犬~あなたのものになりたい~

 

~犬~

 

諸事情があってペットを飼えない者が、ペットのある生活をひと時だけ疑似体験できるサービスがあるという。

 

自分のものにならないものを、気分を味わう為だけに『レンタル』するのもいかがなものかと、考えていたのだが...。

 

「女の方がよかったですか?

うちの店では全員、男なんですよ。

この子はどうです?

未使用に近いですよ?」

 

奥行き10メートルほどの店内に、横幅2メートルほどの水槽が等間隔に並んでいる。

 

勧める店主の売り文句を適当に聞き流して、店内奥へと水槽の中を1つ1つ覗き込みながらゆっくりと歩く。

 

「この子たちはみな、予防接種済みです。

月に一度は検査してますし...ですから病気の心配はございません」

 

店内は、煌々と水槽の中で灯された照明で明るい。

 

「この子にしますよ」

 

俺は突き当りの水槽を指さした。

 

「お目が高い」

 

店主は嬉々として、俺の手首に巻き付いた腕時計にちらちらと視線をやりながら、料金の説明を始めた。

 

「この子はね、女のように柔らかいですよ。

...どこが?だなんて質問は無しですよ。

で、お試しで1泊2日にします?

マンスリーもできますよ」

 

店主が説明する通り、水槽下に掲示してあるプライスカードには、時間貸しから最長で1か月のレンタル料金が並んでいる。

 

「1泊2日」

 

即答して、俺はキャッシュで支払いを済ませた。

 

半分は興味半分、半分は金の使い道に困っていた俺は、無駄遣いをしたかったのだ。

 

金を払うのなら、その店で最高のものを選択すれば、大抵は失敗も少ない。

 

水槽の中には白いファーが敷き詰められており、「商品」が...全裸に近い男が1人ずつディスプレイされている。

 

客である俺にウィンクしたり、小さな下着に包まれたあそこを見せつけるように腰をくねらせたり、己をセレクトしてもらおうと媚を売っている。

 

ペットをレンタルするかのように、俺はひとりの男を1泊2日でレンタルした。

 

俺がその男を選んだ理由はシンプルで、店主に見えないよう俺に向けて中指を立てていたからだ。

 

俺の気を引こうとしているんだと見え見えだったが、騙されてやることにした。

 

水槽の中の彼らは皆、首に太い黒革のベルトをしていた。

 

犬や猫がしている、所謂『首輪』だ。

 

「GPS装置です。

逃げ出したりしたら困りますからね」

 

「へぇ」

 

首輪に取り付けられた小さな機械...青いランプが点る...を指の背で触れると、革ベルトの下で彼の細い首に鳥肌がたった。

 

「奥の個室を使いますか?

連れて帰るのなら、リードは付けて行ってください」

 

そう言って店主に手渡されたものが、犬の散歩に使うリードそのままで、「ここまで徹底するのか」と絶句してしまう。

 

俺は客だが、紐に繋いだ男を連れ回す趣味はない。

 

「...案内して」

 

「おやおや、我慢できないんですね」と言った風に、店主は眉を大げさに上げてみせた。

 

「お気に召したら、うちは『買い取り』もできますから」

 

それはレンタルしてみた結果次第だ、との意を込めて、俺は肩をすくめてみせた。

 

 

・・・

 

 

薄汚く安っぽい場所を予想していたところ、案外清潔そうな部屋でほっとした。

 

ただ、中央に鎮座した寝台がビニール張りで、これが眠るためのものじゃないのは明らかだ。

 

中途半端なムードつくりはせず、機能性と衛生面を追求している業務感が、この店の堅実さを物語っている。

 

この手の店で、堅実さなんて不要なんだろうけどね。

 

この個室は、それだけの目的のための場所だ。

 

ここに来てようやく、俺は彼の顔姿を観察した。

 

背が高く、脂肪のかけらもない細身の体で、従順な犬のような丸い眼をしていた。

 

20代半ばかと判断したのは、10代にしてはひねた目付きをしていたから。

 

彼は鑑賞されやすいよう、俺の前で一回転した。

 

布面積の狭い黒のビキニパンツだけを身につけていて、後ろは紐が食い込むデザインだった。

 

この店の商品となれば、この格好も致し方ないが...。

 

それにしても...。

 

首に巻き付いたベルトだけが人間の尊厳を無視していて、異様だった。

 

「突っ立っていないで... 僕の方は、用意が出来てますよ。

あ...もしかして、お兄さんはそっち側ですか?

それならば、シャワーを浴びた方がいいですね」

 

壁のフックに鎖が引っかけてあり、俺の視線に気づいた彼は「ああ、これですか?」と、なんてことない風だった。

 

「わんわんプレイが好きな客用です。

ご希望ならどうぞ」

 

寝台に腰掛け、組んだ足をぶらぶらさせて、彼は面白そうに言う。

 

店一番の値を付けられていたのも納得の、美しい顔をしていた。

 

プライスカードに提示された価格は、相場より1桁多かった。

 

「僕を気に入ったら、1泊2日何て言わずに、もっと長くレンタルしてもいいんですよ?」

 

「もし俺がろくでもない客だったらどうする?」

 

彼は「お兄さんなら大丈夫そうです」とクスクス笑った。

 

「...それに。

お兄さんは綺麗だ」

 

すれすれまで俺に近づき、手の甲で俺の頬を撫ぜた。

 

ぞくり、とした。

 

「お買い得ですよ。

僕は出戻りだから、あれでも30%OFFなんですよ。

返品されちゃったんですよねぇ」

 

客を小馬鹿にするような言い方のわりに、世を舐め切った目付きをしているわりに、その口元がわずかに震えていて、青ざめていた。

 

「さあさあ、早く取りかかりましょうよ。

お兄さんは強そうだから、ひと晩で足りるかなぁ?

はははっ」

 

彼は俺の胸を押し、仰向けになった俺の腰に跨った。

 

「上がいいです?

下がいいですか?」

 

俺を見下ろすその目が、底なしに暗かった。

 

俺の目を見据えながら、彼の指は俺のボトムスのベルトとボタンを外した。

 

にたにたと唇の端だけで笑いながら、焦れったくなるほどゆっくりと、じじっとファスナーを下ろした。

 

「お!

ヤル気満々ですね。

お兄さんのは立派ですねぇ」

 

そう言って、腰を左右に揺らして自身のものをすりすりと擦りつけた。

 

俺を煽ることばかり吐いているが、彼の本心ではその気がないことは、小さすぎる下着の前が物語っている。

 

「お兄さんは、マグロのタチですか?」

 

いい加減、彼の態度に苛ついた。

 

勢いよく半身を起こし、後ろにひっくり返った彼を、今度は俺が組み敷く側に回る。

 

真ん丸に見開いた眼を片手で塞ぎ、彼の顎をつかんで無理やり口を割った。

 

その隙間に舌をねじこみ、吸った。

 

「前がいいか?

後ろがいいか?」

 

彼の耳元で囁いた。

 

「...っ」

 

俺は彼の両足首をつかんで高々と持ち上げ、前戯なしで深く埋めた。

 

彼が言うように、そこは十分にほぐれていた。

 

 

 

 

彼を寝台に残し、俺は手早くシャワーを浴びた。

 

この部屋に通されて未だ1時間も経過していないが、長居は無用だ。

 

後味が悪かった。

 

俺は気づいていた。

 

首輪の下の皮膚が色素沈着を起こしていることに。

 

どういう事情があって、この店の『商品』になることとなったのか、俺には想像がつかない。

 

ろくでもないことを起こしてしまったのか、お涙頂戴な過去があるのか...それとも、自ら望んだのか。

 

高いだけある。

 

彼は上玉だった。

 

「ここは...長いのか?」

 

「僕を買い取ってくれたら、教えてあげますよ。

...でも、僕は高いですよ?」

 

「そのようだね」

 

「レンタルだなんて言わずに、僕を買い取ってくださいよ。

一括が無理なら、分割も可能なはずです」

 

レンタルとは一時を楽しむだけのもので、それは自分のものにはならないのだ。

 

だからと言って、何かを所有するのは、イコールそれに支配されるのを意味して、心がシンドイ。

 

所有することを手放した先に、自由がある。

 

所有されることから解放された先も、然り。

 

「僕をここから出して下さいよ?」

 

靴を履こうと屈む俺の肩に顎を乗せ、彼は甘えた声を出す。

 

「お兄さんの為に、奉仕しますから。

好きなようにしていいんですよ?

お兄さんの家に連れて帰って下さいよ?」

 

ジャケットに腕を通した俺は、「そういう訳にはいかないよ」と苦笑し、彼の頭を撫ぜた。

 

そして、彼の耳元であることを囁いた。

 

「嘘でしょう?」と、彼は驚きで目を見開いていた。

 

寝台の下に、脱ぎ捨てた小さな下着が丸まっている。

 

彼の首で、青いランプが3秒間隔で点滅していた。

 

 


 

 

お兄さんは、僕の頭を一撫ぜした後、部屋を出ていってしまった。

 

僕は寝台に膝を抱えて座り、お兄さんに買い取られた日々を想像してみた。

 

決して叶わない未来だけど、素敵な妄想がこれからの僕の支えになるのだ。

 

裸のお尻に触れるビニール素材が、僕の割れ目から漏れ落ちたものでぬるぬるする。

 

綺麗な人だったな。

 

性急だったけど、乱暴ではなかった。

 

...優しかったな。

 

また来てくれるかな?

 

僕をまた選んでくれるかな?

 

どうしよう...涙が出そうだ。

 

こみあげないよう、まぶたを膝頭に押しつけてみたけど...無理みたいだ。

 

「おい!」

 

ノックもせず入ってきたのは、店主だった。

 

どうせ次の客に備えて部屋を掃除しろとか、陳列棚にスタンバイしろとか、命令するんだろうと無視をしていた。

 

ところが、店主は僕の首輪に手を伸ばすんだ。

 

とっさに後ろにとび退ってしまい、店主に首輪をつかまれ彼の方に引き戻されてしまう。

 

「動くな。じっとしていろ」と、店主は僕の首回りで手を動かしていたが...。

 

「...え?」

 

ふっ、と首が軽くなった。

 

店主の手には、黒革のベルトがぶら下がっている。

 

「さっきの客がお前を買った。

お前は自由だ。

とっとと出ていけ」

 

「え!?」

 

店主は洋服を投げてよこし、僕はあたふたとそれを身につけた。

 

お兄さんが、僕を買い取ったってこと!?

 

裸に慣れている僕は、久しぶりに袖を通すコットン製のTシャツとデニムパンツが肌にごわごわと変な感じだ。

 

スニーカーの紐を結ぶのももどかしく、個室を飛び出した。

 

お兄さんは、僕が出てくるのを待っているに違いない...そう予想していたのに。

 

店内には、雑誌(裸の女ばかり載っている)をめくる店主がいるだけだった。

 

「あ...れ?

あの人は?」

 

「さあ...。

今さっき、帰ったよ」

 

「帰った...!?」

 

「あの客はお前を連れて帰るつもりはないみたいだな。

支払いだけ済ませて、出ていったよ」

 

店主の手首には、ゴージャスな腕時計が巻かれていた。

 

「...そんな!」

 

僕は店を飛び出した。

 

真夜中過ぎの、繁華街の裏道。

 

「よかった...」

 

人通りまばらの通りの向こう、あの背中はきっと。

 

僕の頭を撫ぜた後、お兄さんは僕の耳元で囁いたんだ。

 

『俺もかつては、

お前と同じ“犬”だった』って。

 

遠ざかる背中を追って、僕は全速力で走る。

 

運動不足の心臓は、わずか数十メートルで悲鳴をあげる。

 

構わず僕は走り続ける。

 

お兄さんを追いかける。

 

自由になった首がすうすうする。

 

 

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(8)大好きだった-忘れられないの-

~ユンホ~

彼の名前が、亡くした恋人と同じ名前であることに混乱した。

 

チャンミン...。

 

名刺をもらったあの夜、確かに目にしていたはずなのに、印刷された『チャンミン』という名前が頭に入ってこなかった。

それほど俺は、哀しみの海底に沈んでいたのだ。

彼との仲が親密になっていっても、どうしても名前で呼べなかった。

口にする度に『チャンミン』の記憶が、いつになっても薄れていかなくなることが怖かった。

同じくらい背が高くて、優しくて。

最初は、比べてばかりいた。

そのうち、徐々に違うところが見えてきた。

全くの別人だった。

俺の心の中で、永遠に生き続けると固く信じていたのに、次第に『チャンミン』との思い出が遠ざかっていった。

想いの濃さが薄くなっていったのではない。

今でも『チャンミン』はちゃんと、俺の中に息づいている。

それとは別に現れたスペースに、今の彼の存在が満ちていったのだ。

過去のチャンミンはチャンミンとして存在し、全く別の場所に今のシム・チャンミンが存在している。

比べられない。

彼と初めて食事をしたとき、栄養不足だった俺の身体と心が生き返った。

幽霊のように生きていた俺の視界が、リアルで色鮮やかなものに変わったのだ。

やっと戻ってこられた、と思った。

彼が俺を生き返らせてくれたのだ。

そんな彼に感謝しながらも、隣を歩く彼のつくる笑顔が気になった。

目尻に浮かぶ笑いジワがとっても素敵だったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに、頬や口元がぎこちないものに見えたから。

ピンときた。

この人も、誰か大切な存在を失った過去があるんだ、って。

ぎこちない笑いであっても、本心からのものだと分かっていた。

彼の頬をほぐしてやりたい、と思った。

 

 

既婚歴のある人と交際を始めた知人が、苦笑交じりに漏らした台詞を思い出していた。

 

「『死別』はまだいいよ。

諦めがつくから。

辛いのは『離別』だ。

別れた相手が、どこかで暮らしているんだぞ?

顔を合わせるかもしれないし、ずっと比べられる」

 

とんでもない。

『死別』した者ほど絶対的で圧倒的な存在はない。

死んだ者の思い出は時が経つほど美化されるものだから。

彼の『恋人』が、どんな人だったのか見てみたい。

目にすれば、安心する。

実体がないのは、想像ばかりが膨らむ。

きっと素敵な人だったんだろう。

10年も一緒にいただなんて、深い愛情で結ばれていたのだろう。

顔もわからないんじゃ、俺はずっと『彼』の亡霊に嫉妬し続けるしかないじゃないか。

よりによって、俺の名前と、彼が亡くしてしまった『彼』の名前が同じだなんて。

 

「『ユンホさん』...か」

 

胸がひりひりするため息をついた。

 

 

彼の部屋に初めて通された日。

彼がお茶の用意をするため台所に立った隙に、俺は周囲を見回した。

ユノ』の気配が残っているんじゃないか、って。

同棲はしていなかった、と言っていた。

でも、互いの部屋を行き来していたに決まっている。

彼が俺に手渡したマグカップひとつさえ、『ユノ』のものなんじゃないかと疑った。

 

俺の固い表情に気づいた彼は、苦笑交じりに、

「『ユノ』のものは全て彼の実家に送りました。

だから、ここには『ユノ』のものは何もありませんよ」

と言った。

 

「......」

「シムさんにあげたいものがあるんです」

 

微笑んでみせた彼は、立ち上がってクローゼットの扉を開けた。

ポールに引っ掛けた空のハンガーが目に入った。

きっと『ユノ』の洋服がかかっていたんだ。

「無いこと」が、彼の欠けた心を表しているみたいで、息が詰まる。

彼がクローゼットから取り出してきたものを見て、再び息が詰まった。

動揺した心を悟られないよう、俺は無理やり笑顔を作る。

 

ウンベラータの鉢植えだった。

 

彼は俺の反応を、じっと見守っている。

言葉が出てこなくて、ハート型の丸い葉を指先でなぞる。

これ以上黙っていたら、彼が不安に思う。

モンステラやポトス、ユッカなど、ポピュラーなものじゃなく、ウンベラータを選んだセンスに、俺は泣きそうだった。

自宅のベランダに、2つの鉢が並ぶことになるなんて。

よりによって、植物だなんて。

嬉しいのに...困ってしまった。

 

 


~シム・チャンミン~

額にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。

あなたの額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。

あなたは眠ったまま目を覚まさない。

触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。

 

「はあ...」

 

僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、あなたが遠い。

繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。

何かが僕らを隔てている。

あなたの額に僕の額を合わせ、あなたの呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。

あなたに同調しているうち、眠くなってくる。

僕の腕の中で『』を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。

今この時も、『』の夢をみているとしたら、辛い。

辛すぎる。

僕らは、意識して『今』か『これから』のことだけを話題にするよう気をつけていた。

相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。

僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。

いや、違う。

思いやりの心からなんかじゃない。

僕の場合、おびえていただけなんだ。

ねぇ。

チャンミン』はどんな人だった?

忘れられないの?

臆病な僕は、あなたに尋ねられない。

死んでしまった『彼』に、僕は勝てない。

 

チャンミン』...。

 

どうしてあなたの亡き恋人と、僕の名前は同じなんだろう?

 

ねえ。

僕と亡くした『チャンミン』と、比べていたりしますか?

今の僕は、あなただけを真っ直ぐに見つめているのに、あなたの心はやっぱり『チャンミン』に向いているのかな?

知りたいけれど、知りたくない。

僕の質問に答えようと、あなたは『チャンミン』を思い出そうとするだろう。

そうしたら、あなたは『チャンミン』との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。

出逢った頃のように、あなたの視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。

目の前にいる今の僕だけを見て欲しいから。

だから僕は、あなたの過去は知りたくない。

 


 

~ユンホ~

 

眠っているふりをしていた。

あなたの指が俺の額に触れたけど、熟睡しているふりをした。

俺の現実は、今ここにあるのに。

今の俺の心は、肌に触れているあなただけに向けられているのに。

あなたが亡くした恋人『ユノ』の存在。

過去のあなたが『ユノ』へ注いでいた愛情と、今の俺があなたへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、俺は負けてしまう。

それくらい、『ユノ』の存在は大きくて強力なのだ。

 

よりによって、俺と同じ名前だなんて。

 

俺は負けそうだ。

俺は寝返りをうつふりをして、あなたの胸に腕を巻き付けて、脇腹に鼻先を埋めた。

こんなに近くにいるのに、遠かった。

俺の寝顔を見下ろしながら、『ユンホさん』の寝顔を思い出しているかもしれない。

俺の心は、過去に引き戻されそうだった。

あなたは俺の肩を抱いて引き寄せたけど、俺は眠ったふりをしていた。

 

(つづく)

 

(7)大好きだった-忘れられないの-

~チャンミン~

あなたへの誕生日プレゼントを探しに出かけた日、通りの向こうにあなたを見かけた。

あなたはショウウィンドウを、じぃっと見つめていた。

声をかけようとわくわくした気持ちを抱えて、横断歩道を小走りで渡った。

「偶然だね」「わぁ、びっくりした」なんてやりとりを想像しながら。

肩を叩いてびっくりさせよう、っていたずら心も湧いていた。

ところが、僕の足は止まる。

あなたのあまりにも真剣な眼差しに気づいたから。

そこは花屋だった。

ショーウィンドウの向こうは、色とりどりの花と緑が瑞々しい。

あなたの目は、目の前の植物たちを通り越して、うんと遠いところを見ていた。

声をかけられなかった。

無心で見つめている背中が、「邪魔をしないで」と語っていた。

もしかして、昔の『彼』のことを思い出しているのでは...と、嫉妬心が僕の胸を焼いた。

 

 

市民会館で開講された週に1度のデッサン教室で、あなたと出逢った。

軽い気持ちで受講した僕の隣の席が、あなただった。

鶏ガラのように痩せた身体で、腫れぼったいまぶたで、心をどこかよそに置いているような、上の空な感じの人だった。

でも、誰かと言葉を交わすときになると、瞬時に表情を切り替える。

僕の描く下手くそな絵を見て、吹き出したあなたの笑顔に、僕の心はさらわれた。

 

あっという間に。

 

あなたには、既に恋人がいるのだと思い込んでいた。

なぜなら、僕を見ているのにその瞳の奥が、僕を通り越したところを映しているみたいだったから。

ベタな誘い方だったけど、「お茶でもどうですか?」って、次の週には声をかけていた。

週に一度のわずか30分ほどの、あなたとコーヒーを飲む時間が楽しみだった。

そのためにデッサン教室に通い続けていたと言っても過言ではない。

あなたの心のガードは固く、食事に誘えるまでに時間がかかった。

 

あなたの心には、誰か他の人がいる。

 

そうであっても、痛々しく儚げなあなたに、僕はどんどん心惹かれていった。

30年ちょっとの人生の中で、あなたは僕が2人目に「好きになった人」となった。

 

 

あなたには打ち明けていた。

自分には長く交際していた恋人がいたこと、そしてその人を5年前に亡くしたこと。

かっこ悪いことに、聞き上手のあなたに質問されるまま、ほぼ洗いざらい話してしまった。

 

「その方の名前は?」

 

その恋人の名前も、聞かれるまま教えてしまっていた。

予想通り、あなたはじぃっと考え込んでいるようだった。

5年前だったら辛くて口にできない名前だったのが、その時の僕には抵抗はなかった。

だって、そうじゃなくっちゃあなたの名前を呼べないよ...そもそもの話。

それくらい、気持ちの整理がついていた。

深く深く愛していて、その人を失った当時の僕は亡霊のようで、長い期間苦しんだ。

今でも記憶の深いところで、その人への愛情は存在している。

けれども、今の僕の心の中心はあなただ。

 

 

あなたにも亡くしてしまった恋人がいると知った時、僕の頭に『似たもの同士』という言葉が、ぱっと浮かんだ。

似たような境遇の者は、やはり惹かれあうものなのだろうか。

でも、そんな言葉でひとくくりに片付けてもらいたくなかった。

最初は僕の片想いだった。

もう2度と恋なんかできないと諦めていたのが、今こうして新たな恋を得て、僕は嬉しかった。

少しずつ、距離を縮めていった。

ところが、あなたに自分の気持ちを伝えた日、首を振られてしまった。

 

「ごめん。

あなたとお付き合いできる資格は、今の俺にはありません」

 

ああ、と落胆のあまり全身の力が抜けた。

 

「恋人がいたのなら、申し訳ない。

僕が言ったことは忘れてください」と、僕は一旦、引き下がった。

 

「そう言っていただけて、嬉しいのです。

付き合っている人は...いません。

でも、今はダメなんです」

 

僕の交際人数なんて、亡くなった恋人ひとりきりだったから、新しい恋を始める手順がわからなかった。

 

「僕のことは?」

 

ずいぶん不器用な、かっこ悪い台詞を発言してしまったものだ。

あなたは、ため息をつき、

 

「...恋人を亡くしてしまって...。

5年も経つのに、忘れられないのです。

あなたのことは気になります。

でも...彼に対して悪いことをしているかのような、罪悪感があるんです。

こんな状態で、あなたとつきあったりなんかしたら、あなたに失礼です」

真っ赤な目をしたあなたは、そう言って哀しげにほほ笑んだ。

 

 

それでもいい。

あなたが漂わせている「寂しそうな空気」を、僕の手で晴らしていくから。

だから僕は、諦めなかった。

「今は駄目だ」と言ったあなたの言葉...『今は』に望みがあると思ったから。

初めて食事に誘った夜を境に、上の空で遠くを見ていたあなたの目に力が宿ってきた。

あなたがまとっていたピリピリとした空気が消えた。

あなたといると、穏やかで温かくて、ほっとくつろげた。

これが、あなたの本来の姿なんだろう。

亡くなったという恋人は10年も一緒にいた末に、あなたを手放さなければならなくなって悔しかったに違いない。

そして僕は、その恋人に嫉妬した。

あなたがその恋人と過ごした10年という時に嫉妬した。

 

 

あなたが初めて僕の部屋を訪れた日、ちょうどあなたの誕生日だった。

ちょっとしたサプライズのつもりで、ささやかな贈り物をした。

交際を始めてまだ日は浅く、贈られるもので負担に思わないよう、知恵をしぼって選んだ。

隠していたクローゼットから出してきたものを見て、あなたの口が「あっ...」といった感じに丸く開いた。

それから、僕に手渡されたものを膝にのせてしばらくの間、あなたは無言だった。

 

「気に入らなかった?」

 

不安になった僕は、おずおずと尋ねた。

 

「好きなんじゃないかな、って、勝手に想像してしまって...。

外れてたら...ごめん」

 

「いや...。

ちょっと、びっくりしたから...。

でも、ありがとう。

嬉しいよ」

 

確かに、あなたの表情は嬉しそうだった。

僕はほんの少しだけ不安だった。

もしかしたら、間違ったものを贈ってしまったのではないか、って。

 

 

(つづく)

(6)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

 

~Don’t Wanna Cry~

~ユンホ~

 

「...ごめん」

 

チャンミンと繋いだ手が、汗ばんでいる。

 

「謝らないでください」

 

は手を離すと、俺の両肩に手を置いて覗き込んだ。

の顔は闇夜に包まれてしまって、表情はうかがえなかった。

 

「ごめん!」

 

涙が出そうなのをこらえる。

泣いたらいけない、涙はずるいから。

 

「ユノ...」

「ごめん。

いつかは言わなくちゃいけないと思ってた」

 

「ユノ...」

「ごめん。

お前はずっと、俺のそばにいてくれて...」

 

駄目だ。

涙を止められない。

 

チャンミンは...っ...。

いっぱい...いっぱい...。

俺を支えてくれたのに...」

 

涙が次々とこぼれて、鼻水も出てきて、しゃくりあげてうまくしゃべれない。

 

「ずっと...ずっと...。

お前だけを好きでいたかったのに...。

本当に...ごめん!」

「違います!」

 

は大きな声を出すと、腕を伸ばして俺を引き寄せた。

 

「違うんです。

悪いのは、僕の方なんです」

 

は俺の首筋に頬を埋めると、吐き出すように言った。

 

「僕が貴方を引き留めていたんです」

 

 

あの日。

あの冬の日。

5年前。

冷たいみぞれ雪が降る夜。

こんな天気に、こんな時間に、カラスみたいな恰好の男を、公園で降ろしたタクシーの運転手さんはどう思っただろう。

池には薄氷が張っていた。

黒いコートも黒い靴も脱いだ。

黒いネクタイもむしり取った。

氷のように冷たい鉄柵をつかんで、上半身を乗り出した。

身体を痛めつけてやる、凍り付かせてやる。

空からぼたぼたと落ちる氷水が、黒いスーツをどんどん濡らしていった。

のいない人生なんて、想像がつかなかった。

自分の人生プランに、こんなイベントが起こるはずがなかった。

断じて受け入れたくない!

 

チャンミン

チャンミン

チャンミン!

 

どうして俺を置いていってしまったんだ?

続きを楽しみにしていたドラマも、まだ途中だぞ。

誕生日プレゼントは、もう用意してあるんだぞ。

一緒に暮らそうって、部屋を探してた時だったんだぞ。

どうして冷たくなってしまった?

そんな怖い顔していないで、笑えよ。

目を開けて「じろじろ見ないでください」って笑ってくれ。

笑えったら!

お前のいない人生なんて、あり得ない。

チャンミンの元に行きたい。

靴下履きの足を柵にかけた時、ぐいと腕を引っ張られた。

「何をやっているんですか!」

 

チャンミンが現れた。

チャンミンだ!

 

引き寄せられたチャンミンの胸が、頼もしくて温かくて。

 

「貴方は、僕がいないと駄目ですね」

 

俺が大好きだった、紺色のダッフルコートを着ていた。

 

「おうちへ帰りましょう」

 

そう言っては手を差し出した。

手を握るだけじゃ足りなくて、の首に腕を回して思いっきり抱きしめた。

首筋に鼻をくっつけて、の匂いを吸い込んだ。

よかった、温かい。

よかった、チャンミン生きていた。

よかった、チャンミンが戻ってきた。

 

それとも...。

俺は、あの世に行けたのかな。

あの世のに会えたのかな。

あの世で、と手を繋いでいるのかな。

どちらなのか分からなかった。

どちらでも嬉しかった。

幸せだった。

 

...けれども、心の底では分かっていた。

どちらもあり得ないのだと。

これは夢なのだ。

を恋焦がれる狂った精神が、亡霊を見せているのだと。

 

ところが、夢じゃなかった。

びっくりした。

最後に別れたあの図書館前に、チャンミンは待っていた。

行けば必ず、は待っていた。

そして、手を繋いで家に帰る。

と思い出話をたくさんして、の腕の中で眠りにつく。

そして、たった独りで朝を迎える。

俺の初めては、全部と経験した。

2人で数えきれないほどの初めてを味わって、一緒に笑って泣いた。

思い出話ばかりしていたら、過去の世界にとどまり続けるばかりで、先に進めないって?

いや。

そんなこと、なかった。

思い出話をすることで、昇華された。

との思い出を、少しずつ過去のことにしてゆけた。

夢じゃなく、確かには存在した。

冷え切って固くなってしまった手じゃなかった。

温かな手で俺に触れていた。

俺の心がしゃんとするまで、は手を繋いでいてくれたんだ。

 


 

 〜C〜

 

貴方を一人にできなくて、僕はいつまでも貴方のそばに居続けました。

どんどん痩せていくから心配で。

僕のせいで、貴方をこんな風に苦しめてしまって。

打ちのめされた貴方が元気になるまでは、見守ろうって決めたんです。

そのうち、欲がでてきたんです。

僕はずっとずっと、貴方の側にいたくなったんです。

離れがたかったのは、僕の方なんですよ。

でも、僕の役目は終わったようですね。

 


 

~ユンホ~

 

「貴方は、素敵な人です」

 

チャンミンは俺を抱きしめて、俺の頭を撫でながら言った。

 

「だから、貴方が好きになる人も、素敵な人です。

彼は...シムさんは悔しいですけど、僕よりずっといい男です」

 

顔を上げようとする俺を押さえるように、の腕に力がこもった。

 

「彼なら大丈夫です。

彼なら安心して、貴方を任せられます」

 

の大きくついた一呼吸に合わせて、彼の胸も上下に動いた。

 

「ほらぁ、泣かないで」

 

の親指で涙を拭われた。

 

チャンミンこそ...泣くなって」

 

俺を抱きしめる腕をゆるめると、は顔を近づけた。

 

「僕の最期のお願いをきいてくれませんか?」

 

こくこくと頷いた。

 

「...キスしてもいいですか?」

 

大きく頷いた。

そっと唇が触れるだけの優しいキス。

少しだけ口を開けたら、の温かい舌が俺の舌にちょんと触れた。

俺の涙と、彼との涙が混じってしょっぱい味がした。

「このキスが、僕の生きる糧になります...。

って、生きるって言い方も変ですけどね」

ふふふっとは笑った。

 

 

チャンミン

手を繋いでいてくれてありがとう。

俺が前に進めるようになるまで、5年間、側にいてくれてありがとう。

みぞれ雪の夜、俺を助けてくれてありがとう。

生きる道を、俺に残してくれてありがとう。

大好きだった。

めちゃくちゃ、大好きだった。

 

 


〜C〜

 

ユノ。

僕の大事な人。

僕は貴方のことは忘れません。

でも、貴方は僕のことを忘れてくださいね。

僕の手じゃなく、シムさんの手を握ってください。

全部忘れられたら、やっぱり寂しいので、1年に1度は僕のことを思い出して下さいね。

大好きでした。

ずっとずっと貴方が大好きでした。

 

(つづく)