(35)虹色★病棟

 

 

ユノの唇をかたどる僕の指。

 

何も触れていないのに、指先がじんじんと温もってきた。

 

マスクの下で、ユノの口はきっと開いている。

 

唇を愛撫され、息を乱している。

 

マスクに遮られているはずのユノの吐息が、僕の指先を湿らせた。

 

僕らの視線は太い1本となり、合図を待っていた。

 

さざ波が荒波 たぷたぷと水面を揺らしていて、間もなく溢れ出そうだった。

 

ユノの唇を邪魔するマスクはむしり取ってしまおう、と心を決めた時。

 

ユノの方が一寸早かった。

 

外したマスクは、洗剤の粉と埃で汚れた灰色の床へと落ちた。

 

血色がよくなった肌といい、紅く潤った唇といい、僕とのキスを期待した結果だと思っていいよね?

 

「...っ」

 

ユノの震える指が...ラテックス製の手袋をはめた...僕の頬に触れた。

 

眉尻をわずかに下げた、色気ある切ない表情だった。

 

直に受けたその感触に、マスクをしていない自分に思いいたる。

 

(しまった...)

 

ユノと洗濯室で鉢合わせになるとは予想していなかったから、マスクも手袋も部屋にあった。

 

ユノの洗濯バスケットに替えはないか、きょろきょろと目で探した。

 

焦りだす僕に、ユノは小さく首を振って「いいさ」と言った。

 

ユノの半分開いた唇が僕に近づいてくる。

 

僕も待ちきれなくて、ユノの方へと身を乗り出した。

 

唇同士がぶつかるより先に、僕らの舌が着地した。

 

「...あ...」

 

その瞬間、僕の股間が重く痺れた。

 

ユノの粘膜に僕は触れている!

 

舌先同士で突き合い探り合い、重ね合わせて相手の口内へとスライドさせていく。

 

ここで初めて唇を重ね合わせた。

 

ああ...柔らかい。

 

唇を外して「いいの?」問う。

 

ユノは喉奥で「うん」と唸った。

 

それまで緊張していたせいか、僕らの中は潤いが足りなかった。

 

けれども、互いの舌を味わううちに潤いは増してゆき、顎までしたたり落ちるほどになる。

 

マスク越しのキスとは、全然比べ物にならない。

 

その気持よさに、顎の骨まで溶けてしまいそうだった。

 

一か月以上、触ったらダメだと規制し合っていたから余計に、敏感に感じ取れる。

 

「...んっ...」

 

唇をついばまれて、股間の一点へと痺れが走った。

 

「はぁ...ゆの...っ」

 

厳格なルールを無視してしまうほど求められていることに、じんときた。

 

椅子に座り、身を乗り出した僕らは口だけで繋がっている。

 

僕の両手は椅子の座面をつかんだままで、ユノにいたっては太ももの上でこぶしを握っている。

 

思い切ってユノにしがみついてしまおうか迷っていた。

 

「...あっ...!」

 

突然、僕は引っ張り起こされ、引き寄せられて、「あっ」という間にユノの太ももの上に跨っていた。

 

(なんと...!)

 

大胆なポーズに、顔から火が出そうだ。

 

照れて視線を落とすと、僕を見上げるユノとまともに目が合ってしまい、ますます照れて前を向くしかなくなる。

 

洗濯機の丸窓の中でぐるぐると、ユノのシーツが洗われている。

 

「チャンミン、こっちを見て」

 

僕の両手はユノの肩に置いていいものやら、ユノの上から落っこちないようバランスをとろうと、宙でふらふらとさせていた。

 

僕は今、ユノの上に跨っているのだ。

 

今夜の僕はパジャマだ...ああ、残念。

 

下着はラベンダー色だ...ああ、よかった。

 

 

僕は持ち上げていた顔をゆっくりと俯いた。

 

蛍光灯の光は部屋のすみずみまで照らしている。

 

こんなに明るい場所で、産毛が見えるほど間近に...それも、鼻のてっぺんがくっ付くほど接近したことは初めてだった。

 

ユノのまつ毛の生え際も見えた。

 

密度の濃い漆黒のまつ毛だ。

 

「気になっていたことがあるんだ」

 

「?」

 

「ワンピースの話。

チャンミンが今着ているワンピースは、元婚約者のものだって言ってたよね」

 

「うん」

 

「と言うことは、彼もワンピース男?」

 

「うん。

言わなかったっけ?」

 

「チャンミンがワンピース男になったのは、彼が出て行ったのがきっかけ?」

 

「実は...それよりも前なんだ。

彼のワンピースを脱がせるのが好きだった」

 

僕の性癖をユノにバラしてしまおう。

 

「僕もワンピースを脱がされたい...って思うようになったんだ。

彼のワンピースをこっそり着ることもあった。

...彼が出て行く前の話だ」

 

キスをしておいて今さらなカミングアウト。

 

今夜はパジャマだけど、次はワンピース姿でユノとキスをしたいからカミングアウトしたんだ。

 

気持ち悪いと引かれるかな...?

 

潔癖のユノと女装の僕とはいい勝負、釣り合ってるんじゃないかな?

 

ユノの反応を待っていたところ、彼の第一声はこうだった。

 

「ひとつ確認なんだが...つまり...チャンミンはそっち側なのか?」

 

 

(つづく)

 

 

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(34)虹色★病棟

 

 

僕は乾燥機から出した洗濯物を畳んでいた。

 

時刻は23時過ぎ。

 

就寝時間過ぎで、フロア全体静まり返っている。

 

食堂も廊下も照明が落とされ、スタッフステーションだけが煌々と明るい。

 

ユノがやってきてから、洗濯をこの時間帯にするように変えたのだ。

 

ユノには見られたくないものがあった。

 

それは、女性ものの下着だ。

 

婚約者のワンピースを脱がせるのが僕の役目で、ファスナーを引き下ろす音、徐々に露わになる背中の素肌、最後にすとんとそれが足元に落ちる。

 

その一連の工程のなんと官能的なことか。

 

僕もされる側になりたいと、心の底から望むようになった。

 

彼が留守の間、内緒で着てみることもあった。

 

エスカレートした僕は、女性ものの下着を買い求めるようになった。

 

そして、ある日。

 

彼は全てのワンピースを...僕が贈ったワンピースをクローゼットに残したまま、僕の元から離れていってしまった。

 

彼が残していったものはもうひとつある...婚約指輪だ。

 

それは今、僕のお腹の中にある。

 

畳み終えた衣類をバスケットにおさめ、部屋へ戻ろうと席を立った時、ユノが洗濯室へやって来た。

 

シーツを抱えていた。

 

「...ユノ!」

 

下着を見られたらいけない、バスケットを身体の後ろに隠した。

 

「あれ?

まだ起きていたんだ?」と訊くと、

 

「ベッドメーキングに失敗した。

床に落としてしまって」

と、ユノはたっぷり消毒液をスプレーした洗濯槽に汚れたシーツを放り込んだ。

 

ユノをひとり残して部屋に戻るのも、部屋でひとりになるのも寂しくて、洗濯室にとどまった。

 

僕はベンチに座って、テーブルに頬杖を付き、ユノはその場に立ったままだった。

 

「落ち着かないから...座ったら?」

 

「そうだな」

 

座面がびしょびしょになるまで消毒液をスプレーし、除菌シートで拭き清め、さらにタオルを敷いた上にユノは腰掛けた。

 

ユノの儀式...許容範囲にするまでの行程が済むまで、僕は急かず待った。

 

約1週間の仮病期間を終えた僕は、少しずつ普通の生活に戻しつつあった。

 

それでも、ユノと共に行動するのを以前より控え目にしていた。

 

深夜にさしかかる時間帯、ユノの部屋で二人きりでいるのがバレるより、洗濯室にいるところを目撃される方がマシだった。

 

洗濯機が回るモーター音と、ざぶざぶ水しぶきの音が室内に響いている。

 

僕らは沈黙が怖くない...それぞれもの思いにふけるこの時間が心地よかった。

 

ユノの視線は、洗濯機の丸い窓に注がれていた。

 

物が綺麗になっていく過程は、ユノにとって癒しなんだろうな。

 

僕は洗濯室の隅に置かれた、背丈ほどある精巧な観葉植物のレプリカを眺めていた。

 

(実在する植物なのだろうか?どぎつい赤色の花を咲かせている)

 

 

 

彼は今頃、何をしているだろう。

 

浮気相手と一緒にいるのだろうか。

 

それとも、別の誰と一緒にいるのだろうか。

 

「はあ...」

 

「おい、ため息なんてついて。

俺といるのがそんなに退屈なのか?」

 

「違う、違うって」

 

ため息をユノに咎められてしまった。

 

「彼のことを思い出していたのか?」

 

「...うん、そんなとこ」

 

ユノには誤魔化さない方がよいと思い、正直に答えた。

 

「どんな人だった?」と、尋ねられた。

 

「活動的な人だった。

何をやっても器用だから、すぐにものにしてしまうんだ。

料理はもちろん、アマチュアバンドを組んだり。

僕を捨てていった頃は、トライアスロンに夢中で大会出場を狙っていた。

僕はインドア派だったから、彼にしてみたら物足りなかったかもしれない。

これが愛想を尽かされる理由だったりして...ははは」

 

「駄目になってしまう理由は、ひとつだけじゃないさ。

少しずつ小さな事柄の寄せ集めだよ」

 

「ですよね」

 

がっくりして、テーブルに伏せてしまうと、案の定、ユノは「信じられない」と言った表情だ。

 

「汚くてキスできない?

ふふふ」

 

ユノは「俺をからかうな」と眉間にシワを寄せた。

 

「チャンミンがイヤになったんじゃなくて、浮気相手が魅力的過ぎたとしたら?

魅力的って言い方も語弊があるなぁ。

共通の趣味だとかさ。

チャンミンに落ち度は全くないよ」

 

「浮気相手は職場の上司だよ。

趣味仲間じゃないんだ

浮気が本気になって、あっちが本命になっちゃったんだよねぇ」

 

「悪い」

 

「いいって。

僕の方はだいたいケリはついたから。

...ねぇ」

 

僕は手を伸ばし、ユノのマスクから1センチのところで止めた。

 

その距離を保ったまま、指先でユノの唇をなぞってみせた。

 

ユノの唇には一切触れていない。

 

マスクに覆われたユノの唇を、その凹凸を想像しながら、指先を往復させた。

 

真っ黒な液体をたたえた泉のようなユノの瞳、水面にさざ波がたっている。

 

水面を撫で吹く風は、強くなってゆく。

 

 

(つづく)

 

 

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(33)虹色★病棟

 

作戦開始。

 

ひとり早朝散歩へとユノは出かけて行った。

 

ドアがパタンと閉まると、僕はほっと息を吐いた。

 

いかに自分が緊張していたかを知るのだ。

 

僕の部屋にユノといると、とても緊張する。

 

不用意に身体を動かしたら、ユノの清潔な身体にうっかり触れてしまいそうだし、息を荒げてしまったら、僕の吐息がユノに吹きかかってしまう。

 

部屋の間口を挟んで会話することはあっても、ユノは滅多に僕の部屋へ入ってこない。

 

ばい菌に満ちた僕の部屋に身を置くよりも、室内温室が設置されたクリーンな自分の部屋に居た方が落ち着くから。

 

それから、ユノ自身の呼気や身体で、僕の部屋を汚したくないと思っているから。

 

なぜ、自分自身の身体を汚く思うようになったのか、「トラウマに繋がるようなことがあったの?」と尋ねたことがある。

 

潔癖な人は元々の要因もあるけれど、潔癖にならざる得なかったエピソードがあるものらしい(僕の乏しい知識によると)

 

「俺は手ばかり洗っているガキだった。

母親がやたら清潔好きだったってのもあったけど、決定的なのが中学生の頃だったかな。

好きな子がいたんだ。

その子の手が俺の口にぽん、と当たったんだ。

当時の俺はマスクなんてしていなかった。

その子は即行、手洗い場に走っていったんだ。

授業中だったんだぞ?

ショックだった。

ああ、俺って汚いんだ、って初めて知った瞬間だった。

今思えば、その子も潔癖気味だったんだろうなぁ。

たったこれだけのこと」

と、あっけらかんと教えてくれた。

 

「それだけで...?」

 

「俺は常日頃、清潔であろうとしてきた。

自分こそ不潔であることがバレないよう、不潔だと思われないように気を遣ってきたから大ショックだよね。

即、重度の潔癖になったわけじゃなく、引き金がその出来事だったんだ」

 

「徐々に酷くなっていったの?」

 

「酷い、って言うか、より徹底的になってきた、って言い方が正確かな。

知識が増える度、俺の中の許容範囲が狭まるんだ。

平気だったものが恐怖に変わる」

 

「生きづらくない?」

 

「さあ...。

これが俺のライフスタイルで人生だ。

これが当たり前なんだよ。

でも...今ほど酷くなかった時期を知っているから、その頃と比較すると確かに不都合だね。

事前準備と事後片付けが大変過ぎて、時間と労力を無駄にしているから」

 

ユノがくつろげる場所とは、アクリル板とビニールシートで囲われた2立方メートル内だけ。

 

その空間へ入れてもらえるようになった僕だけど、何か間違いを犯しているみたいな気持ちになる。

 

いいのかなぁ?って。

 

ユノを騙しているみたいな気分になる。

 

「でも、窮屈なことは確かだ。

訓練が必要だろう。

それから...」

 

ユノにまっすぐ見つめられると、背筋を正したくなる。

 

「愛情と信頼感だ。

心を許せるか許せないかで、潔癖度合いに差が出てくる。

信頼できる人がたった一人でもいてくれたら、潔癖を治す必要はないと俺は思っているんだ」

 

「...前にも言っていたよね」

 

「...チャンミン。

お前のことだ」

 

「!」

 

「分かってるんだろ?」

 

...こんな具合にユノは、頻繁に好意を見せてくれる。

 

猫みたいなユノ...眼の形が猫の眼に似ているからなのかな...なのに、実際は犬みたいに懐っこくて。

 

亡き人の前でもこうだったのかな、と想像すると呼吸が苦しくなった。

 

それ以上に、ユノの信頼に応えなければ。

 

気安く近づいたらいけない人だったんだ。

 

 

僕の急変にスタッフたちは即気づき、僕を観察する目も厳しくなった。

 

その態度の変化に、僕の出所の日程が決まりつつあったことが分かった。

 

仮病のおかげで僕の出所は延期決定だ。

 

新たに危惧しなければならない件は、精神的に不安定になってしまった原因にユノが関わっていると、施設側に思われることだった。

 

だから余計に、ユノにはあっけらかんと平静に過ごしてもらう必要があった。

 

食事は部屋までスタッフに運ばせ、ユノの部屋の出入りも控えた。

 

一日中、僕は自室に閉じこもって過ごした。

 

就寝前の数分だけ、顔半分ドアを開けて、ユノと言葉を交わした。

 

僕がいなくてつまらない、と、ユノははっきり口にした。

 

僕は「あともう2,3日だ。待っててね」となだめた。

 

焦れた熱い眼差しを浴びて、やっぱり僕は困惑していた。

 

「お前を抱きたい」

 

ユノの眼がそう訴えていた。

 

僕もユノと同じ気持ちだよ。

 

LOSTに入所して初めて、僕は前を慰めた。

 

3年ぶりの性欲だった。

 

ユノに抱かれたかった。

 

実際、ユノに可能なことかどうかは、脇に置いておいて。

 

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(32)虹色★病棟

 

キスを交わして、目を合わせて、ふふふっと笑い合う。

 

ユノの頬を包み込もうとして持ち上げた手は、やっぱり膝に戻した。

 

僕の躊躇に気づいたユノは、僕の手をつかんで自身の頬へと誘導したけれど、僕は彼の肌に触れられずにいた。

 

ユノの口角が震えていたから。

 

僕はユノの片耳にぶら下ったままだったマスクを、元に戻してあげた。

 

「悪い」

 

「いいんだ」

 

喜ばしい事態になったのに、僕は複雑だった。

 

 

翌朝。

 

「起きろ!」

 

押し殺したドスのきいたユノの声と、鋭いノックの音。

(ここ数日間で、僕らの仲は劇的に変化したというのに、ユノはユノのままだった)

 

「入ってきてよ」

 

叫ぶと、ドアを開けてゴーグルとマスクを装着したユノが顔を覗かせた。

 

僕より早起きなユノにノックの音で起こされ、急かされるのはいつものことだけど、今朝の僕は布団にもぐりこんだままだった。

 

「風邪か!?」

 

と、慌てて枕元に駆け寄ろうとするユノに、僕は「作戦なんだよ」と言った。

 

駆け寄ると言っても、僕から数十センチ離れたところまでだった。

 

こんな程度で僕は傷つかない。

 

キスできる時もあれば、今のように完全防備であっても至近距離は無理な時もある。

 

あさイチでぎこちないだけで、隣で過ごしているうちにほぐれてくるだろうし、ただでさえユノの潔癖具合はぐらぐらに一貫性がなくなっている。

 

「ユノに話しておかないといけないことがあるんだ」

 

僕はベッドから出ると、椅子の座面に消毒スプレーを吹きかけた上で、ユノに座るよう勧めた。

 

「あらたまった話か?

...なんだか、怖いな」

 

と、いぶかし気な表情でユノは素直にその椅子に腰を下ろした。

 

そして、ゴーグルを外した。

 

目の周りにゴーグルの痕がぐるりと付いていて可愛らしかったけど、指摘するのは次の機会に回すことにした。

 

「今日からしばらく、僕は具合が悪くなるから」

 

「?」

 

「風邪や腹痛とかじゃなくて、目茶目茶落ち込んだ状態になるから」

 

「?」

 

「平気そうでいたのに、突然、婚約者のことを思い出して、ずどん、と落ち込んでる状態だ。

部屋に閉じこもったまま出てこない。

当分の間、僕はそうなるから。

なぜだか分かる?」

 

無言のユノは僕が沈み込んだ状態になる理由について、考えを巡らせているようだった。

 

「僕はここに3年いた。

よくなったから、退所を促されたんだ」

 

「いつ!?」

 

ユノは勢いよく立ち上がった。

 

「ほら、大暴れした日だよ、食堂で。

ユノが押さえてくれた日」

 

「...だいぶ前のことじゃないか?」

 

「そうだよ。

あの日、LOSTを数日以内に出るようにとお達しがあったんだ。

それで目の前が真っ暗になってしまって...」

 

「...そうか」

 

ゴーグルの下の眼は落ち着かなげに泳いでいて、その動揺の様子に、「ああ、ユノは本当に僕を必要としている」と嬉しさ半分悲しさ半分の心境になった。

 

「ほら、座ってよ。

...まず最初に頭に浮かんだのはユノのことだ。

離れたくなかった。

せっかく仲良くなりかけていた頃だったからね」

 

正気を失っていたくせに、頭の片隅はしんと冷静だったことは内緒だ。

 

ユノは僕を落ち着かせようと抱きしめてくれた。

 

さらには、心の小箱に鍵を締めてくれた挙句、その鍵を飲み込んでくれた。

 

一連の流れは全て、僕の頭に浮かんだイメージに過ぎないけれど、ユノも同じ映像を見ていたと思う。

 

あの時僕らは、同じ空間に居合わせ、同じ物質...僕の心の小箱...に同時に触れ合った。

 

その空間とは僕の心の世界。

 

そこへの立ち入りを許され、さらには僕のウィークポイントをさらけ出され、ユノはどう感じただろう。

 

「信用されている」と考えてしまっても仕方がない。

僕の責任だ。

限界までLOSTに留まって、ユノを支えないと...!

 

「僕はもう、LOSTにいる必要がないんだ。

社会復帰の時を迎えているんだよ」

 

「...そうか」

 

「でもね、僕はここにいたいんだ。

だって...だって、ユノと。

離れ離れになりたく...ない...から」

 

言葉のお終いは消え入り、僕はしばしの間、うつむいてパジャマのズボンを見つめていた。

 

「姑息な手段だけど、仮病を使うことにした。

スタッフの仕事は、入所者の観察だ。

僕の変化も、見逃さない。

『またぶりかえしたようですね、LOSTを出るのはまだ早いようです』と判断させるんだ。

...仮病っていう言い方も変だよね、僕らは病気じゃないんだから」

 

視線を元に戻すと、ユノはずいぶん難しい顔をしている。

 

卑怯な男は許さない、と言い出しそうだった。

 

「そういうわけだから...?」

 

「わかった」

 

ばしっと両膝を叩く音に、僕はとび上がった。

 

「俺も全面協力する。

チャンミンが出て行ってしまうと聞いて、とても残念な気持ちになったんだ。

喜ばしいことなのにな。

極めて狡いことだけど、俺にしてみたら大歓迎だ」

 

「よかった...。

もしかしたら暴れるかもしれないけど、心配しなくていいよ。

あ。

本当っぽく見せるために、心配したふりはしてね」

 

ユノは椅子から立ち上がると、ベッドの僕の隣に座った。

 

マットレスがぎしりときしみ、ユノの体重分沈んだ。

 

ベッドについた手と手が、小指と小指が触れ合わせた。

 

「俺も面談を受けて、早くここを出られるように努力するよ」

 

 

(つづく)

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(31)虹色★病棟

 

 

「どうして?」

 

ユノの告白に、僕の声は喉に張り付いたままだった。

 

僕はユノが好き、ユノも僕が好き。

 

自分の思惑通りになったのに、僕はとても困惑していた。

 

そんなだから、「どうして?」なんてマヌケな問いをユノに投げかけてしまうのだ。

 

「『どうして』って...?

理由が必要なのか?」

 

「...そうじゃなくて」

 

僕はうつむいて、気持を落ち着かせようと、ワンピースの生地を握ったり離したりを繰り返していた。

 

ワンピースは皺くちゃになってしまった。

 

「チャンミンといると楽だし、気持ちがしゃん、とするんだ。

俺はこんな風だけど、チャンミンとなら触れ合えるんじゃないか、って。

...こんな風に」

 

そろそろと、ユノの手が僕の方へと伸びてきた。

 

ラテックスに包まれた指が、僕のマスクにそっと触れた。

 

「!」

 

息を止めてしまった後、マスクをしていることを思い出し、安心した僕はふぅっと息を吐いた。

 

ユノは...本気だ。

 

「近づきたい、触りたいと思えるのは...チャンミンが好きだからだろう?

恋愛感情のことだよ」

 

「でも...」の言葉を僕はぐっと飲みこんだ。

 

「でも」の後に続く言葉とは、「亡くした人のことは忘れてしまったの?」だったから。

 

今のユノに、絶対に言ってはいけない言葉だ。

 

ユノは僕と目を合わせたまま、マスクを外した。

 

やつれた顔をしているのに、両目だけはらんらんと光っている。

 

ユノの眼差しに射竦められそうだった。

 

ぱさついた髪と荒れた肌...瑞々しい眼とふっくら柔らかさそうな唇 。

 

この日のユノは白いシャツに濃灰のパンツを身につけていた。

 

無色彩の部屋と装いの中、そこだけ紅く色づいた唇を見ていると、すうっと吸い寄せられてしまいそうになる。

 

 

 

 

僕の唇を重ねたくなってしまう。

 

「結婚指輪だけど...」

 

『指輪』のワードに、今更だけどハッとした。

 

「厳重に収納しているのは、『思い出を大切に扱っている自分』と意識するためなんだ」

 

ユノにつられて僕も、クローゼットの方を振り向いた。

 

「本当はあんなもの...モノに過ぎないから、捨ててしまいたい。

でも、辛いからって捨ててしまったら、感情のやり場が行方不明になってしまいそうなんだ」

 

ユノの言葉の意味が分からず、首を傾げた。

 

「つまりだな。

目の前に実体がないと、何に対して悲しんでいるのか分からなくなるってことだ。

ちっぽけなモノだけど、あれは象徴なんだ。

ああ...俺は何が言いたいんだか...。

意味不明だろ?」

 

「ユノが言いたいことは、なんとなくは分かるよ」

 

ユノは僕のマスクから指を離すと、腰掛けた椅子ごと1歩、前に近づいた。

 

ガタガタっと椅子を引きずる音が、部屋に大きく響いた。

 

僕もマスクを外そうとしたら、「止せ」とユノに制された。

 

「古い恋を克服するには、新しい恋だとよく言われているだろう?

実はそうでもないらしい。

俺はちっとも回復していない。

新しい恋を得ているはずなのに、心が寒い」

 

「寒くて...当たり前だよ」

 

僕を好きだとユノが言っている。

 

「それじゃあ、チャンミンへの恋はまやかしのようなものなのか?

どう思う?」

 

僕はユノの言う通りだと思っていたけど、「...どうだろ...分からない」と曖昧に答えた。

 

「俺はホンモノなのか試してみたい。

お前相手なら抱き合えるかもしれない」

 

「!」

 

「前...俺に近づいたのは下心があったって、話してたよね?

あれは今も有効?」

 

「...うん」

 

「してもいいか?」

 

僕は頷いた。

 

僕は目を伏せて、傾けたユノの頬が近づくのを待った。

 

 

ああ、どうしよう。

 

僕は気づいてしまったのだ。

 

結婚指輪のサイズだ。

 

どちらがユノのものなのか、判別がつかなかった。

 

導かれる答えは、ユノの結婚相手は男だった、ということだ。

 

マスク越しにユノの唇を味わいながら、僕は喜んでいた。

 

前回のキスよりも温かく柔らかなキスに、腰の奥がうずいていた。

 

 

(つづく)