(30)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

顔を蹴られて目覚めると、真横に大股を広げて眠るチャンミンがいた。

 

かさかさに乾ききった鼻をくすぐった。

 

チャンミンの鼻がもぞり、とうごめき、次いで「ぶちゅん」とくしゃみをした。

 

私はチャンミンのくしゃみをする寸前の表情が好きなのだ。

 

「ぶっ」と音がした。

 

チャンミンのおならだ。

 

この子はおじさんみたいなのだ。

 

もうしばらく寝かしておこう。

 

半身だけ起き上がり、うーんと伸びをしてカーテンを開けた。

 

「あ...」

 

窓の外の景色を見るなり、私は眠ったままチャンミンを抱き上げた。

 

「チャンミン、起きて!」

 

窓を開け放ち、チャンミンに外の景色を見せてあげた。

 

「初雪...」

 

チャンミンの鼻に粉雪が舞い落ちるなり、瞬時に消えていった。

 

 

雪はたった一日でどっさり降った。

 

年が明けてからのこの日の雪は、2か月分をとり戻すかのような降り方だった。

 

丸3日眠りこけてしまい、目覚めて外を見てびっくり...それくらいどっさり降った。

 

ユノさんが仕事を休むなんて余程辛いのだろう。

(この2年間、ユノさんは欠勤したことがない)

 

昨夜から今にいたるまで、洗面の為以外は部屋にひっこんだままだった。

 

私は朝からユノさんのお世話に張り切っていた。

 

チャンミンも何かお手伝いをしたいのだけど、実際は何もできず、そんな自分が悔しくて、私の後をついて回っている。

 

卵を落としてとろとろに炊いたお粥をお盆にのせ、ユノさんの寝室のドアをノックした。

 

ユノさんはげほげほ咳きこみながら身体を起こそうとするから、私はそれを押しとどめた。

 

「買い物に行けていないね。

食べるものはちゃんとある?」

 

「だ~いじょうぶ。

缶詰もジャガイモも何でもいっぱいあるよ」

 

事実、1週間閉じ込められてもメニューと量に困らないくらい、食糧棚は充たされていた。

 

ユノさんは育ち盛りの私とチャンミンのために、他は切り詰めても食費だけは惜しまなかった。

 

「タミーは?

運動不足になっているから、寝ていたらたたき起こして外に出してあげてくれないか?」

 

「今チャンミンと散歩に行ってるよ」

 

「誕生日までに風邪を治さないとなぁ」と、ユノさんはガラガラ声で言った。

 

「そうだよ。

チョコレートケーキのレシピはばっちりだよ。

ラジオでやっていたの」

 

「プレゼントはお菓子のレシピ本にしようか?」

 

私は口をへの字にして、「嬉しいけど、それは嫌だ」と答えた。

 

何かこう...もっと華やかなもの、珍しくて、わあっと心躍るものがよかった。

 

実際のところ、私の誕生日は正確な日づけはよく分からない。

 

分かっているのは冬だということで、それならばと年が明けた日にしようとユノさんと決めたのだ。

 

1年前、私の誕生日を迎えてしばらくのちに、生後2週間のチャンミンがやって来た。

 

だから、私とチャンミンの誕生日はだいたい同じなのだ。

 

チャンミンが我が家にやってきてもうすぐ13ヶ月。

 

私は13歳になった。

 

そこに運命みたいなものを感じとった。

 

 

ラジオによると夜半に吹雪になるそうだ。

 

家が雪で埋もれてしまったら困る。

 

雪が降り止んでいる今のうちにと、私は防寒対策をばっちりした上で外に出た。

 

もちろん、チャンミンも一緒に。

 

私がせっかく作った道を、前足を高速回転させたチャンミンによって埋められていく。

 

チャンミンなりにお手伝いしているつもりなんだろうけど。

 

「チャンミン!

邪魔しないでよ!」

 

私も負けじと、スコップですくった雪をチャンミンに浴びせた。

 

チャンミンの口角は上がり、満面の笑顔に見えた。

 

白いまつ毛1本1本に雪片が乗り、すぐに溶けて雫になった。

 

「せっかくだから、裏口まで道を作ってあげよう!」

 

「僕もお手伝いします」

 

チャンミンがラッセル車となって作った小径を、私がスコップで太い道へと変えてゆく。

 

足元だけを見てせっせと、無心で雪をかき続けた。

 

裏口まで到達する頃には、喉はからから、お腹も空いていた。

 

「おやつの時間にしよう!」

 

「大賛成です!」

 

私はスコップを肩に背負い、こしらえたばかりの小径を前庭へと戻っていった。

 

「っ...!」

 

息を飲んだ。

 

ポーチの前に誰かいた。

 

配達員以外の不意打ちの訪問者に、まず驚いた。

 

ポーチの階段を上る様子のないことに不審に思った。

 

何かをしているのかすぐには分からなかった。

 

ポーチの柱に何かを貼りつけているところだった。

 

汚い言葉を羅列した紙だ。

 

季節の変わり目になると突如現れる、あれだ。

 

チャンミンは頭を落とし、「くるる」と喉を鳴らし始めた。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(29)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

「ユノさんは自分の子供が欲しいと思ったことある?」

 

ストーブに薪をくべていたユノさんは、手の平から木くずを払い落とすとこう答えた。

 

「俺が女の人と付き合えないことを知っているだろう?」

 

「うん。

でも、ずっと一人でしょ?」

 

「『ずっと』って...まだ1年くらいだよ?」

 

「寂しくない?」

 

「ミンミンがいるから寂しくないよ」

 

ユノさんにそう言ってもらえて、とても嬉しかった。

 

なんだか私の存在を認めてもらったみたいで。

 

「そうだ...!

恋人ができればまた一緒に暮らせばいいよね。

でね、私はユノさんたちの子供みたいな存在になるの」

 

「それはないなぁ。

俺はミンミンを『子供』だと思ったことはないよ。

保護者っぽい役割だけど、それは単に俺が大人だからだ」

 

「ふうん。

じゃあ、私はユノさんの何なの?」

 

「ミンミンはミンミンだよ」

 

ミンミンはミンミン...ユノさんの言葉の意味がその時はよく分からなかった。

 

彼の言葉の意味が、心の襞の奥まで沁みわたるまでに少しばかり時を要した。

 

「チャンミンにお嫁さんはできるのかな?」

 

私は編み物をしていた。

 

ユノさんの誕生日にはまだ日にちはあるけれど、余裕をもって仕上げたくて昨日から編み出したのだ。

 

「チャンミンに?」

 

「うん。

だってチャンミンと同じ種族はいないんでしょ?」

 

「世界のどこかにはいるかもしれないよ...っくしゅん」

 

くしゃみをしたユノさんにちり紙をとってあげ、私は思いついたことの続きを話した。

 

「チャンミンはずっと独身なのかな?

自分の子孫を残せないんでしょ?

チャンミン...可哀想」

 

「可哀想かどうかは、ミンミンが一方的に思っていることだろう?

チャンミンにしてみたら、可哀想だと思われている方が気の毒だ」

 

「...そっか」

 

昼間読んだ本の中で、主人公が赤ちゃんを身ごもる場面が登場した。

 

私は子供を産むことができないから、ふと気になったことだったのだ。

 

チャンミンには仲間はおらず、この世でたったひとりの生き物かもしれない。

 

ということは、チャンミン一代きりで終わりなのか...。

 

私の思いを読みとったのだろう、ユノさんは私の頭を撫ぜてこう言った。

 

「子孫を残すことが、俺たちの人生の目的じゃないんだぞ?」

 

「ユノさんはそう思ってるんだ?」

 

「ああ。

俺は子供を残せないけれど、俺一代の人生をどれだけ充実したものにできるかに集中している。

どんなに小さなことでも味わい尽くすんだ。

例えば...誕生日プレゼントを楽しみにしたりね」

 

ユノさんはせわしなく編み棒を動かす私の手元を覗き込んだ。

 

「何編んでるの?

手袋?」

 

「こんなにおっきい手袋はないよ~。

象の手袋じゃないんだから。

いくらユノさんの手が大きくてもね」

 

毛糸はいくつ必要かなぁ、お小遣いで足りるかなぁ、この色の毛糸が売れ残っていればいいのだけど。

 

「ミンミンはいい奥さんになれるね」

 

「...どうかなぁ。

私を貰ってくれる人なんて...いないよ。

子供も産めないし...奥さんは無理」

 

ユノさんの言うように、私は家のことをするのが得意だし、とても気に入っている。

 

手を動かした分だけ、整頓され綺麗になる...そして、家族が喜んでくれる。

 

「さっきも言っただろ?

その人のそばに居たいから、一緒に暮らしたり結婚したりするんだ。

子供が欲しいからじゃない。

ミンミンがいい、ミンミンじゃなきゃ嫌だ、と思ってくれる人は必ず現れるよ」

 

「そうなったらいいなぁ」

 

ユノさんの言葉はいつも、私に自信をもたせる前向きなものが多い。

 

それらを素直に受け取れない私だったけれど、近ごろはそうでもなくなった。

 

私はチャンミンをかなりの頻度で褒める。

 

その時の気持ちはホンモノなのだ。

 

だから、ユノさんもそうなんだろうなぁ、って。

 

(褒めて褒めて褒め倒したある日、チャンミンは嬉しさのあまり、おしっこを漏らしたことがあったのだ)

 

「ミンミンは誕生日プレゼントに何が欲しい?」

 

「チャンミンのお嫁さん。

それが無理なら弟」

 

即答した私に、ユノさんはぷっと吹き出した。

 

「チャンミンみたいな子がふたり?

さぞ賑やかになるだろうね」

 

「うん。

それが第一候補で、第二候補は...考え中」

 

「チャンミンの誕生日も祝おうか?

1年はもう過ぎてしまったけどね。

ミンミンの分も一緒に3人まとめてお祝いしたら楽しいんじゃないかな?」

 

「そうだね」

 

「今年はチョコレートケーキがいいなぁ」

 

子供みたいなユノさんは、鼻声だ。

 

「ユノさん、顔が真っ赤だよ。

早く寝てください」

 

ユノさんは風邪気味なのだ。

 

夕飯の後で、まん丸に膨れたお腹を上にチャンミンはいびきをかいている。

 

タミーも同様で、夕飯の匂いが未だ残っている居間。

 

なんとも幸福な光景だと思った。

 

だからユノさんは少しでも長くここに居たくて、ひとりだけ寝室に引っ込めずにいたのだろう。

 

まだ9時だけど、私も寝てしまおう。

 

「チャンミン、寝るよ」

 

お尻を揺すっても目覚める気配がない。

 

夕飯でたらふく食べた餃子20個分重いチャンミンを抱き上げた。

 

「おしっこしておいで」

 

ポーチに下ろされたチャンミンは、寝ぼけまなこでポーチの階段をよたよたと降りてゆく。

 

ぽっかり浮かんだ満月で、夜にもかかわらず辺りは青白く明るく、チャンミンが作る影が濃かった。

 

今年は暖冬で、まだ雪は降っていない。

 

空を3分の1覆っている雲が雪雲ならいいのにな、と思った。

 

チャンミンと雪遊びがしたいから。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(28)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

後ろ脚に食い込んだ鋭い金属の歯に、チャンミンの後ろ脚は捕らえられていた。

 

チャンミンは小さな顎と小さな歯でもって、果敢に挑んでいた。

 

「くるるる」と喉を震わせている。

 

チャンミンの周囲は円形に落ち葉が蹴散らかされていた。

 

地面に深々とついた爪痕が、チャンミンの苦痛と焦燥と必死さを表わしていた。

 

チャンミンは駆けつけた私たちを見ると、ますます暴れ出した。

 

今すぐこの邪魔なものから逃れ、私の胸に飛び込みたいのだ。

 

「ミンミンはチャンミンを見ていて」

 

そう言ってユノさんはこの場を離れていった。

 

辺りを懐中電灯で照らし、何かを探しているようだった。

 

その間、私はチャンミンを励まし続けた。

 

「すぐに出してあげるからね。

もう少し待っててね。

大丈夫だからね」

 

チャンミンは暴れるのを止めない。

 

暴れるごとに、ノコギリ状の歯がチャンミンの足に食い込んでいく。

 

チャンミンのひづめが血に染まっていた。

 

今度は自身の後ろ足に噛みついた。

 

「何するの!?」

 

罠を壊せないのなら、自分の足を食いちぎろうとしたのだ。

 

「じっとしていなさい!」

 

チャンミンの口吻を力いっぱいつかんだ。

 

石を持って戻ってきたユノさんがチャンミンに命じると、チャンミンは途端に大人しくなった。

 

「俺が合図したら直ぐにここを踏むんだ」

 

ユノさんが指さしたところを確認し、私は大きく頷いた。

 

「ミンミンがここを踏むと、トラバサミは開く。

開いている間に、俺はチャンミンを引っ張り出す。

ミンミンは絶対に足を動かしたらいけない。

分かったか?」

 

「分かった!」

 

チャンミンはぎゅっと目をつむっている。

 

「1、   2の3!」

 

ユノさんの合図に、私は金属製の板を踏んだ。

 

ノコギリ歯の口がぱかっと開き、ユノさんはすかさずそこに石を突っ込んだ。

 

そして、チャンミンは救出された。

 

「やみくもに走り回るんだから。

森は危険でいっぱいなんだよ?」

 

力いっぱい胸にかき抱いた。

 

チャンミンはぺろぺろと私の頬を舐めた。

 

「どうして泣いているのです?

僕はちゃんと生きているのに」

 

と言っているかのようだった。

 

手負いのあなたが、どうして私を慰めるの?

 

踏みつけていた足を持ちあげると、ガシャンと鋭い音を立ててトラバサミは口を閉じた。

 

その音と勢いに、チャンミンの足を襲った激痛を想像すると...。

 

「これをこのままにしておけないな」

 

ユノさんは罠に繋がった鎖を振り回して勢いをつけると、頭上の木の枝に引っかけた。

 

「明日、回収するよ。

チャンミンを家に連れて帰るぞ」

 

 

チャンミンはユノさんに抱かれ、林を抜けた。

 

私は懐中電灯でユノさんの足元を照らす役目を果たした。

 

ユノさんのつなぎにチャンミンの血がしみ込んでいった。

 

珍獣のチャンミンを獣医の元に連れてゆけないし、この時間は既に閉まっている。

 

タミーは落ち着かなげに、私たちの周りをうろついていた。

 

「骨は折れていない。

すごいなぁ、チャンミン。

お前の身体は頑丈だな」

 

タオルの上に寝かせたチャンミンを褒めながら、ユノさんはてきぱきと手当をしていく。

 

チャンミンは呻き声ひとつあげなかった。

 

「『痛い痛い』って鳴いてもいいんだよ?」

 

手当が済むまでずっと、私はチャンミンの前足を握っていた。

 

チャンミンの肉球は熱を帯びていた。

 

「動物というのは、基本的に痛みに強いんだ。

小さな傷にへこたれていたら、厳しい自然の中では生きていけないからね。

犬でも猫でも同じだ。

彼らは具合の悪さを、本能で隠すんだ」

 

ユノさんが言う通り、チャンミンは痛みに強かった。

 

そして、頑丈だった。

 

「凄いねぇ。

チャンミンは偉いねぇ」

 

私は枕と毛布を抱えて居間に戻り、チャンミンの隣に横になった。

 

仰向け寝ができないチャンミンと真正面から見つめ合った。

 

痛みを耐え抜いた証しとして、チャンミンは水気の多い眼をしていた。

 

「ホントは痛かったんでしょ?」

 

「痛くないですよ」

 

「無理しなくていいんだよ。

泣いていいんだよ?」

 

「泣きませんよ。

僕は強いですから」

 

「どうしてあんなところまで行ったの?

心配したんだよ?」

 

「散歩していただけです。

この前見かけたリスはもう冬眠したのかなぁ、って、気になっただけです」

 

「...騙されないよ。

私を心配させたくて、無茶したんでしょ?

私に探してもらいたかったんでしょ?」

 

「...はい」

 

「チャンミンの...馬鹿」

 

「ごめんね」

 

チャンミンは私の手の平の擦り傷を、べろりと舐めた。

 

「私の心配はいいの!

どっかに行っちゃったかと...怖かったんだから!

川に流されたり、熊やオオカミに食べられたりして...死んじゃったんじゃないかって。

ふるさとに帰っちゃったんじゃないかって...」

 

「考え過ぎですよ。

...僕、眠くなってきました」

 

「チャンミン、おやすみ」

 

つぶやいて、チャンミンを抱きしめた。

 

今夜のチャンミンからは血の匂いがした。

 

 

予報は外れた。

 

翌日は雪の一片すら降らず、晴天だった。

 

前日、ムキになって街になど出かけなくてもよかったのだ。

 

私のせいでチャンミンは怪我をした。

 

綺麗に傷が癒え、これまで通り走り回れるようになればいい、と強く強く願った。

 

 

 

ひょこひょこ歩くチャンミンを気遣って、私はチャンミンを抱っこしてばかりいた。

 

あの日から甘えん坊になったチャンミンだった。

 

四六時中、私から離れなかった。

 

トイレにまでついてきた。

 

チャンミンの生命力は素晴らしかった。

 

後遺症もなく、綺麗に治癒した。

 

傷が癒えてからも、しょっちゅう抱っこをされたがった。

 

チャンミンをリュックサックに入れて、私は草原を歩く。

 

頭をぴょこんと出して、遠ざかる私たちの家を眺めているのだろう。

 

草原は黄金色の海のようだった。

 

その波間に足を踏み入れると、驚いたバッタが飛び出し逃げていった。

 

木柵に覆いかぶさるようにススキが生えている一帯があって、綿毛がふわふわ飛んでいる。

 

草原の木柵にもたれ座り、私たちは街を見下ろした。

 

季節のせいか、街並みも茶色に見えた。

 

いつものように、砂糖入りの甘い甘いお茶を飲んでいた。

 

羊たちは畜舎に戻ってしまい、草原は私たちふたりだけだった。

 

「ねぇ、チャンミン。

どこかに行きたい?」

 

何度尋ねただろう。

 

「どこにも行きませんよ」

 

チャンミンの答えはいつも同じだった。

 

「何度言わせるんですか?」といわんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。

 

夕日がチャンミンの大きすぎる耳に赤く透けていた。

 

夕日の色なのか、チャンミンの血の色なのか。

 

チャンミンの濡れた鼻はうごめている。

 

街から漂うパンを焼く匂いでも嗅いでいるのだろうか。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

 

(27)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

その日、私とチャンミンは小さな喧嘩をした。

 

チャンミンが腹を立てるのも仕方がないけれど、彼を連れて街へ出るのは無理だったのだ。

 

ユノさんから貰った小遣いで本を買いに行こう、と思い立った。

 

あの古本屋のおじさんの約束をまだ果たしていなかったからだ。

 

ユノさんは担当する動物が出産間際だからと、ここ数日間ほとんど泊まり込み状態だったため、彼に車を出してもらうことは出来そうにない。

 

明日から雪が降るでしょうと、ラジオから流れた天気予報。

 

さらに、私は風邪が治ったばかりで、重いチャンミンを背負って歩くだけの体力がなかった。

 

喧嘩の種を作ってしまったのは、この日を選んでしまった私なのだ。

 

チャンミンは大はしゃぎで、出掛ける用意をする私の周囲をぐるぐる走り回っていた。

 

「あなたは留守番なの。

連れていけないの」

 

そう何度も言ったのに、チャンミンは聞こえないふりをしている。

 

草原の小路を、チャンミンはスキップして私を先導した。

 

「チャンミン、ごめん。

今日のあなたは留守番なの」

 

チャンミンは「留守番」の意味が分からないと、小首を傾げた。

 

輝かせた眼で私を見上げるものだから、連れていこうか一瞬迷ったけれど、やっぱりチャンミンを背負って歩くのはしんどそうだった。

 

「待っててね。

2時間で戻るから。

お土産も買ってくるよ」

 

草原の端の木柵の前で、私はチャンミンに言い聞かせた。

 

チャンミンはがくっと頭を落とし、「ごめんね」の私の言葉にも振り向かず、とぼとぼと元来た道を帰っていった。

 

 

「ただいま、チャンミン」

 

ポーチにいたャンミンに声をかけたけれど、彼は眠ったままだった。

 

草原の向こうに私の姿を見つけていたくせに、ずっと昼寝をしているふりをしている。

 

「クッキーだよ。

牛乳も飲む?」

 

チャンミンは顔を背けたままだった。

 

頭を撫ぜようとすると、首を振っていやいやする。

 

「勝手に怒っていなさい!」

 

ドアをバタン、と大きな音をたてて閉めた直後、チャンミンが怒っても仕方がないか、と反省した。

 

チャンミンのご機嫌をとろうと、前庭のひまわりから採取した種を、フライパンで煎ってあげることにした。

 

「チャンミ~ン!

出来たよ~」

 

香ばしく煎られたひまわりの種を全部、チャンミンのボウルに入れた。

 

背後から近づく、カチカチいう爪の音が一向に聞こえてこない。

 

「チャンミンは相当へそを曲げているんだな、仕方がない子だ」と、チャンミンが隠れていそうなところを探しまわった。

 

洗濯機の中、ユノさんの毛布の下、本棚の上にはいなかった。

 

「どこにいったんだろ...」

 

外に出て、ポーチの下や裏庭の物置小屋も覗いてみた。

 

ポーチに置いたクッキーも牛乳も手付かずだった。

 

「強情っぱりなんだから!」

 

きっと草原を走り回っているんだな、と私はため息をつき、家の中に戻った。

 

そして、古本屋で買った本を手にラグに寝っ転がった。

 

私には背伸びし過ぎた小説で、難しい単語が出る度辞書で調べ調べながらの読書で、なかなか先に進めない。

 

それでも、恋を知らない私はドキドキしながら、夢中になって読みふけっていた。

 

手元が薄暗くなってきてようやく、日が翳りかける時刻だと知った。

 

「いけない!」

 

夕飯の用意をしないと、薪を運んでおかないと、洗濯物を取り込まないと、と、やることリストは沢山ある。

 

家の中はとても静かだ。

 

ここではたと気付いた。

 

チャンミンがいない!

 

食いしん坊のチャンミンが夕飯の時間を忘れるはずがないし、薄暗くなるまで一人遊びをするには、彼は寂しがり屋過ぎるのだ。

 

草原の彼方を目をこらしてみたけれど、チャンミンの目印である白いお尻はない。

 

気の早い下弦の月が青白く、東の空に浮かんでいた。

 

「チャンミ~ン」

 

遠く離れ過ぎていて心の声が聞こえないんだ。

 

こんな時、喉がつぶれるほど大声を出せたらと、自分が情けなくなった。

 

チャンミンは雑木林に行ってしまったのかもしれない。

 

怒りが強すぎて、私の顔なんて見たくないんだ。

 

足元も木々の枝も黒く塗りつぶされていて、しんと静まり返っている。

 

野生動物たちが活動するには時間は早いようで、ガサガサ笹を揺らす音もしない。

 

私に心配してもらいたかったとしたら?

 

それで無茶をしようと、いつもよりも山深いところまで足を踏み入れて、そして迷子になったんだ。

 

それとも、沢に落ちていたとしたら?

 

ぞっとした。

 

「...どうしよう」

 

むくむく膨らんでくる不安感で、胸が破裂しそうになった。

 

「...チャンミン...」

 

私にでき得る限り、チャンミンを探した。

 

懐中電灯を手に、ぐるりと草原を回ってみた。

 

足元は真っ暗で、羊のウンチを踏んでしまっていようと構わなかった。

 

「チャンミン...馬鹿」

 

死にものぐるいだった。

 

林を抜け別荘地の通りまで上がり、厳重に戸締りをした別荘の敷地内を1軒1軒見て回った。

 

「チャンミーン!」

 

ここでもうひとつの可能性に行き当たった。

 

故郷に帰ったんだ。

 

私のことが嫌いになって、故郷に帰ってしまおうと思い立ったんだ。

 

ユノさんだ!

 

ユノさんなら何とかしてくれる!

 

私はこぼれ落ちそうな涙をぐっとこぶしで拭った。

 

斜面をすべり落ちるように下った。

 

木の根につまずいて3度も転んだ。

 

顎と胸を強く打ち、顔が落ち葉に埋もれた。

 

怪我をしたってどうでもいい、今すぐユノさんに助けてもらわないと、チャンミンがどこかへ行ってしまう。

 

チャンミンの嘘つき。

 

「どこにも行きませんよ」って言っていたのに。

 

 

 

 

ユノさんは直ぐに、見当がついたようだった。

 

チャンミンは見つかった。

 

罠にかかっていた。

 

鶏小屋を襲うキツネを捕らえるトラバサミに、足を挟まれていたのだ。

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]

(26)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

チャンミンは表情豊かだ。

 

私が最も大好きなのは、うんちをしている時の顔だ。

 

とても難しい問題を解いているみたい。

 

しゃがんでチャンミンの顔をじーっと見つめていると、「気が散ります」と顔を背ける仕草も大好きだ。

 

チャンミンの好きなところを挙げよ、と問題が出たら、テスト用紙をはみ出してしまうくらい、いくらでも書ける。

 

 

「ミンミーン!」

 

「はーい」

 

元気いっぱい応え、ユノさんのトラックまで、小枝の入った袋を引きずって行く。

 

冬はもう、すぐそこまでやってきていた。

 

私たちの命綱であるストーブの焚き付けに使うものを集めに、雑木林にやってきたのだ。

 

ユノさんのトラックの荷台には既に、間伐した大ぶりの枝が積まれている。

 

この一帯はユノさんの土地なんだって、凄いなぁ。

 

ユノさんはキャップを後ろ前にかぶり、首にタオルをひっかけている。

 

チェック柄のネルシャツを肘までまくしあげているので、なたを振り下ろすたび、一の腕に筋が浮かび上がる。

 

私も微力ながら戦力として、飼料の空袋に杉葉や小枝を集めていた。

 

広葉樹たちは葉を黄色や赤に染めている。

 

風が吹くと、ざわつく音とともに葉っぱたちは吹雪のように空を舞う。

 

あと1か月も経たないうちに、丸裸になるだろう。

 

そして、雪に閉じ込められる冬がやってくる。

 

 

タミーは木の幹にもたれるように、身体を丸めて眠っている。

 

チャンミンは落ち葉を蹴散らし、走り回っている。

 

その興奮ぶりは、やり場にこまった身体から溢れ出るエネルギーを、爆発させているかのようだった。

 

生命の塊だった。

 

「罠が仕掛けてあるから、沢の方まで行ったら駄目だ」

 

ユノさんの注意にチャンミンは「了解です!」と答え、林の中への駆けて行ってしまった。

 

ついさっきは、チャンミンが得意げに見せびらかしにきたものに、私は悲鳴をあげた。

 

冬眠したばかりの蛇を引っ張り出したのだ。

 

当然、ユノさんにガツンと叱られ、元の場所へ戻しに行っていた。

 

「ちゃんとできたでしょ?」

 

褒めてもらいたくて猛ダッシュでこちらへ戻ってくる途中、突き出た木の根につまづいて、ボールみたいに転がった。

 

ユノさんと私は大笑いした。

 

お次は、というと、冬ごもりの準備に忙しいリスの邪魔をしている。

 

木の上に駆け上るリスを追って、自身も幹に爪をたてるが、プラムの件を思い出し、至極残念そうに梢を見上げていた。

 

斜めに差し込む木漏れ日で、まだら模様のチャンミンの毛皮にもうひとつ色を加えた。

 

「チャンミンは嬉しくて仕方がないんだね」

 

「みんな揃ってのお出かけは初めてだからかなあ」

 

お昼休憩では地面に直接腰を下ろして、お弁当を囲んだ。

 

「今日は俺が用意する」とユノさんが張り切って作ったお弁当だ。

 

薄切りしたハム、チーズ、ジャムを挟んだ3種類のサンドイッチ、人数分の茹で卵とコーヒーといった簡単なメニューだったけど、どれもが美味しかった。

 

「秋も終わるなぁ」

 

「チャンミンがうちにきて、もうすぐ1年になるね」

 

「時が経つのは早いなぁ」

 

梢に切り取られた澄み切った薄青い空を見上げた。

 

チャンミンはしゃりしゃりと小気味いい音を立てて、リンゴを食べている。

 

両手でリンゴを掴み、齧るごとに器用に回転させている。

 

チャンミンの前足は5本指をしている。

 

過去にプラムの実を種だけ残して綺麗に食べられたのも、この5本指のおかげだ。

 

その小さな手の平はひんやりとつめたく、鋭い爪が生えていた。

 

ひっくり返すと、ちいさな肉球が並んでいる。

 

「チャンミンは宇宙から来たの?」

 

唐突な問いにユノさんは、うーんとしばらく考え込んだのち、「そうかもね」と答えた。

 

チャンミンはあらゆる動物の寄せ集めみたいだった。

 

「ねえ、ユノさん。

...動物園に返さなくていいの?」

 

ずっと気になっていたことだった。

 

動物園で発見されたのだから、大きくなったチャンミンは本来の場所に戻さないといけないのでは、と。

 

野生動物は怪我や衰弱のため一時的に保護をしても、元気をとり戻したら野生に戻してあげないといけない、とユノさんから聞いたことがあったからだ。

 

「先月のことだ。

とても珍しい...世界に10匹しかいない動物がやってきた。

俺は担当していないけれど、動物園中、その子にかかりきりだ。

温度や湿度、照明、餌...死なせたりしたら大ごとだ。

...誰もチャンミンのことは忘れてしまっているよ」

 

「...よかった」

 

不安がひとつ消え、安堵のあまり肩の力が抜けた。

 

それからもうひとつ、気になっていたことを尋ねてみた。

 

「チャンミンを野生に返してやった方がいいのかな?」

 

「その必要はないさ。

君がそばにいて欲しいと望む限り、ずっとチャンミンをそばに置いていていいんだよ。

チャンミンはどう思っているか、想像してみるといい」

 

「うん」

 

チャンミンを呼ぶと、彼は弧を描いて方向を変え私の膝に飛び込んでくる。

 

「山の中に戻りたい?」

 

「戻るってどこへです?

僕の人生のスタートは、この家なんですよ?」

 

首をかしげてきょとんとしている。

 

泥だらけの肌色の鼻を、シャツの袖口で拭ってやった。

 

私を喜ばせるために嘘をついたのだとしたら、どうしようと思った。

 

琥珀色の瞳は濁りひとつなく、その表面に空と私の顔が映っていた。

 

チャンミンは嘘を知らない...彼には本当のことしか存在しない。

 

チャンミンを抱き締める。

 

日光でぬくもったふかふかの毛皮に頬を埋める。

 

私のハグが大好きだから、チャンミンはじっとしている。

 

今日のチャンミンは日なたと落ち葉と、湿った土の匂いがした。

 

この日を思い出すと、あまりに幸せ過ぎて悲しくなる。

 

こんな感情...初めて知った。

 

 

チャンミンがいなくなった。

 

雑木林へ行った2週間後のことだ。

 

私は死にもの狂いでチャンミンを探した。

 

私を置いて、山深いどこかへ...故郷へ帰ってしまったんだ。

 

恐ろしかった。

 

 

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”23″ ]