(15)虹色★病棟

 

 

スタッフの計らいで、ユノは一番風呂だ。

 

ところがその日は、入所者の1人が騒ぎを起こしたせいで、入浴時間が15分押していた。

 

ここでは入浴時間はひとり20分と厳格に決められている。

 

その時間を守ろうとすると、ユノの持ち時間はわずか10分で、綺麗好きの彼には甚だ都合が悪い。

 

ユノの次は僕の番だ。

 

この世の終わりかのように固まってしまったユノに、「僕と一緒に入る?」と提案したのだ。

 

「そうすれば30分になるよ」

 

「お前と?」

 

ユノは眉根を寄せて難しい顔をしている。

 

「嫌?

僕が湯船に入っている間に、ユノはシャワーを済ませればいい。

ユノはシャワーだけでしょ」

 

落としきれなかったばい菌が、お湯の中を漂っているかもしれないからね。

 

(ユノが湯船に浸かれる時といえば、消毒液のお風呂だろうなぁ...こんなこと言ったら、ユノは怒るだろうなあ)

 

脱衣所の床にタオルの道をつくるユノに、タオルを山と抱えていた理由が分かった。

 

僕だって多少の抵抗がある脱衣所の床だ。

 

タオルが敷かれていない隙間をつま先立ちで歩く僕に、「お前ものっかっていいぞ」と言ってくれた。

 

「いいの?」

 

「その前に...」と、僕の足裏をびしょ濡れになるまで消毒スプレーを吹きつけた。

 

パジャマのボタンを外しながら、僕はドキドキしていた。

 

...だって、ユノの前で裸になるのは初めてだったから。

 

「......」

 

互いに背中を向けて、衣服を脱いでいた。

 

そうっと後ろを振り返ると、ユノの背中が。

 

へぇ...ユノは着やせする質なんだ。

 

肩幅は広いし、背筋が素晴らしいんだ、ウエストはきゅっと引き締まっていて...。

 

パンツの下のお尻を想像してドキドキした。

 

最後の1枚をいつ脱ごうか、もじもじしていると...。

 

「先に行ってるぞ」

 

ユノはすれ違いざま、ユノ専用洗面器で僕の頭をこつん、とした。

 

「...なんだ。

パンツは普通に男ものなんだな」

 

「あのね、僕には女装趣味はないの!」

 

「ワンピース着てるのに?

てっきりブラジャーもつけてるかと思った」

 

「う...」

 

かあっと熱くなった顔を隠そうとうつむくと、飛び込んできたもの。

 

うわあぁぁ...ますます顔が熱くなった。

 

僕の視線がそこに釘付けになっていることに、ユノは気づかなかったみたいだ。

 

ユノはかかかっと笑うと、僕の鼻先でぴしゃっとドアを閉めてしまった。

 

「ええい!」

 

僕は勢いよくパンツを引き下ろした。

 

時間は限られている、急いで入浴を済ませないと!

 

ゴム手袋をはめたユノは、シャワーのお湯をまき散らしていた。

 

ユノの堂々とした立ち姿、片手は腰に添えている。

 

目を反らせずじぃっと凝視していると、シャワーをまともにぶっかけられてしまった。

 

「『そこ』ばかり見るんじゃない!」

 

「だってさ...だって」

 

「チャンミンこそ、手で隠すなよ。

恥ずかしがられると、俺の方まで恥ずかしくなる」

 

ユノのものと比べるのは止そう。

 

「チャンミンのものは細くてピンクで可愛い」と言っていたあの人の言葉を思い出したけど、すぐに意識の外へ押し出した。

 

ええい、とそこを覆っていた手を除けた。

 

 

「お前...どうして剃刀を持ってるんだよ?」

 

真っ白い泡をなすりつけたすねを剃り出した僕に、ユノは驚いたようだった。

 

ユノの言う通り、ここでは刃物の所持は禁止されている。

(電気髭剃りシェーバーは許されている)

 

必要な都度(例えば入浴前)にスタッフから借りるのだ。

 

いちいち貸出帳に記入したり、ステーションの中で忙しくしているスタッフに、声をかけることに遠慮してしまう。

 

「ここに入所する時に、ガムテープで足首に貼って持ち込んだの」

 

「すげぇな」

 

「言っとくけど、それ用じゃないよ」

 

「分かってるよ」

 

「俺には疑問なんだが...どうして剃る?」

 

「決まってるでしょ。

スカートからすね毛ボーボーはマズいでしょ」

 

つるつるになったすねに満足する僕に、ユノは呆れ顔だ。

 

「チャンミンはどういう時にワンピースを着るんだ?

今のところ、初日しか見ていないなぁ」

 

「見てみたいんだ?」

 

ユノは3度目のシャンプーをしている。

(髪の毛が傷まないか心配だ)

 

「いや。

興味があるだけ」

 

「僕がワンピースを着るのは、着たいと思った時だよ。

見たいのなら散歩の時、着てきてあげようか?」

 

ユノは泡だらけの頭を濯ぎ中で、僕の声が聞えていないみたいだった。

 

僕は一方的に、無言なのは同意とみなした。

 

 

5人同時に入ることが出来そうな大きな湯船だ。

 

僕は縁に両腕と顎を預けて、ユノの背中を見つめていた。

 

案の定、備え付けの椅子に腰掛けていない。

 

ユノは指の1本1本、念入りに洗っている。

(肌がすりむけないか心配になる)

 

正面の鏡にユノの大事なところが映っていて、ドキドキしていた。

(ユノは気づいていないみたい)

 

「ねえ、ユノ。

亡くした人の話を聞かせてよ。

出会いのエピソードとかさ。

でも...辛かったらいいよ」

 

「面白くもなんともないぞ。

代わりにチャンミンも聞かせろ」

 

ユノは向こうを見たまま答えた。

 

「へえぇ。

僕の話、聞きたいんだ」

 

「そりゃあ、こんなところにいるんだ。

いつも一緒に行動してさ。

事情に触れずいるのってさ、余計に神経使うだろ?」

 

「確かにそうだね」

 

元々はユノの話を先に聞き出すつもりでいたけれど、予定変更だ。

 

「もうすぐお風呂の時間が終わっちゃうよ。

散歩の時に話してあげる」

 

僕はざぶりと、湯船から出た。

 

何色のワンピースを着ようかなぁ。

 

 

(つづく)

 

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(14)虹色★病棟

 

 

僕はユノによって部屋へと運ばれていった。

 

しゅん、と大人しくなった僕に安心したスタッフたちは、ステーションへと戻っていった。

 

ここは病院じゃない。

 

余程の問題行為(他人に危害を加えなければ)を起こさなければ、追い出されることはない(入居費の支払いが滞った場合は、この限りではない)

 

開け放つことのできない嵌め込み窓や、鍵のかかるエントランスドア。

 

入所者の大半は大人しく、静かにここでの時を過ごしている。

 

時折、絶望に耐えかねたり、なき人への憎しみのあまり暴れたり泣き叫んだりする光景は日常茶飯事とまではいかないが、スタッフたちにとって大した事件ではない。

 

だから、今回の僕の大暴れも事件のうちに入らない。

 

苦しい苦しいと訴えても、当事者以外の者にはこの痛みは理解できない。

 

僕は斜め上にあるユノの顔をを見上げていた。

 

彼の歩みごとに身体が揺られて心地よかった。

 

バクバクいう心臓の音も次第に落ち着いていった。

 

ゴーグルの下の穏やかな表情に、僕は平静を取り戻していった。

 

どさくさに紛れて、ユノの首に腕を絡めた。

 

消毒薬の匂いがした。

 

「着いたぞ」

 

ベッドに下ろされた時、僕は重要なことを思い出した。

 

ばい菌!

 

僕に用事がある時は、大声で呼ぶか指示棒で突いていたくらいの男だ。

 

ゴーグルと手袋、マスクはしていても、べったり身体を密着させ、僕の手やほっぺがユノの素肌に触れてしまっていた。

 

「...ユノ。

僕はもう大丈夫だから、ユノこそ、ほら。

洗濯しないと。

シャワー浴びないと。

除菌しないと」

 

こう言いながら、僕は泣きそうだった。

 

重大事項である「NOばい菌」を放っぽり出して、僕を助けようとしたユノ。

 

自身の潔癖を守ることよりも、僕を優先してくれたことは、涙が出そうになるくらい嬉しい。

 

けれど、平静に戻ったユノにとって、僕はばい菌に他ならないのだ。

 

悲しくなったのだ。

 

僕と密着していたことに気付いて、血相変えて部屋を出て行く姿を見たくなかった。

 

「ごめん...僕、汚くて」

 

「...え?」

 

ユノは僕を抱き上げていた両腕を見下ろし、そこで初めて一連の自身の行動に思い至ったようだった。

 

僕から飛び退くかと思った。

 

緊急事態で、自分が超潔癖症だということを忘れているんだ!

 

「後で洗えばいい。

そんなことより...チャンミン、大丈夫なのか?」

 

なんて言うんだから、僕はびっくりだよ。

 

どうってことないって風なんだ。

 

びっくり眼の僕に、ユノは微笑した。

 

「お前をなんとかしないと、と必死だった。

...俺が頑なに守り続けてきたルールなんて吹っ飛ぶものなんだなぁ。

俺の方がびっくりだよ」

 

僕が起こした一件が、ユノのこだわりに...たった1mmでもいい、ヒビが入ってくれたらいいなぁ、と思った。

 

だって...退所を突きつけられ、そこではっきりと自覚した。

 

ユノが好き。

 

出逢ってまだそれほど日にちが経っていない。

 

だから、勢いに任せて気持ちを伝えたりしたら駄目だ。

 

ユノはLOSTに来たばかりだ。

 

本人は気づかないふりをしている喪失感にいつかは立ち向かわないといけない。

 

ばい菌も恐れないといけない。

 

心が多忙なユノに「ユノが好きだ」なんて告白したりしたら...。

 

ユノを混乱させてしまう。

 

「待ってろ」

 

ユノは一旦僕の部屋を出ると、引き返して来た。

 

そして、消毒液のスプレーを、僕の部屋中に噴霧し出した。

 

「ユノ、僕んとこはいいよ」

 

ラテックス製の手袋をはめた手で、僕の手を取った。

 

除菌ウェットティッシュで 僕の指1本1本丁寧に拭いだした。

 

「僕は平気だって。

ほら、部屋に戻って」

 

「チャンミンこそ風呂に入れ」

 

「どうして僕が風呂に入らなくちゃいけないの?」

 

「......」

 

ぷいと顔を背けてしまったユノの扱いに困って、僕はマスクと手袋を装着し、彼の手の甲に触れた。

 

一瞬ぴくっと震えたユノの手だけれど、僕の手の下から引き抜くことまではせずじっとしていた。

 

「ユノ...ありがとう」

 

「......」

 

「暴れてしまって...びっくりしたでしょう?

たま~にああいうことがあるんだ。

堪え性がないんだね。

僕の精神はとっても弱っちいんだ。

別れの痛みは薄まっていったのに、僕の小箱の中は未だにぎゅうぎゅうでね」

 

「チャンミンの小箱ってのはどれくらいのサイズなんだ?」

 

「へ?

えーっと、これくらい」

 

それはメレンゲの箱より二回り小さい。

 

「ちっちゃいな。

鍵の方が大きいんじゃないのか?

俺はてっきり、海賊船の宝箱サイズかと思った。

金貨が詰まってるあれだ」

 

「あははは。

2年前はそれくらいだったね。

3年前は、象の檻くらいのサイズだった」

 

「お前の身体より大きくないか?」

 

「あくまでも僕の中でのイメージの話。

 

 

小箱の鍵を壊したのは、あのどす黒い感情ではなかった。

 

 

完全に無くなった訳じゃないけれど、月日の経過が風化させていってくれたから。

 

僕は自ら鍵を壊したんだ。

 

大人しくうずくまっていた絶望の闇のお尻を叩いて、暴れさせたんだ。

 

なぜ?

 

僕は立ち直りつつあり、まだまだ血のにじむ生傷に顔をしかめるユノ。

 

このギャップに気が重くなった。

 

自分がどれだけ傷ついているかを知らんぷりしているユノ。

 

狂ったように大暴れした結果、僕の退所の日程は延期となった。

 

計画的な行為じゃなかったけれど、退所を告げられた時、僕の頭は鋭く冴えていたのだ。

 

ショックを受けている一方で、ここに留まるにはどうしたらいいか考えを巡らしていたのだ。

 

もし、ここで暴れたら...?

 

...僕ってずるいよね。

 

好きな人から離れたくなくて、僕は駄々をこねたんだから。

 

 

(つづく)

 

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(13)虹色★病棟

 

 

あの人を失った時、暴力的な喪失感で僕のハートは潰れた。

 

その人と積み重ねていった思い出の数々を、何千回も反芻した。

 

その人の仕草のひとつひとつが鮮明過ぎて、過去と現実の見分けができなくなった。

 

食事が摂れなくなって痩せこけ、お風呂にも入らず悪臭を放ち、お酒ばかり飲んでいた。

 

その人は料理上手で、食卓にカラフルな料理が並び、そのどれもが口が落っこちそうに美味しかった。

 

最後にその人と食べたスープ...生クリームたっぷりなミルク色のスープに人参、ズッキーニ、玉ねぎ、パプリカ、トマト。

 

その人と共に過ごした時は宝物だったはずなのに、うちのめされた当時の僕は疲弊し、宝箱は空っぽになってゆき、喜楽が消滅していった。

 

代わりに、悲しみと怒り、憎しみがその宝箱に吸い込まれていった。

 

金メッキは剥がれくすみ、ビロードの内張りは色褪せ、蝶番は錆びついていった。

 

ついに宝箱は木製の粗末な小箱にとって代わった。

 

その中には僕の醜い心が、整理整頓もせずに、ごったに乱雑に詰め込まれていった。

 

音信不通になった僕を心配した職場の同僚が、廃人と化した僕を発見し、噂に聞くLOSTに連れていった。

 

LOSTこそ当時の僕に相応しい場所だと、彼が判断してしまったのも仕方がない。

 

LOSTは元々精神科の病棟だったのだ。

 

最上階の閉鎖病棟だけ機能している理由は、入所者が容易に脱出できないようにするため。

 

ここは病院ではない。

 

事実、医師もいない看護師もいない、医療行為は一切行われていない。

 

ここは愛を失った者が、一定期間身を寄せる避難所だ。

 

病院じゃないから、入居料は決して安くはない。

 

でも、LOSTで僕は頑丈な鍵をもらった。

 

どす黒い感情が小箱から飛び出さないように。

 

どす黒い感情とは、記憶を無かったものにしようと否定し、更にその人の人格を貶めるものだ。

 

僕はその感情に呑み込まれまいと抵抗するため、箱に仕舞いこんで閉じ込める方法を取得したのだ。

 

最初の1年間は、僕の悪魔は「ここから出せ!」と大暴れしていた。

 

よからぬことをしでかさないよう、ベッドしかないがらんとした部屋で過ごした時期もあった。

 

日々を重ねるにつれ、その頻度は減ってきた。

 

ひとによっては、部屋に閉じこもり食事も入浴も拒否して、生から脱落したがる者もいた。

 

ユノのように強烈過ぎる絶望感から心が麻痺してしまい、はた目にはケロリとしている者もいる。

 

ひとそれぞれなのだ。

 

LOSTが果たす役割とは、とことん喪失と向き合い、どっぷり浸かるという荒療治を経て、いつか社会活動に戻れるまでの時と場所を提供すること。

 

切り裂かれそうな痛みにのたうちまわったり、喪失のあまりぽっかりと空いた、巨大な穴の縁から見下ろす日々。

 

3年もいれば僕は落ち着きを取り戻し、他人の心配をする余裕も出てきた。

 

あと数週間から数か月後には退所できるだろう、と見込んでいた。

 

LOSTはほぼ満室状態だった。

 

元々は2人用だった僕の部屋が最後に残っていた。

(現にユノがやってくる直前まで、同部屋の者がいた)

 

ところが新たな入所者は2人いるという。

 

誰かが退所しないといけない...誰が?

 

やや不安定さを残してはいても、僕はまともになった部類に入る。

 

ここは病院じゃない。

 

運営側から退所するよう申し出があれば、それに従わないといけないのだ(契約書の但し書きにそう書いてあった気がする)

 

その日、僕とユノはラムネのお世話のため中庭へ下り、学生時代の面白エピソードを披露しあっていた。

 

散歩から戻ってすぐ、スタッフルーム奥の面談室に呼ばれて、嫌な予感がした。

 

1週間内にLOSTを出ていくようお達しがあった。

 

ここいにいた後半は、早くここを出たいと切望していたのに。

 

退所後の就職先やアパート探しも既に始まっていた。

 

僕にとって不都合過ぎた。

 

その理由は分からないなんて、とぼけたりしないよ。

 

ユノだ。

 

親友や同士に向ける感情か?

 

ううん、それだけじゃない。

 

ここではじめて、ユノへと向ける情は恋愛感情に近いものなのだと気付いたのだ。

 

ところが僕は、「嫌です」と本心に従った回答をすべきところを、「分かりました」と答えていた。

 

非常事態でそれほど頭がよくない僕の思考の一部は冷静で、そこだけ新品の歯車が猛スピードで回転していた。

 

「5日やそこらで、準備なんて...できませんよ?」

 

「例外として規則を緩めますから。

チャンミンさんなら大丈夫です」と、スタッフ長は言った。

 

僕の指は震え、冷や汗が吹き出していた。

 

ふらふらと足をもつれさせながら、面談室を出た。

 

心配したスタッフは僕の様子を、遠巻きに見守っていた。

 

動揺するあまり、小箱の鍵が弾け飛んだ。

 

鈍い金属音がはっきりと聞こえた、その瞬間も見えた。

 

呻きと雄叫びの間の、恐ろしい声で叫んでいたと思う。

 

食堂の椅子をつかみ投げた。

 

テーブルをひっくり返した。

 

バリバリと血がでるまで頭をかきむしり、壁に頭を打ちつけた。

 

入所者たちは、後ずさり遠目に僕の大暴れを見学していた。

 

どうしてこの一連の流れと、周囲の様子まで覚えているかというと、僕の精神の冷静な一部分が、僕の行為を観察していたからだ。

 

スタッフ3人が飛び出し、2人は僕の両脇を、1人は僕の腰を抱え込んだ。

 

「離せー!!」

 

激しく頭を振った。

 

その時、視界に好きな人の姿がよぎった。

 

彼はゴーグルをし、深緑色のガウンを羽織っていた。

 

 

 

「乱暴はやめてください」

 

暴れる僕を押さえつけるスタッフたちを、ユノは突き飛ばした。

 

「チャンミン!」

 

ユノに抱き締められて...僕の全身から力が抜けた。

 

「鍵だ、鍵だぞ?」

 

「うーー!」

 

「立派な鍵だぞ。

俺が手伝ってやるから、ほら、締めろ」

 

ユノが箱の蓋を押さえてくれ、僕は南京錠をかけ鍵をひねった。

 

鍵と錠がかみ合ったカチリという音も、手ごたえもはっきり感じとった。

 

僕の掌に南京錠の鍵がある。

 

「俺が預かっておいてやる」

 

そう言ってユノは、鍵というイメージを口に放り込み、ごくんと飲み込んでしまった。

 

僕を見下ろすユノの眼と僕の眼が溶け合った感覚を覚えた。

 

 

(つづく)

 

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(12)虹色★病棟

 

 

メレンゲをひとつ食べるごとに、紅茶を飲んだ。

 

これを繰り返すうち箱の中身は空っぽになって、僕の胃袋は紅茶でたぷたぷになっていた。

 

ユノが用意してくれたメレンゲが美味しすぎたせいだ。

 

ユノも僕もマスクと手袋を外していた。

 

ただし、ユノは温室の中に戻っていて、手持ち無沙汰なのか空になったカップを手の中で弄んでいる。

 

どこか上の空にも見えた。

 

ひがみ屋の僕は、ユノは僕がいつまでの部屋に居座っているから居心地が悪いんだと思った。

 

「ねぇ...ホントは迷惑なんでしょ?」

 

急に自分がとても汚らしい存在に思えてきたんだ。

 

「いや。

誰かと同じ部屋で過ごすのが久しぶりで...疲れただけだ」

 

ユノはベッドに寝っ転がった。

 

「そっか...気が付かなくてごめん。

昼寝をしたらどうかな?

僕は、部屋に戻るよ」

 

僕は立ち上がり、ポットとカップをトレーに戻し、ビニールカーテンの隙間からユノのカップを受け取った。

 

「なあ、チャンミン」

 

「ん?」

 

ユノに呼び止められ、ドアの前で僕は振り返った。

 

「俺は冷たい男なんだろうか?」

 

「どこが?」

 

ユノはぶっきらぼうで我が儘だけど、冷たい男だなんて思ってもいなかった。

 

僕は引き返して、デスク前の椅子に座り直した。

 

なんとなく、ユノは重要なことを話したいんだと察したんだ。

 

ユノの青ざめた肌と目の下の紫色の隈、紅色の唇。

 

...狩りを終え唇を血で濡らしたドラキュラのようにも見えた。

 

 

 

 

「僕はユノが冷たい奴とは思わないけど?

どうして?」

 

むくりと起き上がったユノは、髪をむちゃくちゃにかきむしった。

 

「この世を去ってしまいたい...実際に行動に移そうとした俺なのに。

なんなんだ、今の俺は?

お前の前でちょろっと泣いた程度だ。

『無』なんだよ。

悲しくもなんともない。

今すぐLOSTを出て行っても平気なんじゃないかって思えるくらいだ。

今こうしている間も、『無』なんだ」

 

「それは、麻痺しているせいじゃなのかな?

ショックが大き過ぎて、受け止められなくて、心の防衛反応っていうの?」

 

「怖いんだ。

ある時、喪失感に憑依されるんじゃないかって。

憑りつかれた時、また物騒な物を手にするんじゃないかって」

 

「...そうだね。

あるだろうね」

 

「そんなこと起こらないから安心しなよ」なんて言えない。

 

僕だって同じだったから...かつても今も。

 

「...これはイメージの話なんだけど。

ユノさんはその人を失くしてしまった辛い思いや、その人との思い出をどうしてる?」

 

「イメージ?」

 

ユノはマスクを装着すると温室から出てきた。

 

そして、もう一つの椅子に腰かけ僕と対面した。

 

そそけだっていた頬に赤みがさし、眼球を潤す涙が煮えたぎっていた。

 

それはすがる目だった。

 

これはいい加減なことは言えないぞ、と緊張した。

 

「うーんとね、僕の場合は箱の中に押し込めてるの。

でね、鍵をかけてる。

出てこないように」

 

「俺のイメージは...」

 

ユノは上向いて天井へ視線をさまよわせ、それから目をつむって腕を組んだ。

 

「でかい鍋に苦悩のスープがあるんだ」

 

「ぷっ、スープ?」

 

吹き出した僕をユノはぎろり、と睨みつけた。

 

黒目がちの眼をしているから、イマイチ凄みが不足しているんだけどね。

 

「ごめんね」

 

「ぐらぐらに煮えたぎってるんだ。

熱くてとても飲めやしない。

スープは蒸発して減っていく。

濃くなっていく。

もうすぐ焦げ付きそうになって、俺は少しだけ水を加える」

 

「焦げ付いたらどうなるの?」

 

「そりゃぁ...ここに来る前の俺になってしまうな」

 

「そうなんだ...」

 

正直、ユノの例えが分かるようで分からなかった。

 

苦悩をやり過ごす方法のイメージは、人によってずいぶん異なっているものなんだなぁ、と思った。

 

「綺麗に空っぽになった時が、克服した時なのかな?」

 

「...できてるんだろうな」

 

ユノがそう思っていないことは、彼の浅い笑いで分かった。

 

今はとてもとても、克服した姿を想像できなくて当然なのだ。

 

 

「これ頂戴」メレンゲが入っていた綺麗な箱と、お茶セットを持って僕は部屋を出ようとした。

 

間際にもう一度、ユノに呼び止められた。

 

「『さん』付けしなくていいぞ。

ユノ、と呼んでくれていいぞ」

 

「ホント?」

 

「気付いてるか?

『ユノさん』って呼んだり、『ユノ』って呼んだり、どっちかにしろよ」

 

「あは、そうだっけ?

ユノ、夕飯の時に会いましょう」

 

「散歩は?」

 

「16時に集合」

 

僕がユノに懐く、というよりユノが僕に懐いている。

 

こんなこと口にしたら、ユノは気分を害するだろうね。

 

 

 

2日後。

 

プチ事件が起きた。

 

僕が事件を起こした。

 

ある知らせを受けて、僕の小箱の鍵が壊れた。

 

本来なら喜ばしいお知らせだったはずなのに。

 

今の僕にとっては、不都合なお知らせだったのだ。

 

 

(つづく)

 

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(11)虹色★病棟

 

 

メレンゲをひとつ食べるごとに、紅茶を飲んだ。

 

これを繰り返すうち箱の中身は空っぽになって、僕の胃袋は紅茶でたぷたぷになっていた。

 

ユノが用意してくれたメレンゲが美味しすぎたせいだ。

 

ユノも僕もマスクと手袋を外していた。

 

ただし、ユノは温室の中に戻っていて、手持ち無沙汰なのか空になったカップを手の中で弄んでいる。

 

どこか上の空にも見えた。

 

ひがみ屋の僕は、ユノは僕がいつまでの部屋に居座っているから居心地が悪いんだと思った。

 

「ねぇ...ホントは迷惑なんでしょ?」

 

急に自分がとても汚らしい存在に思えてきたんだ。

 

「いや。

誰かと同じ部屋で過ごすのが久しぶりで...疲れただけだ」

 

ユノはベッドに寝っ転がった。

 

「そっか...気が付かなくてごめん。

昼寝をしたらどうかな?

僕は、部屋に戻るよ」

 

僕は立ち上がり、ポットとカップをトレーに戻し、ビニールカーテンの隙間からユノのカップを受け取った。

 

「なあ、チャンミン」

 

「ん?」

 

ユノに呼び止められ、ドアの前で僕は振り返った。

 

「俺は冷たい男なんだろうか?」

 

「どこが?」

 

ユノはぶっきらぼうで我が儘だけど、冷たい男だなんて思ってもいなかった。

 

僕は引き返して、デスク前の椅子に座り直した。

 

なんとなく、ユノは重要なことを話したいんだと察したんだ。

 

ユノの青ざめた肌と目の下の紫色の隈、紅色の唇。

 

...狩りを終え唇を血で濡らしたドラキュラのようにも見えた。

 

 

 

 

「僕はユノが冷たい奴とは思わないけど?

どうして?」

 

むくりと起き上がったユノは、髪をむちゃくちゃにかきむしった。

 

「この世を去ってしまいたい...実際に行動に移そうとした俺なのに。

なんなんだ、今の俺は?

お前の前でちょろっと泣いた程度だ。

『無』なんだよ。

悲しくもなんともない。

今すぐLOSTを出て行っても平気なんじゃないかって思えるくらいだ。

今こうしている間も、『無』なんだ」

 

「それは、麻痺しているせいじゃなのかな?

ショックが大き過ぎて、受け止められなくて、心の防衛反応っていうの?」

 

「怖いんだ。

ある時、喪失感に憑依されるんじゃないかって。

憑りつかれた時、また物騒な物を手にするんじゃないかって」

 

「...そうだね。

あるだろうね」

 

「そんなこと起こらないから安心しなよ」なんて言えない。

 

僕だって同じだったから...かつても今も。

 

「...これはイメージの話なんだけど。

ユノさんはその人を失くしてしまった辛い思いや、その人との思い出をどうしてる?」

 

「イメージ?」

 

ユノはマスクを装着すると温室から出てきた。

 

そして、もう一つの椅子に腰かけ僕と対面した。

 

そそけだっていた頬に赤みがさし、眼球を潤す涙が煮えたぎっていた。

 

それはすがる目だった。

 

これはいい加減なことは言えないぞ、と緊張した。

 

「うーんとね、僕の場合は箱の中に押し込めてるの。

でね、鍵をかけてる。

出てこないように」

 

「俺のイメージは...」

 

ユノは上向いて天井へ視線をさまよわせ、それから目をつむって腕を組んだ。

 

「でかい鍋に苦悩のスープがあるんだ」

 

「ぷっ、スープ?」

 

吹き出した僕をユノはぎろり、と睨みつけた。

 

黒目がちの眼をしているから、イマイチ凄みが不足しているんだけどね。

 

「ごめんね」

 

「ぐらぐらに煮えたぎってるんだ。

熱くてとても飲めやしない。

スープは蒸発して減っていく。

濃くなっていく。

もうすぐ焦げ付きそうになって、俺は少しだけ水を加える」

 

「焦げ付いたらどうなるの?」

 

「そりゃぁ...ここに来る前の俺になってしまうな」

 

「そうなんだ...」

 

正直、ユノの例えが分かるようで分からなかった。

 

苦悩をやり過ごす方法のイメージは、人によってずいぶん異なっているものなんだなぁ、と思った。

 

「綺麗に空っぽになった時が、克服した時なのかな?」

 

「...できてるんだろうな」

 

ユノがそう思っていないことは、彼の浅い笑いで分かった。

 

今はとてもとても、克服した姿を想像できなくて当然なのだ。

 

 

 

「これ頂戴」メレンゲが入っていた綺麗な箱と、お茶セットを持って僕は部屋を出ようとした。

 

間際にもう一度、ユノに呼び止められた。

 

「『さん』付けしなくていいぞ。

ユノ、と呼んでくれていいぞ」

 

「ホント?」

 

「気付いてるか?

『ユノさん』って呼んだり、『ユノ』って呼んだり、どっちかにしろよ」

 

「あは、そうだっけ?

ユノ、夕飯の時に会いましょう」

 

「散歩は?」

 

「16時に集合」

 

僕がユノに懐く、というよりユノが僕に懐いている。

 

こんなこと口にしたら、ユノは気分を害するだろうね。

 

 

2日後。

 

プチ事件が起きた。

 

僕が事件を起こした。

 

ある知らせを受けて、僕の小箱の鍵が壊れた。

 

本来なら喜ばしいお知らせだったはずなのに。

 

今の僕にとっては、不都合なお知らせだったのだ。

 

 

(つづく)

 

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