義弟(54)

 

 

~チャンミン17歳~

 

 

数秒間、僕らは共に無言だった。

 

「本当に、何もなかったのか?

話をしただけだな?」

 

「はい」と、僕は後ろを振り向き、義兄さんと目を合わせて頷いた。

 

それからさらに数秒間、義兄さんは僕を見つめた後、すっと目を反らした。

 

「俺からもXさんに釘を刺しておく」

 

「そんな!

ダメです!

大丈夫ですから!

Xさんに何か言うとか、そういうのは止めてください」

 

X氏は、僕と義兄さんの関係を知っている。

 

義兄さんはX氏から仕事を貰っている。

 

ここでX氏を非難するようなことをしたら、義兄さんの仕事がなくなってしまうかもしれない。

 

義兄さんには知らんぷりしておいてもらいたかった。

 

「義兄さんは何もしないで下さい」

 

「チャンミンを不安がらせて済まない。

でもね、俺の知るXさんは、きれいな遊び方...っていう言い方も変だな...後腐れのない、さっぱりとした付き合いをする人らしいんだ...噂によるとね。

そんな人が、1年以上も続いている、っていうのが怖いんだ。

だからここは、俺が口を出すべきところなんだよ」

 

「......」

 

「チャンミン。

言いにくいことだろうけど、正直に教えてくれ。

俺がどう思うか不安なんだろう?

大丈夫だ。

俺なら大丈夫だ、安心して、な?

気持ちは変わらないよ」

 

「...義兄さんっ...」

 

堪えていた涙ももう限界で、一気に溢れてきた。

 

「義兄さんは...変です」

 

「変?

クレージーって言う意味?」

 

「そうですよ。

僕のこと...嫌いにならないのですか?」

 

「まさか!」

 

振り向いた先に、きょとんと驚いた顔がある。

 

「怒らないんですか?

イヤじゃないですか?

...こんな、僕っ」

 

「気付けなかった自分に腹を立てている。

俺がチャンミンの立場だったとしても、相手がXさんなら...断るのは難しかっただろうよ」

 

「義兄さんこそ、嘘つかないで下さいよ。

僕だったら嫌です。

付き合ってる人がいるのに、陰で他の人とヤッてるなんて。

これは浮気です」

 

実際に言葉にしてみると、僕のしでかした行為のバッドさが際立つ。

 

嫌だ嫌だと言いながら、僕が続けてきたことは、『浮気』じゃないか。

 

「でも、チャンミンは嫌だったんだろ?

会いたくて会っていたわけじゃないんだろ?」

 

「...っ...はい...そうです...っ」

 

「よし、いい子だ」

 

僕の頭のてっぺんに、義兄さんは口づけた。

 

僕を子供扱いする時に、義兄さんは僕のつむじにキスをするんだ。

 

「チャンミンを嫌いになったりはしないから、正直に話して欲しい。

嫌で嫌でたまらないのに、Xさんと会わざるを得なかったのは、なぜ?

断れば済む話なのに、それが出来ずにいたのは、なぜ?」

 

義兄さんはちゃんと、問題の根っこを分かっている。

 

「...撮られたんです」

 

「え...!?」

 

「その...ヤッてるところを...写真に」

 

「くそっ!」

 

義兄さんのドスのきいた悪態に、心臓が止まりそうに驚いた。

 

「ごめん」と言って義兄さんは、僕の膝ごと抱きしめた。

 

「チャンミン...ごめん、ごめんな」

 

「...え?

どうして義兄さんが謝るんです?」

 

「撮られたっていうものを、見たことがあるのか?

それとも、写真の存在を匂わせただけなのか?」

 

「見せられたこと、あります」

 

「くそっ!」

 

さらにもう一度、義兄さんは吐き捨てるように「くそっ!」と言った。

 

義兄さんの大きな声や、乱暴な言葉を耳にするのは初めてで、こんな状況だったけど、カッコいいと思ってしまった。

 

僕以上に腹を立ててくれて、嬉しかった。

 

「強請られていたんだろ?」

 

「...ネットに流すとか、具体的にどう、とかは言っていませんでした、けど」

 

「そんなことをしたら、Xさんも困る。

だから実行はしないと思うけど...いや、分からない」

 

「データは全部消してもらいました。

僕の目の前で」

 

「...信用できない」

 

「ちゃんと目で確かめました」

 

「俺は信じない。

このことについても、対策を考えよう。

...はあ、それにしても...。

はらわたが煮えかえる、ってこういう感情を言うんだなぁ。

初めて経験したよ」

 

「ごめんなさい...」

 

義兄さんが優しくて、逆に怖くなった。

 

怒鳴られて、責められた方がマシだった。

 

「なあ、チャンミン」

 

「はい?」

 

「......」

 

僕に呼び掛けた義兄さんは、そのまま口をつぐんでしまった。

 

「...義兄さん?」

 

「酒臭いぞ」

 

義兄さんはそう言ってベッドを下りてしまい、彼が離れてしまった背中が寒くなった。

 

ミネラルウォーターを何本も抱えた義兄さんが戻ってきた。

 

1本、2本と僕に投げてよこすから、それをキャッチする。

 

「もっと水を飲め。

酒臭いぞ」

 

冗談めかして言う義兄さんだけど、目が全然笑っていない。

 

息がしづらくなって、僕はベッドを飛び出した。

 

それから義兄さんの背中に抱きついた。

 

僕の腕の中で、義兄さんの身体が緊張で張り詰めていた。

 

「......」

 

「気分は?

気持ち悪くないのか?」

 

「...ちょっと頭が痛いだけです」

 

「酒が強いんだな...」

 

「......」

 

「...どこで酒を飲んだ?」

 

頬に触れる義兄さんの首筋が熱い。

 

やっぱり義兄さんは、怒っている。

 

「Xさんの部屋、でか?」

 

「...はい」

 

「飲め、と言われたのか?」

 

「...はい...いいえ」

 

「どっちなんだ?」

 

これは尋問だ。

 

義兄さんの中で、尋ねたいことがいっぱいあるんだ。

 

当然だ。

 

「話をしに行くだけで、なぜ酒を飲むんだ?」

 

洗いざらい全部、答えないといけない場面なんだ。

 

僕の話を聞いた後、これからも僕と付き合い続けるかどうか、義兄さんはジャッジをするつもりなんだ。

 

「『どう?』と勧められただけです。

僕はその時、緊張していて...飲まないといけないって思ってしまって...」

 

「...そっか」

 

もっと根掘り葉掘り訊かれると思っていたのに、それ以上の追及がなくて拍子抜けしてしまった。

 

逆に怖くなった。

 

義兄さんは優しいことを言ってくれたけど、本当は滅茶苦茶怒っているんだ。

 

怒らせて当然なことを僕はしでかした。

 

ああ、黙っていればよかった。

 

内緒を貫き通していればよかった、と後悔し始めた。

 

だから...。

 

「今からしたいです」と義兄さんの耳元で囁いた。

 

「......」

 

「したいです」

 

「...チャンミン」

 

ふぅっとため息。

 

「今夜はもう遅い。

寝ろ」

 

ヘッドボードのデジタル時計で、今が午前4時であることを知った。

 

「もう朝です。

今から寝ても寝なくても変わりません。

義兄さん...僕、したいです」

 

義兄さんの胸の上で組んだ僕の指が、はがされた。

 

「今夜はよそう」

 

「Xさんとヤッてきた僕は...嫌ですか?」

 

「は?」

 

僕を振り向いた義兄さんの表情はぽかん、としたものだった。

 

「嫌なんでしょう?

汚い、って思ってるんでしょう?」

 

「...思うわけないだろう?」

 

義兄さんの唇が震えている。

 

「思ってるくせに!」

 

17歳も年上の、大好きな人を僕はいじめている。

 

「安心してください。

Xさんとは終わりましたから。

これからは義兄さんだけですから!

あ...嫌ですよね?

僕はXさんとヤッてるのに、義兄さんともヤッてたんですよ?

あはははっ」

 

どんどん嫌な人間になってくる。

 

義兄さんを困らせたくなる。

 

もう、どうにでもなれ。

 

いつになっても僕を責めようとしない義兄さんにイライラしてきたのだ。

 

自分がしてきたことを棚に上げて、義兄さんを責めたくなった。

 

「まだ酔っ払ってるな?

言ってることが滅茶苦茶だぞ?」

 

「酔っ払ってなんかいない!」

 

力いっぱい義兄さんの胸を押して、ベッドに突き倒した。

 

「Xさんとヤッてたんですよ!

1年もっ!

義兄さんを騙してたんですよっ!」

 

義兄さんの胸を叩いた。

 

「チャンミンっ!」

 

義兄さんは、振り回す僕の腕をつかんで制した。

 

義兄さんの身長に追いついた僕、でも力は圧倒的に彼の方が上だ。

 

「どうして怒らないんですかっ!

嫌いにならないんですかっ!」

 

「チャンミン!」

 

「訳わかんないよ!

義兄さんは...おかしいよ!」

 

義兄さんの上に跨ったまま、彼の胸に顔を埋めて、僕は激しく泣いた。

 

 

(つづく)

 

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義弟(53)

 

 

~チャンミン17歳~

 

 

僕は義兄さんの顔を見られない。

 

X氏に迫られ、無理やり関係を持ったのか?と問われていた。

 

「そうです」と答えたかった。

 

X氏にコンタクトをとったのは、僕の方だったのに。

 

義兄さんと関係を持つまえに、慣らした身体になりたくて、X氏に近づいた。

 

これが真実だ。

 

僕は17歳で高校生で男で、僕らは義兄弟で、これが罪な繋がりだと、子供な僕にだって重々わかってる。

 

でも、僕は義兄さんが好きだ。

 

誰かとここまで深いつながりを持ったのは、義兄さんが初めてだ。

 

先のことは全然、僕には見えていなかった。

 

これまでのように、週に一度ででも会い続ける...そんな交際がずっと続くんだろうなぁ、って。

 

世間的にも道徳的にも間違った繋がりをもっている僕らだけど、未来があるんだよ、と義兄さんは遠回しに言ってくれた。

 

ところが今は、その希望が壊れてしまいそうだった。

 

義兄さんに隠れて、X氏と会い続けていた僕だ。

 

義兄さんとアトリエで抱き合ったその日の夜に、X氏に呼び出された日もあった。

 

易々とX氏のものを受け入れる僕の身体に、彼は嬉しそうだった。

 

「子供のくせに。誰にでも尻を差し出すのか?」って、乱暴に僕を扱った。

 

「私の他に何人いるのやら...困った子だ」

 

情けなくて悔しくて、唇を噛みしめて、この時が過ぎるのを耐えた。

 

巧みなX氏のテクニックといけないことをしている意識が、義兄さんとの時以上に反応してしまう自分もいた。

 

そんな自分の身体が汚らしい。

 

縁を切りたいのに、弱みを握られていて、機嫌を損ねたら大変だって、求められるまま抱かれてきた。

 

撮ったものをばら撒くとは一度も言われたことはなかったけど、写真や動画の存在を知らせた時点で、暗にゆすっているのと同じなんだ。

 

X氏はなかなか僕に飽きてくれない。

 

義兄さんは僕のことを可愛がってくれる。

 

僕は義兄さんを裏切り続けている。

 

さらには昨夜、僕との将来を考えている、なんて言われてしまったらもう...。

 

だから決心したんだ。

 

X氏だって、高校生といつまでもいかがわしいことをしていられない。

 

社長さんをやっているくらいなんだもの、「もう会えない」と揺るがない意志を見せたら、きっとわかってくれるって、そう見込んでいたのに...。

 

僕だけじゃどうしようもできない。

 

義兄さんをだまし続けることはもうできない。

 

秘密を抱えていられるのも、もう限界。

 

義兄さんは勘づいている。

 

僕の答えを待っている。

 

嘘はつきたくない。

 

義兄さんの二の腕をつかんだ手に、力を込めた。

 

筋肉がつまった逞しい腕。

 

義兄さんはこんなに綺麗で清潔なのに、僕ときたら裏切り者で嘘つきで、汚れている。

 

義兄さんだって結婚しているし、姉さんを抱く日もあると思う。

 

でも、姉さんの夫であることを前提にスタートした。

 

イケナイことをしているスリルに、ゾクゾクしていたくらいだ。

 

義兄さんは僕の答えを待っている。

 

思い切って顔を上げた。

 

「......」

 

眉をひそめて、潤んだ眼をしていた。

 

いろんな表情を見たいと、天使のような華やかな笑顔が、怒り狂ったり嘆き悲しむことでゆがむのを見てみたいと、出会ったばかりの僕は馬鹿な願望を持っていた。

 

嫌だ。

 

義兄さんのそんな顔は見たくない。

 

でも今の義兄さんの顔といったら、悲しそうな怒っているような、呆れたような、緊張しているような、全部が混ざり合っている。

 

「......」

 

そして、考え込んでいる僕を見つめる義兄さんの表情が、徐々に無表情にと変化していった。

 

ああ、やっぱり。

 

僕は嫌われたんだ。

 

「...そっか」

 

義兄さんはふっとため息をついた。

 

「答えにくいことを質問して悪かった。

思い出したくないんだよな。

無神経なことを訊いて悪かった」

 

義兄さんに頭を引き寄せられて、力任せにごしごしと後頭部を撫でられた。

 

「ちがっ...!

違うんです!」

 

「Xさんとのことは...これからどうするかは、一緒に考えよう」

 

僕の両肩をつかむと、覗きこんでそう言った。

 

「ずっと黙っていて...辛かったな」

 

息が出来ないくらい力いっぱい僕を抱きしめるんだもの。

 

「違うんです。

違うんです!」

 

「黙っていろって。

正直に話してくれてありがとう。

もう二度と会うんじゃないぞ?

何かあったらすぐに俺に言うんだ。

分かった?」

 

「義兄さん!

違うんです!」

 

「気づいてやれなくて、ごめんな?」

 

「僕から誘ったんです!」

 

僕を抱きしめる義兄さんの腕が、ぴたっと止まった。

 

「......」

 

「......」

 

「...どういう意味...だ?」

 

義兄さんの両腕がぱたりと下に落とされたけど、僕は彼の胸にしがみついたままでいた。

 

薄いTシャツ越しに、義兄さんの体温がかっと上がったのが分かる。

 

「抱いてくれ、って頼んだのは僕の方だったんです」

 

言ってしまった...!

 

「...それってつまり...小遣いが欲しくてか?」

 

「違います!

お金は貰ったことありません!」

 

「じゃあ、なぜ...」

 

義兄さんが疑問に思うのも当然だ。

 

しがみつく僕は引きはがされそうになったけど、そうされまいと抵抗した。

 

恥ずかしくて情けなくて、そんな自分を見せたくなくて、義兄さんの胸に顔を埋めた。

 

落胆しただろうな、見損なっただろうな、悲しいだろうな...義兄さんの顔を見たくなくて、しがみついたままでいた。

 

「Xさんにそう言え、と頼まれたのか?」

 

義兄さんの声は掠れていた。

 

僕は首を左右に振った。

 

僕と義兄さんが逆の立場だったらどうだろう。

 

想像してみた。

 

ものすごく...嫌だ。

 

もし僕が義兄さんの立場だったら...。

 

歪んだ動機からスタートしたX氏との密会を、1年以上も続けてきた者なんて、受け入れられない。

 

吐き気が出るほど、不潔だ。

 

浮気をした奴なんて、嫌いだ。

 

二度と触れたくもない、顔も見たくない、今すぐこの部屋を出ていく。

 

...僕だったら、そうなる。

 

きっと義兄さんも、そうする。

 

僕を突き放して、ベッドに残して、振り返りもせずこの部屋を出ていく。

 

「...あ」

 

義兄さんに引っ張られて僕の身体は180度回転し、後ろ抱きにされた。

 

僕の上半身は義兄さんの両腕で、僕の腰は彼の両膝で包み込まれた。

 

温かい...そして、安心する。

 

恐れとは真逆のことをされて、嬉しいのに苦しかった。

 

「チャンミンがなぜ、Xさんに近づいたのか...。

『なぜ?』と訊いても、チャンミンが答えにくいのなら言わなくていい。

済んだ話だ。

会い続けていた理由は...チャンミンの意志によるものじゃない」

 

僕は両膝を引き寄せて、そのてっぺんに額を押し当てた。

 

呼吸は浅く、鼓動も早い。

 

「Xさんに逆らえなかったんだな...。

これはキツイな」

 

今の時刻は何時頃なんだろう。

 

真夜中に近いのか、夜明けに近いのか、分厚いカーテンが引かれた窓からは空の色を確かめられない。

 

「Xさんと、今日も会っていたのか?」

 

僕は頷いた。

 

義兄さんの肌がぴくぴくっと震えた。

 

僕の言葉を一句ひとつも聞き漏らすまいと、耳をすましている証拠だから、言葉選びに慎重になってしまう。

 

「会ったけど、それは...もう会いたくないって話をつけに行ったんです」

 

「それで?

向こうは納得したのか?」

 

「...はい」

 

X氏は僕の目の前で、スマホ端末のデータを削除してくれた。

 

それだけじゃ不十分だったから、クラウドデータの中身も確認して、削除させた。

 

「さようなら」と言って、X氏の部屋を出た。

 

もう終わった。

 

「もうXさんとは、会いません」

 

「話をしてきただけか?

酷いことはされていないよな?」

 

頷く前に一呼吸の間が出来てしまって、冷や汗が出てしまった。

 

「絶対だろうな?

嘘はダメだ。

話をしてきただけ、だな?」

 

「はい」

 

よかった、次は自信がある感じに頷けた。

 

 

(つづく)

 

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義弟(52)

 

 

~ユノ~

 

俺は積んだ枕に背をもたせかけて、膝の上のノートにスケッチしたり注釈を加えたりと、仕事に取り掛かっていた。

 

X氏を怒らせたことで、いずれ無くなってしまうかもしれない案件だ。

 

現在は未だ俺の仕事だ。

 

くの字になって横顔を埋めて、チャンミンは口を軽く開けたまま寝息をたてている。

 

喉の渇きを覚えて、ベッドに足を下ろした時、

 

「...義兄さん」

 

チャンミンの声に振り返ると、目を開けたチャンミンが俺を見上げていた。

 

ベッドサイドの黄色い灯りの元、チャンミンの白目がにごりなくくっきりとしていた。

 

X氏との疑惑がどす黒く渦巻いている俺の目には、その純真さがかえって胸を痛ませる。

 

「...んっ...」

 

半身を起こしたチャンミンは、頭を抱えて呻いている。

 

「痛むのか?」

 

チャンミンの肩を抱き、背中を擦ってやる。

 

「...どうして、義兄さん...ここに?」

 

「倒れていたんだよ、風呂場で。

覚えてないのか?」

 

チャンミンの髪をくしゃりと撫ぜた。

 

「あ...」

 

「酒なんて飲んで...未成年のくせして...。

飲み過ぎなんだよ。

水をたっぷり飲むしかないぞ」

 

ミニバーからミネラルウォーターのボトルを持って引き返し、チャンミンに手渡してやる。

 

指が震えてなかなかキャップを開けられずにいるチャンミンに代わって、開封してやった。

 

「義兄さん...あの...」

 

チャンミンは気づいているのだろうか?

 

俺が疑いを持っていることを。

 

疑いどころか、それが事実に限りなく近いと信じていることを。

 

俺は知らんぷりを決め込んだ方がいいのだろうか。

 

これまでの俺は、チャンミンの日常に興味を持って、詳しく知ろうとしなかった。

 

チャンミンにはチャンミンの日常がある。

 

ある一定の距離感を保って付き合わなければ、こんな不毛な関係は続けられない。

 

チャンミンの日常を把握する資格は、俺にはない。

 

なぜって、俺たちは『不倫』の仲だ。

 

言い換えれば、チャンミンは俺の『愛人』だ。

 

俺たちの関係性については、言葉をにごして曖昧にしているのがいい。

 

チャンミンが唯一、核心に触れた言葉を発したのが、『姉さんと別れないで欲しい』だった。

 

俺の発言『Bとは別れる』の反応がこれだった。

 

俺はその真意を尋ねず、「分かった」と答えただけだった。

 

チャンミンが何を考えていたのか、分からない。

 

「義兄さん...僕は、僕...。

義兄さんに言わなきゃいけないことが...」

 

チャンミンに腕をつかまれた。

 

その汗ばんだ手の平から、チャンミンが緊張しているのが伝わった。

 

「...いいさ。

無理に言わなくていい」

 

知りたくて仕方がないのに、疑いが事実だと知った時の衝撃を想像すると...怖かった。

 

しかし、知らないふりを続けていける自信がなかった。

 

ずっと、重苦しい気持ちを抱えていくなんて...先延ばしするより、『今』知るべきことなんだろう。

 

「でも...あの...僕は...」

 

言い淀むチャンミン。

 

チャンミンの口から言わせようとするから、いけないんだな。

 

ここは俺の方から、ずばり尋ねないといけない場面だ。

 

二の腕をつかむチャンミンの手をとり、指を絡めて握った。

 

「...チャンミン」

 

「......」

 

チャンミンは自身の膝に視線を落としてしまった。

 

そこだけ成長を止めたかのような、骨ばかり目立つ細い脚は相変わらずだった。

 

「正直に言ってくれ。

怒らないから...正直に答えるんだ」

 

チャンミンの手をきつく握りしめて、すり抜けようとしたのを許さなかった。

 

チャンミンの反応に、俺の胸は押しつぶされそうに苦しくなる。

 

「Xさんと...会っていたのか?」

 

「......」

 

「会っていたんだな?」

 

「...知ってるんですか。

どうして...」

 

ここで俺の疑惑が、間違いじゃなかったと決まった。

 

項垂れたチャンミンのつむじ。

 

「会っていたんだな?」

 

「...ご飯を御馳走するからって、誘われて...その。

ホテルのレストランで。

ご飯を食べて...それだけで...」

 

「...正直に言え、と言ってるんだ」

 

俺の押し殺した固い声音に、チャンミンの頭がもち上がった。

 

「...嘘じゃないです」

 

チャンミンの見開いた眼に、涙が膨らんでいる。

 

泣き顔に騙されるわけにはいかない。

 

俺は目を反らさない。

 

「俺は『本当のこと』が聞きたいんだ」

 

「...でも」

 

「聞いたからと言って、怒ったりしないから」

 

チャンミンが恐れているのが何なのか、俺には分かっていた。

 

口を割らせるために、チャンミンを安心させる言葉を吐くべきなんだろう。

 

X氏への怒り、チャンミンへの怒り。

 

違う...チャンミンへの怒りはない。

 

加えて、俺以外の者と関係を持っていたことへの嫉妬の念ではない。

 

自分自身への怒りだ。

 

おかしいな、と思った時点で、問いただすべきだった。

 

...チャンミンは辛かっただろう。

 

俺にバレないよう、神経をすり減らしていたんだろう。

 

X氏と関係を持つこととなったきっかけは、何だったんだろう。

 

「俺を信じろ。

大丈夫だ」

 

「ホントですか?」

 

チャンミンの背中をごしごしと擦ってやった。

 

「ああ。

チャンミンを嫌いになったりはしない。

だから、正直に話して欲しい」

 

チャンミンの手を両手でくるんだ。

 

 


 

 

~チャンミン17歳~

 

義兄さんの大きな手に包まれて、安心と恐怖といった相反する感情が同時に襲ってきて、苦しい。

 

ドキンドキンと鼓動が、義兄さんに聞こえてしまうんじゃないかってくらい、うるさかった。

 

「嫌いになったりはしない」と義兄さんは言ってくれたけど、信じてしまってもいいのだろうか。

 

義兄さんは知っている。

 

X氏とのことを知っている。

 

どうやって知ったのかなんて、今は問題じゃない。

 

僕の口から本当のコトを聞かされて、義兄さんがどう思うのかが問題なんだ。

 

「...いつからだ?」

 

嘘をついてもよかったけど、義兄さんを前にしたら、嘘はいけない。

 

「...い、1年前...」

 

「!」

 

義兄さんは絶句している。

 

恐ろしくて、義兄さんの顔を見れない。

 

「...俺と会うようになってからの話か...?」

 

僕は小さく頷いた。

 

「...どうして」

 

その通りなんだ。

 

この質問が最も答えにくいんだ。

 

慣れていない身体が恥ずかしくて、義兄さんと初めてことに及ぶ前に、経験しておきたかった。

 

男との行為が初めてに違いない義兄さんを、戸惑わせたくなくて、リードするまではいかなくても、僕だけでも先に知っておきたかった。

 

それから、当時の僕は、僕が義兄さんが想う気持ちの方が勝っているのが悔しくて、余裕をみせたかったのだ。

 

「...無理やりか?」

 

迷った。

 

頷いてしまってもよかった。

 

X氏を悪者に仕立て上げれば、僕の罪は軽くなる。

 

「無理やりだったのか?

これまでずっと...。

...乱暴されたのか?」

 

僕は迷っていた。

 

 

(つづく)

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義弟(51)

 

 

~ユノ34歳~

 

実際に目で確かめるまでは、信用できない。

 

X氏の身体を押しのけて、部屋へ押し入った。

 

「ユンホ君!」

 

X氏の制止は無視して、真っ先にベッドを確認する。

 

「!」

 

ベッドに全裸でうつ伏せで横たわっているチャンミン。

 

涙や唾液で汚れた顔で、恍惚の表情を浮かべている。

 

ベッドの枕元や足元には、空き袋や使用済みのものが汚らしく転がっている。

 

部屋に乱入してきた俺に、目を見開いている...。

 

 

...そんなシーンを、予想していた。

 

「え...?」

 

シーツは乱れているが、ベッドは空っぽだった。

 

俺は浴室に直行する。

 

ドアを開けると、湯気に満ちた空気に包まれたそこは、無人だった。

 

寝室に引き返し、クローゼットの扉を勢いよく開けた。

 

X氏の上等なスーツが吊るされているだけだった。

 

それならばと、窓際まで走りカーテンを引いたところで、嵌め殺しの窓だったことを思いだした。

 

「ユンホ君?」

 

俺の背後にX氏が立っているのが、窓ガラスに映っている。

 

「なんだって、チャンミン君が私の部屋にいるなんて。

まるで...」

 

「まるで...なんです?」

 

勢いよく振り返った先に、X氏の下卑た笑顔があった。

 

「ユンホ君が何を考えているか...よ~く分かるよ。

私がチャンミン君を連れ込んで、よからぬことをしている...そうだろう?」

 

「......」

 

奥歯を噛みしめて、X氏を睨みつけた。

 

「...随分失礼なことをしている自覚はあるのかね?

 

ご自身の立場はよく理解しているのかね?」

 

「ええ」

 

今後の仕事を失ってしまっても構わなかった。

 

依頼されている仕事の大半は、白紙に戻るだろう。

 

「ご覧の通り」

 

X氏は大げさな身振りで、部屋を見渡した。

 

「チャンミン君はここには『いない』」

 

それじゃあ、チャンミンはどこにいるんだ?

 

「失礼しました」

 

俺は頭を下げるしかない。

 

失礼極まりない行為に、言い訳も謝罪もする気になれなかった。

 

X氏を疑ったこと、家探しをしたこと、結局疑惑を裏付けるものは見つからなかったこと。

 

ちらっと視界をかすったあれは?

 

引き返してあらためてみたかったが、俺を部屋から押し出すように背後にX氏が接近していたため、出来ずにいた。

 

「尻の軽いネコは檻に閉じ込めておかないと、いけないよ。

『おにいさん』?」

 

部屋の外までご丁寧に見送ったX氏は、そう言ってドアを閉めた。

 

「くそっ」

 

黒だ、と思った。

 

チャンミンは、どこにいる?

 

 


 

 

~チャンミン17歳~

 

 

頭がガンガンする。

 

僕はバスタブにうずくまって、降り注ぐシャワーに打たれていた。

 

立てた膝の間で項垂れていた。

 

次から次へと溢れる涙が、熱いお湯に洗い流されていく。

 

「馬鹿!」

 

膝を引き寄せ背中を丸めて、「馬鹿馬鹿」とつぶやき繰り返した。

 

振り仰いで、大口を開けて、湯のつぶてで口内を濯ぐ。

 

『これだからガキは困る』

 

X氏の言葉がわんわんと耳の奥で、リフレインした。

 

そうだよ、僕はガキだ。

 

情けなかった。

 

こんな僕を知ったら、義兄さんは離れていってしまう。

 

じっとしていればよかった。

 

蜂の巣を突いたみたいな事態になってしまった。

 

今の僕を圧倒するのは、屈辱感と羞恥心だ。

 

何度もX氏にさらし続けた自分の身体に、反吐が出そうだった。

 

「義兄さん...」

 

吐き気はするし、ふわふわと酔った頭なのに、意識だけははっきりしている。

 

X氏の湿ったあざ笑いと義兄さんの軽快な笑い声が、交互に僕の頭の中をぐるぐる巡って僕を苦しめている。

 

洗面ボウルの脇に置いたスマホが、先ほどから振動している。

 

義兄さんだ。

 

今日一日ずっと連絡を返さなかった僕を心配している。

 

義兄さんに会いたい...でも、会うのが怖かった。

 

義兄さんなら僕を見損なったりしない...その自信もわずか数パーセント。

 

でも、その数パーセントにすがりたかった。

 

いつまでもこうしてはいられない。

 

全身すみずみまで何度も洗ったし、シャワーに打たれ過ぎて手指はふやけている。

 

湯船をまたぐとき、ぐらりと視界が傾き、とっさにつかんだのはシャワーカーテン。

 

「あっ...!」

 

僕の全体重に引っ張られて、それはバリバリっとカーテンレールから金具ごと千切れる。

 

支えを失った僕は、シャワーカーテンごと固い床に横倒しになった。

 

シャワーヘッドがお湯を巻き散らしながら踊り、僕は固い床を半身に感じながら、目を閉じた。

 

 


 

~ユノ34歳~

 

X氏の部屋を出た後、俺はチャンミンの部屋へ直行した。

 

チャイムを鳴らしてもドアを叩いても、ドアは固く閉じたままだった。

 

チャンミンのスマホをもう一度鳴らしたが、すぐに応答サービスに切り替わってしまった。

 

「くそっ、くそっ!」

 

俺は力いっぱい床を踏みつけた。

 

微かな音量でクラシック音楽が流れるフロアに、俺の悪態だけが下品でうるさかった。

 

俺はエレベーターホールまで引き返し、フロントを呼び出した。

 

この部屋にいるのかいないのかを、まずは目で確かめたい。

 

もし...もしも、ボロボロの姿でいたとしたら...!

 

俺の求めに応じたスタッフだが、気色ばむ俺の様子に動じるあまり、マスターキーを持つ手が震えていた。

 

開錠後、俺と共に室内をあらためようとするスタッフを、俺は強引に引き取らせた。

 

立ち去るスタッフに礼を言い、いよいよ俺は室内に踏み込んだ。

 

ドアを開けた途端、むわっと湿気に包まれた。

 

照明のついていない部屋は暗いままで、不安が膨らむ。

 

浴室のドアが開いており、隙間から灯りが漏れていた。

 

湯気の出どころでもあるそのドアを開け放った。

 

(なんだ!?)

 

バスタブの中で上を向いたシャワーヘッドが、俺の服をたちまち濡らしたのだ。

 

「!」

 

俺の足をつまずかせたぐにゃりとやわらかいものに、心臓が止まりそうになった。

 

ベージュ色のシャワーカーテンにくるまった格好で、チャンミンが横たわっていた。

 

「...っ」

 

カーテンをめくって露わになったチャンミンの横顔に、一瞬ひるんでしまった。

 

倒れた拍子に唇を切ったのか、顎下を朱に染めていた。

 

それとも...X氏にやられたんじゃないだろうな?

 

そんな思いがよぎってしまっても、仕方がないだろう。

 

「チャンミン!」

 

濡れるのも構わずひざまずいて、チャンミンの肩を抱き起す。

 

「チャンミン?」

 

ぐらぐらのうなじを支えて、チャンミンの頬を軽く叩いた。

 

「チャンミン?

俺だ」

 

「...ん」

 

チャンミンのまぶたがうっすらと開いた。

 

「...よかった...」

 

チャンミンが部屋にいて、心底安堵した。

 

浴室の床に伸びるチャンミンの姿に肝を冷やした。

 

「...に、いさん」

 

チャンミンの囁き声が聞き取れず、「何?」と口元に耳を寄せた。

 

酔っ払っている...そこから漂う香りで分かった。

 

「...僕は」

 

一日連絡が取れず、X氏の部屋にはおらず、部屋に戻っていたけど酔っぱらって浴室の床に転がっていた。

 

金具だけがレールにぶら下がっていることから、シャワーカーテンもろとも倒れたようだ。

 

「頭は?

酔っ払った状態で風呂だなんて...危ないだろう?」

 

腕を伸ばしてシャワーを止め、ラックから取ったタオルで顔の汚れを拭ってやった。

 

「...よし」

 

チャンミンの後頭部や側頭部をあらためて、こぶがないことを確かめた。

 

「起きられるか?」

 

俺の問いに、こくんと頷いたから、意識ははっきりとしているようだ。

 

チャンミンに肩を貸してやったが、膝に力が入らないらしい。

 

「だいじょーぶです...。

にーさん、僕は、だいじょーぶですから」

 

「だいじょーぶ」を繰り返す舌ったらずな喋り方は、こんな状況じゃなければ色っぽく聞こえるだろう。

 

『チャンミン君はここにはいない』

 

X氏の言葉通りだったが、俺は信じていない。

 

チャンミンが酒に強いのかどうかなんて、共に酒を飲んだことはないから分かるわけない。

 

チャンミンは17歳で、今どき律義に守る未成年ばかりじゃない。

 

でも、缶ビール1本でこうもアルコールの匂いをぷんぷんとさせられない。

 

「おっかしーな...ここは?

あれ?

あれれぇ?」

 

だから俺はしんと醒めた気持ちで、チャンミンが発する言葉を無視した。

 

抱きとめる俺の腕の中から抜け出て、チャンミンはふらふらな足取りで立ち上がろうとする。

 

「じっとしていろ」

 

「やっ...。

はなせ...いけるってば。

だいじょーぶですってば」

 

「チャンミン!」

 

チャンミンの胴にタックルして、その動きを封じた。

 

俺の腕の中でジタバタと暴れるチャンミンを、肩の上に担ぎ上げた。

 

「ばかぁ...。

にーさん、はなせ!」

 

ミニバーの前を通り過ぎた時、「やっぱり...」と暗い気持ちになった。

 

未使用のグラス、未開封のボトルが整然と並んでいた。

 

冷蔵庫を覗いてみると、1本分空いたスペースは多分、ミネラルウォーターのペットボトルだ。

 

チャンミンが酒を飲んだのは、この部屋ではないってことだ。

 

果たして本当に無事だったのかどうか...ベッドに下ろしたままの姿で眠るチャンミンを見る限り、確かめようがない。

 

頭にも手足にも打ち身らしいものは、表面上は見当たらなかった。

 

唇の傷はきっと、転倒した際にできたものだ。

 

そうであって欲しい。

 

確認すべき箇所はあるにはあるが、さすがに尻を割って中を探るわけにはいかない。

 

残された手段は、本人の口から確かめるしかないってことだ。

 

 

チャンミンを独りにしていられなくて、部屋にとどまった。

 

チャンミンを介抱する際にスーツが濡れてしまったため、着替えるために一度部屋に戻った。

 

シャツの衿口にチャンミンの血液が付着していた。

 

シャツに付いた口紅跡で浮気がバレる...小説や映画でありがちなシーンが思い浮かんだ。

 

似たようなものだな、と自嘲が込みあげてきた。

 

妻の弟と不倫かよ...ふざけてる。

 

水を張った洗面ボウルにハンドソープを垂らし、汚れたシャツを浸けおいた。

 

濡らした後になって、クリーニングに預ければよかったんだと思い出した。

 

X氏から回してもらう仕事が途絶えたら、生活のレベルを相当下げないといけない。

 

なんでもかんでもクリーニングに預けてしまうBは、耐えられるだろうか。

 

純粋に絵画に没頭していられた若かりし時代に、思いを馳せる。

 

ここ1、2年で、絵画の時間を捻出することが難しくなってきていた。

 

チャンミンと2人だけの秘密の作品...真珠のネックレスを首からぶらさげ、網ストッキングを履いた裸のチャンミンを描いたもの...も、未完成のままだ。

 

搬入日が迫っている公募展の作品...Tシャツとデニムパンツのチャンミンを描いたもの...は完成間近。

 

今回のイベントが終われば、商業的な作品作りにとりかからなければならず、忙しい日々が待っている。

 

今夜の一件があったから、X氏の意向次第では、スケジュールが真っ白になって暇になる可能性の方が高いか。

 

絵描きに専念できる...いいことじゃないか。

 

俺の心は重く、暗くふさぎ込んでいた。

 

今朝までは、俺たちを取り巻く状況は暗いけれど、気持ちだけは前向きだった。

 

ところが現在の俺の気持ちと言ったら...!

 

虚しさと絶望感で息苦しかった。

 

 

(つづく)

 

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義弟(50)

 

~ユノ34歳~

 

「どうした?

俺は今...」

 

扉に開いたエレベーターに乗り込み、階数ボタンを押して「閉」ボタンを乱暴に連打した。

 

チャンミンの部屋かX氏の部屋か...。

 

X氏の部屋だ。

 

「手が離せないんだ。

準備が終わってなくて...で、何?

何の用だ?」

 

「...ユノ。

イライラしてる」

 

Bの指摘にキツイ言い方になってしまったことに気付いて、「ごめん」と謝った。

 

「こっちは大わらわなんだ。

どうした?

もう帰国したのか?」

 

Bは先週から海外へ出かけていたはずだ。

 

『ええ、ついさっき。

ユノにいっぱいお土産を買ってきたから、楽しみにしててね』

 

お土産なんて、今の俺にはどうでもいいことだった。

 

それどころじゃない、チャンミンの顔を見て何もなかったことを確認したかった。

 

X氏の部屋を訪ねる前に、チャンミンの部屋が先だ。

 

3階下の階数ボタンを押し、表示ランプをじりじりと見上げた。

 

ふり返った先の鏡には、汗で前髪を濡らし、それなのに青ざめた顔をした俺が映っていた。

 

息せき切ってチャンミンの部屋を訪ね、ただごとじゃない俺の様子にきょとんとした顔で「何ですか、義兄さん?」とドアを開けてくれることを願っていた。

 

『...ユノ?』

 

俺の名を呼ぶBの声に、はっとする。

 

『...話、聞いてる?』

 

相づちを打つのを忘れるだけじゃなく、全く話を聞いていない俺を、Bが不信がっても仕方がない。

 

「ああ!

ごめんごめん」

 

『多分、明後日あたりにそちらへ行くわね』

 

「ああ、待ってる」

 

『でね...』

 

じりじりしながら、Bの会話の途切れるタイミングを待った。

 

途中階で幾人かの客が乗り込み、もたもたとした彼らの足運びに苛ついて、舌打ちしそうになるのを堪えた。

 

『でね、私、ユノに話が...』

 

「悪い!

もう戻らないと!

今夜は、徹夜になりそうだ、ははは」

 

会話を続けるBを遮って、「明後日、駅まで迎えに行くから」と通話を締めくくった。

 

Bは俺の妻で、何も悪いことはしておらず、悪いことをしているのは俺の方なのだ。

 

結婚して2年足らずの妻を疎ましく思ってしまう夫は、妻の弟に夢中になっている。

 

目的の階に到着し、扉が開くなり俺は飛び出した。

 

チャンミンの部屋までの廊下を走り、ルームナンバー下のチャイムを鳴らした。

 

数秒待って、もう一度ボタンを押す。

 

「ったく...」

 

ノックをしてみても、目の前のドアは開かない。

 

チャンミンのスマホに発信してみても、コール音が鳴るばかりだった。

 

やっぱり...X氏の部屋か?

 

「くそっ」

 

ドアを蹴り飛ばしたい衝動を抑えて、エレベータまで引き返した。

 

 


 

 

~チャンミン17歳~

 

「は、放して下さい!」

 

X氏の腕を跳ねのけようにも、視界がぐるりと回っている僕だから、大した抵抗になっていない。

 

これで何度目になるのか、後ろポケットから滑り落ちて床に転がったスマホのディスプレイが光っている。

 

義兄さんからの通話だ、絶対に。

 

音もバイブレーションも消していたから、X氏を待つ間からずっと、義兄さんからの着信に気付けずにいたんだ、きっと。

 

心配しているだろうな。

 

早くここをやり過ごして、何もなかったみたいな顔をして、義兄さんの部屋に行きたいんだ。

 

こんなことになるなんて、予想だにしなかったよ。

 

開けっ放しのカーテンの向こうは、夕方から夜への狭間の薄闇に染まりかけている。

 

今夜は遅くなる、と義兄さんは言っていた。

 

まだ間に合う。

 

イヤイヤと抵抗しているばかりじゃ、X氏の征服欲を煽るばかりだ。

 

30分か1時間ばかり我慢すればいいことだ、さっさと終わらせよう。

 

観念した僕は、デニムパンツのウエストを緩めた。

 

 


 

 

~ユノ34歳~

 

腕時計を確認すると、間もなく22時。

 

会場の方は後片付けを終えた頃か。

 

例の作品は無事に届いただろうか。

 

イベントの主役の1人が、会場をほっぽりだして1人の高校生にかまけている。

 

 

3階上のフロアに到着した。

 

X氏の部屋は確か...俺の4つ隣のはずだ。

 

「はあ...」

 

手の甲で額の汗を拭った。

 

暖房の効きすぎた館内が不快だった。

 

俺と初めて関係を持った時のチャンミンの肢体が、脳裏に浮かんだ。

 

初めてとは思えない程慣れた動きと、痛がりもせず受け入れた身体を思った。

 

まさか...。

 

今の俺は視野が狭くなっている。

 

針のように狭くなっている。

 

極端な疑いに心を乗っ取られている。

 

そんなこと、分かってる。

 

X氏の部屋のチャイムボタンを続けざまに押した。

 

鋭いノック音が廊下に響く。

 

カチリとドアが開き、長身の俺でも見上げないといけないX氏の巨躯が現れた。

 

「...ユンホ君?」

 

毛量豊かな髪が濡れ、石鹸の香りがする湿った空気をまとっていた。

 

「わざわざ部屋まで...どうしたんだい?」

 

たたずむ俺を見て、X氏は濃い眉を大きく持ち上げてみせた。

 

会場でのトラブルの件を報告する前に、真っ先に俺が口にしたのはこれだ。

 

「...チャンミンは?

チャンミンは、来てますか?」

 

「チャンミン君が?

どうしてまた、私の部屋にいるんだね?」

 

X氏の驚いてみせる台詞なんて、はなから信じていない俺は無視して、同じ質問を繰り返した。

 

「チャンミンは...ここにいるんでしょう?」

 

俺の気迫に負けたのか、状況を楽しんでいるのか、X氏はさも困った表情を見せる。

 

「ユンホ君...チャンミン君がなぜ、私の部屋にいるんだね」

 

「いるんですね?」

 

「いるはずがないだろう?

いないよ。

チャンミン君は、ここにはいない」

 

X氏ははっきりと、そう言った。

 

 

(つづく)

 

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