(5)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

 

~Don’t Wanna Cry~

 

~ユンホ~

 

「食事に...行きませんか?」

 

おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、

「喜んで」

と俺は返事をした。

 

「よかったです」

 

シムさんは心からホッとした表情をした。

彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。

 

「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」

 

照れて目元をほころばせた。

 

「ここなら、メニューが豊富ですし」

 

メニュー表を俺の前に広げる。

 

「好きなものを選んでください」

 

食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。

店員を呼んだ彼は、俺がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。

次々とテーブルに料理が届く。

俺はおそるおそる、だし巻き卵に箸を伸ばした。

出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。

 

「あ...」

 

じわっと広がる命の味。

ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。

俺の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。

かさかさになった俺の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。

気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。

 

「あなたは、美味しそうに食べるんですね」

「え?」

「見ていて気持ちがいいです」

 

あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った俺はおしぼりで目を拭う。

 

「美味しいですか?」

「ああ、とっても」

 

彼はそれはそれは優しい笑顔を見せた。

目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。

 

「よかったです。

このお店の料理は、全部美味しいんですよ」

 

財布を取り出す俺を制して彼は会計を済ませ、俺たちは店を出た。

夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が俺たちを包む。

 

「駅まで一緒に行きましょうか」

 

隣を歩く彼の精悍な横顔をちらりと見る。

俺の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。

とくんと心臓がはねた。

 

「シムさん...。

今夜はごちそうさまでした」

 

頭を下げる俺の肩の上に、彼の手がぽんとのった。

 

「お礼を言うのは僕の方です。

誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでした」

 

細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

ごく近年、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?

彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。

なんとなく、そんな感じがした。

 

 

突如、眠りの一日が訪れた。

眠くて眠くて仕方なかった。

5年分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。

夢も見ず、『泥のように』の言葉通り、こんこんと眠った。

そよぐ風で目覚めた。

は裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。

鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。

ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。

 

「よく眠ってましたね。

ユノが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」

 

ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。

 

「進歩していますよ。

上手くなりましたね」

 

床に直接座ったは、俺のスケッチブックを膝に広げていた。

 

「恥ずかしいから!」

 

手を伸ばすと、はスケッチブックを高く掲げてしまう。

 

「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」

「え?」

 

スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。

 

「えっと...もっと上手くなってから...」

「冗談ですよ」

 

はスケッチブックを俺に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと俺を見上げた。

 

「頬がふっくらしてきましたね。

よかったです」

 

優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。

...に気付かれただろうか。

は鋭い。

あどけない眼差しにさらされて、俺の心は怯えていた。

 

「安心しました」

 

寂しそうな笑顔だった。

懐かしい笑顔だった。

 

 

「今日は、遠回りしていきましょうか」

 

と手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。

日が暮れて完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。

夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。

砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。

この公園は、俺たちのお気に入りの場所だった。

池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。

無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買ったんだった。

いっぺんに投げ込んだ俺と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやっただった。

「食いしん坊なあの太った鯉は、貴方みたいですね」とが言って、俺は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかったんだ。

そんな思い出のある公園だった。

 

「ユノ...」

 

ずっと無言だったが、口を開いた。

が何を言おうとしているのか分かった。

 

「...好きな人が、いますね」

 

自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。

 

「僕は気付いていましたよ」

 

俺たちは立ち止まった。

柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。

 

「...ごめん」

 

そう言うのがやっとだった。

 

(つづく)

(4)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

〜C〜

 

僕はひどい男ですね。

僕がいないと駄目な男にしてしまっていますね。

安心してください。

僕はあなたから離れませんから。

怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、貴方を抱きしめてあげますから。

 

 


 

~ユノ~

 

ふと、習い事がしたくなった。

急にそんな考えが、浮かんだ。

チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。

ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。

いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。

料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。

 

「今日は早いんですね」

 

集中していたから、がやってきたことに気付けなかった。

は、隣に座って俺の手元を覗き込む。

 

「習い事ですか?

いいんじゃないですか?」

チャンミンもそう思う?」

 

「あなただったら...そうですねぇ...。

初めてのデッサン講座ですかね」

「俺が...デッサン?」

 

致命的に絵が下手くそなことを知っていて、勧めてくるチャンミンはさすがだ。

 

「習えばマシになるかなぁ」

「なりますよ。

いつか僕の顔を描いてくださいねー」

 

『いつか』

 

なんて甘やかな、幸福な響きだろう。

 

「何年かかるかなぁ?」

「何年でも待ちますよ。

僕にはたっぷり時間がありますから。

僕の絵を描いて見せてください」

 

それが叶わないことを、俺は知っている。

 

 

市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。

スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。

これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。

気合が入っていた。

今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。

講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。

教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、俺のようなスーツ姿の者が半分。

長テーブルに2人ずつ席につく。

初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンした。

勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。

つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。

隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。

その様子を見つめる俺に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを見せてくれた。

 

「つぶれてしまいました」

 

ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。

 

「困りました」

 

他の生徒たちはバナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。

 

「俺のものでよければどうぞ。

沢山ありますから」

 

そう言って、タッパーの中のイチゴをすすめた。

 

「美味しそうですね」

「食べるのはデッサンの後にしないとな」

 

そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。

清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。

きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。

ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれるだろうに。

きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。

誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。

 

「しょっぱなから難しいものを選びましたね」

「そうなんです。

じゃがいもみたいになってしまいました」

 

イチゴを描くのは難しかった。

種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。

隣を見ると彼も苦戦していて、俺以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。

 

「笑いましたね」

 

彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに俺は吹き出してしまった。

講師のお姉さんは、俺と彼を前にお手本を見せてくれる。

「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分...光が当たっているでしょう?」

彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。

 

「わぁ...」

 

一気に立体的なイチゴになって、俺と彼は顔を見合わせる。

 

「光に注目してくださいね。

光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。

影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」

 

すとんと納得できて、何度も頷いた。

講座が終了し教室を出た俺は、彼を見てまた吹き出すこととなった。

彼は手の平にイチゴをのせたままだった。

「これ...食べてもいいですか?」って。

 

 

自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。

ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。

30代だろうか。

チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。

着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。

チャンミンみたいに背が高い人だった。

 

(そうなんだ。

なんでも、チャンミンが基準なんだ)

 

「僕はこういうものです」

 

別れ際、彼から名刺を渡された。

俺は息をのんだ。

 

「シムさん?」

「そうです」

 

何か言いたげな彼の表情に気付いて、俺も名刺入れを取り出した。

彼は両手で受け取った俺の名刺をしばし、眺めていた。

 

「また来週」

「来週の講座で」

 

互いに軽く手を振って、駅前で別れた。

今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。

明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。

 

 

デッサン講座の後に、シムさんとコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。

ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。

力が入っていた肩のこわばりがとけていった。

襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。

一週間が待ち遠しかった。

 

 

チャンミン...。

ごめん。

気になる人ができた。

ごめん。

 

(つづく)

 

【追記】

※不幸の香りが漂うこのお話。

何度も書いていますが、語り手であり主人公のユンホ(ユノ)を信じてください。

主人公はユンホ(ユノ)です。

このお話は、ユンホ(ユノ)の幸福を祈って書いたものです。

 

『水彩の月』も同様で、語り手であり主人公のチャンミン(シムチャンミン)を信じてください。

主人公はチャンミン(シムチャンミン)です。

『水彩の月』は、チャンミン(シムチャンミン)の幸福を祈って書いたものです。

「ユンホさん」の死を認めたチャンミン(シムチャンミン)は前に向かって歩き出したのです。

『水彩の月』と『Don’t Wanna Cry』は、対になっています。

 

(3)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

~Don’t Wanna Cry~

 

~ユンホ~

 

息せき切って目指すは、図書館。

図書館の前は小さな公園になっていて、大きな楓のたもとにベンチが置かれている。

足を組んで座って俺を待つのは、大好きだった人。

 

チャンミン!」

 

足音に気付いて顔を上げたチャンミンは、汗だくの俺を認めると、にっこりと笑った。

下がった眉、細めた目、目尻のしわ、大好きな大好きな笑顔。

 

「悪い!

帰り際に頼まれごとされちゃって」

「僕も今来たところです」

 

が差し出した手を握って、共に歩き出す。

人通りがほとんどない、等間隔に街路灯が並ぶ歩道を2人で歩く。

街路灯のオレンジ色に照らされる、の端正な横顔を横目に見る。

手を繋いで帰路につく。

男同士だけど、俺たちは全然気にしない。

俺の手を包み込む、温かく乾いたの手の平。

 

「...また痩せましたか?」

 

俺の歩幅に合わせて歩くが、口を開いた。

 

「気のせいだよ」

 

前を向いたまま俺は答えて、の手を握り返した。

 

「ちゃんと、ご飯食べてますか?」

「食べてるよ」

 

の方を振り向けない。

時おり走り過ぎる車のテールランプ、自動販売機が放つ白い光。

曇り空で星は見えない。

 

「手首が小枝みたいです」

 

俺の手を握るの指に、ギュッと力がこもった。

俺は何も答えられない。

 

「途中で、美味しいものを買っていきましょう」

 

が、腕を前後に振った。

の長い腕に、俺は前に後ろに振り回される。

 

「フラフラじゃないですか!

いっぱいご飯を食べましょう。

僕より華奢になってどうするんです?」

「...うーん」

 

不服そうにつぶやく。

の手が俺を繋ぎとめる。

強風が吹けば、俺はどこかへ行ってしまいそう。

大丈夫。

手は離さないから。

お前も離さないだろ?

 

 

「ちゃんと眠れていますか?」

 

しんと落ち着いた口調で、が尋ねた。

が口にするのは、いつも俺を案ずる言葉だ。

 

「寝坊するくらい、寝てるよ~」

ほんとうのことを言いたくなかった。

 

「嘘ですね。

そんな幽霊みたいな顔をして。

眠れてないんですね」

「そんなに心配なら、今夜も泊まっていけよ」

「いいんですか?」

 

の声は弾んでいる。

俺が誘わなくても、いつも泊まっていくくせに。

一緒に暮らそう計画を立てている途中だったのに。

俺は前を向いたままだったけど、の笑顔がどんなに輝いているか、見なくてもわかっている。

の笑顔は、俺を骨抜きにする。

高校生の時から交際していて、あれから10年も経つのにまだ好きで。

同い年なのになぜか敬語で、そんなの話し方が大好きで。

と目が合うと、未だに俺の胸はときめきでいっぱいになる。

お前がいてくれたら、俺は無力じゃない。

 

 

「そろそろ帰りますね」

 

後ろから俺を抱きしめていたは、身体を起こした。

俺ととの間で温められた空気が逃げてしまい、背中が急に寒々とした。

「もう?」

 

に見捨てられたかのような、すがるような眼をしてしまったのだと思う。

は、ふっと小さなため息をつく。

 

「そんな顔をしないでください。

仕方ないですね。

貴方が寝付くまで、帰りませんよ」

 

再び横になったは、俺の前髪を指ですく。

 

「貴方は僕がいないと、そんなに駄目になっちゃうんですか?」

 

の腕の中で、俺はこくりと頷いた。

ベッドに横たわったままの俺の目に、薄暗い室内の様子が映る。

テーブルの上には、ほとんど手がつけられず冷え切ってしまった料理が並んでいた。

幸せなのに、寂しくて。

 

 

の言う通り、痩せたかもしれない。

かなり痩せたかもしれない。

彼の言う通り、幽霊のような顔をしているのかもしれない。

眠れないんだ。

目が冴えて、何度も寝返りをうって、ようやくまどろむのは夜明け頃。

玄関ドアから外へ出ると、パチンとスイッチを入れて、「外の顔」を作って出勤していく。

食べたい欲が、眠りたい欲が消えてしまったみたいなんだ。

飯が美味しくない。

寝付けない。

俺は一体、どうしてしまったんだろう。

チャンミン、どうしたらいいんだろう?

 

 

小さなおにぎり1つが、俺にとって大盛りカツ丼くらいのボリュームに感じられる。

はちびちびとかじる俺を、じーっと見張っている。

 

「はい、よく噛んで。

少しずつでいいですから、飲み込んで」

 

ひと口食べるごとに、お茶を手渡してくれる。

 

「ほら、もうひと口。

あと少しですよ」

「うっ...」

 

胃の腑からせりあがってくる吐き気に耐えられず、トイレへ走る。

トイレにうつむき、大きく息を吐く。

えずいてもえずいても、ほとんど出ない。

当然だ、ほとんど食べていないんだから。

背後に立った

 

「ごめんなさい。

無理に食べさせた僕が悪かったです」

優しく背中をさすってくれる。

 

「苦しいですね。

僕が悪かったです」

 

俺の背をさすりながら、は何度も謝った。

どろどろになった顔をタオルで拭いていると、は冷蔵庫からゼリー飲料のパックをとってきて、俺に渡す。

 

「これならお腹に入るでしょう?」

 

キャップを開けられずにいると、は苦笑まじりのため息をついた。

 

「僕がいない時は、どうするんですか?」

 

キャップをひねる瞬間に、の手の甲に浮かんだ血管を見つめながら、俺は思う。

全く、その通りなんだ。

どうしたらいいんだろう?

そこだけ生気をはなつフィロデンドロンの鉢。

はマグカップに水を汲んで、フィロデンドロンの根元に注ぐ。

一度では覚えきれない突飛な名前だったから、言い間違えるたびは笑っていた。

人の手のような形をした大きな葉っぱ。

俺にプレゼントしてくれた鉢植え。

「じょうろを買わないといけませんね」と言いながら、買うタイミングを逃していた。

鉢植えの植物はね、鉢底から水が出るまでたっぷりやるんだぞ。

かつてした俺のアドバイス通りに、生真面目な顔をして丁寧に水やりをするを、見つめたのだった。

 

(つづく)

 

(2)大好きだった-水彩の月-

 

~チャンミン~

 

ユノを強く恋焦がれる思いが、僕に彼の幻影を見せる。

はたからは、僕はひとりごとを言っているように見えただろう。

けれども、僕は大真面目だった。

僕の目には、テーブルの向こうで果実酒をちびちびと飲む貴方が映っているんだ。

もうしばらく。

もう少しの間だけでいいから。

僕の気持ちがしゃんとするまで、貴方に会っていたい。

 

 

会社にいる時、友人といる時、僕は平気なふりをしている。

あまりに平然としているから、実は恋人を亡くして打ちひしがれているとは...誰も想像も出来ないと思う。

平気なふりをしているうちに、だんだんとそれが普通になってきた。

の不在が当たり前のようになってきたことが、哀しい。

がいなくて、僕は息の根が止まるほど苦しいのに...僕は生きている。

これからは、貴方がいない世界を生きていかなくてはならない。

が僕の前に現れる日が、少しずつ減ってきたことも、たまらなく寂しい。

寂しいけれど、日常は容赦なく続くわけで、幻想の世界に浸っているばかりもいられない。

数年ぶりに、職場の同僚たちと飲んで帰宅した深夜のことだった。

リビングのソファで酔いつぶれていると、がすっと現われた。

 

ユノ...」

 

当然、僕はがばっと身体を起こす。

の名前を口にしようとしたけど、は「しーっ」と人差し指で僕の唇を塞いだ。

僕の頭を膝にのせて、手ぐしで髪をすいてくれる。

...ああ、そうだった。

僕はこうされるのが大好きだった。

「なぁ」

 

僕はとにかく酔っぱらっていて、半分眠っている状態で目をつむったまま、の声を聞いていた。

「お前はもっと、人と会うべきだ、いろんな人とね。

いろんなところへ出かけるべきだ。

​美味いものを食べて、飲んで。

​腹を抱えて笑う日が来て欲しいと、願っている。

お前はハンサムで、とても優しい奴だ。

お前のことを好きになる奴は沢山いるはずだ。

​俺のことを想ってくれるのは嬉しい。

でも。

​今のままじゃ駄目だ。

いつまでも、悲しみの海の底にいるんじゃない」

の低い声...子守唄のようで、僕を眠りに誘う。

僕の頬に触れる、のニットの袖。

僕がプレゼントした、バター色の美しいセーター。

それがよく似合っていた貴方

「俺は、ずっとお前のことを忘れない。

​お前は、俺のことを忘れるんだぞ?

...でも、全部忘れられたら寂しいなぁ。

よし、こうしよう!

1年に1度だけでいい。

ちょっとだけ思い出すだけでいいからな」

彼は、僕の髪をやさしくなでる。

「​お前をいつまでも引き止めてしまって、ごめん。

ごめんな」

 

明け方、猛烈な喉の渇きを覚えて目を覚ました僕は、蛇口から流れる水を手ですくって飲んだ。

何度も手ですくって飲んだ。

濡れた口元を手の甲で拭いながら、リビングを振り返る。

スーツはしわだらけで、部屋の空気はよどんでいる。

カーテンをひき、窓を開けて、新鮮な空気を取り込んだ。

窓の外の明け方の白んだ空に、淡い三日月が見える。

​僕は異変に気づいて、ハッとする。

セーターが消えていた。

カーテンレールには、ハンガーだけが残されていた。

あのニットがなくなっていた。

​そっか...。

が、持っていったに違いない。

しんとした心で、僕は確信していた。

もう、は僕の前に現れることは、ないだろう、と。

僕はもう、貴方に会えなくなった、と。

「しっかりしろ!」

僕は声に出す。

ぴしゃぴしゃと、頬を叩いた。

​『お前は生きているんだ』

夢うつつの中、昨夜、が最後に言った言葉を思い出す。

『お前は、俺がいなくても大丈夫だから』

僕はぐっと涙をこらえて、もう一度口に出す。

「しっかりしろ、シムチャンミン!」

僕は大きく深呼吸をして、しわくちゃのスーツを脱ぎ、熱いシャワーを浴びるためバスルームへ向かった。

ほとばしるシャワーと真っ白な湯気の中、むせび泣いていた。

泣くんじゃない。

熱いお湯が頬を叩く。

泣くんじゃない。

しっかりするんだ。

僕はぐっと唇をかんで、心の中で話しかける。

ユノ、ありがとう。

​今までありがとう。

側にいてくれてありがとう。

僕は頑張りますよ。

​見ていてくださいね。

大丈夫です。

ユノ

​僕は貴方のことが大好きでした。

​死ぬほど貴方を愛していました。

 

(つづく)

 

(1)大好きだった-水彩の月-

 

~水彩の月〜

 

~チャンミン~

 

今日一日あった出来事を、事細かにユンホさんに報告するのが日課だった。

は、僕の言うことを頷きながら聞いてくれる。

僕とは、高校生の頃から交際していて、それから10年以上たった今でも、僕は彼のことが大好きだった。

部屋の天井灯を消し、ダイニングテーブルの上のライトだけ点けて、僕はウィスキーの水割りを飲む。

彼は梅酒のロックをすすりながら、僕らは向かい合わせに座って他愛ない会話を交わす。

「ねぇ、ユンホさん、今日はこんなことがあったんだ」

​「うんうん、それで?」

 

僕を見つめる彼と、ユンホさんを見つめる僕。

出会って随分たつのに、を見るたび僕は、未だに胸がときめく。

 

ここ一ヶ月、ユンホさんがうちにやってくる頻度が減ってきた。

僕はそのことが、とても寂しい。

ユンホさんは、仕事人間だった。

がっかりした気持ちで、僕はいつものようにウィスキーの水割りを作って、ダイニングテーブルにつく。

TVはつけない。

はTVを滅多に見ないから、自然と僕も静寂な部屋を好むようになった。

ダイニングテーブルをはさんだ向こうは無人だ。​

手を付けられていないグラスの氷はすっかり溶けてしまっている。

が飲まなかった果実酒を僕は一気に飲み干す。

が来なくても、僕は馬鹿みたいに彼のために、飲み物を作ってあげる。

溶けた氷で薄まって、ぼやけた味がした。

は、毎晩グラスに一杯だけ果実酒を飲んでいた。

だから、僕はユンホさんが好きだった果実酒のストックはかかさない。

 

いつもは夜にしか訪ねてこないユンホさんが、夕方のうちにやってきた。

休日だった僕は、衣替えをしようとクローゼットの中を整頓していた。

ユンホさん、このニット気に入ってたよね?」

カシミア製のそれは、25歳の誕生日に僕がのために買ってあげたものだ。

薄手なのに1枚で暖かく、とろりと柔らかな肌触りと亜麻色の色合いが美しい。

ユンホさん、着てみせてよ」

「夏だぞ?

遠慮しておく」

 

仕方なく僕は、ハンガーにかかったニットを、リビングのカーテンレールに引っ掛けておいた。

 

「このニットを着たユノと、高級レストランに行ったね」

 

「そうだよ。

ラフな格好で行ったら、まさかのサプライズでさ。

俺だけ浮いてたよな。

交際7年記念だったっけ?」

 

​「ワインがあんなに高いなんて、びっくりした」

「お前のお金だけじゃ足らなくて、俺も財布をひっくり返したよ」

「それは言わないで!

恥ずかしい思い出なんだから」

 

思い出し笑いをしながら、僕の目から涙が零れ落ちた。

 

 

​ねぇ、ユノ

僕は全然慣れない。

今の状況に、全然慣れない。

貴方がいない毎日に、全然慣れないんだ。

ユノ、僕は貴方に会いたくてたまらない。

ユノは、月に2,3回は出張がある身で、その日の朝も出張にでかけようとしていた。

前夜、の部屋に泊まった僕は、のスーツケースを持って、マンションの下まで見送りに出ていた。

 

「生ものには気を付けて下さいよ」

「胃薬をたくさん持ったから大丈夫」

「取引先がいやらしいオヤジかもしれないから、気を付けて下さいよ」

「男の俺に迫ってくる奴とは限らないよ」

ユノはカッコいいから...心配です」

「大丈夫!

俺の一番はお前だけだよ」

 

タクシーが到着して、スーツケースをトランクに入れ、がシートにおさまっても僕は名残惜しくて。

開けたウィンドーから顔を出したにキスをして、タクシーの運転手さんが咳払いするまで、うんと長いキスをして、タクシーが消えるまで、ずっと見送っていた。

「ホテルに着いたら、電話してくださいよ」

「お前も起きて待ってろよ」

 

これが僕とが最後に交わした会話だ。

よかった、僕もも笑顔だった。

お互い笑顔だったことが、僕の心を救った。

 

行っちゃ駄目だ!

どうして僕はあの日、を引き止めなかったのだろう。

仕事なんかさぼってしまえよ!

経費の節約なんか気にせず、新幹線を使えばよかったのに!

バスなんか乗り遅れてしまえばよかったのに!

 

怖かった?

​ほんの少しでも、僕のことを思い出した?

 

その晩、どれだけ待ってもからの電話はなく、僕からかける電話も通じなかった。

あまりにも打ちのめされて、僕は葬式にも行けなかった。

「お前のおかげで死なずにすんだよ、ありがとう」って、僕に抱きつくの夢を何度みたことか。

「電話して」じゃなくて、「愛してる」って言っていればよかったと、僕は死ぬほど後悔している。

ねぇ、ユノ

お願いだから、戻ってきて欲しい。

僕は、貴方を思い出すたび、いくらだって涙を流せる。

 

(つづく)