(30)虹色★病棟

 

 

婚約指輪と結婚指輪。

 

なんと意味深なアイテム。

 

心の支えにも心の重しにもなってしまう、極めてデリケートなアイテムだ。

 

僕とユノ。

 

二人の男たちは喪失の痛みと別れを告げる場に、その痛みを象徴する物を持ち込んでいたのだ。

 

LOSTへ禁止されているわけではないから、持ち込みは自由だ。

 

婚約指輪イコール心の小箱...ユノの推理はなるほど、と思った。

 

そうかもしれない、と。

 

心の小箱は3年経った今も不意に暴れては、宿主を不快感に陥れるのだ。

 

つい先日の僕はユノから離れたくないがあまり、小箱が暴れ出したことにして(つまり、仮病だ)、都合よくそれを扱えるにまで回復した。

 

もっとも、小箱の鍵はユノが飲み込んでしまったから、彼から鍵を返してもらう必要があるのだけど。

 

小箱の正体が婚約指輪であるとしたら、それを物理的に手放す際には、その場にユノもいてもらわないといけないなぁ、と思った。

 

 

ユノと出会うまでの僕が、小箱について抱いていたイメージはこうだ。

 

LOSTに来てから1、2年あまりは、失恋から立ち直るためには、小箱を消してしまわなければならないと思い込んでいた。

 

例えば、炎で燃やしてしまう、地中深く埋めてしまう。

 

そのうち、心の傷とは完全に消してしまうことは不可能だと悟った。

 

それならば、何重もの箱に入れた上で、頑強な鍵をかけてしまうのはどうだろう?

 

小箱に棲まわせたまま、これからの人生を歩んでいくしかないが、時の経過と共にいつか鍵をかける必要がなくなるだろう。

 

小箱の中身がカラになった時とは、僕の寿命が尽きた時だ...とまで考えていた。

 

 

 

今日は薄い水色地に白い水玉模様のワンピースを着ていた。

 

 

元婚約者が着たこのワンピースを何度脱がしたっけ?と、思い出しかけて、勢いよく首を振った。

 

僕を残して出て行った彼のことは忘れよう。

 

ユノだ、ユノのことだけを考えよう。

 

結婚指輪を見せてくれるとは余程のことだ。

 

気合を入れて、薄いピンク色の女性ものの下着を身につけた。

 

ブラジャーはやり過ぎだと判断して、今回は止めておいた。

 

 

結婚指輪が僕の手の平に乗せられるまで、いくつもの工程が必要だった。

 

ユノはクローゼットの中からスーツケースを引きずり出した。

 

留め具を外して蓋を開けると、バスタオルに包まれた段ボール箱が収まっていた。

 

段ボール箱を開けるとひと回り小さい段ボール箱があり、それを開けるとタオルにくるまれたポーチがあり、その中にお菓子の空き缶があった。

 

マトリョーシカのようだった。

 

空き缶を開けると、ビニール製のジッパー袋に入れられたガラス瓶があり、その中に指輪が2つカラカラと金属製の音を立てた。

 

簡単には目に付かないようにするためなんだろうか。

 

ユノは無造作にガラス瓶を傾けて、その中身を僕の手の平にころん、と落とした。

 

「これだ」

 

つるん、と何の装飾もないシンプルな指輪だった。

 

「プラチナ?」

 

「ああ」

 

結婚指輪なんて珍しくもないアイテムだけど、僕は子細に観察を続けた。

 

マスクをしているから、吐息でそれらを汚す心配はない。

 

これはユノの心だ。

 

指輪をユノに返すと、やはり無造作にそれらをガラス瓶に戻した。

 

「ユノにとって、指輪ってどういう存在?」

 

さっきと逆の工程で容れ物が大きくなってゆき、最後にスーツケースに収まった。

 

「形見...かなぁ。

月並みな答えで悪いけど」

 

「悪くはないけど...」

 

ユノに座るよう目頭で促され、立ちっぱなしだったことに気づいた。

 

ワンピースにシワがつかないよう、そうっと腰を下ろした。

 

「どうして僕に見せてくれるの?」

 

「え?

それっぽいこと前にも言ったと思うんだけど?」

 

「それって...?」

 

「チャンミンだからだよ。

チャンミンなら見せてもいいなぁ、って思ったんだ」

 

「うん、確かにそれっぽいこと言ってたよね。

僕の記憶が確かなら、『気になる人が出来た』って。

僕の己惚れじゃなければ、それって...僕、のこと?」

 

ずばり尋ねてみた。

 

スーツケースを元に戻そうと、クローゼットの扉を開けかけた手を止め、ユノはゆっくりと振り向いた。

 

「ああ」

 

ユノの口元はマスクで隠れている。

 

真っ黒な瞳に僕は射られそうだった。

 

僕のラテックス製の手袋の中は、汗で蒸れていた。

 

「息も絶え絶えLOSTに逃げ込んで1か月も経たないうちにだぞ。

俺はチャンミン...お前のことが気になる」

 

「...っ...」

 

「俺の愛なんて、どうやら軽々しいものだったらしい」

 

「そんな...違うよ」

 

僕の否定に、「いや、その通りなんだ」とユノは悲し気に眉をひそめた。

 

「こんな自分が、俺は大嫌いだ。

でも、チャンミンは好きだ」

 

「ユノ...」

 

「俺はそうそう簡単に人を好きにならない。

俺の習性を見れば分かるだろ?

引いてもいいぞ?」

 

 

(つづく)

 

(29)虹色★病棟

 

 

 

「マジか...?」

 

婚約指輪を飲み込んでしまった発言に、ユノは勢いよく振り返った。

 

みぞおちを撫ぜる僕を「信じられない」と言った表情で見ている。

 

驚いて当然だ。

 

「うん。

レントゲンを撮ったら、写ると思う」

 

「平気なのか?

いつまでも腹の中にあるのは具合が悪いだろう?

実はいつの間にか排出されてるかもしれないぞ?

...あれと一緒に」

 

「それはないと思う」

 

お腹をしみじみと見つめられて、アソコのサイズと形に自信がない僕だったから、落ち着かなくなってきた。

 

「ちょっとユノ!

やだ...恥ずかしいから見ないで」

 

「悪い!」

 

ユノの眼は下心ゼロだった。

 

「飲み込むって...凄いなぁ。

海に投げるとか、貴金属買い取りに出すとか、他にも方法はあるだろう?

飲み込むって...喉に詰まりそうだなぁ」

 

ユノは金属片が柔らかい食道に引っかかりながら、すべり落ちていく想像をしているらしい。

 

眉間と鼻にしわをよせ、唇を斜めに歪めているのに、ユノはやっぱり美形だった。

 

「当時は滅茶苦茶だったんだ」

 

「思ったんだけど、チャンミンの『小箱』って、もしかしたら指輪かもしれないぞ?」

 

「!?」

 

『小箱』イコール『婚約指輪』

 

そんな発想はなかった。

 

「下剤なんなり使って強制的に出すんだよ。

今まで試したことなかったのか?」

 

「ない」

 

僕は首を左右に振った。

 

指輪は排出されることなく、今も僕の身体の中にある。

 

3年の時を経て、あの指輪は僕の肉体と同化してしまっていそうだ。

 

明らかな異物であるのに、これまで違和感なく僕と共存してきた。

 

排出してしまうことが怖くて放置しているうちに、指輪の存在を忘れてしまっていた。

 

僕を置いて出て行った婚約者の話は、3年前にあの面談室で語った以来、ユノが初めてだった。

 

「腹から出した方がいい、絶対に。

チャンミンを苦しめ続けてきた婚約者を身体から出す体感だよ。

イメージの問題だよ」

 

「そっか...!」

 

「下剤で無理なら...最悪、手術...とか?」

 

「手術!?」

 

ぞっとした僕に、ユノはカカカっと笑って、僕の背中をバシッと叩いた。

 

「きっとそうだ、その通りだ。

チャンミン、腹ン中の指輪をなんとかして外に出せよ。

楽になれるぞ」

 

僕の心配をしてくれる優しいユノ。

 

僕の心配をすることで、ユノはユノ自身から気を反らしている。

 

ユノの背中を洗う作業に戻った僕は、そのタオルを腰まで移動させた。

 

さらにその手を、手が滑ってしまった風にお尻まで落とした。

 

「おい!

どこ触ってんだ!?」

 

「あは...ごめん」

 

ユノにタオルを奪われてしまった僕は、身体を濯いでお湯に浸かった。

 

ステンレス製の浴槽は、塩素の香りがするお湯で満たされている。

 

僕は浴槽の縁に後頭部をもたせかけて、目をつむった。

 

ユノの裸を見ていると、ドキドキしてしまうから。

 

このお湯の中なら、ユノと抱き合えるかもしれない。

 

ああ、僕ときたら、ユノと抱き合うことばかり考えている。

 

「ユノは?

結婚指輪...どうした?

捨てちゃった?」

 

「......」

 

ユノは向こうを向いたまま、これ以上こすったら皮が擦り剝けてしまうのでは?と、心配になる勢いで、二の腕を洗っていた。

 

「答えたくないんだな」と判断し、「今日は何をしようか?」と話題を変えた。

 

「...あるよ」

 

「え?」

 

「ある」

 

「?」

 

「指輪だよ。

俺の部屋にある。

ここに持ってきてる」

 

一切合切捨てたと話していたのに。

 

「指輪...霊安室で...指から抜き取って...ポケットに突っ込んで...帰った。

俺の部屋に、1組の指輪がある」

 

「...見せて?」

 

「はぁ?」

 

「ユノの結婚指輪、僕に見せてよ」

 

 

(つづく)

 

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(28)虹色★病棟

 

 

変わり映えのしない、ゆるりと平和な暮らし。

 

何のイベントも行われないここでは、一昨日と昨日との区別がつかない。

 

季節を感じたければ、食堂の窓から見下ろせる街並木の葉の色を見ればよい。

 

中庭に面した自室の窓からは、荒涼とした景色しか望むことができない。

 

食堂の献立表が一新されたことで、ユノがやってきて1か月...マスク越しのキスの日だ...が経ったことに気づいた。

 

いつ呼び出され、LOST退所を促されるか緊張の日々。

 

引き延ばしたとしても、あと2,3か月が限界だろう。

 

僕なんか3年かかったんだ。

 

死別を経験したユノだ、僕の退所までに回復できる可能性は低い。

 

僕とユノが揃ってここを出る方法は...ないことはない。

 

それについて、本気で考えないといけない。

 

「新しい恋...かぁ...」

 

先ほどから僕は食堂のテーブルに片頬をくっつけて、ある一点を睨みつけていた。

 

ユノを待っていたのだ。

 

ユノは今、スタッフステーション隣の面談室にいる。

 

早く立ち直って欲しい僕は、渋るユノを無理やり連れていったのだ。

 

面談室の効果と併せて、荒療治だけど、新しい恋で上書きされたと錯覚させて、退所の日を早めるのだ。

 

「上書き...かぁ」

 

記憶とは上書きできるものなのだろうか。

 

僕だって、忘れてしまうことが怖い。

 

だから、自ら小箱を揺らしていたのかもしれない。

 

小箱の中の住人のお尻を叩いて、ほら、暴れろと煽っているのだ。

 

「はあ...」

 

自分のことしか考えていないじゃないか。

 

 

僕らは入浴中だった。

 

二人まとめて入浴すれば、入浴時間を30分近く確保できる。

 

時間の問題よりも、裸の付き合いって言うのかなぁ...ユノの裸を見たかっただけだ。

 

ユノも満更じゃない証拠に、「風呂の時間だ、早く食え!」と、のんびり朝食を摂る僕を急かすのだ。

 

僕は身体を洗いながら、ユノの裸を横目で観察していた。

 

仁王立ちしたユノはゴシゴシと、全身の窪み、シワの間まで念入りに洗っている。

 

白い泡が、ユノの首から胸、胸から下腹、へそから両脚の付け根と滑らかに落ちてゆく。

 

(...ゴクリ)

 

アレは泡に包まれ、てっぺんだけがのぞいている。

 

視線がそこにいかないようにするには努力が必要だった。

 

「思い出の品って、どうした?」

 

僕からの唐突な質問に、ユノはしばし空を睨んだのち、首を振った。

 

「あー、どうしたんだっけなぁ。

記憶にない」

 

「そうだよねぇ」

 

ユノは足の親指まで洗い終えると、身体洗いの2クール目のため、新しいタオルにたっぷりボディソープを追加した。

 

ユノの肌は白い。

 

天を仰いで首筋を洗うユノの、顎から鎖骨までのラインが美しかった。

 

(...ゴクリ)

 

ユノの肉体を、僕はうっとり眼差しで愛でていた。

 

近頃の僕はおかしくなっていて、ユノの全てからエロスを感じてしまうのだ。

 

僕が同性愛者だと気付いたのは、いつ頃だったのか。

 

以前も思ったこと...ユノはおそらく違う。

 

なぜなら、僕の裸にこれっぽっちも興味がなさそうだから。

 

突然、いいことを思いついた。

 

「背中の真ん中...ちゃんと洗えていないよ。

貸して」

 

ユノの手からタオルを奪い取った。

 

「どう?

もうちょっと強くこすろうか?」

 

「え?

あ、うん...ああ、ちょうどいい」

 

僕の突然の行動に驚いて、ユノはどもってしまっている。

 

ユノの広い背中をこすりながら、僕の胸はきゅうっと切なく痛んだ。

 

タオル越しであっても筋肉の凹凸を手の平に感じ、少し視線を落とせば固く引き締まった二つの丘。

 

僕の邪な思いなんて露知らず、ユノは無防備に背中とお尻をさらしている。

 

触れたい...でも我慢だ。

 

「一切合切置いてきてしまった。

それとも、業者が全部、処分してしまったかもしれない」

 

「住んでたところは?

ユノは帰る所、ないの?」

 

「賃貸だったからね。

つまり俺は、家無しだ。

チャンミンとこは?」

 

「僕も賃貸。

トランクルームを借りて、家具を預けてる」

 

ユノと会話しながら僕は、泡まみれの身体なら、僕らは抱き合えるかもい...なんてことを考えていた。

 

「婚約指輪は結局、どうしたんだ?

捨てたのか?」

 

家財の話から飛躍して、指輪の話になり、僕はドキッとした。

 

僕は左右に首を振った。

 

「売ったとか?」

 

「ううん」

 

「まさか、今も後生大事に仕舞ってるんじゃないだろうな?」

 

「指輪はね...僕のお腹にある」

 

「...は?」

 

「彼の婚約指輪は僕のお腹の中にまだある。

飲み込んだんだ」

 

 

(つづく)

 

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(27)虹色★病棟

 

ユノの人差し指に、ラムネのグロテスクな足指が巻き付いている。

 

「その小さな頭で何を考えてる?

お前は悩み事はあるのか?」

 

その指を目の高さまで持ち上げ、ユノはラムネを覗き込んでそう話しかけていた。

 

透明ゴーグルとマスク、当然手袋を装着している。

 

「そんなに接近したら、ラムネがびっくりするよ」

 

「ふん。

毎日俺が世話をしてやってるんだ。

いい加減慣れただろうよ」

 

「まあ...その通りだけど」

 

新刊本が入荷した日など、結末を知りたくて徹夜で読書に夢中になった結果、僕は寝坊してしまうのだ。

 

ユノは起床してこない僕を待たずに早朝の散歩に出かけ、ラムネのエサやりや籠の掃除を済ませてしまうのだ。

 

動物を愛でることで傷ついた心を癒している...その通りだけど、ユノの場合は単純に動物が好きなだけなんだろうな。

 

日光が反射したゴーグルの下で、ユノの黒目がちの眼は三日月に細められているだろう。

 

かつての結婚生活で、ユノ夫妻は犬か猫を飼っていそうだ...なんとなく、そんな感じがする。

 

結婚かぁ...ユノのパーソナルエリアに侵入することを許された人。

 

僕だって負けてはいない、1週間前にキスをしたんだ(2枚のマスクを通してだけど)...これって凄いことだ。

 

出逢って1か月位しか経っていないんだよ。

 

ユノの言う気になる人とは十中八九、僕のことだと思う。

 

入所したその日から付きまとい始めた僕に懐いてしまい、刷り込みを恋に似たものだと誤解しているんだ。

 

喪失への対処法として、僕は小箱の中に押し込んでしまい、ユノの場合は代わりの温もりを求めたんだ。

 

いいのかなぁ...スタッフにバレなければいいのだけど。

「鳴いてごらん?」

厳重に管理された無菌ルームで、世界に1羽だけの貴重な小鳥の観察世話をする研究所員、みたいない出で立ちのユノ。

 

そんなユノの姿を、僕は少し離れたところから眺めていた。

 

ユノはとてもリラックスしているように見える。

 

なぜなら、ガラスを透かす日光にホコリとラムネの羽毛が舞っていることを、ユノは気にしていない風だったから。

 

本人が話していた通り、ユノの潔癖度合いにムラが生じるようになっているかもしれない。

 

亡き人を悲しむことに集中できない、それどころか『気になる人』の存在のせいで、他人と自分とどちらの汚染を気にしたらいいのか混乱していると...ユノの話から僕はこう捉えた(多少のニュアンスは異なっているだろうけど)

 

「ラムネちゃん、鳴いてごらん?」

 

声音がおかしくなってるって、気付いていないみたいだ。

 

ラムネの薄ピンク色の嘴が、コツコツとゴーグルを突っついた。

 

「!!」

 

ラムネの突然の反撃に、びっくりしたユノは後ろに飛び退った。

 

ラムネはユノの指から羽ばたき、温室内を旋回したのち彼の頭の上に着地した。

 

そんなユノが可愛らしくて大笑いする僕に、彼はムッとしていたけれど、すぐに一緒に笑い出した。

 

 

「『LOST』は有と無の境界に建っているみたいだな」

 

「境界かぁ...確かに」

 

僕らは中庭のフェンス前に立って、その向こうを眺めていた。

 

中庭の逆側...LOSTのエントランスがある側は、通行量の多い道路に面しており、半径2km以内に公共機関や繁華街、住宅地、オフィス街、学校など、すべて揃っているそうだ。

 

僕はフェンスの金網におでこをくっ付けて、遥か遠くを見つめた。

 

「チャンミンはどこに住んでた?」

 

ユノはポケットに両手をつっこんで、フェンスから1メートル離れた位置に立っている。

 

「僕が住んでたとこは、あっち」

 

「へえ、遠くまで来たんだなぁ」

 

「そうなんだよねぇ。

...でも、閉じ込められるんだから、どこにいたって変わんないよね。

ユノは?」

 

「俺はこっち。

もとはあっちに住んでたんだけど、仕事の関係で引っ越してきたんだ」

 

「?」

 

突然ユノに手を握られ、心臓が一瞬、喉のあたりまで飛び出しそうに驚いた。

 

だって、無人の中庭だとは言え、ここは外なんだよ。

 

ユノって...第一印象はツンデレ風なのに、実際は人懐っこくて、かつ積極的なタイプなんだ。

 

僕はユノに応えて、指同士を絡めて繋ぎ返した。

 

でも、恥ずかしくて仕方がなくて、前方を向いたままでいた。

 

熱々の頬を、前方から吹く乾いた風が冷やしてくれる。

 

この日のワンピース...橙色...の裾がはためく。

 

 

視線を感じて振り向いた。

 

中庭は入所者の部屋が並ぶ側だから、スタッフが外を眺める可能性は低い。

 

でも、面談室や洗濯室に面しているから、誰に目撃されるか知れない。

 

気をつけないと。

 

「このフェンス...よじ登るのは難しそうだな」

 

「そりゃそうだよ」

 

3メートルはあるフェンスの上辺には、大仰なネズミ返しが取り付けられている。

 

「てっぺんまで行く前に、サーチライトで照らされて捕獲されちゃうよ」

 

その光景を想像したのか、ユノは顔をゆがめた。

 

「地平線まで、『わあぁぁ』って叫びながらさ、走ったら気持ちいいだろうなぁ」

 

「有機物は少ないし、空気は乾いているし、マスク無しでいけそうだねぇ。

え!?

...ここから逃げ出したいの?」

 

「まさか!」とユノは目を丸くした。

 

中庭のフェンスの前に広がるのは、広大な砂漠だった。

 

(つづく)

 

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(26)虹色★病棟

 

朝食の席で一緒になった僕らは、昨夜のことがあったため気まずくて、食事の間は...僕は耳を切り落とした食パンと牛乳、ユノはプロテインドリンクだけ...終始無言だった。

 

それとなくユノの方を横目で窺って、いつものコスチュームであることに安心していた。

 

ワンピースを着ている僕に、ユノは一瞬、ギョッとしたようだったけど、その表情は即時に平静にもどった。

 

ゴーグルとマスクに覆われているユノの顔面からは、細かな変化を読み取ることは実際のところ難しい。

 

常々ユノを観察している僕ならば、わずかによった眉間のしわや、ぴくりと震えた首筋を見るだけでわかってしまうものなのだ。

 

ユノの素肌に触れたい欲求が増してきているのに、彼の打ち明け話を聞いたことで、躊躇の念が湧いてきた。

 

なぜなら、ユノの潔癖は双方向に向けられていて複雑なんだ。

 

ユノを汚さないようにする為と、自らを汚いと思っているユノを安心させるためには、僕かユノかどちらかが完全防備になる必要がある。

 

心置きなく抱き合うためには、僕ら両方が防護服を着るのだ。

 

それとも、消毒液にまみれながら?

 

素肌同士を重ね合わせるのは、難しいのか...そっかぁ。

 

昨夜みたいにマスクをしたままのキスや、間にビニールシートを挟んだらどうだろう?など、考えにふけっていた。

 

「おい!」

 

ぱかん、と後頭部を叩かれ、「いったいなぁ!?」と振り返ると、呆れ顔のユノが立っていた。

 

ユノの手には、配膳用のトレーがあった。

 

「ひどいなぁ、そんなので叩くなんて!」

 

「こつん、としただけだろ。

大袈裟な奴だなぁ」

 

「僕に何の用だよ?」

 

「いい天気だ。

風呂のあと、散歩に行こう」

 

「最初からそのつもりだよ」

 

クールに見える男の口から「散歩」の言葉が出てくると、「くすり」としてしまう。

 

「何、笑ってんだよ?」

 

「何でもない。

ほら、ユノは一番風呂でしょ?

早く入りなよ」

 

「ニヤニヤして...何を考えていたんだ?」

 

「さあね」

 

ユノの手からトレーを奪い、それを振りかざして叩く真似をした。

(まさか実際に叩くことは絶対にできない。トレーのばい菌に青ざめるユノなんて容易に想像できる)

 

ユノはひらりとそれをかわし、食堂を飛び出していってしまった。

 

返却された食器などをまとめていたスタッフたちは、そんな僕らの様子に微笑んでいる。

 

ところが、微笑した目は鋭く観察する目になっていることに、僕はちゃんと気付いていた。

 

彼らは余程のことがない限り、入所者たちと関わり合いを持とうとしない。

 

遠くから見守り、不自由を覚えさせないよう環境を整える役目に過ぎない。

 

入所者同士が寂しさを埋めるために、個人的に特別に距離を縮め始めた時は要注意だ。

 

人目がある場所での、ユノとのじゃれ合いには気をつけないと。

 

僕の笑顔は全快を意味するから、いよいよLOSTから放り出されてしまって、ユノとは離れ離れだ。

 

スタッフには頼れない、入所者同士の密度の濃い交流は推奨されていない...それじゃあ、喪失体験が自分ひとりでは抱えきれない僕らはどうしたらいいのだろう?

 

その為の場所はちゃんと、LOSTには用意されている。

 

 

「お前はあの部屋...行ったことある?」

 

ステーションの隣にある部屋を、ユノは顎をしゃくってみせた。

 

床はそこだけカーペット敷で、丸テーブルを挟んで奥と手前に座り心地のよい椅子があった。

 

癒し効果を狙っているのか、部屋全体が落ち着いた色味で統一されている。

 

 

窓の桟にサボテンの小さな鉢がずらり並んでいた。

 

「いつでもどうぞ」の意を込めて、ドアは常に開け放たれている。

 

もっともドアが閉まっている時の方が多い。

 

この部屋は大人気なのだ。

 

「今はほとんど...半年くらいは行ってないなぁ。

説明を受けたでしょ?

ユノこそ使わなくっちゃ!」

 

ユノは眉間にしわを寄せて、「気が進まない」と首を振った。

 

「みんな使ってるよ。

悲しい気持ちや思い出話を言葉にすると楽になるって言うでしょう?」

 

入所者は皆、心に闇を抱えている。

 

専門の聞き手は話を遮ることも否定することもなく、聴き取ってくれるのだ。

 

「知らん奴にぺらぺらと苦悩を語れるわけないだろう?」

 

「僕だって『知らん奴』でしょう?」

 

「う~ん、その通りだが...お前は別だ」

 

あらら。

 

さらりと好意を見せてくるユノは凄い。

 

喪失感で心のバリアが狂っているだけだと思っていたけれど、もしかしたら元々人懐っこい性格なのかもしれない。

 

鵜呑みにしていいのだろうかと、悩んでしまう。

 

 

(つづく)