をしなくなって、半年以上は経つ。

 

待てよ...そう言い切れるか?

 

酔っぱらって帰宅した夜なんか、記憶がないだけでもしかしたら、リアを押し倒していたかもしれない。

 

身体が火照る。

 

「リア...どういうことだ?」

 

リアの美しい顔が、みるみるうちに歪んだ。

 

「チャンミンに関係ないでしょ」

 

「相手は、僕か?

それとも...?」

 

「チャンミンに責任をとってもらおうだなんて、思ってないから。

私と別れたいんでしょ?

もう好きじゃないんでしょ?

迷惑なんかかけられないじゃないの。

私ひとりでなんとかするから」

 

リアの言葉に、僕の周囲から一切の音が消えて、思考もフリーズしてしまった。

 

 


 

 

ふんふんと調子っぱずれな鼻唄を歌いながら、民は帰路についていた。

 

気分がよくて、上機嫌だった民はデパートに寄って、ちょっとお高いワインを奮発した。

 

(チャンミンさんと飲もう。

私は多分、グラス1杯でダウンしちゃうから、お酒の強いチャンミンさんに全部飲んでもらおう)

 

背中のリュックサックには、ワインの他に果実酢のボトルも入っている。

 

部屋の主の一人であるリアにも、手土産が必要だろうと民は考えたのだ。

 

この日、たっぷり4時間ユンのモデルを務めた民は、肩の凝りをほぐすようにぐるぐると腕を回す。

 

「今日はこれまで、だ。

よく頑張ったね」

 

と、頭を撫ぜた手、ポーズの角度を調整するために肩に置かれた手の感触を思い出す度、民の鼓動は早くなる。

 

(ユンさんったら、ささっと描いちゃうんだもの、凄い人だ)

 

必要最低限の線と、指でこすって陰影をつけただけのラフなものであっても、民の特徴をとらえていた。

 

「1枚下さい」とおずおずと頼んだ民に、ユンは「はははっ」と笑ってスケッチブックから1枚を破り取って民に渡した。

 

ゆるくひと巻きしたスケッチは、つぶれないよう民の手にある。

 

(チャンミンさんに見せてあげたいけど...そうしたらユンさんのモデルをしてることがバレちゃうし...)

 

エントランス・ドアを解錠しエレベーターを待つ間、民は大きく深呼吸をして気持ちを切り替えた。

 

(このことは当分、内緒だ。

チャンミンさんは、絶対にいい顔しないだろうから)

 

 

(つづく)

 

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【68】NO?

 

 

~民~

 

ユンさんは小部屋に姿を消すと、私のタンクトップを持って戻って来た。

 

「骨格をデッサンしたいんだ。

それを羽織っていたら見えないだろう?

これを着なさい」

 

「はい...」

 

私はユンさんに背を向けて、受け取ったタンクトップに素早く腕を通す。

 

ユンさんも真向いのスツールに腰掛けて、膝に置いたスケッチブックを広げた。

 

「姿勢を正してまっすぐこっちを向いて」

 

ユンさん視線は、私の頭のてっぺんから肩、腕、腰に視点を置くように何度も往復して、鉛筆を持った右手が迷いなく動いている。

 

ユンさんがスケッチブックに視線を落としているわずかな時間に、彼の濃い眉毛や伏せたまつ毛、通った鼻筋に見惚れたりして。

 

ユンさんが顔をあげたら、ついと目を反らす。

 

そんな私の様子は、とっくの前にユンさんにはお見通しだったみたいで、まれに視線がぶつかると、彼の口の両端がくいっと持ち上がった。

 

恥ずかしくてたまらない私は、寒いくらい涼しいアトリエにいるのに、顔も首も熱くて、多分脇の下は汗びっしょりだ。

 

さらさらと鉛筆が紙を滑る音。

 

スケッチブックと私の間を、ユンさんの情熱的な眼が行ったり来たりする。

 

私は息をするのも忘れて、ユンさんと視線がぶつからないよう意識して、螺旋階段の手すりを見ていた。

 

「次は斜めを向いて...」

 

「はい」

 

「腰は真っ直ぐのまま、身体だけひねるんだ」

 

緊張のあまりコチコチになった私は、ぎくしゃくとロボットのような動きになってしまう。

 

ふっと口元を緩めてほほ笑んだユンさんは席を立って、私の両肩に手を添える。

 

「こう。

そのまま、じっとしていて」

 

顔の距離が近くなって、ユンさんのいい香りがふわっと漂ってきて、私の緊張度が高まった。

 

「うん、いいね」

 

大股で自分のスツールに戻ったユンさんの背中で、一つに結わえた長い黒髪が揺れていた。

 

つかれたように鉛筆を動かすユンさんの姿に、「手の届かない人」だとあらためて思った。

 

これまで、ユンさんから駄々洩れの余裕ある大人の空気にあてられ、成功した経営者という立場にあるユンさんを、見上げるように見ていた。

 

それに加えて今日、次元の違う世界を見ているに違いない鋭い眼を持つ人だから、私みたいな凡人が相手にできる人じゃない、って。

 

いいのかな。

 

ユンさんみたいな凄い人に描いてもらったりなんかして。

 

私はあのスケッチブックのページに写し取られているんだ。

 

再び鉛筆を動かし始めたユンさんの、表情を引き締めた真剣な顔。

 

私は単純だからこんな姿を見せられたら、いい香りを嗅がされたりしたら、ドキドキしてしまう。

 

でも、なぜだろう。

 

ちくりと胸が痛んだ。

 

ユンさんの元で働くことに露骨に嫌な顔をしたチャンミンさんが浮かんだ。

 

「チャンミンさん、ごめんなさい」と心の中でつぶやくだなんて、タンクトップ姿をユンさんに見せてる私は、チャンミンさんに対して悪いことをしているみたいな気がしたのだ。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

「飲みに行きましょうよ」と誘う後輩Sの誘いを断って、僕は家に直行する。

 

賃貸情報サイトを見ていた僕の手元を、後輩Sに覗き込まれてしまった。

 

彼からの呼びかけに気付かなかったらしい。

 

「引っ越しするんすか?

あれ?先輩って彼女と住んでるんでしたよね。

...ってことは、別れるんすか?」

 

「えっ...あー...いろいろあって...」

 

あからさまに慌てる僕に、彼は「そうっすか...大変っすね」と労わるように言った。

 

帰宅途中、スーパーに寄って大量の食材を買い込んだ。

 

平日の夜だから手の込んだものは無理だけど、栄養たっぷりな美味しいものを作ろうと思ったのだ。

 

リアとしたかった「生活」の相手を、リアの代わりとして民ちゃんにさせようっていうつもりじゃない。

 

もうすぐ僕と民ちゃんは別々になってしまうから、残り少ない時間を惜しんでいた。

 

帰宅した僕は、キッチンカウンターに袋を置き、さて着がえようかとネクタイを緩めた時、

 

「私はいらない」

 

突然の声に驚いて振り向くと、ソファに横になっていたリアの存在に気付いた。

 

いつもなら、この時間はリアは出勤後で留守のはずだった。

 

「あ、ああ」

 

今夜はカレーにする予定で、脂っこいものは口にしないリアのことなんか念頭になかった。

 

肉も野菜も大食いの民ちゃんのために、普段の2倍の量を用意していた。

 

美味しいものを民ちゃんに食べさせてやりたかったんだ。

 

餌付け?

 

食べ物で釣る?

 

まさか。

 

「美味しいですー。お代わりしていいですか?」の民ちゃんの笑顔が見たいだけ(我ながら、僕は末期症状だ)

 

キッチンカウンターに置かれた包丁ホルダーを目にするたび、胸がズキリとする。

 

僕と別れまいとしたリアは、包丁を自身の喉元につきつけたんだ。

 

「わかってるよ」

 

リアから目を反らした僕は、洗面所へ向かおうと背中をむけた。

 

「気分が悪いの...」

 

リアのつぶやきに僕は、再び振り向いた。

 

「大丈夫なのか?」

 

「...分からない...最近、調子が悪くって...」

 

「風邪か何かか?」

 

「どうだろ...」

 

寝そべるリアの側に近づいて、その額に手を当てようとしかけて寸前で思いとどまる。

 

優しげな行動は、僕らの別れに納得したのかどうか未だ曖昧な状況では、避けるべきだ。

 

リアが困らないよう、翌月分の家賃を振り込んだり、僕の優しさには一貫性がない。

 

「風邪薬ならストックがあったはず。

持ってくるよ」

 

収納棚の観音扉を開けて、ビタミン剤や常備剤を並べた棚の辺りを探る。

 

そういえば、民ちゃんにこっぱずかしいものを発見されてしまったんだった。

 

「おかしいなぁ...ない」

 

思い切りのよい民ちゃんが全部捨ててしまったのかな...まさか、民ちゃんはそんなことしない子だし。

 

と考えながら扉を閉め、洗面台下の引き出しに手をかけた時、

 

「ん?」

 

洗面ボウルの脇に薬箱のような紙箱に気付く。

 

薬の箱にしては細長いな、と持ち上げたそれの印刷された文字を見て...。

 

「!!!!!」

 

妊娠...検査薬!?

 

言葉なく、手にした箱に書かれた説明文を一文字一文字、何度も読み返して、状況を把握しようとする。

 

妊娠...!?

 

民ちゃん!!

 

民ちゃん...いつの間に...!!

 

 

(つづく)

 

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