(25)虹色★病棟

 

僕はユノとキスをした!

 

マスクの不織布を通して、ユノの唇の柔らかさと温かさをはっきりと感じとっていた。

 

押し当てるだけの、間接キスにもならない慎ましいキスだった。

 

口元を離した時のユノはぼぉっとしていて、僕とキスした時の姿勢のまま静止していた。

 

僕は調子にのり過ぎたみたいだ。

 

ユノのパーソナルなエリアに入るのを許され、シーツ越しだったけど、僕の身体にもたれかかっていた。

 

いいのかなぁ、こんなことしちゃっていいのかなぁ、と戸惑いながら、嬉しがっていた。

 

大事な人を亡くしたばかりなのに、他事に気が散ってしまう自分はなんと冷酷なのか、その人への愛情はそんな程度だったのか...これがユノを苦しめている考え。

 

その悩みを僕に打ち明けてしまうこと自体が、その人への愛情と、喪失の苦しみがとても大きいことを証明していると、僕は思うんだ。

 

今の僕がユノの立場だったら、知り合ったばかりの男に、心のうちを細かに打ち明けたり出来ない。

 

ところがユノは無防備にも、僕が質問しないうちからさらけ出すのだ。

 

心のガードが甘々なんだ。

 

ゴーグルの下でギラリと光る鋭い眼差しの持ち主のくせに、この警戒心のなさ。

 

あ~あ、ハートがボロボロになっている証だ。

 

僕は我にかえって、ベッドから飛び降りた。

 

6層の不織布を通過してきた僕のばい菌に、怖気立つユノを見たくなかった。

 

ユノの行動は理解できてるつもりだけど、ばい菌扱いされると傷つく時もある...それがキスだったから余計に。

 

「後で顔を洗ってね。うがいもしてね」と声をかけてから、ユノの部屋を出た。

 

 

当然、眠気は一向に訪れなかった。

 

諦めた僕は枕元灯をつけ、読みさしの本を開いてみたけれど、内容が頭に入ってこなかった。

 

懐中電灯を持った巡回のスタッフが2度、僕がちゃんと部屋にいるかを確認していった。

 

読書も諦めた僕はベッドを下りるとルーバー窓を開けて、ガラス板の隙間からそよぐ風で火照った頬を冷やした。

 

僕とユノの部屋がある側は中庭に面していて、外は真っ暗闇で何も見えない。

 

クローゼットの扉を開け目をつむった僕は、最初に手に触れたワンピースを取り出した。

 

手にしたワンピースを胸に当て、鏡に映してみる。

 

薄茶色の地に、焦げ茶と紺のチェック柄で、ウエストを黒の革ベルトで締めるデザインになっている。

 

白のソックスに、黒のワンストラップ靴に合わせよう。

 

今日はそうしよう。

 

 

さっきのキス、パジャマじゃなくてワンピースを着ていたら...。

 

キスから先...ぬくもりが欲しいユノと、肌と肌を合わせられたら...。

 

ユノの指が背中のファスナーをじじっとゆっくり下ろしてゆく。

 

「はあ...」

 

僕はうっとりと、ため息を漏らした。

 

ごめん、ユノ。

 

ずるい男になって、ユノの弱った心につけこむよ。

 

だって僕は、ユノに一目惚れしてしまったんだ。

 

ユノはおそらく、ストレートだと思う。

 

なんとなく、そう思った。

 

ぐらぐら不安定なところに僕が現れて、お世話し始めた。

 

空いた隙間をぬくもりで埋めたくて、僕の中から亡くしたその人を探している。

 

たまたま隣にいた僕に、刷り込みみたいに懐いてしまったことを、好意によるものだと勘違いしている。

 

勘違いの好意だとしても好意は好意だ、力技で大切な人とやらを忘れさせるから。

僕には時間がないんだ。

 

「...あっ」

 

心の小箱がガタガタ揺れ出した。

 

ワンピースの胸元を握りしめ、小箱が大人しくなるのを待った。

 

「...ふう」

 

額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、ベッドにぱたんと背中から倒れ込んだ。

 

ユノはワンピース男を目にしても、眉をひそめなかった。

 

大丈夫だ、僕でもいける。

 

 

(つづく)

 

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(24)虹色★病棟

 

ユノは鼻をすすると、僕にもたれていた身体を起こし、座り直した。

 

「遠い存在にしてしまったのは、俺のせいなんだ。

その人はあの世で、俺を求めていると思う。

忘れないで、って。

俺は『ずっと忘れない』って答えてやりたい。

...それなのに」

 

ユノはここで、深呼吸をひとつした。

 

「その人から離れていくのは俺の方なんだ。

冷酷だろ?

まだ一か月も経っていないんだぞ?」

 

マスクで鼻下を隠しているせいで、眼光の鋭さが際立っていた。

 

30センチの間近で見つめられて、ユノの中に取り込まれそうだった。

 

僕の頭に、僕とユノの間に眼光の一本線が出来ているイメージが浮かんだ。

 

その人がユノのことを愛した理由が、分かった気がした。

 

ゴーグルやマスクで覆っても、ユノの美青年っぷりは隠せない。

 

ユノの潔癖さは人を寄せつけないし、彼の方から近づくことはない。

 

そんなユノのパーソナルな空間に、存在を許されるんだ。

 

...この世に存在するのは俺とあなただけ。

 

ユノと共に生きることとは、ユノのオンリーワンになることと同義。

 

「死にたくなるほど愛していたのにさ...集中できないんだ。

悲しむことに集中できないんだ。

...俺は混乱している」

 

ユノは引き寄せた両膝に、顔を伏せてしまった。

 

消灯時間はとっくに過ぎ、静か過ぎる室内に、ベッドのスプリングがきしむ音が耳に大きい。

 

「気になる人には「臭い」とか「汚い」とか思われたくない」

 

ユノは顔を伏せたまま、ぼそりと囁いた。

 

耳をそばだてていないと聞こえないほどの声量だった。

 

「...気になる...人?」

 

ドキっとした。

 

尋ねてみたかった。

 

「気になる人って...もしかして?」って。

 

喪失と向き合う場所にいるのに、ユノは悲しみに浸りきれずにいる。

 

そんな自分を咎めている。

 

自分は不潔なんじゃないかと恐れている。

 

特に、気になる人には不潔だと思われたくない。

 

その「気になる人」...って?

 

「気になる人...そうなんだ」

 

「ああ。

潔癖具合にムラが出てきた。」

 

ユノが言う通り、ダメだったり大丈夫だったりと、ユノの潔癖具合に一貫性がない時があった。

 

ユノの肩を抱いた僕の手に、ユノの手が重なった。

 

ユノがほのめかした言葉を素直に喜べなかった。

 

喪失感が深いあまり、おかしくなっているだけなんだ。

 

...ユノは寂しいのだ、ひとりでいたくないのだ、しがみつく胸が欲しいんだ。

 

僕は馬鹿だから、好きな人には近づきたいから、それでも構わないのだ。

 

弱っている今につけこんで、ユノに近づく僕は卑怯者。

 

今こうして、ユノの素手が手袋をはめた僕の手に触れてくれている。

 

 

電光時計が表示する時刻に、僕の背筋が伸びた。

 

「部屋に戻らないと」

 

施設のスタッフが2時間に1度、入所者が大人しく部屋にいるか見回りにくる。

 

部屋にいないと、よからぬことを考えていると誤解され、面倒なことになる。

 

特に、間もなく退所できる古株の僕と、入所したての新入りユノが一緒にいたりなんかしたら。

 

入所者同士の交流は自由だけど、照明を消した部屋でこそこそしていると誤解を生む。

 

「じゃあ、明日、ね」

 

ユノから身体を離し、僕は室内温室から出た。

 

「チャンミン」

 

呼び止められて僕は振り向いた。

 

すがりつく眼で僕を見ているけれど、ユノの視線は僕を通り過ぎたところにある。

 

亡くした最愛の人を、僕の中から探している。

 

僕に恋しかけてると錯覚している。

 

やっぱり...ユノはぬくもりが欲しいのだ。

 

ユノは僕の小箱に鍵をかけ、その鍵を飲み込んでくれた人だ。

 

僕はベッドまで引き返す。

 

薄暗がりに痛々しくゆがんだ、ユノの青白い顔が浮かび上がっていた。

 

僕はユノの頬を、触れるか触れないかのタッチで...まるでヒビが入った卵を扱うがごとく...包み込んだ。

 

どちらからともなく、僕らの顔は近づいた。

 

マスク越しのキスをした。

 

(つづく)

 

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(23)虹色★病棟

 

 

「ユノは汚くないよ」

 

ユノが潔癖症であるのはホントウだろう。

 

周囲はばい菌だらけ。

 

ユノの場合、潔癖症をこじらせてしまって、自分自身もばい菌だと思っていること。

 

身の回りのものから汚されたくないし、自分自身が分泌するもので周囲を汚したくない。

 

ばい菌に怖気が走る感覚がどれほど強烈かは、自分自身がよく分かっているから、余計に周囲の者に「汚い」と思われたくないのだ。

 

僕に手袋を強要するのは、僕の素手が汚いこともあるけれど、同時にユノに触れる僕の手を汚さないようにするためなんだ。

 

「ダメだ」

 

ユノの鋭い制止の声に、マスクのゴムにかけた指は止まった。

 

「俺を怖がらせることは止してくれ。

接近戦には慣れていないんだ。

それに、チャンミンの言葉をどれだけ信用したらいいか分からない」

 

「僕のことは信じて大丈夫...と言っても、信じられないよね。

知り合ったばかりだし...」

 

僕はマスクの下でため息をついた。

 

「ユノの潔癖症って...いろんな要素が入り組んでるね、ははは」

 

ユノは「そうだ、片方を直せば改善しそうに見えるけど、どっちを先に直すっていうだ?」と言って、シーツをかき寄せ、鼻の上までくるまった。

 

「ルールが多くて大変だよ。

周りの者たちは菌とカビの胞子、ウィルスまみれ。

それ以上に、俺も汚いんだ」

 

「どっちが先だったの?

周りが汚いと思ったのが先?

自分が汚いのが先?」

 

僕の質問に、ユノはしばし口をつぐみ、空を睨んで考え込んでいた。

 

「......」

 

「専門的なところに診てもらったことはあるの?」

 

「ない。

その必要がなかったから。

日常生活は不便だらけだけど、唯一、俺を許してくれる人がいてくれれば、俺は満足なんだ。

パーソナルなエリアは、俺とその人だけで十分」

 

確かにユノは、「その人となら抱き合える」と話していた。

 

今、こうして心の秘密を僕に打ち明けているけれど、それはLOSTに同時に居合わせた仲間意識によるものなんだ。

 

「清潔か不潔か...こいつを直すために来たんじゃない。

喪失から立ち直るためにここに来ているわけだろう?

チャンミンだってそうだっただろう?」

 

僕は頷いた。

心の古傷がうずくごとに、今なお心の小箱はガタガタと揺れ、まあまあコントロールできるようになった。

さらには、最近新しい鍵を付けてもらったから、ここをいつでも出られる準備は出来ている。

 

ここは何かを得るための場所じゃない。

 

手放す場所なんだ。

 

「それなのに、俺という男は...清潔か不潔かが気になって仕方がないんだ。

悲しむべきのことを、すっぽかしてるんだ」

 

「泣いていたでしょ、さっき?

ユノの大事だった人のことを思い出してたんじゃないの?」

 

「まあな。

思い出しては、その頃に戻りたいと願う...確かに、そうだ...そうなんだけど。

その人がとても遠い存在になってしまったことが、悲しいんだ」

 

「そりゃそうだよ。

うん、よくわかるよ、その気持ち」

 

僕はユノの頭を...形のよい小さな頭を...シーツ越しに撫ぜた。

 

素手でユノの黒髪に指をもぐらせ、梳くことができたら...と思った。

 

「チャンミンが想像している俺の気持ちは、ちょっと違うと思う」

 

ユノの言葉の意味がつかめずに首を傾げた。

 

 

(つづく)

 

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(22)虹色★病棟

 

 

僕とユノの共通点はただ一つ。

 

早い遅いの時期の差はあるけれど、大切な人を失い、息の根が止まるほど苦しんだこと。

 

ひとりは絶望の底から脱出できるまで回復した者、もうひとりは、その暗い穴倉に飛び込んだばかりの者。

 

この差こそ、ありふれた言葉である『時間が解決してくれる』そのものだと思う。

 

当事者の気持ちをまるで無視した、無責任なものだと、反吐が出るほど嫌いな言葉だった。

 

特に「先輩入所者」たちが訳知り顔に得意げになって、「新入りたち」の肩を叩いて慰める。

 

悲しみに向き合う姿勢にもよるけれど、努力して忘れられるものでもないし、何もしなければ永遠に忘れられないものでもない。

 

頑張ろうが頑張るまいが、時間が悲しみを薄れらせてくれるものなのだ。

 

今になってしみじみと実感するのだ。

 

それなのになぜ、わざわざこのような施設に閉じこもって、失ったものと対面するのだろうか?

 

去っていった人への愛情がいかに深いものであったかを、ここLOSTに滞在することで知らしめているんだろうな、と僕は思う。

 

誰に向けて?

 

もう戻ってこない、去っていった人に向けて。

 

 

くっくと不規則に痙攣するユノの背中を撫ぜ続けた。

 

大きくて広い背中...でも、背骨が浮き出たやつれた背中だった。

 

ここに来て以来、ユノが口にしているものといえば、プロテインドリンクくらいのもの。

 

ユノの骨ばった指が、僕の二の腕に食い込んでいる。

 

「...思い出したの?」

 

僕の胸に目頭を押さえつけたまま、ユノは小刻みに首を振った。

 

ユノの温かい涙は次から次へと溢れてきて、僕のパジャマを濡らした。

 

清潔だの不潔だの言っていられない。

 

圧倒的な悲しみの前では、主義や嗜好の優先順位は低くなる。

 

3週間の間、僕のことをばい菌扱いはしていても、ユノはいつだって僕の話を聞いてくれた。

 

これは僕の想像だけれど、ユノは今になってようやく、これまで他人事のように感じていた喪失を、身をもって自分事として直面したんじゃないかな。

 

だから、大泣きできたんだ。

 

ユノは苦し気なのに、しがみついてくれることを喜ぶ僕の下心はサイテーだね。

 

 

僕らは枕を背当てクッション代わりにして、両脚を投げ出し、壁にもたれていた。

 

僕はユノの肩を抱いたままで、シーツにくるまったユノは僕の肩に頭をもたせかけていた。

 

激しい嗚咽はおさまり、今はぐずぐずいう鼻をティッシュペーパーで拭いている。

 

汗で蒸れた手袋を早く脱ぎたかったけれど、我慢するしかない。

 

身体同士を密着させている現状が、気になり始めた。

 

マスクをしているとはいえ、ユノはノーマスク、僕の肩にもたれているから、彼の髪先が僕の首筋にあたっている。

 

ユノ...平気なのかな...気づいていないだけなのかな。

 

いや...気付いているけれど、平気なんだ。

 

「...悪かった」

 

「ううん」

 

「泣いてすっきりした...というか、ちゃんと泣けてよかった」

 

ユノの鼻声が可愛かった。

 

「うん、泣くのはいいことだよ。

泣いてなんぼの所なんだよ」

 

視線を斜め下に落とすと、前髪とおでこが邪魔でユノの鼻のてっぺんしか見えない。

 

「...どんな人だった?」

 

恐る恐る尋ねてみた。

 

「いい人だったよ。

危なっかしいところがあって、目が離せなかった。

俺はその人のことを...仮に『彼女』としておこうか。

俺は『彼女』のことを忘れられない。

愛してきたし、今も愛している」

 

「...そっか」

 

ここは胸が「ズキリ」と痛む場面なんだろうけれど、平気だった。

 

僕だってそうだったから...お互い様なのだ。

 

「自分の中にもう一人自分がいるみたいなんだ」

 

「?」

 

「俺の中に真逆の自分が同居しているんだ。

亡き人を想って嘆き悲しむ俺...これは、表向き...というか、まあ...当然の姿だね。

で、理解しにくいのは、ノーテンキで前向きな俺の存在なんだ。

二重人格とか、そういうんじゃないぞ」

 

「うん、分かってる。

前にも話していたよね」

 

「ちゃんと覚えていてくれたんだ」

 

深く座り直そうとするユノに、彼の肩を抱いた手を引っ込めようとした。

 

「いや、そのままでいい」と、ユノの手が重ねられて驚いた。

 

「二人どころか三人いたよ。

三人目は、狡くて弱い俺だ」

 

ユノの手と手袋をはめた僕の手は重なったままだ。

 

「チャンミンの好意に甘えてる俺だ」

 

「それのどこが狡いの?」

 

「チャンミンは医者でもカウンセラーでもない。

俺と同じ入所者だ。

それなのに、べったり甘えてた。

ズタボロのくせして、チャンミンからの好意には気づいていたし、それに乗っかっていた。

俺は構って欲しかったんだと思う」

 

「ううん。

付きまとっていたのは僕の方だよ」

 

「チャンミンは鋭い人間だ。

相手が語らずとも察する能力は高い方だと思う。

それに甘えていたんだ。

...ほらな、こんな器用なことができる自分もいたんだ」

 

僕が気付いていることを、ユノは知っている。

 

「...ユノは汚くなんかないよ。

ユノが汚いなんて、僕は一度も思ったことないから。

だから...マスクを外していい?」

 

 

(つづく)

 

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(21)虹色★病棟

 

 

僕は自分のことしか考えていなかった。

 

想いを伝えたい一心で、ユノの心の状態なんてお構いなしだった。

 

前回の恋の時も恐らく、僕は同じように振舞っていたんだと思う。

 

「好きなんだからいいじゃないか」と、好きな気持ちがあれば何でも許されるんだ、って。

 

僕はちっとも変っていない。

 

ユノはずっと聞き役で、僕の小箱の鍵を飲み込んだままだった。

 

 

 

昼間までいい天気だったのに、雨が降り出していた。

 

湿気とともにどんより曇った空気まで入り込んできそうで、部屋の窓を閉めた。

 

ここの窓はルーバー窓になっていて、全開にしても指4本通るのがやっと。

 

LOSTは簡単には逃げ出せないようになっている。

 

自ら望んで閉じ込められた以上、入所者たちは自ら与えた課題に全力で取り組まなければならない。

 

外界からの刺激から守られたこの場で、僕らは喪失体験を存分に味わい、反芻し、消化する。

 

悲しみに耐えかねて、治癒も半ばで逃げ出されたら、施設の評判に傷がつく。

 

だから施設側も本気を出して、入所者たちを閉じ込めにかかっている。

 

ここを脱出するのは、相当難しい。

 

何人かが挑戦して、失敗するのを見てきた。

 

喪失から立ち直っていない者には、困難過ぎる脱出ゲーム。

 

僕はといえば、新しい恋を得たことで、喪失から立ち直ったと証明された。

 

外界に出る準備は出来ているのに、ユノの側にいたい一心のあまり、仮病を使ってLOSTに留まろうとした。

 

いつまでも仮病でひっぱれない。

 

作戦を練らないと。

 

 

ユノがいなくて途端に暇になってしまった僕は、食堂をぐるりと見渡した。

 

食堂のテーブルで皆思い思いに、宛先のない手紙を書く者、入所したてなのかめそめそと泣いている者。

 

「忘れてた!」

 

僕はステーションカウンターの用紙を取って来ると、思いつく限りの衛生用品を記入して、スタッフに手渡した。

 

真の意味での潔癖症には僕はなれないけど、清潔を保つことならできる。

 

ユノレベルに汚れを取り除いたクリーンな身体でいれば、ユノは僕に触れてくれるかもしれない。

 

手の甲にふわりと乗せられたユノの手、僕を抱き上げてくれた力強いユノの両腕...素手で他人に触れる行為は、彼にとって耐えがたいことだったろう。

 

主義に反したことばかりさせてしまって、申し訳なかった。

 

 

まもなく夕飯の時間になるのに、ユノは部屋から出てこなかった。

 

時間厳守なユノにしては珍しかった。

 

迎えに行こうと席を立ってすぐ、思い直して席に戻った。

 

とても疲れていて、食事どころじゃないだろうから、寝かしておこうと思った。

 

あれ?

 

食事の時間、いつも僕の斜め後ろに座る人物がいなくなっていた。

 

彼は入所して1年も経っていなかったはず。

 

卒業したんだ...。

 

雨足が強まったようで、嵌め殺しの窓ガラスに、パラパラ音を立てて雨粒がぶつかっていた。

 

 

コツコツとノックをした後ドアを細く開け、顔だけを覗かせた。

 

マスクOK、手袋OK、パジャマも洗濯したてのものだ。

 

「...ユノ?」

 

室内は真っ暗だった。

 

廊下からの灯りが、ベッドに横たわるユノの背中を照らした。

 

「...ユノ」

 

繭のように背中を丸めていた。

 

「...っく...っく...」

 

それは、嗚咽だった。

 

喉の奥からしゃくりあげる声が、苦し気だった。

 

「ユノ...!」

 

黄色のラインの前で僕はスリッパを脱いだ。

 

 

ユノの結界の中へ足を踏み入れていいものか、しばし迷った。

 

後始末に大変な思いをさせたくなかった。

 

「ユノ?

僕だよ?」

 

ビニールカーテンを爪先でつまんで、室内温室内の様子を窺った。

 

ユノは着替えを済ませておらず、昼間と同じ恰好をしていた。

 

これは一大事だぞ、と思った。

 

ユノを慰めてあげたい。

 

悲しみとは、独りで対面しなければならないってことは分かってる。

 

好きなんだから放っておけないよ。

 

僕とは、押しつけがましい男なのだ。

 

クローゼットから洗い替えのシーツを取り出した。

 

シーツを広げ温室に入った僕は、ユノにシーツを覆いかぶせた。

 

ユノをシーツごと抱き締めた。

 

野生動物を保護する時みたいだな、と思った。

 

とても熱い身体だった。

 

一体いつから泣いていたの?

 

僕の腕の中でいっとき、ユノは身をよじった。

 

「チャンミンだよ」

 

僕の両腕は、ユノを離さなかった。

 

 

(つづく)

 

 

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