(21)麗しの下宿人

 

 

ユノは片手で口を覆い僕の顔を見つめていたが、がんとして目を反らさない僕にようやく諦めたようだ。

 

「男ってのは、女の人の裸が好きな生き物だってこと、知ってるだろう?」

 

「そうみたいだね」

 

「この『好き』っていうのは、『エッチ』な意味だ。

エッチで分かるか?」

 

「分かってるよ、それくらい」

 

まるで、小さな子供を相手にするかのような言い方にムカついた。

 

「エロいっていう意味でしょ?

スケベっていう意味でしょ?

知ってるよ」

 

「ああ。

胸がザワザワする感じだ。

チャミは12歳だ。

興味が湧くころじゃないかな?

どう?」

 

「僕は女の人の裸は好きじゃない」

 

僕はきっぱり言い切った。

 

『エッチ』とはどういう意味なのかは知っていたけれど、僕には遠い感覚だった。

 

恥ずかしいことだからと言って、嘘をついていたわけじゃない。

 

クラスの女子を含め、街中やテレビで目にする女の人を見て、僕の胸がザワザワしたことはない。

 

「チンコがでっかくなったことはないのか?」

 

「...デカく?」

 

「ああ」

 

「な、なんでそんなこと聞くの?」

 

と、とぼけてみたけれど、ユノと知らない男の人が裸で絡み合っていた光景を思い出すと、決まって妙な気分になって、おちんちんに触れたらいけない気になるのだ。

 

触るどころか、その光景を頭から追い払わないといけない気にもなるのだ。

 

「なんでって言われてもなぁ...。

参ったなぁ...」

 

困り顔になったユノは、首筋をポリポリ掻いたり、天井を見上げたりしていた。

 

ユノが前置きしたように、とても言いにくいことらしい。

 

「...パンツ汚したこと、何度かあるだろ?

朝起きた時、チャミのそこが...カチカチになってたこと...ないのか?」

 

「ユノちゃん!」

 

とても恥ずかしかった一件を持ち出されて、僕は顔を真っ赤にしてユノの腕を叩いた。

 

「『そのこと』は言わないで!!」

 

「アハハハ。

ごめんごめん」

 

「その話は止めて!

僕のおちんちんは何ともないよ!」

 

ユノは振り上げた僕のこぶしを片手で受け止め、そして僕の顔をじっと見つめた。

 

「そうなのか?

そういうものなのかなぁ...。

12歳じゃまだ早いのか...」

 

と、ぶつぶつ呟き出したから、僕は畳を叩いた。

 

「ユノちゃん!」

 

「分かった分かった。

とにかく、これは言いにくいことなんだ」

 

「『オメガ』について、何が言いにくいの?」

 

「チャミが図書館で怖い思いをしてしまったことも、俺が今から話すことと繋がる。

なぜチャミがうなじを隠さないといけないのか」

 

「うんうん」

 

僕はぴしっと背筋を伸ばした。

 

「『オメガ』はとてもエロい」

 

「...エロい?」

 

意外な言葉に、僕はぽかんとした。

 

「...エロい目で見られる」

 

「エ、エロい...」

 

「そうだ。

『オメガ』はエロい。

エッチな存在だ。

特に男にとって」

 

「男の人は女の人が好きなんでしょう?

僕は男だ」

 

「そうだ。

その通りだけど、男は女の人が好きなものだとは言い切れないんだ。

そうじゃない場合もあるんだ...」

 

「......」

 

「男が男を好きなこともある」

 

「ええっ!!」

 

「そういうこともあるけれど...ああ~!!

今はその手の話をしたいわけじゃないんだ」

 

ユノはじれったそうに、前髪をかきあげたりかきむしったりした。

 

「俺が言いたい『好き』とは、『あの子に片想いしてるの~』っていう『好き』じゃない。

 

『好き』の性質が違うんだ」

 

ユノは女の人の声音を真似ると、くねくねと身体をくねらせた。

 

「ユノちゃん!」

 

難しい話になると、すぐにふざけるユノだ。

 

「『オメガ』は誘惑する。

相手が男だろうと女だろうと、誘惑する」

 

「!」

 

「誰しもかれしも誘惑するわけじゃない。

オメガの香りに敏感な者の存在がいる、って言っただろう?

チャミのクラスメイトの中に、チャミの香りに気付いた奴がいたように?」

 

「...あっ!」

 

ユノに指さされて、僕はとっさにうなじに手をやった。

 

「そうだ。

チャミの香り...『オメガ』の香りに気付く者たち。

そういう奴らは、『オメガ』を見ると...『オメガ』の香りを嗅ぐと、滅茶苦茶エッチな気持ちになるんだ」

 

ユノは団扇をパタパタ扇ぎ始めた。

 

「え...?」

 

「『好き』とは違う衝動だから、『オメガ』の性別は関係ない。

チャミが男だろうと関係ない。

エッチな気持ちになった奴らは、『オメガ』にエッチなことをしたくなるんだ。

...滅茶苦茶にね」

 

「......」

 

「チャミは男だが、『奴ら』にエロい目で見られる。

チャミはオメガであるが故に、『奴ら』に襲われる。

『奴ら』は男も女もいるけど、男の方が力が強い。

だから怖いんだ。

チャミは襲われる側。

チャミは羊。

奴らはオオカミだ」

 

「じゃあ、図書館の人って...?」

 

「そいつはチャミの香りに気付けた奴だ。

そいつはオオカミだ」

 

「...っ」

 

「チャミは本能的にそいつに恐怖を感じてしまった。

『こいつは危険だ』って」

 

突然知らない人から腕を掴まれれば、誰だってドキッとすると思う。

 

でも、僕が味わった恐怖心はとても強烈なもので、心臓がぎゅっと握りつぶされるかと思った。

 

下宿屋まで命からがら逃げ帰ってきた、と言っても過言ではない。

 

「参ったな...この街にいるのか。

住民だったら厄介だな」

 

と呟くユノはとても怖い顔をしていた。

 

「どうしよう...!」

 

「大丈夫だ。

明日、お母さんに話して、その後、病院に行くんだ。

襲われなくても済むような薬を出してもらえるはずさ。

薬がある、ってこの前話しただろう?」

 

「そうだった!

あ~、よかった」

 

僕は胸を撫で下ろした。

 

ちりんちりんと風鈴の音が届いてくる。

 

開けた窓からぬるい風が吹き込み、ユノの前髪を揺らした。

 

窓の外を眺めるユノの横顔がとても綺麗だった。

 

「......」

 

ここで僕は、大きな事実に気付く。

 

...ユノは僕の香りに気付いた。

 

ということは。

 

「ユノちゃん!」

 

「んー?」

 

「ユノちゃんもエッチな気持ちになるの?

だって、僕のニオイに気付いたんでしょ?」

 

「......」

 

ユノの表情が、ぼんやりとしたものから真顔に変わった。

 

「いや...」

 

風上に座ったユノは微笑むと、ゆっくりと首を振った。

 

「俺はそうならない」

 

「とても苦しそうだった」

 

「大丈夫だ。

チャミの香りに気付いたかもしれないけど、チャミの側にいてエッチな気持ちになんてなるはずないよ」

 

「ホントに?

襲わない?」

 

「ば~か。

チャミがおねしょしていた頃から知ってるんだぞ?

お前相手に、エロい気持ちになるわけないだろう?」

 

「おねしょしたことなんてないよ!!

酷いよ。

嘘言わないでよ!」

 

「ははっ。

ごめんごめん、ジョーダン」

 

つん、と拗ねる僕を、ユノは「まあまあ」となだめた。

 

こんなやりとりは、いつも通りだった。

 

「チャミが『オメガ』だと気付いた俺だけど、変な気持ちになったことはない。

 

チャミの香りを嗅ぐと、少しだけ具合が悪くなるだけさ」

 

僕は『オメガ』になったらしいけれど、僕に対するユノの態度は全然変わっていないから、彼の言葉は信じていいんだ。

 

(つづく)

 

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(20)麗しの下宿人

 

僕はユノを建物の中へと引っ張り込むと、彼の胸にしがみついた。

 

「何があった?

チャミ?」

 

「......」

 

眩しい太陽から逃れた僕の視界は真っ暗で、だから僕は目をギュッとつむって、ユノのみぞおちに頬をぴたりとくっつけていた。

 

「チャミ...震えてる」

 

ユノに指摘されるまで、僕の背中が震っていることに全く気付かなかった。

 

身体はこんなに熱いのに、表面はうっすらと冷や汗をかいているようだった。

 

「黙ってたら分からない。

何があったんだ?」

 

問いかけに一向に答えようとしない僕に、ユノは諦めたようだった。

 

ユノ自身の汗で湿っていたTシャツは、僕の涙でさらに濡れた。

 

ユノは痩せている。

 

でも、こうやって抱きついてみると、見た目以上に筋肉がついていて、厚みのある身体つきだと知った。

 

なぜなら、僕の両腕では囲いこめないのだ。

 

ユノは僕の背を、やさしく撫ぜてくれていた。

 

あの男が下宿屋まで追いかけてきていないことは確認済だ。

 

でも、あの時の、心臓をぎゅっと掴まれたみたいな恐怖感からは、まだまだ逃れられずにいた。

 

それでも、ユノがいれば大丈夫だ。

 

ユノは僕の呼吸が整ったのを確かめると、

「おんぶしてやろうか?」

「え?」

 

僕の返事を聞く前に、ユノは僕に背を向けてしゃがみこんだ。

 

ユノの広い背中と「おいでおいで」している両手に甘えて、僕は全身を預けた。

 

「......」

 

...多分、ユノは息を止めていたんだろうと思う。

 

僕の放つ香りがとても苦しかっただろうに...ユノは僕の首を覆うどころか、全身を密着させ、蒸した自室に連れて行ったのだ。

 

 

のちに、オメガとは暴力を呼び寄せがちな危険な存在だと知り、ユノの自制心の強さに驚くしかなかった。

 

その自制心は、僕への愛情が下支えになっていることも、しばらく後になって知った。

 

 

ユノに手渡されたグラスの中身...水道水...を、一気飲みした。

 

首にはタオルを巻きつけていた。

 

(軒下に干されていたユノの持ち物だ)

 

ようやく僕は、図書館での出来事を話した。

 

人付き合いの苦手な小学生が、要点を押さえた筋道だった話ができるはずもない。

 

図書館で宿題をするに至った動機から伝えようとするから、男に腕を掴まれたところに到達するまでの前置きが長くなってしまった。

 

その間ユノは、団扇で胸元を扇ぎながら僕の話を辛抱強く聞いてくれた。

 

「結局、何があったんだよ?」と苛立ちを露わにされたら、僕はひるんでしまうか、拗ねてこの部屋を出て行ってしまったと思う。

 

ユノは僕という子供をよく分かっている。

 

僕とうまくやっていくには、気が短くてはいけないのだ。

 

 

話し終える頃には、僕も落ち着きを取り戻していた。

 

「そりゃあ、軽率だったなぁ。

気を付けるように、って言っただろう?」

 

「軽率って?」

 

「軽々しいってこと。

よく考えずに、行動してしまうってこと」

 

いつもなら「辞書で調べな」とそっけないのに、今日のユノは優しい。

 

僕は首に濡れタオルを巻いていた。

 

「ちゃんと考えたよ?

タオルだって巻いて行ったんだから」

 

「冷たいアレは巻いていかなかったのか?」

 

「...それは」

 

保冷剤を冷凍庫に入れておくことを、うっかり忘れていたのだ。

 

「だって、だって...ユノちゃんがいないから。

いっつも家にいないしっ...一人で出かけるしかないじゃないか。

この家は暑すぎるんだよ」

 

「そう言われても...バイトだったんだ...」

 

「僕は『オメガ』だって教えたのはユノちゃんだよ?

知ってるなら全部教えてくれてもいいのに!

責任とってよ?」

(『責任をとる』なんて、一体どこで覚えた言葉なんだろう?多分、テレビドラマか何かだと思う)

 

甘ったれたガキになって、僕はめそめそとぐずってみせた。

 

「だってなぁ...。

チャミのこれからの人生がかかっている事なんだ。

他人の俺が聞きかじった素人知識だ。

いい加減なことは教えられない。

...そう思ったんだ」

 

「分かってるよ。

お母さんに話して、その後病院に行って...。

そういう順番だったよね?」

 

「そう。

チャミが言う通り、放ったらかしにしていた俺がマズった。

まさか、チャミの香りに気付く奴が近くにいるとは思わなかったんだ」

 

「びっくりしたのは僕だよ。

腕痛かったんだから。

ほら?」

 

ユノに二の腕を差し出してみて、僕自身が驚いた。

 

「!!」

 

痛かったはずだ。

 

男に捕まれたそこに、赤く指の跡がついていた。

 

「ちくしょう...」

 

唸るようなユノの低い声に、僕はハッとした。

 

「でも...」

 

ユノはうな垂れると、深い深い沼から響いてくるような、大きなため息をついた。

 

「よかった...チャミが何ともなくて」

 

ユノの大きな手が伸びてきて、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。

 

そうかぁ。

 

ユノの態度が鬼気迫るものではなく、どこかとぼけたものだったのは、僕のパニックに追い打ちをかけないようにするためだったのか。

 

「その男の特徴については、他に覚えていることはないのか?」

 

僕は首を振った。

 

あの時の僕はうつむいていて、男の大きなスニーカーしか見ていない。

 

分かったのは、若い男の人で力が強かったこと。

 

僕の耳たぶに吹きかかった、熱い吐息。

 

思い出すと、ぞくりと背筋が凍る。

 

ユノは再び、ため息をついた。

 

「はぁ...。

チャミはまだ子供で助かった。

マジで助かった」

 

「子供だと大丈夫なの?」

 

ユノの言葉が気になって、僕は身を乗り出しかけたが、一瞬顔を背けた彼にハッとして、身を引いた。

 

「チャミには理解できないだろうけど、オメガってのは...。

こんな言葉は使いたくないんだが、つまり~...」

 

ユノはとても言いにくそうに、言い渋っている。

 

「何?」

 

僕は「教えてよ」とユノをキッと睨みつけた。

 

(つづく)

 

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(19)麗しの下宿人

 

(オメガの本...。

きっとどこかにあるはずだ)

 

本の在りかを訊ねようと1階カウンターに近づきかけた瞬間、僕は180度、くるりと向きを変えた。

 

僕がカウンターにやってくるのを待っていた風のお姉さんは「あれ?」と思っただろうな。

 

『オメガについて書かれた本はどこにありますか?』...質問したらいけない気がした。

 

『オメガ』というワードは、気軽に口にしてはいけない気がした。

 

とても希少な存在だけど、ユノのように知っている人はいるのだ。

 

本の在りかを訊ねたりなんかしたら、カウンターのお姉さんに「この少年はオメガなのでは?」と疑われるかもしれない。

 

(あのお姉さんが、オメガを知っている人だった場合の話だけど)

 

1階が絵本、2階がこの図書館のメイン階(さっきまで僕が宿題を仕上げていたところ)、2階より上は行ったことはないが、案内板によると専門書が多くそろえられているようだ。

 

(ここだ)

 

3階まで階段を駆け上がり両開き扉を開けると、受付カウンター、大テーブル、書架の順で2階と変わらない配置の部屋だった。

 

書架の高さや間隔が高く狭く設置されており、そこに収められている書籍も、地味な装丁のものばかりなようだ。

 

インクと紙の匂いに満ちていて、ここにいるだけで頭がよくなりそうだった。

 

圧倒的に利用者が少なく、1階、2階とは全く異なる空間だった。

 

この部屋には子供はひとりもいない。

 

受付カウンターには50代くらいの女性がいる。

 

おどおどと入室してきた僕に、「おや?」といった表情になった。

 

僕は利用階を間違えて、迷い込んでしまった子に見えただろう。

 

見張っているような視線をチクチク感じながら、僕は書架に近づいた。

 

(どこかな...)

 

ここに、大学の教授や研究者がまとめた専門書があるかもしれない。

 

僕はごくん、と唾を飲みこんだ。

 

分類など分からないけれど、『オメガ』の文字を頼りに端っこから探してゆこうと思った。

 

(オメガ、オメガ...)

 

最上段の棚は高すぎて、いくら背伸びしてもタイトルを読むことができない。

 

そこで僕は、通路の端に立てかけてあった脚立を引きずっていく。

 

「そこのあなた」と後ろから声をかけられた。

 

驚きのあまり、悲鳴を上げそうになった。

 

「は、はい!」

 

カウンターにいた女性司書だった。

 

「どんな本を探しているのかな?

分かる?」

 

「えっと...えっと...」

 

「宿題の調べ物?」

 

悪いことをしているのを見咎められたかのような気分に襲われた。

 

「あの...その」

 

僕は後ずさりした。

 

「一緒に探してあげましょうか?」

 

それが彼女の仕事であり、好意で言ってくれていたんだろうけど、余計なお世話だった。

 

「どんな本を探しているの?」

 

「......」

 

「...あっ!

あなた!」

 

僕は彼女の呼びかけを無視して、部屋を飛び出した。

 

階段を駆け下りる。

 

ドキドキドキドキ。

 

『オメガの本を探してください』...とてもじゃないけれど、頼めないよ。

 

早くこの場から立ち去りたくて、足がもつれて転げ落ちないよう、手すりに手を滑らせ、ステップだけを見て階段を下りた。

 

踊り場でターンをした時、下からやってきた人とぶつかってしまった。

 

「すみません!」

 

ぶつかってしまった人の顔も見ず、足元に視線を落としたまま謝った。

 

僕は会釈をして、その人の脇をすり抜けようとした。

 

ところが、僕の身体は頑として、その先へ進むことができなかった。

 

「あっ!?」

 

二の腕が痛い。

 

腕を掴まれたのだ。

 

「君って...」

 

言葉と同時に、僕の耳たぶに熱い空気が吹きかかった。

 

「...っ!」

 

僕は首をすくめた。

 

怖気が走り、首にかけただけのタオルを喉元にかきよせた。

 

僕の腕をつかむのは絶対に男の人だ。

 

声の感じから、おじさんではないと思う。

 

僕の頭はその人のお腹辺りで、履いているスニーカーが大きかった。

 

「もしかして...?」

 

その人の顔の距離が近い。

 

ぎゅっと心臓が縮んだ。

 

これは、恐怖だ。

 

叫び声すら出ない。

 

顔を上げることもできない。

 

よって、手の持ち主の顔を確認することもできない。

 

彼と眼を合わせたらいけない気がする。

 

「おい!」

 

僕はその人の手をふり払った。

 

転げ落ちる勢いで、階段を駆け下りた。

 

「待てよ!」

 

早く沢山の人がいる2階にたどり着きたい一心だ。

 

彼に首根っこを掴まれそうな気配を感じた丁度その時、2階から高校生集団が階段を上がってきたのだ。

 

助かった。

 

その高校生集団に、男の人は行く手を阻まれたようだった。

 

「君!」

 

僕は図書館を飛び出して、酷暑の帰路についた。

 

 

「はあはあはあ...」

 

帰り道は下り坂だったから助かった。

 

何度も後ろを振り返って、彼が追ってこないことを確かめた。

 

最初から真剣に追いかけるつもりはなかったようだ。

 

そうでなければ、とっくの前に僕は捕まっていただろう。

 

ぜえぜえと肺を酷使したせいか、呼吸に痰と血の味が混じっている。

 

暑さも喉の渇きも忘れていた。

 

桜の家を曲がると、僕らの下宿屋が前方に見えてくる。

 

あとちょっとだ。

 

門扉まであと10メートルのところで、

「お~い、チャ~ミ~」

前方上から声が降ってきた。

 

窓を開け、欄干に腰をひっかけたユノが、僕に向かって手を振っていた。

 

「ユノっ...ユノちゃん!」

 

僕は息が切れていて、掠れて悲鳴じみた声しか出せない。

 

だらだら滴り落ちる汗が沁みて、目がしょぼしょぼする。

 

「チャミ!?」

 

僕のただ事じゃない様子に気付いたようだ。

 

「待て、待ってろよ。

すぐ行く」

 

窓の中へユノの姿が引っ込んだ。

 

そして、驚くほどの速さで、僕のもとまでやって来たのだ。

 

僕は建物の中に入ろうとはせず、その場でユノが来るのを待っていた。

 

「どうした?

チャミ?」

 

ユノはしゃがんで僕の目線と合わせ、唇をぶるぶる震わす僕を覗き込んだ。

 

「何があった?」

 

「...っ...っ...」

 

「痛いことされたのか?」

 

「ううん」

 

「本当だな?

嘘ついてないな?」

 

「うん」

 

ユノは怪我がないか、僕の身体をあらためた。

 

「おいおい、チャミ~。

涙が出てるぞ?

どうしたんだよ?」

 

ユノの方こそ、泣きそうに顔をゆがめている。

 

「怖かった...」

 

「怖かった!?」

 

「あのねっ...あのね、ユノちゃん。

あのね」

 

僕はもう大丈夫だ。

 

ユノが側にいる。

 

緊張が一気にほどけ、おしっこをお漏らししそうだった。

 

「中に入ろうか?」と、ユノは僕の背に手を添えた。

 

「待って」

 

僕はユノの手をすり抜けて、門扉の外に出ると、念押しで桜の家の辺りを確認した。

 

真夏の平日、中途半端な時間帯、通りには車も通行人もいない。

 

「...チャミ?」

 

僕はユノの手を取り、今度は僕が下宿屋の中へと先導した。

 

よほど慌てていたのだろう、ユノは裸足だった。

 

 

ユノは片手で自身の鼻を塞いでおり、彼のこめかみには青筋が立っていた。

 

やっぱりタオルだけじゃ不完全なんだ。

 

「ごめん、ユノちゃん。

すぐに冷やすから...」

 

首筋に手をやると、ぬるりと汗に濡れた肌に直接触れた。

 

「あ...」

 

タオルがない。

 

どこかに落としてきたのだ。

 

道中か、図書館か。

 

 

(つづく)

 

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(18)麗しの下宿人

 

僕の家から徒歩15分の場所に図書館がある。

 

僕は吹き出す汗をタオルで拭いながら、宿題入りのバッグを持って、上り坂をてくてくとここまでやって来た。

 

前庭に植えられた木々が濃い影を地面に落とし、人も建物もすっぽり覆う蝉の鳴き声は、いい加減聞き飽きた。

 

この暑さに、いつもはおじいさんやおばあさんで塞がっているベンチも空席になっている。

 

自転車置き場が、学生たちのもので満車になっていた。

 

タオルを首に巻いて入館するのは恥ずかしくて、一旦タオルを外しバッグに押し込んだ。

 

建物内はひんやりと涼しかった。

 

ここへは何度も来ているから、案内板を見なくてもどこに向かえばよいか分かっている。

 

僕は階段を使って2階へと上がった。

 

室内の中央に8人掛けの大テーブル、書架の奥まった所に1人用のデスクが等間隔に配置されている。

 

僕は当然、1人用のデスクを目指し、使用中の人から距離を取ったデスクについた。

 

ここまで来れば人目も気になりにくい。

 

正面玄関でバッグに隠したタオルを取り出し、今さらだけどユノの言いつけ通り、首に巻いた。

 

オメガについて知らないも同然の僕は、「何の意味があるんだか...」と半信半疑だ。

 

僕がオメガだと指摘されてから今日まで3日経過していて、その間ユノとまともに会話ができていない。

 

3日連続、朝から不在で、ユノが帰宅するのは21時以降。

(母は早寝早起きにとても厳しい。不健康な生活習慣は悪だと考えている。幼少期の僕を思えば、僕の健康を案じる母の気持ちも理解できるが)

 

僕をさんざん驚かせたと言うのに...!

 

不安をぶつけて安心したかった僕は、ユノの不在が不満だった。

 

リビングでTVを観る母の目を盗んで、ユノの部屋へ遊びにいくことは難しかった。

(ダイニングとリビングを仕切る戸は常に開け放たれ、ダイニングを通らないと階段までたどり着けないからだ)

 

僕は原稿用紙と一緒に持参した課題図書の本をデスクに広げ、出だしで止まってしまった文章の続きにとりかかる。

 

中央辺りはひそひそ声がさざめいているけれど、ここは本当に静かだ。

 

鉛筆が原稿用紙を引っかく音すら騒音になりそうで、気を遣った。

 

エアコンで頭が冷却されたおかげで、思考がクリアになり、サクサクと感想文ははかどった。

 

 

課題図書のあらすじはこうだ。

 

とある所に、オオカミとヒツジの夫婦が暮らしていた。

 

容貌はとても美しく、『完璧なオオカミ』、『完璧なヒツジ』とは彼らのことだと言い切ってしまってもいいくらいだった。

 

特に母親の場合、やわらかな肌は森のオオカミたちから、黄金色の体毛と爪は高値で売れるからと村人たちから狙われていた。

 

ヒツジを愛しているオオカミは、森のオオカミと村人たちからヒツジを全力で護っていた。

 

主人公は、オオカミの父とヒツジの母との間に生まれた特異な子だった。

 

オオカミのような強靭な身体と鋭い目を持ち、性質は羊のように穏やかで思いやりに溢れており、当然見た目も美しく、まさに両親のいいとこどりだ。

 

ところが主人公が村に下りることはほとんどない。

 

やむを得ず出掛けるときは、村人たちの視線から逃れるために、大きな布で顔と身体を覆っていた。

 

村人たちはこれまで、オオカミとヒツジの間に生まれた子を目にしたことはなかったからだ。

 

主人公には見聞を広めて欲しかった父親は、積極的に出かけるよう勧め、身を隠す生活に慣れきっていた母親は、目立たずひっそりと暮らすよう主人公に訴えていた。

 

この物語を読んでいくうち、疑問がたくさん湧いてくる。

 

オオカミはヒツジを食べたくて仕方ないだろうに、肉食のオオカミと草食のヒツジがどうやって同じ屋根の下で暮らせるんだろう?

 

そもそもオオカミとヒツジとでは種が違う。

 

子供が生まれたことがあり得ない話だ。

 

ポメラニアンとシーズーの場合とは比べ物にならないのだ。

 

「凄いね~」で受け入れられるほど、僕は子供じゃない。

 

僕は当初、無理のある設定に疑問を呈する感想文に仕上げるつもりでいた。

 

「...でも...」と僕は注目点を変えることにした。

 

ターゲットをオオカミとヒツジのハーフである主人公ではなく、主人公の両親に心惹かれたからだ。

 

深く愛し合い、互いを大切に思う気持ちがあれば、見た目や種族を超えて奇跡が起きる。

 

ある日突然オメガになってしまった僕は、この物語のどの登場人物にもあてはまりそうにない。

 

オオカミとヒツジの間には特別な結びつきがある。

 

僕の読書感想文は恋愛感情要素を絡めた内容になってしまい、おマセだったかなぁ、と思ったけれど...。

 

これが恋愛感情なのかどうかは、「これは恋だ」と自覚した経験のない僕では判断がつかない。

 

そうであっても、なぜだかこの物語に心惹かれたのだ。

 

 

(帰ろう)

 

400文字詰め原稿用紙2枚を埋め終え、僕は帰ることにした。

 

外は相変わらず暑くて、クーラーが効き過ぎて鳥肌がたつほどだった肌に、あっという間に汗の玉が浮いた。

 

(この感じ、例えると...温かいくず湯に浸かっている感じ...そうだ、そうだ)

 

正門を抜け、道路へ出た。

 

ここから15分歩くのか...気が遠くなる。

 

気を張っていないと暑さで視界が歪んで、自宅に帰りつく前に溶けてしまいそうだった。

 

「あ...」

 

図書館を出て1分もしない時、僕はふと思ったのだ。

 

ここは町で一番大きな図書館だ。

 

『オメガについて書かれた本があるかもしれない』

 

自分から情報を求めることも大事だ。

 

そう思いついた僕はくるりと方向転換、出てきたばかりの建物へと走った。

 

「自分で調べたのか!?

チャミは凄いなぁ」

 

ユノに褒められているシーンを想像して、僕の口元は自然と緩んでいた。

 

 

(つづく)

 

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(17)麗しの下宿人

 

「あ~あ。

今夜、話すつもりだったのに」

 

勢いが削がれてがっくりきた僕は、ごろんと横になった。

 

「ちゃんと掃除してるじゃん」とぼんやり思いながら、飴色に変色した畳の目地を見ていた。

 

今夜は各々で入浴を済ませていた。

 

僕は甚平を(母が縫ってくれた)、ユノは赤色のTシャツと、膝までたくし上げたスウェットパンツ姿だった。

 

ユノは赤が良く似合う。

 

ユノは再び、漫画本の世界に戻ってしまっていた。

 

窓際の壁にもたれ、長い足を投げ出したいつもの姿勢だ。

 

僕はユノから距離をとった、部屋の真ん中辺りに寝転がっていた。

 

「お母さんに話して、それから専門のお医者さんに診てもらって、薬を飲めばすべて解決...」と、つぶやいていたところ。

 

「そうか!」

 

僕の視界の隅でだらけた姿勢でいたユノが、しゃんと飛び起きた。

 

「ユノちゃん?」

 

「俺はボケボケのじじぃだ!」と、頭をかきむしると、「チャミ、悪かった」と謝ってきた。

 

謝られる理由が全く思い当たらず、何のことやら首を傾げていると、

「『お母さんに打ち明けろ』って、強引だっただろ?

絶対に言わないと駄目だって」

 

「うん。

だから、今夜そうするつもりだったんじゃん」

 

「俺はチャミに無理なお願いをしていたんだ。

チャミひとりに言わせること自体が、無謀だったんだ」

 

「だからユノちゃんも一緒に居てくれることになったんでしょ?」

 

「結果的にはね。

本来なら、『俺が』チャミをお母さんのところに連れていかなきゃいけなかったんだ」

 

ユノがこだわっている点が何なのか、僕にはぴんとこない。

 

「変だろ?」

 

「何が?」

 

「チャミが『オメガ』を知ってることが...変なんだよ」

 

「変かな?」

 

「よく考えてみろ」と、ユノは宿題を教える時みたいに、ぐいっと身を乗り出した。

 

 

「チャミは『オメガ』の存在を知らなかった。

 

『オメガ』の存在を知らない者が多いのに、12歳のチャミがどこで『オメガ』を知ったのか?」

 

人差し指をピンと立ててみせるのも、いつものユノのジェスチャーだ。

 

「ユノちゃんが、教えてくれたから」

 

「そうだよ。

『チャミはオメガなのでは?』と気付いたの俺だ。

無責任にも俺は、お母さんに打ち明けに行けと、チャミ一人で行かせようとしていたんだ。

俺自身『オメガ』のことを知っているからって、チャミのお母さんが知っている体でいてしまったよ」

 

「そういうことね...」

 

僕はユノの言いたい事が、だいたい理解できた。

 

「やっぱり、お母さんは『オメガ』のこと知らないのかな?」

 

これまで、母の口から『オメガ』のオの字も出たことはない。

 

「存在は知っていても、まさか身内にいるとは思わないよ、普通」

 

ユノは「...でも、どうだろう...」とつぶやくと、空を睨んだ。

 

僕はその続きを待っていたけれど、ユノはその言葉を飲み込んでしまったようだった。

 

「チャミ単独でお母さんに突撃させることは無茶な話だった、ってこと。

早く伝えた方がいいと急かしたり、

気付いたのは俺だ。

チャミに判断を任せるなんて...俺が責任もたないと。

ごめんな」

 

「別に、謝らなくてもいいよ」

 

「チャミのことでびっくりしちゃって、テンパってたみたいだ」

 

「僕のニオイのせい?

苦しくなっちゃうんでしょ?」

 

「ごめんね」と謝ろうとした時、ユノは僕に向けてタオルを投げた。

 

「ほらな?

どうしても、この流れになっちゃうなぁ。

まだ1日目なのに、チャミは俺に気を遣ってばっかりだ。

チャミは『オメガ』を知らないのに、俺に謝ってばっかりだ」

 

「う...ん」

 

僕は差し出されたユノの手に引っ張り起こされた。

 

「これ以上チャミに謝らせたくない。

だからさ、いろんなことはっきりさせような?」

 

ユノは僕の頭をひと撫ぜると、窓際まで戻ってしまった。

 

「チャミはもう寝なくていいのか?

...って、まだ8時かぁ。

いや、小学生は寝る時間かぁ」

 

僕の視線の延長線...布団の脇に置かれた蚊遣りは、白い煙をらせん状にくゆらせていた。

 

「ユノちゃん」

 

「んー?」

 

「今夜はここに泊まっていってもいい?」

 

もしかしたら...の期待を込めて、子供っぽくおねだりしてみせた。

 

「...な~んて、嘘。

無理だよね」

と、ユノが返事に迷うより先に、冗談っぽく仕立て上げた。

 

「ごめんな」

 

母に打ち明けるのは、5日後の夜へと延期することにした。

 

さすがに夜勤明けの母を捕まえるわけにはいかない。

 

どうしてここまで日にちが延びたかというと、僕の予定は常に真っ白だけど、母の休日と ユノの夜の予定がない日をすりあわせると、最短でその日になってしまったのだ。

 

そして、話があるから予定を空けておくよう、前もって母に知らせないことにした。

 

母を身構えてさせてしまうし、「今すぐ言いなさい」と約束を取り付ける前に白状させられてしまうからだ。

 

母が仕事や買い物以外で外出することはほとんどないから、当日朝に頼んでおけば大丈夫だ。

 

「ユノちゃん」

 

「ん~?」

 

「明日の朝ご飯、何がいい?」

 

「いつものがいいな」

 

「夏はトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」

 

「そう」

 

「秋もトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」

 

「そうそう。

冬もトーストとマーガリンとゆで卵。

春も...」

 

「ユノちゃん!」

 

歌混じりにからかうユノを一喝した。

 

「ユノちゃんってホント、イヤミなヤツだなぁ。

分かったよ、卵焼きの練習しておくよ」

 

「はははっ。

よろしく~」

 

ユノの部屋を出ると、僕の甚平から煙でいぶされた匂いがぷんぷんした。

 

 

母に話をすると決めた日の前日。

 

ユノは朝から不在だった。

 

前夜から帰宅していないのか、早朝出掛けていったのか分からない。

 

母は祖父のいる老人ホームへ出かけていたから、下宿屋は僕ひとりだ。

 

僕は台所のダイニングテーブルに宿題を広げていた。

 

「あっちぃなぁ...」

 

直射日光が差し込まない北向きの部屋とはいえ、この日の暑さは身体に堪えた。

 

熱をたたえた空気は身動ぎしない、風鈴の音が聞こえてこない。

 

汗が滴り落ちて、読書感想文用の原稿用紙にシミを作ってしまう程の暑さ。

 

僕のうっかりミスのせいで、保冷剤で涼をとることができなかった。

 

冷凍庫に入れ忘れて、ぬるくなってしまったそれを洗面所で見つけたばかりなのだ。

 

頭がおかしくなりそうな暑さだ。

 

夕方までかけたって、原稿用紙の半分も埋められないだろう。

 

ガンガンにエアコンのきいた図書館へ行こうと、思いついた。

 

ユノの言う通り、僕は滅多に存在しない『オメガ』なのかもしれないけれど、それと同じくらいの希少さで、『オメガ』の香りを嗅ぎつけられる者も世の中にはいるわけだ。

 

そういえば、パンツを汚して以来、図書館へ行ったことはない。

 

保冷材はないけれど、ユノの言いつけ通り首にタオルを巻き、バッグに宿題を詰めると下宿屋を出た。

 

かんかん照りの日が数日続いていた。

 

桜の家の辺りの道路で、空気の層が揺れていた。

 

(ユノちゃんと水風呂入りたいなぁ...)

 

(つづく)

 

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