(26)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

お兄さんが僕だけじゃなく、この店まで買い取った理由は分かったよ。

 

僕が『犬』時代の過去を引きずってはいけない、と僕を思ってしたんだよね。

 

僕のやること成すことに『犬』の名残を見つけてしまい、何とかしてやりたい一心だったのだろう。

 

お兄さんは僕のために一生懸命だ。

 

こうなったらいいなぁ、と何の気なしに口にしてしまったことも、お兄さんは実現させようと即実行だ。

 

「ただの独り言です」と言って、手配の電話を入れようとするお兄さんを止めることもしばしばだった。

 

僕だけじゃなく、この店も『犬』たちも全部、買い取ってしまったお兄さん。

 

僕のためもあるけれど、お兄さん自身も過去をセイサンしたかったんじゃないかな。

 

こんなことまで考えが及ぶようになれるなんて...お兄さんのおかげだ。

 

お兄さんに大事にされるうちに、優しい心が宿ったんだ。

 

他の『犬』たちを蹴落とすことしか考えていなかった僕だったのに。

 

僕もお兄さんをうんと大事にしてあげなくっちゃ。

 

お兄さんの好意を呑気に受け取っているだけじゃ駄目だ。

 

喉仏の上で揺れるダイヤモンドに触れた。

 

「俺に何かがあった時、このダイヤモンドが生活を保障してくれる」と、以前話していた。

 

僕に何かあったとき、お兄さんに託せるものはあるのだろうか。

 

何か形として残してあげらえるものはあるのだろうか。

 

僕はお兄さんを力いっぱい抱きしめた。

 

お兄さんの首筋に鼻をくすりつけた。

 

憐れまれることこそ、憐れだと思っていた。

 

近頃は、お兄さんこそ憐れだと思うようになった。

 

 

 

「ごめんな」

 

謝るお兄さんに、僕は「謝らないでください」と激しく首を振った。

 

「謝る必要がどこにあるのです?

お兄さんは僕に対して、何か悪いことをしたのですか?」

 

「挙げだしたら沢山あると思う。

俺のやったことは偽善、だってな。

『偽善』の意味は分かるか?」

 

「...いいえ」

 

「いい人だと思われたくて行動することだよ。

相手からのリターンを期待してする行動だ」

 

「お兄さんは『いい人』だと思われたくて、店と『犬』を買ったんですか?」

 

「いいや」

 

「じゃあ、偽善じゃないです」

 

「誰かを助けることもできるし、傷つけることもある行為でもあるんだよ」

 

「買いたかったから買ったんですよ...お買い物です。

それだけのことです。

考え過ぎなんですよ」

 

お兄さんの背中に回していた片手を持ち上げ、恐る恐る、彼の後頭部を撫ぜた。

 

立場が逆転して、撫ぜられるばかりだった僕がお兄さんを撫ぜている。

 

嫌がられて手を跳ねのけられるかもしれない。

 

お兄さんの頭は小さくて、人形みたいに整った顔をしていて...こんなに綺麗な人が『犬』だったなんて...悲しくなった。

 

僕は『犬』から抜け出し手助けをしてもらったけれど、お兄さん自身が『犬』を卒業した時、そばで支えてくれた人はいただろうか?

 

...誰もいなかっただろう。

 

お兄さんはじっと、僕に撫ぜられたままでいてくれた。

 

「ねえお兄さん。

お兄さんは賢すぎるんです。

ヒカンテキなんです」

 

最近覚えたての言葉を使ってみせると、お兄さんはふっと笑い、その吐息が僕の耳に届いた。

 

「僕みたいにノーテンキでいなくっちゃ」

 

僕はお兄さんにもたれかかっていた身体を起こし、水槽の通路まで彼の手をひいた。

 

今すぐお兄さんを癒すには...。

 

僕は穿いていたズボンを膝まで下ろすと、水槽に両手をついた。

 

お兄さんは僕の突然の行動についてゆけずにいる。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

俺の手はチャンミンのそこへと導かれた。

 

チャンミンの手は俺のそこを撫ぜ上げる。

 

俺は低く呻いて、チャンミンの背に覆いかぶさった。

 

思い出したくもない、憎むべき場所。

 

誰かに見られる恐れはないのに、いけないことをしている意識が俺たちの欲を刺激した。

 

元『犬』同士が、『犬』になっていたこの地で、『犬』のように抱き合うのだ。

 

俺たちの出逢いの場。

 

割れ目に先を押し当てたが、潤いが足りない。

 

俺はその場で膝をつき、チャンミンの奥へ舌を這わした。

 

「やっ...ダメ、ダメで...」

 

逃げようとするチャンミンの腰を掴み、谷間を広げ、その底に吸い付いた。

 

チャンミンは後ろに手を伸ばして、俺の頭を除けようとしている。

 

「ダメ...ダメ」

 

その制止の言葉もうわべだけのものとなった。

 

今にも折れてしまいそうに、膝頭が震えている。

 

シワを一本一本、伸ばすように丹念に舐め上げた。

 

針ほどだった穴も緩んできて、ねじこむ必要がなくなった。

 

「口が開いてきたぞ」

 

濡れそぼったそこに指を足す。

 

憎むべき場所で俺たちは、繋がろうとしている。

 

心理的な抵抗感よりも肉欲が増してしまうのは、『犬』だった性なのか。

 

違うね。

 

俺たちのセックスには屈折したものはない。

 

愛情の確かめ合いは当然のことで、もっと単純なワケがある。

 

俺はチャンミンを攻めるセックスが好きなのだ。

 

チャンミンの恍惚とした表情を見ればすぐにわかる。

 

チャンミンも俺に攻められるセックスが好きなのだ。

 

 

(つづく)

 

 

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(25)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

チャンミンはこのドアを開け、俺を追いかけてきた。

 

「お兄さん!」と背後から呼ばれてすぐに、俺は立ち止まった。

 

追いかけられることを、実は期待していた。

 

振り向いた先に、自由へと放したばかりの『犬』がいて、安堵と喜びの感情が押し寄せてきたのだ。

 

 

 

 

ところがその数か月後。

 

その安堵と喜びを手放さなければならない状況に、自ら陥った。

 

黙っていてもよかった。

 

愛する者には多くのことを知って欲しいと望む、俺の身勝手さが口を割った。

 

多くを語らず、人を寄せつけず、独りで生きてゆく...これまでの俺の生き方であり、これまでの理想像だった。

 

チャンミンに判断をゆだねていた。

 

チャンミンはその場で立ち尽くしていた。

 

当然だ。

 

思いがけない告白。

 

いわば囚われの身となっていたその場所に、俺が関わっていたことを初めて知ったのだ。

 

「『古巣』と言ったように、俺もこの店で『犬』をしていた」

 

畳み掛けるように、情報を追加した。

 

「......」

 

視線の行方も表情の変化も、吐息も全部、注意深く見守っていた。

 

チャンミンは店内を歩き回り始めた。

 

ライトの落ちた水槽に手を滑らせながら、店の奥へと歩いていく。

 

この店は間口は狭いが、奥行きある間取りをしている。

 

あの夜、店内は煌々と水槽の中で灯されたライトで明るく、熱帯魚専門店のようだったと思ったのだった。

 

俺がいた時よりもスペースに余裕があって格段にマシになっていた...人間を閉じ込める行為にマシもクソもないが...。

 

奥行き10メートルほどの店内に、通路を挟んで両側に水槽が奥へと並んでいる。

 

一番突き当りにライトアップもスペースも、大きく差をつけた水槽がある。

 

店一番の『犬』であったチャンミンはそこにいた。

 

俺の気を引こうと中指を立てていた。

 

当時の挑戦的だった眼の色も、今じゃ穏やかなものにと変わっていた。

 

GPS付きの黒革の首輪が、宝石付きのチョーカーへと代わっていた。

 

青白い肌もこんがりと焼けて、健康的になっていた。

 

チャンミンはガラスに額を付け、自身を閉じ込めていた水槽の中を覗き込んでいる。

 

床に敷き詰めた白いファーも薄汚く見え、廃業したペットショップの陳列ケースのようでうら寂しい。

 

チャンミンがいなくなった後、店一番へ格上げになった『犬』はいたのだろうか。

 

なんと悲壮な場所だろう。

 

俺はこの後、チャンミンから何を言れようと、全て受け止めると心に決めていた。

 

質問には残らず答え、弁解もしないと。

 

 

予想している展開はあった。

 

「お兄さんにはがっかりです」

 

客として店の個室で体面した時のように、小馬鹿にした醒めた眼で、俺を睨みつけるだろう。

 

怒りの眼だったらまだマシだ。

 

嫌悪の眼、不信の眼だったら辛いな、と思った。

 

「お兄さんは、サイテーです。

いい人ぶりたかったんですか?

突然自由にされて、『犬』たちは大きなお世話ですよ?」

 

「そうだ、すべては俺のエゴだ」と答えるしかないだろう。

 

そして、チャンミンは俺のもとを出ていってしまうだろう。

 

誰かの庇護の元じゃないと、生き抜いていけないくせに。

 

チャンミンはまだまだ、野生に戻れないのだ。

 

誰かに拾われて『犬』に類する身分に逆戻りするか、野垂れ死ぬか。

 

最低限の常識を身につけさせ、カタコトの外国人並みでもいいから文字を覚えさせ、体力をつけさせる。

 

俺がいなくてもぎりぎり生きてゆけるようになるまでは、そばに置いて守ってやらないと。

 

俺の元を離れていってしまうなら、十分な金も持たせてやろう。

 

豪遊の末、1か月も経たないうちに残高が底をつくような、そんな金の使い方はチャンミンはしないから大丈夫だ。

 

俺がチャンミンのためにやれるものは、金しかない。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

お兄さんは僕がどんな反応を見せるのか、ドキドキしながら待っている。

 

そりゃあ、びっくりしたよ。

 

僕はお兄さんが心配しているほど、弱っちい男じゃないんだ。

 

タフなんだ。

 

タフじゃなければ、店一番の『犬』の座をキープできないよ。

 

真実を知りショックを受け、裏切られたような気持ちを抱いてしまう僕を、お兄さんは予想している。

 

あのね、僕は分かったんだ。

 

今まで内緒にしてきたお兄さん。

 

僕がショックを受けることを心配しているお兄さん。

 

僕がどんな反応を示すのか、固唾をのんで待っているお兄さん。

 

お兄さんこそ、優しく繊細な心の持ち主なんだ。

 

優しい心を持っているから、僕のことを心配できるんだ...僕なんかよりずっと。

 

僕は平気だよ、と早く教えてあげないと。

 

レジカウンターの横に立ち尽くすお兄さんのもとへ歩み寄り、僕は彼に抱きついた。

 

 

(つづく)

 

 

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(24)あなたのものになりたい

 

~ユノ~

 

チャンミンはタクシーのシートに座ったまま、下りようとしなかった。

 

「チャンミン?」

 

手をひくと、意固地に抵抗する程でもなくチャンミンは俺に従った。

 

早朝の裏通りは薄汚く、色彩が抜けた光景となっていた。

 

汚物を洗い流したとみられる濡れた路面、煙草の吸殻、空きペットボトル、チラシと割引チケット、丸めたティッシュペーパー、女性ものの下着。

 

夜間はきらびやかで派手な電飾、誇大広告看板は、品定めする通行人の心を躍らせる。

 

電柱にもたれて項垂れた中年サラリーマン風は、泥酔したまま朝を迎えたのか。

 

ラブホテルの正面をちょうど通り過ぎようとした時、アーチから中年男性が出てきた。

 

地面にへたり込んでいた先程のサラリーマンとは正反対に、仕立てのよさそうなスーツを着こなしたビジネスマン風だった。

 

彼は大通りの方向へ立ち去っていった。

 

数秒遅れて、若い男が通りへと出てきた。

 

やや小柄で明るい髪色で、チャンミンほどではないが整った顔をしていた。

 

中学生といっても通用しそうな童顔をしていたが、俺が見るところ20代半ば。

 

漂わせている空気とうつろな眼...さんざん目にしてきたものだから、よくわかる。

 

若い男は俺たちに気づくなり、無表情を驚愕のものへと瞬時に変えた。

 

彼は俺ではなく、隣にいるチャンミンを凝視していた。

 

チャンミンもその大学生風の登場に、目を丸くし言葉をなくしていた。

 

「どうした、知り合いか?」

 

俺たちは立ち止まっていた。

 

二人の様子は、とても友人同士の再会といったものじゃない。

 

チャンミンの知り合いとは、店関係の者に限られているはずで、あの身なりのいい男だったら客のひとりだと想像はつくのだが...。

 

若い男とチャンミンは、『犬』仲間だ...あの店の。

 

驚嘆ののち、若い男は笑顔になると「久しぶり」と言った。

 

口元だけ歪めたその笑顔は目が笑っておらず、斜に構えた、非情とは違う意味の無関心さがあった。

 

あの夜、あの店を訪れた俺は、一番人気で一番高額な...店奥のショーウィンドウに展示された...チャンミンしか見ていなかった。

 

通路の両サイドに並ぶガラスケースの『犬』たちの中に、この男もいたのかもしれない。

品定めする客になったつもりでいながら、悪趣味な商品のディスプレイ方法にげんなりしていたため、『犬』たちの顔はろくに見ていなかった。

 

「へえぇ、あんた、この人に買われたんだ。

へえぇぇ、羨ましいな」

 

その言葉遣いは彼の童顔に不釣り合いなもので、妬みと嫌味がこめられていた。

 

「じじいじゃなくて、まだ若いじゃん。

金持ってんだな、この人?」

 

若い男に全身を観察される間、俺は妙な緊張感で背筋が強張った。

 

チャンミンは若い男の問いに答えず、俺に身を寄せ、腕をからませてきた。

 

「お前こそ...外に出してもらえたんだろ?

...さっきの人?」

 

通りの向こうを指さすチャンミンに、若い男は「そうだったら、最高なんだけどな」と答えた。

 

チャンミンは、「それじゃあ、買い取った主人はどこに?」と、意味が分からない風だった。

 

若い男はさらに口を歪めて、嘲笑した。

 

「俺には『主人』はいないよ。

正真正銘の自由だ。

...自由過ぎて、俺は困っているくらいだ。

それに...さっきのおっさん?

こずかい稼ぎだ。

『犬』が染みつき過ぎてる自分が......ホント、嫌になるよ」

 

と、ここまで自嘲気に話すと、若い男は「じゃあ」と手を上げた。

 

チャンミンも片手を持ち上げるだけの挨拶、若い男はビジネスマンとは逆方向へと歩み去っていった。

 

若い男の装いはカジュアルであっても、仕立てやブランドロゴから決して安物ではなかった。

 

まあまあな生活をしているようだったが、彼の暗い眼が気になった。

 

「彼の名前は?」

 

「知らないです。

『犬』同士、名前を呼び合うことなんてありません。

みんなライバルです、仲が悪いのです」

 

「...悪かった」

 

チャンミンの固い表情に、安心させようと彼の肩を抱いた。

 

俺たちがいる通りから、車が1台通るのがやっとの裏道に、さらに足を踏み入れる。

 

看板灯もほとんど出ておらず、果たして営業している店舗などあるのだろうかと、不安になるような通りだ。

 

そこは間口がわずか2メートル、窓のないドアがあるだけの、何を提供する店なのかぱっと見には分からない店構えだ。

 

ドアの脇に防犯カメラとインターフォンが取り付けられている。

 

鍵穴の上に12個のボタンが並んでいる。

 

今はカメラの赤いランプは消えている。

 

「お兄さんっ...どうして?

どうしてここに?」

 

俺の腕の下で、チャンミンの顔色は真っ青になっていた。

 

俺が何をしようとしているのか、全く予想がつかなくても仕方がない。

 

俺自身も、うまく説明がしようのない行動をしたのだから。

 

チャンミンの肩を抱き直し、なだめるように二の腕を擦った。

 

そして、後ろポケットから鍵を出し、鍵穴に差し込んだ。

 

すっ、とチャンミンが息を吸い込んだ音がした。

 

6桁の番号を押し、最後に鍵を回すと、カチリと錠が外れた電子音がした。

 

「......」

 

ドアを開け、絶句したままのチャンミンを伴って、店内へと踏み入れた。

 

店内は暗く、塩素の香りが立ち込めている。

 

チャンミンは俺を食い入るように、信じられないといった表情で見つめている。

 

「今のオーナーは俺だ」

 

「!」

 

「あの夜、ここに来たのは...俺は荒れていた。

...古巣を覗いてみたくなった」

 

「......」

 

「店で最も高級な『犬』を買ってやろうと思った。

金の使い道を探していたんだ」

 

「......」

 

「俺という人間を見損なったか?」

 

チャンミンの眼は大きく見開き、口もぽかんと開いたままだった。

 

「チャンミンと出逢った。

自由にしてやろうと思った」

 

「......」

 

「お前と暮らすうち、この店を消してしまおうと思った。

全部...土地も建物も...」

 

俺はぐるりと店内を見回した。

 

「囚われの『犬』も全部、俺が買った」

 

「......」

 

「今まで黙っていて悪かった」

 

 

(つづく)

 

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(23)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

テレビで見たんだ...僕みたいな者を『ただ飯喰い』だってさ。

 

お兄さんに甘えっぱなしだ。

 

「俺たちは主従関係にない」こと、「俺たちは対等だ」と、お兄さんがしつこくしつこく言い聞かせてくれても、僕は納得していない。

 

お兄さんに贈り物をしたくても、稼いでいない僕はお金を持っていない。

 

コンピューターもネット通販ができるだけ、文字も満足に読み書きできるレベルにないし、レジの機械も使えないから店番もできない。

 

僕ができるのは身体を売ることだけ。

 

ちら、っとその考えが浮かんでしまったことは、お兄さんに内緒だ。

 

僕はお兄さんにお返しがしたいんだ。

 

貰ってばかりの自分は嫌だと思った。

 

 

厳しい暑さのせいで深夜の散歩も見送りになる日が続いていた。

 

久しぶりの外出だった。

 

着替えた僕らは、超高速で落下するエレベーターに乗り込んだ。

 

世の中の少なくない人々が眠らずに活動している証拠に、眼下には大小さまざまなライトが散らばっていた。

 

どこに連れていってくれるのかな、と、隣に立つお兄さんの様子を窺った。

 

お兄さんのうつろな眼が気になった。

 

さっきまで、僕を食べたそうに熱々な眼をしていたのに、今のそれは夜景を通り越したところにある。

 

疲れてるのかな、それとも昔の仕事の話をしにくいのかな。

 

僕の質問、「どうしてあの店に来たのですか?

 

どうして『犬』を買おうと思ったのですか?」

 

僕をがっかりさせてしまうことを、お兄さんは恐れていた。

 

難しいことを尋ねてしまったんだと反省をしかけて、直ぐに止めた。

 

僕はその答えを聞かないといけないんだ。

 

マンションのエントランスホールは静寂そのもので、照明も一段階絞られていた。

 

住民が通り過ぎるだけに過ぎないスペースに、一抱えもある大きな花瓶に花が飾られている。

 

くつろぎ座っている姿を誰一人見たことない、メタルフレームで黒革張りのソファセット。

 

カウンターに常駐しているコンシェルジュが、僕らにわけ知り顔で会釈した。

 

無視するわけにはいかないと、立ち止まって頭を下げていると、僕の肘にお兄さんの手が添えられた。

 

お兄さんは僕の耳元で、「チャンミンのそういうところ、好きだよ」と囁いた。

 

耳に唇が触れそうなくらいに近いんだもの、恥ずかしくって背後のコンシェルジュの目が気になってしまった。

 

僕とお兄さんは毎日、えっちをしている恋人同士だってことを、今のでバレてしまったかな。

 

マンションの外へと出た僕らは、手を繋いだ。

 

明け方といっていい時間帯で、暑さは和らいでいて、ちょうどよい気温だった。

 

マンション前の歩道は、自動車が走行できるほど広々としている。

 

僕はお兄さんから手を離し、彼を先立って駆けていった。

 

両手を広げてくるくると回ったり、後ろ歩きしたり...幸せな気分が溢れてきて、じっとしていられなかったんだ。

 

はしゃぐ僕を、お兄さんは優しい眼差しを見守ってくれる。

 

でもね、えっちの時はお兄さんは豹の眼になるんだ...駄目だな、僕はえっちなことばかり考えている。

 

欲求不満なんだな、きっと。

 

お兄さんはゆったりとしたシャツに細身のコットンパンツを合わせ、足元はサンダル履きだった。

 

ポケットにはスマートフォンだけを突っ込んでいるだけで、僕は手ぶらだった。

 

お兄さんのスマートフォンは万能で、それがあればお腹が空いても足が疲れてしまっても心配はいらない。

 

「どこまで行きますか?」

 

いつものコースならオフィス街の方向なのが、今日の僕らは真逆の方へ向かっている。

 

お兄さんは歩くのがとても速い。

 

息が上がった僕に気づき、お兄さんはタクシーを捕まえた。

 

乗り込んだタクシーから見る景色に、僕の鼓動は早くなる。

 

この道は...。

 

僕らが向かっている先。

 

一度だけ通った道にも関わらず、僕ははっきりと覚えていた。

 

僕らはあの店がある裏通りへ向かっている。

 

汗ばんだ肌に心地よかった車内が、冷房が効きすぎると肌寒く感じられた。

 

両腿に置いた僕のこぶしを、義兄さんは包み込むよう握った。

 

温かい手だった。

 

「...どうして?」

 

「なぜあの店に行ったのか、その理由を教えてあげるためだ」

 

「...そう、でしたね」

 

ある嫌な考えを思いついてしまい、ここにきて自分がした質問を深く後悔した。

 

これまでずっと、その考えが頭をよぎらなかったことが不思議だった。

 

...お兄さんは『犬』を買ってえっちをするのが好きな人なのかもしれない。

 

僕がいた店の半分以上は『常連さん』で、気に入りの『犬』を指名して買うのだ。

 

僕がいた店に来るのは初めてでも、この手の他の店では常連さんだったかもしれないのだ。

 

喉に不快感がつっかえて、胸が苦しくなった。

 

 

(つづく)

 

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(22)あなたのものになりたい

 

 

~ユノ~

 

チャンミンの耳たぶを舐めんばかりに頬を寄せ、囁いた。

 

「動かしたら、プールを汚してしまうよ?」

 

チャンミンの首筋に鳥肌がたった。

 

管理会社に一本連絡を入れれば済むことなのに、チャンミンを困らせたかったのだ。

 

したいのに出来ない、でもしたいと葛藤するチャンミンを見たかった。

 

「プールの中でヤリたい、と言いだしたのはチャンミンだよ?」

 

「......」

 

「お兄さん...僕...プールの中は...飽きました」

 

チャンミンは俺から下りようとするが、俺は彼から腕を離さない。

 

「お兄さんっ...離して」

 

根元まで埋めたまま、チャンミン自身を上下左右と揺すった。

 

「んんっ...ふっ」

 

物足りないチャンミンは自らを振ろうとしたが、俺はそれを許さない。

 

「チャンミンは動いたらダメだ。

栓が抜けてしまったら大変だ」

 

「...そんな」

 

「動かして欲しいなら動かしてあげるけど...。

いいのか?

チャンミンの穴からいろいろ出てしまうだろうね?

そうなったらどうなるかな?」

 

「...どうなるって...」

 

「チャンミンが掃除するか?

水を全部抜いて、デッキブラシで磨くんだ。

ひとりでできるか?」

 

「......」

 

泣き笑いな表情になってしまったチャンミンが、可哀想になってきた。

 

「一旦あがろうか?」

 

チャンミンを抱えたまま、プールサイドへと移動した。

 

動物の赤ん坊のように、しがみついたままのチャンミンが愛おしかった。

 

今夜の俺は優しい。

 

 

ジャグジーで冷えた身体を温めていた時のことだ。

 

チャンミンを後ろから抱きかかえ、気紛れに首筋に吸いついては、彼をくすぐらせていた。

 

うなじに、耳のつけ根にと、いくつもの紅い痕を付ける度、チャンミンはクスクスと笑って、身をよじらせている。

 

誰かに会うこともない、俺と二人きりの暮らし。

 

全身花吹雪のようになっても構わないのだ...俺もチャンミンも。

 

「お兄さん...訊きたいことがあります」

 

あらたまった口調に、「いよいよ来たか」と思った。

 

チャンミンの質問の内容が予想できた。

 

「どうして、あの店に来たのですか?

どうして『犬』を買おうと思ったのですか?」

 

「あの夜」「あの店」が、俺たちの起点だった。

 

それ以前については話題に出ても、さりげなくかわしてきた。

 

語ることで過去を思い出したくないなんて、ナイーブな理由からじゃない。

 

知られたくなかった。

 

チャンミンは前者の理由によるものかもしれない。

 

俺はというと、そろそろチャンミンについて知りたくなったところだった。

 

俺自身についても、知ってもらいたい。

 

たった今のチャンミンの質問により、俺たちの心の変化が合致したことに俺は満足した。

 

 

俺がなぜ、あの店を訪れたのかを知ったとき、チャンミンは俺を軽蔑するかもしれない。

 

...いや、「軽蔑」の感情を知らないかもしれないな。

 

ジャグジーの音がうるさく、停止するのをしばし待った。

 

後ろ抱きされていたチャンミンは、俺から身体を離すとバスタブの反対側に移動した。

 

「お兄さんは話したくないでしょうが、僕は知りたいのです。

僕は馬鹿だから、うまく説明できなくてすみません。

お兄さんの近くにいるのに、つかみどころがないのです。

いっぱいえっちをしているのに、お兄さんのおちんちんが僕の中に何回も入っているのに、まだまだ遠い存在なんです。

もしお兄さんが僕のショユーシャだったら、僕には知る資格はないです。

でもこの前、僕に言ってくれましたよね?

あ...言ってないか。

僕が勝手に思ったことですけど...えへへへ。

お兄さんは恋人としかえっちしないって、言いましたよね?

つまり...僕はお兄さんの恋人ってことですよね?」

 

「そうだよ。

恥ずかしかったんだ。

『チャンミンは恋人だよ』と口にするのがね」

 

はっきりと言い切っていなかったせいで、チャンミンを不安にさせていたようだ。

 

「これを知って、チャンミンは俺のことを嫌になるかもしれないな」

 

「どうしてですか?

僕はお兄さんを嫌いになるわけがないでしょう?」

 

「嫌いになるっていうのとは、少し意味が違うかな。

そうだなぁ...『がっかりする』っていうのかなぁ?」

 

「...がっかり、ですか。

いいえ!」

 

チャンミンはこぶしを水面に叩きつけた。

 

「僕は絶対に、がっかりなんてしませんよ。

僕の方こそ酷いものですよ」

 

そう言ってチャンミンは、両眉を下げて小首を傾げた。

 

「よし」

 

俺はジャグジーから身を起こすと、チャンミンへと手を差し伸ばした。

 

「連れて行きたいところがある。

着替えて出かけるぞ」

 

 


 

 

~チャンミン~

 

お兄さんの『過去』

 

無理に聞き出さなくても、知らなくてもお兄さんと暮らしていける。

 

でもね、僕は少し欲張りになった。

 

あの女が僕らの家にやってきて、分かったことがあったんだ。

 

あの女の方がお兄さんに詳しいんじゃないか、って。

 

お兄さんと難しい話...例え仕事の話であっても...が出来る位、あの女は頭がいいんだ。

 

お兄さんの職業が何なのかも、僕は知らない。

 

訊いちゃいけない気がしたんだ。

 

仕事中のお兄さんは険しい顔をしている...空を睨んでいる...意識は遠くへ向けられている。

 

秘密の花園で土いじりをしながら、そんなお兄さんを眺め続けていた。

 

声をかければ、ふっとその表情を緩め、僕に微笑みかけてくれるけれどね。

 

あの女に負けないくらい、沢山勉強をして賢くなって、お兄さんの仕事を手伝えるようになりたい。

 

お兄さんのことは何でも知ってますよ、と余裕ある顔を、あの女に見せつけてやりたかったんだ。

 

 

(つづく)

 

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