(11)麗しの下宿人

 

 

~12歳の僕~

 

僕はどうやら臭いらしい。

 

同級生たちが、僕に聞こえるか聞こえないかの絶妙な声の大きさとタイミングで、「チャンミン、臭いよね」と囁くのだ。

 

学校では余計なことは言わず、大人しく目立たず過ごしてきたつもりだったけど、匂いにまでは気を配っていなかった。

 

身に覚えがなかったから、僕は困ってしまった。

 

お風呂では石鹸をたっぷり付けて、皮がむけるんじゃないかってくらいゴシゴシ身体を洗った。

 

洗濯だって毎日してるし、歯もしっかりと磨いている。

 

嫌な臭いはしないか、取り込んだ洗濯物に鼻を埋め嗅いでみるけれど、お日様と洗剤の香りがするだけだった。

 

一瞬、同級生たちは「臭い」と陰口を言って、僕に嫌な思いをさせようとしているのでは?と疑った。

 

けれども、僕の鼻が鈍感なだけで本当に臭いのかもしれない。

 

夏休みに突入したおかげで、同級生たちと顔を合わせなくて済んだのがラッキーだった。

 

眠っている間に下着を汚して以来、微熱っぽいことも含めて僕の身体はなんだか変だ。

 

 

ユノの部屋にはエアコンがない(その他の部屋にも、エアコンがない)

 

僕とユノは壁にもたれ、両脚を畳みに投げ出して、各々の時間を過ごしていた。

 

じゃんけんに買ったユノは、扇風機の前に陣取っている。

 

ユノは漫画本を、僕は読書感想文用の課題図書を読んでいた。

 

「ずるいよ、ユノちゃん。

あと5分で交代だよ」

 

ユノの前の扇風機は修理に出して戻ってきたばかりだ。

 

ユノの汗はとめどなく次から次へと吹き出し、首に引っかけたタオルでしきりと額を拭っていた。

 

「ここは暑いだろ?

1階の方が涼しいんじゃないか?」

 

ユノの言う通り管理人室は北向きで、下宿屋の中で一番涼しい部屋かもしれない。

 

暑さのせいなのか、ユノはピリピリしている。

 

ずっとユノの傍にいる僕は、ユノの機嫌に敏感だ。

 

ニコニコ笑っていても、気付くか気づかないかの微かさで苛立ちが含まれている。

 

僕はその苛立ちをキャッチしていた。

 

「チャミが近くにいると、余計に暑く感じるよ」と、わざとらしく僕から距離を置く。

 

「僕がここにいるのが嫌なの?

僕、邪魔っ気なの?」

 

泣きべそかくフリをしたら、ユノの腕が伸びてきて僕の頭をくしゃくしゃっとした。

 

「邪魔じゃないさ。

俺ん部屋暑いだろ?

涼しいとこに行った方がいいんじゃないか?って」

 

「ひとりで居ても、暇なんだもん」

 

ユノはノースリーブのTシャツを着て、大人の男の人らしく脇毛が生えていた。

 

僕もタンクトップ姿で、両腕はユノとは比べ物にならないほど細くて貧弱だ。

 

僕は本から目を離し、投げ出した2人の足のサイズを見比べてみた。

 

次に、真向いの敷きっぱなしの布団を見た。

 

ユノが今朝起き出したそのままの形...シーツはユノが作ったシワが寄ったまま、タオルケットも足元でくしゃくしゃに乱れていた。

 

どうしても、ユノと男の人と裸でもみ合っていた光景を思い出してしまうのだ。

 

僕の身体に現れた変化が他にもあった。

 

困ったことに、あのシーンを思い出すと僕のおへその下がぞわぞわとするのだ。

 

それは初めて経験する感覚で、ぞわぞわの源を突き止めてみたところ、その場所が場所だけに困惑してしまった。

 

開け放った窓の軒下に、タオルと下着、Tシャツがぶら下がっている。

 

風があるらしく、母の部屋の窓下にぶら下げた風鈴がちりんちりん揺れる、涼し気な音がここまで届いてきた。

 

「暑いな」

 

「暑い暑いばっか言ってると、ホントに暑くなるんだって」

 

ユノは壁から背を離し、傍らの漫画本の山に挟んでいた団扇を取った。

 

「じゃあ、寒い寒いって言えばいいのか?」

 

ユノは団扇をパタパタと扇ぎ始めた。

 

「あー、涼しいなぁ」

 

「いいだろう?」と、僕に自慢するみたいな勝ち誇った顔をしている。

 

子供っぽいところがあるのだ、ユノは。

 

「涼しいなぁ」

 

「ずるい!

ユノちゃん!

大人のくせに!」

 

「あ~、涼しいなぁ」

 

ムッとした僕は扇風機の首振りつまみを下に押した。

 

扇風機は左右に首を振って、蒸した部屋の空気をかき回し始めた。

 

「あ~、涼しい~」

 

僕は声がビリビリ震えるのが面白くて、扇風機の前で「涼しい~」を連呼した。

 

ユノはぷいっと、僕に顔を背けた。

 

そして、立ち上がると部屋を出ようとするのだ。

 

「ごめん、ユノちゃん」

 

僕が扇風機を占領したことに、腹を立てたのかと思った。

 

「ごめん?

何が?」

 

振り返ったユノは、タオルで口元を覆っていた。

 

「チャミが謝る理由が分からないよ」

 

「...扇風機。

ユノちゃんの扇風機、取っちゃったから」

 

「ははは!

扇風機って。

んなことで怒るわけないだろう?

謝るのは俺の方。

扇風機を独占しちゃってさ」

 

「そうなの?」

 

ユノの顔は汗まみれだ。

 

ちょっと異常なほどの汗の量だった。

 

「便所に行くだけだよ」

 

「なんだ」

 

「こずかいやるから、冷たいもの買って来いよ」

 

「やった!

ユノちゃんは何が欲しい?」

 

「ん~、俺は要らない。

チャミが欲しいもの買って来いよ」

 

「僕だけ......」

 

気分が白けてしまい、僕は本と空になった麦茶の瓶を抱えた。

 

「今日のユノちゃん、怒ってるみたいだし。

僕が邪魔なら、僕...帰るよ」

 

部屋の戸の前に立つユノを押しのけた時、彼がさっと顔を背けたのを僕は見逃さなかった。

 

やっぱり...と思った。

 

「ねえ、ユノちゃん...」

 

僕は思い切ってユノに訊ねてみることにした。

 

「ユノちゃん。

僕って...くさい?」

 

「......」

 

ユノの頬が僅かにぴくっと震えた。

 

無言のユノに、「ああ、僕はやっぱり臭いんだ」と悲しくなった。

 

同級生たちの反応は正しかったのだ。

 

「くさい、っていうとは違う」

 

ユノはふっと笑った。

 

「じゃあ、何なのさ?

凄く嫌な顔してた」

 

「そう見えたのなら、悪かった。

嫌じゃない。

臭いのとは違うんだ」

 

ユノはタオルを、僕の首に引っかけた。

 

「うまいこと説明してやるからさ、そう怖い顔をしなくていいさ」

 

「......」

 

臭う僕に、何をどう説明するというのだろう?

 

「チャミ、いいことを思いついた」

 

場の雰囲気をばっさり切るかのようだった。

 

「なに?」

 

ユノが思いつくことは、いつもユニークで楽しいものばかり。

 

自分は臭いのではと、落ち込んだばかりなのに、ワクワク心で気分が上向きになった。

 

「即席のプールを作ろう」

 

「プール!?」

 

「風呂に水を張るんだ」

 

冷たい水に身体を浸すイメージだけで、涼しくなった。

 

「いいアイデアだろ?

いい気持ちだぞ?」

 

ユノがそう提案したのに理由があったことに、後になって知ったのだった。

 

 

(つづく)

 

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(10)麗しの下宿人

 

~僕が10歳だった頃の話~

 

 

「女っぽい?」

 

ユノは足を止めると、斜め後ろを歩く僕の方を振り向いた。

 

そして、観察する目で僕を見た。

 

「チャミのことを女っぽいって?」

 

「...うん」

 

ユノからじぃっと見つめられて、顔面をスキャンされているかのようで、心置きなく見てもらえるよう、なぜか姿勢を正す僕だった。

 

「あ~、確かにね」

 

ユノはうんうん、と頷いた。

 

「そいつらがチャミのことを『女っぽい』って言うのも、分からないでもない」

 

「ユノちゃん!

酷いよぉ」

 

僕はユノの腰をパンチしようと、腕を振り上げた。

 

「おーっと」

 

俊敏なユノの手の平によって、そのパンチは回避されてしまったけれど...。

 

嘘でもいいから、「そんなことないよ」って言ってもらいたかったから、半泣きだったのが本泣きになってしまった。

 

「酷いよぉ。

僕、男だよ?

女みたいって...髪の毛だって短いし、ちんちんだって付いてるもん」

 

『女っぽい』と言われてしまうワケは、自分でも多少は分かっていた。

 

見た目が問題なのだ。

 

鏡に映る僕は...女の子に見えた。

 

「どこが」と問われて、当時の子供の観察眼とボキャブラリーでは上手く説明はできないけれど...なんていうか、雰囲気が丸く、甘い。

 

「ごめんごめん」

 

ユノは僕の手をとると、ふわりと優しく握った。

 

僕は素直に手を繋がれた。

 

いつだったか、商店街をユノと一緒に歩いていた時、人並みに流されてしまう僕をみかねて、彼は僕と手を繋ごうとした

 

驚いた僕は、ユノの手をはねのけてしまったんだっけ。

 

ユノのジャケットの裾を掴まないと不安なくせに、手を繋いで歩くのは恥ずかしいとくる。

 

年齢が2桁になって以来、大人ぶりたい意識が育っていた。

 

それなのに、ユノに甘やかされたい気持ちも同時に持っていて、この相反する欲求のバランスがとれず、僕は気難しい子供になっていた。

 

「酷い話じゃないってことを、ちゃんと説明してやるよ」

 

「むぅ...」

 

「要はチャミは可愛いってこと。

おいおい、睨むなよ~」

 

ユノは首を傾げて、「やれやれ」と苦笑した。

 

「『可愛い』ってのは『女っぽい』のとは違う。

女『イコール』可愛い、ではないんだ。

言い換えると...う~ん...。

『天使みたい』っていう意味、かなぁ?」

 

「天使?」

 

(これは褒められているのだろうか?)

 

ユノと会話をしていると、僕はしょっちゅう訝し気な表情をすることになる。

 

僕らは住宅街を抜け、交通量の多い通りまで出ていた。

 

このまま進むと間もなく駅前の商店街に行きつく。

 

(手を繋ぐ僕らは、はた目には兄弟に見えるのかなぁ)

 

ひっきりなしに車が行き交っているが、歩道側を歩く僕は安全だ。

 

ちりんちりんとベルを鳴らしながら横着に向かってくる自転車に、ユノは立ち止まって僕の盾になってくれた。

 

こういう『男らしい』ところは、女の人にモテるだろうなぁと思った。

 

ユノこそ、正真正銘の男らしい男だ。

 

「天使って、背中に羽が生えていて、裸で空を飛んでるやつ?

そんなの嫌だよ」

 

「それは、昔々の西洋の絵に描かれる天使の話だろ?

そういう見た目の話じゃないんだ。

天使ってのは、性別がないらしいぞ。

絵の中の天使はちんこが付いてるのが多いけどな。

女に見えても胸が無かったり」

 

天使と「可愛い」とが、どう話が繋がるのだろう?

 

「神様と人間の中間にあたる存在だから、男でも女でもない。

チャミは『天使』と聞いて、どんなイメージを持つ?」

 

「可愛い」

 

「だろ?

天使は男に見える?

女に見える?」

 

「ん~...わかんない。

絵によって違うかも」

 

「だろ?

俺がチャミから受けるイメージは、そういうこと。

チャミは、カッコいいと可愛いの中間にいるんだ。

ゴリゴリのごっつい女だっているんだぞ?

可愛い、って言えるか?

性別と『可愛い』は全然、関係ないんだよ」

 

「ユノはカッコいいし...綺麗だね」

 

「おお!

俺を褒めてくれるんだ?」

 

「うん」

 

ユノと初対面の時から思っていたことを、伝えたのだ。

 

「チャミをイジメた奴らは、『可愛いイコール女っぽい』としか思いつかなかったんだよ。

ここが...」

 

ユノは自身のこめかみをコツコツ叩いた。

 

「ガキなの。

想像力が足りないの」

 

「ガキ...」

 

「気にするな、と言っても無理だよな。

『無視していればいい』なんて、当事者じゃないから言えるんだよな。

何の救いにも慰めにもならないよな。

無視なんてできないよな。

俺自身、いじめられたことが無かったから、なおさら説得力がないよな」

 

「大丈夫。

僕は学校では貝になってるから」

 

「ふっ。

チャミは凄いなぁ。

俺だったら、殴りかかってただろうけど、腕力に訴えたら同じ穴の狢だね。

でもなぁ...何も仕返ししないのも悔しいなぁ...」

 

「ムジナ...。

ユノちゃんの言う事、いつも難しい...」

 

「小学生と会話するのって、難しいんだぞ。

レベルを合わせなきゃいけない...。

そうだ!」

 

突然のユノの大声に、僕は飛び上がった。

 

ちょうどすれ違った高校生たちも、あからさまに驚いていた。

 

「明日は月曜だ、学校だろ?」

 

僕の気持ちは「ずん」と、一瞬で沈み込んだ。

 

「奴らに牽制しようか」

 

「ケンセイ?」

 

「威嚇すること」

 

「イカクって?」

 

「面倒くせぇな~。

辞書で調べな」

 

「僕、5歳だもん。

文字読めないもん。

分かんないことだらけだもん」

 

「......」

 

滅多に冗談を口にしない僕だったから、ユノはぽかんとしていた。

 

急に恥ずかしくなって、「うっそだよ~」とおどけて言うのも語尾が消えかかってしまった。

 

「いいことを思いついたんだ。

ちょっとした仕返しさ」

 

「叩くとか水をかけるとかは無しだよ?

先生に言うのも無しだよ?」

 

「するわけないだろう?」

 

どんな策なのか尋ねても、ユノはニヤニヤ笑うばかりで、「明日の朝になったら教えてあげるよ」と勿体ぶるのだ。

 

買い物を終えた僕らは、下宿屋の前で解散した。

 

ユノは「明日の準備があるから」と言って、元来た道へと戻っていった。

 

ユノは何を企んでいるのだろう?

 

翌日が楽しみだった。

 

 

翌朝、ランドセルを背負って玄関を出るなり、びっくり仰天することになった。

 

僕を待っていたユノのいでたちが大問題だったのだ。

 

ひと目見た時はそれがユノだとは分からず、心臓が縮みあがった。

 

ユノが『そっちの筋もん』のコスチュームに身を包んでいたのだ。

 

整髪料で濡れ濡れとした髪はオールバック、首にはゴールドチェーンを下げ、虎柄の開襟シャツを着ていた。

 

門扉にもたれ、ポケットに手を突っ込み、煙草をふかしていた。

 

「ユノ...ちゃん」

 

「おっす。

びっくりした?」

 

「びっくりするよ。

ユノちゃん、ヤーさんになっちゃったの!?」

 

通りすがりの人たちは、僕らを見て一様に、ギョッとした顔をする。

 

そして、見てはいけないものを見てしまった、見てはいけない、と目を反らすのだ。

 

我が下宿屋にはこれまで一定数の『訳あり者』が住んできた。

 

改造バイクやパトカーが乗りつけたり、借金取りに引きずられていく光景も...近所の者たちにはある程度の耐性はできているはずだ。

 

「ヤーさんだけど、身分的には舎弟レベルかなぁ」

 

「その服、どうしたの?」

 

「知り合いに借りた」

 

「似合ってる。

カッコいい」

 

ユノはボディガードよろしく、僕の斜め後ろをついて歩いている。

 

ポケットに手を突っ込み、猫背でガミ股で歩いている。

 

小学生が、怖い男の人を引き連れて登校している。

 

なかなか凄い光景だ。

 

不思議と恥ずかしいとは思わず、学校に近づくにつれ、猫背気味だった僕の背筋が伸びた。

 

校門を抜ける児童たち...上級生も同級生も下級生も、僕とユノを見て、近所の人たちと同様の反応を示した。

 

僕の頬が緊張したのを見てとったユノは、「あいつらか?」と小声で尋ねた。

 

頷くとユノは、僕をイジメている奴らの方を見た。

 

睨みつけてはいない。

 

あの獰猛な眼で、彼らと目を合わせただけだった。

 

それまでひそひそと僕らの様子を窺っていた彼らが、一瞬で大人しくなった。

 

「1日じゃ足りないな」と、翌日もユノは僕について登校した。

 

その翌日も。

 

5日目の時は、黒いスーツを着ていてびっくりした。

 

びっくりしたのは、とても綺麗だったから。

 

スーツ姿のユノは初めて見た。

 

「この服も借りたの?」

 

「そうさ。

今日は、舎弟から昇進して舎弟頭くらい。

車があれば格好がついたんだけどさ」

 

僕の斜め後ろを歩きながら、ユノは話を続けた。

 

「人っていうのはね、『なんだこいつ?』って、理解が追い付けない者を前にすると、闘争心が薄らぐんだってさ」

 

「そうなの?」

 

「多分。

どっかで読んだことがある」

 

僕らは校門前に到着した。

 

5日目にもなると、児童たちは僕らに気づかないフリが上手くなってきていた。

 

「これで当分は、チャミに手は出さないだろう。

ただ、得体のしれない変わった奴だと思われたかもしれないから、余計に孤立してしまったら申し訳ない」

 

「ううん。

スッキリしたから、いいんだ。

ありがと、ユノちゃん」

 

「奴らが油断しないよう、定期的に一緒に登校してやるよ」

 

ユノは僕に深々と頭を下げた。

 

「若、いってらっしゃいませ」

 

本当にユノって、面白くて賢くて、カッコいい大人のオトコだった。

 

 

(つづく)

 

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(9)麗しの下宿人

 

 

その花の花弁は純白で、佇まいに上品さがある...ユノの第一印象はこれだった。

 

母の感想はどうだったのか聞いていないけれど、同じような印象を抱いたと思う。

 

階段から滑り落ちそうになった時、ユノの瞳を至近距離で見てしまった僕だから分かったことがある。

 

その花の芳香には毒があり、嗅いだ者は運動機能を失われ身動きができなくなる...そんなイメージも同時に抱いた。

 

ユノの眼に魅入られて、魂ごと盗られてしまいそうだと錯覚した。

 

「お前のようなひ弱な子供などひと口で食べてしまうぞ」といった獰猛さが潜んでいる、というのかな。

 

初対面以降の3年間、心身共に吸引されてしまうような感覚に襲われることはなかった。

 

きっと、階段から落下してしまう恐怖感とセットになったせいで、そう思い込んでしまったところはあるかもしれない。

 

でも...やっぱり思い込みじゃない。

 

あの瞬間を思い出す度、僕の身体の中心がゾクゾクしびれるのだ。

 

ゾクゾクの正体は、「ユノに食べられたい」と望んでいた...そうではないかと思い至ったのは、精通を経験した年の春ごろだったと思う。

 

柔らかい肉球のおかげで足音をたてずに獲物に近づくことができ、襲撃の瞬間に折りたたんで隠し持っていた鋭い爪を出す。

 

ユノとは、爪を隠して暮らしているネコ科の大型獣。

 

そう連想してしまう時がしばしばあった。

 

 

~僕が10歳だった時の話~

 

僕は裏口横の洗い場で、上履きを洗っていた。

 

「チャミ?」

「!!」

 

背後からの呼びかけに、僕の心臓は壊れるかと思った。

 

声の主がユノだと分かっていても、足音も気配も全くなかったことから、隙を狙われてしまったような悔しい気持ちがあった。

 

「何...ユノちゃん?」

 

ユノは膝に穴の開いたデニムパンツと紺色のトレーナーを着ていた。

 

ユノはいつも同じ恰好をしている。

 

トップスについては白シャツかトレーナー、寒い季節はタートルネックセーターで、生地のくたびれ加減でくつろぎ着か外出着かを区別している。

 

大学へ行くといった、下宿屋から半径500mを超えた外出の際は、膝に穴の開いていないデニムパンツや色褪せていないスリムパンツを穿いている。

 

身なりに興味がない風のユノだけど、飾り気のない装いが、もともと持ちあわせている素晴らしい素材を活かしているのだと思う。

(約2年後に初めて、もっと“おめかし”をしたユノを目にすることになった。)

 

 

ユノ曰く、「貧乏学生」なんだそうだ。

 

その割には、バイトに明け暮れている風でもないのが不思議だった。

 

「ユノちゃんはアルバイトしないの?」

 

「してもいいんだけどね~」

 

「『しおくり』はしてもらっていないの?」

 

僕の質問にユノはひと呼吸おいた後に、「まあ...そうかなぁ」と答えた。

 

僕らはユノの部屋でババぬき中で、まさに残り2枚ずつの緊迫状況、僕はすぐに興味を失った(僕が勝った)

 

 

ユノは「一緒に来るか?」と親指で後ろを指した。

(ユノの言うこと成すことがカッコいい)

 

「どこに?」

 

訝しげな表情の僕に、ユノは

「薬局。

今から歯ブラシを買いにいくんだ。

チャミが今、忙しかったらいいんだけど?」と言いながら、僕の手元を覗き込んだ。

 

「上履き?」

 

「うん。

学校の」

 

僕は先ほどから、汚れた上履きを洗っていたのだ。

 

「ずいぶん汚したなぁ」

 

「うん」

 

学年ごとに先ゴムの色が違う、ワンストラップの白キャンバス地の上履きだ。

 

白かったキャンバス地が真っ黒になっており、これを何とかしようと、さっきから僕は焦っていたのだ。

 

「チャミはワンパクなんだなぁ」

 

「...うん」

 

僕が泥んこの中を駆けずり回って遊んだ結果だと、ユノは思っているのだろうか。

 

ユノは僕の手から汚れた上履きを取り上げた。

 

大きなユノの手の中で、僕の上履きはぼろ雑巾のようだった。

 

「ちっさい靴だなぁ。

古い歯ブラシはあるか?

そんなデカいタワシじゃ駄目だ」

 

ユノに求められ、僕は使い古したものBOXから歯ブラシをとってきた。

(使い古したストッキング、タオル、靴下、空き瓶、包装紙...いつか何かの役に立ってくれる物たちだ)

 

ユノは古歯ブラシでゴシゴシと、黒く染まったソールを擦り始めた。

 

僕はユノの手元をじぃっと見つめていた。

 

白い泡がみるみる灰色になっていったのだが...。

 

「やっぱ、無理かぁ...」

 

ユノは舌打ちをすると石鹸水を溜めたバケツに、黒いままのスニーカーを放り込んだ。

 

僕の上履きは泥ではなく、墨汁で汚されていた。

 

「チャミ、復讐しにいくぞ」

 

ユノはしゃがむと、僕の肩をつかんだ。

 

「名前を言え。

チャミの靴に墨汁をかけた奴の名前を」

 

「えっ、どういうこと?」

 

いつもは見上げるばかりのユノの顔が、僕の真正面にあった。

 

すごくすごく綺麗で、綺麗過ぎて僕の背筋がゾクゾクした。

 

たっぷりと墨汁を含ませた筆でひと刷毛したみたいな、ユノのまつ毛とまぶたのライン。

 

「仕返しをしてやるんだ、そいつらに。

1人か?

2人か?」

 

口元には笑みが浮かんでいるのに、目が笑っていない。

 

ユノはふざけているのか、本気なのか...どちらとも取れた。

 

「えっとえっと...4人...」

 

「卑怯だなぁ。

そいつらの家に行って、ボコボコにしてやろう。

目には目を歯には歯を、だ」

 

ユノの眼がギラリと光り、その凄みに僕の呼吸が止まった。

 

「ユノちゃん!

待って!

駄目だよ!」

 

僕は下宿屋の裏門を出ようとするユノの腰にしがみついた。

 

「イジメは駄目だよ!」

 

僕の脳裏に、彼らの頭に墨汁をぶっかけるシーンが浮かんだ。

 

僕の半泣き顔を見たユノは真顔になったかと思うと、ぷっと吹き出したのだ。

 

「?」

 

「ば~か」

 

「??」

 

「嘘。

そんなことするはずないよ」

 

ユノはぽかんとしている僕の頭を撫ぜた。

 

「チャミママに内緒にしていたいんだろ?」

 

「...うん」

 

僕は虚弱だったこともあり、母は元気のない僕に敏感だ。

 

過保護というのとは違う。

 

例えば、僕が転んで擦り傷をこしらえたとしても、「絆創膏でも貼っておきなさい」で済まされる。

 

ところが、僕が学校で嫌な思いをしているとなると話が違う。

 

突き落とされてたんこぶを作ったとなると、母の顔色は変わるだろう...これは僕の想像だ。

(さすがに、そういう経験はない)

 

母のことだから、学校に乗り込んで抗議するだろう。

 

問題の児童の名前を僕から無理やり聞き出して、彼らの家を訪ねるだろう。

 

でも、小柄で優しい顔立ちの母では、怒っていても迫力が足りないし、どの教師も味方にするには皆頼りない者ばかりなのだ。

 

「黙っておいてやるよ」

 

ユノには僕の考えていることはお見通しのようだ。

 

「辛くなったら俺に言いな。

決して俺たちだと分からない方法で仕返ししてやるからな?」

 

「もし仕返しするとしたら、どういうことするの?」

 

「じわじわと恐怖心を植え付けるやつ」

 

「え~、どんな方法?

ユノちゃんは頭がいいから、凄いのを思いつきそうだね」

 

「ははは。

歯ブラシと上履きを買いに行こうか?

あんな真っ黒じゃ、使いもんにならないよ」

 

「...そうだけど...。

おこずかいじゃ足りない...」

 

学校の下駄箱に真っ黒な上履きが収まっているところを、真っ黒な上履きを履いた僕を見るクラスメイトの顔が思い浮かんだ。

 

「ば~か。

俺がチャミに買ってやるの。

9歳の子供に金を払わせるわけにはいかないよ」

 

「僕、10歳だよ」

 

「悪い悪い。

何年生とか年齢とか、俺の目からは子供は子供にしか見えなくってさ。

しっかし、すげぇムカつく話だなぁ」

 

「うん」

 

一緒になって腹を立ててくれる人の存在がありがたかった。

 

僕はユノの半歩後ろを歩いていた。

 

僕の歩幅に合わせて前後するユノの長い脚を目で追っていた。

 

ユノのトレーナーの裾を掴みたかった。

 

何でもない顔を維持するため、我慢していた涙がこぼれ落ちそうだった。

 

僕はとても傷ついていたのだ。

 

「あいつら、僕のことを女っぽいとか言うんだ」

 

ぽろり、と漏らしてしまった。

 

 

(つづく)

 

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(8)麗しの下宿人

 

「チャンミン君が俺の目の代わりになって」

 

ホームセンターからの帰り道、ユノはかさばる布団を抱え、僕はユノのジャンパーの裾をつかんでいた。

 

僕は布団で視界が遮られるユノのための誘導係だ。

 

「他に必要なものは、順番に揃えてゆくよ。

余裕ないから、いっぺんには無理だ。

チャンミン君のところは、朝ご飯が出るから助かるんだ」

 

1階に共同の炊事場があり、鍋やヤカン、先住民たちが残していった食器類が揃っているため、カップラーメンが食べたくなれば、ここで湯を沸かせばいいし、汚れた食器もここで洗えばいい。

 

さらには、おにぎりとお味噌汁、トーストとゆで卵と言った簡単なものだけど、朝食サービスがついていた。

 

「昔は夕飯も出てたんだって」

 

「うん」

 

下宿人が多かった時代の台所では、常に鍋で何かが煮込まれていて、湯気がたちこめていただろう。

 

物置部屋には、今でも大きな鍋や食器がたくさん残されていて、いつでもレストランを開けそうだ。

 

下宿人が減るにつれ家賃収入をあてに出来なくなり、母は勤めにでるようになった。

 

さらに祖父が倒れてしまい、勤め人の母にとって例え3、4人分であっても食事の用意は負担だった。

 

そして、夕食の提供を止めざるを得なくなった。

 

廊下を歩く足音、玄関の戸を開け閉めする音、階段下の電話が鳴る音...かつての姿、僕が知らない時代、さぞ賑やかだっただろう。

 

「お母さん忙しいから、今は作れないんだ」

 

「チャンミン君のお母さんは、他にお仕事してるんだ?」

 

「うん。

洗濯の工場に勤めてる」

 

「クリーニング屋?」

 

「もっと大きなところ。

シーツや布団を洗ってるんだって」

 

「大変そうだね」

 

ユノは布団を肩に担ぎあげると、空いた手で僕の背を押した。

 

「?」

 

「座って休憩しよう」と、僕を道沿いの公園へといざない、たったひとつだけのベンチに腰掛けた。

 

ユノはジャンパーのポケットから缶コーヒーを出して、その1つを僕に渡した。

 

ホームセンター前の自販機で、あらかじめ買っておいたものだろう。

 

「...コーヒー?」

 

「甘いやつだから、子供でも飲めるだろ?」

 

「...多分」

 

「無理だろうなぁ」と思いながら、缶コーヒーに口をつけた。

 

コーヒーは砂糖をミルクを沢山入れても、苦くて飲みづらい飲み物だと僕は知っていた。

 

 

大きなホテルのラウンジに僕は居た。

 

僕の目の前には、金属製のおままごと道具みたいに小さなミルクピッチャーと砂糖入れ、金縁のカップ&ソーサーがあった。

 

コーヒーが苦くて、角砂糖を1個、2個と増やしていっても、飲み頃の風味になってくれない。

 

不味いと口に出せないから、唇を湿らす程度にカップを口に運んでいた。

 

取っ手を持つ手が震えて、カップをソーサーに置く時にガチャンと大きな音をたててしまった。

 

その人はあからさまに嫌そうな顔はしていない。

 

でも、その目に一瞬嫌悪感がよぎったのを僕は見逃さなかった。

 

ぎゅっと心臓が縮こまり、直後身体が熱くなり、どっと汗が噴き出した。

 

天井から吊り下げられたシャンデリアがキラキラしていて、ガラスのテーブルに反射していた。

 

現実とは遠い世界、僕は場違いだ。

 

僕は、目の前の人の袖口で光るカフスボタンだけ見ていた。

 

居心地は悪いしコーヒーは苦いしで、あの場を早く立ち去りたかったのに、座ったソファの座り心地があまりによくて、僕は立ち上がれなかった。

 

...その時を思い出していた。

 

 

缶コーヒーは想像通りの味だった。

 

甘さの中に広がる苦さに顔をしかめてしまった。

 

「ゴメン。

やっぱ子供にはコーヒーは早かったか!

甘ければいいってもんじゃないなぁ」

 

無理して飲まなくていいと、ユノは言ってくれたけれど、僕は首を振り、時間をかけて全部飲み干した。

 

ユノの好意を無駄にしたくなくて...。

(10歳になる頃には、砂糖とクリームパウダーをいっぱい入れたインスタントコーヒーを飲めるようになった)

 

僕とユノは、布団を挟んでベンチに腰掛けていた。

 

キャップを脱いだユノが布団にもたれかかったことで、彼の頭が僕の目と鼻の先にあった。

 

艶のある、真っ黒な髪だった。

 

僕の髪色は生まれつき茶色くて、日に当たるとより明るく透けた。

 

この髪色のせいで、学校では嫌な思いばかりしている。

 

「あ~あ、疲れた~。

朝からずっと、バスと汽車に乗ってたから尻が痛い」

 

「...ユノさんは遠くに住んでいるって、お母さんが言ってた」

 

「ああ、遠いぞ。

すんげ~田舎だ。

どうだろ...6時間はかかったかなぁ」

 

「すご...」

 

僕はこの街を出たことがなかった。

 

下宿屋を留守にするわけにはいかないし、旅行に出掛けられるほどの余裕が我が家にはなかった。

 

「どうしてうちを選んだの?

マンション...とかに住まないの?

うちはボロいでしょ?」

 

古くてみすぼらしい家に住んでいることも、からかいの種だった。

 

こういうことって、小学生の心には結構堪えるものだと、大人になってからも当時の傷ついた自分の気持ちを思い出せる。

 

深い心の傷だ。

 

それから、代替わりにより新しく建て替えられてゆく家が増えたり、近所に市営住宅が出来たりして、我が下宿屋は周囲の景観にそぐわないと眉をひそめられているらしい...多分。

 

「ボロいってのは事実だなぁ。

ははは」

 

ユノはそうはっきり言うものだから、しゅんとしてしまった僕の頭を、彼は撫ぜてこう言った。

 

「でもさ、チャンミン君のところはいいところだよ。

下見に来たときからそう思ってたよ。

家賃からして、湿っぽくてゴキブリが這いまわっているようなところかと想像していたんだ」

 

「...そんなんじゃないもん」

 

「そう『思ってた』っていう話。

実際に目で見て驚いた。

木でできていてあったかい雰囲気があるし、綺麗にしているし。

他の住人がいないって言うから、俺の家みたいじゃん。

ま、金がないってのも大きな理由だけどね」

 

わが下宿屋を褒めてくれる人は、僕が知る限りユノが初めてだった。

 

シャイな僕は、「うん...」と頷いただけだった。

 

とっても嬉しかったのに。

 

「帰ろうか?

戸を直さないといけないし」

 

「うん」

 

「戸を直すとこ、見学してもいい?」

 

「もちろんさ」

 

ユノは立ち上がると、再び布団を抱えた。

 

僕はユノのジャンパーの裾をつかんだ。

 

 

しばらくの間...1か月近く、気恥ずかしくてユノの名前を呼べなかった。

 

母の前では、「ユノさんがね...」「ユノさんって...」と、さんざん口にできていたのに、ユノ相手だと、言葉が出てこなかった。

 

ユノとはいろいろな話をするようになってゆき、呼称無しでいるのは不便だと感じるようになった。

 

ある日勇気をふり絞って、「ユノさん」と呼んでみたら、「お、やっと俺の名前を呼んでくれるようになったな」と嬉しそうだった。

 

「ユノさん」と呼んでいたところ、「俺たちはもう、友達なんだから、『ユノ』って呼び捨てでいいよ」と言ってくれた。

 

最初はやはり抵抗があったけれど、次第に慣れてきた。

 

そうしたら、「年上の人を呼び捨てにするなんて!」と、母に叱られてしまい、ユノと2人して相談した結果、『ユノちゃん』に落ち着いたのだった。

 

『ユノちゃん』に決定した理由は、『さん』付けよりもフランクな感じだったから。

 

ユノが僕のことを『チャミ』と呼ぶようになったのはいつだったっけ?

 

気付けば、『チャミ』と呼ばれていた。

 

僕は『チャミ』を気に入っていた。

 

僕を『チャミ』と呼んでいいのは、ユノだけだ。

 

 

(つづく)

 

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(7)麗しの下宿人

 

~僕が9歳のとき~

 

母を先頭にユノ、僕の順で階段を上がり、ユノの住まいとなる部屋に向かっていった。

 

2階廊下には5つのドアが並んでいて、これらの部屋が全て埋まることはもうないだろう。

 

だってこんなにも古いんだもの。

 

でも、どれだけ愛情込めて手入れされてきたかを知っているから、そう酷いものじゃないと思うんだけどなぁ。

 

見る人がその気になって見れば、窓ガラスはピカピカだし、部屋の鍵は住人が変わる度交換している(窓枠は木製のため、隙間風が酷い)

 

切れかけてパカパカしている電球もない。

 

すり減ってつやつやとした廊下の木床は、一歩ごとにみしみし音がするけれど。

 

「あれ?

ここじゃなかったですか?」

 

ユノは廊下の真ん中あたりで立ち止まり、そこを通り過ぎて先へと案内する母を呼び止めた。

 

「もっといいお部屋を、と思いまして」

 

先日引っ越していった下宿人のひとりは、大学卒業後もここに留まる予定でいたのに、他にいいところを見つけたからと、急きょ引き払うことになった。

 

その下宿人が使っていた部屋を、これからユノが暮らす部屋に割り振ると決めた為、午前中母と僕が掃除をしていたのだ。

 

「以前、内見にいらっしゃった時のお部屋より、いい部屋ですよ」

 

「...そうですか」

 

ユノの困った表情に母は、「お家賃は変わりませんよ」と笑って彼を安心させた。

 

「何でしたら、2階全部使っていただいてもいいくらいです」

 

母の本気とも冗談ともつかない言葉に、ユノは何と答えたらいいのか困ったようで、うなじを撫ぜていた。

 

快活な人物に見えたけれど、実は心のガードが固くて、僕みたいに人見知りなんじゃないかなあ、と思った。

 

母に対して礼儀正しくも親し気に接しているから、そうとは分かりにくいけれど。

 

僕にはすぐに分かった。

 

ユノという人は、一度心を許せばとても懐っこくなる人だって、この日のうちに知ったのだ。

 

「鍵は古典的なんですよ。

今どき...これです」

 

母は新品ピカピカの鍵をポケットから出した。

 

「中からは閂、外からは南京錠になります。

時代遅れでごめんなさいね」

 

ユノは母から鍵を受け取ると、目の高さまで持ち上げてそれをまじまじと見つめた。

 

「いえ。

味があって、僕は好きですよ」

 

視線を鍵から母へ移し、にっこりと笑った。

(多分、その時の母はユノにメロメロになったと思う)

 

「味があるって...うまいこと言いますね。

でも...そう言っていただけて光栄です。

それから...この戸なんですけど」

 

我が下宿屋は廊下が狭いこともあって、すべて引き戸タイプになっている。

 

経年劣化の末、柱や桟がねじれるようにわずかずつ歪み、癖の強い戸があちこちあるのだ。

 

「ちょっと建付けが悪いのですが...こうコツをつかめば...」と、母は引き戸をガタガタとさせた。

 

「ほら、開きます」と、すっと戸が開いたことに、母はホッとした表情をしていた。

 

ここで開かなかったら、大事な下宿人が逃げてしまうかもしれないと、焦りの大汗をかいていたのだと思う。

 

母はさっと、生え際を手の甲で撫でつけていた。

 

「取りかえた方がよいのですけど...」

 

母だけじゃなく、僕までも申し訳ない気持ちになった。

 

古くてすみません、って。

 

「いえ。

このままで構いませんよ。

戸の上をカンナで削るといいかもしれません」

 

ユノは引き戸を大きな手で撫ぜた。

 

「凄いですね。

このドア、全部本物の木でできてますよ」

 

ユノは室内と外を出たり入ったりしながら、戸の鴨居の辺りをチェックしながら言った。

 

背が高いため鴨居にぶつけないよう、頭をかがめている。

 

次はしゃがんで、敷居を指でなぞった。

 

「昔の造りだから、戸車もなし。

今どきのドアは合板製がほとんどです。

このドアは素朴に作られてるから、修理がしやすいと思います」

 

「素朴!」

 

ユノの言葉の選び方が面白かったらしく、母は吹き出した。

 

「こちらに工具箱はありますか?」

 

「ええ、あります。

カンナもあったと思います。

さびているかもしれませんけど」

 

祖父は器用な人で、専門業者を呼ばずとも自らの手で建物の手入れをしていた。

 

大抵の工具は揃っているはずだ。

 

「僕でよければ、直しますよ」

 

「ホントに!?」

 

僕は嬉しさのあまり、驚きの声を出していた。

 

今までだんまりだった僕が言葉を発したことで、「おっ」という風にユノの表情が動いた。

 

(わっ!?)

 

僕は焦って口を覆った。

 

口を塞いだけど、僕の瞳のキラキラは隠せていなかったと思う。

 

「ホントだよ。

後で直すつもりだ。

ここは僕の部屋になるのだからね」

 

ユノの目がきゅっと細められた。

 

斜めに差し込む午後遅くの日光がまぶしかったらしい。

 

子供のくせに僕は、目を細めたユノをキツネみたいに可愛いと思ってしまった。

 

「こちらがユノさんの部屋です」

 

今日の午前中、母と僕が掃除をしたこの部屋は住宅用洗剤のレモンの香りがした。

 

ユノはキャップを脱ぐと、「へぇ...いい部屋ですね」とつぶやいた。

 

さらさらの前髪がキャップからこぼれ落ちた。

 

ショルダーバッグを床に下ろすと、窓枠に腰掛け、「洗濯物も干せますね」と感心した。

 

欄干の真上に物干し竿がぶら下がっている。

 

次に窓際を離れると、押し入れの中を覗き込んだ。

 

「そういえば...ユノさん、お布団は?」

 

母と僕が共通して心配していたことだ。

 

「ですよね。

こっちに来てから調達するつもりでいました」

 

着の身着のままって、ユノみたいな人を言うのだろう。

 

純粋に潔いなぁ、と思った。

 

「布団がなければ困りますよね。

近くにホームセンターがありますよ」

 

「よかった。

今から行ってきます。

道を教えてくださいませんか?」

 

「うちの子が案内します」

 

「えっ、僕!?」と、僕は自身の鼻を指さした。

 

「チャンミンしかいないでしょう?」

 

ユノは僕に近づくと膝まづき、僕と水平に目を合わせた。

 

「一緒に行ってくれる?」

 

(あ...まただ)

 

ユノの真っ黒な瞳が間近に迫ったことで、魅入られる、というか、圧倒される感覚に襲われた。

 

階段で助けてもらった時と同じ感覚。

 

(ユノと過ごす時間が増えるうち、慣れてきたのか、この感覚を覚える機会は減っていった)

 

「う、うん。

いいよ」

 

僕は、急に役目を振られて戸惑っている風を装っていた。

 

本当はとても嬉しかったのだ。

 

新しい下宿人に興味があったし、僕のことにも興味を持ってもらいたいと思ったのだ。

 

人見知りの僕にとって、初めてのことだったと思う。

 

僕はユノを待たずに、無言で部屋を出ると、裏口まで走って靴を履いた。

 

玄関までまわって戻ると、既にユノはそこで僕を待っていた。

 

「えっと...こっち」

 

僕は門扉を出ると、通りの右手...桜がある家の方角を指さした。

 

「そんなに遠くない」

 

そっけない態度は、道案内する責任から生まれた緊張によるものだ。

 

「チャンミン君」

 

後ろから名前を呼ばれ、後ろを振り向くとずっと後ろにユノがいた。

 

(あれ?)

 

「君は足が速いね」

 

「あ...」

 

ユノは小走りして僕に追いついた。

 

『案内をする』とは、先に立って歩くものだと真面目にとらえていた。

 

それから、大人の男の人は歩くのが速い。

 

子供の足は遅いと思われたくなくて、がむしゃらに足を動かしていた。

 

早歩きだったのが、いつの間にかスピードアップしていて、ついには小走りになっていたのだ。

 

丈夫になったとはいえ、僕は根本的にもやしっ子だ。

 

息切れしかけており、この調子じゃあ目的地までもたないかも、と思いかけていたところだった。

 

「俺って歩くのが遅いんだ」

 

ユノはそう言って笑い、キャップを脱ぐと、前髪をかき上げてからまたかぶり直した。

 

母の前では、『僕』と言っていたのが、『俺』に変わっていた。

 

「男らしいなぁ」と単純に思ってしまった。

 

男同士、2人きりになったから、よそゆきの顔でいる必要がなくなったんだ。

 

「...速くなんて...ないよ」

 

徒競走ではいつもビリな僕だけど、お世辞であってもユノにそう言ってもらえて嬉しかった。

 

「せっかくだから、一緒に歩こう」

 

「え~」

 

隣に並んで歩くとなると、会話をしなくちゃいけなくなる。

 

でも、何を話したらいいか分からないから困ってしまった。

 

そうしたら、ユノは言った。

 

「長旅で疲れてるしさ。

俺、けっこう無口なんだ。

気を遣わなくていいよ」

 

「?」

 

「今日はまだ1日目。

質問攻めと自分語りは明日以降にしよう」

 

黙ってていいよ、と言われて、すとんと肩の力が抜けた。

 

 

(つづく)

 

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